第二部
六の月十日。朝から真夏のような陽光が照りつけており、正午をすぎていっそう暑さが増してきた。
リュッケは騎士館で書類に目を通していたが、額の汗を手でぬぐい、うんざりとした様子で次の書類に手をやった。そこには戦後の軍法会議の記録と、処分された軍人の現状が記されている。
軍法会議ののち、旧勢力の将兵は役職をとかれ、半年以上も飼い殺しの状態にある。彼らの多くが領地をもつ下級貴族であり、食うに困ることはないだろうが、国賊の烙印がおされた以上、今後の出世は望めない。そこで彼らはリュッケに王女への取り成しを求めてくるのだが、それは懇願というよりも脅迫じみたものだった。
戦後の軍法会議は公正に行われたものだった。嫌疑に対する事実認定は、偏狭な決めつけではなく、複数の証言をもって慎重に判断された。だが、公正であればことがうまく収まるというわけでもない。彼らは謹慎程度であっても処分されたことが気に入らないのだ。しかし王女派の軍人は彼らの処分が軽すぎると不満を抱いている。
両者の溝は深まるばかりで、その不満はリュッケのもとに集約されている。
うだる熱気が部屋にこもっている。いらだちがつのり、書類の束を机に叩きつけた。
風を入れようと席を立ったとき、いきなり扉がひらかれた。
ユスタスだった。
どうしたのかと問うより先に、ユスタスは大股で近より、手にしていた書類を机上においた。その書類はリュッケが昨日ミネルバのもとへ届けたものであった。
「この厚顔無恥どもの嘆願書、どうするつもりだ? よもやあやつらを殿下に取り次ぐつもりではあるまいな?」
「いや、そのつもりだ」
リュッケが挑むようにこたえると、ユスタスは眉をつり上げる。
「リカルド、おまえは殿下をお守りする気があるのか」
「心外なことを言う。当然ではないか」
「アカネイアの不興を買わぬようわたしが腐心しているときに、よりにもよって捕虜虐殺に関わった者の復帰を推し進めようなどと……正気の沙汰とは思えんな」
「その者たちはアカネイア捕虜虐殺に関わったと断定されてはいない」
「無実と断定されなかったことがすべてだ。よいか、リカルド。あまりやつらに肩入れすると、おまえも白い目で見られるぞ。しょせんは祖国の敗色を悟り寝返った裏切り者にすぎぬとな」
リュッケは黙りこんだ。元より口下手で、舌戦には不向きな質であるのだが、"裏切り者"という言葉が彼の胸をざわつかせていた。
先日、トルイユ伯がリュッケにはじめて具体的な要求をしてきた。謹慎処分中の旧勢力軍人を順次復帰させよ、と。それも、アカネイアからの指示であることは伏せ、リュッケが主導して事を進めよとのことだった。
意図が判然としなかった。いずれマケドニアの軍事力を利用することが目的だとしても、アカネイアに仇なした者たちにふたたび力を与えようとするのが信じられなかった。
はっきりしているのは宮廷に不和を持ちこもうとしていることだ。その思惑は功を奏しており、こうしてユスタスを激怒させている。
「ユスタス、そういらだつな。殿下も一部の者たちにつき、早期の復帰を大使に求めておられた。そもそも殿下が謹慎を言いわたされたのは、彼らを一時的に中枢から排除することでアカネイアの介入を防ごうとのお考えからだ。あくまで暫定的な処置。いずれ復帰させるおつもりで――」
「小娘の戯言を逐一聞き入れるな!」
この物言いにはリュッケも黙ってはおれず、立ちあがった。
「おまえこそ私怨で政を行うべきではないだろう」
「私怨? わたしはおまえたちの手ぬるさに辟易しておるだけだ」
「殿下のご意向を蔑ろにしている自覚がないのか」
「それもこれも殿下をお守りするためのものだ。あの方の家臣らは善良ではあるが、まるで役に立たんのでな」
セルジョたちまで侮るような発言には腹立ちがつのる。
ユスタスを憐れな犠牲者のようにあつかう者は多い。しかしリュッケに言わせれば、その傲慢さが敵を作っていたのが原因であり、憐れさなど微塵も感じてはいなかった。
――牢で七年も過ごしていた者がなにを偉そうに。
喉元まで出かかった言葉をのみこむ。それを口にしてしまえば終わりだ。おのれの立場が悪くなる。
「……ユスタスさま」
遠慮がちに扉が叩かれ、ユスタスの従者が入室してきた。その手には、巻かれた羊皮紙がある。ユスタスは従者にアカネイアからの書簡は至急で届けるよう申しつけているため、急いで主の後を追ってきたのだろう。
ユスタスはその場で書をひらき、片眼鏡をかけた。少し読み進めるや、その顔色が変わった。
「どうした?」
「殿下のもとへ行く。おまえも来い」
二人はすぐさま王女のいる執務室に向かった。道すがらリュッケは手紙の内容を知り、言葉を失った。
「……神聖アカネイア帝国」
ユスタスからの報告に、ミネルバ王女はゆっくりと復唱した。夏用の涼しげな薄青のガウンをまとった王女は、顔つきも口ぶりもひどく落ちついているように見えた。
「皇帝を名乗り、暦まで変えられるとは……。ハーディンどのは現体制に相当不満を持たれていたのだろうか」
「不満というよりも野心の結果でございましょう」
ユスタスがつづける。
「ハーディンはアカネイア王と呼ばれてはいても、内実はニーナ王女の配偶者。宮廷での立場は弱い。まあ、元来アカネイアは非常に貴族権力の強い国ですし、迅速な国家再建のため王権の強化を望むのは当然と思われますが、唐突な発表に宮廷貴族らは困惑しておるようです」
書簡をミネルバに差しだす。
「こたびの書簡は内務大臣補佐レオニア伯からのものですが、ニーナ王女との婚礼以降、ハーディン王の姿はめったに見られず、皇帝戴冠式にて半年ぶりにその姿を目にしたとのこと。先日も申しあげましたが、アドリア侯をはじめとした有力諸侯が、皇帝の威を借り、好き勝手にふるまっておるようです」
「ハーディンどのがアドリア侯の勝手を放置しているとは思えぬが」
「では、アドリア侯の行いはすべてハーディンの意思によるものということでしょう」
ミネルバが黙すると、ユスタスは嘲笑まじりにつづける。
「それにしても神聖帝国などと、ずいぶん大仰な名をつけたものです。なすすべなくドルーアに滅ぼされ、亡国の王子を代理に立ててようよう解放された国を、いまだ〈神に守られし国〉などと称する傲慢さ、まさにアカネイアというものでしょう。皇帝というのも、聖王家の血脈でない入り婿に箔をつけるためのもの。もはやかの国は神聖でもなければアカネイアでもないというのに」
