第二部
宵の刻。王女と大使の定例の会食が主宮西翼の貴賓室で行われている。純白の布がかけられた長卓に、紅色のドレスをまとったミネルバはトルイユと向かい合った。
柔和な微笑を交わし、白ワインの杯を優雅にかたむける。
当初ミネルバは、大使の接待は弁務官シモンに対するものと同等である必要はないとと考えていた。しかしユスタスはかつての様式を踏襲するよう主張した。ミネルバは渋ったが、アカネイアにへりくだるのではなく、成熟した文化を見せる場とすべきと説いた。
マケドニアは、アカネイア地方から移住した開拓民とドルーア帝国の奴隷によって成り立った国である。そのため、建国時において国独自の文化と呼べるようなものはなかった。アカネイアの全面援助のもと、急速に国家体制が整えられていくなか、あらゆる文化がアカネイア風に染まっていった。これはアカネイアの役人たちが赴任地で心地よく過ごすためであったが、マケドニア側としても、蛮人の国と宗主国に侮られぬようアカネイア風を積極的に取り入れてきた。
結果として、宮廷料理はアカネイア宮廷のものとくらべても遜色ないと評されるほどに洗練され、不遜の極みであったシモンですら目と舌を楽しませる晩餐に文句をつけることはなかった。
それはトルイユも同様のようで、手のこんだ料理への賛辞はいつも欠かさない。運ばれてきた鴨料理を前に屈託のない笑みをうかべる。
「わたしの好物を覚えていてくださったのですね」
とろけるようにやわらかい鴨肉をナイフで切り、ソースをからめて口へ運ぶ。
「戦前、パレスで開かれた晩餐会を思い出します」
給仕の者たちには、王女と大使はなごやかに会食を楽しんでいるように見えるのかもしれない。だが二人のあいだに雑談などというものはない。天候の話ですら、なんらかの駆け引きと牽制がこめられている。
「――ところで」
唇についたソースを布巾でぬぐい、トルイユは顔を上げた。
「ユスタス・メスト公とはいつ婚礼を挙げられるのですか」
突如変わった話題に、ミネルバは少々面食らい、言葉につまった。
「……いったいどのような噂を耳にされたのかは存じませんが、そのような予定はありません」
「ですが、ユスタス・メスト公はあなたの婚約者だったのでは?」
「いえ、かつて候補の一人ではあったようですが、そもそもわたしに特定の相手がいたわけではありませんので」
「そうでしたか。だとしても、亡き宰相どのはあなたとご子息の婚姻を望んでおられたでしょうに」
「かもしれませんが、父は望んでいなかったように記憶しています」
「親子ほど年が離れているからですか」
「それよりも、血縁関係を問題にされたのでしょう」
「たしか母君の従弟でしたね。気にされるほど近いとは思いませんが」
「血の濃さの問題ではないのですよ。父の代、宮廷の要職をメスト家に連なる者たちが席巻していたことで閨閥政治と揶揄され、不平を抱く者も多かった。その状況で宰相の嫡子と王女の婚姻となれば、宮廷にさらなる不和の種を撒くこととなる。父はそれを懸念されていたようです」
「不和とは、王太子廃位の件ですね」
トルイユは明るい調子でつづけた。
「当時、反国王派の貴族が、ご病気のオズモンド王を早々に退位させ、ミシェイル王子の即位を画策していたとか。たしかにその状況でユスタスどのとの婚約となれば、宰相があなたを次期国王とする算段ではないかと王太子派に疑念を抱かせることになったでしょう」
「まさしく、そのような根も葉もない噂が流れることを父はよしとしなかったのです」
ミネルバは軽くあしらい、キュウリの冷製スープに口に運んだ。
重苦しい話題が続くなかでは、どれほど手のこんだ料理であっても食は進まない。主菜の鴨料理にはまだ手をつけてもいない。
ナイフを手にしようとしたとき、急に手から力が抜けた。ナイフを取り落とし、銀器が高い音を立てる。ミネルバは平静を装いつつ、トルイユの様子をうかがった。距離があるためか、粗相はトルイユの目にはとまらなかったようだ。
「それにしましても、父親にとって娘というものはかくも特別な存在なのでしょうか」
トルイユはいきなり話題を戻した。
「わたしに娘はおりませんのでわかりかねますが、王女の婚姻などそう先延ばしにできることではないのですから、お早く決められた方が四方丸く収まったでしょうに」
「そうかもしれませんね」
