第一部
リュッケは東翼の奥にある王女の私室に通された。一歩足を踏み入れると、甘やかな花の香りがただよっていた。小卓に飾られたリラの芳香だろうか。
リュッケはこれまで何度もこの部屋に呼ばれたことがある。私室とはいえ、この広い応接室は実質的に執務室となっており、重臣がしばしば出入りしている。元は王妃の私室であったために、優美な家具調度がそろえられ、重厚さは感じられない。部屋の中央には大きなハープがおかれていて、政治に関わる話題が無粋に感じられるほど姫君らしい部屋だった。
ミネルバは南の窓際におかれた文机に近づいていった。すでに雨は上がったようで、紗のカーテンからはやわらかな光が机上を照らしている。
ミネルバは抽斗から書簡を取りだし、机上においた。
「……そちらは?」
「昨日届けられたハーディンどのからの手紙だ。外交文書ではなく、ただの私信のようだが」
「拝見しても?」
「そのためにそなたを呼んだのだ」
リュッケは書簡をひらき、読み進めていく……。
親愛なるミネルバ王女
四の月となり、ずいぶんと春めいてきた。そちらはすでに一足早く花の盛りを迎えておられるだろうか。
二の月の即位以来、わたしはひたすら机に向かう日々を送っている。あなたとともに戦場を駆け巡った在りし日を、無性になつかしく感じられる今日このごろだ。
本題に入ろう。
こたびの大使の派遣、あなたは驚かれたやもしれぬ。ふたたびわが国が貴国に対し強権を行使せんとしているのではと懸念を持たれたのではないだろうか。
ならばそれは誤解であると申しあげておく。
かつて、マケドニアに派遣されたアカネイアの弁務官が国王を虐げ、強い反感を買っていたことはわたしも存じあげている。その怒りが、先の戦争の端緒となったことは疑いようもない。
戦前のような貴国への敬意のない関係はわが国になんら益をもたらすものではなく、むしろ不利益をもたらすもの。それは旧体制が辿った末路を見ても明らかである。
五年にわたる戦争の痛手はあまりに深い。復興途上にある各国のため、われらは大陸の宗主として、諸国との架け橋となるべく人員を派遣する所存である。平和な世は、賢明な指導者の不断の努力によって築かれる。あの苦難をともにした盟友との信頼ある関係こそ両国の未来に必要と考えている。
あなたは祖国のため、民のために、日々尽力されていることだろう。大使派遣はその一助とならんがための決定であるとご理解いただきたい。
それでは、貴国のますますの発展をお祈り申しあげる。
あなたの友ハーディン
……リュッケが手紙から目をはなすと、ミネルバ王女が問うた。
「率直に、どう思った?」
「……非常に友好的な印象を受けましたが」
「友好的、か」
ミネルバはかげりある笑みをうかべた。
「そなたは友人にこのような文をわざわざ書いてよこすのか?」
リュッケは言葉に詰まった。
先日届けられた大使派遣を告げる外交文書は、ほとんど脅迫と言ってもよいほどに高圧的なものであった。それゆえにミネルバ王女はすぐさまユスタスに助けを求めた。あの書簡とくらべれば、この私信は文面だけはやわらかく感じられるが、言葉選びがどうにも言い訳じみており、"盟友との信頼"といった言葉も空々しいばかりである。
そもそもこれはアカネイア王の書簡である。文面とおりに受けとるべきではない。
「占領軍が退いたとて、アカネイアにとってわが国は信用のならぬ敵国に変わりはない。戦前の弁務官とおなじく、監視のための大使派遣であるのは百も承知している。だからこんな文を送ってこずともよいのだ。わたしにそれを拒めるはずもないのだから」
リュッケはふたたび書簡に目を落とす。
「これはまことハーディン王の書かれたものなのでしょうか」
「真筆でないとなれば、この書をしたためた者は首が飛ぶぞ。昔、父上からお聞きしたことがある。いかなる場合であれ、アカネイア王の名を騙った者は死罪だそうだ」
「……それは、他国の王家から迎えられた王であっても、でございますか」
「ハーディンどのはカルタス伯とおなじお立場だ。軽んじられることはない」
ミネルバはもう一通の書簡を取りだし、先ほどの書のとなりにならべる。
「こちらが先に届いた外交文書だが、どちらもおなじ人物の手にしか見えぬ。ハーディンどのの手蹟はお人柄を表すような力強く流れる字体であった。さりとて真贋を見極められるほどはっきり覚えているわけでもないのだが……」
署名の末尾を指でさししめす。
「名前の最後を大きくはねあげる癖、これだけは印象に残ったのでよく覚えている」
つまり、いずれも真筆ということである。
オレルアン王弟ハーディンとニーナ王女の婚姻が決定したとき、貴族たちの受けとめ方はさまざまだった。ハーディンは王弟と呼ばれるが実質的には王太子であり、次期王位継承者を失ったオレルアンはいずれアカネイアに併呑されることとなる。そうなればアカネイアの領土は急速に拡大し、マケドニアにとってさらなる脅威となることは火を見るより明らかであった。
一方、王女の臣下たちは、ハーディン王を歓迎し、マケドニアの行く末は安泰だと安堵を見せていた。ともにドルーアと戦った協力関係が戦後も維持されるとの期待であったが、大使派遣の報により冷や水を浴びせられかけた形である。
ミネルバ王女にしても、盟友に期待していたがゆえに落胆も大きいのだろう。
「大使の派遣はハーディンどのの意向ではないと思いたかったのだが、この文を見るかぎり、甘い見立てだったようだな。いや、そもそも全権大使があのレフカンディ侯カルタス家の者という時点で、期待など捨てるべきだったのだろうが」
