第一部
夜更け、騎士館の自室でくつろいでいたリュッケのもとに、ユスタスがふらりとやってきた。アカネイア公館からの帰りだという。
「さきほどトルイユ伯からいただいたアドリア産の白葡萄酒だ」
ほがらかに笑み、手にしていた酒の瓶を見せる。
「おまえも飲むだろう?」
「殿下にお渡しせずともよいのか」
「あの方は酒はたしなまれぬ」
ユスタスは部屋の中央の長椅子にかけた。
リュッケは棚から栓抜きと杯を二つ取りだし、ユスタスの前に対座した。ユスタスが栓を抜くとあたりに花のような香りが広がった。
リュッケは特に期待もせずにワインを口にしたが、芳香となめらかな舌ざわりに思わず感嘆の息をもらず。
「さすがはアドリア産だな」
「そうか? 香りはともかく味はわが国のものも引けを取らぬ。ブドウの生育にはアカネイアよりも気候が適しているのでな。もっとも、あの者たちは意地でも認めんだろうが」
そう口にするユスタスの横顔は、カゾーニが驚嘆したように、父宰相の面影を濃く宿していた。
もともとユスタスは文武にすぐれた闊達な貴公子だった。竜騎士になったものの二十代のなかばで早々に除隊し、父とおなじくオズモンド王の側近となった。名家の出ゆえか、幼いころから傲慢さと軽薄さが見られ、長じてのちもその気質は変わらなかった。
父宰相の謀叛を知り、ただちに王城に向かったのは、王太子周辺の動きにいちはやく勘づいていたためであろう。結果としてそれは軽率な行いと評さざるをえないが、いまのユスタスにはそういった危うさが見られない。虜囚生活で失われた若さは、むしろ落ち着きや老練さをかもし出すにいたっていた。
先日の狩りでも。馬を駆れるほどに膂力が戻ったせいか、見違えるほどに自信にみちていた。はじめのうちこそ病み上がりの人間を宰相にすえることへの批判はあったが、いまではそんな声も聞かれない。
「トルイユ伯とはなにを話したのだ?」
「両国の友好。軍の再編成。戦前の取り決めをふたたび有効とするか否か……話題は多岐にわたるが、端々にわが国の悪行にふれてくる。はじめこそただの傀儡と思っていたが、あれはシモンとはまた別の種類の食わせ者だな」
「……そうか」
「しかしわたしは囚われの身であったゆえ、探りをいれられようと知らぬ存ぜぬで押し通すこともできる。殿下はそれを狙ってわたしを大使にあてがわれたのだろう」
宮廷の多くの者がトルイユのまばゆい外見と柔和な物腰に騙されているなか、ユスタスはいち早くその本質を見抜いているようだった。
「ああ、それと、殿下の王位継承についてはよく話題にのぼる」
「なんと答えたのだ?」
「未定であるとだけ。事実そうだ」
「まあ、姫君の継承は前例がない。いかにすべきか悩ましいところではあるが……」
ユスタスは鼻で笑った。
「あの方は自分が女だから継げぬと公には説明されるが、そんなもの、いまさら誰が気にするのだ? この国で殿下以上の才知と胆力を備えた男などおるまい。王女自身、ただの口実に使われているだけだ」
「……やはり、アカネイアの出方を気にしておられるのだな?」
「殿下がおっしゃっていた。アカネイアはマケドニア王家の存続を望んではいないと。戦後の混乱を最小限におさえるためだけに自分を統治者として許しただけであろうとな。といっても、アカネイアの真意はわからぬ。戦前のように間接統治を行いたいのか、はたまた完全に占領下におきたいのか……いましばらくはアカネイアの出方をうかがうほうがよいのだろう。まあ、あの方が即位されずともさしたる問題はない。アイオテの王統がつづくこと、大事なのはそれだけだ」
リュッケは眉をよせた。
カゾーニがユスタスを警戒していたのは、父宰相との確執だけが原因ではない。ミネルバはユスタスを七年も虜囚として過ごさせたことへの負い目がある。ユスタスがそこへつけこもうとするのではないかと懸念しているのだ。
ユスタスは王家に連なる貴族たちを〈アイオテの裔〉と口にするが、肝心のメスト家には王家の血は流れていない。モイラ王妃に流れるアイオテの血は、エラルド・メストの兄嫁がアイオテの孫娘であったというだけだ。
