第二部
「お嬢さんはあたらしい女官さんかな」
ロザリアが中庭を通りかかったとき、老年の庭師が声をかけてきた。小柄で少し腰が曲がっていて、その肌は泥がついているのかと思うほど黒々と日に焼けていた。
「はい。ロザリア・リュッケと申します。五日前からミネルバ王女にお仕えしております」
「おお、そうかい。姫さまは良いお方だろう?」
「は、はい。とても」
庭師は相好を崩す。
「姫さまはお小さいときはお転婆でな、よく王太子さまと一緒にこの庭で飛んだりはねたりしておられたもんじゃ」
庭師はそう言って小さな噴水に目をはせた。彼の目には水遊びをする小さな王子と姫が見えているのだろう。
「ちょっと待ってておくれ」
そう言いながら庭師は噴水の奥の茂みに消えてゆき、ややあって、花束をかかえて戻ってきた。
「姫さまのお好きな花だから差しあげておくれ」
花弁にそっとふれる。めずらしいバラだった。白バラに赤い斑が入っている。
マケドニアのバラの花はアカネイアから持ちこまれたものであるが、あたたかい気候ゆえにあざやかな花々がよく育つ。白バラはマケドニアで生まれたもので、初めて目にするものだった。
部屋に戻り、花を活けていると、ミネルバ王女が戻ってきた。
手を止めて、一礼する。
「きれいですね」
ミネルバは活けられたみずみずしいバラにそっとふれる。
「中庭のバラにございます。庭師の方が殿下に差し上げてほしいと」
「ダッカが? 彼は元気そうでしたか」
「はい、とても」
「中庭は毎日通りかかっていますが、このところ咲いている花に目を向ける余裕もありませんでした」
いけませんね、とミネルバは困り顔になる。その視線は花瓶のバラから、飾り棚に移った。そこには手のひらほどの小さな肖像画が立てかけてあった。金の額に入れられたおかっぱ髪の幼い少女。ロザリアがじっと見つめていると、ミネルバ王女はほほえんだ。
「それは妹のマリアです」
異腹の第二王女はまだ十歳にもならぬ姿をしていた。
「お小さいときのものなのですね」
「ええ、もうずいぶん前のものですが、いまもそんなに変わっていませんよ」
王女は肖像画を手にとり、切れ長の目をやさしげにほそめる。
「あの子が八つのときに離れ離れになってしまって……。これはそのときになじみの画家に描いてもらったのです。アルバーニの弟子だったのですが、彼はマリアのことを知りませんでしたから、表情はこうだとか、いろいろ無理な注文をつけて。ずいぶんと苦労させてしまいましたが、わたしの記憶にあるとおりに描いてくれました」
「いまはカダインに留学されているのでしたね」
「ええ。シスターとして人々のために働きたいと言って」
「ご立派ですね」
ミネルバはうれしそうに顔をほころばせた。
「あの子は西にある離宮で育って、母君が亡くなられてのち、ようやく城で暮らしはじめたのですが、それもつかのま、ドルーアの人質に差しだされて……。戦争が終わってほどなくして今度はカダインに……。この城で妹とともに暮らした時間は短いものでしたが、一日のうち、あの子と会えるわずかな時間がとても心癒されるものでした。中庭の花が咲いたと伝えにきてくれるようなやさしい子でしたから……」
肖像画をのぞきこんだまま、王女は眉根をよせた。
「おさびしいのですか」
ロザリアは思わず尋ねてしまう。
「タマーラさまからお聞きしております。殿下はとても妹君を可愛がっておられたと」
「もちろんさみしく思いますが、あの子にはあの子の生きる道があります。……ずっと閉ざされた世界で生きてきた子ですから、たくさんの人と出会い、見識をひろげてほしいのです」
ミネルバは肖像画をおいて、ロザリアに向きなおった。
「こちらでの生活にはもう慣れましたか。生国とはいえ、なにかと勝手が違いましょう」
「お気遣いありがとうございます。タマーラさまもよくしてくださいますので不便はございません」
