第二部
「ミネルバさまよ!」
先を飛行するカチュアのうれしげな声に、パオラは眼下を見下ろした。
白亜のバルコニーに主君の姿があった。深紅のマントが風になびいていた。そのかたわらには、リュッケ将軍とメスト公がよりそって立っている。
王女は二人の側近と話していたが、天馬騎士の群れに気づき、ねぎらうように手をあげた。天馬騎士たちもいっせいに敬礼をする。
あの部屋は王の執務室である。いわくつきの部屋であり、長らく閉ざされていたが、アカネイアから大使が派遣される前に開放された。王女は執務室で一日の大半を過ごすと言われており、そこにはごく限られた重臣だけが出入りしている。
その部屋へ、パオラはまだ一度も足を踏み入れたことがない。
編隊の訓練を終え、騎士館へ戻る途中、レント・プラージが陽気に手をふって近づいてきた。
「やあ、お二人さん。王城にいてもなかなか会わないものだな」
「ほんと、ひさしぶりね」とカチュア。
「リュッケ将軍とはどう? うまくやってる?」とパオラが尋ねた。
「まあな。でも人遣い荒くってさ」
パオラはカチュアとともに兵舎の階段をのぼり、第一訓練場を見わたせるバルコニーに立った。今日はじっとしていても汗ばむほどに暑いが、ここにはかわいた気持ちのよい風が吹いている。
レントは手すりに体をあずける。
「エストから便りはくるのか」
「たまにね。アベルさんと二人で元気にやってるみたいよ」
カチュアは風にあおられる髪を手で押さえる。
「アベルさんは春に宮廷騎士団を辞めて、エストと二人で店をはじめたんだって」
「へえ、意外だな。アベルはマルス王子への忠義にあつかったし、聖騎士の称号までいただいていたのに」
「くわしくは聞いてないんだけど、戦争の影響で食糧や物資が不足しているでしょう? それで悪辣な商人が値をつり上げて民が困ってるからそれをなんとかしたかったみたい」
「なるほどね。軍を辞めなきゃできないことだな」
「ほかにも王都の自警団を動かしてもいるみたいよ。アリティアも郊外はひどく荒れているそうだから」
「賊も思ってもみないだろうな。自警団にアリティア宮廷騎士団とマケドニア白騎士団の精鋭がいるなんてさ」
笑い合う二人をよそに、パオラは視線を落とした。エストからの手紙を彼女はほとんど読むことができないでいた。いまの会話で手紙の内容を知ることになった。
ずっと黙ったままのパオラを見て、レントが困ったように眉を下げる。
「パオラはずいぶん寂しそうだな。エストのこと、あんなにかわいがってたんだから無理もないけど」
パオラがあわてて否定しようとすると、カチュアがあきれ声になる。
「そうなの。姉さまったらずっと元気ないのよ。ため息ばっかり」
「俺だってそうだよ。きみらはいつも三人一緒にいたからさ、一人でも欠けると変な感じがする」
「……みんな、それぞれの道を歩んでるわ」
パオラはつぶやくように言った。
「マリアさまもカダインでシスターの修業を頑張っていらっしゃるもの」
「そうだな」
「でもミネルバさまはきっと寂しがっておられるでしょうね。姉さまと一緒かしら?」
カチュアにいたずらっぽくほほえまれて、パオラはごまかすように笑った。
「そういや、きみらはいつ地方の巡回に行くんだ?」
「明後日からよ」とカチュア。
「俺たちは明日から。今回は新兵も多いからあんまり無理はできないだろうけど、西部は荒れてるからな」
「新兵といえば、レントの部下にはベンソン隊長の息子さんもおられるんでしょう?」
「ああ、これがまた父親そっくりでさ、妙に緊張するんだよな。上官としては情けないけど先が楽しみだよ」
騎士館へ向かっていくレントを見送って、さて、とカチュアは伸びをする。
「わたしたちもがんばらなきゃ、ね?」
明るく言って、くるりと身をかえす。
「祖国のために、ミネルバさまのために」
「ええ」
パオラは妹につられて微笑をうかべた。しかしすぐにその表情にかげりがおびる。
大切な妹の幸せを願わないわけではない。実ることなく枯れた恋の痛みなどささいなこと。日々を忙しくすごしていれば思い出すことはない。
いま、その胸の多くを占めるのは、主君ミネルバのことだった。
パオラは母親がミネルバ王女の乳母として雇われたことが縁で、幼いころから王城に住まうことが許されていた。十をすぎて天馬騎士の見習いとなってからは兵舎へと移ったが、正式に騎士団の一員に加えられ、王女の小姓として仕えるようになった。