「実は、アカネイアもマケドニアと似た状況にあったのですよ。先のギョーム陛下はお子がニーナさまおひとりしかおられぬというのに、あらたに妃を娶ることなく、かといってニーナさまの伴侶選びにも消極的でいらした。次期アカネイア王を夢見る貴族たちが足の引っ張り合いを起こしていた時点で、わが国の敗北は決まっていたのかもしれません」
トルイユは白ワインの杯を一口飲む。
「六〇一年にあなたが陥落させたレフカンディ、軍略の天才と謳われたあなたにすれば、ずいぶんと手ごたえのない要塞だったでしょう?」
「レフカンディ侯が軍を動かさなかったと聞いています。なんでも世継ぎ争いがあったとか。……くわしくは存じませんが」
「あれは表向き、わたしの父と伯父の侯位争いとされていますが、実際のところはアカネイア王位の継承権争いだったのですよ。ことの発端は、伯父がギョーム陛下にニーナさまとの婚姻を申しこんだことにありました。伯父の母が陛下の妹君ですので、当時において継承順位は第二位。そこでかなり強気で迫ったようなのですが、陛下は伯父の無礼に怒り、レフカンディ侯を剥奪し、わたしの父へ与えると言い出しました。その抗議として、伯父は兵を出さなかったのです」
「……国が滅ぶやもしれぬというときに、王位争いもないでしょうに」
「まことごもっとも。伯父は勝利の暁にニーナさまを娶り、王となる道筋しか見えておりませんでした。ギョーム陛下も、戦が終わるまでは適当に餌をちらつかせて伯父を手なずけておられればよかったのに、王位も継げぬ娘かわいさに破滅の道を選んだのです。……これは失礼」
トルイユはわざとらしく笑った。
「マケドニアはわが国と違って、女王を禁ずる法はありませんでしたね」
「禁ずる法はありませんが、前例もありません」
「前例はあなたがお作りになればいい。ハーディン陛下はあなたの王位継承に反対なさることはありませんよ。あなたはご聡明で、でいらっしゃる。陛下は盟友のお力になりたいとお考えです」
「そのお心づくしには感謝のしようもありませんが、民の理解を得たいので慎重にことを進めたいと考えています。幸い、王の座が空位でもさほど影響はありませんから」
「たしかに、王位簒奪者が王であっても国はそれなりに回っておりましたね」
以前ミネルバが兄による父王殺害は否定したにもかかわらず、トルイユは依然としてミシェイルを王位簒奪者として扱うつもりのようだった。そして、すきあらば前体制批判に水を向けようとしてくる。
「民が求めるものは日々の暮らしの安寧ですから」
ミネルバは強いて口元に微笑をうかべる。
「その意味では、女王でもさしたる混乱はないのかもしれません」
「民はそうでしょうが、貴族たちはどうでしょう?」
トルイユはふくんだ物言いをする。
「われらは貴国の王位継承にまでくちばしをはさむつもりはございません。ですが、あなたが王女であるゆえに、貴族のあいだでいさかいが起こるのではないかとの懸念はいだいております」
「そのような懸念を与えていること、不徳のいたすかぎり。なにぶん、わが国は尚武の国ゆえ、女になど王はつとまらぬと思われておりますし――」
「いえいえ、そういうお話ではありませんよ」
トルイユはこらえきれぬというように口を手でおおった。
「マケドニア貴族は、もとをたどればアイオテとともにドルーアと戦った者の子孫たちなのでしょう? そしていま、有力貴族と呼ばれる一門はなんらかの形で国祖アイオテの血を受け継いでいる。つまり、彼らはあなたを手に入れれば王位に就ける」
もったいぶるように一呼吸おき、そして言った、
「メストにプラージ、ヴェーリにアゴスト、そしてリュッケ。あなたはこのいずれから伴侶を選ばれるおつもりで?」
「……いましがた、王位継承には容喙せぬと口にされたばかりでは?」
「お相手に口をはさむつもりはありません。ですが、なにぶんこういったことは国が荒れるもとですので、大使として無関心というわけにもいかぬのですよ。申しあげましたでしょう、わが国もおなじであったと。当初、ニーナさまの夫候補は五大侯の一族の中から選ばれるはずだったのですよ。ですが、オレルアンから王を迎えるにいたったことで不平を口にする者も見られましたので。特にメニディ侯などは」
「ジョルジュどのが?」
「ええ、皇帝と名のったことについてもニーナさまを蔑ろにしていると不満をあらわにされているとのことですが、侯の本心はどこにあられるのやら」
下卑た物言いには反応せず、ミネルバはワインを口に運んだ。
「このようなことを申しあげては、またあなたを不快にさせてしまうやもしれませんが」
トルイユは肩をすくめる。