「そう、それならよかった」
「そろそろご準備をいたしましょう」
ミネルバは軍服の前をひらきながら寝室へ向かった。その間にロザリアは衣裳部屋からラベンダー色のドレスを運んでくる。
「今宵はこちらのドレスをご用意しております」
「ああ、そのドレスですか」
「お気に召しませんか」
「いえ、そうではなくて」
ミネルバは苦笑する。
「幼いころよく母の衣装部屋で遊んでいましたから、その紫のドレスはよく覚えているのです。たしか母は一度も袖を通したことのないものです」
「王妃さまは病がちでいらしたそうですね」
「わたしの記憶ではほとんど床についてばかりいたように思います。式典では病をおして父のとなりに立っていましたが、それも年にほんの数回ほど……。だから仕立てたきりになっているドレスも多いのですよ」
ミネルバは目を細め、ドレスにふれる。
「古いものですが、タマーラが手入れをしてくれていたので傷んではいないようですね。わたしは流行のたぐいにくわしくありませんが、あなたの目から見てどうです?」
「マケドニアの服飾はほぼアカネイアとおなじですね。ここ十年ほどであれば流行に大きな変化はございませんので。ただ、華美なものが忌避されるようになっておりました。喪服のような黒を基調としたドレスが多く、宝飾品も大ぶりのものは不謹慎とされていました」
「戦争が長くつづきましたからね」
「ですが、今後は華やかなものが好まれるようになるかもしれません」
ロザリアはドレスをひろげ、レースのあしらわれた襟ぐりにふれる。
「モイラ王妃の時代は襟の詰まったものが多いんです。殿下は鎖骨から肩の線がおきれいでいらっしゃいますから、もう少し襟ぐりを大きく開けるようにお直ししてもよいかもしれません」
「すべてあなたに任せます」
ミネルバは鏡台の前に座った。白磁の肌にうすくおしろいをはたく。肩で切りそろえられた髪は、すべて結いあげることはせず、耳より上の髪のだけをまとめた。ドレスに合わせた紫水晶の耳飾りをつける。
王女は女人しては背が高い。モイラ妃のドレスも手入れの際にずいぶん着丈が長いと驚いた。亡き妃に似たのだろう。
コルセットをきつく締めて、すらりとした肢体に紫のドレスをまとう。
姿見の前に立つ王女は、とても大陸中を震えあがらせた女竜騎士には見えない。だが、そのドレスの下には痛ましい傷跡があった。特に脇腹の傷はひきつれた皮膚が赤く盛りあがっていて、そこへはつとめて視線をむけないようにした。
支度が終わると、王女はふりかえった。
「そうそう。あなたに頼みたいことがあったのです」
「はい、なんなりと」
鏡台の上を片づける手を止める。
「時間のある時でかまわないので、あなたがアカネイアで過ごしていたころのことを話してほしいのです。ささいなことでもよいので」
唐突に思える申し出に、ロザリアは目をおよがせた。
「それはどういったことにございましょう?」
「タマーラから聞きました。マケドニアの出ゆえに、パレスでの暮らしはなにかと苦労することが多かったそうですね。戦後はマケドニア人の出入りが禁じられたこともあって、こちらへ戻ってきたのだと。つらい思いをさせましたね」
「それは……仕方のないことですので、殿下がお気にされることではありません」
「もちろんあなたが話したくないことであれば無理強いはしません。ただ、アカネイアの者がわが国に対して抱いている想いを、わたしは知らねばならないと思っているのです」
ミネルバは長いまつげをふせる。
「幼いころから音楽と舞踊の教師をつとめていた者がアカネイア人でした。厳しくも愛情ある者たちで、ほんとうに感謝しているのですが、国交が断たれてのち、それきりになってしまっていて……。行方を調べさせようとも考えたのですが、やめました。生きてさえいてくれればと思いますが、それも身勝手な願いでしょうから。それでも今後のために、わたしはアカネイアで暮らしていた者の声を聞いておきたいのです」