マケドニアはアカネイアほど身分に厳格でないにせよ、騎士階級の出の者が王女の側仕えをつとめることに難色をしめす者もいた。乳母の娘だから、ではなく、騎士として認められるようにと懸命にはげんだ。
戦時中はともに同盟軍に加わったこともあり、近衛としての役目を担ったが、戦後、天馬騎士団長に任じられてからは王女のそばに侍ることはなくなった。
いまパオラに求められているのは、先の戦争で多大な損失を被った天馬騎士団の再編である。
ミネルバが同盟軍に加わったさい、天馬騎士団はその大半が軍を脱走し、主君のもとにはせ参じた。しかし、昨年のマケドニアでの戦いでは本国に残った仲間たちを討たざるをえなかった。天馬騎士は竜騎士団のための前衛として使われ、降伏も許されず、無残に撃ち落とされていった。
パオラの部下たちも戦場に散った。少女のころからともに研鑽し、おなじ夢をいだいた仲間たちを永遠に失った。運よく生きながらえた者たちであっても胸に負った傷は深く、戦後に除隊した者も多くいた。パオラは彼女たちを引き留めることはしなかった。
戦後、パオラは天馬騎士団の長となった。ミネルバ王女はみずからが手塩にかけて育て上げた騎士団の再編を望んでいる。大任をまかされたことは信頼の証であり、よろこぶべきことである。ただ、新兵の教育と地方巡回に奮闘する日々を送っていることで、主と直接言葉をかわす機会はなくなった。
今日ひさしぶりに主君の姿を見た。あざやかな紅い髪とマントのたなびくさまは遠目にもうつくしく、威厳をたたえるその姿は見る者を勇気づける風格があった。
そして思い知った。主には宰相を筆頭に政務を支える者たちがいることを。
だからいまは自分のなすべきことをせねばなるまい。明日から地方巡回がはじまる。気を引き締めなければ――
ふりきるように、パオラはしゃんと顏をあげた。
⁂
「いまよ!」
パオラの掛け声とともに、部下の天馬騎士たちが一気に降下した。膂力に劣る乙女たちは勢いをつけて、屈強な盗賊めがけて攻撃を仕掛けた。盗賊の手から諸刃の剣がはじけ飛ぶ。
地方巡回に出てから三日目のこと。天馬騎士団第一部隊がマケドニア東部ローニャの集落を通りかかったところ、いままさに集落を荒そうとしていた盗賊団を上空から視認した。
わずか五騎の盗賊団だった。しかしまともな武器をもたぬ農民を惨殺するには十分な数である。
一騎たりとも逃すわけにはいかない。
天馬騎士たちはミネルバ王女のもと、鍛え上げられ、戦火をくぐり抜けてきた精鋭である。この国でその実力を知らぬ者はいない。しかし盗賊たちは迫りくる天馬騎士の群れにも怯まなかった。
彼らも必死なのだ。
三騎が討ちとられ。不利を悟ってか、二騎が離脱した。彼らは集落の西の森へと入った。追おうとした部下をパオラは制した、天馬で森のなかへ入るのはかえって危険だ。高度が保てず、翼を傷つけかねない。
パオラは鬱蒼と茂る森を上空から見おろした。茂る木々のすきまから、わずかに逃げ去る賊の騎影が見える。一騎は北へ、もう一騎は西へと向かっている。
「あなたたちは森の西側へ!」
部下に指示し、パオラ自身は森の北へと向かった。上空は向かい風で、なかなか賊に追いつかない。愛馬を叱咤し、懸命に風を切る。
やっとのことで先回りしたパオラは、森から飛び出してきた賊に手槍を投げた。
背に穂先を受けた男は、落馬して荒れた山道を転がった。
かつては賊に身を落とさざるをえなかった者のたちへの憐れみもいだいていた。戦争が起こらなければ彼らにもまっとうに生きる道はあったのだろう、と。
しかしもう迷いはない。
天馬から降り立ったパオラは手槍を拾いあげ、荒れた地面の上でうめく男の息の根をすばやく止めた。
すでにこと切れた賊の顔をのぞきこむと、自分たちとそう年も変わらない若者だった。乗り手を失った馬が悲しげにいなないていた。
「ほんにありがたいことじゃて」
村長が足を引きずってパオラの前へと出てきた。村落の中央には続々と村人たちが集まってきている。
「みなさまがおられんかったら、わしらはどうなっておりましたことか」
「間に合ってよかったです」
