第二部
先日の大使との会食の席で、ミネルバはハーディンからの手紙を受けとった。ここ数日、何度も読みかえしてはため息をついている。
――皇帝といってもなにも変わりはしない。わたしは王というより王配と呼ぶほうが正しい身の上だった。それゆえに権威を手に入れねば事態をおさめられなかった。長きにわたる悪習を改革するのは一筋縄ではいかぬのでな。
あなたの苦労も忍ばれる。二つに割れた国をもう一度元に戻そうなどと正気の沙汰とは思えぬ。あなたの信念には感服するが、寛容さも度がすぎれば、身を滅ぼしかねぬ諸刃の剣であること、心にとどめていただきたい。
知ったふうなことをと思われるやもしれぬが、あなたの置かれている状況はわたしと似ている。アカネイアを統べる者としてよりも、友人として、見て見ぬふりはできぬのだ。
まこと、王とは孤独なものだ。あのころわたしには狼騎士団がいた。わたしを慕い、信頼をかたむけられる仲間にかこまれていた。
しかしいまでは、冷たい大理石の宮殿でひとり、こうして机に向かい、異国の友人への文をしたためている。この瞬間がもっとも気持ちが安らぐ時間なのかもしれぬ。この部屋から一歩出れば、面従腹背の貴族が群がってくる。彼らはわたしの失脚を狙っている。
脅すわけではないが、あなたも気をつけられることだ。人の心は移ろいやすく、もろいもの。結局、信じられるものはおのれしかいないようにも思えるのだ……
読み進めるごとに、その低くもあたたかみのある声がよみがえってきそうであった。
シモン・ネイヤール殺害の責を問う書簡の後に、このような私信が届けられたことにミネルバは驚いた。ここにつづられていることがハーディンの真意であるなら、その慈悲にすがってみるのもよいかもしれない。アカネイアがミネルバ治世下のマケドニアに対して協力的であるのなら、これほど強力な後ろ盾はない。反対勢力も抑えやすくなる。
そう考えつつも、ミネルバは警戒心をゆるめることはできなかった。妙な違和感があった。
大使派遣のときもおなじだった。いかに外交文書と私信の違いはあれど、おなじ人間がしたためたとは思えぬものだ。
なにがなにやらわからない。ミネルバは目を閉じて顔をおおう。
ニーナの忠臣であるミディアやジョルジュはいまのアカネイアをどう思っているのだろうか。トルイユいわく、ジョルジュは皇帝の治世に不満をいだいているとのことだった。それならば彼らからハーディンの様子を探ってみるのがもっとも良い手に思われる。
しかし、彼らとの接触は困難である。
ユスタスはアカネイア貴族からパレスの情報を得ているが、これもアカネイア側に知られれば問題となりうるものだ。いかに友人同士とはいえ、マケドニアに協力しているからにはハーディンに不満を持つ者なのだろう。その見立てには一定の偏りがあるはずだ。
それならば、自分の信じられるものを信じるしかないのではないか。あるいは、信じたいものを。
ミネルバは返書をしたためようとペンをとった。
まずは簡素なあいさつにはじまり、心遣いへの感謝を記す。そこでペンが止まる。この私信でシモンの件にふれぬわけにはいくまい。ふれぬのは不誠実であろう。
「――あの、殿下」
控えの間から声がかかり、手をとめる。
入ってきたロザリアはなにやら焦っているようだった。
「いま、白騎士団のパオラ・フォルティニという方がお見えなのですが、お通ししてもよろしいでしょうか」
「パオラが? ええ、もちろん」
ミネルバは明るく応じたが、ロザリアは、あの、と口ごもる。
「申し訳ございません。わたくし、いまパオラどのに失礼な態度をとってしまったのです。その、これまでお見かけしない方でしたから……」
「仕方ありません、タマーラから見知らぬ者は通さぬようさんざん言われていたのでしょう? 彼女はこまかなことは気にしませんから大丈夫ですよ」
現れたパオラは、軍装ではなく簡素な平服で、陶器の杯と急須ののった盆を持っていた。この部屋を出入りする厳めしい男たちとくらべればロザリアが不審に思うのも無理はなかった。
「お茶をお持ちしました。少しお休みになりませんか」
「ありがとう、パオラ」
「どうぞ。カミツレの香草茶です」
文机に湯気の立つ杯がおかれた。ミネルバは一瞬ためらったのち、左手で杯の取っ手を持ち上げる。
一口飲んで、ほっと息をつく。
「おいしいお茶ですね」
「お気に召しましたか」
「ええ、とても」
パオラは茶葉の入った小袋を手にとって見せる。
「まだたくさんありますので、女官の方に渡しておきますね」
「これはカミツレのほかにはなにが?」
「たしかラベンダーにリコリス……それとバレリアンでしたでしょうか。修道院の庭で育てた四種の香草を配合したものだそうで、町でも評判がよいようです」
「ではこれはレナのところの?」
「はい。少し前に修道院に立ち寄りまして、そのときにレナから受けとりました。ぜひミネルバさまにさしあげてほしいと」
「レナとは四の月に会ったきりですが、息災でしたか」
「多くの子供たちがおりますので休む暇もないと思いますが、とても活き活きとしていました。子供たちはみんな笑顔が絶えなくて、レナをまるで母のように慕っていて」
「目にうかびます」