メスト公は姪モイラをオズモンド王に嫁がせ、権力を握りつづけたが、ユスタスも父とおなじでそのあたりは抜け目がない。どうやら王女の夫の座を狙っているようだが、それこそが国の安寧につながると確信しているのだ。
宮廷で力を得るべく主君に取り入る。メスト父子のそういった部分が、忠義者でありながら佞臣とも呼ばれ、宮廷で敵を作りつづけてきた一因であろう。
そんな宮廷の様相を、リュッケは冷ややかな目で見てきた。しかしそれはけっして無関心ではなく、手に入らぬものへの強い羨望の裏返しであった。
「それにしても」
ユスタスは感慨深げに言った。
「ミネルバ姫はずいぶんと変わられたな。なにをお考えなのか、いまいち読めぬときがある」
「そんなもの、あたりまえだろう。おまえはまだあの方を幼い姫君とでも思っているのか」
「仕方あるまい。わたしはおまえたちが語る〈赤い竜騎士〉とやらを知らぬ。冷徹な女傑などと、それはいったい誰のことやら」
「くれぐれも王女の直臣の前であの方を軽んじるようなことは言ってくれるな」
「軽んじてなどおらんさ。でなければ姫君に国家の再建などゆだねはせぬ。ただ、姫君にこれほどの重責を担わせていることを申しわけなく思っている」
「ずいぶんと甘いな。おまえらしくもない」
「わたしは赤子のころからあの方を知っていているのだ。甘くもなろうさ。リカルド、おまえもそうではないか。あの方が幼子のころ、よくせがまれ、おまえが陛下のもとへお連れしていた。ほんとうに愛らしい姫君だった」
少し酔ったのだろう。昔のことを歌うような調子で語る。
あれは十八年ほど前のこと。広大な城の中で迷う王女を、主宮警備を担っていたリュッケが保護し、言われるがままに王のもとへと連れてゆくことがよくあった。王の姿は毎日のように見ていたが、直接言葉を交わしたのはあのときぐらいのものだ。
思えば平和な時代だった。まだあの大飢饉が起こる前のことである。
かの大飢饉は、大陸規模で冷害がつづいたことによるが、ことマケドニアの被害が拡大したのはアカネイアの横暴に屈したことによる人災である。もっとも、アカネイアの要求を拒んでいれば報復という形での被害が出た可能性は高い。どちらの道を選んでも、盤石に思えたメスト家の権勢に大きな影を落とすにいたった一件である。
その数年後、王は病を患って失明。飛竜を駆ることもできなくなった。ミシェイルが成年に達したころには、早期に王を退位させ、王子紙を即位させんと主張する廷臣たちと宰相は激しく対立するようになっていた。そんななかでのドルーアの侵攻だった。
マケドニアにとって不運に不運が重なった結果、いまへとたどりついたのだろう。
「王女にはまだお伝えしていないが、先ほどアカネイアより書簡が届いた」
ユスタスはからになった杯をもてあそびながら言う。
「あの者たちはわたしの境遇を知って、ずいぶんと気にかけてくれていてな、パレスや宮廷の様子を知らせてくれることとなった。わたしはいわば前体制の憐れな犠牲者。マケドニアを憎むアカネイア貴族にとって都合のよい存在というわけだが、まったく見くびられたものだ。父がどれほどオズモンドさまに心を砕いていたか、それすらわからぬ者たちには、わたしが王家に恨みを抱いているように見えるのだろうな。まあ、父上が培ってくださったアカネイアとの人脈、最大限利用させてもらうとしよう」
オズモンド王はアカネイアに隷属するだけの腑抜けと揶揄されることも多いが、実際には、宗主国からの要求を唯々諾々と受け入れるようなことはなかった。大飢饉時の対応こそ賛否もあろうが、歴代王がなしえなかった軍備の強化まで成し遂げ、南方の雄と一目置かれるほどに竜騎士団の力を増強した。
しかしながらこの急激な軍拡はアカネイアの不信を買うことにもなった。だからこそ宰相はアカネイアと折衝し、対立を回避してきたのだが、そのさまはアカネイアの意のままとなった宰相が王を懐柔しているようにも映ったことだろう。カゾーニのような宮廷の重鎮でさえ宰相の叛逆を信じたのもこれが要因である。
