第二部
「ミネルバさま、こちらが先日お話しした者にございます」
タマーラにうながされ、二十歳すぎの女官が一歩進み出た。黒いお仕着せの裳裾を両手でつまみ、礼をとる。
「ロザリア・リュッケと申します。ミネルバ殿下付きの女官としてお仕えできること、光栄に存じます」
ミネルバは、ロザリアと名のる女官にほほえみかける。
「リカルド・リュッケ卿の姪御でしたね。あの家にあなたのような年頃の娘がいたのは知りませんでした」
「戦前はずっとパレスで暮らしておりましたので」
発音にアカネイア人特有の抑揚があった。
ミネルバは女官の顔をじっと見つめる。
濃い栗色の髪に、ハシバミ色の目。細面の整った顔立ちだが、強く残る印象はない。しかし一目見たときから既視感があった。
「あなたとは幼いころ会ったことがあるように思うのですが、わたしの記憶違いでしょうか」
「えっ……」
ロザリアがとまどいをみせると、タマーラが口をはさむ。
「たしか父君のブルーノ卿が亡くなったのち、母君とともにパレスへ移り住んだのでしたね?」
「はい、わたくしが五つのころです」
「でしたらブルーノ卿とともに何度か王城へ来られたことがあるのかもしれませんね。ミネルバさまはお小さいときからとても記憶力がよろしい方ですので、きっとあなたのことを覚えていらしたのだわ」
ミネルバは苦笑する。
「そのわりにはよく主宮で迷っていたようですが」
「そのたびにリュッケ将軍が抱きかかえて陛下のもとへお連れになっていましたわね。なつかしいこと」
タマーラにつられてか、ロザリアも目元をほころばせた。
リカルド・リュッケの兄ブルーノはアカネイア貴族の娘を妻に迎えているが、ブルーノ、リカルド兄弟の母もまたアカネイア貴族である。そしてそのいずれもがマケドニアに派遣された役人の娘であった。
リュッケ家が二代にわたりアカネイア貴族と婚姻を結んだ経緯は、ただ若い男女がたがいに惹かれ合っただけとも言われるし、はたまた、アカネイアが間接統治の手駒とするためにマケドニア有力貴族を取りこもうとした結果とも言われる。
いずれにせよ、リュッケ家は王殺しの一族とささやかれてきたことに加え、アカネイアとの結びつきまでも強くなったとなれば、宮廷で疎んじられるのも必然で、ロザリアの母が義弟を頼らずアカネイアに帰国したのも無理からぬことであった。
「ミネルバさまは身の回りのことはほとんどご自分でなさいますの。入浴もお着替えも。めずらしい姫さまでしょう? あなたがお仕えしていたアカネイアのご婦人よりもお手間はかからないと思いますけど、なにぶんお忙しい方ですから、細々としたことをお助けしてくださいね」
「はい」
「大使との会食のおりは軍服ではなくドレスをお召しになりますから、モイラさまの衣装部屋からお似合いになりそうなものを選んでください。お直しする必要もあるでしょうから、ミネルバさまもそのぐらいの時間はとってくださいませ」
「ええ、わかりました」
ミネルバはすなおに応じる。
「それと、この応接間は執務室としてお使いですので、臣下の方が出向いてこられる機会も多いでしょうが、かならず姫さまに取り次いでからお通しするように。あの方たちはここが姫君のお部屋であることを忘れたかのようにずかずかと入ってこられるのですから……ほんとうに困ったこと」
以前からタマーラは私室に重臣を招き入れることに苦言を呈していた。王の執務室が開放されたことでここを密談の場とする機会はずいぶん減ったが、それでも急ぎの用はここで受けることが多い。それが当然となっていることがタマーラには気に入らないのだ。
ミネルバは、気を呑まれているロザリアに
「わたしのことよりも、できればタマーラの補佐をしてもらいたいのです。とりわけアカネイアの随員たちの をお願いしたいのです。彼らもアカネイアに縁ある者を好ましく思うでしょうから」
「かしこまりました」
「ありがとう。ではまた夕刻に」
ロザリアはお辞儀をして下がっていった。
扉が閉まるとタマーラは満足げにほほえむ。
「将軍の推薦でしたからお受けしたのもございますけど、ロザリアはうわついたところのない賢い娘だと思いますわ」
「そうですね」
