第二部

 その日の夜、リュッケは、ユスタスに突き返された書類を手直しし、執務室へと向かった。主宮の東翼は、衛兵が点在しているほかはがらんとしている。この薄暗い通路を進むとき、リュッケは否応なく八年前の夜を思い起こしてしまう。
 血の惨劇が、脳裏に焼きついている。宰相、プラージ伯、ヴェーリ伯。宮廷の中核にいた者たちが一夜にしてあっけない最期を迎えた。恐怖に胸をわしづかまれていた。しかし同時に、胸には奇妙な高揚感が沸き起こっていた。口封じのための暗殺を恐れながらも、堰が壊れ、暴れ狂う奔流がすべてを洗い流していくさまを見てみたいと思ったのだ。
 それは愚かな夢想だった。
 破壊と変革を望もうと、リュッケにはおのが手でなにかをなす力はない。オーダインやシェンケルとは違い、陰謀の渦にからめとられるのが関の山であっただろう。だが、それが自分の器なのだと認めるにはあのころの彼はまだ若すぎた。
 そしていまは、国の復興を双肩に担う王女を支えるふりをしながら、王女を陥れんとするアカネイアと通じている。背信を働いている後ろめたさ、事態を打開できぬふがいなさ、そしてユスタスへの猜忌の念を、あろうことか王女へとぶつけた。
 結局のところ、なにもできずに手をこまねいていた過去が、リュッケをさいなんでいるのだ。
「殿下」
 扉を叩き、声をかけたが、返事がない。
 窓が開け放たれており、カーテンが夜風にそよいでいた。窓に近づくと、バルコニーにたたずむ王女の後ろ姿がうかがえた。しかしすぐに声をかけるのはためらわれた。昼間の言い争いのせいで、少々顔を合わせづらい。
「あの……」
 ためらいがちに声をかけると、ミネルバは驚くこともなくふりかえった。
「いかがしたのだ?」
「お伝えしておりました書類をお持ちいたしました」
「こちらへ」
おだやかな声だった。リュッケは一瞬とまどったものの、バルコニーに向かった。
 昼間の暑さと一転してひやりとした夜風が吹いていた。
 書類を受けとったミネルバは、薄明かりのなかで一読する。
「まずはトルイユ伯に話をとおさねばならぬが、シモンのこともあるし、なかなか厳しいだろうと思う。復興の促進を理由とすれば、ドルーア中枢との関係が希薄な者の復帰は比較的容易であろう。だが、さすがに第五部隊の者はな……」
 リュッケは重々しくうなづいた。しかし竜騎士団第五部隊の者の復帰はトルイユがとりわけ強く指示してきた者たちなのだ。却下されることはないとわかっている。
「ルーメルを追放とした以上、その部下たちも同様に処すべきとの声もいまだにあるが、それは公平ではない。ルーメルは捨て駒にされたと憤っているのだろうが、こればかりはどうにもならぬ。わが国からドルーアの残滓を排除せよというのがアカネイアからの要求だったのだから」
「一筋縄ではいかぬことは理解しております」
「すまぬ。そなたを板挟みにさせているな」
「いえ、そのような――」
「昼間のこともすまなかった。そなたの申すこと、まこともっともゆえ、いらだってしまった。許せ」
「めっそうもございません。わたしこそ、言葉がすぎました」
 ミネルバは口元には笑みをうかべているものの、遠い目をして、闇に沈む中庭をみつめていた、
「……昔、父のもとへ行こうとして迷っていたとき、そなたが父のもとへ連れて行ってくれたな」
「覚えておられるのですか」
「わたしの記憶はおぼろげだが、タマーラとユスタスが折にふれてその話をする」
 リュッケの脳裏に、愛らしくも強情な幼い姫の姿がうかぶ。
「あのころわたしは、父とシモンを二人きりにさせたくなかったのだ。シモンが陰で父にひどいふるまいをしているのを知っていたから、子供ながらに父を守ろうと思って、たびたびこの部屋に忍びこもうとしていた。だが、しだいにシモンはわたしや兄の前でも頓着せず父を辱めるようになっていった。わたしたちはシモンを憎んだが、シモンへの憎悪はわたしより兄のほうがはるかに強かっただろう。兄はシモンを通してアカネイアを見ていた。そして父の姿を、おのれの行く末だと思っていた。だから、兄がドルーアに与してまでアカネイアを滅ぼそうとしたことも、シモンを惨殺したことも、本音のところでは責める気になれぬのだ」
 王女の視線がリュッケにむけられる。
「今日、そなたが言ったように、先の戦争は長きにわたるアカネイアへの遺恨が引き金となったもの。兄がドルーアの力を欲したのも、アカネイアを滅ぼさねばこの国に未来はないと確信していたゆえだ。破壊なくして変革など起こせはしない。そんな兄の考えを、わたしは否定していたわけではなかった」
