第二部

「次はわたし!」
「違うわ、わたしよ」
 パオラが修道院の中庭に降り立つと、女の子たちが興奮した様子で駆けよってきた。
パオラの後ろで天馬にまたがる女の子が、名残り惜しげにつぶやく。
「わたし、もっと乗りたいわ」
「だめー! 次はわたしだってば!」
「あなたたち! 言い争いはおやめなさい、はしたないですよ」
 シスター・コレットが先を争う女の子たちをたしなめる。
「パオラどの、申しわけございません、この子たちったらほんとうに聞き分けが悪くて。もっと譲り合いというものを――ああっ、そんなところに登ってはいけません!」
 生け垣に登ろうとしている男の子を見つけ、シスターはあわてて駆けていった。普段はしとやかな彼女も僧衣の裾を乱し、幼子を両手にかかえたまま中庭を駆けまわっている。
「それじゃあ、次はあなたね」
 四人目の子は、少し気の強そうなおかっぱ髪の少女だった。年は八歳ぐらいだろうか。先に愛馬(テア)の背にのせ、パオラもその前にまたがる。
「しっかりつかまってて!」
 手綱を引くと、テアがゆっくりとはばたきはじめた。あたりに風が起こり、木の葉が舞いあがる。テアが一気に飛翔すると、背中にしがみつく女の子がちいさく悲鳴をあげた。
修道院の鐘楼まで飛翔すると、頭上をさえぎるものはなにもない。初夏の太陽がまばゆくきらめいていた。
天馬がかたむかないように、慎重に修道院の上空を一周する。礼拝堂に、薬草園、菜園、図書館、そして施療院……。幼子たちが守られている箱庭を見下ろす。
「あんなに大きな礼拝堂が小さく見えるでしょう?」
「うん……」
 その声はかぼそかった。パオラの背に回した手も少しふるえている。
「そろそろ戻りましょうか」
 やわらかな風にのって、ゆっくりと庭へ降り立つ。
 パオラが先に天馬から降り、女の子を抱きあげようとしたところ、テアの背にまたがったまま放心したように動かない。
「どうしたの?」
 はっと顔を上げた少女に、パオラは笑いかける。
「怖かった?」
「……ほんの少しだけ」
「そうよね。わたしもはじめて天馬に乗せてもらったとき、とっても怖かったもの」
 少女はテアの首をなでながらつぶやく。
「ねえ、わたしもパオラさんみたいな天馬騎士になれるかしら?」
 パオラはほほえみ、少女のほおにそっとふれた。
「強く願えば、夢は叶えられるわ」
「ほんとう?」
「わたしも、そう強く願ったのよ」
 少女の顔がぱっとかがやく。
「どうすれば騎士団に入れるの? 剣と槍の練習をすればいいの?」
「それも大事だけれど、きっと一番たいせつなのは、誰かを守りたいと思う気持ちよ」
「わたし、妹たちを守りたいわ。それと王女さまお役に立てたらいいなって思ってるの。いまからでも入れる?」
「もう少し大きくなったらね」
「それまで待っててくれる?」
「もちろんよ。楽しみにしてるわ」
 ひたむきさは幼いころのカチュアを思わせる。負けん気の強さはエストのよう。
「さあさあ、みんな」
 シスターが手を三度打ち鳴らす。
「もう今日はお開きにしましょう」
 いっせいに不満の声が上がる。
「もっとのりたいわ」
「わたしはまだだったのに――」
「わがままはいけませんよ。これ以上はテアが疲れてしまうでしょう?」
 女の子たちはしょんぼりした顔になったが、たがいに顔を見合わせているうちに、誰からともなく笑顔になっていった。テアのたてがみや背をやさしくなでて、パオラにお礼を言う。
「今日はありがとう。また来てね」
 そしていっせいに礼拝堂のほうへと駆けていく。
 その様子をずっと見守っていたレナが近づいてきた。
「あの子たちのなかから天馬騎士が生まれるのかしら」
「そうだとうれしいわ」
 二人は中庭に面した談話室に向かった。淡い木漏れ日がふりそそぐ窓際の卓につく。
ややあって、レナが香草茶を運んできた。素焼きの杯に熱いお茶がそそがれると、カミツレのよい香りがふわりとひろがる。
「ジュリアンはどうしてるの? 元気でやってる?」
「ええ。いまは城下のお店に薬草を届けに行ってくれてるの。薬師の方に調合や煎じ方を教わってるそうだから、帰りは少し遅くなるかもしれないわ」
「ジュリアンは薬師になるつもりなのかしら」
「どうかしら? だってジュリアンはなんでもできるんですもの」
 レナの声にはうれしさがにじんでいた。