メスト家の権勢を快く思わぬ者たちが、宰相は王に背信を働き、アカネイアにおもねっていると吹聴した。ミシェイル王子はその状況を利用し、政敵を葬る口実としたのだ。
宰相の腹のうちなどリュッケには推しはかりようもないが、少なくとも息子であるユスタスの目から見れば、赤心からの忠義であったのは間違いないようだ。
ユスタスのミネルバ王女に対する忠義もそれに近いのかもしれない。
「……して、アカネイア宮廷の様子はどうなのだ?」
ワインをつぎながらリュッケは問うた。
「わが国にとってはあまり芳しくはない。ハーディン王はあまり評判のよくない貴族を登用しており、そやつらの専横が目立つそうだ。なんでも、先の戦争でドルーアに取り入り、私腹を肥やしていたような輩を軍の重職につけたとか。どうかしておるとしか思えん」
「ハーディン王は大貴族の傀儡ということか」
「どうだかな。存外、おのれの意思でやつらを重用しておるのやもしれぬぞ。王女は盟友を買いかぶりすぎておられるのではないか。いずれにせよ、先の戦争での友諠などあてにならぬということだ」
ユスタスは含み笑いをしてつづける。
「このこと、王女には明日にでもお伝えする。そのうえであの方がどう判断されるかは見物だな」
「おまえは……またすぐそういうことを言う」
「リカルド、おまえもそうすればよい」
揶揄をふくんだ物言いに、リュッケは眉をよせた。
「おまえに流れるアカネイア貴族の血は有利に働く。利用できるものはなんでも利用すればよい。王女もそうお望みだろう」
「わたしの人脈などさしたるものではない。母の親類縁者はほとんど戦死したようだし、パレスには住んではいても宮廷への影響力を持つ者はおらぬ」
「ならば、アカネイアの随員らに取り入ればよいではないか。おまえ相手ならば、あの者たちも多少口が軽くなるやもしれぬ」
リュッケは不満を隠すことなく黙りこんだ。
現状、マケドニア人はパレスへの出入りが禁じられている。戦前であれば使節団を派遣していたが、いまはそれもかなわない。初春にミネルバ王女が国王夫妻の婚儀に参列するためパレスを訪れたのは、例外中の例外といえるものだった。
この状況において生きた情報を得るにはアカネイアの役人と直接接触するほかないが、アカネイア貴族が他国の人間相手に仲間意識などいだくことはない。わずかな褒美と引き換えに、体よく利用されるのが落ちだろう。
戦前においても、弁務官がリュッケ一族に甘言を弄し、ゆさぶりをかけてくることはいくどもあった。それをユスタスは知っているのだが、リュッケが協力したことはなかった。
「リカルド、なにも不満に思うようなことではないだろう?」
ユスタスがせせら笑う。
「祖国を蹂躙したドルーアの犬どもが一掃され、ようやくあるべき方に王位が渡ろうとしている。全力でお支えするのがわれらの本懐ではないか」
「だからやつらに取り入れと?」
「そうだ。リュッケ家はアイオテの流れを汲む名門。おまえはその血にふさわしい地位を求めていただろう?」
「わたしにそのようなつもりはない」
「隠すな。あのままくすぶっているつもりはなかったのだろう? ならば、いまを好機と思え、殿下もおまえのことは身内と思い、頼りにしておられるのだから」
リュッケは、モイラ妃と従姉弟にあたり、血筋だけならば非常に王家と近しい間柄にある。リュッケ家の興隆はモイラ妃の祖父でもあるオーレフ・リュッケに端を発するが、その没落もまたオーレフに起因した。
第二代イルテアス王の時代、リュッケ家の当主オーレフはアイオテの娘ダフネを妻とし、義兄となったイルテアス王を献身に支えたとされる。しかしイルテアス王の急死の直後に執務室で自刃した。表向きは殉死として扱われているが、アカネイアの手先となり王を毒殺したことを苦にしての自裁だったと、なかば真実のように語られてきた。