そう応じるパオラの顔に笑みはない。間に合ったのは偶然にすぎない。いまこうしているあいだにもどこかの村が襲われているかもしれないのだ。
「近く、この一帯に警護兵が派遣されます。万全ではないでしょうが、ひとまずはご安心を」
「姫さまには感謝しております。わしらはもう見捨てられたもんだとばかり思うておりました」
村長は白く濁った目を閉じ、かぼそい声で語る。
「王さまにご領主さま、偉いお人には偉いお考えがあるんでしょうが、そんなもんは、わしらにはとんとわからんのです。多くの若いもんが兵にとられて、田畑はろくに耕せず、どんどん暮らしが貧しゅうなって、挙句の果てには賊の襲撃に毎日怯えんといかんようになっただけです。よかったことといえば、前のご領主がおらんようになったことぐらいですかなあ」
ローニャ一帯の領主は、騎士でありながら民を守ることを忘れた強欲な男だった。年貢を滞納した者を激しく折檻し、それでも払おうとしなければ娘を租税代わりに奪った。自分たちは祖国ためにアカネイアと戦っているのだと威張り散らした。力なき民には抗うすべもなく、戦後まで領主の横暴に耐えるしかなかった。
ローニャの領主は昨年の戦いで同盟軍の捕虜となった。軍法会議にかけられ追放に処されたが、ローニャと似たような悲劇は各地で起こっていた。
「戦争が終わって、わしらもなんとか暮らせるようにはなっております。ならず者さえなんとかしていただけましたら、昔のように――」
「戦争が終わったって、なんにも変わりゃしないよ」
背後から金切り声が上がった。パオラがふりかえると、農婦が前掛けをにぎりしめていた。
「……もうあの子たちは帰ってこないんだからさ」
息子を失ったのだろう。これまで耐えつづけて、やりきれない想いが一気にあふれ出したようだった。
あたりに群がる村人のなかに若者の姿は見られなかった。都市部へ出稼ぎに行ったのか、兵にとられて戦死したのか、そのどちらであれ、二十戸ほどしかない小村の半分ほどの民が農作業も困難なほど衰えた老人だった。みな疲れはてた顔をしていた。
村長が農婦をなぐさめるように言った。
「もうじき刈り入れじゃ」
金色に実った畑を、ほとんど見えぬ目で見わたす。
「今年の小麦はよう実った。来年はもっとようなろう。姫さまが救ってくださる。それがわしらの希望じゃ」
三日間の東部巡回を終え、パオラ率いる天馬騎士団は王都へ帰還した。パオラはすぐに報告書を作成し終え、騎士館にむかった。この報告書はミネルバ王女の手に渡る。そして指示書が返ってくる。それがここしばらくの主君とのやりとりのすべてだ。
リュッケ将軍は不在であったため、補佐の者に報告書をあずけた。部屋を出たところ、セルジョ・アゴストと居合わせた。
「将軍はおられぬのか」
「はい、主宮においでのようです」
では、とパオラが立ち去ろうとしたところ、セルジョに引き止められた。思いつめた顔をしていた。
「少しよろしいか」
パオラが応じると、セルジョは通路を抜けた先にあるテラスへといざなった。セルジョは同盟軍に加わった仲間であり、気安い仲ではあるが、レントと同様に戦後は疎遠になっていた。
ふりかえったセルジョは、ほがらかに話を切り出してきた。
「先ほど訓練場からあなた方が帰還する様子を見ていた。天馬騎士たちが空を舞う姿は壮観だ。ありしを日を思い出す」
「あのころよりずいぶん数は減ってしまいましたが、幸いなことに志願者が後を絶ちません。みな、祖国のため、早くミネルバさまをお支えしたいと言っております」
「そうか、先が楽しみなことだ」
セルジョは明るく言ったが、これが本題であるはずがない。
「なにかあったのですか」
パオラが切り出すと、セルジョは神妙な顔つきになる。
「ご存じやもしれぬが、現状、殿下には専属の護衛がついておらぬのだ」
「ひとりも、ですか」
「ああ。主宮には最低限の衛兵しか配備されておらず、さすがにこのままでよいとは思えぬ」
「どうしてそんなことに?」
「簡単に言えば、人手不足のせいだ」
セルジョはため息をつく。
「もちろん殿下がおひとりでおられることは稀だ。一日のほとんどの時間をリュッケ将軍かメスト公とおられる。だが、それはあまり好ましくはないと思うのだ。執務室や書斎におられるときはまだよいのだが、私室に臣下を招かれることは……やはり姫君であられることだし、おもしろおかしく噂する者もいる」