「言葉がすぎるぞ」
ユスタスをたしなめる声には、かすかに苛立ちがうかがえた。冷静に見えても、内心はかなり動揺しているのだろう。
アカネイアにおいてハーディンは当初から正式な王となるべく迎え入れられたわけではなかった。アカネイアは法で女王を禁じているため、王子誕生までの中継ぎが必要だった。そこで白羽の矢が立ったのが、カルタス王の血縁でありながら、いいように懐柔できる属国オレルアンの王子であった。
マケドニアにとっては王女の盟友であるハーディンがアカネイア王となることは好都合であるように思われた。その一方で、後ろ盾のないハーディンが大貴族の傀儡と化し、マケドニアに強硬な態度に出てくる可能性もあった。大使の派遣も、大貴族に押し切られてのものではないかとの考えもあった。
しかし、事態は想定の逆へと進んでいる。ハーディンは傀儡であるどころか、当初から大貴族を抑えこむほどの権力をにぎっていたということとなる。これはオレルアンと確執の深いマケドニアにとって不都合な流れである。
「……いずれにせよ、ここで憶測を言い合っても意味はない」
ミネルバは書簡をおく。
「じきにトルイユ伯からなんらかの話があるだろう。そのときにお聞きすればよい」
「それはそうと殿下」
すかさずユスタスが切り出す。
「謹慎中の軍人の扱い、いかがなさるおつもりです」
ミネルバはちらとリュッケを見た。
「どうするもなにも、すでに半年がたつのだ。いつまでもこのままにしてはおけぬだろう」
「やつらに甘さをみせて、足をすくわれねばよいのですが」
「過度に不安を与えては、無用の混乱を招くだけだ」
「では、いまからトルイユ伯に打診いたしましょう。神聖帝国の件もございますので」
⁂
その日の午後、トルイユが補佐官のオドランをともなって執務室を訪れた。
「お待ちしておりました」
大使らを出迎えるミネルバ王女は、ふだんよりも豪奢な金刺繍の軍服に着替えていた。
王女とあいさつを交わすトルイユの様子を、リュッケは眉をひそめてうかがっていた。先日のような酷薄な空気はまとっておらず、はじめて会ったときとおなじ物腰やわらかな貴公子のままだった。
それがリュッケの焦燥をかき立てた。神聖帝国の樹立について、トルイユはあのときすでに知っていたはずである。しかしなにも明かさなかった。しょせん信用されてはいないのだと忸怩たる思いがつのる。
部屋の西側におかれた紫檀の卓に、トルイユとミネルバが対座した。リュッケがユスタスとともにその脇に立つと、トルイユはまるで世間話でもするかのように神聖帝国の件を口にした。
「驚かれましたか」
「ええ。いきなりのことでしたので」
ミネルバがとまどい気味にかえすと、トルイユは複雑そうに笑った。
「われらも突然のことに困惑してはいるのですが、結局のところ、先王ギョーム陛下の治世への不満を解消するための策なのですよ。王女もご存じでしょう? ギョーム陛下はよい方であったのですが、決断力に乏しく、諸国がドルーアと死闘をくりひろげる中、指揮を執ることもなくパレスに引きこもってしまわれた。そんなお姿に、民は失望したのです。だからこそニーナさまをお助けし、アカネイアを救ったオレルアン王弟をアカネイア王にと望むにいたったわけです。つまりはハーディン皇帝による専制政治は、貴族よりもむしろ民が望んだものとも言えるでしょう。民はもうあのような地獄を味わいたくはないのですよ」
「それはわが国も同じです」
ミネルバは決然と言った。
「マケドニアもまた、ドルーア併合下において辛酸をなめてまいりました。占領下にこそおかれませんでしたが、多くの民を兵にとられ、農地は荒れ、男手のいなくなった村々には賊の襲撃が多発しました。民は平和な暮らしを求めています。彼らが安心して暮らせる国を作り上げること、わたしはそれを最優先に考えております」
意を汲んだように、トルイユはほほえんだ。
「謹慎中の軍人らの件でしたね。近く軍に復帰させたいと」
「はい。辺境警備の人員が不足しておりますので」
「リュッケ将軍よりくわしくうかがっておりますが、おそらく陛下はお認めになると思いますよ」
寛容にすぎる返答に、ミネルバは驚きをみせた。
「いちじるしく軍法を犯した者たちに対しては、すでにあなたが厳格な処分を下しておられますからね。陛下も、あの処断を非常に高く評価されているのですよ」
「おそれいります」
「そんなあなたが復帰させるにふさわしいとお考えになる者たちならば、こちらとしては固辞する理由もありませんか」
「同盟軍に帰順しなかったからといって、けっしてアカネイアへの叛意を持つわけではありません。ただ、国のため、民のために戦っただけの者も多いのだと、どうかわかっていただきたいのです」
「わかっております。みなそれぞれの立場がありますから」
トルイユ伯は白いおもてをかげらせる。
「わが国にもいろんな者がおります。ギョーム陛下に忠誠を誓って散っていた者もいれば、王家を見捨て、ドルーアに協力した貴族も……。王への背信を働いたとしても、それは領民を守るためであったとも言えるのです。まあ、中には私腹を肥やした者たちもおりますが、致し方のないことなのです。ミネルバ王女、あなたとおなじようにあの方も苦慮されておいでです」
それはアドリア侯ラングの件を示唆しているのだろう。ラングの重用は、ミネルバ王女にハーディンへの不審を強めるきっかけとなった。しかし自分とおなじく内政改革に苦悩している状況と知ったことで、不可解な人事にも得心したようだった。
硬い表情が、わずかに安堵にほころぶ。
それを見計らったように、トルイユが話題を変えた。
「それはそうと、貴国には対処していただきたいことがあるのです」
大使の補佐官が進み出てきて、手にしていた象牙の文箱をトルイユに渡した。
「皇帝陛下からの書簡にございます。両国の友好を深めるためにも、いつまでもうやむやにはしておけぬとのお考えのようでして」
トルイユ伯は文箱を卓上に置いた。
「まずはこちらをお読みいただくほうがよろしいかと」
ミネルバは文箱をあけたものの、なかにおさめられた書簡にはふれようとせず、しばしみつめているだけだった。
書簡には、聖アカネイアの印章――〈獅子と一角獣に支えられた王冠〉が捺されている。この印章の書簡が届けられるたび、歴代のマケドニア王は苦しめられてきた。先代のオズモンドは勇壮な竜騎士であったが、宗主国相手に抗うすべをもたず、要求を呑みこむばかりであった。