「わが国をこころよく思わぬ宮廷貴族の画策とも思われます。いかにアカネイア王とて、万事を独断で決められはせぬでしょう」
「そうだな、もとよりアカネイアにおいて王はお飾り。先のギョーム王もそうだった。政は大貴族の手にゆだねられていた。だからこそ、アカネイアに温情など期待すべきではないのだ」
ユスタスの言うようにな、と書簡をわずらわしげに机のわきにやる。
「同盟軍側についた者たちに顕著だが、われらが勝利したと錯覚し、アカネイアを友好国のように思っている。わたしもある程度はハーディンどのに期待していた面もあるが、こたびのことで認識を改めるべきと確信した。大使を迎えるまで時間がない。早急に体制を整えねばならぬ」
「はっ」
「では、騎士団長の任、受けてくれるな?」
「わたしなどに務まりますれば……」
「そなたは、ほとほと欲がないのだな」
こうべをたれようとするリュッケに、ミネルバはため息まじりに言った。
「おおよそ察していようが、わたしがそなたを騎士団長に選定したのは、ひとえに人事に苦慮した結果だ。わたしの臣下から選ぶわけにはいかなかった」
「承知しております」
「だが、これはそなたへの感謝の証でもある。そなたの決断がなければ、未来ある者たちを徒死にさせることとなっただろう。……その功績ゆえの褒賞と思ってくれてかまわぬ。今後も、国のため懸命につとめてくれ」
リュッケは部屋を下がった。薄暗い廊下をひとり進む彼の顔には自嘲するような笑みがうかんでいた。
ミネルバはリュッケを欲がないと言ったが、その見立てが誤りであることは彼自身がよく知っている。長年、宮廷で冷遇されてきたリュッケにとって、騎士団長などけっして手に入るはずのない地位であった。
それが叶ったのは、あのとき勝負に出たためにほかならない。
昨年のマケドニア王都での戦いで、リュッケは一個大隊をたばねる立場にありながら、突撃命令を拒否し、麾下の部隊とともに同盟軍に寝返った。王に対する叛逆であるが、彼はもうずいぶん前から祖国の敗北を確信していた。
くわえて、五年におよぶ戦争において、リュッケは軍の中枢にいたわけではない。武功を挙げることもなく敗戦を迎えたため、軍法会議にかけられることすらなかった。それどころか、多くの兵士を救った将軍として、まるで英雄のように称えられることとなった。
祖国がアカネイアの占領下におかれてのちは、ミネルバ王女の指揮のもと、敗戦処理にたずさわった。そうやって信頼を勝ち得たからこそ手に入れられた地位だ。
ミネルバ王女は臣下と旧勢力との均衡を保つための人事と言ったが、アカネイア貴族を母にもつリュッケを騎士団長にすえておきたいという思惑もあるのだろう。騎士団長就任の打診があったのは大使派遣のあとである。
ユスタスの登用も、たんなる同情心からではないだろう。宰相メスト公は間諜と揶揄されるほどにアカネイアに従属的な方針を取りつづけた人物である。アカネイアに対し友好的であった宰相の息子を最側近にすえることは、大使を迎えるにあたって万全の布陣を整えるためにほかならない。
二つに割れた国を、ふたたびもとに戻すべく、ミネルバ王女はあらゆる手を試みている。そんな王女にとって利用価値ある者とみなされた。その事実が、彼の自尊心を満たすのだった。
⁂
騎士館の自室に戻るやいなや、あわただしく扉がひらかれた。
リュッケが戻るのを待ちかまえていたのだろう。ペドロ・ストラーニはもとより険しい目つきをさらに鋭くさせ、リュッケに迫った。
「ミネルバ王女はあやつをどうされるのだ?」
「あなたが懸念されていたとおり、宰相に任じられるようだな」
ストラーニは舌打ちをした。
「いまからでも撤回させよ。ほんの数か月前まで床を離れられなかったような者に大任がつとまるはずもないとな」
「残念ながら、ユスタスの体調は見違えるほどに回復していた」
「なにをぬけぬけと。おまえが言っていたのだぞ? ユスタスは廃人同然、再起などできようもないと」
「わたしは医師ではないのでな。見立て違いだったようだ」
ストラーニは机を激しく叩いた。恫喝のつもりだろうが、恐れゆえの苛立ちとわかっているリュッケは冷ややかにつづける。
「くわえて頭のほうもよく回る。さっそく殿下に旧体制下軍人のさらなる処分を迫っていたほどだ」
「……それで、王女はなんと?」
「ユスタスをいさめておられた。あの方はすでに裁定は終わったとのお考えだ。たやすくユスタスの言いなりになられることはないゆえ安心されよ」
「どうだかな、オズモンド王と前宰相のような関係になるのではないか。すでに側近は身内ばかりで固め、ミシェイル王の配下は国賊とでも言わんばかりに排除しておられるではないか」
ストラーニは恨めしげに言うが、占領軍撤収の条件としてアカネイア本国から提示されたのが旧ドルーア勢力の宮廷からの排除だった。その条件がなくとも、旧勢力を体制の中核にすえるわけにいかないのは当然のことである。
そんなこともわからぬのか、とうんざりするが、ストラーニはアカネイアの大使が派遣されることをまだ知らない。
「そもそも、殿下がその気になれば貴殿らを追放することもできたのだ。それを降格に留められたのが殿下のご意思だ」
「それで? 王女の寛容さに感謝せよとでも?」
ストーラーニは吐き捨てる。
「小娘になめられてたまるか」
「暴言はひかえたほうがよい。わたしの部下が聞いているやもしれん」
「プラージの息子をてなずけておるようだが、あれはなにも知らぬのだろう? まったくおめでたい小僧だ」
ストラーニは鼻を鳴らす。