「ご結婚の噂が立つほどに、ユスタス・メスト公をそばに置いておられるのは、濡れ衣で七年も投獄されたことへの償いのおつもりですか」
「わたしにそのつもりはありませんが、ユスタスはそう思っているかもしれません」
「では、リカルド・リュッケどのを重用されているのは、なにか理由があってのことですか」
「重用もなにも、適した人材を適した地位に配置しているだけのこと」
「しかしリュッケ一族といえば、第二代イルテアス王の暗殺に関与したとされる一族でしょう? 時の宰相オーレフ・リュッケの手によって毒を盛られ、イルテアス王はお亡くなりになり、以来リュッケの嫡流は冷遇され、まともな役職に就くこともできなかったと聞きおよんでおります。いかにあなたが人事に苦慮されているとはいえ、忌まわしい出自の者を重用されては、臣下のあいだに不和を招くのではありませんか」
「……今度は人事に口をはさまれるおつもりですか」
「わたしは皇帝陛下より全権を委任され、貴国にやってまいりました。両国の橋渡し役として、貴国の内情を知っておく必要があると思いますし、内紛の種は芽吹く前にとりのぞくこともまたわたしの使命。それをあなたにご理解いただきたいのです」
内紛。その言葉をトルイユ伯はことさらに強調して言った。
ミネルバは杯をおき、トルイユをまっすぐに見すえる。
「わが国の政情不安を貴国が憂いておられるのはもっともなこと。わたしの力不足ゆえ、まことお恥ずかしいかぎり。ですが、トルイユ伯。リュッケ一族の件については、貴殿をわずらわせるほどのことではありません。わたしの母もまたオーレフ・リュッケ宰相の孫。父と母の婚姻が交わされたとき、リュッケ一族の疑いは晴らされたものと認識しています」
「お言葉ですが、当人はそう思われてはいないのでは?」
「なにをおっしゃりたいのです?」
「わたしの目に、リュッケ将軍は鬱屈を抱えているように見えますね。〈王殺しの孫〉として生まれたゆえに、先の戦争では爪弾きにされ、武功を挙げることもかなわなかった。中枢勢力と距離をおいたことが幸いし、戦後はあなたに重用されるにいたったものの、いつ切り捨てられるのかと気が気でないのでは? とりわけユスタスどのの存在に焦燥を抱いておるようにお見受けするのですが」
「……ずいぶんと穿った見方をされるものです」
「ミネルバ王女、あなたは聡明でいらっしゃいますが、どうも人の欲というものをおわかりになっていない。とりわけ、男の野心というものを」
ミネルバは眉をよせると、トルイユは皮肉っぽく笑った。
「主君の寵を得んとする臣下もまた内紛の種となりうること、どうぞお含みおきください」
「ええ。心にとめておきましょう」
ミネルバはつとめて冷静に言葉をかえしたが、その後トルイユと交わした雑談には上の空となっていた。
⁂
息のつまる会食を終え、ミネルバが部屋に戻ると、女官長タマーラが一礼し、いたわるようにほほえみかけてきた。
「いかがでございましたか」
「……いささか疲れました」
ミネルバは金と緑玉の髪飾りをはずし、鏡台においた。
「ちゃんとお食事はお召し上がりになりましたか」
「スープと前菜を少し」
「それだけでございますか」
「食べることが目的の席ではありませんから」
ミネルバは椅子に座り、鏡台にもたれかかった。
トルイユとの会食の後はいつものことであるが、胃のあたりが重くなり、タマーラと口を利くのも億劫になる。おのれの言葉ひとつで国の行く末が左右されると思えば、食事を楽しむ余裕はもてなかった。
現状、宮廷におけるトルイユ伯の評判はけっして悪いものではない。この二か月、トルイユは宮廷貴族たちに慇懃かつ鷹揚に接し、随員たちも居丈高なふるまいは見せない。かつてとは違うと多くの者が思っているようだが、ミネルバにしてみればトルイユ伯はシモン・ネイヤールと大差ないように思っていた。
もっとも、トルイユ伯はシモンのように王をひざまずかせ、アカネイアの権威を盾に服従を迫るようなことはないため、あの程度のゆさぶりを巧くあしらえない自分に失望してもいた。
そしてリュッケのことが気にかかっていた。
リュッケが出自に負い目を感じていたのは知っていたが、ミネルバの目に、リュッケは職務に忠実で、あまり出世に関心がない人間として映っていた。
なぜそう思ったのか。
自問しても確たる根拠は出てこない。あるとすれば、彼が多くのマケドニア騎士を救った人物であるからであろうか。
