第一部
マケドニア王城内、騎士館の一室にて、鉄騎士団の将軍リカルド・リュッケは書類の束に目を走らせていた。その大半は辺境防衛にからむ嘆願書である。
足りぬ人員を傭兵で補充できないかとの要望もあったが、戦後にミネルバ王女が洗い出した国庫の悲惨な状況を鑑みれば却下せざるをえない。軍人一筋で財政にさほど明るくないリュッケの目から見ても、その厳しさには恐ろしさを覚えるほどだった。五年以上も国力に見合わぬ戦費を支出しつづけていたツケがいま、重くのしかかってきている。
「戦に負けるとはこういうことだ」
ミネルバ王女は自嘲的にそう言った。戦場の女神、救国の英雄と称えられ、兄王を討ったことで非情な女傑とも評される王女に似つかわしくない弱さ、脆さがかいま見えたが、王女を幼いころから知るリュッケにとっては、さほど意外な姿には思われなかった。むしろ、王女が同盟軍と手を結び、ミシェイル王を討つにいたったことにいまだ信じられぬ想いがあった。
戦時中、リュッケは鉄騎士団第二部隊長の任にあったが、第二部隊は主に王都防衛を担っていたため、遠征軍として派遣されることはなかった。将軍の地位にありながら、傍観者のような立ち位置にいたためか、パレスが奪還されたころには祖国の敗北を悟っていた。
ドルーアと結託した以上、アカネイアと手を組むことはかなわず、降伏など選べるはずもなかった。皮肉なことに、アカネイアに敗れることで、マケドニアの被害は最小限に食い止められたのだ。
しかし今後はどうなるのか。
海を越えて届くアカネイアの内情は、マケドニアにとって芳しいものではない。先日、パレスに暮らす親族から受けとった手紙には、ハーディン王が軍備拡張を進めているとあった。戦争終結からまだ半年もたっていない。さすがに誇張ではないかと思われたが、ミネルバ王女はアカネイアならば可能だと断じた。声には感嘆ではなく焦燥の響きがあった。
リュッケは嘆願書に署名をし、次の書類を手にとったものの、ふと鵞ペンをおいた。
しばしの逡巡ののち、机の抽斗をあける。そこには親族からの書簡が収められているが、さらにその奥から隠すように押しこめていた一通の書簡を取りだした。
――なぜアカネイア王がこんなものを……
この十日あまり、リュッケの思考はこの書簡に支配されている。すでに冒頭をそらんじることすらできるほど何度も読みかえした。書簡をじっと見つめていると、いきなり扉がひらかれた。
無遠慮に入ってきたのは、かつて鉄騎士団の上官であったペドロ・ストラーニであった。リュッケはあわてて書簡を抽斗に押しこみ、手元の書類を引きよせる。
「いきなり何用か」
「本日、ユスタス・メストが伺候してくるそうではないか」
ストラーニはまなじりをつり上げ、まっすぐに机に向かってくる。
「なぜわしにすぐに知らせんのだ?」
「急遽決まったことだ」
「しらじらしいことだな。すでにあやつは主宮に部屋を与えられていると聞いたぞ。王女はあの男を宰相に任じるおつもりなのか」
「ユスタスは殿下へのごあいさつに出向いてくるだけのことだ。ようやく伺候できるほどに体調が回復したのだという」
「あの死にぞこないが」
ストラーニは舌打ちをした。
「あのまま地下牢で朽ち果てておればよいものを、忌々しい! あの小娘だけでもやっかいだというのに」
「そう興奮されるな」
リュッケはうんざりとため息をついた。
「ほんとうにまだなにも決まってはいない。殿下のご意向はわたしにもわからぬ」
「でくの棒め」
ストラーニは吐き捨てた。降格されたというのにまだ将軍のつもりでいるのか、はたまたかつての部下を軽んじるゆえか、横柄な態度を崩さない。
机に身をのりだし、低くしゃがれた声で凄んでくる。
「おまえの役割を忘れるなよ。なんのために、われらがおまえを見逃してやっているのかをな」
忘れてはおらぬ、リュッケがそう答えようとしたとき、扉が高らかに叩かれた。
「――リュッケ将軍、失礼いたします」
入室してきたのは、直属の部下であるレント・プラージだった。会話の内容までは聞こえていないだろうが、ストラーニのがなり立てる声が廊下にまで盛れていたのだろう。口元をきりりと引き締め、前に進み出てきた。
「申しあげます。たったいま、ユスタス・メスト公が到着されました。お約束の刻限より少々早いのですが、主宮東翼の応接室にてお待ちいただいております」
「そうか。ご苦労であったな。殿下ももうじき視察から戻られるだろう」
リュッケが何事もなかったかのように応じると、ストラーニは苦々しげに身をかえした。レントには目もくれず、部屋を後にしていった。
扉が大きく音を立てて閉まると、レントは嫌悪をふくませて言った。
「ストラーニはずいぶんと機嫌が悪いようですね」
「まあ、あの二人の関係はけして良好と呼べるものではなかったからな」
「ストラーニと良好な仲を築ける者など稀でしょう」
レントはあきれ声で言ったが、ふと表情をかげらせる。
「先ほどユスタス卿と少し言葉を交わしました。あの方とは戦前にいくどかお会いしただけですが、ずいぶんとお変わりになっておいでで、その……驚きました」
「無理もなかろう。七年も虜囚の身であったのだ。命があっただけユスタスは幸運だった」
「幸運などと……あの方は濡れ衣で投獄されたというのに」
レントはわずかに色をなす。
「わたしの父もかの陰謀に巻きこまれ、志なかばで命を落としました。だからこそユスタス卿には父の分まで報われていただきたいと思うのです。殿下もそのおつもりで宮廷にお召しになったはず」
「さて、どうであろうな」
リュッケが苦笑をもらすと、はぐらかされたと思ってか、レントは食い下がってきた。
「立ち入ったことをお聞きしているのは承知しております。ですが、あの方にかけられた不名誉は早急に晴らされるべきです。同時に、ドルーアに荷担し、国を荒廃させた者たちには厳罰が下されるのが筋というもの――」