「承知いたしました」
ロザリアは胸をなでおろし、ほがらかに答えた。過去の経歴を不審に思われたのではないかと早合点してしまっていた。
「では、お時間まで少しお話ししましょう」
ロザリアは事前になにを聞かれてもよどみなく答えられるよう準備をしていた。特におのれの身の上については。
「――母の生家は、アカネイアでは取るに足らない下級貴族にございます。貴族とは名ばかりの小さな所領しか持たず、わたしを連れて戻ったところで温かく迎え入れてもらえるわけではありませんでした。ですから十をすぎたころに行儀見習いとして名のある貴族のお屋敷で住まうことになりました」
仕えていた主の家名はあえて出さない。
「パレスでは何人かの大貴族の婦人にお仕えしました。その数年は平和な時代に思われましたが、後から考えてみますと、あのころすでにマケドニアはドルーアの侵略を受けていたのですね……。わたくしたちはそれを知らないまま、数日おきに舞踏会や音楽界に興じておりました。女たちにはなにも知らされないままだったのです。ドルーア軍との戦いで負けがつづいていることも知らずに二年ものあいだ安穏と過ごしていたのです。愚かな者たちとお思いでしょうが、パレスが落ちるなんて誰にも信じられないことだったのです」
これは嘘ではない。当時のことを思い出すと、その愚かしさに自然と笑いがこみあげてくる。
「そんなわたしたちがようやく危機感をいだいたのは、いざパレスが包囲されると知らされたときでした。すべては遅きに失しています。グルニア軍の猛攻から逃れるべく、わたくしがそのときお仕えしていた主とともに南部のアメディへ移ったのですが、主は心労から病になってしまわれて……わたしは修道院付属の施療院で手伝いをして過ごしました。殿下は意外に思われるかもしれませんが、多くの者はアカネイアへの恨み言を口にしていました。不敬なことですが、王家や大貴族の方々への怒りの声も聞かれました。落ちのびた騎士が、各地での戦いの様子を語っておりました。あれでは無駄死にだと。なぜあれほど強大な軍勢を率いながら、ぶざまに敗走するはめになるのか、と……」
実際にアカネイア軍との槍をまじえ、軍勢を打ち破ったミネルバは、当時を思い出したのか、重く沈んだ表情になっていた。
引きつづき施療院での日々を語っていると、応接間の扉が叩かれた。
ロザリアは王女に一礼して、さっと身をひるがえした。扉を開けると、黒い礼装をまとった貴人が立っていた
「ユスタス」
王女が裳裾を引いて応接間に出てきた。
「殿下、今宵もまた格別のおうつくしさですな」
「世辞はよい」
二人は談笑しつつ、ロザリアのほうへ視線をやった。ロザリアは深々と一礼をする。
「あたらしい女官ですか」
「ああ、五日前から仕えてくれている」
「これはまた、どのような心境の変化でございますか」
「そなたにはまだ伝えていなかったな」
ミネルバは悄然とした声になる。
「じつは近ごろタマーラの体調が思わしくないのだ。もともと人手が足らなかったというのに、アカネイアの随員たちへの差配を加わって負担が増してしまったせいだろう」
「もうタマーラも若くありませんからね」
「そなたと同い年だろう」
意地悪く笑うユスタスに、ミネルバ王女は目を険しくした。
「そなたが大使との会食はドレスを着ろなどと言うから、タマーラの負担が増えたのだ」
「それで自分の右腕を調達したというわけですね」
ユスタス・メストの視線がロザリアにそそがれる。
「名は?」
「ロザリア・リュッケと申します」
「もしかして、ブルーノ卿のご息女か?」
「はい」
「どうりで」
ユスタスが得心したようにうなづいた。ふくんだ笑みに、ロザリアはかすかに狼狽をみせた。ユスタスはリュッケ家の兄弟とは幼少のころから交流があった。
――勘づかれたのでは?