「わたしも少し子供たちと遊んだんです。あの子たちったら、仲良くしているかと思えばささいなことで喧嘩して大騒ぎ。なんだか昔の妹たちを思い出してしまいました」
先日、修道院で子供たちを天馬にのせたときの様子をほがらかに話す。それはかつて幼い妹たちをやさしく見守っていた姿と重なる。パオラは乳母だった母親に似て気性のやさしい少女で、いつも自分のことより周囲を気遣っていた。
十になるころ、パオラは天馬騎士になると言った。ミネルバは一度はとめた。父親は騎士だったが、過酷な戦場は彼女には似合わないと思った。しかしその意思は固く、妹たちも姉につづいた。幼い三姉妹が無邪気にじゃれ合い、笑いあっていたころを思いかえすと、みなが天馬騎士となり自分に仕えるようになったことが不思議に思われる。
ミネルバが無言のまま見つめていると、パオラはとまどいをみせた。
「……どうかなさいましたか」
「いえ。あなたとこうしてゆっくり話せるのは、ひさしぶりだと思って」
「そういえば、長らくお会いしていませんでしたね」
「どのくらいになりますか」
「二か月ほどでしょうか」
「もうそんなになりますか」
過ぎ去った時間の速さに、ミネルバは笑いそうになった。
「ここしばらく東翼から出ることがないのですよ。この部屋と執務室を行ったり来たり。あとは大使との接見と会食。それで一日が終わってしまいます」
そんな日々にミネルバは焦りをつのらせている。大使は今後のマケドニアの命運をにぎる人物であり、粗略にあつかえない。その対応と根回しに割かれる時間があまりに増えた。それはミネルバにとって空虚に思われる時間だった。騎士団を引きつれ、地方を巡回するほうがよほど有意義だとユスタスにこぼせば、雑事はすべて臣下にまかせておけばよいという。さらに言い返そうとすれば、彼らを信頼していないのか、とからかうように言った。
ハーディンが草原の民の騎馬隊に深い信頼をよせていたように、ミネルバもまた天馬騎士団の者たちに信頼をかたむけていた。そして反乱計画の中核を担ったパオラたちに対しては格別の想いがあった。
パオラの両親はすでに亡くなり、姉妹のほかに身寄りがいない。皮肉なことに、そのしがらみのなさは先の戦争では強みだった。マケドニア貴族の多くは、自らの信念と力でねじ伏せられ屈従の道を選んだ。メスト家の縁戚であるセルジョは、はじめから反体制寄りだったが、一族郎党のため動きを封じられていた。レントにマチス、ベンソン、ムラクらも同様だった。なにより反乱の旗頭となるべきミネルバ自身が、肉親への情に囚われていた。
時をへるごとに国が土台から傾いていくとわかっていたのに、有用な一手を打つことができぬままでいた。しだいに進むべき道を見失いかけていたが、好機が訪れた。
アリティア王子の蜂起だった。
これほどの好機を逃すわけにはいかない。ミネルバは計画を実行に移す決意をしたが、それは危険な賭けだった。部下たちを危険にさらすおそれがあった。ためらうミネルバに覚悟を決めさせたのは、パオラたちの純粋で彼女たちのまっすぐな目だった。かならず成し遂げてみせるという信念がその目に宿っていた。それはミネルバにとって天啓を得たかのような瞬間だった。
彼女たちがいなければ自分は本懐を遂げることができただろうか。
戦争が終わってからミネルバは時折考えることがあった。
「お茶のおかわりはいかがですか」
「ええ、いただきます」
他愛のない話を交わすなか、パオラの様子がおかしいことにミネルバは気づいていた。いきなり部屋にやっていきたことにも驚かされたが、どこか落ち着かなさげであり、なにかをごまかすように多弁になっているように思われた。
パオラが切り出した。
「トルイユ伯とはいかがですか」
「今宵も会食の予定です。あの者とはうまく折りあっていかねばと思っていますが、なかなか難しいものです」
「やはり、やっかいなお方なのですか」
「典型的なアカネイア貴族ですからね。言葉のすべてに裏がある、とでも言いましょうか。あの者との話は終始、腹の探り合いばかりで疲れます。……あの戦争をへて多くのことが変わりましたが、これだけは唯一の変わらぬものかもしれません」
ミネルバは視線を落とした。机上にはハーディンからの手紙がある。
トルイユ伯の派遣はハーディンの意思である。ならばトルイユの言動もまたその意思を汲んでのものに違いなかった。
ハーディンもトルイユもミネルバに早期の即位をうながしてくる。兄王を討った王女という不安定な立ち位置であるから、よからぬ考えをいだく者が出てきかねないと彼らは説く。不測の事態を防ぐべく、王位を得て、抵抗勢力を一掃すべきである、皇帝となったわたしのように、と。そのための尽力は惜しまないとまで書き添えてあった。
国内の混乱を収めるには、旧勢力の排除がもっとも有用な手である。ミネルバ自身、王位を継がぬことが自身の立場を危うくする要因であることは理解している。
だが、この件にアカネイアを介入させる方が危険だと直感していた。援助の目的は、アカネイアに歯向かったマケドニアに牙をへし折ることにある。もう二度と宗主国に牙をむくことなどできぬように。
アカネイアは手ぐすねを引いて待っている。ふたたび内政に干渉する絶好の機会を。