「レント・プラージ」
リュッケはため息まじりにさえぎった。
「そなたの気持ちはわかる。だが、いたずらに対立を煽るような言動は厳に慎むよう。それは殿下の望まれることではない」
「……申しわけございません」
レントが退室すると、リュッケは椅子の背にもたれかかった。口髭を無造作にいじる。
もとより短気でなストラーニはともかく、ふだんはいたっておだやかなレントでさえひどく興奮している。さまざまな噂が飛び交い、ある者は歓喜し、ある者は怯え、苛立ちを見せている。たかが一貴族の宮廷復帰によってもたらされる混乱を、リュッケは滑稽に思いつつ、その影響力をどこか苦々しく思っていた。
ユスタス・メスト。
オズモンド王に仕えた宰相エラルド・メストの嫡子。当年四十二。
リュッケとは同い年であり、幼いころから王城の催事で出会う機会は多かった。旧友と呼んでもさしつかえない仲ではあるが、アイオテの流れをくむ名門の出ながら宮廷で冷遇されてきたリュッケと違い、ユスタスの半生はつねに華々しいものであった。
戦前、メスト家は王家の外戚として権勢をふるい、ユスタスは父宰相とともに宮廷の中核にいた。ミネルバ王女の夫候補にも挙げられるほどだったが、オズモンド王暗殺にからむ一連の騒動のすえに投獄されるにいたった。
ほぼ一夜のうちに体制は一変し、ミシェイル王子が実権をにぎるにいたった。その過程おいて、王の側近であった有力貴族も闇に葬られた。レント・プラージの父もその一人である。
戦後に行われた軍法会議によって、民を苦しめた軍人が斬罪や追放に処された。しかしながら厳罰をまぬがれた軍人もいまだ多く残っている。ストラーニにしても将軍の地位こそ剥奪されたが軍への影響力はなおも強い。だからこそレントをはじめ王女の臣下たちはユスタス復帰を契機に、旧勢力の粛清が行われることを期待していた。
このぶんでは一波乱あるだろう。
正午を知らせる礼拝堂の鐘の音が響いた。
リュッケは手元の書類を厳重に片づけ、王女を出迎えるため主宮の東翼へと向かった。南の空に旋回する騎影をとらえ、足早に階段をのぼる。
テラスに着くと、すでに王女は飛竜より降り立っており、従者たちが駆けつけていた。ミネルバは愛竜の首をなでつつ、女官長タマーラに白い花を手わたした。
「まあ、リラの花。どうなさいましたの?」
「修道院の子からもらったのです。部屋に活けておいてください」
「かしこまりました」
タマーラが花をかかえて下がると、リュッケはミネルバに歩みより、礼をとった。
「殿下、先ほどメスト公が参上しました。応接室にてお待ちです」
「そうか。わたしはこれよりユスタスのもとへ向かう。リュッケ、そなたも同席してくれ」
「はっ」
大階段を登り、応接室へと向かう途中、リュッケは先を行くミネルバを呼びとめた。
「いかがしたのだ?」
「出すぎたことやもしれませぬが、殿下がユスタス・メストをごらんになられたとき、驚かれるやもしれません。あの者は七年も虜囚の身にあったわけですので」
「ユスタスとは書簡をいくどかやりとりした。あれがどのような状態にあるのか、ある程度はわかっているつもりだ」
ミネルバは平然と返したが、その表情にはかげりがあった。
日当たりのよい応接室の中央、長卓の脇で、黒絹の礼装に身をつつんだユスタスが直立していた。南の窓から射す午後の光を背に受けているため、やせた顔には影が落ちていた。左目の片眼鏡が光に反射して鋭くきらめく。
「そちらに掛けてくれ」
ミネルバが座るのを待って、ユスタスは長椅子にかけた。リュッケはミネルバのかたわらに立ち、二人の様子を見守った。
しばしミネルバは無言だった。無理もない。かつての貴公子然としたユスタス・メストを知る者ならば、目の前の男は直視することがはばかられる姿だろう。元は栗色だった髪のほとんどは白くなり、長身の、堂々とした体躯も憐れなほどにしなびていた。以前は実年齢よりも若々しかったが、いまではリュッケより十は老けてみえる。
ミネルバも覚悟はしていたのだろうが、ユスタスをじっとみすえる目には、隠しきれぬ動揺がにじんでいた。
「……書簡は交わしたが、われらがこうして話すのは、ほんとうにしばらくぶりだな」
「はい。殿下とお会いできる日を心待ちにしておりました」
「わたしもだ。そなたが生き抜いていてくれたこと、うれしく思う」
ミネルバからの情のこもった言葉に、ユスタスは目元にしわを刻んだ。
いまより七年前。
アカネイアと結託し、オズモンド王を暗殺したとして、時の宰相エラルド・メストが処刑された。処刑といっても、裁判にかけられることもなく、捕縛後ただちにミシェイル王子によって切り捨てられたとされており、メスト家に連なる者たちはろくに事情も知らされぬまま、領地で閉門を命じられることとなった。
一方、嫡子のユスタスはアカネイアの援軍を取りつけるべく奔走していたが、事態を受け、急遽王都に帰還した。そこで彼もまた首謀者の一人として捕らえられるにいたったのだが、どこに囚われているのか知る者はおらず、内々に処刑されたのではないかとささやかれていた。
しかしユスタスは生きていた。
ユスタスが幽閉されていたのは王都の北のはずれの僧院で、狂気に陥った者や不義密通を犯した者など、家名を汚すとみなされた貴族が幽閉されてきたいわくつきの場所だった。戦時下では反体制の貴族が多く収監されていたが、近寄る者などおらず、番兵たちも地下牢の住人が誰であるのか知らされてはいなかった。
虜囚の身から解放されたのは、六〇五年の晩秋、マケドニアが同盟軍に敗れてから数日後のことだった。同盟軍の兵士が僧院に踏みこみ、牢獄の中の貴族たちを解放した。
