第一部

「アドリア侯だと?」
 ユスタスがアカネイア宮廷の状況を報告したとき、ミネルバは信じられぬとばかりに驚きの声を上げた。
「どうぞこちらを」
 書簡を差しだすと、ミネルバは窓辺に近づき書をひらく。焦燥を隠せぬ主を見やりつつ、ユスタスはつづける。
「ハーディン王の人事に、アカネイア宮廷はひどく混乱しておるようです。先の戦で功績のあった者を排斥し、アドリア侯エルネスト・ラングを軍の要職にすえたことには理解に苦しむと」
「……アドリア侯の跡継ぎが、父侯爵とおなじ名というわけではないのだな?」
「ええ、まちがいなく当人です」
「アドリア侯はアカネイア王を裏切り、死に追いやったも同然の者ぞ? なにゆえハーディンどのはそのような男を……」
 ミネルバは書簡のおなじ箇所をいくども目で追っていた。その厳しい横顔を、書斎の南窓から射す陽光が照らしている。
 パレス陥落前、マケドニア軍が剣を交えたアカネイア軍の脆弱さは語り草となっており、ユスタスの耳にも入っている。けっして個々の騎士たちが未熟であったわけではない。国の一大事というのに、前線指揮官の人選にまで宮廷の勢力図を持ちこんだ結果、まるで統率がとれておらず、ドルーア連合軍の前にあえなく崩れ去ったのだ。
 それでもアカネイアの騎士たちは誇り高く最期まで戦ったと伝えられている。しかしアドリア侯はただ兵を退いただけではない。ドルーア軍をパレスに誘導したのだ。くわえてドルーア占領下においても、多くのアカネイア貴族が虜囚の身にあるなか、エルネスト・ラングだけはドルーアから自治が許されていた。占領地で苛烈な徴税を行うだけでは飽き足らず、若い娘を奪い、貴族からも民からも相当な怒りを買っていた。戦後、まっさきに処刑されると目されていた人物である。
「いかにアカネイア王とて、五大侯をおいそれと処刑できぬということでしょう」
 ユスタスは諭すように言った。
「先のギョーム王も五大侯には言いなりのようでしたし。だとしても重用する理由にはなりませんが」
「ニーナ王女には多くの忠臣がおられたし、メニディ侯とディール侯がハーディンどのを支えるべきであろう。いかにしてラングなどに権勢が渡ったのやら……」
 ミネルバの動揺は無理からぬものだった。大貴族ゆえの配慮があるとしても、アドリア侯の登用はその一点をもってハーディン王への信頼を失墜させるに十分なものである。
「殿下、あらためてお聞きしますが、ハーディン王は信頼に足る人物にございますか」
「ハーディンどのは高潔なお人柄で、部下からの信頼の厚さは、誰の目にもあきらかなものだった。マルス王子とおなじく彼もまた英雄と呼ぶにふさわしい御仁だ」
「では、権力を得て、人が変わったということでしょうか」
 なにを言うのかという目でミネルバがにらんだが、ユスタスは渋面を崩さなかった。
「なにゆえ、それほどハーディン王を信用されるのです? 失礼ながら、あなたはオレルアン城を攻め落とし、王都を占領した。とてもあなた方の関係が良好であったとは思えぬのですが」
「そうだ、わたしは侵略者だったのだ。本来なら彼らと同盟など結べるはずもない。だが、ハーディンどのは信じてくれた。わたしをおびき出し、討ち取ることもできたというのに、そうはせず、ただ願いを聞き届けてくれた」
「打算でしょう。パレス奪還のためにあなたの力を欲しただけのこと」
「むろんわれらの利害が一致したがゆえの同盟だ。だが、わたしを同志として迎え入れることは容易ではない。その容易でないことに便宜を取り計らってくれた……。あの者を信じられぬというのであれば、いったい誰を信じられるというのだ?」
「その高潔な人物が当てつけのように送りこんできたのがトルイユ伯ファビアン・カルタスなのです」
「わかっている。しょせんトルイユは猫をかぶったシモンだ。いつ豹変するかわからぬ」
「できるかぎり長く猫をかぶってくれることを祈るしかありませんな」
「いつまでつづくことやら」
 ミネルバは軽く笑いつつ、北側の壁に近づいた。そしていきなりタペストリーをめくりあげた。タペストリーにおおわれていた壁には、小さな木の板が取りつけられており、それを開けるとこぶし大の穴が現れた。
「そなたはこれを知っていたか」
「いえ、はじめて目にしましたが、執務室につながっているのですか」
「ああ。昔、兄がここから父とシモンの様子をのぞき見ていた」
 ユスタスは壁に近づき、腰をかがめて穴をのぞいた。王の執務室の中央あたりが見える。