ミネルバがリュッケを騎士団長に任じたのは、たしかに単純にその能力を評価したわけではなかった。アカネイアとの関係上、ドルーア中枢勢力と近しい軍人の登用はできないという事情があった。さりとて直臣の中からの任命も、軍内の不和を招きかねないと躊躇した。結果リュッケを選んだわけだが、けっしてアカネイア貴族の血を引くことを重要視したわけではなかった。〈王殺しの孫〉の件にいたっては忘れていたといってもよい。
そもそも、かの事件にはなんら証拠はなく、イルテアス王とオーレフ宰相の自決は殉死とも言われていた。リュッケ家が なのも、どちらかと言えばオーレフ宰相の件よりも、二代にわたりアカネイア貴族との婚姻を交わしたことが問題視されていた。
だが、もしトルイユが言うようにリュッケが七十年も昔の事件をいまも気に病んでいるとして、そんな彼にとって騎士団長という地位はどれほどの価値があったのだろう。
人の欲。男の野心。
彼は、なにを渇望しているのだろうか。
「軽いお食事をご用意させましょうか」
思案にふけるミネルバに、見かねたようにタマーラが声をかけてきた。
ミネルバは首をふり、部屋着のガウンをまとう。ぐったりと鏡台にもたれかかったまま目を閉じた。ドレスを衣裳部屋に運ぶ衣ずれの音が聞こえていたが、突如、鈍い音が背後から響いた。
ふりかえると、タマーラがドレスを抱えたまま座りこんでいた。あわてて駆けよる。
「どうしたのです!」
「……ただの立ちくらみですわ」
タマーラは立ちあがり、歩き出そうとする。
「なにをしているのです、早く横になって」
ミネルバはタマーラの身体を支え、ゆっくりと歩を進めた。
タマーラは遠慮がちに寝台に身を横たえた。あらためて顔をのぞきこむと、その細面の顔貌は蒼白となっていた。部屋に戻ったときすでにタマーラの体調は悪かったはずだが、気を取られていて気づかなかった。
「そのままでいなさい。起きあがってはいけませんよ。すぐに医師を呼びます」
「必要ありませんわ」
「なにを言って――」
「お水を、いただければ……」
ミネルバはあたりを見わたし、小卓の上の水差しに目をとめた。手早く杯に水をそそぎ、急いで持っていこうとしたところ、急に手から力が抜けた。すべり落ちた杯が卓にいきおいよくぶつかり、大きな音を立てる。
水晶の杯は割れなかったが、卓から流れ落ちた水があたりに飛び散っている。
ミネルバはもう一度、水をそそぎ、まっすぐにタマーラのもとへ急いだ。杯を口元へもっていくと、冷たい指がそっとミネルバの右手にふれる。
「お手、やはり治っておられませんのね」
確信をもったタマーラの問いに、ミネルバは目をおよがせる。
「……あなたが倒れるから、動揺してしまっただけです」
「姫さまはお小さいころから嘘をつくときはななめ下をごらんになりますね」
やさしげに細められた目元に落ちたくま、きっちりと結い上げた髪の一筋に老いが見られた。
やつれた横顔を見下ろし、ミネルバは唇を噛む。
「あなたはしばらく養生してください。わたしはひとりでもなんとかなります」
「そんなことをおっしゃって。トルイユ伯との会食も頻繁にございますのよ?」
「以前から考えていましたが、大使との会食など軍服のままでよいのです。ユスタスがそうせよと申すからそうしていただけであって、わたしは不要と思っています」
「ユスタスさまのおっしゃるとおりになさるべきですわ。オズモンド陛下はいつも最礼装で臨んでいらっしゃいましたもの」
「いまは父の時代とは違います。歓待の宴であれば礼を尽くす必要もありますが、たかが会食のたびに華美な演出は必要ありません」
「おっしゃることはわかりますわ。大使の随員らに割く予算にも頭を悩ませておいでなのでしょう?」
「そのようなこと、あなたが気にすることではありません」
ミネルバはやや強い口調でさえぎった。
「なにがあるかわからないのですから、ドレスを着て、帯剣もせずにいることは好ましくないと思ったまでです」
「それならば、なぜ近衛を編成されないのです?」
「必要な人員を、しかるべき場所に配置しているだけです」
「姫さまはご自分を軽んじすぎておられますわ」
「そんなことはありません」
タマーラはミネルバの手をかたくにぎり、諭すように言う。
「姫さまが側仕えの者をおくことを好まれぬのは存じております。女官も近衛も、姫さまの身辺を探ろうとする者ばかりでしたもの。わたくしの力およばず、姫さまにはお辛い思いをさせてしまいました。ですがもうそんな心配はされずともよろしいのですから」
なおも渋るミネルバに、有無を言わせぬたおやかな笑みをむけた。