かつての友情をもとに、弱みをさらすのも一計だろう。だが、つけ入られる隙を作ってはならない。今宵の会食でもシモンのことが話題にのぼるだろうが、取るべき対応は変わらない。
「ほんとうにおいしいお茶でした」
ミネルバはからになった杯を静かにおく。
「レナによろしく伝えておいてください」
パオラは微笑でこたえ、杯を盆にのせ下がろうとしていた。しかし一歩進んで、ふいに歩みをとめた。
ふりかえったパオラは、ひどく思いつめた顔をしていた。
「どうしたのです?」
「大使との会食までにご予定はおありですか」
「特に予定というほどのものは」
「でしたら、少しお時間をいただいてもよろしいですか」
かまいませんよ、とミネルバは苦笑をこぼす。
「今日、あなたはずっと物言いたげでしたね。なにか心にかかることがあるのなら話してごらんなさい」
「わたしの心配事は、ミネルバさまのことなのです」
思いがけぬ返答に、ミネルバは目をみひらいた。
「いま、気鬱の種を多くかかえておられることと思います。わたしなどが口をはさめることでないのもわかっています。それでも、もしなにかわたしにできることがあるのなら頼っていただきたいのです。どんなささいなことでも、お力になりたいのです。……それとも、わたしが力になれることなどなにもないのでしょうか」
真摯な訴えに、ミネルバは茫然となっていた。忙しさにかまけて、あまりに周囲が見えなくなっていたことをあらためて思い知る。タマーラの体調のことももっと早くに気づくべきであったし、パオラにこのような不安を抱かせるべきではなかった。
「……どうやら」
ミネルバは視線をさまよわせる。
「あなたにはずいぶん気を遣わせていたようですね。誤解をさせてしまったならごめんなさい。あなたを信用していないわけではないのです。ただあなたには天馬騎士団を任せていましたし、政務のことは表に出せぬものも多くて……」
口元に手をあてがう。
「アカネイアがらみのことは宰相に任せてはいるものの、わたしが直接大使と関わる機会も多いのですが……まあやっかいな御仁ですから、気が滅入っているのですよ。このところずっと部屋にこもりきりだったせいかもしれませんが」
「でしたら、これから遠乗りに出かけませんか」
またしてもパオラが思いがけぬ提案をした。
「以前はよく気散じに行かれていたではありませんか。景色のきれいな場所へお連れします、ひさしぶりにテアの背におのせして」
「……わたしもテアにのるのですか?」
「はい。あの子もよろこびますから」
気鬱の種は、次から次へと芽吹いている。気晴らしなどただの逃避にしかならぬとわかっていた。しかし目の前のひとつの問題、これまで自分を信じてついてきてくれた部下の真摯な想いに報いたかった。
「わかりました」
ミネルバは机上の書類を抽斗にしまって立ちあがった。パオラの顔が安堵にしたように少しほころんだ。
⁂
「どこへ連れて行ってくれるのです」
「まだ秘密です」
ミネルバはパオラの愛馬の背にのり、見慣れたはずの王都の景色をものめずらしげに見わたした。
二人をのせた天馬はゆったりと風を駆けている。テアの背で感じる風は、飛竜の背で感じるものとも違ってやわらかだった。
パオラがいざなった先は、王都南の丘だった。丘陵の一面にラベンダーが咲いており、初夏の風にのって清涼な香りにみちていた。
丘に降り立つと、土を踏みしめる感覚になつかしさをおぼえた。近ごろでは中庭にどんな花が咲いていようと目をくれることもない。愛竜にはたまに会いに行くが、その背にのることはない。時折バルコニーに出て、風を感じるぐらいのことだ。
ミネルバはラベンダー畑をゆっくりと進み、時折、花びらにふれては、ぼんやりと花畑をみつめていた。そうしているうちに、執務室に置いてきたはずの憂苦が頭のなかへ忍びこんでくる。
この後の会食のこと。書きかけになったままの手紙……。いくつもの気鬱の種が思考を支配し、目の前の花も香りも消え失せてゆく。
薄暮が迫りくるなか、ミネルバはうしろをふりむいた。心配そうに立ちつくしているパオラを見やる。
「ほんとうは、なにか聞きたかったことがあったのではありませんか」
パオラが眉をゆがめた。
「なにやら、いろいろと噂が流れているのでしょう? まだなにも決まっていないことがまことしやかに広まっていて、正直わたしも驚いています」
「……さまざまな噂を耳にしています。王位を継がれないというのはほんとうですか」
「ええ」
「なぜなのですか」
「理由はいくつかありますが、そうですね。女が王になった前例などありませんし、わたしの王位継承に難色を示す者も多いのですよ」
「そんな者たちの言うことなんて、気になさる必要はありません」
「ですから、理由はほかにもあるのですよ」
「ミシェイルさまのことですか?」
パオラが悲痛そうに訴えた。
「ミシェイルさまのことを気に病んでおられるのはわかります。兄君を手にかけられたこと、罪とお考えなのかもしれません。ですがわが国がドルーアに与した以上、どうにもならなかったことです。その責めをおひとりで背負われることではありません」
「そんなもの、いまさら気に病んでおりませんよ」
笑いながらつづける。