セルジョは言葉をにごしたが、パオラも主君を揶揄するような噂をいくつも耳にしたことはあった。
「殿下は豪胆な方だ。下世話な噂などなんとも思っておられぬのだろうが、戦後体制に不満を持つ者たちのはけ口となるのはやっかいだ。この国は、アカネイアの統治下におかれてもおかしくなかったのだ。それをなんとか殿下のご尽力で独立が許されたというのに、現状に納得せぬ者はいる。今後、この国がアカネイアに対し隷属的な立場におかれることとなれば、殿下に対しよからぬ考えをいだく者も出てくるやもしれぬ、だというのに、殿下はご自身の警護よりも大使の安全に気を遣っておられる。そのためにリュッケ将軍直属の騎士がアカネイア公館に配備されておるのだが、その半分でよいからご自分のことを考えていただきたいのだが……」
「つまり、われらで近衛を組織せよと?」
「警備のことだけではないのだ。殿下はユスタスどのとはけっして仲がお悪いわけではないのだが、考え方の違いから言い争われていることも多い。息のつまる日々をお過ごしだから、相当まいっておられるようにお見受けする。あなたがそばにおられれば、お心やすくなられるのではないかと思うのだが」
「……そうであればよいのですが」
パオラはごまかすように笑った。
ミネルバはまだ次期王位継承権者という立場にあるが、実質的には君主と言ってさしつかえない。守り役であったカゾーニ伯を筆頭に、オズモンド王の時代からの宮廷の重鎮たちが脇を固めているため、おいそれと部屋を訪ねていくこともできなくなった。
セルジョにしても名門アゴスト家の当主であり、パオラとはまったく立場が違う。もう二か月近く主と直接言葉を交わしていないと知れば、どう思うのだろうか。
沈むパオラを特に意に介すことなくセルジョはつづける。
「殿下は表には出されぬが、こたびの大使派遣についてはかなり神経質になっておいでだ。言葉の一つ一つにも非常に苦慮されておられるのがわかる」
「トルイユ伯はどういった方なのです? あかるく鷹揚な貴公子と聞いていますが」
「わたしが関わるかぎりでは良い方だと思う。だが、それは表向きのものだろう。殿下の警戒のなさりようを見ていればわかる。ユスタスどのがおられてよかった。われらではあの方をお支えできぬ」
パオラにはセルジョの深い苦悩が感じられた。
セルジョは同盟が結ばれる前からドルーア前線でミネルバとともにマムクートと戦った将軍である。
ドルーアとの同盟後、縁戚であるメスト家の凋落とともにセルジョは厳しい立場に置かれていた。竜騎士団第三部隊の長でありながら、中枢からはじき出され、危険な任務へつかされることも多かった。
ミネルバが反旗をひるがえしたのち、パレスでの戦いが始まるまでのあいだに誰よりも早くはせ参じた。誰もが認める忠臣であるが、その忠義と誠実さはアカネイア大使相手では役立てることができない。
「セルジョ」
回廊から声がかかった。そこには黒い礼装をまとった白髪の男がいた。
「ユスタスどの」
セルジョは身をかえす。
「どうされたのだ?」
「公館の帰りに立ち寄ったのだが、リカルドはおらんのか」
「いまは主宮におられるようだ」
「そうか、ではおまえも来てくれ」
ユスタスが近づいてくると、パオラはこうべをたれた。
いぶかしむような視線がパオラにそそがれる。
「そなたは……?」
「パオラどのだ、覚えておられぬか」
セルジョにうながされ、パオラは顔を上げてほほえむ。
「おひさしぶりでございます、メスト公。パオラ・フォルティでございます」
「おお、たしか姫の乳母だったネリーナの?」
「はい。母のことをお記憶いただきありがとうございます。メスト公がご無事でいらしたこと、うれしく思います」
「ほんとうに殿下といい、きみといい……」
ユスタスは目元にしわを刻んだ。酷薄な空気がかき消える。
「驚いてしまうな。わたしの記憶にあるきみはまだほんの子供だったというのに」
「あのころはようやく騎士団への入団が認められたころでした」
「妹たちも息災か」
「はい。ふたりとも天馬騎士となりました」
「なつかしいことだ。またあらためて、殿下と茶でも飲みながら昔話に花を咲かせたいものだ」
片手を軽く上げ、ユスタスは身をかえした。セルジョもその後につづく。回廊を抜け、主宮へ向かう二人から、パオラはそっと目をそらした。