ミネルバもそんな父王とおなじなのであろうか。あまたの戦場を怖れも知らずに駆け抜けてきた姫将軍が、たかが一枚の紙切れを前に恐れを抱いているのが見てとれた。
「どうぞ」
王女の懊悩を知ってか知らずか、トルイユはやや強引な調子でうながした。
書を手にとったミネルバは、こわばった手つきで封を割り、かたい表情のまま読み進めていった。トルイユの視線は、わずかな心の動きも逃すまいというようにミネルバに向いていた。
ミネルバが書を卓上におくと、トルイユはゆったりと告げる。
「戦前、貴国に派遣していた弁務官シモン・ネイヤール卿の件にございますが、国交が回復したいまこそ、しかるべき対応をハーディン陛下はお望みです」
ミネルバは伏し目のまま言葉をかえす。
「シモン・ネイヤール卿を斬罪に処したことについて、近くご説明を申しあげねばと思っていました」
「そう身構えられずとも、あなたがその件にいっさい関わっておられぬことは陛下もご存じでいらっしゃいます」
ミネルバが視線を上げた。
「ミネルバ王女、あなたの知る範囲でお答えいただきたい。シモンどのは王暗殺を手引きしたかどで処刑されたそうですが、当時、マケドニアから送り返された役人の弁によれば、ミシェイル王子によってむごたらしく処刑されたとか。これは事実ですか」
「……シモンどのは地下牢で何者かによって殺害されたのですが、下手人についてはわかりかねます。王城内で起こったことゆえ、すべてはわれらの落ち度。まったくお詫びの申しあげようもないことです」
あくまでミシェイルの行いとは認めないミネルバに、トルイユはたたみかける。
「ミシェイル王子は、わが国が送りこんだ刺客によってオズモンド王が殺害されたと国中に吹聴して回られたそうですね。民はともかく、なぜ貴族までがそのような妄言を信じたのですか?」
「そう信ずるに足る理由があったのです」
「ほう?」
「当時、わが国は唐突なドルーアの侵攻を受け、国中が恐慌に陥っていました。アカネイア王に援軍を要請したものの、色よい返事が得られなかったことも混乱を助長しました。そんななかドルーアは、アカネイアはマケドニアを捨て駒にするつもりだと吹きこみ、われらに同盟を持ちかけてきました。父はかたくなに拒んでいましたが、前線では日ごとにあまたの命が失われており、父がドルーアの要求に屈するのも時間の問題だったのかもしれません。しかしながら、ドルーアへの服従はアカネイアへの叛逆。アカネイア王の忠臣たるシモンどのが父を誅したという兄の主張は、けっして妄言とは思われなかったのです。そして冷静さを欠いたわれらは、王がドルーアによって殺されたことにも気づかず、戦争への道を歩むこととなったというわけです」
――王が"ドルーアによって"殺された。
ミネルバの言葉に、リュッケは目をみひらいた。かたわらのユスタスに目をやったが、ユスタスは見守るようにじっとミネルバをみつめていた。
トルイユもまた大げさに驚いてみせる。
「これは異なことを。オズモンド王を手にかけたのはミシェイル王子でしょう?」
「戦後に複数の者への聞き取りを行いました。その結果、父の暗殺はドルーアの手によるものだったとわたしは考えております。父は同盟を強固に拒んでおりましたから、もとよりドルーアにとっては不都合な存在でした。兄も同盟にはけっして乗り気ではなかったのですが、父が殺されたとあってはドルーアに屈する道しかなかったのでしょう」
「ですが、あなたは以前ハーディン陛下の前でこうおっしゃったそうですね。兄は父の仇であると」
「わたしが兄を父の仇と信じていたのは、ほかならぬ兄自身がそう言い張っていたためです。臣下に対しても自身の犯行だとほのめかすこともありました。兄は自分の意に反する臣下を従わせるべく、妻子を人質にとっておりましたし、わたしも妹を盾にドルーアへの服従を強いられてきました。父を手にかけるような男なれば、なにをするかわからぬと恐怖し、多くの者が抗うすべを失いました。兄にとって、父殺しの汚名はかえって好都合だったのかもしれません」
「なるほど……」
トルイユは、細いあごに手をやる。
「しかしながら、ミシェイル王子はドルーアによってオズモンド王が暗殺されたと気づいていたのでは? 気づいていながら、わが国に責をなすりつけたのでありませんか」
「その可能性までは否定いたしません」
ミネルバはまっすぐにトルイユを見すえた。
「真実がどうあれ、罪なき弁務官が殺害されたのは事実。そして、この国で起こったことのすべてにおいて責任はわたしにあります。知らぬこととして、罪を逃れようなどと思ってはおりません」
「どうぞ誤解なさらぬよう。われらの望むことは貴国と良好な関係を築くこと。あなたを理不尽に裁こうなどと考えてはおりません。ただ、両国の未来のために、それなりの誠意を示していただきたいのです」
「……誠意、とは?」
「引きつづき、軍の改革に力をそそいでいただきたく。二度とあのような戦争を引き起こさぬために、わが国も納得できる成果を期待しております」
試すような言葉を残し、トルイユ伯は退室していった。
扉が閉まると、ミネルバは嘆息し、机上に両肘をついた。
「いずれなんらかの沙汰はあると覚悟していたが、神聖帝国の誕生を機に、さっそく仕掛けてきたというわけだ。トルイユ伯はわたしの言ったことなど、なにひとつ信じてはいまい」
「まったく次から次へと……」
ユスタスは心底うんざりしているようだった。 自分を陥れた者たちの尻拭いなど彼にとっては不快きわまりないだろう。
「殿下、もはやあやつらに情けをかけずともよろしいでしょう。誠意を示すべく、いく人かを贄としては?」
「わたしはあの者たちに情けをかけているのではない。アカネイアにとっては、すべてマケドニア人の所業。そこに違いはないのだ。あの者たちを贄に差しだしたところで、いまさらことは収まらぬ」
「たしかに、もはやあやつらには贄としての価値もない。ひとまず、アカネイア宮廷の様子を探りつつ、対応を考えましょう」
「よろしく頼む」
ユスタスが出て行くとミネルバは疲れたように目を閉じた。
この件について、二人はあらかじめ口裏を合わせていたのだろうとリュッケは察した。とりわけ、王暗殺がドルーアの陰謀というくだりは、ユスタスが王女にそう答えるよう吹きこんだのだろう。
敗北した以上、アカネイアへの害意は極力隠さねばならない。王太子がアカネイアを滅ぼすべく父王を殺めてドルーアに与し、あげく王の死をアカネイアの謀殺に仕立て上げたなどと、馬鹿正直に認めるべきではない。