当時、時のアカネイア王カルタスが、グルニアの勢力拡大を阻止せんとしマケドニアに武力の行使を命じたが、イルテアスがそれを拒んだためにアカネイアの不興を買い、宰相によって毒を盛られたのではないかと目されている。
あくまで噂にすぎないのだが、王殺しの一族として宮廷から爪弾きにされたリュッケ家はその後も悪手をとりつづけた。オーレフの嫡子はアカネイア貴族を娶り、そして生まれたのがリカルドと兄のブルーノであるが、ブルーノもまたアカネイア貴族を妻としたため、ますます反アカネイアの貴族から疎んじられることとなった。
唯一の例外がカゾーニで、オーレフの次男に生まれながら他家の養子に遣られたことが幸いし、オズモンドとミシェイル父子の守り役をつとめた。それでもカゾーニ自身は父を負い目に感じてか、独り身を貫き、子ももうけなかった。
戦前においてリュッケはまるでアカネイアの間諜のように見なされ、爪弾きされてきたからこそ、政争に巻きこまれることもなく、戦後まで生き抜くことができた。親ドルーア派の貴族が力を失った結果、リュッケのおかれている立場は一転し、論功行賞としては不相応と評されながらも騎士団長にまで任じられた。
公平さを重んじるミネルバ王女でさえ、リュッケの生まれを利用しているが、それを理不尽に思うことはない。苦汁にみちた半生を過ごしてきたリュッケにとっては好都合であった。
ミネルバはリュッケに欲がないと言ったが、彼自身はおのれのなかにある野心を明確に自覚していた。けっして得られぬものと知っていたから、はじめからなにも望まなかっただけだった。
いま、ようやく宮廷の中枢に身を置くことができ、ミネルバからの信頼も得られた。だが心が満たされることはない。
リュッケは肘掛けによりかかり、横目でユスタスを見た。
すべてにおいて恵まれた男。
叛逆の濡れ衣によって地に落ち、牢の中を地虫のように這いずり回るだけだったというのに、すぐさまこうして追い抜いてゆくのだ。
このうえさらに王になろうとするなどと。
なにもかもうまくゆくわけがない。そうであってはならぬのだ――
腹の底からふつふつと沸きあがる私憤を抑えこむように、リュッケは白ワインを流しこんだ。
「さきほどトルイユ伯からいただいたアドリア産の白葡萄酒だ」
ほがらかに笑み、手にしていた酒の瓶を見せる。
「おまえも飲むだろう?」
「殿下にお渡しせずともよいのか」
「あの方は酒はたしなまれぬ」
ユスタスは部屋の中央の長椅子にかけた。
リュッケは棚から栓抜きと杯を二つ取りだし、ユスタスの前に対座した。ユスタスが栓を抜くとあたりに花のような香りが広がった。
リュッケは特に期待もせずにワインを口にしたが、芳香となめらかな舌ざわりに思わず感嘆の息をもらず。
「さすがはアドリア産だな」
「そうか? 香りはともかく味はわが国のものも引けを取らぬ。ブドウの生育にはアカネイアよりも気候が適しているのでな。もっとも、あの者たちは意地でも認めんだろうが」
そう口にするユスタスの横顔は、カゾーニが驚嘆したように、父宰相の面影を濃く宿していた。
もともとユスタスは文武にすぐれた闊達な貴公子だった。竜騎士になったものの二十代のなかばで早々に除隊し、父とおなじくオズモンド王の側近となった。名家の出ゆえか、幼いころから傲慢さと軽薄さが見られ、長じてのちもその気質は変わらなかった。
父宰相の謀叛を知り、ただちに王城に向かったのは、王太子周辺の動きにいちはやく勘づいていたためであろう。結果としてそれは軽率な行いと評さざるをえないが、いまのユスタスにはそういった危うさが見られない。虜囚生活で失われた若さは、むしろ落ち着きや老練さをかもし出すにいたっていた。
先日の狩りでも。馬を駆れるほどに膂力が戻ったせいか、見違えるほどに自信にみちていた。はじめのうちこそ病み上がりの人間を宰相にすえることへの批判はあったが、いまではそんな声も聞かれない。
「トルイユ伯とはなにを話したのだ?」
「両国の友好。軍の再編成。戦前の取り決めをふたたび有効とするか否か……話題は多岐にわたるが、端々にわが国の悪行にふれてくる。はじめこそただの傀儡と思っていたが、あれはシモンとはまた別の種類の食わせ者だな」
