第二部

 ミネルバは執務室で鵞ペンを走らせていた。書類にはすべて自分で目を通さねば気がすまぬため、日々膨大な量を処理することとなる。ふたたび変わらぬ一日を送っていると、席をはずしていたユスタスが戻ってきた。嘆願書の束を机上におき、からかうように微笑する。
「昨日、パオラと遠乗りに出られていたそうですね」
 ミネルバは手を止め、苦笑をこぼした。
「ひさしぶりにペガサスの背にのった」
「よい気晴らしになりましたか」
「ああ、南の丘にはラベンダーが咲いていて、とてもきれいだった。つい時間を忘れて、会食に遅れそうになってしまった」
「あなたは何事も根をつめすぎておられるのですよ。たまには羽目を外されればいい。誰も咎めはしないのですから」
「別に羽目など外したくもない」
 そう言いながらも、ミネルバは昨日のパオラの言葉を反芻していた。
 自分には力になれることなどないのか、と。
 昨年のマケドニア決戦ののち、ミネルバがパオラたちを遠ざけがちであったのは事実である。彼女たちが〈王殺し〉の自分をどう思っているのか、恐れる気持ちもあった。くわえて、不自由になってしまった手のことを知られたくなかった。悟られぬよう、よそよそしい態度になってしまっていた自覚はある。
 だとしても、なぜいきなり?
 いったいなにがなにが彼女を追いつめたのだろうか。
「そなた……パオラになにか言ったのか」
 じっと視線を投げかけていると、ユスタスは片眉を少し上げただけだった。答えないということは、肯定とおなじだった。
「パオラから王位を継がぬのかと問われた」
「なんと答えられたのですか」
「そのつもりはないと言ったら、兄のことを気に病んでいるのか、と言われた」
 ミネルバは苦笑する。
「パオラは心やさしいから、そんなふうに考えるのだろうな。わたしはそんなことを気にしてはいないというのに」
「まったくあなたという人は……。いいかげん自分を偽るのはおやめになられては?」
「嘘であれ、認めるわけにはいかぬのだ」
 ミネルバは目を険しくした。
「兄は王として死んだ。わたしが討たねばならなかった」
「そのお覚悟をもってすれば、何事も成し遂げられそうなものですが」
 ミネルバは鼻白んだ。
「……そなたは意地の悪いことを言う」
「カゾーニ伯はとにかくあなたに甘い。苦言を呈する者も必要でしょう?」
 カゾーニは、ミシェイルが父を手にかけたこと、そしてミネルバがミシェイルを裏切り、最終的に兄を討つにいたったことに守り役として強い負い目を感じている。自責のすえにひどく気弱になっており、いまではミネルバに追従するような態度しかとらない。
「前に、そなたが聞いただろう? この国をどうしたいのかと」
「ええ」
「わたしにはもう見えぬのだ。この国の行く末が」
 ぼんやりと机上をみつめる。
「是非はあろうが、兄には明確な未来への展望があった。この国をアカネイアを凌ぐ大国にするという壮大な理想があった。だが、いまのわたしにそんなものはない。ただその場しのぎの策を打とうとしているだけだ。夢も理想も、なにも語る気になれない」
「希望が持てずともしかたありません」
 ユスタスは皮肉まじりに言った。
「この国はもうアカネイアと正面から渡りあっていくことはできません。戦前、わが国は豊かで、騎士団も精強でした。あのころならば、壮大な夢をいだくこともできたでしょう。しかし、いまのマケドニアの行く末に希望をいだけるのは愚か者か無知な民ぐらいのもの」
 冷淡な口調でつづける。
「あの愚か者どもはあなたの裏切りによりアカネイアに敗れたとでも思っているようですが、いいかげん現実と向き合うべきなのです。ドルーアの策謀にいいようにしてやられ、勝てもせぬ戦にのめりこんだ結果、マケドニアは栄光と豊を失ったことに。そしてその贖いは、おのれらが国賊と罵る王女によってなされているということにも」
 毒気ある物言いに、ミネルバはしばし沈黙した。
「……当初から勝てもせぬ戦だったわけではない。兄はいずれグルニアとともにドルーアと討つ前提で同盟を結んだ。けっして、ドルーアの支配に甘んじるつもりではなかった」