「わたしは祖国を取り戻すべく、おのれの意思で兄と戦う道を選んだのです。すべてわたしの望んだ結果です」
「嘘です、ミネルバさまは嘘をついておられます。望んだ結果だなんて、そんなこと――」
パオラが声をつまらせた。うつむき、口元をおおう姿は痛々しい。いつもおだやかな彼女をひどく思いつめさせてしまったことに、ミネルバもまた動揺していた。
「……もちろん、心にかかることがいっさいないと言えば嘘になります」
声がかすれる。
「実を言えば、兄のことは日に何度も思い出します。それはこれからも変わらないでしょう。けれど死んだ者のことなど、わたしが考えるべきことではありません。わたしがいまなすべきことは――」
ミネルバはそれ以上、言葉をつづけることができなかった。なにか強い力でひっぱられるかのように身体が大きくかしいだ。こらえきれずに膝をつく。
「ミネルバさま!」
駆けよってきたパオラを押しのけるように制した。視界がひどくゆれていた。気分が悪い。近ごろ眠れぬ日がつづいているせいだろうか。その場で倒れこみそうになるも、歯を食いしばって耐えた。
いまの自分がなすべきこと。
それは、苦難に耐えつづけた民への贖い。志なかばで倒れていった同胞に恥じぬよう、祖国を守り抜くこと。問題は山積している。悩み、立ちどまっている時間などない。
だが、先が見えない。朝も昼も、視界は暗闇におおわれているかのよう。
「あなたはいまのマケドニアをどう思いますか」
パオラが息をのむ。
「敗北し、なにもかもを失ったこの国の窮状を、あなたはどう思っているのですか」
パオラはほおを引きつらせ、なにも答えない。
「貴族の多くは目をそむけています。彼らはわたしを立てることで、アカネイアとともに祖国が勝利したと思いたいのですよ。滑稽でしょう?」
ふいに、かわいた笑声が唇からもれる。
「滑稽なのはわたしもおなじ。わたしにはわかっていたのです。マルス王子に助力を願い出たときすでに、この国のたどるべき運命が見えていました。すべてわかっていながら、あなたたちを騙していたのです。ドルーアを滅ぼして戦いが終われば、すべて元通りになるかのような……そんなありえもしない幻想を抱かせたのです。おのが目的のために、兵士を煽り立てて、あげく死に追いやって――」
「おやめください! わたしたちは自分たちの意思で戦場に赴きました。命じられたからではありません。祖国解放のために戦ってきたのです」
「ええ。その純粋な想いを利用したのですよ」
パオラは言葉を失っていた。
嫌な物言いをしているとミネルバには自覚があった。自嘲するように笑み、ふらつきながら立ちあがる。
「兄が父を手にかけたとき、わたしには歩むべき道がありませんでした。兄に屈したものの、受け入れてはいなかった。だから、おのが手で道を切り拓いてゆかねばなりませんでした。ただひたすらに前だけを見て進んできたつもりですが、その結果がいまです」
無理やりに笑みをつくる。
「これが現実なのですよ」
ユスタスに兄と運命を共にするほうが一番幸せだったと言われたとき、胸を突かれる思いがした。それは気づかぬうちに目をそらしつづけていた真実だった。
兄の元を去ること、それはミネルバにとって兄の命をこの手で断つ決意をすることだった。そしてたどり着く先には、どちらかの死が待っていた。
死を恐れていたわけではなかった。それよりも、かつてともに見た夢を失うことを恐れていた。
みずから切り開くべき道の先に、光はないとわかっていた。
萎えそうになる心を動かしたのは亡国の王子だった。祖国解放のために突き進む姿は、本来そうあらねばならぬ自分の姿だった。
妄執に囚われ、二の足を踏むおのれを恥じ、ふりかえることをやめた。ただ前を見すえて、軍を率いた。祖国が解放されれば、栄光を取り戻せると自分の心を偽って、部下たちを激励した。
そして最後の戦いに臨んだ。
すべてが終わったとき、光はどこにも見えなくなっていた。
長い沈黙が流れた。時折吹き抜ける強い風にマントが大きくあおられる。
「……申しわけありません」
パオラがしぼりだすような声で言った。
ミネルバは首を横にふる。
「謝らないでください。あなたたちを責めているのではありません」
「いいえ、ミネルバさま。わたしたちは向き合わねばならぬ時に来ているのです。だからご自分をお責めにならないでください。騙しただなんて、お思いにならないでください。たしかにわが国は多くを失いました。得たものなど、なにもないのかもしれません。それでも、すべてを失ってはいません。だってわたしたちは生きているのですから」
パオラは顔を上げ、ゆっくりとミネルバの前に立った。
「ともに戦争を生き抜いた者たちはみな、栄光あるマケドニアを取り戻そうと懸命につとめております。進む先に道がなくとも、あらたに道を切り拓いてゆくつもりです。ミネルバさまのゆかれる道が閉ざされるようとするなら、われらがお助けをいたします。主君をお助けすることが祖国に尽くすことであり、それこそが、志なかばで倒れていった仲間たちに報いることだと信じています」
まじろがぬ目がミネルバを射抜く。
「わたしは日々多くの民と接しています。だからこそ痛感しているのです。力なき民には道標が……頭上でかがやく光が必要なのだと。どうかミネルバさま、民の希望とおなりください。彼らをお導きください」