「……そうか」
「しかしわたしは囚われの身であったゆえ、探りをいれられようと知らぬ存ぜぬで押し通すこともできる。殿下はそれを狙ってわたしを大使にあてがわれたのだろう」
宮廷の多くの者がトルイユのまばゆい外見と柔和な物腰に騙されているなか、ユスタスはいち早くその本質を見抜いているようだった。
「ああ、それと、殿下の王位継承についてはよく話題にのぼる」
「なんと答えたのだ?」
「未定であるとだけ。事実そうだ」
「まあ、姫君の継承は前例がない。いかにすべきか悩ましいところではあるが……」
ユスタスは鼻で笑った。
「あの方は自分が女だから継げぬと公には説明されるが、そんなもの、いまさら誰が気にするのだ? この国で殿下以上の才知と胆力を備えた男などおるまい。王女自身、ただの口実に使われているだけだ」
「……やはり、アカネイアの出方を気にしておられるのだな?」
「殿下がおっしゃっていた。アカネイアはマケドニア王家の存続を望んではいないと。戦後の混乱を最小限におさえるためだけに自分を統治者として許しただけであろうとな。といっても、アカネイアの真意はわからぬ。戦前のように間接統治を行いたいのか、はたまた完全に占領下におきたいのか……いましばらくはアカネイアの出方をうかがうほうがよいのだろう。まあ、あの方が即位されずともさしたる問題はない。アイオテの王統がつづくこと、大事なのはそれだけだ」
リュッケは眉をよせた。
カゾーニがユスタスを警戒していたのは、父宰相との確執だけが原因ではない。ミネルバはユスタスを七年も虜囚として過ごさせたことへの負い目がある。ユスタスがそこへつけこもうとするのではないかと懸念しているのだ。
ユスタスは王家に連なる貴族たちを〈アイオテの裔〉と口にするが、肝心のメスト家には王家の血は流れていない。モイラ王妃に流れるアイオテの血は、エラルド・メストの兄嫁がアイオテの孫娘であったというだけだ。
メスト公は姪モイラをオズモンド王に嫁がせ、権力を握りつづけたが、ユスタスも父とおなじでそのあたりは抜け目がない。どうやら王女の夫の座を狙っているようだが、それこそが国の安寧につながると確信しているのだ。
宮廷で力を得るべく主君に取り入る。メスト父子のそういった部分が、忠義者でありながら佞臣とも呼ばれ、宮廷で敵を作りつづけてきた一因であろう。
そんな宮廷の様相を、リュッケは冷ややかな目で見てきた。しかしそれはけっして無関心ではなく、手に入らぬものへの強い羨望の裏返しであった。
「それにしても」
ユスタスは感慨深げに言った。
「ミネルバ姫はずいぶんと変わられたな。なにをお考えなのか、いまいち読めぬときがある」
「そんなもの、あたりまえだろう。おまえはまだあの方を幼い姫君とでも思っているのか」
「仕方あるまい。わたしはおまえたちが語る〈赤い竜騎士〉とやらを知らぬ。冷徹な女傑などと、それはいったい誰のことやら」
「くれぐれも王女の直臣の前であの方を軽んじるようなことは言ってくれるな」
「軽んじてなどおらんさ。でなければ姫君に国家の再建などゆだねはせぬ。ただ、姫君にこれほどの重責を担わせていることを申しわけなく思っている」
「ずいぶんと甘いな。おまえらしくもない」
「わたしは赤子のころからあの方を知っていているのだ。甘くもなろうさ。リカルド、おまえもそうではないか。あの方が幼子のころ、よくせがまれ、おまえが陛下のもとへお連れしていた。ほんとうに愛らしい姫君だった」
少し酔ったのだろう。昔のことを歌うような調子で語る。
あれは十八年ほど前のこと。広大な城の中で迷う王女を、主宮警備を担っていたリュッケが保護し、言われるがままに王のもとへと連れてゆくことがよくあった。王の姿は毎日のように見ていたが、直接言葉を交わしたのはあのときぐらいのものだ。
思えば平和な時代だった。まだあの大飢饉が起こる前のことである。