知らせを受け、僧院に駆けつけたリュッケは旧友の姿に言葉を失った。ユスタスは食事を差し入れられるほかは誰とも関わりをもてなかったため、いまがいつなのかもわからぬありさまだった。会話も成り立たず、気がおかしくなっているのではないかと思われたが、マケドニアがアカネイアに敗れたと告げたとき、ユスタスの目に光が戻った。そして彼は高らかに笑った。
「ところで、目の具合はどうなのだ?」
ミネルバの気づかわしげな問いに、ユスタスはほほえんだ。
「一時、左目はほとんど見えなくなっていたのですが、この数か月でだいぶ回復しました。こまかな字を読む以外ではそう困りません」
「それならばよかった」
「こうしていれば殿下のお顔もよく見えます」
ユスタスは左目の片眼鏡にふれ、深く感じ入るように言った。
「こうしてあなたさまにお会いすると、時の流れというものをまざまざと感じさせられます。最後に殿下とお会いしたのは、ドルーア前線に竜騎士団が派遣されるときでしたか。マムクートとの戦いに恐れおののく者も多かったというのに、あなたさまは勇ましく前線に向かわれていった……。この国がアカネイアに敗れたと聞いたときはなるべくしてそうなったと思いましたが、殿下が同志とともに蜂起し、ドルーアから国を解放されたと知ったとき、歓喜の涙があふれました。やはり国を正しく導けるのは、あなたをおいてほかにはおられぬのだと――」
「わたしはそのような大層な者ではない」
ミネルバはさえぎるように言った。
「そなたの父がどれほど国のために心を砕いてくれていたか、わたしは知っている。アカネイアとの親密な関わりに不服を抱く者もいたが、あの時代、なにが最善であったのかを一概に断ずることはできぬ。父を支え、民を守ろうと力を尽くされていたこと、ほんとうに感謝している」
「もったいないお言葉にございます。父もよろこびましょう」
「それなのにわたしは、その忠義に報いてやることができなかった。そなたのことも助けることができず――」
「それは致し方のないことにございましょう」
ユスタスは事もなげにつつける。
「失礼を申しあげますが、たった十四の幼い姫君になにをなせたとお思いですか」
ミネルバはいたたまれなさそうに目をふせた。
「まずは服従し、反攻の機会を待つ。あなたさまは賢明な選択をなされた。そして、雌伏の時をへて祖国解放のために立ち上がられた。あなたの元に集った騎士たちが祖国を解放した結果、わたしはいまこうしてあなたにまみえることができたのです。ご自身を責められることはなにもございません」
ユスタスは祈るように目をかたく閉じる。
「暗く、冷たく、音もない地下牢での日々は、まさに終わりのない闇。いっそ狂ってしまえれば楽になれたでしょう。しかしわたしは信じておりました。正しき者はかならず救われる、だから耐えねばならぬと日々自分に言い聞かせておりました。そしていま、わたしの希望は殿下です。あなたを助け、この国を正しく導くこと、それこそがわたしの生きる道なのだと、わかっていただきたいのです」
「……よくわかった」
ミネルバは顔をあげ、まっすぐにユスタスを見すえた。
「書簡にも記したが、近くアカネイアの大使が派遣されることとなった。船に遅れが出なければ、来月のなかばには到着する。戦前、そなたはメスト公とともにアカネイアとの折衝に当たっていただろう。その経験を活かし、わたしに力を貸してほしい」
「光栄に存じます。どうやら大使の随員のなかに父と懇意であった貴族もおるようですし、かならずや殿下のお力となれましょう」
「頼りにしている」
二人のやりとりをみつめながら、リュッケはかすかな焦燥をおぼえていた。
いま、リュッケの目の前にいるユスタスは、僧院で再会した廃人同然の男とは別人だった。
救出された直後のユスタスはまともに受け答えもできないほどだった。孤独な虜囚生活は彼から明朗な声を奪っていた。発声に異常があり、言葉をつむごうとすれば吃音がまじった。
しかしいまでは声はわずかにかすれているものの、聞き苦しさは感じられない。七年前の彼を知る者からすればすさまじい変貌であろうが、リュッケからすれば目を見張る回復ぶりであった。
若さは失われても、明晰さは損なわれてはいない。ミネルバもその姿を父宰相に重ねたのか、すぐさま話を深めていった。
「春に占領軍が撤収したのち、近いうちになんらかの形でアカネイアの役人を受け入れねばならぬことは覚悟していた。こたびの大使の派遣についてアカネイアの意図は判然とせぬが、これをもって間接支配を敷くための布石と見るは早計であろう」
「しかしながら、殿下はそうは思っておられぬのですね」
「気を許せばたやすく戦前に逆戻りしかねぬ事態である、そうわたしは憂慮している」
ドルーアとの同盟が成ってのち、ミシェイル王子は父王暗殺の主犯としてアカネイアの弁務官シモン・ネイヤールを処刑し、百を超える役人をすべて本国に送還した。そこでアカネイアとの国交は完全に断絶していたが、今後はその揺り戻しが起こるだろう。
「かつて、われらはアカネイアに憎悪をつのらせていたが、いまとなっては、われらがアカネイアから憎悪を向けられる側となった。思い違いをしている者も多いが、マケドニアはアカネイアに敗北した国なのだ。わたしに統治権が与えられたことは、けっして赦免を意味するものではない。大使の派遣を契機とし、望ましくない要求を迫られる可能性もある」
「アカネイアの報復を案じておられるなら、ひとつご提案が」
「聞こう」
「ドルーアに与した軍人の処分についてです」
やはりそうきたか。
リュッケはほくそ笑んだが、ミネルバは眉を不快そうによせた。
「そなたには伝えていなかったか? 軍法会議にて有罪となった者はすでに追放に処した」
「存じております。ですが、それでは足らぬのではないかと」
「足らぬ?」
「有罪にはならずとも、あの者たちは無実ではありません」
ユスタスの声はおだやかだったが、ミネルバをみつめる目の奥に冷たい光が宿った。