だが、ユスタスの意向をどこまでミネルバは受け入れているのだろうか。
リュッケがその横顔をみつめていると、ミネルバが視線をかえした。
「そなたもすでに真実を知っていようが、いまわたしがトルイユ伯に話したことを真実としたい。……それで幕引きとするほかないのだ。アカネイアは誠意ある対応を求めるとのことだが、死者に罰は与えようもないのだから」
その口調は淡々としていたが、先ほどのやりとりがミネルバにとって本意でないのは明白だった。
傍目に、ミネルバはユスタスの言いなりになっているところがある。母の従弟という関係ゆえか、その政治手腕に依存するゆえか、はたまた七年も虜囚の身にさせた負い目ゆえか。
そのいずれであれ、王女の寛容さがユスタスを宮廷で増長させる要因となっている。
前宰相もオズモンド王の幼少期から近侍であったという立場から王を手のひらのうえで転がしているような節があったが、ユスタスもまたミネルバを自身の掌中であやつろうとしているのがうかがえる。
リュッケが黙したままでいると、いらだたしげな声が飛んだ。
「なにか言いたいことがあるなら申せ」
「……殿下はそれでよいとお考えなのですか」
「よいもなにも、ではそなたは真実を公表せよと言うのか? 兄がアカネイアへの害意から父を手にかけ、ドルーアとともにアカネイア侵略を企てたと」
「そうは申しません。ただ、殿下はまるでユスタスの言いなりになっておられるように思いましたので」
「これはわたしが決めたことだ」
「そう仕向けられたのではないかと申しあげているのです」
まとう空気が変わった。踏みこんではならぬ領域へ立ち入ろうとしている。これ以上は危険だとわかっていながら、リュッケはつづけた。
「ユスタスはドルーアに与した者はみな逆臣であるかのようにあつかいますが、先の戦争は、長きにわたるアカネイアへの遺恨が引き金となったもの。これまで殿下は、いかに敵味方に分かれようとも求めた世界はおなじであったとのお考えだったはず。だからこそ両勢力の分断を避けようとされたのでは? にもかかわらず、ドルーアに騙され、その意のまま侵略を企てたとするなら、先の戦の大義を失うことになりましょう。それではあまりに国の体面というものが――」
「いまのマケドニアに、保てるだけの体面があるというのか」
冷淡な声だった。
言葉を失うリュッケに、ミネルバは短く嘆息する。
「負けたのだ、この国は。ドルーアにではない。ましてやアカネイアにでもない。ただ、あらゆる重みに耐えかねて崩壊した。そしてわれらはすべてを失った。人も、力も、誇りも、遺産も、なにもかもをだ。……その結果がいまだ」
立ちあがったミネルバは、リュッケに背を向けた。窓に手をおき、つぶやくように言った。
「だから守りに入るだけだ」
「すべてを失うとわかったうえで、殿下はアカネイアに味方されたのでは?」
「わたしはアカネイアの味方なぞしていない!」
ふりかえり、ミネルバは叫んだ。リュッケに向けられるその目は怒りにみちていたが、どこかおびえているようにも見えた。
いきなり扉が開かれた。入室してきたのはカゾーニだった。
「いかがされたのです」
扉の外まで声が響いていたのだろう。ミネルバがこんなふうに声を荒らげるのはめったにないことである。
カゾーニは問いつめるような目つきでリュッケを見たが、弁解の余地もなく、視線を落とすほかなかった。
「もうよい、下がれ」
ミネルバは顔をそむけ、小声で命じた。
リュッケは一礼したのち、カゾーニからは目をそらしてきびすを返した。
カゾーニは険悪な空気をただよわせる二人を交互に見やり、ミネルバに足早に歩みよる。
「いったいなにがあったのです」
「ただの八つ当たりです」
ミネルバは苦笑し、手元の書を放るようにカゾーニに渡した。書に目を走らせるうち、カゾーニの顔が蒼白となる。
「これは……」
力なく書を机上におき、カゾーニは重いため息をつく。
「ミシェイルさまは早まったことをされましたな。シモンへの恨みは理解いたしますが、処刑などせず本国に送還すべきでした」
「ミシェイルは勝つつもりでいたのです。負けたときのことなど、つゆほども考えてはいなかった……」
ミネルバは書をたぐりよせる。
「シモンによる父の暗殺は濡れ衣。しかしあの男は国中の怨嗟が向いてもやむをえぬ者ではありました。アカネイアもシモンの目にあまるふるまいを認知していたようですし、私怨による制裁だとわかっているでしょう。こちらの思い違いと押し通すにしても、無実の者を処刑したのは事実。言い逃れはできません」
「トルイユ伯はなんと?」
「引きつづき軍の改革を求めるとのこと。もとより旧勢力の排除はアカネイアが求めてきたことですが、より具体的に、かの一件に関わる者すべての処分を求めているのでしょう」
「しかし、関わる者すべてと申しましても……」
「そこが問題なのです。わたしとてすべてを把握してはいませんが、父の暗殺に関わった者はほんのわずかだったはず。そして、そのほとんどが戦死しているのです」
「ええ、まだ生き残っている者はおりますな」
「カゾーニ」
ミネルバはたしなめるように呼びかけた。
「首謀者たちはすべて戦死した。それで幕引きとするほかないでしょう」
「異を唱えなかった者も裁けと要求してくる可能性は?」
「それならば、わたしがまっさきに裁かれねばなりませんね」
ミネルバが軽口を叩くと、今度はカゾーニが渋面になった。
「父の暗殺は兄に実権を握らせ、同盟を結ばせるためのドルーアのはかりごと。それこそが、われらが信じるべき真実です。それもあながち偽りではありませんから」
「あちらがどう出てくることか。下手を打てば足をすくわれかねませぬ」
「……アカネイアよりも、災いは内にあるのやもしれません」
ふくんだ物言いに、カゾーニは白い眉をよせる。
「あれは、なにに怒っておるのです?」
「父の暗殺はドルーアの陰謀だったと大使に告げたことが不服なのですよ。たしかにこれではマケドニアはドルーアに騙されるまま侵略戦争を引き起こしたと認めることになりますから」
「なにをばかげたことを……いまはそれどころではないというのに」
「いえ、これを不快に思うのはリュッケだけではないはず。それでもわたしは……」
ミネルバは窓によりかかり、つぶやいた。
「兄に父殺しの汚名を着せたくないのです」