――皇帝といってもなにも変わりはしない。わたしは王というより王配と呼ぶほうが正しい身の上だった。それゆえに権威を手に入れねば事態をおさめられなかった。長きにわたる悪習を改革するのは一筋縄ではいかぬのでな。
あなたの苦労も忍ばれる。二つに割れた国をもう一度元に戻そうなどと正気の沙汰とは思えぬ。あなたの信念には感服するが、寛容さも度がすぎれば、身を滅ぼしかねぬ諸刃の剣であること、心にとどめていただきたい。
知ったふうなことをと思われるやもしれぬが、あなたの置かれている状況はわたしと似ている。アカネイアを統べる者としてよりも、友人として、見て見ぬふりはできぬのだ。
まこと、王とは孤独なものだ。あのころわたしには狼騎士団がいた。わたしを慕い、信頼をかたむけられる仲間にかこまれていた。
しかしいまでは、冷たい大理石の宮殿でひとり、こうして机に向かい、異国の友人への文をしたためている。この瞬間がもっとも気持ちが安らぐ時間なのかもしれぬ。この部屋から一歩出れば、面従腹背の貴族が群がってくる。彼らはわたしの失脚を狙っている。
脅すわけではないが、あなたも気をつけられることだ。人の心は移ろいやすく、もろいもの。結局、信じられるものはおのれしかいないようにも思えるのだ……
読み進めるごとに、その低くもあたたかみのある声がよみがえってきそうであった。
シモン・ネイヤール殺害の責を問う書簡の後に、このような私信が届けられたことにミネルバは驚いた。ここにつづられていることがハーディンの真意であるなら、その慈悲にすがってみるのもよいかもしれない。アカネイアがミネルバ治世下のマケドニアに対して協力的であるのなら、これほど強力な後ろ盾はない。反対勢力も抑えやすくなる。
そう考えつつも、ミネルバは警戒心をゆるめることはできなかった。妙な違和感があった。
大使派遣のときもおなじだった。いかに外交文書と私信の違いはあれど、おなじ人間がしたためたとは思えぬものだ。
なにがなにやらわからない。ミネルバは目を閉じて顔をおおう。
ニーナの忠臣であるミディアやジョルジュはいまのアカネイアをどう思っているのだろうか。トルイユいわく、ジョルジュは皇帝の治世に不満をいだいているとのことだった。それならば彼らからハーディンの様子を探ってみるのがもっとも良い手に思われる。
しかし、彼らとの接触は困難である。
ユスタスはアカネイア貴族からパレスの情報を得ているが、これもアカネイア側に知られれば問題となりうるものだ。いかに友人同士とはいえ、マケドニアに協力しているからにはハーディンに不満を持つ者なのだろう。その見立てには一定の偏りがあるはずだ。
それならば、自分の信じられるものを信じるしかないのではないか。あるいは、信じたいものを。
ミネルバは返書をしたためようとペンをとった。
まずは簡素なあいさつにはじまり、心遣いへの感謝を記す。そこでペンが止まる。この私信でシモンの件にふれぬわけにはいくまい。ふれぬのは不誠実であろう。
「――あの、殿下」
控えの間から声がかかり、手をとめる。
入ってきたロザリアはなにやら焦っているようだった。
「いま、白騎士団のパオラ・フォルティニという方がお見えなのですが、お通ししてもよろしいでしょうか」
「パオラが? ええ、もちろん」
ミネルバは明るく応じたが、ロザリアは、あの、と口ごもる。
「申し訳ございません。わたくし、いまパオラどのに失礼な態度をとってしまったのです。その、これまでお見かけしない方でしたから……」
「仕方ありません、タマーラから見知らぬ者は通さぬようさんざん言われていたのでしょう? 彼女はこまかなことは気にしませんから大丈夫ですよ」
現れたパオラは、軍装ではなく簡素な平服で、陶器の杯と急須ののった盆を持っていた。この部屋を出入りする厳めしい男たちとくらべればロザリアが不審に思うのも無理はなかった。
「お茶をお持ちしました。少しお休みになりませんか」
「ありがとう、パオラ」
「どうぞ。カミツレの香草茶です」
文机に湯気の立つ杯がおかれた。ミネルバは一瞬ためらったのち、左手で杯の取っ手を持ち上げる。
一口飲んで、ほっと息をつく。
「おいしいお茶ですね」
「お気に召しましたか」
「ええ、とても」
パオラは茶葉の入った小袋を手にとって見せる。
「まだたくさんありますので、女官の方に渡しておきますね」
「これはカミツレのほかにはなにが?」
「たしかラベンダーにリコリス……それとバレリアンでしたでしょうか。修道院の庭で育てた四種の香草を配合したものだそうで、町でも評判がよいようです」
「ではこれはレナのところの?」
「はい。少し前に修道院に立ち寄りまして、そのときにレナから受けとりました。ぜひミネルバさまにさしあげてほしいと」
「レナとは四の月に会ったきりですが、息災でしたか」
「多くの子供たちがおりますので休む暇もないと思いますが、とても活き活きとしていました。子供たちはみんな笑顔が絶えなくて、レナをまるで母のように慕っていて」
「目にうかびます」
「わたしも少し子供たちと遊んだんです。あの子たちったら、仲良くしているかと思えばささいなことで喧嘩して大騒ぎ。なんだか昔の妹たちを思い出してしまいました」