「殿下がアカネイアとともに正義の戦いに身を投じられたことで、ドルーアによって蹂躙されたこの国は平和を取り戻しました。しかし、うつくしい銀の杯に芳醇なワインがみたされていても、そこに一滴の汚水がまじろうものなら、それは杯いっぱいの汚水となります。わたしはそのわずかな一滴のためにあなたの偉業が汚されることが我慢ならぬのです」
「国家がドルーアの併合下にあった以上、ドルーアに与したこと、それのみをもって軍人らを裁くことはできぬぞ。あの者たちは命令に従っただけだ」
「おっしゃることはごもっとも。しかしながら、この国をドルーアに売り渡した者たち、すなわちオズモンド陛下と父の命を奪ったかの陰謀に荷担した者たちは別です。わたしだけでなく、多くの者が憂慮しておるのです。とりわけ、謀叛人ラディス・シェンケルがいまだ生きながらえていることに」
「ユスタス」
ミネルバは吐息まじりにさえぎった。
「かの一件、首謀者は兄とオーダインだ。シェンケルはじめ、ほかにも謀略に関与した者もいようが、真相を知る者がすでにおらぬ以上、ことの全容はもはやつかめぬ」
「殿下、ミシェイル王子はオズモンド陛下の暗殺をアカネイアの手によるものとしたのです。早急に対処せねばアカネイアに付け入る口実を与えることとなります。いえ、かの国に不信をいだかせること、それ自体が危険であると申しあげているのです」
「だから贄をささげよと?」
「寛容さと甘さをはき違えられては、オズモンド陛下とおなじ轍を進まれることとなりましょう」
ミネルバは言いかえさなかった。その顔に怒りの色はなかった。
ユスタスはうやうやしくこうべをたれる。
「申しわけございません。言葉がすぎましたこと、お許しを」
「よい。そなたの申すことはもっともだ。だが、その件についてはまた明日にでも改めて話そう」
ミネルバは笑みをうかべた。
「タマーラがそなたに会いたがっていた。今日はゆっくり休んでくれ。積もる話もあるだろう」
「タマーラがこれまでずっと女官長をつとめていたと聞き、驚きました。わが一門にゆかりある者は宮廷を追放されたものとばかり思っておりましたから」
ミネルバはそれには答えず、話をつづける。
「そなたの部屋は東翼の二階に用意してある」
「かつて父が賜っていたお部屋にございますね」
「そうだ。書斎は好きに使ってくれればいい。メスト公もそうされていた。わからぬことがあればタマーラに聞いてくれ」
ユスタスが退室してのち、ミネルバはしばらく一点をじっと見つめていた。その端正な横顔は彫像のように硬く、冷たい。
さっそくユスタスは自身と父を陥穽に落とした者たちの処分を求めてきたが、こうなることは王女も予測していたはずである。ユスタスは領地で療養しているうちから宮廷出仕を王女に打診していたが、その意欲は遺恨を糧にしたものにほかならない。
先ほどまで晴れていたというのに、にわか雨が窓を叩きはじめた。思わず外に目をやったとき、ミネルバと視線が交差した。それをきっかけに、リュッケは問うた。
「ユスタス・メストのこと、いかがなさるおつもりですか。宮廷ではすでに殿下がユスタスを宰相に任ずるおつもりだと噂されておりますが」
「その噂とやらは、ただの願望であろう。その者たちは、ユスタスの不遇を口実に、旧勢力への報復を望んでいるのだ」
的を射た指摘であった。
ドルーアの権威をふりかざす貴族に煮え湯を飲まされてきた者たちにとって、無実の罪で投獄されたユスタス・メストは、前体制の憐れな犠牲者であり、その存在をドルーア勢力排除の糸口にしたいと考えている。
「ユスタスの人脈は、アカネイアとの交渉において益となるもの。いまのマケドニアにおいて、ユスタスはもっとも必要な人材であることは間違いない。わたしはそう考えるが、そなたの意見を聞きたい」
鋭い目がリュッケに向けられる。
「あれを側におくこと、そなたは反対か」
「いえ。殿下のおっしゃるようにユスタスの手腕はわが国にとって有益なものと存じます。ただ……」
リュッケは言葉を濁した。
ストラーニら前体制下の有力貴族がリュッケに期待しているのはユスタスの宮廷復帰を阻止することであった。彼らは報復を恐れるあまり、王女をうまく誘導せよとリュッケに脅しをかけている。
しかしリュッケには彼らの願いをかなえてやる気など毛頭ない。王女の手ぬるさによって追放をまぬがれた者たちを、ユスタスが粛清してくれればよいとさえ思っていた。
だからこそユスタスの宰相就任は彼の望むところであったのが、ミネルバとのやりとりを見ているうちにその気持ちが失せていた。それは焦燥だった。
オズモンド王の覚えもめでたく、華々しい未来が約束されていた男。陰謀の果てにメスト家の権勢は潰え、若さは失ったが、ふたたび宮廷の中枢に返り咲こうとしている。それも宰相としてだ。
また、あのころとおなじ屈辱を味わうことになるのか――
「ただ、なんだ?」
焦れたように問われ、リュッケはあわててとりつくろう。
「いえ、その……わたしが懸念しておりますのは、宮廷の混乱にございます」
「たしかに、いまユスタスを宮廷の中枢にすえることは、火中に油を投じるにひとしいだろう」
リュッケが無言のままうなづくと、ミネルバは皮肉げに笑った。
「ストラーニあたりがさぞ不満をあらわにしていよう。ユスタスに力を持たせれば粛清がはじまるとでも考えているのではないか」
「まさしく、そうなっております」
「そうか」
ミネルバは疲れたように目をふせた。
「あまりあの者たちを刺激はしたくないのだが、多少の反発はねじ伏せねばならぬだろう。さりとて、無用の軋轢は望むところではない。わたしからストラーニに直接話すゆえ、近く席をもうけてくれ」
ミネルバは立ちあがり、そのまま応接室を後にしようとしていたが、ああそうだ、とリュッケに向きなおった。