カゾーニは唖然とし、それ以上はなにも言わなかった。
リュッケは騎士館で書類に目を通していたが、額の汗を手でぬぐい、うんざりとした様子で次の書類に手をやった。そこには戦後の軍法会議の記録と、処分された軍人の現状が記されている。
軍法会議ののち、旧勢力の将兵は役職をとかれ、半年以上も飼い殺しの状態にある。彼らの多くが領地をもつ下級貴族であり、食うに困ることはないだろうが、国賊の烙印がおされた以上、今後の出世は望めない。そこで彼らはリュッケに王女への取り成しを求めてくるのだが、それは懇願というよりも脅迫じみたものだった。
戦後の軍法会議は公正に行われたものだった。嫌疑に対する事実認定は、偏狭な決めつけではなく、複数の証言をもって慎重に判断された。だが、公正であればことがうまく収まるというわけでもない。彼らは謹慎程度であっても処分されたことが気に入らないのだ。しかし王女派の軍人は彼らの処分が軽すぎると不満を抱いている。
両者の溝は深まるばかりで、その不満はリュッケのもとに集約されている。
うだる熱気が部屋にこもっている。いらだちがつのり、書類の束を机に叩きつけた。
風を入れようと席を立ったとき、いきなり扉がひらかれた。
ユスタスだった。
どうしたのかと問うより先に、ユスタスは大股で近より、手にしていた書類を机上においた。その書類はリュッケが昨日ミネルバのもとへ届けたものであった。
「この厚顔無恥どもの嘆願書、どうするつもりだ? よもやあやつらを殿下に取り次ぐつもりではあるまいな?」
「いや、そのつもりだ」
リュッケが挑むようにこたえると、ユスタスは眉をつり上げる。
「リカルド、おまえは殿下をお守りする気があるのか」
「心外なことを言う。当然ではないか」
「アカネイアの不興を買わぬようわたしが腐心しているときに、よりにもよって捕虜虐殺に関わった者の復帰を推し進めようなどと……正気の沙汰とは思えんな」
「その者たちはアカネイア捕虜虐殺に関わったと断定されてはいない」
「無実と断定されなかったことがすべてだ。よいか、リカルド。あまりやつらに肩入れすると、おまえも白い目で見られるぞ。しょせんは祖国の敗色を悟り寝返った裏切り者にすぎぬとな」
リュッケは黙りこんだ。元より口下手で、舌戦には不向きな質であるのだが、"裏切り者"という言葉が彼の胸をざわつかせていた。
先日、トルイユ伯がリュッケにはじめて具体的な要求をしてきた。謹慎処分中の旧勢力軍人を順次復帰させよ、と。それも、アカネイアからの指示であることは伏せ、リュッケが主導して事を進めよとのことだった。
意図が判然としなかった。いずれマケドニアの軍事力を利用することが目的だとしても、アカネイアに仇なした者たちにふたたび力を与えようとするのが信じられなかった。
はっきりしているのは宮廷に不和を持ちこもうとしていることだ。その思惑は功を奏しており、こうしてユスタスを激怒させている。
「ユスタス、そういらだつな。殿下も一部の者たちにつき、早期の復帰を大使に求めておられた。そもそも殿下が謹慎を言いわたされたのは、彼らを一時的に中枢から排除することでアカネイアの介入を防ごうとのお考えからだ。あくまで暫定的な処置。いずれ復帰させるおつもりで――」
「小娘の戯言を逐一聞き入れるな!」
この物言いにはリュッケも黙ってはおれず、立ちあがった。
「おまえこそ私怨で政を行うべきではないだろう」
「私怨? わたしはおまえたちの手ぬるさに辟易しておるだけだ」
「殿下のご意向を蔑ろにしている自覚がないのか」
「それもこれも殿下をお守りするためのものだ。あの方の家臣らは善良ではあるが、まるで役に立たんのでな」
セルジョたちまで侮るような発言には腹立ちがつのる。
ユスタスを憐れな犠牲者のようにあつかう者は多い。しかしリュッケに言わせれば、その傲慢さが敵を作っていたのが原因であり、憐れさなど微塵も感じてはいなかった。
――牢で七年も過ごしていた者がなにを偉そうに。
喉元まで出かかった言葉をのみこむ。それを口にしてしまえば終わりだ。おのれの立場が悪くなる。
「……ユスタスさま」
遠慮がちに扉が叩かれ、ユスタスの従者が入室してきた。その手には、巻かれた羊皮紙がある。ユスタスは従者にアカネイアからの書簡は至急で届けるよう申しつけているため、急いで主の後を追ってきたのだろう。
ユスタスはその場で書をひらき、片眼鏡をかけた。少し読み進めるや、その顔色が変わった。
「どうした?」
「殿下のもとへ行く。おまえも来い」
二人はすぐさま王女のいる執務室に向かった。道すがらリュッケは手紙の内容を知り、言葉を失った。
「……神聖アカネイア帝国」
ユスタスからの報告に、ミネルバ王女はゆっくりと復唱した。夏用の涼しげな薄青のガウンをまとった王女は、顔つきも口ぶりもひどく落ちついているように見えた。
「皇帝を名乗り、暦まで変えられるとは……。ハーディンどのは現体制に相当不満を持たれていたのだろうか」
「不満というよりも野心の結果でございましょう」
ユスタスがつづける。
「ハーディンはアカネイア王と呼ばれてはいても、内実はニーナ王女の配偶者。宮廷での立場は弱い。まあ、元来アカネイアは非常に貴族権力の強い国ですし、迅速な国家再建のため王権の強化を望むのは当然と思われますが、唐突な発表に宮廷貴族らは困惑しておるようです」
書簡をミネルバに差しだす。
「こたびの書簡は内務大臣補佐レオニア伯からのものですが、ニーナ王女との婚礼以降、ハーディン王の姿はめったに見られず、皇帝戴冠式にて半年ぶりにその姿を目にしたとのこと。先日も申しあげましたが、アドリア侯をはじめとした有力諸侯が、皇帝の威を借り、好き勝手にふるまっておるようです」
「ハーディンどのがアドリア侯の勝手を放置しているとは思えぬが」
「では、アドリア侯の行いはすべてハーディンの意思によるものということでしょう」
ミネルバが黙すると、ユスタスは嘲笑まじりにつづける。
「それにしても神聖帝国などと、ずいぶん大仰な名をつけたものです。なすすべなくドルーアに滅ぼされ、亡国の王子を代理に立ててようよう解放された国を、いまだ〈神に守られし国〉などと称する傲慢さ、まさにアカネイアというものでしょう。皇帝というのも、聖王家の血脈でない入り婿に箔をつけるためのもの。もはやかの国は神聖でもなければアカネイアでもないというのに」
「言葉がすぎるぞ」