「戦わずして反乱軍に降伏したおまえは王女の懐に入りこみ、とうとう騎士団長さまか。いいご身分だな」
リュッケが口を閉ざしていると、いきなり胸倉をつかまれた。
「よいか、われらを裏切るな」
血走った目ですごんでくる。
「小娘に取り入り、勝ち馬にのったつもりであろうが、しょせんおまえも王女にとっては父の仇にすぎんのだ」
「……殿下にはうまく取り成す。それでよいだろう」
ストラーニが出ていくと、リュッケは執務机に向かい、椅子の背にもたれかかった。苛立ちから荒いため息がもれた。
昨年の敗戦ののち、ペドロ・ストラーニとラディス・シェンケルが捕虜として生きながらえたことはリュッケにとって誤算であった。突撃命令が下っていた以上、彼らは当然討ち死にするものとばかり思っていた。
当てが外れたものの、彼らが軍法会議で厳罰に処されるのは必至だった。ストラーニは配下を見捨てておきながら自分ひとりだけ降伏した卑劣漢である。それがミネルバ王女の激しい怒りを買っていた。シェンケルにしても、ミシェイル王の最側近であったにもかかわらず王の戦死後ただちに降伏した。王女もさぞ不快に思ったことだろう。
しかし、またしても期待ははずれた。
軍法会議の結果、ストラーニは降格に留まり、シェンケルは最低でも追放と見られていたところ領地での謹慎となった。いずれ軍に復帰してくる可能性もある。
だからこそリュッケはユスタスの宮廷復帰をひそかに望んでいた。ユスタスならばあの者たちを排除すると思っていたからである。
その思惑どおり、ユスタスはミネルバにシェンケルを斬罪に処すよう進言した。しかし肝心の王女がああも頑なに処分を拒むとは思っていなかった。自分がいったん下した裁定をくつがえすことは誇りが許さないのだろうか。
王女を石頭などと揶揄する者も一部にはいたが、それは信念の強さにほかならず、自分自身には過剰なほど厳しさを課す半面、他者には不釣り合いなほどの寛容さを見せる。しかしその信念と寛容さが、実利と道理を超えて発揮されるのは望ましくなかった。
――王女にとっては父の仇。
ストラーニの言葉を思い出し、リュッケは憤りをおぼえた。言いがかりもよいところだ。自分は計画そのものには関わっていない。
すでに自分は王女の信頼を得ている。そう簡単に斬り捨てられることはない。そう言い聞かせながらも、すぐに不安が首をもたげてくる。
彼の懊悩の種は、七年前にさかのぼる……。
五九八年。九の月十二日。
雷鳴がとどろく深夜、主宮警備の任についていたリュッケは、ミシェイル王子の姿を見た。ミシェイルは左腕に傷を負い、血を流しながら東翼の廊下を歩いていた。その足どりはおぼつかなく、時折壁に手をつき、荒い息を吐いていた。とても声をかけることはできず、柱の影からその後ろ姿を見送ったのち、リュッケはミシェイルが歩いてきた通路を見やった。その先には王の執務室がある。
リュッケをその先に進ませたのは、職務への忠実さではなく好奇心であっただろう。でなければ危険を察知し、すぐさまその場を離れたはずなのだ。
当時、王と王太子の不和は日に日に深まっており、王は唯一の王子であるミシェイルを廃し、ミネルバを後継者にするつもりだという噂までささやかれていた。
王子は誰にあのような傷を負わされたのか。よもや王との口論のさなかになにかあったというのか。
王の部屋の扉はわずかに開いており、あわい光がもれていた。扉を押し開くと、そこには血の惨劇が広がっていた。宰相メスト公、プラージ伯、そしてヴェーリ伯、王の最側近だった三名はいずれも首をかき切られており、それが致命傷となっていた。奥にはオズモンド王も倒れており、その胸には剣が深々と突き立てられていた。剣の鍔にはメスト家の紋章が刻まれていたが、王を殺めた者と剣の持ち主が別であることは考えるまでもないことだった。
王の亡骸の前で膝をついたまま、リュッケはしばらく動けなかった。自分がとんでもない場に足を踏み入れているとわかってはいたが、どうすべきか瞬時に判断できなかった。
その、ほんの少しの迷いが彼の運命を変えた。
背後から近づく足音に、リュッケはおそるおそるふりかえった。ミシェイル王子だった。先ほど見かけた頼りなげな姿とは一転し、威圧をもって彼を見下ろしていた。そのかたわらにはオーダイン将軍、そしてラディス・シェンケルがいた。
リュッケは立ちあがることも、腰の剣に手をのばすことすらできなかった。死を確信しながらも覚悟は決まらず、ただうつろに三人をみつめていると、オーダイン将軍が神妙な顔つきで口を切った。
「大変なことになった。メスト公がアカネイアと通じ、オズモンド陛下を手にかけた」
リュッケがその言葉を理解するには少々時間を要した。
「メスト公の背後関係を洗っているが、首謀者は弁務官シモン・ネイヤールで間違いないだろう。いま、シモンをはじめ、アカネイアの役人をすべて拘束しているところだ。内々にことを進めてはいるが、陛下の死はじきに王都の民に知れわたるだろう。そうなれば暴動が起きかねん。貴殿は衛兵部隊を指揮し、城下の警備につとめてくれ。アカネイア公館のあたりは特に厳重にな」
「……承知、した」
ミシェイル王子は一言も発しなかった。ひとまず命拾いしたと思ったものの、その後もリュッケの気が休まることはなかった。いずれ自分は口を封じられるのではないか。恐々としながら暗殺の隠蔽に荷担しつづけた。ユスタスがシェンケルに捕らえられる瞬間も、ただ手をこまねいて見ていた。