「そなたに見せたいものがあったのだ。いまから部屋に来てくれ」
足りぬ人員を傭兵で補充できないかとの要望もあったが、戦後にミネルバ王女が洗い出した国庫の悲惨な状況を鑑みれば却下せざるをえない。軍人一筋で財政にさほど明るくないリュッケの目から見ても、その厳しさには恐ろしさを覚えるほどだった。五年以上も国力に見合わぬ戦費を支出しつづけていたツケがいま、重くのしかかってきている。
「戦に負けるとはこういうことだ」
ミネルバ王女は自嘲的にそう言った。戦場の女神、救国の英雄と称えられ、兄王を討ったことで非情な女傑とも評される王女に似つかわしくない弱さ、脆さがかいま見えたが、王女を幼いころから知るリュッケにとっては、さほど意外な姿には思われなかった。むしろ、王女が同盟軍と手を結び、ミシェイル王を討つにいたったことにいまだ信じられぬ想いがあった。
戦時中、リュッケは鉄騎士団第二部隊長の任にあったが、第二部隊は主に王都防衛を担っていたため、遠征軍として派遣されることはなかった。将軍の地位にありながら、傍観者のような立ち位置にいたためか、パレスが奪還されたころには祖国の敗北を悟っていた。
ドルーアと結託した以上、アカネイアと手を組むことはかなわず、降伏など選べるはずもなかった。皮肉なことに、アカネイアに敗れることで、マケドニアの被害は最小限に食い止められたのだ。
しかし今後はどうなるのか。
海を越えて届くアカネイアの内情は、マケドニアにとって芳しいものではない。先日、パレスに暮らす親族から受けとった手紙には、ハーディン王が軍備拡張を進めているとあった。戦争終結からまだ半年もたっていない。さすがに誇張ではないかと思われたが、ミネルバ王女はアカネイアならば可能だと断じた。声には感嘆ではなく焦燥の響きがあった。
リュッケは嘆願書に署名をし、次の書類を手にとったものの、ふと鵞ペンをおいた。
しばしの逡巡ののち、机の抽斗をあける。そこには親族からの書簡が収められているが、さらにその奥から隠すように押しこめていた一通の書簡を取りだした。
――なぜアカネイア王がこんなものを……
この十日あまり、リュッケの思考はこの書簡に支配されている。すでに冒頭をそらんじることすらできるほど何度も読みかえした。書簡をじっと見つめていると、いきなり扉がひらかれた。
無遠慮に入ってきたのは、かつて鉄騎士団の上官であったペドロ・ストラーニであった。リュッケはあわてて書簡を抽斗に押しこみ、手元の書類を引きよせる。
「いきなり何用か」
「本日、ユスタス・メストが伺候してくるそうではないか」
ストラーニはまなじりをつり上げ、まっすぐに机に向かってくる。
「なぜわしにすぐに知らせんのだ?」
「急遽決まったことだ」
「しらじらしいことだな。すでにあやつは主宮に部屋を与えられていると聞いたぞ。王女はあの男を宰相に任じるおつもりなのか」
「ユスタスは殿下へのごあいさつに出向いてくるだけのことだ。ようやく伺候できるほどに体調が回復したのだという」
「あの死にぞこないが」
ストラーニは舌打ちをした。
「あのまま地下牢で朽ち果てておればよいものを、忌々しい! あの小娘だけでもやっかいだというのに」
「そう興奮されるな」
リュッケはうんざりとため息をついた。
「ほんとうにまだなにも決まってはいない。殿下のご意向はわたしにもわからぬ」
「でくの棒め」
ストラーニは吐き捨てた。降格されたというのにまだ将軍のつもりでいるのか、はたまたかつての部下を軽んじるゆえか、横柄な態度を崩さない。
机に身をのりだし、低くしゃがれた声で凄んでくる。
「おまえの役割を忘れるなよ。なんのために、われらがおまえを見逃してやっているのかをな」
忘れてはおらぬ、リュッケがそう答えようとしたとき、扉が高らかに叩かれた。
「――リュッケ将軍、失礼いたします」
入室してきたのは、直属の部下であるレント・プラージだった。会話の内容までは聞こえていないだろうが、ストラーニのがなり立てる声が廊下にまで盛れていたのだろう。口元をきりりと引き締め、前に進み出てきた。
「申しあげます。たったいま、ユスタス・メスト公が到着されました。お約束の刻限より少々早いのですが、主宮東翼の応接室にてお待ちいただいております」
「そうか。ご苦労であったな。殿下ももうじき視察から戻られるだろう」
リュッケが何事もなかったかのように応じると、ストラーニは苦々しげに身をかえした。レントには目もくれず、部屋を後にしていった。
扉が大きく音を立てて閉まると、レントは嫌悪をふくませて言った。
「ストラーニはずいぶんと機嫌が悪いようですね」
「まあ、あの二人の関係はけして良好と呼べるものではなかったからな」
「ストラーニと良好な仲を築ける者など稀でしょう」
レントはあきれ声で言ったが、ふと表情をかげらせる。
「先ほどユスタス卿と少し言葉を交わしました。あの方とは戦前にいくどかお会いしただけですが、ずいぶんとお変わりになっておいでで、その……驚きました」
「無理もなかろう。七年も虜囚の身であったのだ。命があっただけユスタスは幸運だった」
「幸運などと……あの方は濡れ衣で投獄されたというのに」
レントはわずかに色をなす。
「わたしの父もかの陰謀に巻きこまれ、志なかばで命を落としました。だからこそユスタス卿には父の分まで報われていただきたいと思うのです。殿下もそのおつもりで宮廷にお召しになったはず」
「さて、どうであろうな」
リュッケが苦笑をもらすと、はぐらかされたと思ってか、レントは食い下がってきた。
「立ち入ったことをお聞きしているのは承知しております。ですが、あの方にかけられた不名誉は早急に晴らされるべきです。同時に、ドルーアに荷担し、国を荒廃させた者たちには厳罰が下されるのが筋というもの――」
「レント・プラージ」