「ところでマチス兄さんはどう? 元気でやってる?」
「そうね。このあいだは食堂で賭け事してたわ」
「もうっ……兄さんったらあいかわらずなんだから」
 レナがめずらしくあきれ声になった。
 パオラはくすりと笑い、お茶を飲む。
「マチスが戻ってきて、なんだか騎士館の雰囲気が明るくなったきがするわ」
 マチスがリュートを奏でて歌い、レントがうんざりしつつも笑っている様子を見ていると、同盟軍にいたころを思いだした。
「そういえば」
レナが杯をおく。
「ミネルバさまはお元気?」
「……ええ」
 パオラはあいまいに答える。
「ミネルバさまはこちらよくいらっしゃるの?」
「以前は定期的にお見えになっていたけれど、ここしばらくはいらしてないわ」
「最後にいらっしゃったのはいつ?」
「そうね……庭にリラの花が咲きはじめたころだったから、四の月の半ばかしら」
「そう……」
 夏の庭にはクチナシの花の香りがただよっている。
 四月の半ばといえば、ユスタス・メスト公が宮廷に上がったころだ。その後、アカネイアの使節団が派遣され、一気に王城の空気が殺伐としたものへと変わった。もとよりミネルバ王女個人に忠誠を誓う天馬騎士団は平和なものだが、旧勢力の多くが留めおかれた騎兵部隊の空気はひりついている。ちょっとした口論から暴力沙汰となり、若い騎士が懲罰房に入れられたという話はパオラの耳にも入っていた。
「わたしには政治向きの話はわからないけれど」
 レナは顔をしかめた。
「かなりお忙しいのでしょうね。以前来られたときもあわただしく帰ってしまわれたもの。フロスト司祭もおっしゃってたわ。礼拝に来られることも少なくなられたって」
 パオラはあいづちを打つこともできなかった。
「ご無理をされているんじゃないかしら。お城ではどんなご様子?」
「……もうずっとお会いしてないの」
 レナの目がみひらかれた。
 いたたまれなくなり、パオラは顔をうつむけた。
「お忙しい方だから……ご側近の方々と込みいったお話もあると思うから、おいそれとお部屋を訪ねていくこともできなくて……。でも、こんなのあたりまえよね。いままでとは、なにもかもが違うもの」
 胸のうちを言葉にしていくにつれ、みじめさが増した。当然のことなのだ。かつては戦時という特殊な状況ゆえにそばにはべることが許されていた。しかしいまはオズモンド王にも仕えていた宮廷の重鎮たちがミネルバを支えている。彼らは王家に連なる貴族で、近い血縁の者も多い。ミネルバにとってもっとも信頼のおける者たちだ。なによりアカネイアとの関係改善に神経を尖らせている状況で、一介の騎士にすぎない自分になにができるというのか。
 レナはしばらく無言だったが、急に立ち上がり、戸棚のほうへ向かった。戻ってきたとき、その手には亜麻布の小袋があった。
「こちらをミネルバさまに差しあげて」
「これは?」
「さっきのお茶よ。心を落ちつける効能があるの。いくらお忙しくても、休息をとることは必要だわ。そうでしょう?」
 親友の気遣いに、パオラは泣きたい気分だった。
「ありがとう、レナ」

        ⁂

 レナから口実を与えられたパオラは、修道院から戻るとすぐに主宮へ向かった。主宮に足を踏み入れること自体久しぶりのことだった。セルジョから聞いていたとおり、衛兵の数は少なく、以前来たときよりも閑散とした印象を受けた。
 東翼の中庭にさしかかったところ、回廊の奥からユスタス・メストが歩いてきた。
 パオラに気づき、近寄ってくる。
「殿下に御用かな? いまは大使の補佐官と接見中でいらっしゃるが」
「……そうでしたか」
 小袋を持つ手がわずかにふるえた。そんなかんたんに会えるはずがなかった。
「急ぎの用事ではありませんので、失礼いたします」
 身をかえそうとすると、待ちなさい、と声がかかった。
「少し話があるのだが、よいか」
 パオラの返事を待つことなくユスタスは歩きはじめた。少し距離をとってパオラはあとを追いかける。
 パオラは戦前からミネルバに仕えていたが、ユスタスとはほとんど会話らしい会話をしたことはなかった、宰相をはじめ王の重臣たちは方針の違いから下級貴族としばしば激しく口論となっていて、子供の目には恐ろしく映った。王の側近の中でひときわ若く、ミネルバにやさしく接するユスタスにはまだ親しみを感じられたが、あのころとはずいぶん面変わりし、まとう空気も変わった。