「信頼のおける者ならばよいのでしょう? 口の堅くて、誠実な娘を急ぎ探しておきますわ」
柔和な微笑を交わし、白ワインの杯を優雅にかたむける。
当初ミネルバは、大使の接待は弁務官シモンに対するものと同等である必要はないとと考えていた。しかしユスタスはかつての様式を踏襲するよう主張した。ミネルバは渋ったが、アカネイアにへりくだるのではなく、成熟した文化を見せる場とすべきと説いた。
マケドニアは、アカネイア地方から移住した開拓民とドルーア帝国の奴隷によって成り立った国である。そのため、建国時において国独自の文化と呼べるようなものはなかった。アカネイアの全面援助のもと、急速に国家体制が整えられていくなか、あらゆる文化がアカネイア風に染まっていった。これはアカネイアの役人たちが赴任地で心地よく過ごすためであったが、マケドニア側としても、蛮人の国と宗主国に侮られぬようアカネイア風を積極的に取り入れてきた。
結果として、宮廷料理はアカネイア宮廷のものとくらべても遜色ないと評されるほどに洗練され、不遜の極みであったシモンですら目と舌を楽しませる晩餐に文句をつけることはなかった。
それはトルイユも同様のようで、手のこんだ料理への賛辞はいつも欠かさない。運ばれてきた鴨料理を前に屈託のない笑みをうかべる。
「わたしの好物を覚えていてくださったのですね」
とろけるようにやわらかい鴨肉をナイフで切り、ソースをからめて口へ運ぶ。
「戦前、パレスで開かれた晩餐会を思い出します」
給仕の者たちには、王女と大使はなごやかに会食を楽しんでいるように見えるのかもしれない。だが二人のあいだに雑談などというものはない。天候の話ですら、なんらかの駆け引きと牽制がこめられている。
「――ところで」
唇についたソースを布巾でぬぐい、トルイユは顔を上げた。
「ユスタス・メスト公とはいつ婚礼を挙げられるのですか」
突如変わった話題に、ミネルバは少々面食らい、言葉につまった。
「……いったいどのような噂を耳にされたのかは存じませんが、そのような予定はありません」
「ですが、ユスタス・メスト公はあなたの婚約者だったのでは?」
「いえ、かつて候補の一人ではあったようですが、そもそもわたしに特定の相手がいたわけではありませんので」
「そうでしたか。だとしても、亡き宰相どのはあなたとご子息の婚姻を望んでおられたでしょうに」
「かもしれませんが、父は望んでいなかったように記憶しています」
「親子ほど年が離れているからですか」
「それよりも、血縁関係を問題にされたのでしょう」
「たしか母君の従弟でしたね。気にされるほど近いとは思いませんが」
「血の濃さの問題ではないのですよ。父の代、宮廷の要職をメスト家に連なる者たちが席巻していたことで閨閥政治と揶揄され、不平を抱く者も多かった。その状況で宰相の嫡子と王女の婚姻となれば、宮廷にさらなる不和の種を撒くこととなる。父はそれを懸念されていたようです」
「不和とは、王太子廃位の件ですね」
トルイユは明るい調子でつづけた。
「当時、反国王派の貴族が、ご病気のオズモンド王を早々に退位させ、ミシェイル王子の即位を画策していたとか。たしかにその状況でユスタスどのとの婚約となれば、宰相があなたを次期国王とする算段ではないかと王太子派に疑念を抱かせることになったでしょう」
「まさしく、そのような根も葉もない噂が流れることを父はよしとしなかったのです」
ミネルバは軽くあしらい、キュウリの冷製スープに口に運んだ。
重苦しい話題が続くなかでは、どれほど手のこんだ料理であっても食は進まない。主菜の鴨料理にはまだ手をつけてもいない。
ナイフを手にしようとしたとき、急に手から力が抜けた。ナイフを取り落とし、銀器が高い音を立てる。ミネルバは平静を装いつつ、トルイユの様子をうかがった。距離があるためか、粗相はトルイユの目にはとまらなかったようだ。
「それにしましても、父親にとって娘というものはかくも特別な存在なのでしょうか」
トルイユはいきなり話題を戻した。
「わたしに娘はおりませんのでわかりかねますが、王女の婚姻などそう先延ばしにできることではないのですから、お早く決められた方が四方丸く収まったでしょうに」
「そうかもしれませんね」
「実は、アカネイアもマケドニアと似た状況にあったのですよ。先のギョーム陛下はお子がニーナさまおひとりしかおられぬというのに、あらたに妃を娶ることなく、かといってニーナさまの伴侶選びにも消極的でいらした。次期アカネイア王を夢見る貴族たちが足の引っ張り合いを起こしていた時点で、わが国の敗北は決まっていたのかもしれません」