リュッケはため息まじりにさえぎった。
「そなたの気持ちはわかる。だが、いたずらに対立を煽るような言動は厳に慎むよう。それは殿下の望まれることではない」
「……申しわけございません」
レントが退室すると、リュッケは椅子の背にもたれかかった。口髭を無造作にいじる。
もとより短気でなストラーニはともかく、ふだんはいたっておだやかなレントでさえひどく興奮している。さまざまな噂が飛び交い、ある者は歓喜し、ある者は怯え、苛立ちを見せている。たかが一貴族の宮廷復帰によってもたらされる混乱を、リュッケは滑稽に思いつつ、その影響力をどこか苦々しく思っていた。
ユスタス・メスト。
オズモンド王に仕えた宰相エラルド・メストの嫡子。当年四十二。
リュッケとは同い年であり、幼いころから王城の催事で出会う機会は多かった。旧友と呼んでもさしつかえない仲ではあるが、アイオテの流れをくむ名門の出ながら宮廷で冷遇されてきたリュッケと違い、ユスタスの半生はつねに華々しいものであった。
戦前、メスト家は王家の外戚として権勢をふるい、ユスタスは父宰相とともに宮廷の中核にいた。ミネルバ王女の夫候補にも挙げられるほどだったが、オズモンド王暗殺にからむ一連の騒動のすえに投獄されるにいたった。
ほぼ一夜のうちに体制は一変し、ミシェイル王子が実権をにぎるにいたった。その過程おいて、王の側近であった有力貴族も闇に葬られた。レント・プラージの父もその一人である。
戦後に行われた軍法会議によって、民を苦しめた軍人が斬罪や追放に処された。しかしながら厳罰をまぬがれた軍人もいまだ多く残っている。ストラーニにしても将軍の地位こそ剥奪されたが軍への影響力はなおも強い。だからこそレントをはじめ王女の臣下たちはユスタス復帰を契機に、旧勢力の粛清が行われることを期待していた。
このぶんでは一波乱あるだろう。
正午を知らせる礼拝堂の鐘の音が響いた。
リュッケは手元の書類を厳重に片づけ、王女を出迎えるため主宮の東翼へと向かった。南の空に旋回する騎影をとらえ、足早に階段をのぼる。
テラスに着くと、すでに王女は飛竜より降り立っており、従者たちが駆けつけていた。ミネルバは愛竜の首をなでつつ、女官長タマーラに白い花を手わたした。
「まあ、リラの花。どうなさいましたの?」
「修道院の子からもらったのです。部屋に活けておいてください」
「かしこまりました」
タマーラが花をかかえて下がると、リュッケはミネルバに歩みより、礼をとった。
「殿下、先ほどメスト公が参上しました。応接室にてお待ちです」
「そうか。わたしはこれよりユスタスのもとへ向かう。リュッケ、そなたも同席してくれ」
「はっ」
大階段を登り、応接室へと向かう途中、リュッケは先を行くミネルバを呼びとめた。
「いかがしたのだ?」
「出すぎたことやもしれませぬが、殿下がユスタス・メストをごらんになられたとき、驚かれるやもしれません。あの者は七年も虜囚の身にあったわけですので」
「ユスタスとは書簡をいくどかやりとりした。あれがどのような状態にあるのか、ある程度はわかっているつもりだ」
ミネルバは平然と返したが、その表情にはかげりがあった。
日当たりのよい応接室の中央、長卓の脇で、黒絹の礼装に身をつつんだユスタスが直立していた。南の窓から射す午後の光を背に受けているため、やせた顔には影が落ちていた。左目の片眼鏡が光に反射して鋭くきらめく。
「そちらに掛けてくれ」
ミネルバが座るのを待って、ユスタスは長椅子にかけた。リュッケはミネルバのかたわらに立ち、二人の様子を見守った。
しばしミネルバは無言だった。無理もない。かつての貴公子然としたユスタス・メストを知る者ならば、目の前の男は直視することがはばかられる姿だろう。元は栗色だった髪のほとんどは白くなり、長身の、堂々とした体躯も憐れなほどにしなびていた。以前は実年齢よりも若々しかったが、いまではリュッケより十は老けてみえる。
ミネルバも覚悟はしていたのだろうが、ユスタスをじっとみすえる目には、隠しきれぬ動揺がにじんでいた。
「……書簡は交わしたが、われらがこうして話すのは、ほんとうにしばらくぶりだな」
「はい。殿下とお会いできる日を心待ちにしておりました」
「わたしもだ。そなたが生き抜いていてくれたこと、うれしく思う」
ミネルバからの情のこもった言葉に、ユスタスは目元にしわを刻んだ。
いまより七年前。
アカネイアと結託し、オズモンド王を暗殺したとして、時の宰相エラルド・メストが処刑された。処刑といっても、裁判にかけられることもなく、捕縛後ただちにミシェイル王子によって切り捨てられたとされており、メスト家に連なる者たちはろくに事情も知らされぬまま、領地で閉門を命じられることとなった。
一方、嫡子のユスタスはアカネイアの援軍を取りつけるべく奔走していたが、事態を受け、急遽王都に帰還した。そこで彼もまた首謀者の一人として捕らえられるにいたったのだが、どこに囚われているのか知る者はおらず、内々に処刑されたのではないかとささやかれていた。
しかしユスタスは生きていた。
ユスタスが幽閉されていたのは王都の北のはずれの僧院で、狂気に陥った者や不義密通を犯した者など、家名を汚すとみなされた貴族が幽閉されてきたいわくつきの場所だった。戦時下では反体制の貴族が多く収監されていたが、近寄る者などおらず、番兵たちも地下牢の住人が誰であるのか知らされてはいなかった。
虜囚の身から解放されたのは、六〇五年の晩秋、マケドニアが同盟軍に敗れてから数日後のことだった。同盟軍の兵士が僧院に踏みこみ、牢獄の中の貴族たちを解放した。
知らせを受け、僧院に駆けつけたリュッケは旧友の姿に言葉を失った。ユスタスは食事を差し入れられるほかは誰とも関わりをもてなかったため、いまがいつなのかもわからぬありさまだった。会話も成り立たず、気がおかしくなっているのではないかと思われたが、マケドニアがアカネイアに敗れたと告げたとき、ユスタスの目に光が戻った。そして彼は高らかに笑った。