かの大飢饉は、大陸規模で冷害がつづいたことによるが、ことマケドニアの被害が拡大したのはアカネイアの横暴に屈したことによる人災である。もっとも、アカネイアの要求を拒んでいれば報復という形での被害が出た可能性は高い。どちらの道を選んでも、盤石に思えたメスト家の権勢に大きな影を落とすにいたった一件である。
その数年後、王は病を患って失明。飛竜を駆ることもできなくなった。ミシェイルが成年に達したころには、早期に王を退位させ、王子紙を即位させんと主張する廷臣たちと宰相は激しく対立するようになっていた。そんななかでのドルーアの侵攻だった。
マケドニアにとって不運に不運が重なった結果、いまへとたどりついたのだろう。
「王女にはまだお伝えしていないが、先ほどアカネイアより書簡が届いた」
ユスタスはからになった杯をもてあそびながら言う。
「あの者たちはわたしの境遇を知って、ずいぶんと気にかけてくれていてな、パレスや宮廷の様子を知らせてくれることとなった。わたしはいわば前体制の憐れな犠牲者。マケドニアを憎むアカネイア貴族にとって都合のよい存在というわけだが、まったく見くびられたものだ。父がどれほどオズモンドさまに心を砕いていたか、それすらわからぬ者たちには、わたしが王家に恨みを抱いているように見えるのだろうな。まあ、父上が培ってくださったアカネイアとの人脈、最大限利用させてもらうとしよう」
オズモンド王はアカネイアに隷属するだけの腑抜けと揶揄されることも多いが、実際には、宗主国からの要求を唯々諾々と受け入れるようなことはなかった。大飢饉時の対応こそ賛否もあろうが、歴代王がなしえなかった軍備の強化まで成し遂げ、南方の雄と一目置かれるほどに竜騎士団の力を増強した。
しかしながらこの急激な軍拡はアカネイアの不信を買うことにもなった。だからこそ宰相はアカネイアと折衝し、対立を回避してきたのだが、そのさまはアカネイアの意のままとなった宰相が王を懐柔しているようにも映ったことだろう。カゾーニのような宮廷の重鎮でさえ宰相の叛逆を信じたのもこれが要因である。
メスト家の権勢を快く思わぬ者たちが、宰相は王に背信を働き、アカネイアにおもねっていると吹聴した。ミシェイル王子はその状況を利用し、政敵を葬る口実としたのだ。
宰相の腹のうちなどリュッケには推しはかりようもないが、少なくとも息子であるユスタスの目から見れば、赤心からの忠義であったのは間違いないようだ。
ユスタスのミネルバ王女に対する忠義もそれに近いのかもしれない。
「……して、アカネイア宮廷の様子はどうなのだ?」
ワインをつぎながらリュッケは問うた。
「わが国にとってはあまり芳しくはない。ハーディン王はあまり評判のよくない貴族を登用しており、そやつらの専横が目立つそうだ。なんでも、先の戦争でドルーアに取り入り、私腹を肥やしていたような輩を軍の重職につけたとか。どうかしておるとしか思えん」
「ハーディン王は大貴族の傀儡ということか」
「どうだかな。存外、おのれの意思でやつらを重用しておるのやもしれぬぞ。王女は盟友を買いかぶりすぎておられるのではないか。いずれにせよ、先の戦争での友諠などあてにならぬということだ」
ユスタスは含み笑いをしてつづける。
「このこと、王女には明日にでもお伝えする。そのうえであの方がどう判断されるかは見物だな」
「おまえは……またすぐそういうことを言う」
「リカルド、おまえもそうすればよい」
揶揄をふくんだ物言いに、リュッケは眉をよせた。
「おまえに流れるアカネイア貴族の血は有利に働く。利用できるものはなんでも利用すればよい。王女もそうお望みだろう」
「わたしの人脈などさしたるものではない。母の親類縁者はほとんど戦死したようだし、パレスには住んではいても宮廷への影響力を持つ者はおらぬ」
「ならば、アカネイアの随員らに取り入ればよいではないか。おまえ相手ならば、あの者たちも多少口が軽くなるやもしれぬ」
リュッケは不満を隠すことなく黙りこんだ。