先日、修道院で子供たちを天馬にのせたときの様子をほがらかに話す。それはかつて幼い妹たちをやさしく見守っていた姿と重なる。パオラは乳母だった母親に似て気性のやさしい少女で、いつも自分のことより周囲を気遣っていた。
十になるころ、パオラは天馬騎士になると言った。ミネルバは一度はとめた。父親は騎士だったが、過酷な戦場は彼女には似合わないと思った。しかしその意思は固く、妹たちも姉につづいた。幼い三姉妹が無邪気にじゃれ合い、笑いあっていたころを思いかえすと、みなが天馬騎士となり自分に仕えるようになったことが不思議に思われる。
ミネルバが無言のまま見つめていると、パオラはとまどいをみせた。
「……どうかなさいましたか」
「いえ。あなたとこうしてゆっくり話せるのは、ひさしぶりだと思って」
「そういえば、長らくお会いしていませんでしたね」
「どのくらいになりますか」
「二か月ほどでしょうか」
「もうそんなになりますか」
過ぎ去った時間の速さに、ミネルバは笑いそうになった。
「ここしばらく東翼から出ることがないのですよ。この部屋と執務室を行ったり来たり。あとは大使との接見と会食。それで一日が終わってしまいます」
そんな日々にミネルバは焦りをつのらせている。大使は今後のマケドニアの命運をにぎる人物であり、粗略にあつかえない。その対応と根回しに割かれる時間があまりに増えた。それはミネルバにとって空虚に思われる時間だった。騎士団を引きつれ、地方を巡回するほうがよほど有意義だとユスタスにこぼせば、雑事はすべて臣下にまかせておけばよいという。さらに言い返そうとすれば、彼らを信頼していないのか、とからかうように言った。
ハーディンが草原の民の騎馬隊に深い信頼をよせていたように、ミネルバもまた天馬騎士団の者たちに信頼をかたむけていた。そして反乱計画の中核を担ったパオラたちに対しては格別の想いがあった。
パオラの両親はすでに亡くなり、姉妹のほかに身寄りがいない。皮肉なことに、そのしがらみのなさは先の戦争では強みだった。マケドニア貴族の多くは、自らの信念と力でねじ伏せられ屈従の道を選んだ。メスト家の縁戚であるセルジョは、はじめから反体制寄りだったが、一族郎党のため動きを封じられていた。レントにマチス、ベンソン、ムラクらも同様だった。なにより反乱の旗頭となるべきミネルバ自身が、肉親への情に囚われていた。
時をへるごとに国が土台から傾いていくとわかっていたのに、有用な一手を打つことができぬままでいた。しだいに進むべき道を見失いかけていたが、好機が訪れた。
アリティア王子の蜂起だった。
これほどの好機を逃すわけにはいかない。ミネルバは計画を実行に移す決意をしたが、それは危険な賭けだった。部下たちを危険にさらすおそれがあった。ためらうミネルバに覚悟を決めさせたのは、パオラたちの純粋で彼女たちのまっすぐな目だった。かならず成し遂げてみせるという信念がその目に宿っていた。それはミネルバにとって天啓を得たかのような瞬間だった。
彼女たちがいなければ自分は本懐を遂げることができただろうか。
戦争が終わってからミネルバは時折考えることがあった。
「お茶のおかわりはいかがですか」
「ええ、いただきます」
他愛のない話を交わすなか、パオラの様子がおかしいことにミネルバは気づいていた。いきなり部屋にやっていきたことにも驚かされたが、どこか落ち着かなさげであり、なにかをごまかすように多弁になっているように思われた。
パオラが切り出した。
「トルイユ伯とはいかがですか」
「今宵も会食の予定です。あの者とはうまく折りあっていかねばと思っていますが、なかなか難しいものです」
「やはり、やっかいなお方なのですか」
「典型的なアカネイア貴族ですからね。言葉のすべてに裏がある、とでも言いましょうか。あの者との話は終始、腹の探り合いばかりで疲れます。……あの戦争をへて多くのことが変わりましたが、これだけは唯一の変わらぬものかもしれません」
ミネルバは視線を落とした。机上にはハーディンからの手紙がある。
トルイユ伯の派遣はハーディンの意思である。ならばトルイユの言動もまたその意思を汲んでのものに違いなかった。
ハーディンもトルイユもミネルバに早期の即位をうながしてくる。兄王を討った王女という不安定な立ち位置であるから、よからぬ考えをいだく者が出てきかねないと彼らは説く。不測の事態を防ぐべく、王位を得て、抵抗勢力を一掃すべきである、皇帝となったわたしのように、と。そのための尽力は惜しまないとまで書き添えてあった。
国内の混乱を収めるには、旧勢力の排除がもっとも有用な手である。ミネルバ自身、王位を継がぬことが自身の立場を危うくする要因であることは理解している。
だが、この件にアカネイアを介入させる方が危険だと直感していた。援助の目的は、アカネイアに歯向かったマケドニアに牙をへし折ることにある。もう二度と宗主国に牙をむくことなどできぬように。
アカネイアは手ぐすねを引いて待っている。ふたたび内政に干渉する絶好の機会を。