ユスタスをたしなめる声には、かすかに苛立ちがうかがえた。冷静に見えても、内心はかなり動揺しているのだろう。
アカネイアにおいてハーディンは当初から正式な王となるべく迎え入れられたわけではなかった。アカネイアは法で女王を禁じているため、王子誕生までの中継ぎが必要だった。そこで白羽の矢が立ったのが、カルタス王の血縁でありながら、いいように懐柔できる属国オレルアンの王子であった。
マケドニアにとっては王女の盟友であるハーディンがアカネイア王となることは好都合であるように思われた。その一方で、後ろ盾のないハーディンが大貴族の傀儡と化し、マケドニアに強硬な態度に出てくる可能性もあった。大使の派遣も、大貴族に押し切られてのものではないかとの考えもあった。
しかし、事態は想定の逆へと進んでいる。ハーディンは傀儡であるどころか、当初から大貴族を抑えこむほどの権力をにぎっていたということとなる。これはオレルアンと確執の深いマケドニアにとって不都合な流れである。
「……いずれにせよ、ここで憶測を言い合っても意味はない」
ミネルバは書簡をおく。
「じきにトルイユ伯からなんらかの話があるだろう。そのときにお聞きすればよい」
「それはそうと殿下」
すかさずユスタスが切り出す。
「謹慎中の軍人の扱い、いかがなさるおつもりです」
ミネルバはちらとリュッケを見た。
「どうするもなにも、すでに半年がたつのだ。いつまでもこのままにしてはおけぬだろう」
「やつらに甘さをみせて、足をすくわれねばよいのですが」
「過度に不安を与えては、無用の混乱を招くだけだ」
「では、いまからトルイユ伯に打診いたしましょう。神聖帝国の件もございますので」
⁂
その日の午後、トルイユが補佐官のオドランをともなって執務室を訪れた。
「お待ちしておりました」
大使らを出迎えるミネルバ王女は、ふだんよりも豪奢な金刺繍の軍服に着替えていた。
王女とあいさつを交わすトルイユの様子を、リュッケは眉をひそめてうかがっていた。先日のような酷薄な空気はまとっておらず、はじめて会ったときとおなじ物腰やわらかな貴公子のままだった。
それがリュッケの焦燥をかき立てた。神聖帝国の樹立について、トルイユはあのときすでに知っていたはずである。しかしなにも明かさなかった。しょせん信用されてはいないのだと忸怩たる思いがつのる。
部屋の西側におかれた紫檀の卓に、トルイユとミネルバが対座した。リュッケがユスタスとともにその脇に立つと、トルイユはまるで世間話でもするかのように神聖帝国の件を口にした。
「驚かれましたか」
「ええ。いきなりのことでしたので」
ミネルバがとまどい気味にかえすと、トルイユは複雑そうに笑った。
「われらも突然のことに困惑してはいるのですが、結局のところ、先王ギョーム陛下の治世への不満を解消するための策なのですよ。王女もご存じでしょう? ギョーム陛下はよい方であったのですが、決断力に乏しく、諸国がドルーアと死闘をくりひろげる中、指揮を執ることもなくパレスに引きこもってしまわれた。そんなお姿に、民は失望したのです。だからこそニーナさまをお助けし、アカネイアを救ったオレルアン王弟をアカネイア王にと望むにいたったわけです。つまりはハーディン皇帝による専制政治は、貴族よりもむしろ民が望んだものとも言えるでしょう。民はもうあのような地獄を味わいたくはないのですよ」
「それはわが国も同じです」
ミネルバは決然と言った。
「マケドニアもまた、ドルーア併合下において辛酸をなめてまいりました。占領下にこそおかれませんでしたが、多くの民を兵にとられ、農地は荒れ、男手のいなくなった村々には賊の襲撃が多発しました。民は平和な暮らしを求めています。彼らが安心して暮らせる国を作り上げること、わたしはそれを最優先に考えております」
意を汲んだように、トルイユはほほえんだ。
「謹慎中の軍人らの件でしたね。近く軍に復帰させたいと」
「はい。辺境警備の人員が不足しておりますので」
「リュッケ将軍よりくわしくうかがっておりますが、おそらく陛下はお認めになると思いますよ」
寛容にすぎる返答に、ミネルバは驚きをみせた。
「いちじるしく軍法を犯した者たちに対しては、すでにあなたが厳格な処分を下しておられますからね。陛下も、あの処断を非常に高く評価されているのですよ」
「おそれいります」
「そんなあなたが復帰させるにふさわしいとお考えになる者たちならば、こちらとしては固辞する理由もありませんか」
「同盟軍に帰順しなかったからといって、けっしてアカネイアへの叛意を持つわけではありません。ただ、国のため、民のために戦っただけの者も多いのだと、どうかわかっていただきたいのです」
「わかっております。みなそれぞれの立場がありますから」
トルイユ伯は白いおもてをかげらせる。
「わが国にもいろんな者がおります。ギョーム陛下に忠誠を誓って散っていた者もいれば、王家を見捨て、ドルーアに協力した貴族も……。王への背信を働いたとしても、それは領民を守るためであったとも言えるのです。まあ、中には私腹を肥やした者たちもおりますが、致し方のないことなのです。ミネルバ王女、あなたとおなじようにあの方も苦慮されておいでです」
それはアドリア侯ラングの件を示唆しているのだろう。ラングの重用は、ミネルバ王女にハーディンへの不審を強めるきっかけとなった。しかし自分とおなじく内政改革に苦悩している状況と知ったことで、不可解な人事にも得心したようだった。
硬い表情が、わずかに安堵にほころぶ。
それを見計らったように、トルイユが話題を変えた。
「それはそうと、貴国には対処していただきたいことがあるのです」
大使の補佐官が進み出てきて、手にしていた象牙の文箱をトルイユに渡した。
「皇帝陛下からの書簡にございます。両国の友好を深めるためにも、いつまでもうやむやにはしておけぬとのお考えのようでして」
トルイユ伯は文箱を卓上に置いた。
「まずはこちらをお読みいただくほうがよろしいかと」
ミネルバは文箱をあけたものの、なかにおさめられた書簡にはふれようとせず、しばしみつめているだけだった。
書簡には、聖アカネイアの印章――〈獅子と一角獣に支えられた王冠〉が捺されている。この印章の書簡が届けられるたび、歴代のマケドニア王は苦しめられてきた。先代のオズモンドは勇壮な竜騎士であったが、宗主国相手に抗うすべをもたず、要求を呑みこむばかりであった。