先を飛行するカチュアのうれしげな声に、パオラは眼下を見下ろした。
白亜のバルコニーに主君の姿があった。深紅のマントが風になびいていた。そのかたわらには、リュッケ将軍とメスト公がよりそって立っている。
王女は二人の側近と話していたが、天馬騎士の群れに気づき、ねぎらうように手をあげた。天馬騎士たちもいっせいに敬礼をする。
あの部屋は王の執務室である。いわくつきの部屋であり、長らく閉ざされていたが、アカネイアから大使が派遣される前に開放された。王女は執務室で一日の大半を過ごすと言われており、そこにはごく限られた重臣だけが出入りしている。
その部屋へ、パオラはまだ一度も足を踏み入れたことがない。
編隊の訓練を終え、騎士館へ戻る途中、レント・プラージが陽気に手をふって近づいてきた。
「やあ、お二人さん。王城にいてもなかなか会わないものだな」
「ほんと、ひさしぶりね」とカチュア。
「リュッケ将軍とはどう? うまくやってる?」とパオラが尋ねた。
「まあな。でも人遣い荒くってさ」
パオラはカチュアとともに兵舎の階段をのぼり、第一訓練場を見わたせるバルコニーに立った。今日はじっとしていても汗ばむほどに暑いが、ここにはかわいた気持ちのよい風が吹いている。
レントは手すりに体をあずける。
「エストから便りはくるのか」
「たまにね。アベルさんと二人で元気にやってるみたいよ」
カチュアは風にあおられる髪を手で押さえる。
「アベルさんは春に宮廷騎士団を辞めて、エストと二人で店をはじめたんだって」
「へえ、意外だな。アベルはマルス王子への忠義にあつかったし、聖騎士の称号までいただいていたのに」
「くわしくは聞いてないんだけど、戦争の影響で食糧や物資が不足しているでしょう? それで悪辣な商人が値をつり上げて民が困ってるからそれをなんとかしたかったみたい」
「なるほどね。軍を辞めなきゃできないことだな」
「ほかにも王都の自警団を動かしてもいるみたいよ。アリティアも郊外はひどく荒れているそうだから」
「賊も思ってもみないだろうな。自警団にアリティア宮廷騎士団とマケドニア白騎士団の精鋭がいるなんてさ」
笑い合う二人をよそに、パオラは視線を落とした。エストからの手紙を彼女はほとんど読むことができないでいた。いまの会話で手紙の内容を知ることになった。
ずっと黙ったままのパオラを見て、レントが困ったように眉を下げる。
「パオラはずいぶん寂しそうだな。エストのこと、あんなにかわいがってたんだから無理もないけど」
パオラがあわてて否定しようとすると、カチュアがあきれ声になる。
「そうなの。姉さまったらずっと元気ないのよ。ため息ばっかり」
「俺だってそうだよ。きみらはいつも三人一緒にいたからさ、一人でも欠けると変な感じがする」
「……みんな、それぞれの道を歩んでるわ」
パオラはつぶやくように言った。
「マリアさまもカダインでシスターの修業を頑張っていらっしゃるもの」
「そうだな」
「でもミネルバさまはきっと寂しがっておられるでしょうね。姉さまと一緒かしら?」
カチュアにいたずらっぽくほほえまれて、パオラはごまかすように笑った。
「そういや、きみらはいつ地方の巡回に行くんだ?」
「明後日からよ」とカチュア。
「俺たちは明日から。今回は新兵も多いからあんまり無理はできないだろうけど、西部は荒れてるからな」
「新兵といえば、レントの部下にはベンソン隊長の息子さんもおられるんでしょう?」
「ああ、これがまた父親そっくりでさ、妙に緊張するんだよな。上官としては情けないけど先が楽しみだよ」
騎士館へ向かっていくレントを見送って、さて、とカチュアは伸びをする。
「わたしたちもがんばらなきゃ、ね?」
明るく言って、くるりと身をかえす。
「祖国のために、ミネルバさまのために」
「ええ」
パオラは妹につられて微笑をうかべた。しかしすぐにその表情にかげりがおびる。
大切な妹の幸せを願わないわけではない。実ることなく枯れた恋の痛みなどささいなこと。日々を忙しくすごしていれば思い出すことはない。
いま、その胸の多くを占めるのは、主君ミネルバのことだった。
パオラは母親がミネルバ王女の乳母として雇われたことが縁で、幼いころから王城に住まうことが許されていた。十をすぎて天馬騎士の見習いとなってからは兵舎へと移ったが、正式に騎士団の一員に加えられ、王女の小姓として仕えるようになった。