現状、マケドニア人はパレスへの出入りが禁じられている。戦前であれば使節団を派遣していたが、いまはそれもかなわない。初春にミネルバ王女が国王夫妻の婚儀に参列するためパレスを訪れたのは、例外中の例外といえるものだった。
この状況において生きた情報を得るにはアカネイアの役人と直接接触するほかないが、アカネイア貴族が他国の人間相手に仲間意識などいだくことはない。わずかな褒美と引き換えに、体よく利用されるのが落ちだろう。
戦前においても、弁務官がリュッケ一族に甘言を弄し、ゆさぶりをかけてくることはいくどもあった。それをユスタスは知っているのだが、リュッケが協力したことはなかった。
「リカルド、なにも不満に思うようなことではないだろう?」
ユスタスがせせら笑う。
「祖国を蹂躙したドルーアの犬どもが一掃され、ようやくあるべき方に王位が渡ろうとしている。全力でお支えするのがわれらの本懐ではないか」
「だからやつらに取り入れと?」
「そうだ。リュッケ家はアイオテの流れを汲む名門。おまえはその血にふさわしい地位を求めていただろう?」
「わたしにそのようなつもりはない」
「隠すな。あのままくすぶっているつもりはなかったのだろう? ならば、いまを好機と思え、殿下もおまえのことは身内と思い、頼りにしておられるのだから」
リュッケは、モイラ妃と従姉弟にあたり、血筋だけならば非常に王家と近しい間柄にある。リュッケ家の興隆はモイラ妃の祖父でもあるオーレフ・リュッケに端を発するが、その没落もまたオーレフに起因した。
第二代イルテアス王の時代、リュッケ家の当主オーレフはアイオテの娘ダフネを妻とし、義兄となったイルテアス王を献身に支えたとされる。しかしイルテアス王の急死の直後に執務室で自刃した。表向きは殉死として扱われているが、アカネイアの手先となり王を毒殺したことを苦にしての自裁だったと、なかば真実のように語られてきた。
当時、時のアカネイア王カルタスが、グルニアの勢力拡大を阻止せんとしマケドニアに武力の行使を命じたが、イルテアスがそれを拒んだためにアカネイアの不興を買い、宰相によって毒を盛られたのではないかと目されている。
あくまで噂にすぎないのだが、王殺しの一族として宮廷から爪弾きにされたリュッケ家はその後も悪手をとりつづけた。オーレフの嫡子はアカネイア貴族を娶り、そして生まれたのがリカルドと兄のブルーノであるが、ブルーノもまたアカネイア貴族を妻としたため、ますます反アカネイアの貴族から疎んじられることとなった。
唯一の例外がカゾーニで、オーレフの次男に生まれながら他家の養子に遣られたことが幸いし、オズモンドとミシェイル父子の守り役をつとめた。それでもカゾーニ自身は父を負い目に感じてか、独り身を貫き、子ももうけなかった。
戦前においてリュッケはまるでアカネイアの間諜のように見なされ、爪弾きされてきたからこそ、政争に巻きこまれることもなく、戦後まで生き抜くことができた。親ドルーア派の貴族が力を失った結果、リュッケのおかれている立場は一転し、論功行賞としては不相応と評されながらも騎士団長にまで任じられた。
公平さを重んじるミネルバ王女でさえ、リュッケの生まれを利用しているが、それを理不尽に思うことはない。苦汁にみちた半生を過ごしてきたリュッケにとっては好都合であった。
ミネルバはリュッケに欲がないと言ったが、彼自身はおのれのなかにある野心を明確に自覚していた。けっして得られぬものと知っていたから、はじめからなにも望まなかっただけだった。
いま、ようやく宮廷の中枢に身を置くことができ、ミネルバからの信頼も得られた。だが心が満たされることはない。
リュッケは肘掛けによりかかり、横目でユスタスを見た。
すべてにおいて恵まれた男。
叛逆の濡れ衣によって地に落ち、牢の中を地虫のように這いずり回るだけだったというのに、すぐさまこうして追い抜いてゆくのだ。
このうえさらに王になろうとするなどと。
なにもかもうまくゆくわけがない。そうであってはならぬのだ――
腹の底からふつふつと沸きあがる私憤を抑えこむように、リュッケは白ワインを流しこんだ。