ロザリアの動揺をよそに、ユスタスにはそれ以上は特に追及してこなかった。
「それよりも殿下。タマーラから聞きましたが、会食ではほとんど召し上がっていないそうではありませんか」
「あの者と話していると食欲など失せる」
「あの者の申すことを正面から受けとめるのはおよしください」
「そういうわけにもいかぬだろう」
「適当に聞き流しておけばよいのです。でなければ身が持ちません」
「それができれば苦労はしない」
ミネルバは顎をつんと上げ、部屋を後にした。王女をよりそうユスタスの背を見送り、ロザリアは大きく息をついた。
ロザリアが中庭を通りかかったとき、老年の庭師が声をかけてきた。小柄で少し腰が曲がっていて、その肌は泥がついているのかと思うほど黒々と日に焼けていた。
「はい。ロザリア・リュッケと申します。五日前からミネルバ王女にお仕えしております」
「おお、そうかい。姫さまは良いお方だろう?」
「は、はい。とても」
庭師は相好を崩す。
「姫さまはお小さいときはお転婆でな、よく王太子さまと一緒にこの庭で飛んだりはねたりしておられたもんじゃ」
庭師はそう言って小さな噴水に目をはせた。彼の目には水遊びをする小さな王子と姫が見えているのだろう。
「ちょっと待ってておくれ」
そう言いながら庭師は噴水の奥の茂みに消えてゆき、ややあって、花束をかかえて戻ってきた。
「姫さまのお好きな花だから差しあげておくれ」
花弁にそっとふれる。めずらしいバラだった。白バラに赤い斑が入っている。
マケドニアのバラの花はアカネイアから持ちこまれたものであるが、あたたかい気候ゆえにあざやかな花々がよく育つ。白バラはマケドニアで生まれたもので、初めて目にするものだった。
部屋に戻り、花を活けていると、ミネルバ王女が戻ってきた。
手を止めて、一礼する。
「きれいですね」
ミネルバは活けられたみずみずしいバラにそっとふれる。
「中庭のバラにございます。庭師の方が殿下に差し上げてほしいと」
「ダッカが? 彼は元気そうでしたか」
「はい、とても」
「中庭は毎日通りかかっていますが、このところ咲いている花に目を向ける余裕もありませんでした」
いけませんね、とミネルバは困り顔になる。その視線は花瓶のバラから、飾り棚に移った。そこには手のひらほどの小さな肖像画が立てかけてあった。金の額に入れられたおかっぱ髪の幼い少女。ロザリアがじっと見つめていると、ミネルバ王女はほほえんだ。
「それは妹のマリアです」
異腹の第二王女はまだ十歳にもならぬ姿をしていた。
「お小さいときのものなのですね」
「ええ、もうずいぶん前のものですが、いまもそんなに変わっていませんよ」
王女は肖像画を手にとり、切れ長の目をやさしげにほそめる。
「あの子が八つのときに離れ離れになってしまって……。これはそのときになじみの画家に描いてもらったのです。アルバーニの弟子だったのですが、彼はマリアのことを知りませんでしたから、表情はこうだとか、いろいろ無理な注文をつけて。ずいぶんと苦労させてしまいましたが、わたしの記憶にあるとおりに描いてくれました」
「いまはカダインに留学されているのでしたね」
「ええ。シスターとして人々のために働きたいと言って」
「ご立派ですね」
ミネルバはうれしそうに顔をほころばせた。
「あの子は西にある離宮で育って、母君が亡くなられてのち、ようやく城で暮らしはじめたのですが、それもつかのま、ドルーアの人質に差しだされて……。戦争が終わってほどなくして今度はカダインに……。この城で妹とともに暮らした時間は短いものでしたが、一日のうち、あの子と会えるわずかな時間がとても心癒されるものでした。中庭の花が咲いたと伝えにきてくれるようなやさしい子でしたから……」
肖像画をのぞきこんだまま、王女は眉根をよせた。
「おさびしいのですか」
ロザリアは思わず尋ねてしまう。
「タマーラさまからお聞きしております。殿下はとても妹君を可愛がっておられたと」
「もちろんさみしく思いますが、あの子にはあの子の生きる道があります。……ずっと閉ざされた世界で生きてきた子ですから、たくさんの人と出会い、見識をひろげてほしいのです」
ミネルバは肖像画をおいて、ロザリアに向きなおった。