「……では、なぜアカネイアに味方らを?」
 リュッケはおなじ疑問をぶつけた。昼間とは違い、ミネルバはおだやかな表情を崩さなかった。
「前提が違う。わたしはアリティアに味方したのだ。マルス王子の行く先にこそ、ドルーアに囚われたマケドニアを救う道があると思った。たとえわたしが倒れても、王子にならば国の行く末を託せると思った。だが、〈炎の紋章〉を託され、メディウスを成敗したマルス王子が戦後これほどまで冷遇されようとは思っていなかった」
 あてがはずれたということだ、と自嘲的に笑った。
「本音を言えば、マルス王子にアカネイア王となっていただきたかったのだが、そうはいくまいな」
「マルス王子であれば、いまと状況は違ったと?」
「むろん違っただろう。わたしはアリティアを侵略してはいないのだから」
 ミネルバ王女は、敵対した者からでさえ公正で義に厚い人物と評されている。それはけっして誤りではないが、マケドニアの将のなかでもっとも高潔でありつづけたミネルバが、対外的には兄王よりもはるかにその手を血で汚してきたのは事実だ。
 アカネイアがレフカンディ侯カルタス家の者を全権大使としたのは偶然などではない。明確な意図があってのものだ。負い目を盾にゆさぶりをかけてきている。ミネルバ王女も最初からアカネイアの悪意に気づいていた。
 もっとも、とミネルバはつづける。
「あのときマルス王子が〈炎の紋章〉を託されていなくても、わたしは王子に味方しただろうと思う」
「なにゆえです?」
「そなたは知らなかったか。ドルーアが同盟を迫ってきたとき、父はアカネイアだけでなくアリティアにも援軍を打診していたのだ。ユスタスが密使としてコーネリアス王と交渉し、アリティアの援軍が派遣される手筈が整っていた。兄はそれを知っていたのに、ドルーアと手を組む道を選んだ……。わたしは時折、アリティアとともにドルーアを討つ夢を見た。そんな未来があればと願っていた。ドルーアになど与せずとも兄の望みは叶えられたはずだと」
 王女は暗闇に沈む遠景を見やる。
「すべては夢だ。とうの昔に消え去った……」
 そうつぶやき、力なく目をとじた。その横顔はモイラ妃に生き写しだというのに、かつてのオズモンド王の面影があった。
 いたたまれない思いがし、口早に言いつのる。
「どうぞ部屋にお戻りを。夜風が冷たくなってまいりましたので」
 ミネルバがうなづくと、リュッケは一礼をしてその場を下がった。



 ミネルバ王女の裏切りは、当時、宮廷ではさほど驚きもなく受けとめられていた。特にレフカンディの一件を知る者はなるべくしてそうなったと思っていた。
 ミシェイル王は、妹王女が水面下で反乱計画を推し進めていることに気づいていたはずである。ニーナ王女がパレスを脱し、オレルアンが動乱の舞台になったころ。腹心のラディス・シェンケルを監視役として王女に付けていた。妹王女が反乱の動きに転じようとしても、未然に防ぐことはたやすいと思っていたのだろう。
 それまで表向きは兄王に従順でありつづけた王女がはじめてその命に叛いたのがあのレフカンディでの戦いであった。あのときドルーアを通じてミシェイルに下っていた命は反乱軍の殲滅であった。ミネルバ王女はその意を受け、レフカンディへと向かったが、ハーマイン将軍と対立。麾下の軍を捨て駒とする作戦に難色を示し、その末に直属の騎士団をすべて撤退させたと伝わっているが、要は、マルス王子を討つことに強いためらいがあったのだろう。
 戦線を離脱したミネルバ王女は、ただちにラディス・シェンケルによって王城へと連行された。そのまま幽閉されるかと思われたが、十日ほどたって、反乱軍討伐の任を受けてパレスへと派遣された。その間、ミシェイルとミネルバのあいだでなにがあったのかリュッケには知るよしもない。あきらかな叛意を見せた妹をふたたび戦線へ送り出した王の意図はまったくわからなかった。他に動かせる部隊はいたのだから、あの局面で王女をマケドニアから出すべきではなかったはずなのだ。
 ミシェイルの考えは果断にして明瞭。突飛な方針にはじめこそ戸惑う者も多いが、結果を見ればその先見の明に舌をまく。その一方で、時折、説明のつかない行動も見られた。
 妹が自分を裏切れるはずがないと高をくくっていたのだろうか。
 なにがなんでもミネルバ王女の手でマルス王子を討たせたかったのか。