マケドニアはアカネイアほど身分に厳格でないにせよ、騎士階級の出の者が王女の側仕えをつとめることに難色をしめす者もいた。乳母の娘だから、ではなく、騎士として認められるようにと懸命にはげんだ。
戦時中はともに同盟軍に加わったこともあり、近衛としての役目を担ったが、戦後、天馬騎士団長に任じられてからは王女のそばに侍ることはなくなった。
いまパオラに求められているのは、先の戦争で多大な損失を被った天馬騎士団の再編である。
ミネルバが同盟軍に加わったさい、天馬騎士団はその大半が軍を脱走し、主君のもとにはせ参じた。しかし、昨年のマケドニアでの戦いでは本国に残った仲間たちを討たざるをえなかった。天馬騎士は竜騎士団のための前衛として使われ、降伏も許されず、無残に撃ち落とされていった。
パオラの部下たちも戦場に散った。少女のころからともに研鑽し、おなじ夢をいだいた仲間たちを永遠に失った。運よく生きながらえた者たちであっても胸に負った傷は深く、戦後に除隊した者も多くいた。パオラは彼女たちを引き留めることはしなかった。
戦後、パオラは天馬騎士団の長となった。ミネルバ王女はみずからが手塩にかけて育て上げた騎士団の再編を望んでいる。大任をまかされたことは信頼の証であり、よろこぶべきことである。ただ、新兵の教育と地方巡回に奮闘する日々を送っていることで、主と直接言葉をかわす機会はなくなった。
今日ひさしぶりに主君の姿を見た。あざやかな紅い髪とマントのたなびくさまは遠目にもうつくしく、威厳をたたえるその姿は見る者を勇気づける風格があった。
そして思い知った。主には宰相を筆頭に政務を支える者たちがいることを。
だからいまは自分のなすべきことをせねばなるまい。明日から地方巡回がはじまる。気を引き締めなければ――
ふりきるように、パオラはしゃんと顏をあげた。
⁂
「いまよ!」
パオラの掛け声とともに、部下の天馬騎士たちが一気に降下した。膂力に劣る乙女たちは勢いをつけて、屈強な盗賊めがけて攻撃を仕掛けた。盗賊の手から諸刃の剣がはじけ飛ぶ。
地方巡回に出てから三日目のこと。天馬騎士団第一部隊がマケドニア東部ローニャの集落を通りかかったところ、いままさに集落を荒そうとしていた盗賊団を上空から視認した。
わずか五騎の盗賊団だった。しかしまともな武器をもたぬ農民を惨殺するには十分な数である。
一騎たりとも逃すわけにはいかない。
天馬騎士たちはミネルバ王女のもと、鍛え上げられ、戦火をくぐり抜けてきた精鋭である。この国でその実力を知らぬ者はいない。しかし盗賊たちは迫りくる天馬騎士の群れにも怯まなかった。
彼らも必死なのだ。
三騎が討ちとられ。不利を悟ってか、二騎が離脱した。彼らは集落の西の森へと入った。追おうとした部下をパオラは制した、天馬で森のなかへ入るのはかえって危険だ。高度が保てず、翼を傷つけかねない。
パオラは鬱蒼と茂る森を上空から見おろした。茂る木々のすきまから、わずかに逃げ去る賊の騎影が見える。一騎は北へ、もう一騎は西へと向かっている。
「あなたたちは森の西側へ!」
部下に指示し、パオラ自身は森の北へと向かった。上空は向かい風で、なかなか賊に追いつかない。愛馬を叱咤し、懸命に風を切る。
やっとのことで先回りしたパオラは、森から飛び出してきた賊に手槍を投げた。
背に穂先を受けた男は、落馬して荒れた山道を転がった。
かつては賊に身を落とさざるをえなかった者のたちへの憐れみもいだいていた。戦争が起こらなければ彼らにもまっとうに生きる道はあったのだろう、と。
しかしもう迷いはない。
天馬から降り立ったパオラは手槍を拾いあげ、荒れた地面の上でうめく男の息の根をすばやく止めた。
すでにこと切れた賊の顔をのぞきこむと、自分たちとそう年も変わらない若者だった。乗り手を失った馬が悲しげにいなないていた。
「ほんにありがたいことじゃて」
村長が足を引きずってパオラの前へと出てきた。村落の中央には続々と村人たちが集まってきている。
「みなさまがおられんかったら、わしらはどうなっておりましたことか」
「間に合ってよかったです」
そう応じるパオラの顔に笑みはない。間に合ったのは偶然にすぎない。いまこうしているあいだにもどこかの村が襲われているかもしれないのだ。