トルイユは白ワインの杯を一口飲む。
「六〇一年にあなたが陥落させたレフカンディ、軍略の天才と謳われたあなたにすれば、ずいぶんと手ごたえのない要塞だったでしょう?」
「レフカンディ侯が軍を動かさなかったと聞いています。なんでも世継ぎ争いがあったとか。……くわしくは存じませんが」
「あれは表向き、わたしの父と伯父の侯位争いとされていますが、実際のところはアカネイア王位の継承権争いだったのですよ。ことの発端は、伯父がギョーム陛下にニーナさまとの婚姻を申しこんだことにありました。伯父の母が陛下の妹君ですので、当時において継承順位は第二位。そこでかなり強気で迫ったようなのですが、陛下は伯父の無礼に怒り、レフカンディ侯を剥奪し、わたしの父へ与えると言い出しました。その抗議として、伯父は兵を出さなかったのです」
「……国が滅ぶやもしれぬというときに、王位争いもないでしょうに」
「まことごもっとも。伯父は勝利の暁にニーナさまを娶り、王となる道筋しか見えておりませんでした。ギョーム陛下も、戦が終わるまでは適当に餌をちらつかせて伯父を手なずけておられればよかったのに、王位も継げぬ娘かわいさに破滅の道を選んだのです。……これは失礼」
トルイユはわざとらしく笑った。
「マケドニアはわが国と違って、女王を禁ずる法はありませんでしたね」
「禁ずる法はありませんが、前例もありません」
「前例はあなたがお作りになればいい。ハーディン陛下はあなたの王位継承に反対なさることはありませんよ。あなたはご聡明で、でいらっしゃる。陛下は盟友のお力になりたいとお考えです」
「そのお心づくしには感謝のしようもありませんが、民の理解を得たいので慎重にことを進めたいと考えています。幸い、王の座が空位でもさほど影響はありませんから」
「たしかに、王位簒奪者が王であっても国はそれなりに回っておりましたね」
以前ミネルバが兄による父王殺害は否定したにもかかわらず、トルイユは依然としてミシェイルを王位簒奪者として扱うつもりのようだった。そして、すきあらば前体制批判に水を向けようとしてくる。
「民が求めるものは日々の暮らしの安寧ですから」
ミネルバは強いて口元に微笑をうかべる。
「その意味では、女王でもさしたる混乱はないのかもしれません」
「民はそうでしょうが、貴族たちはどうでしょう?」
トルイユはふくんだ物言いをする。
「われらは貴国の王位継承にまでくちばしをはさむつもりはございません。ですが、あなたが王女であるゆえに、貴族のあいだでいさかいが起こるのではないかとの懸念はいだいております」
「そのような懸念を与えていること、不徳のいたすかぎり。なにぶん、わが国は尚武の国ゆえ、女になど王はつとまらぬと思われておりますし――」
「いえいえ、そういうお話ではありませんよ」
トルイユはこらえきれぬというように口を手でおおった。
「マケドニア貴族は、もとをたどればアイオテとともにドルーアと戦った者の子孫たちなのでしょう? そしていま、有力貴族と呼ばれる一門はなんらかの形で国祖アイオテの血を受け継いでいる。つまり、彼らはあなたを手に入れれば王位に就ける」
もったいぶるように一呼吸おき、そして言った、
「メストにプラージ、ヴェーリにアゴスト、そしてリュッケ。あなたはこのいずれから伴侶を選ばれるおつもりで?」
「……いましがた、王位継承には容喙せぬと口にされたばかりでは?」
「お相手に口をはさむつもりはありません。ですが、なにぶんこういったことは国が荒れるもとですので、大使として無関心というわけにもいかぬのですよ。申しあげましたでしょう、わが国もおなじであったと。当初、ニーナさまの夫候補は五大侯の一族の中から選ばれるはずだったのですよ。ですが、オレルアンから王を迎えるにいたったことで不平を口にする者も見られましたので。特にメニディ侯などは」
「ジョルジュどのが?」
「ええ、皇帝と名のったことについてもニーナさまを蔑ろにしていると不満をあらわにされているとのことですが、侯の本心はどこにあられるのやら」
下卑た物言いには反応せず、ミネルバはワインを口に運んだ。
「このようなことを申しあげては、またあなたを不快にさせてしまうやもしれませんが」
トルイユは肩をすくめる。
「ご結婚の噂が立つほどに、ユスタス・メスト公をそばに置いておられるのは、濡れ衣で七年も投獄されたことへの償いのおつもりですか」