「そのような夢物語を――」
「夢物語ではない」
 ミネルバは思わず反論した。
「少なくとも、パレスを占領したころまでなら充分勝機はあったと思う。あのころはまだわが国とグルニアに余力があった。協力すれば事態を打開することはできただろう」
「ではなぜ計画が頓挫したのです?」
「兄にとって誤算だったのは、後になってグルニアが難色を示しはじめたことだ。悲願であるアカネイアを掌中におさめることができた以上、もう無駄な血は流したくはなかったのだろう」
「当然の帰結ですね」
 ユスタスは嘲笑した。
「ミシェイル王子は人を盤上の駒のように思っておられたのでしょう。その駒にも心があることを忘れていた。だからあなたにもまんまと出し抜かれたのですよ」
「……かもしれぬな」
「いずれにしましても、かがやかしい栄光ばかりを夢見る必要はないのです。あなたにはまず、十年先を見すえていただきたい。そのぐらいの年月がたてば、あなたの懸念の多くが好転しているはずですから」
「十年か。気が遠くなるな」
「牢獄で七年過ごしたわたしに言わせれば、その程度で気は遠くなりませんよ」
 ユスタスは笑みをすっと消した。
「あなたはすぐに結論を出そうとなさる。たかが半年でなにが変えられると? 思いあがりもはなはだしい。よいですか、この国は七年の時間をかけて崩壊していったのです。それならば国を建て直すにも同程度の時間が必要となりましょう。あなたは長い雌伏の時間をへて、国賊となる道を選ばれた。あのときの辛抱強さを思い出されてはいかがです?」
「ほんとうに、そなたは……」
 ミネルバは笑った。怒りもあきれも通りこして感嘆をおぼえていた。
「殿下、わたしにも焦りはあります。獄中で貴重な時間を無為にすごしてしまいましたのでね、だからこそ、わたしはできるかぎり長く生き、この国を行く末を見守りたいと思っているのです。ですからあなたにも、末永くこの国の民を照らす光であっていただきたい」
「……みな、おなじことを言うのだな」
「みな、想いはおなじだからですよ」
「そうか、ならばそうなれるよう努力しよう」
 ミネルバはそっけなく言って、書類を引きよせた。鵞ペンをとり、文字をつづりはじめると、ユスタスは短く息を吐き、身をかえした。そのまま部屋を出ていこうとユスタスを、ミネルバは呼びとめる。
 ふりかえったユスタスの顔をじっとみつめる。
「どうなさいました?」
「反対の声もあったが、そなたを呼びよせたこと、間違っていなかったと思っている」
「光栄でございます、殿下」
 ユスタスは胸に手を当て一礼した。顔をあげたとき、その顔からはつねの冷笑ではなく、おだやかな微笑がうかんでいた。

        ⁂

 主宮最上階にある訓練場に、剣戟の音が響く。
 午後の政務を切り上げたミネルバは、堅苦しい軍服を脱ぎ、ブラウス一枚になって、パオラと手合わせをしていた。王族専用のだだっ広い空間で、槍と槍が激しくぶつかり合う。
 ミネルバは突き出された槍でなぎ払ったが、パオラはすばやく切り返してくる。それもまた余裕で受け流したものの、じょじょにミネルバの槍は精彩を欠きはじめた。手に力が入らなくなり、利き手を柄にそえているだけの状態になっていた。握力の劣る左手に、すべての力がのしかかってきている。
「やっ!」
 重い一打だった。刃を受けとめた瞬間、その衝撃に腕がしびれ、ミネルバは小さくうめいた。限界を超え、手から槍がはじけ飛んだ。鋭い音を立てて石床を転がっていく。
 落ちた槍を見て、ミネルバは一呼吸をつく。少し息が上がっていた。
「まいりました」
 明るく言って、微笑する。
「腕をあげましたね、パオラ」
「……偶然です」
「謙遜はなしですよ」
 ミネルバは身をかえした。膝をつき、槍を拾いあげる。
 パオラと槍を交えるのはずいぶんとひさしぶりのことだった。同盟軍にいたころ、行軍の空き時間に部下たちの訓練に付き合うことがあった。もう一年近く前のことだ。
 部下の成長に頼もしさを感じつつ、寂寥感が胸をかすめる。