 通路の奥の階段をのぼり、すぐ近くの部屋に入った。いまは使われていない部屋のようで、調度にはすべて白い布がかけられていた。
 ユスタスは窓辺に立ち、カーテンを開けた。一気に光が射しこみ、パオラはまぶしさに目をすがめた。
 話があるとユスタスは言ったが、しばし沈黙がつづいた。
 居心地が悪く、視線をさまよわせていると、ユスタスが半身をふりむけた。
「パオラ」
 眼鏡越しに栗色の目が光る。
「きみは殿下に王となってほしいかな?」
 唐突な問いだった。
「……それは、どういう意味でしょうか」
「すでに耳に入っているだろうが、殿下は王位の継承を拒まれている。まあ、もう少し国内が落ちついてからでよいと周囲の者も思っているし、そう急ぐことでもない。アリティアの王子もまだ即位されていないことであるしな。だが困ったことに、あの方はこれから先もお考えを変えられることはないだろう」
 強情な方ゆえ、とユスタスはあきれ笑いをもらす。
「きみから説得してもらえないか」
「なぜ、わたしに?」
「きみはとても殿下から信頼されていたと聞いている。そんなきみからの進言なら、聞き入れてくださるのではないかと思ってな。それとも、主の意思に反することはできかねるかな?」
 パオラは返答に窮した。ユスタスの物言いは相手を嘲弄するような響きがあり、さらには有無を言わさぬ強引さがある。
 この調子では二人が口論となるのも無理はないと思えた。
 黙っていると、ユスタスは ように言った。
「一度聞いてみたかったのだが、きみにとって殿下はどのような主なのだ?」
「どう、とは?」
「殿下の家臣は、やたらとあの方を神のように崇めている者が多いように感じたのでね。きみもそうか?」
「もちろん、わたしもミネルバさまを尊敬しております」
 ユスタスは嘲笑した。
 思わず反問する。
「メスト公は違うのですか」
「そうだな、わたしはあの方を赤ん坊のころから見てきた。母親とよく似て、賢くうつくしいが、かたくなで、ひたむきなお人だ。むろん敬ってはいるが、神のように崇めることはない。わたしはきみたちとは違い、〈赤い竜騎士〉と呼ばれるあの方を知らぬ。七年という時の流れはあまりに長かった」
 突として、ユスタスの目が悲しげに細められた。
「わたしが牢のなかでおのれの不幸を嘆き、怒り、失意の底にあったとき、あの方はどのように過ごしてこられたのかと思いをはせることがある。……あの日、陛下とわたしの父、そしてヴェーリ伯にプラージ伯。あの方を庇護できる者はすべて死んだ。守り役のカゾーニ伯はミシェイル王子を選んだ。セルジョ・アゴストにアシル・ベンソン、ロドリゴ・ムラク、わがメスト家の縁戚は宮廷での力など無きにひとしかったはず。いったい、誰があの方を支えていたのだ?」
 ようやくユスタスの言わんとしていたことがわかった。
 パオラは幼いころからミネルバに仕えていた。天馬騎士となったのも、祖国のためである以上に、ミネルバ個人の役に立ちたいと強く願ったからだ。
 騎士として役立てたとは思う。信頼を得ている自負はある。でなければ、反乱計画をともに遂行することはなかっただろう。
 だが、主を支えることはできたのか、そう考えたとき急に胸がすっと冷えていく感覚に襲われた。
 パオラの動揺を感じとってか、ユスタスは重ねて言った。
「きみの目から見て、あの方は誰を頼りとされていた? それとも、そんな者は一人もいなかったか」
 じっとユスタスの目がそそがれている。その冷酷な瞳を受けとめることができず、パオラは目をそらした。
 たしかに王女には味方はいた。その手腕と求心力を頼りにし、反乱の旗頭となることを期待する者たちが。
 彼らは祖国をドルーアから解放すべく王女のもとに集った。しかし、ミネルバ自身がその核となるべき存在だった。王女に庇護を与えられる存在など誰一人としていなかっただろう。
「ところで」
 ユスタスがさらに迫る。
「きみははじめからオズモンド陛下の死にまつわる陰謀を知っていたのか」
 パオラは首をふる。
「……オズモンド陛下のことは、わたしも長らく知らなかったのです。もちろん不敬な噂は流れておりましたが、ミネルバさまはミシェイルさまと変わりなく接しておられました。もちろん、言い争われていることもありましたが、いろいろと方針が異なるためだと思っておりました。マリアさまが人質に遣られていることだって、ほとんどの者は知らなかったのです。ただ、危険から遠ざけるために修道院へ入られたのだと……。わたしが真実を知るにいたったのは四年ほどたってからです」