「わたしにそのつもりはありませんが、ユスタスはそう思っているかもしれません」
「では、リカルド・リュッケどのを重用されているのは、なにか理由があってのことですか」
「重用もなにも、適した人材を適した地位に配置しているだけのこと」
「しかしリュッケ一族といえば、第二代イルテアス王の暗殺に関与したとされる一族でしょう? 時の宰相オーレフ・リュッケの手によって毒を盛られ、イルテアス王はお亡くなりになり、以来リュッケの嫡流は冷遇され、まともな役職に就くこともできなかったと聞きおよんでおります。いかにあなたが人事に苦慮されているとはいえ、忌まわしい出自の者を重用されては、臣下のあいだに不和を招くのではありませんか」
「……今度は人事に口をはさまれるおつもりですか」
「わたしは皇帝陛下より全権を委任され、貴国にやってまいりました。両国の橋渡し役として、貴国の内情を知っておく必要があると思いますし、内紛の種は芽吹く前にとりのぞくこともまたわたしの使命。それをあなたにご理解いただきたいのです」
内紛。その言葉をトルイユ伯はことさらに強調して言った。
ミネルバは杯をおき、トルイユをまっすぐに見すえる。
「わが国の政情不安を貴国が憂いておられるのはもっともなこと。わたしの力不足ゆえ、まことお恥ずかしいかぎり。ですが、トルイユ伯。リュッケ一族の件については、貴殿をわずらわせるほどのことではありません。わたしの母もまたオーレフ・リュッケ宰相の孫。父と母の婚姻が交わされたとき、リュッケ一族の疑いは晴らされたものと認識しています」
「お言葉ですが、当人はそう思われてはいないのでは?」
「なにをおっしゃりたいのです?」
「わたしの目に、リュッケ将軍は鬱屈を抱えているように見えますね。〈王殺しの孫〉として生まれたゆえに、先の戦争では爪弾きにされ、武功を挙げることもかなわなかった。中枢勢力と距離をおいたことが幸いし、戦後はあなたに重用されるにいたったものの、いつ切り捨てられるのかと気が気でないのでは? とりわけユスタスどのの存在に焦燥を抱いておるようにお見受けするのですが」
「……ずいぶんと穿った見方をされるものです」
「ミネルバ王女、あなたは聡明でいらっしゃいますが、どうも人の欲というものをおわかりになっていない。とりわけ、男の野心というものを」
ミネルバは眉をよせると、トルイユは皮肉っぽく笑った。
「主君の寵を得んとする臣下もまた内紛の種となりうること、どうぞお含みおきください」
「ええ。心にとめておきましょう」
ミネルバはつとめて冷静に言葉をかえしたが、その後トルイユと交わした雑談には上の空となっていた。
⁂
息のつまる会食を終え、ミネルバが部屋に戻ると、女官長タマーラが一礼し、いたわるようにほほえみかけてきた。
「いかがでございましたか」
「……いささか疲れました」
ミネルバは金と緑玉の髪飾りをはずし、鏡台においた。
「ちゃんとお食事はお召し上がりになりましたか」
「スープと前菜を少し」
「それだけでございますか」
「食べることが目的の席ではありませんから」
ミネルバは椅子に座り、鏡台にもたれかかった。
トルイユとの会食の後はいつものことであるが、胃のあたりが重くなり、タマーラと口を利くのも億劫になる。おのれの言葉ひとつで国の行く末が左右されると思えば、食事を楽しむ余裕はもてなかった。
現状、宮廷におけるトルイユ伯の評判はけっして悪いものではない。この二か月、トルイユは宮廷貴族たちに慇懃かつ鷹揚に接し、随員たちも居丈高なふるまいは見せない。かつてとは違うと多くの者が思っているようだが、ミネルバにしてみればトルイユ伯はシモン・ネイヤールと大差ないように思っていた。
もっとも、トルイユ伯はシモンのように王をひざまずかせ、アカネイアの権威を盾に服従を迫るようなことはないため、あの程度のゆさぶりを巧くあしらえない自分に失望してもいた。
そしてリュッケのことが気にかかっていた。
リュッケが出自に負い目を感じていたのは知っていたが、ミネルバの目に、リュッケは職務に忠実で、あまり出世に関心がない人間として映っていた。
なぜそう思ったのか。
自問しても確たる根拠は出てこない。あるとすれば、彼が多くのマケドニア騎士を救った人物であるからであろうか。