 いずれにしてもミシェイル王はミネルバ王女の裏切りなど、まったく想定していなかったものと思われる。ディール要塞に駐屯していた竜騎士が帰還し、ことの顛末を告げたが、報告を受けたミシェイルは、抑えこんでもなおあふれる怒気があたりに渦巻いているようだった。王の勘気にあてられた騎士は青ざめ、ただこうべを床に擦りつけるばかりだった。かたわらのカゾーニも、ミシェイルにかける言葉もなく立ちつくしていた。
 その夜、リュッケが東翼の渡り廊下を通りかかったおり、ミシェイル王と顔を合わせた。
 あの惨劇の夜以来、リュッケはミシェイルと直接言葉を交わすことはなかった。まるで存在を認識していないかのような扱いを受けてきた。
 通路の脇により、こうべをたれていると、ミシェイルはリュッケの前で立ちどまった。リュッケは顏をあげたものの、言葉をかけるわけにもいかず、さりとてその場を立ち去るわけにもいかず、ただ立ちつくすばかりだった。
「アリティアの小僧は、ずいぶんなお人よしのようだ」
 ミシェイルは自嘲気味に言った。
「……たしかに、あれの身の上は憐れむべきものであるのやもしれんな。あれもわざ同情を買おうとしたのだろうが、俺には思いもつかんやり口だ」
 ミネルバ王女は使者を立て、マルス王子に同盟を持ちかけたと推測されている。でなければアリティア軍がパレス奪還を目前にし、ディールを落とす理由がないのだ。
 反乱軍の中核はアリティア宮廷騎士団とされるが、主戦力はオレルアン騎士団が占める。ミネルバ王女がいかな好条件を並べ立てたとて、オレルアン勢の反対により交渉は決裂するものと思われた。たしかに聖都奪還の前にマケドニアの精鋭部隊が加わることは願ってもいない僥倖であろうが、同時に同盟軍の結束をゆるがす火種でもあるのだ。
 アカネイアがマケドニアを受け入れるはずがない。少なくともミシェイル王はそう考えていたはずである。いまになって思えば、王女を裏切らせぬために、あえて矢面に立たせていた節が見られる。
 しかし同盟は成った。
 王女が交渉に出せる切り札などなきにひとしい。あるとすれば、おのれの憐れな身の上に尽きるだろう。
 ドルーアに併合されたマケドニアの王女。
 兄が父を殺め、妹を人質にとられ、やむなく戦場に赴いた美貌の姫。望まぬ戦いに巻きこまれながら、騎士としての礼節と正義を重んじ、畏敬の念をもって称えられる女竜騎士。
 敵ながら同情せずにはいられないだろう。人はわかりやすい悲劇の英雄を好む。人心を読み切れなかったことが、ミシェイル王の誤算につながったのだろう。
「理に偏れば角が立つ、情に浸れば流される」
 ミシェイルがつぶやいた。
「あの男の……メスト公の口癖であったな」
 忌々しいことだ、と吐き捨て、その場を立ち去って行った。
 甘さゆえに自分は足をすくわれた、ミシェイルはそう言いたいのだろうか。しかしこの王が、妹王女に情をかけることがあったとは思えなかった。父王を弑逆したのち、真相に気づき、歯向かってくる妹を手にかけようとしたと噂もあった。
 ミネルバ王女は兄王の命令にしたがってはいたが、方針の違いで激しく言い争う場面もたびたび見られた。しかしその多くは聞き入れられることはなく、王よりも多くの戦場を駆けめぐり、その身を血に染めた。王女の裏切りは、その結果であるように思われた。
 かつては仲のよい兄妹だった。リュッケが二人の姿を思い出そうとするとき、不思議と子供時代の彼らばかりが脳裏をよぎる。父王が弁務官にかしづくさまをじっと見ていた幼い兄妹。ぴたりと寄り添い、はりつめた目で不遜な男をみつめていたのを覚えている。
 王女が父殺しの兄から離れられなかったのは、彼らの夢見た世界がおなじだったからだろう。アカネイアを滅ぼす、その一点において、彼らは肉親の情よりも深い絆で結ばれていた。
 だからこそミネルバ王女は王の右腕でありつづけた。そんな王女の離反こそ、マケドニア最大の転換点であったとリュッケは見ている。
 王女の言うように、別の道はあった。アリティアと組めばあれほどの犠牲を払うこともなくドルーアを討つことができただろう。しかしアカネイアを滅ぼすことはできなかった。ゆえにミシェイルの行く道は一つしかなかったのだ。
 ミネルバ王女が離反して一年ののち、二人の兄妹はふたたびまみえた。そのとき、どちらかの死が待っていた。
 ミシェイル王子の命は尽き、その夢は果てた。その瞬間、ミネルバ王女の思い描いた未来もまた潰えたのだ。
2/12ページ
スキ