ミネルバもそんな父王とおなじなのであろうか。あまたの戦場を怖れも知らずに駆け抜けてきた姫将軍が、たかが一枚の紙切れを前に恐れを抱いているのが見てとれた。
「どうぞ」
王女の懊悩を知ってか知らずか、トルイユはやや強引な調子でうながした。
書を手にとったミネルバは、こわばった手つきで封を割り、かたい表情のまま読み進めていった。トルイユの視線は、わずかな心の動きも逃すまいというようにミネルバに向いていた。
ミネルバが書を卓上におくと、トルイユはゆったりと告げる。
「戦前、貴国に派遣していた弁務官シモン・ネイヤール卿の件にございますが、国交が回復したいまこそ、しかるべき対応をハーディン陛下はお望みです」
ミネルバは伏し目のまま言葉をかえす。
「シモン・ネイヤール卿を斬罪に処したことについて、近くご説明を申しあげねばと思っていました」
「そう身構えられずとも、あなたがその件にいっさい関わっておられぬことは陛下もご存じでいらっしゃいます」
ミネルバが視線を上げた。
「ミネルバ王女、あなたの知る範囲でお答えいただきたい。シモンどのは王暗殺を手引きしたかどで処刑されたそうですが、当時、マケドニアから送り返された役人の弁によれば、ミシェイル王子によってむごたらしく処刑されたとか。これは事実ですか」
「……シモンどのは地下牢で何者かによって殺害されたのですが、下手人についてはわかりかねます。王城内で起こったことゆえ、すべてはわれらの落ち度。まったくお詫びの申しあげようもないことです」
あくまでミシェイルの行いとは認めないミネルバに、トルイユはたたみかける。
「ミシェイル王子は、わが国が送りこんだ刺客によってオズモンド王が殺害されたと国中に吹聴して回られたそうですね。民はともかく、なぜ貴族までがそのような妄言を信じたのですか?」
「そう信ずるに足る理由があったのです」
「ほう?」
「当時、わが国は唐突なドルーアの侵攻を受け、国中が恐慌に陥っていました。アカネイア王に援軍を要請したものの、色よい返事が得られなかったことも混乱を助長しました。そんななかドルーアは、アカネイアはマケドニアを捨て駒にするつもりだと吹きこみ、われらに同盟を持ちかけてきました。父はかたくなに拒んでいましたが、前線では日ごとにあまたの命が失われており、父がドルーアの要求に屈するのも時間の問題だったのかもしれません。しかしながら、ドルーアへの服従はアカネイアへの叛逆。アカネイア王の忠臣たるシモンどのが父を誅したという兄の主張は、けっして妄言とは思われなかったのです。そして冷静さを欠いたわれらは、王がドルーアによって殺されたことにも気づかず、戦争への道を歩むこととなったというわけです」
――王が"ドルーアによって"殺された。
ミネルバの言葉に、リュッケは目をみひらいた。かたわらのユスタスに目をやったが、ユスタスは見守るようにじっとミネルバをみつめていた。
トルイユもまた大げさに驚いてみせる。
「これは異なことを。オズモンド王を手にかけたのはミシェイル王子でしょう?」
「戦後に複数の者への聞き取りを行いました。その結果、父の暗殺はドルーアの手によるものだったとわたしは考えております。父は同盟を強固に拒んでおりましたから、もとよりドルーアにとっては不都合な存在でした。兄も同盟にはけっして乗り気ではなかったのですが、父が殺されたとあってはドルーアに屈する道しかなかったのでしょう」
「ですが、あなたは以前ハーディン陛下の前でこうおっしゃったそうですね。兄は父の仇であると」
「わたしが兄を父の仇と信じていたのは、ほかならぬ兄自身がそう言い張っていたためです。臣下に対しても自身の犯行だとほのめかすこともありました。兄は自分の意に反する臣下を従わせるべく、妻子を人質にとっておりましたし、わたしも妹を盾にドルーアへの服従を強いられてきました。父を手にかけるような男なれば、なにをするかわからぬと恐怖し、多くの者が抗うすべを失いました。兄にとって、父殺しの汚名はかえって好都合だったのかもしれません」
「なるほど……」
トルイユは、細いあごに手をやる。
「しかしながら、ミシェイル王子はドルーアによってオズモンド王が暗殺されたと気づいていたのでは? 気づいていながら、わが国に責をなすりつけたのでありませんか」
「その可能性までは否定いたしません」
ミネルバはまっすぐにトルイユを見すえた。
「真実がどうあれ、罪なき弁務官が殺害されたのは事実。そして、この国で起こったことのすべてにおいて責任はわたしにあります。知らぬこととして、罪を逃れようなどと思ってはおりません」
「どうぞ誤解なさらぬよう。われらの望むことは貴国と良好な関係を築くこと。あなたを理不尽に裁こうなどと考えてはおりません。ただ、両国の未来のために、それなりの誠意を示していただきたいのです」
「……誠意、とは?」
「引きつづき、軍の改革に力をそそいでいただきたく。二度とあのような戦争を引き起こさぬために、わが国も納得できる成果を期待しております」
試すような言葉を残し、トルイユ伯は退室していった。
扉が閉まると、ミネルバは嘆息し、机上に両肘をついた。
「いずれなんらかの沙汰はあると覚悟していたが、神聖帝国の誕生を機に、さっそく仕掛けてきたというわけだ。トルイユ伯はわたしの言ったことなど、なにひとつ信じてはいまい」
「まったく次から次へと……」
ユスタスは心底うんざりしているようだった。 自分を陥れた者たちの尻拭いなど彼にとっては不快きわまりないだろう。
「殿下、もはやあやつらに情けをかけずともよろしいでしょう。誠意を示すべく、いく人かを贄としては?」
「わたしはあの者たちに情けをかけているのではない。アカネイアにとっては、すべてマケドニア人の所業。そこに違いはないのだ。あの者たちを贄に差しだしたところで、いまさらことは収まらぬ」
「たしかに、もはやあやつらには贄としての価値もない。ひとまず、アカネイア宮廷の様子を探りつつ、対応を考えましょう」
「よろしく頼む」
ユスタスが出て行くとミネルバは疲れたように目を閉じた。
この件について、二人はあらかじめ口裏を合わせていたのだろうとリュッケは察した。とりわけ、王暗殺がドルーアの陰謀というくだりは、ユスタスが王女にそう答えるよう吹きこんだのだろう。
敗北した以上、アカネイアへの害意は極力隠さねばならない。王太子がアカネイアを滅ぼすべく父王を殺めてドルーアに与し、あげく王の死をアカネイアの謀殺に仕立て上げたなどと、馬鹿正直に認めるべきではない。