「きみから問いただしたのか? それとも殿下から?」
「わたしから、お聞きしました」
「なにかきっかけがあったのか?」
「……あるとき、ミシェイルさまが陛下を殺めたとの噂が宮廷に広まったからです。そのときに」
 六〇二年のことだった。パレス陥落を祝う宴の席で、ミシェイルを凶刃が襲った。下手人は宮廷の重鎮だった老公だった。捕らえられた老公は、ミシェイルを〈父殺し〉と罵り、それに激高したミシェイルによってその場で手打ちにされた。それまでにも不敬な噂はしばしばささやかれていたが、パオラの周囲では信じぬ者のほうが多かった。
 だが、あの一件により流れが変わった。
 パオラは事の真相をミネルバに尋ねた。否定を求めての問いかけだったが、ミネルバはそれこそが真実だと告げた。そして自分は初めからすべて知っていた、と。
 信じてきたものが崩れていくように感じた。アカネイアの刺客が王を殺めたのでないのなら、なんのためにアカネイアと戦争をしているのか。
 なぜもっと早く教えてくださらなかったのかと、パオラは思わず口にしてしまった。ミネルバはなにも言わなかった。後になって思えば、兄が父を手にかけたという事実を受けとめきれずにいたのだとわかる。
 なにより、すべてを自分の胸に秘めておくほかなかったのだろう。ミネルバにとって宮廷の中枢にいる者はみな敵だった。王女付きの近衛も女官もみな冷徹な監視者だった。誰も信用できず、頼ることもできなかったのだ。
 黙りこんでいると、ユスタスが静かに言った。
「もしわたしが投獄されずにいれば、あの方を支え、導くことができた。そしてもっと早くに戦争を終わらせることができた。軽挙により敵の手に落ちたこと、わが人生最大の過ちだ」
 それは深い自責の言葉だったが、パオラには責められているように感じられた。
 いたたまれず目をふせると、かわいた笑いが響いた。
「……と言いたいところだが、あの局面を切り抜けることができず投獄されたことがわたしの器だ。わたしにできたことといえば、獄中でわたしを陥穽に落とした者たちをみじめたらしく恨むことぐらいだった。きみたちには感謝こそすれ、責める資格などありはしないな」
 目元に刻まれたしわは深く、ひどく疲れているように見えた。
「殿下はお強い方だ。民のため、国のため、自分を犠牲にするのも厭われない。だが、どれほどの信念があられたとて、あの方にミシェイル王子を討つことなどできるはずがなかったのだ……」
 パオラは王城が落ちたときのことを思い出していた。
 血に濡れた銀槍とアイオテの盾を手にしたミネルバ王女が玉座の間に立ったとき、パオラは戦慄をおぼえた。返り血を浴びた姿は、パオラが幼いころから知る主のものではなかった。せめて兄王を討った悲しみに打ちひしがれていたのなら、その心に寄り添うこともできただろう。しかし臣下を睥睨するミネルバの目には、情愛のかけらもなく、この世のすべてを憎悪しているかのような昏さを秘めていていた。結局、一言も言葉をかけることもできす、その後、一度たりともミシェイルの名を口にすることはできなかった。
 ミネルバ王女はその後も孤高の存在でありつづけた。軍を率いてドルーアと戦い、戦後は罪を犯した将兵を淡々と断罪していった。占領軍が撤収してのちは、少し肩の荷が下りたのか、時折笑みも見られるようになった。
 それでも、あのときの血にまみれた王女の姿が脳裏を離れなかった。どうあっても埋めようのない隔たりを感じていた。
 けれど、とパオラは思う。
 あの目に宿るものが憎悪でも怒りでもなく、絶望と悲しみであったとしたら?
 ずっとその悲しみに耐え忍んでいたとしたなら?
 立ちつくすパオラに、ユスタスは言った。
「殿下は人に弱さをさらすことを恥と思っておられる。タマーラがそんなふうに教育したとは思えんから、もともとの気質か。まったく……母親に似て厳格で、可愛げもない御仁だが……」
 パオラの横を通り抜け、やさしくほほえむ。
「たまには部屋に押しかけて、話し相手になってさしあげてくれ」
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