ユスタスは自分を拘束したシェンケルを首謀者の一人と考えているが、それは真実である。リュッケの見立てでは、シェンケル麾下の竜騎士団第二部隊が王の謀殺に深く関わっており、ストラーニ麾下の鉄騎士団も計画に協力していたようだが、いずれも証拠がないために罰せられることはなかった。
だが、もし自棄になったストラーニが暴露したらどうなるか。
リュッケには無実を証明する手立てなどない。それがわかったうえでストラーニは脅しをかけている。
戦後、荒廃した祖国復興に尽くすなか、リュッケは王女の信を得ている確信があった。騎士団長の地位にしてもそうだ。国軍を束ねる騎士団長はオーダイン将軍が十数年にわたりつとめていたものだ。その地位を、鉄騎士団の将軍であり、これといった戦功のないリュッケに与えられたのもその表れにほかならない。
だがその信頼も、あの夜のことが露見すれば崩れさるやもしれぬ。ユスタスからの激しい恨みも買いかねない。
いかにして切り抜けるか。
思案しながら、リュッケはそぞろに机の抽斗をあけ、奥に押しこめた一通の書簡を取りだす。
陽光を背にして立ち、これまでに何度もくりかえし読んだ文字に目を落とす……。
リカルド・リュッケ卿
突然このような手紙を受けとられ、驚かれていることだろう。
貴殿とは一度じっくり話をせねばならぬと思っていたが、パレスに呼びつけるわけにもにもいかぬゆえ、こうして書をしたためた次第である。
かつては豊かであった貴国は、王太子の犯した過ち、その結果引き起こされた戦争により、多大なる被害を被った。国土は荒廃し、多大なる人員と富を失い、復興にはさぞ難儀しておられよう。この大陸を統べる者としていたく心を痛めている。
先の悲惨な戦争を招いたのは、大陸宗主アカネイアの権威低下によるもの。惰弱な王と貴族により腐敗し、地に堕ちた聖王国をこの手でよみがえらせることがわたしのつとめであり、ひいては、大陸に恒久の平和をもたらすものと考えている。よって早急に諸国への宗主権を強化し、あらゆる危難に備える所存である。
しかしながら、マケドニアはわれらにとって最大の憂慮の種である。
貴国は滅亡こそ免れたとはいえ、アカネイア同盟軍に敗北し、一時はわが国の占領化におかれた国。そこにいたる経緯は、王太子ミシェイルが聖王国に害意を抱くあまり、父王を殺害しドルーアに与したことにある。しかもその罪をわが国に転嫁し、報復として侵略を行った。民はアカネイアによって国王が暗殺されたといまだ信じていると聞く。これは由々しきことであるが、どういったわけか、いまだミネルバ王女はその重大な誤りを正されておらぬ。
わが妃ニーナたっての願いもあり、わたしはミネルバ王女による統治を許したが、それはあくまで暫定的な処置にすぎぬ。もし、わが国への叛意の兆候が見られれば、ただちに決定はくつがえるものと理解されよ。
もとよりマケドニアはドルーアと戦ったアイオテの功績を讃えてアカネイアによって建国された国である。そのドルーアと与し、アカネイアに仇なした現マケドニア王家に、国を統べる資格などあると言えるだろうか。
わたし個人としても、わが祖国オレルアンを侵した〈赤い竜騎士〉が王冠を戴くことは両国のためにならぬと考えている。
そこで、〈アイオテの裔〉たる貴殿に、両国の良好な関係を築くための橋渡し役を担ってもらいたい。
近く、貴国に大使を遣わす。以後は、全権大使トルイユ伯ファビアン・カルタスとともに、南方の雄マケドニアを導いてもらいたい。しかるのちに、貴殿にはその血筋にふさわしい地位を授けよう。
アカネイア王ハーディン
……署名の末尾には、特徴的なはねあがる癖がある。まぎれもなく、ミネルバ王女が受けとった書簡とおなじ者の手だとわかるが、とてもおなじ者が書いたとは思えぬ文面である。
リュッケがハーディンとはじめて顔を合わせたのは、マケドニアが陥落したのちの講和の席だった。ハーディンは敗軍の将たるリュッケに対しても礼節を払い、けっして驕りたかぶることはなかった。ミネルバ王女とのやりとりにも深い信頼関係がうかがえるもので、噂に違わぬ高潔な騎士の姿に感嘆した。
だからこそ、リュッケはこの書簡はアカネイア貴族による嫌がらせとみなしたのだ。グラとグルニアが滅亡の憂き目に遭った一方、マケドニアのみが占領を免れ、あまつさえミネルバ王女による統治が許された。その反発から、宮廷に不和の種を撒こうともくろむ輩がいてもおかしくはなかった。
ただちに報告しなかったのも、ハーディンに信頼をかたむけるミネルバにこれほど悪意ある書を見せることがためらわれたからだ。そしてなにより最後の一文が問題だった。
――貴殿にはその血筋にふさわしい地位を授けよう。
これではまるで王家転覆をそそのかすものである。
ただでさえストラーニの脅しに辟易しているというのに、さらなる厄介事がもちこまれたことに憤りをおぼえていた。
だが、これが真筆と確信したいま、〈アイオテの裔〉と呼ばれることに心くすぐられるものがあった。
国祖アイオテの血を引きながら、王家との過去の確執により、リュッケ家は長らく日陰の身であった。四十すぎまで不遇の時代をすごし、降って湧いたように得た騎士団長の地位を失うことを彼は恐れていた。
おそらくアカネイアはマケドニアとの友好など求めておらず、ふたたび占領下におくつもりでいる。その足がかりとしての大使派遣である。そして王女の忠誠心を試すべく、旧勢力の排除を迫ってくるだろう。王女もアカネイアの要求であれば受け入れざるをえないのだ。
それならばアカネイアの思うようにさせてやればいいのだ。
なにも自分は王になろうなどとは思っていない。かたくなな王女を導き、政敵を排除せんとするだけだ。
すべては祖国のために。