「近く、この一帯に警護兵が派遣されます。万全ではないでしょうが、ひとまずはご安心を」
「姫さまには感謝しております。わしらはもう見捨てられたもんだとばかり思うておりました」
村長は白く濁った目を閉じ、かぼそい声で語る。
「王さまにご領主さま、偉いお人には偉いお考えがあるんでしょうが、そんなもんは、わしらにはとんとわからんのです。多くの若いもんが兵にとられて、田畑はろくに耕せず、どんどん暮らしが貧しゅうなって、挙句の果てには賊の襲撃に毎日怯えんといかんようになっただけです。よかったことといえば、前のご領主がおらんようになったことぐらいですかなあ」
ローニャ一帯の領主は、騎士でありながら民を守ることを忘れた強欲な男だった。年貢を滞納した者を激しく折檻し、それでも払おうとしなければ娘を租税代わりに奪った。自分たちは祖国ためにアカネイアと戦っているのだと威張り散らした。力なき民には抗うすべもなく、戦後まで領主の横暴に耐えるしかなかった。
ローニャの領主は昨年の戦いで同盟軍の捕虜となった。軍法会議にかけられ追放に処されたが、ローニャと似たような悲劇は各地で起こっていた。
「戦争が終わって、わしらもなんとか暮らせるようにはなっております。ならず者さえなんとかしていただけましたら、昔のように――」
「戦争が終わったって、なんにも変わりゃしないよ」
背後から金切り声が上がった。パオラがふりかえると、農婦が前掛けをにぎりしめていた。
「……もうあの子たちは帰ってこないんだからさ」
息子を失ったのだろう。これまで耐えつづけて、やりきれない想いが一気にあふれ出したようだった。
あたりに群がる村人のなかに若者の姿は見られなかった。都市部へ出稼ぎに行ったのか、兵にとられて戦死したのか、そのどちらであれ、二十戸ほどしかない小村の半分ほどの民が農作業も困難なほど衰えた老人だった。みな疲れはてた顔をしていた。
村長が農婦をなぐさめるように言った。
「もうじき刈り入れじゃ」
金色に実った畑を、ほとんど見えぬ目で見わたす。
「今年の小麦はよう実った。来年はもっとようなろう。姫さまが救ってくださる。それがわしらの希望じゃ」
三日間の東部巡回を終え、パオラ率いる天馬騎士団は王都へ帰還した。パオラはすぐに報告書を作成し終え、騎士館にむかった。この報告書はミネルバ王女の手に渡る。そして指示書が返ってくる。それがここしばらくの主君とのやりとりのすべてだ。
リュッケ将軍は不在であったため、補佐の者に報告書をあずけた。部屋を出たところ、セルジョ・アゴストと居合わせた。
「将軍はおられぬのか」
「はい、主宮においでのようです」
では、とパオラが立ち去ろうとしたところ、セルジョに引き止められた。思いつめた顔をしていた。
「少しよろしいか」
パオラが応じると、セルジョは通路を抜けた先にあるテラスへといざなった。セルジョは同盟軍に加わった仲間であり、気安い仲ではあるが、レントと同様に戦後は疎遠になっていた。
ふりかえったセルジョは、ほがらかに話を切り出してきた。
「先ほど訓練場からあなた方が帰還する様子を見ていた。天馬騎士たちが空を舞う姿は壮観だ。ありしを日を思い出す」
「あのころよりずいぶん数は減ってしまいましたが、幸いなことに志願者が後を絶ちません。みな、祖国のため、早くミネルバさまをお支えしたいと言っております」
「そうか、先が楽しみなことだ」
セルジョは明るく言ったが、これが本題であるはずがない。
「なにかあったのですか」
パオラが切り出すと、セルジョは神妙な顔つきになる。
「ご存じやもしれぬが、現状、殿下には専属の護衛がついておらぬのだ」
「ひとりも、ですか」
「ああ。主宮には最低限の衛兵しか配備されておらず、さすがにこのままでよいとは思えぬ」
「どうしてそんなことに?」
「簡単に言えば、人手不足のせいだ」
セルジョはため息をつく。
「もちろん殿下がおひとりでおられることは稀だ。一日のほとんどの時間をリュッケ将軍かメスト公とおられる。だが、それはあまり好ましくはないと思うのだ。執務室や書斎におられるときはまだよいのだが、私室に臣下を招かれることは……やはり姫君であられることだし、おもしろおかしく噂する者もいる」