「それに、大使のお相手もありますから、アカネイアの流儀に精通した者のほうが都合がよろしいでしょう? 以前のようにアカネイアから人を呼ぶわけにもまいりませんもの」
「ええ、助かります」
ミネルバはタマーラの顔をあらためてじっと見つめた。やはり以前よりほおがやせたように見える。
「あれから体調はどうなのです?」
「お気遣いありがとうございます。ですがご心配にはおよびません」
「まだ医師には診せていないのでしょう? あなたの心配ないは信用がなりません」
「姫さまの心配ないもまったく信用がなりませんわ」
タマーラは一歩距離をつめる。
「つい先日も、杯を落としてしまわれたでしょう?」
ミネルバは目をそらす。
「ほんとうはお着替えも湯浴みも、おひとりでは手間どっておられるのでしょう? 会食の席で、匙やフォークを持たれるときはどうなさっておりますの?」
「どうもこうも、さほど支障はありません」
「きちんと医師にお診せになってください」
「……いまさら、どうにもなりませんよ」
「そうお思いなら、せめて護衛をおつけになってください。杯すら持てぬ手で以前とおなじように剣をあつかえるとお思いですか」
ミネルバが黙りこんでいると、タマーラはいたわるようにほほえむ。
「ほんの数人でよいのです。白騎士団のなかから近衛を選任してください。たとえばパオラどのを」
「パオラには天馬騎士団の長としての任がありますから、余計なことに手をわずらわせるつもりはありません」
「天馬騎士団の長だからこそ、政務に関わっていただくべきかと」
タマーラの言っていることは正しい。政務の大半が軍事に関わる問題である以上、パオラとはもっと緊密に情報を共有したほうがよいのだろう。パオラなら漏洩を心配する必要もない。
だが。
ミネルバはおのれの手をみつめ、にぎってはひらくことをくりかえした。
それを見てタマーラは、ミネルバの右手をそっと両手でつつみこんだ。
「お手のこと、知られたくないお気持ちはわかります。ですが身近な方々にいつまでも隠しておけることではありませんわ」
ミネルバはあきらめたようにうなづいた。
タマーラにうながされ、二十歳すぎの女官が一歩進み出た。黒いお仕着せの裳裾を両手でつまみ、礼をとる。
「ロザリア・リュッケと申します。ミネルバ殿下付きの女官としてお仕えできること、光栄に存じます」
ミネルバは、ロザリアと名のる女官にほほえみかける。
「リカルド・リュッケ卿の姪御でしたね。あの家にあなたのような年頃の娘がいたのは知りませんでした」
「戦前はずっとパレスで暮らしておりましたので」
発音にアカネイア人特有の抑揚があった。
ミネルバは女官の顔をじっと見つめる。
濃い栗色の髪に、ハシバミ色の目。細面の整った顔立ちだが、強く残る印象はない。しかし一目見たときから既視感があった。
「あなたとは幼いころ会ったことがあるように思うのですが、わたしの記憶違いでしょうか」
「えっ……」
ロザリアがとまどいをみせると、タマーラが口をはさむ。
「たしか父君のブルーノ卿が亡くなったのち、母君とともにパレスへ移り住んだのでしたね?」
「はい、わたくしが五つのころです」
「でしたらブルーノ卿とともに何度か王城へ来られたことがあるのかもしれませんね。ミネルバさまはお小さいときからとても記憶力がよろしい方ですので、きっとあなたのことを覚えていらしたのだわ」
ミネルバは苦笑する。
「そのわりにはよく主宮で迷っていたようですが」
「そのたびにリュッケ将軍が抱きかかえて陛下のもとへお連れになっていましたわね。なつかしいこと」
タマーラにつられてか、ロザリアも目元をほころばせた。
リカルド・リュッケの兄ブルーノはアカネイア貴族の娘を妻に迎えているが、ブルーノ、リカルド兄弟の母もまたアカネイア貴族である。そしてそのいずれもがマケドニアに派遣された役人の娘であった。
リュッケ家が二代にわたりアカネイア貴族と婚姻を結んだ経緯は、ただ若い男女がたがいに惹かれ合っただけとも言われるし、はたまた、アカネイアが間接統治の手駒とするためにマケドニア有力貴族を取りこもうとした結果とも言われる。