「わたしも一度だけこの穴から父上を見たことがある。あの日、シモンは父になにかを要求をしていた。父上も強い口調で抗議しておられたが、結局はシモンの足元にひざまづかされ、靴をなめさせられていた。……無茶な要求を突きつけ、なにか便宜を図ってやろうとでも言っていたのかもしれぬ」
 タペストリーを下ろし、ミネルバがふりかえる。
「今後、トルイユ伯が今後シモンのように豹変するやもしれぬが、アカネイア貴族にひれ伏そうともわたしの誇りが傷つくことはない。かつてわたしはドルーアに屈し、命じられるままに他国を侵した。わたしが抗えぬことで、部下たちも巻きこんでしまった。あの屈辱を思えば、今後なにがあろうと耐えられると思う」
「……主君のそのような姿を見せられ、わたしに耐えよと申されるのですか」
 そうだな、とミネルバは軽く笑った。
「わたしも父のそんなお姿は見たくなかった。父を救うためなら、なんでもできると思った。……父の跡を継ぐ兄にも、そんなことはさせたくなかった。あの気位の高い兄が誰かにひざまづく姿など、わたしには耐えられそうにもない」
「だから、ミシェイル王子を討たれたのですね?」
 その問いに、ミネルバの顔色が変わった。
「ずっと不可解だったのです。幼いころからあなたを知るわたしには、あなたにミシェイル王子を殺めるなどできるはずがないと思いました。しかしあなたは覚悟を決められたのですね。すべては、あの王子を救うために……」
 一歩、踏み出す。
「ミシェイル王子がアカネイア軍の手にかかっていたならば、どのような辱めを受けるにいたったか、想像にかたくありません。その首級はパレスに運ばれ、朽ちるまで晒されたことでしょう。だからあなたは兄王子を討ったのでしょう? アカネイアに裁かせぬために」
 ミネルバは黙したままだった。
 ユスタスはそれを肯定ととらえる。
「たしかに正義も大義もない、ただの私情でございますね。断ち切れぬ情愛とでも申しましょうか。だとしても、なにも恥じられることはない。思えば、あなた方はとても仲のよいご兄妹だった」
 ミネルバはなおも口を閉ざしていたが、その顔は悲愴さにみちていた。眉根がきつく寄せられ、長いまつ毛はふるえている。知られてはならぬことを知られてしまい、ひどく恥じ入っているようだった。
 その、らしくない姿に、ユスタスは苦笑する。
「わたしにはあなたがどのような想いで国賊と呼ばれる道を選ばれたのか理解できません。できれば理解したいと思いますが、いまのあなたを見ていると、ミシェイル王子と運命をともにされるのが一番幸せな道だったように思えますよ」
「……あのままでは国が滅ぶと思った。兄はもうドルーアと戦うつもりはないのだと、なによりもアカネイアの崩壊こそが大事なのだと、気づいてしまったから……」
 茫然とつぶやく。
「なんとか考えを変えていただきたかった。わが国のためにはアリティアはけっして討つべき相手ではないのだと。けれど、なにを言ってもわたしの言葉など届かなくて……。思えば、兄が父を手にかけたあの時から、すでに引きかえせる道などなかったのだ。それなのにわたしは……ずっと迷いつづけて、足を踏み出すまでに六年もの歳月を要した。すべて遅きに失していたのだ。そのあいだに、いったいどれほどの者たちが死んだのだろう」
 打ちひしがれたように立ちつくすミネルバに、ユスタスはかける言葉がなかった。
 〈赤い竜騎士〉と呼ばれた王女を彼は知らない。伝え聞くその姿を思いうかべることしかできない。
 悠然と戦場を飛翔し、敵軍を殲滅する天才的指揮官。騎士道に殉じた戦いを好むが、時には非情な作戦を遂行することも厭わぬ冷徹な女将軍。返り血で赤黒く染まろうとも凄絶なまでにうつくしく、まさに戦女神と呼ぶにふさわしい姿であった、と……。
 王女の臣下のみならず、敵対した将軍でさえ、戦場での王女を陶酔気味に語った。
 しかし彼らの崇める偶像はいま、椅子の背に手をおき、立つのもやっとという態でうなだれている。
 王女にとって、ミシェイル王子は敵ではなかった。進むべき未来を照らす光だった。しかし王女はみずからその光を閉ざす道を選んだ。
 微動だにせぬミネルバを見て、ユスタスはめずらしく憐れみの念に駆られる。そして思った。
 兄王子を討った王女の心の荒廃を、顧みる者などいたのだろうか、と。
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