セルジョは言葉をにごしたが、パオラも主君を揶揄するような噂をいくつも耳にしたことはあった。
「殿下は豪胆な方だ。下世話な噂などなんとも思っておられぬのだろうが、戦後体制に不満を持つ者たちのはけ口となるのはやっかいだ。この国は、アカネイアの統治下におかれてもおかしくなかったのだ。それをなんとか殿下のご尽力で独立が許されたというのに、現状に納得せぬ者はいる。今後、この国がアカネイアに対し隷属的な立場におかれることとなれば、殿下に対しよからぬ考えをいだく者も出てくるやもしれぬ、だというのに、殿下はご自身の警護よりも大使の安全に気を遣っておられる。そのためにリュッケ将軍直属の騎士がアカネイア公館に配備されておるのだが、その半分でよいからご自分のことを考えていただきたいのだが……」
「つまり、われらで近衛を組織せよと?」
「警備のことだけではないのだ。殿下はユスタスどのとはけっして仲がお悪いわけではないのだが、考え方の違いから言い争われていることも多い。息のつまる日々をお過ごしだから、相当まいっておられるようにお見受けする。あなたがそばにおられれば、お心やすくなられるのではないかと思うのだが」
「……そうであればよいのですが」
パオラはごまかすように笑った。
ミネルバはまだ次期王位継承権者という立場にあるが、実質的には君主と言ってさしつかえない。守り役であったカゾーニ伯を筆頭に、オズモンド王の時代からの宮廷の重鎮たちが脇を固めているため、おいそれと部屋を訪ねていくこともできなくなった。
セルジョにしても名門アゴスト家の当主であり、パオラとはまったく立場が違う。もう二か月近く主と直接言葉を交わしていないと知れば、どう思うのだろうか。
沈むパオラを特に意に介すことなくセルジョはつづける。
「殿下は表には出されぬが、こたびの大使派遣についてはかなり神経質になっておいでだ。言葉の一つ一つにも非常に苦慮されておられるのがわかる」
「トルイユ伯はどういった方なのです? あかるく鷹揚な貴公子と聞いていますが」
「わたしが関わるかぎりでは良い方だと思う。だが、それは表向きのものだろう。殿下の警戒のなさりようを見ていればわかる。ユスタスどのがおられてよかった。われらではあの方をお支えできぬ」
パオラにはセルジョの深い苦悩が感じられた。
セルジョは同盟が結ばれる前からドルーア前線でミネルバとともにマムクートと戦った将軍である。
ドルーアとの同盟後、縁戚であるメスト家の凋落とともにセルジョは厳しい立場に置かれていた。竜騎士団第三部隊の長でありながら、中枢からはじき出され、危険な任務へつかされることも多かった。
ミネルバが反旗をひるがえしたのち、パレスでの戦いが始まるまでのあいだに誰よりも早くはせ参じた。誰もが認める忠臣であるが、その忠義と誠実さはアカネイア大使相手では役立てることができない。
「セルジョ」
回廊から声がかかった。そこには黒い礼装をまとった白髪の男がいた。
「ユスタスどの」
セルジョは身をかえす。
「どうされたのだ?」
「公館の帰りに立ち寄ったのだが、リカルドはおらんのか」
「いまは主宮におられるようだ」
「そうか、ではおまえも来てくれ」
ユスタスが近づいてくると、パオラはこうべをたれた。
いぶかしむような視線がパオラにそそがれる。
「そなたは……?」
「パオラどのだ、覚えておられぬか」
セルジョにうながされ、パオラは顔を上げてほほえむ。
「おひさしぶりでございます、メスト公。パオラ・フォルティでございます」
「おお、たしか姫の乳母だったネリーナの?」
「はい。母のことをお記憶いただきありがとうございます。メスト公がご無事でいらしたこと、うれしく思います」
「ほんとうに殿下といい、きみといい……」
ユスタスは目元にしわを刻んだ。酷薄な空気がかき消える。
「驚いてしまうな。わたしの記憶にあるきみはまだほんの子供だったというのに」
「あのころはようやく騎士団への入団が認められたころでした」
「妹たちも息災か」
「はい。ふたりとも天馬騎士となりました」
「なつかしいことだ。またあらためて、殿下と茶でも飲みながら昔話に花を咲かせたいものだ」
片手を軽く上げ、ユスタスは身をかえした。セルジョもその後につづく。回廊を抜け、主宮へ向かう二人から、パオラはそっと目をそらした。