いずれにせよ、リュッケ家は王殺しの一族とささやかれてきたことに加え、アカネイアとの結びつきまでも強くなったとなれば、宮廷で疎んじられるのも必然で、ロザリアの母が義弟を頼らずアカネイアに帰国したのも無理からぬことであった。
「ミネルバさまは身の回りのことはほとんどご自分でなさいますの。入浴もお着替えも。めずらしい姫さまでしょう? あなたがお仕えしていたアカネイアのご婦人よりもお手間はかからないと思いますけど、なにぶんお忙しい方ですから、細々としたことをお助けしてくださいね」
「はい」
「大使との会食のおりは軍服ではなくドレスをお召しになりますから、モイラさまの衣装部屋からお似合いになりそうなものを選んでください。お直しする必要もあるでしょうから、ミネルバさまもそのぐらいの時間はとってくださいませ」
「ええ、わかりました」
ミネルバはすなおに応じる。
「それと、この応接間は執務室としてお使いですので、臣下の方が出向いてこられる機会も多いでしょうが、かならず姫さまに取り次いでからお通しするように。あの方たちはここが姫君のお部屋であることを忘れたかのようにずかずかと入ってこられるのですから……ほんとうに困ったこと」
以前からタマーラは私室に重臣を招き入れることに苦言を呈していた。王の執務室が開放されたことでここを密談の場とする機会はずいぶん減ったが、それでも急ぎの用はここで受けることが多い。それが当然となっていることがタマーラには気に入らないのだ。
ミネルバは、気を呑まれているロザリアに
「わたしのことよりも、できればタマーラの補佐をしてもらいたいのです。とりわけアカネイアの随員たちの をお願いしたいのです。彼らもアカネイアに縁ある者を好ましく思うでしょうから」
「かしこまりました」
「ありがとう。ではまた夕刻に」
ロザリアはお辞儀をして下がっていった。
扉が閉まるとタマーラは満足げにほほえむ。
「将軍の推薦でしたからお受けしたのもございますけど、ロザリアはうわついたところのない賢い娘だと思いますわ」
「そうですね」
「それに、大使のお相手もありますから、アカネイアの流儀に精通した者のほうが都合がよろしいでしょう? 以前のようにアカネイアから人を呼ぶわけにもまいりませんもの」
「ええ、助かります」
ミネルバはタマーラの顔をあらためてじっと見つめた。やはり以前よりほおがやせたように見える。
「あれから体調はどうなのです?」
「お気遣いありがとうございます。ですがご心配にはおよびません」
「まだ医師には診せていないのでしょう? あなたの心配ないは信用がなりません」
「姫さまの心配ないもまったく信用がなりませんわ」
タマーラは一歩距離をつめる。
「つい先日も、杯を落としてしまわれたでしょう?」
ミネルバは目をそらす。
「ほんとうはお着替えも湯浴みも、おひとりでは手間どっておられるのでしょう? 会食の席で、匙やフォークを持たれるときはどうなさっておりますの?」
「どうもこうも、さほど支障はありません」
「きちんと医師にお診せになってください」
「……いまさら、どうにもなりませんよ」
「そうお思いなら、せめて護衛をおつけになってください。杯すら持てぬ手で以前とおなじように剣をあつかえるとお思いですか」
ミネルバが黙りこんでいると、タマーラはいたわるようにほほえむ。
「ほんの数人でよいのです。白騎士団のなかから近衛を選任してください。たとえばパオラどのを」
「パオラには天馬騎士団の長としての任がありますから、余計なことに手をわずらわせるつもりはありません」
「天馬騎士団の長だからこそ、政務に関わっていただくべきかと」
タマーラの言っていることは正しい。政務の大半が軍事に関わる問題である以上、パオラとはもっと緊密に情報を共有したほうがよいのだろう。パオラなら漏洩を心配する必要もない。
だが。
ミネルバはおのれの手をみつめ、にぎってはひらくことをくりかえした。
それを見てタマーラは、ミネルバの右手をそっと両手でつつみこんだ。
「お手のこと、知られたくないお気持ちはわかります。ですが身近な方々にいつまでも隠しておけることではありませんわ」
ミネルバはあきらめたようにうなづいた。