かつての友情をもとに、弱みをさらすのも一計だろう。だが、つけ入られる隙を作ってはならない。今宵の会食でもシモンのことが話題にのぼるだろうが、取るべき対応は変わらない。
「ほんとうにおいしいお茶でした」
ミネルバはからになった杯を静かにおく。
「レナによろしく伝えておいてください」
パオラは微笑でこたえ、杯を盆にのせ下がろうとしていた。しかし一歩進んで、ふいに歩みをとめた。
ふりかえったパオラは、ひどく思いつめた顔をしていた。
「どうしたのです?」
「大使との会食までにご予定はおありですか」
「特に予定というほどのものは」
「でしたら、少しお時間をいただいてもよろしいですか」
かまいませんよ、とミネルバは苦笑をこぼす。
「今日、あなたはずっと物言いたげでしたね。なにか心にかかることがあるのなら話してごらんなさい」
「わたしの心配事は、ミネルバさまのことなのです」
思いがけぬ返答に、ミネルバは目をみひらいた。
「いま、気鬱の種を多くかかえておられることと思います。わたしなどが口をはさめることでないのもわかっています。それでも、もしなにかわたしにできることがあるのなら頼っていただきたいのです。どんなささいなことでも、お力になりたいのです。……それとも、わたしが力になれることなどなにもないのでしょうか」
真摯な訴えに、ミネルバは茫然となっていた。忙しさにかまけて、あまりに周囲が見えなくなっていたことをあらためて思い知る。タマーラの体調のことももっと早くに気づくべきであったし、パオラにこのような不安を抱かせるべきではなかった。
「……どうやら」
ミネルバは視線をさまよわせる。
「あなたにはずいぶん気を遣わせていたようですね。誤解をさせてしまったならごめんなさい。あなたを信用していないわけではないのです。ただあなたには天馬騎士団を任せていましたし、政務のことは表に出せぬものも多くて……」
口元に手をあてがう。
「アカネイアがらみのことは宰相に任せてはいるものの、わたしが直接大使と関わる機会も多いのですが……まあやっかいな御仁ですから、気が滅入っているのですよ。このところずっと部屋にこもりきりだったせいかもしれませんが」
「でしたら、これから遠乗りに出かけませんか」
またしてもパオラが思いがけぬ提案をした。
「以前はよく気散じに行かれていたではありませんか。景色のきれいな場所へお連れします、ひさしぶりにテアの背におのせして」
「……わたしもテアにのるのですか?」
「はい。あの子もよろこびますから」
気鬱の種は、次から次へと芽吹いている。気晴らしなどただの逃避にしかならぬとわかっていた。しかし目の前のひとつの問題、これまで自分を信じてついてきてくれた部下の真摯な想いに報いたかった。
「わかりました」
ミネルバは机上の書類を抽斗にしまって立ちあがった。パオラの顔が安堵にしたように少しほころんだ。
⁂
「どこへ連れて行ってくれるのです」
「まだ秘密です」
ミネルバはパオラの愛馬の背にのり、見慣れたはずの王都の景色をものめずらしげに見わたした。
二人をのせた天馬はゆったりと風を駆けている。テアの背で感じる風は、飛竜の背で感じるものとも違ってやわらかだった。
パオラがいざなった先は、王都南の丘だった。丘陵の一面にラベンダーが咲いており、初夏の風にのって清涼な香りにみちていた。
丘に降り立つと、土を踏みしめる感覚になつかしさをおぼえた。近ごろでは中庭にどんな花が咲いていようと目をくれることもない。愛竜にはたまに会いに行くが、その背にのることはない。時折バルコニーに出て、風を感じるぐらいのことだ。
ミネルバはラベンダー畑をゆっくりと進み、時折、花びらにふれては、ぼんやりと花畑をみつめていた。そうしているうちに、執務室に置いてきたはずの憂苦が頭のなかへ忍びこんでくる。
この後の会食のこと。書きかけになったままの手紙……。いくつもの気鬱の種が思考を支配し、目の前の花も香りも消え失せてゆく。
薄暮が迫りくるなか、ミネルバはうしろをふりむいた。心配そうに立ちつくしているパオラを見やる。
「ほんとうは、なにか聞きたかったことがあったのではありませんか」
パオラが眉をゆがめた。
「なにやら、いろいろと噂が流れているのでしょう? まだなにも決まっていないことがまことしやかに広まっていて、正直わたしも驚いています」
「……さまざまな噂を耳にしています。王位を継がれないというのはほんとうですか」
「ええ」
「なぜなのですか」
「理由はいくつかありますが、そうですね。女が王になった前例などありませんし、わたしの王位継承に難色を示す者も多いのですよ」
「そんな者たちの言うことなんて、気になさる必要はありません」
「ですから、理由はほかにもあるのですよ」
「ミシェイルさまのことですか?」
パオラが悲痛そうに訴えた。
「ミシェイルさまのことを気に病んでおられるのはわかります。兄君を手にかけられたこと、罪とお考えなのかもしれません。ですがわが国がドルーアに与した以上、どうにもならなかったことです。その責めをおひとりで背負われることではありません」
「そんなもの、いまさら気に病んでおりませんよ」
笑いながらつづける。
「わたしは祖国を取り戻すべく、おのれの意思で兄と戦う道を選んだのです。すべてわたしの望んだ結果です」