 槍も剣も、どちらの手でもあつかえるよう鍛えてきたつもりだった。それは兄の教えだった。利き手が使えずとも充分戦えると思っていたが、その限界をまざまざと思い知らされた。
 幼いころ、剣を持つことを父に許されたとき、朝日が昇るとすぐにここにきて、剣術指南役から教わったことを時間の許すかぎりくりかえした。はじめのうちはなにもかも上手くゆかず、悔しさに涙を流すこともあった。耐えられたのは、夢があったからだ。
 宗主国に苦しめられている父を支えたい。そして、いずれ王位を継ぐ兄の右腕になれるように、とひたすら願いつづけてきた。
 その未来をみずから破壊したとき、右手はかつての力を失っていた。国祖アイオテは、目が潰れ、手足を失おうとドルーアと戦いつづけた。その血を濃く引く自分ならおなじことができるはずだとかつてならば思えただろう、力の入らぬ手と剣を紐で巻きつけ、なにがなんでも食らいついていこうとしただろう。しかし、いまはそこまでの力がわいてこない。
 汗と涙がしみこんだ石床から立ちあがり、開け放たれた窓辺に立った。
 昼下がりの風が、少し汗ばんだ肌を心地よくなでていく。
「パオラ」
 ミネルバがふりかえると、パオラは肩をはねあげた。
「昨日はありがとう」
「そんな……わたしこそ強引にお連れしてしまって――」
「わたしはあなたに感謝を伝えているのですよ」
 とまどうパオラにミネルバはほほえみかけた。
「昨日、南の丘でわたしが言った言葉ですが」
「はい」
「忘れてください。まるであなたたちの想いを軽んじるような言い方をしてしまいましたが、あれは本心ではありません。……どうかしていたのです」
 昨日、ミネルバが口にした言葉は、ある意味で彼女の本音だった。口にしたことで、自分の心に気づいてしまった。セルジョやレントに耐えよと言いつつ、当の自分が現状を受け入れられずにいたということに。
 夢見た未来が崩れ去ったいまを、まるで悪夢でも見ているかのように遠くから見つめている。
 それはいまも変わらない。
「今日、ユスタスに言われました。もっと長期的な視点をもて、と」
 ミネルバは自嘲するように言った。
「恥かしいことですが、わたしは先を見すえようとしながら、目の前のことばかり見ていました。それどころか、目の前のことすら見えなくなっていたのかもしれません。気負いすぎてもいるのでしょうが、おのれの器がよくわかった気がします」
「どうか、おひとりで抱えこまないでください」
 パオラは祈るように両手を強く組み合わせた。
「おひとりでなにもかもを背負われる必要なんてないのです。わたしはミネルバさまのお力になりたくて騎士になりました。わたしだけではありません。どれほどの者がミネルバさまのお役に立ちたいと思っているか。修道院の女の子たちだって……」
 声をつまらせながら訴えるパオラを見るミネルバの目は、にじんでいた。風に吹かれる髪をかき上げながら、そっと目をぬぐう。
「ほんとうにだめですね、わたしは……」
 声にも涙が少しがまじっていた。
「失われたものばかりみつめて、取り戻せぬと嘆いて、焦燥に駆られ、そして大切なものを見失って……」
 パオラの顔をのぞきこむようにみつめる。
「これほど真摯に仕えてくれる者にも気づかずに……」
「ミネルバさま……」
「昨日、あなたはわたしに民の希望になれと言いましたね」
 パオラがこくりとうなづく。
「民が求めているのは平穏な暮らしです。希望がなくては人は生きてはゆけないもの。わたしが彼らの希望となれるかはわかりませんが、民が希望をもち明日へ向かって歩いてゆけるよう、力を尽くしたいと思っています。そのために……」
 ミネルバは萎えた右手を差しだした。
「あなたの力を貸してくれますか」
 パオラは口元を押さえ、必死にふるえをこらえていた。ミネルバが無言のまま見守っていると、唇を噛みしめて笑みを作った。そして差しだされた手を両手でにぎりしめる。
「はい……!」
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