リュッケは天井をあおぎ、笑みをうかべた。しかし書をもつその手は小刻みにふるえていた。
リュッケはこれまで何度もこの部屋に呼ばれたことがある。私室とはいえ、この広い応接室は実質的に執務室となっており、重臣がしばしば出入りしている。元は王妃の私室であったために、優美な家具調度がそろえられ、重厚さは感じられない。部屋の中央には大きなハープがおかれていて、政治に関わる話題が無粋に感じられるほど姫君らしい部屋だった。
ミネルバは南の窓際におかれた文机に近づいていった。すでに雨は上がったようで、紗のカーテンからはやわらかな光が机上を照らしている。
ミネルバは抽斗から書簡を取りだし、机上においた。
「……そちらは?」
「昨日届けられたハーディンどのからの手紙だ。外交文書ではなく、ただの私信のようだが」
「拝見しても?」
「そのためにそなたを呼んだのだ」
リュッケは書簡をひらき、読み進めていく……。
親愛なるミネルバ王女
四の月となり、ずいぶんと春めいてきた。そちらはすでに一足早く花の盛りを迎えておられるだろうか。
二の月の即位以来、わたしはひたすら机に向かう日々を送っている。あなたとともに戦場を駆け巡った在りし日を、無性になつかしく感じられる今日このごろだ。
本題に入ろう。
こたびの大使の派遣、あなたは驚かれたやもしれぬ。ふたたびわが国が貴国に対し強権を行使せんとしているのではと懸念を持たれたのではないだろうか。
ならばそれは誤解であると申しあげておく。
かつて、マケドニアに派遣されたアカネイアの弁務官が国王を虐げ、強い反感を買っていたことはわたしも存じあげている。その怒りが、先の戦争の端緒となったことは疑いようもない。
戦前のような貴国への敬意のない関係はわが国になんら益をもたらすものではなく、むしろ不利益をもたらすもの。それは旧体制が辿った末路を見ても明らかである。
五年にわたる戦争の痛手はあまりに深い。復興途上にある各国のため、われらは大陸の宗主として、諸国との架け橋となるべく人員を派遣する所存である。平和な世は、賢明な指導者の不断の努力によって築かれる。あの苦難をともにした盟友との信頼ある関係こそ両国の未来に必要と考えている。
あなたは祖国のため、民のために、日々尽力されていることだろう。大使派遣はその一助とならんがための決定であるとご理解いただきたい。
それでは、貴国のますますの発展をお祈り申しあげる。
あなたの友ハーディン
……リュッケが手紙から目をはなすと、ミネルバ王女が問うた。
「率直に、どう思った?」
「……非常に友好的な印象を受けましたが」
「友好的、か」
ミネルバはかげりある笑みをうかべた。
「そなたは友人にこのような文をわざわざ書いてよこすのか?」
リュッケは言葉に詰まった。
先日届けられた大使派遣を告げる外交文書は、ほとんど脅迫と言ってもよいほどに高圧的なものであった。それゆえにミネルバ王女はすぐさまユスタスに助けを求めた。あの書簡とくらべれば、この私信は文面だけはやわらかく感じられるが、言葉選びがどうにも言い訳じみており、"盟友との信頼"といった言葉も空々しいばかりである。
そもそもこれはアカネイア王の書簡である。文面とおりに受けとるべきではない。
「占領軍が退いたとて、アカネイアにとってわが国は信用のならぬ敵国に変わりはない。戦前の弁務官とおなじく、監視のための大使派遣であるのは百も承知している。だからこんな文を送ってこずともよいのだ。わたしにそれを拒めるはずもないのだから」
リュッケはふたたび書簡に目を落とす。
「これはまことハーディン王の書かれたものなのでしょうか」
「真筆でないとなれば、この書をしたためた者は首が飛ぶぞ。昔、父上からお聞きしたことがある。いかなる場合であれ、アカネイア王の名を騙った者は死罪だそうだ」
「……それは、他国の王家から迎えられた王であっても、でございますか」
「ハーディンどのはカルタス伯とおなじお立場だ。軽んじられることはない」
ミネルバはもう一通の書簡を取りだし、先ほどの書のとなりにならべる。
「こちらが先に届いた外交文書だが、どちらもおなじ人物の手にしか見えぬ。ハーディンどのの手蹟はお人柄を表すような力強く流れる字体であった。さりとて真贋を見極められるほどはっきり覚えているわけでもないのだが……」
署名の末尾を指でさししめす。
「名前の最後を大きくはねあげる癖、これだけは印象に残ったのでよく覚えている」
つまり、いずれも真筆ということである。
オレルアン王弟ハーディンとニーナ王女の婚姻が決定したとき、貴族たちの受けとめ方はさまざまだった。ハーディンは王弟と呼ばれるが実質的には王太子であり、次期王位継承者を失ったオレルアンはいずれアカネイアに併呑されることとなる。そうなればアカネイアの領土は急速に拡大し、マケドニアにとってさらなる脅威となることは火を見るより明らかであった。
一方、王女の臣下たちは、ハーディン王を歓迎し、マケドニアの行く末は安泰だと安堵を見せていた。ともにドルーアと戦った協力関係が戦後も維持されるとの期待であったが、大使派遣の報により冷や水を浴びせられかけた形である。
ミネルバ王女にしても、盟友に期待していたがゆえに落胆も大きいのだろう。
「大使の派遣はハーディンどのの意向ではないと思いたかったのだが、この文を見るかぎり、甘い見立てだったようだな。いや、そもそも全権大使があのレフカンディ侯カルタス家の者という時点で、期待など捨てるべきだったのだろうが」
「わが国をこころよく思わぬ宮廷貴族の画策とも思われます。いかにアカネイア王とて、万事を独断で決められはせぬでしょう」