「嘘です、ミネルバさまは嘘をついておられます。望んだ結果だなんて、そんなこと――」
パオラが声をつまらせた。うつむき、口元をおおう姿は痛々しい。いつもおだやかな彼女をひどく思いつめさせてしまったことに、ミネルバもまた動揺していた。
「……もちろん、心にかかることがいっさいないと言えば嘘になります」
声がかすれる。
「実を言えば、兄のことは日に何度も思い出します。それはこれからも変わらないでしょう。けれど死んだ者のことなど、わたしが考えるべきことではありません。わたしがいまなすべきことは――」
ミネルバはそれ以上、言葉をつづけることができなかった。なにか強い力でひっぱられるかのように身体が大きくかしいだ。こらえきれずに膝をつく。
「ミネルバさま!」
駆けよってきたパオラを押しのけるように制した。視界がひどくゆれていた。気分が悪い。近ごろ眠れぬ日がつづいているせいだろうか。その場で倒れこみそうになるも、歯を食いしばって耐えた。
いまの自分がなすべきこと。
それは、苦難に耐えつづけた民への贖い。志なかばで倒れていった同胞に恥じぬよう、祖国を守り抜くこと。問題は山積している。悩み、立ちどまっている時間などない。
だが、先が見えない。朝も昼も、視界は暗闇におおわれているかのよう。
「あなたはいまのマケドニアをどう思いますか」
パオラが息をのむ。
「敗北し、なにもかもを失ったこの国の窮状を、あなたはどう思っているのですか」
パオラはほおを引きつらせ、なにも答えない。
「貴族の多くは目をそむけています。彼らはわたしを立てることで、アカネイアとともに祖国が勝利したと思いたいのですよ。滑稽でしょう?」
ふいに、かわいた笑声が唇からもれる。
「滑稽なのはわたしもおなじ。わたしにはわかっていたのです。マルス王子に助力を願い出たときすでに、この国のたどるべき運命が見えていました。すべてわかっていながら、あなたたちを騙していたのです。ドルーアを滅ぼして戦いが終われば、すべて元通りになるかのような……そんなありえもしない幻想を抱かせたのです。おのが目的のために、兵士を煽り立てて、あげく死に追いやって――」
「おやめください! わたしたちは自分たちの意思で戦場に赴きました。命じられたからではありません。祖国解放のために戦ってきたのです」
「ええ。その純粋な想いを利用したのですよ」
パオラは言葉を失っていた。
嫌な物言いをしているとミネルバには自覚があった。自嘲するように笑み、ふらつきながら立ちあがる。
「兄が父を手にかけたとき、わたしには歩むべき道がありませんでした。兄に屈したものの、受け入れてはいなかった。だから、おのが手で道を切り拓いてゆかねばなりませんでした。ただひたすらに前だけを見て進んできたつもりですが、その結果がいまです」
無理やりに笑みをつくる。
「これが現実なのですよ」
ユスタスに兄と運命を共にするほうが一番幸せだったと言われたとき、胸を突かれる思いがした。それは気づかぬうちに目をそらしつづけていた真実だった。
兄の元を去ること、それはミネルバにとって兄の命をこの手で断つ決意をすることだった。そしてたどり着く先には、どちらかの死が待っていた。
死を恐れていたわけではなかった。それよりも、かつてともに見た夢を失うことを恐れていた。
みずから切り開くべき道の先に、光はないとわかっていた。
萎えそうになる心を動かしたのは亡国の王子だった。祖国解放のために突き進む姿は、本来そうあらねばならぬ自分の姿だった。
妄執に囚われ、二の足を踏むおのれを恥じ、ふりかえることをやめた。ただ前を見すえて、軍を率いた。祖国が解放されれば、栄光を取り戻せると自分の心を偽って、部下たちを激励した。
そして最後の戦いに臨んだ。
すべてが終わったとき、光はどこにも見えなくなっていた。
長い沈黙が流れた。時折吹き抜ける強い風にマントが大きくあおられる。
「……申しわけありません」
パオラがしぼりだすような声で言った。
ミネルバは首を横にふる。
「謝らないでください。あなたたちを責めているのではありません」
「いいえ、ミネルバさま。わたしたちは向き合わねばならぬ時に来ているのです。だからご自分をお責めにならないでください。騙しただなんて、お思いにならないでください。たしかにわが国は多くを失いました。得たものなど、なにもないのかもしれません。それでも、すべてを失ってはいません。だってわたしたちは生きているのですから」
パオラは顔を上げ、ゆっくりとミネルバの前に立った。
「ともに戦争を生き抜いた者たちはみな、栄光あるマケドニアを取り戻そうと懸命につとめております。進む先に道がなくとも、あらたに道を切り拓いてゆくつもりです。ミネルバさまのゆかれる道が閉ざされるようとするなら、われらがお助けをいたします。主君をお助けすることが祖国に尽くすことであり、それこそが、志なかばで倒れていった仲間たちに報いることだと信じています」
まじろがぬ目がミネルバを射抜く。
「わたしは日々多くの民と接しています。だからこそ痛感しているのです。力なき民には道標が……頭上でかがやく光が必要なのだと。どうかミネルバさま、民の希望とおなりください。彼らをお導きください」