ミネルバがリュッケを騎士団長に任じたのは、たしかに単純にその能力を評価したわけではなかった。アカネイアとの関係上、ドルーア中枢勢力と近しい軍人の登用はできないという事情があった。さりとて直臣の中からの任命も、軍内の不和を招きかねないと躊躇した。結果リュッケを選んだわけだが、けっしてアカネイア貴族の血を引くことを重要視したわけではなかった。〈王殺しの孫〉の件にいたっては忘れていたといってもよい。
そもそも、かの事件にはなんら証拠はなく、イルテアス王とオーレフ宰相の自決は殉死とも言われていた。リュッケ家が なのも、どちらかと言えばオーレフ宰相の件よりも、二代にわたりアカネイア貴族との婚姻を交わしたことが問題視されていた。
だが、もしトルイユが言うようにリュッケが七十年も昔の事件をいまも気に病んでいるとして、そんな彼にとって騎士団長という地位はどれほどの価値があったのだろう。
人の欲。男の野心。
彼は、なにを渇望しているのだろうか。
「軽いお食事をご用意させましょうか」
思案にふけるミネルバに、見かねたようにタマーラが声をかけてきた。
ミネルバは首をふり、部屋着のガウンをまとう。ぐったりと鏡台にもたれかかったまま目を閉じた。ドレスを衣裳部屋に運ぶ衣ずれの音が聞こえていたが、突如、鈍い音が背後から響いた。
ふりかえると、タマーラがドレスを抱えたまま座りこんでいた。あわてて駆けよる。
「どうしたのです!」
「……ただの立ちくらみですわ」
タマーラは立ちあがり、歩き出そうとする。
「なにをしているのです、早く横になって」
ミネルバはタマーラの身体を支え、ゆっくりと歩を進めた。
タマーラは遠慮がちに寝台に身を横たえた。あらためて顔をのぞきこむと、その細面の顔貌は蒼白となっていた。部屋に戻ったときすでにタマーラの体調は悪かったはずだが、気を取られていて気づかなかった。
「そのままでいなさい。起きあがってはいけませんよ。すぐに医師を呼びます」
「必要ありませんわ」
「なにを言って――」
「お水を、いただければ……」
ミネルバはあたりを見わたし、小卓の上の水差しに目をとめた。手早く杯に水をそそぎ、急いで持っていこうとしたところ、急に手から力が抜けた。すべり落ちた杯が卓にいきおいよくぶつかり、大きな音を立てる。
水晶の杯は割れなかったが、卓から流れ落ちた水があたりに飛び散っている。
ミネルバはもう一度、水をそそぎ、まっすぐにタマーラのもとへ急いだ。杯を口元へもっていくと、冷たい指がそっとミネルバの右手にふれる。
「お手、やはり治っておられませんのね」
確信をもったタマーラの問いに、ミネルバは目をおよがせる。
「……あなたが倒れるから、動揺してしまっただけです」
「姫さまはお小さいころから嘘をつくときはななめ下をごらんになりますね」
やさしげに細められた目元に落ちたくま、きっちりと結い上げた髪の一筋に老いが見られた。
やつれた横顔を見下ろし、ミネルバは唇を噛む。
「あなたはしばらく養生してください。わたしはひとりでもなんとかなります」
「そんなことをおっしゃって。トルイユ伯との会食も頻繁にございますのよ?」
「以前から考えていましたが、大使との会食など軍服のままでよいのです。ユスタスがそうせよと申すからそうしていただけであって、わたしは不要と思っています」
「ユスタスさまのおっしゃるとおりになさるべきですわ。オズモンド陛下はいつも最礼装で臨んでいらっしゃいましたもの」
「いまは父の時代とは違います。歓待の宴であれば礼を尽くす必要もありますが、たかが会食のたびに華美な演出は必要ありません」
「おっしゃることはわかりますわ。大使の随員らに割く予算にも頭を悩ませておいでなのでしょう?」
「そのようなこと、あなたが気にすることではありません」
ミネルバはやや強い口調でさえぎった。
「なにがあるかわからないのですから、ドレスを着て、帯剣もせずにいることは好ましくないと思ったまでです」
「それならば、なぜ近衛を編成されないのです?」
「必要な人員を、しかるべき場所に配置しているだけです」
「姫さまはご自分を軽んじすぎておられますわ」
「そんなことはありません」
タマーラはミネルバの手をかたくにぎり、諭すように言う。
「姫さまが側仕えの者をおくことを好まれぬのは存じております。女官も近衛も、姫さまの身辺を探ろうとする者ばかりでしたもの。わたくしの力およばず、姫さまにはお辛い思いをさせてしまいました。ですがもうそんな心配はされずともよろしいのですから」
なおも渋るミネルバに、有無を言わせぬたおやかな笑みをむけた。
「信頼のおける者ならばよいのでしょう? 口の堅くて、誠実な娘を急ぎ探しておきますわ」