「こちらでの生活にはもう慣れましたか。生国とはいえ、なにかと勝手が違いましょう」
「お気遣いありがとうございます。タマーラさまもよくしてくださいますので不便はございません」
「そう、それならよかった」
「そろそろご準備をいたしましょう」
ミネルバは軍服の前をひらきながら寝室へ向かった。その間にロザリアは衣裳部屋からラベンダー色のドレスを運んでくる。
「今宵はこちらのドレスをご用意しております」
「ああ、そのドレスですか」
「お気に召しませんか」
「いえ、そうではなくて」
ミネルバは苦笑する。
「幼いころよく母の衣装部屋で遊んでいましたから、その紫のドレスはよく覚えているのです。たしか母は一度も袖を通したことのないものです」
「王妃さまは病がちでいらしたそうですね」
「わたしの記憶ではほとんど床についてばかりいたように思います。式典では病をおして父のとなりに立っていましたが、それも年にほんの数回ほど……。だから仕立てたきりになっているドレスも多いのですよ」
ミネルバは目を細め、ドレスにふれる。
「古いものですが、タマーラが手入れをしてくれていたので傷んではいないようですね。わたしは流行のたぐいにくわしくありませんが、あなたの目から見てどうです?」
「マケドニアの服飾はほぼアカネイアとおなじですね。ここ十年ほどであれば流行に大きな変化はございませんので。ただ、華美なものが忌避されるようになっておりました。喪服のような黒を基調としたドレスが多く、宝飾品も大ぶりのものは不謹慎とされていました」
「戦争が長くつづきましたからね」
「ですが、今後は華やかなものが好まれるようになるかもしれません」
ロザリアはドレスをひろげ、レースのあしらわれた襟ぐりにふれる。
「モイラ王妃の時代は襟の詰まったものが多いんです。殿下は鎖骨から肩の線がおきれいでいらっしゃいますから、もう少し襟ぐりを大きく開けるようにお直ししてもよいかもしれません」
「すべてあなたに任せます」
ミネルバは鏡台の前に座った。白磁の肌にうすくおしろいをはたく。肩で切りそろえられた髪は、すべて結いあげることはせず、耳より上の髪のだけをまとめた。ドレスに合わせた紫水晶の耳飾りをつける。
王女は女人しては背が高い。モイラ妃のドレスも手入れの際にずいぶん着丈が長いと驚いた。亡き妃に似たのだろう。
コルセットをきつく締めて、すらりとした肢体に紫のドレスをまとう。
姿見の前に立つ王女は、とても大陸中を震えあがらせた女竜騎士には見えない。だが、そのドレスの下には痛ましい傷跡があった。特に脇腹の傷はひきつれた皮膚が赤く盛りあがっていて、そこへはつとめて視線をむけないようにした。
支度が終わると、王女はふりかえった。
「そうそう。あなたに頼みたいことがあったのです」
「はい、なんなりと」
鏡台の上を片づける手を止める。
「時間のある時でかまわないので、あなたがアカネイアで過ごしていたころのことを話してほしいのです。ささいなことでもよいので」
唐突に思える申し出に、ロザリアは目をおよがせた。
「それはどういったことにございましょう?」
「タマーラから聞きました。マケドニアの出ゆえに、パレスでの暮らしはなにかと苦労することが多かったそうですね。戦後はマケドニア人の出入りが禁じられたこともあって、こちらへ戻ってきたのだと。つらい思いをさせましたね」
「それは……仕方のないことですので、殿下がお気にされることではありません」
「もちろんあなたが話したくないことであれば無理強いはしません。ただ、アカネイアの者がわが国に対して抱いている想いを、わたしは知らねばならないと思っているのです」
ミネルバは長いまつげをふせる。
「幼いころから音楽と舞踊の教師をつとめていた者がアカネイア人でした。厳しくも愛情ある者たちで、ほんとうに感謝しているのですが、国交が断たれてのち、それきりになってしまっていて……。行方を調べさせようとも考えたのですが、やめました。生きてさえいてくれればと思いますが、それも身勝手な願いでしょうから。それでも今後のために、わたしはアカネイアで暮らしていた者の声を聞いておきたいのです」
「承知いたしました」
ロザリアは胸をなでおろし、ほがらかに答えた。過去の経歴を不審に思われたのではないかと早合点してしまっていた。