「そうだな、もとよりアカネイアにおいて王はお飾り。先のギョーム王もそうだった。政は大貴族の手にゆだねられていた。だからこそ、アカネイアに温情など期待すべきではないのだ」
ユスタスの言うようにな、と書簡をわずらわしげに机のわきにやる。
「同盟軍側についた者たちに顕著だが、われらが勝利したと錯覚し、アカネイアを友好国のように思っている。わたしもある程度はハーディンどのに期待していた面もあるが、こたびのことで認識を改めるべきと確信した。大使を迎えるまで時間がない。早急に体制を整えねばならぬ」
「はっ」
「では、騎士団長の任、受けてくれるな?」
「わたしなどに務まりますれば……」
「そなたは、ほとほと欲がないのだな」
こうべをたれようとするリュッケに、ミネルバはため息まじりに言った。
「おおよそ察していようが、わたしがそなたを騎士団長に選定したのは、ひとえに人事に苦慮した結果だ。わたしの臣下から選ぶわけにはいかなかった」
「承知しております」
「だが、これはそなたへの感謝の証でもある。そなたの決断がなければ、未来ある者たちを徒死にさせることとなっただろう。……その功績ゆえの褒賞と思ってくれてかまわぬ。今後も、国のため懸命につとめてくれ」
リュッケは部屋を下がった。薄暗い廊下をひとり進む彼の顔には自嘲するような笑みがうかんでいた。
ミネルバはリュッケを欲がないと言ったが、その見立てが誤りであることは彼自身がよく知っている。長年、宮廷で冷遇されてきたリュッケにとって、騎士団長などけっして手に入るはずのない地位であった。
それが叶ったのは、あのとき勝負に出たためにほかならない。
昨年のマケドニア王都での戦いで、リュッケは一個大隊をたばねる立場にありながら、突撃命令を拒否し、麾下の部隊とともに同盟軍に寝返った。王に対する叛逆であるが、彼はもうずいぶん前から祖国の敗北を確信していた。
くわえて、五年におよぶ戦争において、リュッケは軍の中枢にいたわけではない。武功を挙げることもなく敗戦を迎えたため、軍法会議にかけられることすらなかった。それどころか、多くの兵士を救った将軍として、まるで英雄のように称えられることとなった。
祖国がアカネイアの占領下におかれてのちは、ミネルバ王女の指揮のもと、敗戦処理にたずさわった。そうやって信頼を勝ち得たからこそ手に入れられた地位だ。
ミネルバ王女は臣下と旧勢力との均衡を保つための人事と言ったが、アカネイア貴族を母にもつリュッケを騎士団長にすえておきたいという思惑もあるのだろう。騎士団長就任の打診があったのは大使派遣のあとである。
ユスタスの登用も、たんなる同情心からではないだろう。宰相メスト公は間諜と揶揄されるほどにアカネイアに従属的な方針を取りつづけた人物である。アカネイアに対し友好的であった宰相の息子を最側近にすえることは、大使を迎えるにあたって万全の布陣を整えるためにほかならない。
二つに割れた国を、ふたたびもとに戻すべく、ミネルバ王女はあらゆる手を試みている。そんな王女にとって利用価値ある者とみなされた。その事実が、彼の自尊心を満たすのだった。
⁂
騎士館の自室に戻るやいなや、あわただしく扉がひらかれた。
リュッケが戻るのを待ちかまえていたのだろう。ペドロ・ストラーニはもとより険しい目つきをさらに鋭くさせ、リュッケに迫った。
「ミネルバ王女はあやつをどうされるのだ?」
「あなたが懸念されていたとおり、宰相に任じられるようだな」
ストラーニは舌打ちをした。
「いまからでも撤回させよ。ほんの数か月前まで床を離れられなかったような者に大任がつとまるはずもないとな」
「残念ながら、ユスタスの体調は見違えるほどに回復していた」
「なにをぬけぬけと。おまえが言っていたのだぞ? ユスタスは廃人同然、再起などできようもないと」
「わたしは医師ではないのでな。見立て違いだったようだ」
ストラーニは机を激しく叩いた。恫喝のつもりだろうが、恐れゆえの苛立ちとわかっているリュッケは冷ややかにつづける。
「くわえて頭のほうもよく回る。さっそく殿下に旧体制下軍人のさらなる処分を迫っていたほどだ」
「……それで、王女はなんと?」
「ユスタスをいさめておられた。あの方はすでに裁定は終わったとのお考えだ。たやすくユスタスの言いなりになられることはないゆえ安心されよ」
「どうだかな、オズモンド王と前宰相のような関係になるのではないか。すでに側近は身内ばかりで固め、ミシェイル王の配下は国賊とでも言わんばかりに排除しておられるではないか」
ストラーニは恨めしげに言うが、占領軍撤収の条件としてアカネイア本国から提示されたのが旧ドルーア勢力の宮廷からの排除だった。その条件がなくとも、旧勢力を体制の中核にすえるわけにいかないのは当然のことである。
そんなこともわからぬのか、とうんざりするが、ストラーニはアカネイアの大使が派遣されることをまだ知らない。
「そもそも、殿下がその気になれば貴殿らを追放することもできたのだ。それを降格に留められたのが殿下のご意思だ」
「それで? 王女の寛容さに感謝せよとでも?」
ストーラーニは吐き捨てる。
「小娘になめられてたまるか」
「暴言はひかえたほうがよい。わたしの部下が聞いているやもしれん」
「プラージの息子をてなずけておるようだが、あれはなにも知らぬのだろう? まったくおめでたい小僧だ」
ストラーニは鼻を鳴らす。
「戦わずして反乱軍に降伏したおまえは王女の懐に入りこみ、とうとう騎士団長さまか。いいご身分だな」