「ところで、目の具合はどうなのだ?」
ミネルバの気づかわしげな問いに、ユスタスはほほえんだ。
「一時、左目はほとんど見えなくなっていたのですが、この数か月でだいぶ回復しました。こまかな字を読む以外ではそう困りません」
「それならばよかった」
「こうしていれば殿下のお顔もよく見えます」
ユスタスは左目の片眼鏡にふれ、深く感じ入るように言った。
「こうしてあなたさまにお会いすると、時の流れというものをまざまざと感じさせられます。最後に殿下とお会いしたのは、ドルーア前線に竜騎士団が派遣されるときでしたか。マムクートとの戦いに恐れおののく者も多かったというのに、あなたさまは勇ましく前線に向かわれていった……。この国がアカネイアに敗れたと聞いたときはなるべくしてそうなったと思いましたが、殿下が同志とともに蜂起し、ドルーアから国を解放されたと知ったとき、歓喜の涙があふれました。やはり国を正しく導けるのは、あなたをおいてほかにはおられぬのだと――」
「わたしはそのような大層な者ではない」
ミネルバはさえぎるように言った。
「そなたの父がどれほど国のために心を砕いてくれていたか、わたしは知っている。アカネイアとの親密な関わりに不服を抱く者もいたが、あの時代、なにが最善であったのかを一概に断ずることはできぬ。父を支え、民を守ろうと力を尽くされていたこと、ほんとうに感謝している」
「もったいないお言葉にございます。父もよろこびましょう」
「それなのにわたしは、その忠義に報いてやることができなかった。そなたのことも助けることができず――」
「それは致し方のないことにございましょう」
ユスタスは事もなげにつつける。
「失礼を申しあげますが、たった十四の幼い姫君になにをなせたとお思いですか」
ミネルバはいたたまれなさそうに目をふせた。
「まずは服従し、反攻の機会を待つ。あなたさまは賢明な選択をなされた。そして、雌伏の時をへて祖国解放のために立ち上がられた。あなたの元に集った騎士たちが祖国を解放した結果、わたしはいまこうしてあなたにまみえることができたのです。ご自身を責められることはなにもございません」
ユスタスは祈るように目をかたく閉じる。
「暗く、冷たく、音もない地下牢での日々は、まさに終わりのない闇。いっそ狂ってしまえれば楽になれたでしょう。しかしわたしは信じておりました。正しき者はかならず救われる、だから耐えねばならぬと日々自分に言い聞かせておりました。そしていま、わたしの希望は殿下です。あなたを助け、この国を正しく導くこと、それこそがわたしの生きる道なのだと、わかっていただきたいのです」
「……よくわかった」
ミネルバは顔をあげ、まっすぐにユスタスを見すえた。
「書簡にも記したが、近くアカネイアの大使が派遣されることとなった。船に遅れが出なければ、来月のなかばには到着する。戦前、そなたはメスト公とともにアカネイアとの折衝に当たっていただろう。その経験を活かし、わたしに力を貸してほしい」
「光栄に存じます。どうやら大使の随員のなかに父と懇意であった貴族もおるようですし、かならずや殿下のお力となれましょう」
「頼りにしている」
二人のやりとりをみつめながら、リュッケはかすかな焦燥をおぼえていた。
いま、リュッケの目の前にいるユスタスは、僧院で再会した廃人同然の男とは別人だった。
救出された直後のユスタスはまともに受け答えもできないほどだった。孤独な虜囚生活は彼から明朗な声を奪っていた。発声に異常があり、言葉をつむごうとすれば吃音がまじった。
しかしいまでは声はわずかにかすれているものの、聞き苦しさは感じられない。七年前の彼を知る者からすればすさまじい変貌であろうが、リュッケからすれば目を見張る回復ぶりであった。
若さは失われても、明晰さは損なわれてはいない。ミネルバもその姿を父宰相に重ねたのか、すぐさま話を深めていった。
「春に占領軍が撤収したのち、近いうちになんらかの形でアカネイアの役人を受け入れねばならぬことは覚悟していた。こたびの大使の派遣についてアカネイアの意図は判然とせぬが、これをもって間接支配を敷くための布石と見るは早計であろう」
「しかしながら、殿下はそうは思っておられぬのですね」
「気を許せばたやすく戦前に逆戻りしかねぬ事態である、そうわたしは憂慮している」
ドルーアとの同盟が成ってのち、ミシェイル王子は父王暗殺の主犯としてアカネイアの弁務官シモン・ネイヤールを処刑し、百を超える役人をすべて本国に送還した。そこでアカネイアとの国交は完全に断絶していたが、今後はその揺り戻しが起こるだろう。
「かつて、われらはアカネイアに憎悪をつのらせていたが、いまとなっては、われらがアカネイアから憎悪を向けられる側となった。思い違いをしている者も多いが、マケドニアはアカネイアに敗北した国なのだ。わたしに統治権が与えられたことは、けっして赦免を意味するものではない。大使の派遣を契機とし、望ましくない要求を迫られる可能性もある」
「アカネイアの報復を案じておられるなら、ひとつご提案が」
「聞こう」
「ドルーアに与した軍人の処分についてです」
やはりそうきたか。
リュッケはほくそ笑んだが、ミネルバは眉を不快そうによせた。
「そなたには伝えていなかったか? 軍法会議にて有罪となった者はすでに追放に処した」
「存じております。ですが、それでは足らぬのではないかと」
「足らぬ?」
「有罪にはならずとも、あの者たちは無実ではありません」
ユスタスの声はおだやかだったが、ミネルバをみつめる目の奥に冷たい光が宿った。