だが、ユスタスの意向をどこまでミネルバは受け入れているのだろうか。
リュッケがその横顔をみつめていると、ミネルバが視線をかえした。
「そなたもすでに真実を知っていようが、いまわたしがトルイユ伯に話したことを真実としたい。……それで幕引きとするほかないのだ。アカネイアは誠意ある対応を求めるとのことだが、死者に罰は与えようもないのだから」
その口調は淡々としていたが、先ほどのやりとりがミネルバにとって本意でないのは明白だった。
傍目に、ミネルバはユスタスの言いなりになっているところがある。母の従弟という関係ゆえか、その政治手腕に依存するゆえか、はたまた七年も虜囚の身にさせた負い目ゆえか。
そのいずれであれ、王女の寛容さがユスタスを宮廷で増長させる要因となっている。
前宰相もオズモンド王の幼少期から近侍であったという立場から王を手のひらのうえで転がしているような節があったが、ユスタスもまたミネルバを自身の掌中であやつろうとしているのがうかがえる。
リュッケが黙したままでいると、いらだたしげな声が飛んだ。
「なにか言いたいことがあるなら申せ」
「……殿下はそれでよいとお考えなのですか」
「よいもなにも、ではそなたは真実を公表せよと言うのか? 兄がアカネイアへの害意から父を手にかけ、ドルーアとともにアカネイア侵略を企てたと」
「そうは申しません。ただ、殿下はまるでユスタスの言いなりになっておられるように思いましたので」
「これはわたしが決めたことだ」
「そう仕向けられたのではないかと申しあげているのです」
まとう空気が変わった。踏みこんではならぬ領域へ立ち入ろうとしている。これ以上は危険だとわかっていながら、リュッケはつづけた。
「ユスタスはドルーアに与した者はみな逆臣であるかのようにあつかいますが、先の戦争は、長きにわたるアカネイアへの遺恨が引き金となったもの。これまで殿下は、いかに敵味方に分かれようとも求めた世界はおなじであったとのお考えだったはず。だからこそ両勢力の分断を避けようとされたのでは? にもかかわらず、ドルーアに騙され、その意のまま侵略を企てたとするなら、先の戦の大義を失うことになりましょう。それではあまりに国の体面というものが――」
「いまのマケドニアに、保てるだけの体面があるというのか」
冷淡な声だった。
言葉を失うリュッケに、ミネルバは短く嘆息する。
「負けたのだ、この国は。ドルーアにではない。ましてやアカネイアにでもない。ただ、あらゆる重みに耐えかねて崩壊した。そしてわれらはすべてを失った。人も、力も、誇りも、遺産も、なにもかもをだ。……その結果がいまだ」
立ちあがったミネルバは、リュッケに背を向けた。窓に手をおき、つぶやくように言った。
「だから守りに入るだけだ」
「すべてを失うとわかったうえで、殿下はアカネイアに味方されたのでは?」
「わたしはアカネイアの味方なぞしていない!」
ふりかえり、ミネルバは叫んだ。リュッケに向けられるその目は怒りにみちていたが、どこかおびえているようにも見えた。
いきなり扉が開かれた。入室してきたのはカゾーニだった。
「いかがされたのです」
扉の外まで声が響いていたのだろう。ミネルバがこんなふうに声を荒らげるのはめったにないことである。
カゾーニは問いつめるような目つきでリュッケを見たが、弁解の余地もなく、視線を落とすほかなかった。
「もうよい、下がれ」
ミネルバは顔をそむけ、小声で命じた。
リュッケは一礼したのち、カゾーニからは目をそらしてきびすを返した。
カゾーニは険悪な空気をただよわせる二人を交互に見やり、ミネルバに足早に歩みよる。
「いったいなにがあったのです」
「ただの八つ当たりです」
ミネルバは苦笑し、手元の書を放るようにカゾーニに渡した。書に目を走らせるうち、カゾーニの顔が蒼白となる。
「これは……」
力なく書を机上におき、カゾーニは重いため息をつく。
「ミシェイルさまは早まったことをされましたな。シモンへの恨みは理解いたしますが、処刑などせず本国に送還すべきでした」
「ミシェイルは勝つつもりでいたのです。負けたときのことなど、つゆほども考えてはいなかった……」
ミネルバは書をたぐりよせる。
「シモンによる父の暗殺は濡れ衣。しかしあの男は国中の怨嗟が向いてもやむをえぬ者ではありました。アカネイアもシモンの目にあまるふるまいを認知していたようですし、私怨による制裁だとわかっているでしょう。こちらの思い違いと押し通すにしても、無実の者を処刑したのは事実。言い逃れはできません」
「トルイユ伯はなんと?」
「引きつづき軍の改革を求めるとのこと。もとより旧勢力の排除はアカネイアが求めてきたことですが、より具体的に、かの一件に関わる者すべての処分を求めているのでしょう」
「しかし、関わる者すべてと申しましても……」
「そこが問題なのです。わたしとてすべてを把握してはいませんが、父の暗殺に関わった者はほんのわずかだったはず。そして、そのほとんどが戦死しているのです」
「ええ、まだ生き残っている者はおりますな」
「カゾーニ」
ミネルバはたしなめるように呼びかけた。
「首謀者たちはすべて戦死した。それで幕引きとするほかないでしょう」
「異を唱えなかった者も裁けと要求してくる可能性は?」
「それならば、わたしがまっさきに裁かれねばなりませんね」
ミネルバが軽口を叩くと、今度はカゾーニが渋面になった。
「父の暗殺は兄に実権を握らせ、同盟を結ばせるためのドルーアのはかりごと。それこそが、われらが信じるべき真実です。それもあながち偽りではありませんから」
「あちらがどう出てくることか。下手を打てば足をすくわれかねませぬ」
「……アカネイアよりも、災いは内にあるのやもしれません」
ふくんだ物言いに、カゾーニは白い眉をよせる。
「あれは、なにに怒っておるのです?」
「父の暗殺はドルーアの陰謀だったと大使に告げたことが不服なのですよ。たしかにこれではマケドニアはドルーアに騙されるまま侵略戦争を引き起こしたと認めることになりますから」
「なにをばかげたことを……いまはそれどころではないというのに」
「いえ、これを不快に思うのはリュッケだけではないはず。それでもわたしは……」
ミネルバは窓によりかかり、つぶやいた。
「兄に父殺しの汚名を着せたくないのです」
カゾーニは唖然とし、それ以上はなにも言わなかった。