リュッケが口を閉ざしていると、いきなり胸倉をつかまれた。
「よいか、われらを裏切るな」
血走った目ですごんでくる。
「小娘に取り入り、勝ち馬にのったつもりであろうが、しょせんおまえも王女にとっては父の仇にすぎんのだ」
「……殿下にはうまく取り成す。それでよいだろう」
ストラーニが出ていくと、リュッケは執務机に向かい、椅子の背にもたれかかった。苛立ちから荒いため息がもれた。
昨年の敗戦ののち、ペドロ・ストラーニとラディス・シェンケルが捕虜として生きながらえたことはリュッケにとって誤算であった。突撃命令が下っていた以上、彼らは当然討ち死にするものとばかり思っていた。
当てが外れたものの、彼らが軍法会議で厳罰に処されるのは必至だった。ストラーニは配下を見捨てておきながら自分ひとりだけ降伏した卑劣漢である。それがミネルバ王女の激しい怒りを買っていた。シェンケルにしても、ミシェイル王の最側近であったにもかかわらず王の戦死後ただちに降伏した。王女もさぞ不快に思ったことだろう。
しかし、またしても期待ははずれた。
軍法会議の結果、ストラーニは降格に留まり、シェンケルは最低でも追放と見られていたところ領地での謹慎となった。いずれ軍に復帰してくる可能性もある。
だからこそリュッケはユスタスの宮廷復帰をひそかに望んでいた。ユスタスならばあの者たちを排除すると思っていたからである。
その思惑どおり、ユスタスはミネルバにシェンケルを斬罪に処すよう進言した。しかし肝心の王女がああも頑なに処分を拒むとは思っていなかった。自分がいったん下した裁定をくつがえすことは誇りが許さないのだろうか。
王女を石頭などと揶揄する者も一部にはいたが、それは信念の強さにほかならず、自分自身には過剰なほど厳しさを課す半面、他者には不釣り合いなほどの寛容さを見せる。しかしその信念と寛容さが、実利と道理を超えて発揮されるのは望ましくなかった。
――王女にとっては父の仇。
ストラーニの言葉を思い出し、リュッケは憤りをおぼえた。言いがかりもよいところだ。自分は計画そのものには関わっていない。
すでに自分は王女の信頼を得ている。そう簡単に斬り捨てられることはない。そう言い聞かせながらも、すぐに不安が首をもたげてくる。
彼の懊悩の種は、七年前にさかのぼる……。
五九八年。九の月十二日。
雷鳴がとどろく深夜、主宮警備の任についていたリュッケは、ミシェイル王子の姿を見た。ミシェイルは左腕に傷を負い、血を流しながら東翼の廊下を歩いていた。その足どりはおぼつかなく、時折壁に手をつき、荒い息を吐いていた。とても声をかけることはできず、柱の影からその後ろ姿を見送ったのち、リュッケはミシェイルが歩いてきた通路を見やった。その先には王の執務室がある。
リュッケをその先に進ませたのは、職務への忠実さではなく好奇心であっただろう。でなければ危険を察知し、すぐさまその場を離れたはずなのだ。
当時、王と王太子の不和は日に日に深まっており、王は唯一の王子であるミシェイルを廃し、ミネルバを後継者にするつもりだという噂までささやかれていた。
王子は誰にあのような傷を負わされたのか。よもや王との口論のさなかになにかあったというのか。
王の部屋の扉はわずかに開いており、あわい光がもれていた。扉を押し開くと、そこには血の惨劇が広がっていた。宰相メスト公、プラージ伯、そしてヴェーリ伯、王の最側近だった三名はいずれも首をかき切られており、それが致命傷となっていた。奥にはオズモンド王も倒れており、その胸には剣が深々と突き立てられていた。剣の鍔にはメスト家の紋章が刻まれていたが、王を殺めた者と剣の持ち主が別であることは考えるまでもないことだった。
王の亡骸の前で膝をついたまま、リュッケはしばらく動けなかった。自分がとんでもない場に足を踏み入れているとわかってはいたが、どうすべきか瞬時に判断できなかった。
その、ほんの少しの迷いが彼の運命を変えた。
背後から近づく足音に、リュッケはおそるおそるふりかえった。ミシェイル王子だった。先ほど見かけた頼りなげな姿とは一転し、威圧をもって彼を見下ろしていた。そのかたわらにはオーダイン将軍、そしてラディス・シェンケルがいた。
リュッケは立ちあがることも、腰の剣に手をのばすことすらできなかった。死を確信しながらも覚悟は決まらず、ただうつろに三人をみつめていると、オーダイン将軍が神妙な顔つきで口を切った。
「大変なことになった。メスト公がアカネイアと通じ、オズモンド陛下を手にかけた」
リュッケがその言葉を理解するには少々時間を要した。
「メスト公の背後関係を洗っているが、首謀者は弁務官シモン・ネイヤールで間違いないだろう。いま、シモンをはじめ、アカネイアの役人をすべて拘束しているところだ。内々にことを進めてはいるが、陛下の死はじきに王都の民に知れわたるだろう。そうなれば暴動が起きかねん。貴殿は衛兵部隊を指揮し、城下の警備につとめてくれ。アカネイア公館のあたりは特に厳重にな」
「……承知、した」
ミシェイル王子は一言も発しなかった。ひとまず命拾いしたと思ったものの、その後もリュッケの気が休まることはなかった。いずれ自分は口を封じられるのではないか。恐々としながら暗殺の隠蔽に荷担しつづけた。ユスタスがシェンケルに捕らえられる瞬間も、ただ手をこまねいて見ていた。
ユスタスは自分を拘束したシェンケルを首謀者の一人と考えているが、それは真実である。リュッケの見立てでは、シェンケル麾下の竜騎士団第二部隊が王の謀殺に深く関わっており、ストラーニ麾下の鉄騎士団も計画に協力していたようだが、いずれも証拠がないために罰せられることはなかった。