「殿下がアカネイアとともに正義の戦いに身を投じられたことで、ドルーアによって蹂躙されたこの国は平和を取り戻しました。しかし、うつくしい銀の杯に芳醇なワインがみたされていても、そこに一滴の汚水がまじろうものなら、それは杯いっぱいの汚水となります。わたしはそのわずかな一滴のためにあなたの偉業が汚されることが我慢ならぬのです」
「国家がドルーアの併合下にあった以上、ドルーアに与したこと、それのみをもって軍人らを裁くことはできぬぞ。あの者たちは命令に従っただけだ」
「おっしゃることはごもっとも。しかしながら、この国をドルーアに売り渡した者たち、すなわちオズモンド陛下と父の命を奪ったかの陰謀に荷担した者たちは別です。わたしだけでなく、多くの者が憂慮しておるのです。とりわけ、謀叛人ラディス・シェンケルがいまだ生きながらえていることに」
「ユスタス」
ミネルバは吐息まじりにさえぎった。
「かの一件、首謀者は兄とオーダインだ。シェンケルはじめ、ほかにも謀略に関与した者もいようが、真相を知る者がすでにおらぬ以上、ことの全容はもはやつかめぬ」
「殿下、ミシェイル王子はオズモンド陛下の暗殺をアカネイアの手によるものとしたのです。早急に対処せねばアカネイアに付け入る口実を与えることとなります。いえ、かの国に不信をいだかせること、それ自体が危険であると申しあげているのです」
「だから贄をささげよと?」
「寛容さと甘さをはき違えられては、オズモンド陛下とおなじ轍を進まれることとなりましょう」
ミネルバは言いかえさなかった。その顔に怒りの色はなかった。
ユスタスはうやうやしくこうべをたれる。
「申しわけございません。言葉がすぎましたこと、お許しを」
「よい。そなたの申すことはもっともだ。だが、その件についてはまた明日にでも改めて話そう」
ミネルバは笑みをうかべた。
「タマーラがそなたに会いたがっていた。今日はゆっくり休んでくれ。積もる話もあるだろう」
「タマーラがこれまでずっと女官長をつとめていたと聞き、驚きました。わが一門にゆかりある者は宮廷を追放されたものとばかり思っておりましたから」
ミネルバはそれには答えず、話をつづける。
「そなたの部屋は東翼の二階に用意してある」
「かつて父が賜っていたお部屋にございますね」
「そうだ。書斎は好きに使ってくれればいい。メスト公もそうされていた。わからぬことがあればタマーラに聞いてくれ」
ユスタスが退室してのち、ミネルバはしばらく一点をじっと見つめていた。その端正な横顔は彫像のように硬く、冷たい。
さっそくユスタスは自身と父を陥穽に落とした者たちの処分を求めてきたが、こうなることは王女も予測していたはずである。ユスタスは領地で療養しているうちから宮廷出仕を王女に打診していたが、その意欲は遺恨を糧にしたものにほかならない。
先ほどまで晴れていたというのに、にわか雨が窓を叩きはじめた。思わず外に目をやったとき、ミネルバと視線が交差した。それをきっかけに、リュッケは問うた。
「ユスタス・メストのこと、いかがなさるおつもりですか。宮廷ではすでに殿下がユスタスを宰相に任ずるおつもりだと噂されておりますが」
「その噂とやらは、ただの願望であろう。その者たちは、ユスタスの不遇を口実に、旧勢力への報復を望んでいるのだ」
的を射た指摘であった。
ドルーアの権威をふりかざす貴族に煮え湯を飲まされてきた者たちにとって、無実の罪で投獄されたユスタス・メストは、前体制の憐れな犠牲者であり、その存在をドルーア勢力排除の糸口にしたいと考えている。
「ユスタスの人脈は、アカネイアとの交渉において益となるもの。いまのマケドニアにおいて、ユスタスはもっとも必要な人材であることは間違いない。わたしはそう考えるが、そなたの意見を聞きたい」
鋭い目がリュッケに向けられる。
「あれを側におくこと、そなたは反対か」
「いえ。殿下のおっしゃるようにユスタスの手腕はわが国にとって有益なものと存じます。ただ……」
リュッケは言葉を濁した。
ストラーニら前体制下の有力貴族がリュッケに期待しているのはユスタスの宮廷復帰を阻止することであった。彼らは報復を恐れるあまり、王女をうまく誘導せよとリュッケに脅しをかけている。
しかしリュッケには彼らの願いをかなえてやる気など毛頭ない。王女の手ぬるさによって追放をまぬがれた者たちを、ユスタスが粛清してくれればよいとさえ思っていた。
だからこそユスタスの宰相就任は彼の望むところであったのが、ミネルバとのやりとりを見ているうちにその気持ちが失せていた。それは焦燥だった。
オズモンド王の覚えもめでたく、華々しい未来が約束されていた男。陰謀の果てにメスト家の権勢は潰え、若さは失ったが、ふたたび宮廷の中枢に返り咲こうとしている。それも宰相としてだ。
また、あのころとおなじ屈辱を味わうことになるのか――
「ただ、なんだ?」
焦れたように問われ、リュッケはあわててとりつくろう。
「いえ、その……わたしが懸念しておりますのは、宮廷の混乱にございます」
「たしかに、いまユスタスを宮廷の中枢にすえることは、火中に油を投じるにひとしいだろう」
リュッケが無言のままうなづくと、ミネルバは皮肉げに笑った。
「ストラーニあたりがさぞ不満をあらわにしていよう。ユスタスに力を持たせれば粛清がはじまるとでも考えているのではないか」
「まさしく、そうなっております」
「そうか」
ミネルバは疲れたように目をふせた。
「あまりあの者たちを刺激はしたくないのだが、多少の反発はねじ伏せねばならぬだろう。さりとて、無用の軋轢は望むところではない。わたしからストラーニに直接話すゆえ、近く席をもうけてくれ」
ミネルバは立ちあがり、そのまま応接室を後にしようとしていたが、ああそうだ、とリュッケに向きなおった。
「そなたに見せたいものがあったのだ。いまから部屋に来てくれ」