「では、お時間まで少しお話ししましょう」
ロザリアは事前になにを聞かれてもよどみなく答えられるよう準備をしていた。特におのれの身の上については。
「――母の生家は、アカネイアでは取るに足らない下級貴族にございます。貴族とは名ばかりの小さな所領しか持たず、わたしを連れて戻ったところで温かく迎え入れてもらえるわけではありませんでした。ですから十をすぎたころに行儀見習いとして名のある貴族のお屋敷で住まうことになりました」
仕えていた主の家名はあえて出さない。
「パレスでは何人かの大貴族の婦人にお仕えしました。その数年は平和な時代に思われましたが、後から考えてみますと、あのころすでにマケドニアはドルーアの侵略を受けていたのですね……。わたくしたちはそれを知らないまま、数日おきに舞踏会や音楽界に興じておりました。女たちにはなにも知らされないままだったのです。ドルーア軍との戦いで負けがつづいていることも知らずに二年ものあいだ安穏と過ごしていたのです。愚かな者たちとお思いでしょうが、パレスが落ちるなんて誰にも信じられないことだったのです」
これは嘘ではない。当時のことを思い出すと、その愚かしさに自然と笑いがこみあげてくる。
「そんなわたしたちがようやく危機感をいだいたのは、いざパレスが包囲されると知らされたときでした。すべては遅きに失しています。グルニア軍の猛攻から逃れるべく、わたくしがそのときお仕えしていた主とともに南部のアメディへ移ったのですが、主は心労から病になってしまわれて……わたしは修道院付属の施療院で手伝いをして過ごしました。殿下は意外に思われるかもしれませんが、多くの者はアカネイアへの恨み言を口にしていました。不敬なことですが、王家や大貴族の方々への怒りの声も聞かれました。落ちのびた騎士が、各地での戦いの様子を語っておりました。あれでは無駄死にだと。なぜあれほど強大な軍勢を率いながら、ぶざまに敗走するはめになるのか、と……」
実際にアカネイア軍との槍をまじえ、軍勢を打ち破ったミネルバは、当時を思い出したのか、重く沈んだ表情になっていた。
引きつづき施療院での日々を語っていると、応接間の扉が叩かれた。
ロザリアは王女に一礼して、さっと身をひるがえした。扉を開けると、黒い礼装をまとった貴人が立っていた
「ユスタス」
王女が裳裾を引いて応接間に出てきた。
「殿下、今宵もまた格別のおうつくしさですな」
「世辞はよい」
二人は談笑しつつ、ロザリアのほうへ視線をやった。ロザリアは深々と一礼をする。
「あたらしい女官ですか」
「ああ、五日前から仕えてくれている」
「これはまた、どのような心境の変化でございますか」
「そなたにはまだ伝えていなかったな」
ミネルバは悄然とした声になる。
「じつは近ごろタマーラの体調が思わしくないのだ。もともと人手が足らなかったというのに、アカネイアの随員たちへの差配を加わって負担が増してしまったせいだろう」
「もうタマーラも若くありませんからね」
「そなたと同い年だろう」
意地悪く笑うユスタスに、ミネルバ王女は目を険しくした。
「そなたが大使との会食はドレスを着ろなどと言うから、タマーラの負担が増えたのだ」
「それで自分の右腕を調達したというわけですね」
ユスタス・メストの視線がロザリアにそそがれる。
「名は?」
「ロザリア・リュッケと申します」
「もしかして、ブルーノ卿のご息女か?」
「はい」
「どうりで」
ユスタスが得心したようにうなづいた。ふくんだ笑みに、ロザリアはかすかに狼狽をみせた。ユスタスはリュッケ家の兄弟とは幼少のころから交流があった。
――勘づかれたのでは?
ロザリアの動揺をよそに、ユスタスにはそれ以上は特に追及してこなかった。
「それよりも殿下。タマーラから聞きましたが、会食ではほとんど召し上がっていないそうではありませんか」
「あの者と話していると食欲など失せる」
「あの者の申すことを正面から受けとめるのはおよしください」
「そういうわけにもいかぬだろう」
「適当に聞き流しておけばよいのです。でなければ身が持ちません」
「それができれば苦労はしない」
ミネルバは顎をつんと上げ、部屋を後にした。王女をよりそうユスタスの背を見送り、ロザリアは大きく息をついた。