だが、もし自棄になったストラーニが暴露したらどうなるか。
リュッケには無実を証明する手立てなどない。それがわかったうえでストラーニは脅しをかけている。
戦後、荒廃した祖国復興に尽くすなか、リュッケは王女の信を得ている確信があった。騎士団長の地位にしてもそうだ。国軍を束ねる騎士団長はオーダイン将軍が十数年にわたりつとめていたものだ。その地位を、鉄騎士団の将軍であり、これといった戦功のないリュッケに与えられたのもその表れにほかならない。
だがその信頼も、あの夜のことが露見すれば崩れさるやもしれぬ。ユスタスからの激しい恨みも買いかねない。
いかにして切り抜けるか。
思案しながら、リュッケはそぞろに机の抽斗をあけ、奥に押しこめた一通の書簡を取りだす。
陽光を背にして立ち、これまでに何度もくりかえし読んだ文字に目を落とす……。
リカルド・リュッケ卿
突然このような手紙を受けとられ、驚かれていることだろう。
貴殿とは一度じっくり話をせねばならぬと思っていたが、パレスに呼びつけるわけにもにもいかぬゆえ、こうして書をしたためた次第である。
かつては豊かであった貴国は、王太子の犯した過ち、その結果引き起こされた戦争により、多大なる被害を被った。国土は荒廃し、多大なる人員と富を失い、復興にはさぞ難儀しておられよう。この大陸を統べる者としていたく心を痛めている。
先の悲惨な戦争を招いたのは、大陸宗主アカネイアの権威低下によるもの。惰弱な王と貴族により腐敗し、地に堕ちた聖王国をこの手でよみがえらせることがわたしのつとめであり、ひいては、大陸に恒久の平和をもたらすものと考えている。よって早急に諸国への宗主権を強化し、あらゆる危難に備える所存である。
しかしながら、マケドニアはわれらにとって最大の憂慮の種である。
貴国は滅亡こそ免れたとはいえ、アカネイア同盟軍に敗北し、一時はわが国の占領化におかれた国。そこにいたる経緯は、王太子ミシェイルが聖王国に害意を抱くあまり、父王を殺害しドルーアに与したことにある。しかもその罪をわが国に転嫁し、報復として侵略を行った。民はアカネイアによって国王が暗殺されたといまだ信じていると聞く。これは由々しきことであるが、どういったわけか、いまだミネルバ王女はその重大な誤りを正されておらぬ。
わが妃ニーナたっての願いもあり、わたしはミネルバ王女による統治を許したが、それはあくまで暫定的な処置にすぎぬ。もし、わが国への叛意の兆候が見られれば、ただちに決定はくつがえるものと理解されよ。
もとよりマケドニアはドルーアと戦ったアイオテの功績を讃えてアカネイアによって建国された国である。そのドルーアと与し、アカネイアに仇なした現マケドニア王家に、国を統べる資格などあると言えるだろうか。
わたし個人としても、わが祖国オレルアンを侵した〈赤い竜騎士〉が王冠を戴くことは両国のためにならぬと考えている。
そこで、〈アイオテの裔〉たる貴殿に、両国の良好な関係を築くための橋渡し役を担ってもらいたい。
近く、貴国に大使を遣わす。以後は、全権大使トルイユ伯ファビアン・カルタスとともに、南方の雄マケドニアを導いてもらいたい。しかるのちに、貴殿にはその血筋にふさわしい地位を授けよう。
アカネイア王ハーディン
……署名の末尾には、特徴的なはねあがる癖がある。まぎれもなく、ミネルバ王女が受けとった書簡とおなじ者の手だとわかるが、とてもおなじ者が書いたとは思えぬ文面である。
リュッケがハーディンとはじめて顔を合わせたのは、マケドニアが陥落したのちの講和の席だった。ハーディンは敗軍の将たるリュッケに対しても礼節を払い、けっして驕りたかぶることはなかった。ミネルバ王女とのやりとりにも深い信頼関係がうかがえるもので、噂に違わぬ高潔な騎士の姿に感嘆した。
だからこそ、リュッケはこの書簡はアカネイア貴族による嫌がらせとみなしたのだ。グラとグルニアが滅亡の憂き目に遭った一方、マケドニアのみが占領を免れ、あまつさえミネルバ王女による統治が許された。その反発から、宮廷に不和の種を撒こうともくろむ輩がいてもおかしくはなかった。
ただちに報告しなかったのも、ハーディンに信頼をかたむけるミネルバにこれほど悪意ある書を見せることがためらわれたからだ。そしてなにより最後の一文が問題だった。
――貴殿にはその血筋にふさわしい地位を授けよう。
これではまるで王家転覆をそそのかすものである。
ただでさえストラーニの脅しに辟易しているというのに、さらなる厄介事がもちこまれたことに憤りをおぼえていた。
だが、これが真筆と確信したいま、〈アイオテの裔〉と呼ばれることに心くすぐられるものがあった。
国祖アイオテの血を引きながら、王家との過去の確執により、リュッケ家は長らく日陰の身であった。四十すぎまで不遇の時代をすごし、降って湧いたように得た騎士団長の地位を失うことを彼は恐れていた。
おそらくアカネイアはマケドニアとの友好など求めておらず、ふたたび占領下におくつもりでいる。その足がかりとしての大使派遣である。そして王女の忠誠心を試すべく、旧勢力の排除を迫ってくるだろう。王女もアカネイアの要求であれば受け入れざるをえないのだ。
それならばアカネイアの思うようにさせてやればいいのだ。
なにも自分は王になろうなどとは思っていない。かたくなな王女を導き、政敵を排除せんとするだけだ。
すべては祖国のために。
リュッケは天井をあおぎ、笑みをうかべた。しかし書をもつその手は小刻みにふるえていた。