第一部
お忍びで修道院に訪れたミネルバ王女は、レナとともに回廊を歩いていた。黒地に金模様が縫いとりされた軍服に深紅のマントをまとい、端正な足どりで奥へと進んでいく。回廊を吹き抜ける風はやわらかく、咲きほころぶ花の香りをあたりに運んでいた。
礼拝堂の裏手に広がる薬草園には、シスターと子供たちがいた。そのうちの一人、カミツレの花を摘んでいる七つほどの少女にミネルバは近づいていく。
「あなたはエルマといいましたね」
やさしく語りかけると、エルマは大きな茶色の目をみはった。
「あなたはいつも薬草の世話をしているのですか」
「はい。シスターと一緒にお水をあげたり、摘みとったりしています」
「ここでの生活で困っていることはありませんか」
「いいえ」
「では、いいことはありましたか」
「たくさん字をおぼえられたこと、妹の病気が良くなってること、それと……」
おずおずとミネルバを見上げた。
「殿下がまた来てくださったこと」
栗色のおさげ髪をなでると、エルマははにかむようにほほえんだ。
王都東部に位置するテオフィラ修道院は、初代王アイオテの孫娘によって設立された。テオフィラ王女は夫であるヴェーリ伯の死後、持参金をもとに修道院を設立し、弱き者の救済につとめた。戦後はヴェーリ伯マチスの妹レナによって運営されている。
子供たち一人ずつに声をかけ終え、ふたたび回廊を進むと、中庭の噴水の周りで三人の女の子たちが駆けまわっていた。そのなかで一番小さい、二歳ぐらいの巻き毛の女の子がレナのほうへ駆けてきた。
「まあ、アニー」
甘えんぼうさんね、とレナは僧衣にすがりつく子供を抱きしめた。
「その子は、テルニ村の子でしたか」
「はい。この子のほかに、あの二人も」
レナは目をほそめて噴水を見やった。六歳ぐらいの女の子たちがスカートのすそをひるがえし、水を手ですくっては、ふりまいて笑い声を上げた。顔に水をかけられた見習いシスターが、二人のお転婆ぶりをたしなめている。
「先月訪れたときより、子供たちはずいぶんと明るくなったようですね」
「夜になると急に泣き出す子もいますけれど、ここにいれば安心だと抱きしめると眠ってくれるのです」
「あなたにも苦労をかけますね」
「いいえ。これは、神がわたしに与えたもうた使命と思っておりますから」
レナはアニーの手を引いて、木陰の長椅子に腰かけた。
ミネルバもそのとなりに腰を下ろす。
木漏れ日のもと、アニーは大きな黒い瞳をかがやかせ、笑みをふりまいていた。ミネルバの顔もほころぶが、その目には悲哀が入りまじっている。
アニーたちが暮らしていたテルニ村は賊に襲われ、村人のほとんどが惨殺された。テルニ村だけではない。戦争末期、国軍の目が行き届かなくなった辺境の村々でわずかな蓄えを奪うために多くの命が失われた。
もとは国を守るための戦いだった。けっして侵略が目的だったわけではない。しかしいかな大義を掲げようと、着地点を見失い、終わりなき戦いがつづくにつれ、守られるべきはずの民は見捨てられていった。
ふいにひざに重みを感じ、ミネルバは目をみひらいた。アニーがひざによじのぼってきていた。じっとミネルバを見あげて、ちいさな手をのばしている。
「どうしたの、アニー」
ほほえみかけると、いきなり首に抱きついてくる。ミネルバは一瞬とまどったものの、ゆっくりと体の力を抜いた。無邪気な幼子とのふれあいは、日々政務に追われるミネルバにやすらぎを与えるものだった。
目を閉じて、あやすように体をゆらしていると、レナがくすくすと笑った。
「あいかわらず子供になつかれますね」
「……人懐こい子のようですから」
「いいえ、この子はなかなか心を開いてくれませんでしたの」
レナは目元をかげらせた。
「ここへ引き取ってしばらくのあいだ、誰に対してもひどく怯えていました。少しずつ笑ってくれるようになりましたが、それでも近寄ってくるのは、おなじ村の子かわたしぐらいです。以前はもっとおしゃべりの好きな子だったようなのですが、めっきり口をきかなくなってしまったみたいで……」
「それほど怖い思いをしたのでしょう」
「ええ……グルニアでもそういった子たちをたくさん見てきました」
深刻な話をよそに笑い声をあげるアニーを抱きしめ、ミネルバは眉根をよせた。
「レナ」
「はい」
「ほんとうは、グルニアへ戻りたかったのではないのですか」
しばし沈黙が落ちる。
「あなたはずっとグルニアの民のために尽くしてきたでしょう? それに……あなたにとってこの国は、あまりよい思い出はないでしょうに」
レナはほほえみ、ゆるくかぶりをふった。
「グルニアのことはいつも心にかかっています。ですが、あちらには祖父がおりますし、わたしとともに修業を積んだ尼僧たちもおります。この修道院は亡き母が遺してくれたもの。わたしにはここで果たすべき役割があると思っているのです」
たおやかでありながら、芯の強さを秘めた瞳だった。
レナは生まれこそマケドニアだが、母の故郷グルニアで尼僧として修業を積み、恵まれない者たちのために働いてきた。養父の野心により故国に戻されたものの、自身の存在が政争に利用されることを嫌い、ふたたび国を出た。その後は戦火の吹き荒れる各地で癒しの手を差しのべつづけてきた。そしていま、彼女の慈愛は祖国の者たちにむけられている。
「シスター・レナ」
噴水で遊んでいた女の子たちが駆けよってきた。
「わたしたち、これからお食事の手伝いをしてきます」
「その前に菜園に行ってらっしゃい。野イチゴがたくさんなっているわ」
「わあ、アニーも行こ!」
女の子たちに手を引かれ、アニーは菜園のほうへとことこ歩いていった。
「では、次はあちらを」
レナにいざなわれ、図書館のある建物へと向かう。南向きの一棟は子供たちの学び舎である。
声が響かぬよう、レナが耳元でささやく。
「フロスト司祭が週に二度来てくださるんです」
「とても慕われているそうですね。孫がたくさん増えたようだとよろこんでいました」
「年長の子たちはいま、司祭からさまざまな勉強を教わっています。まだ読み書きはまだあまりできませんが、早くたくさんの本を読めるようになりたいとみな懸命にがんばっています」
「では、そちらは遠慮しましょう。邪魔をしてしまいますので」
開いた扉のすきまからちらと部屋をうかがうと、十人ほどの子供たちがフロスト司祭の話に聞き入っていた。そのうち四人が男の子だった。
通路を進みながら、ミネルバが尋ねる。
「引き取られた男の子たちはたしか五人だったのでは?」
「はい。一人は先日、南部の商家へ引き取られていきました」
「そうでしたか」
「年長の二人にも養子のお話があるのです。よい方であれば、申し出をお受けしようと思います」
「もっと民の暮らしが落ちつけば、引き取り手も出てくるでしょう」
テオフィラ修道院は創設時より修道よりも慈善に重きをおいてきた。王家から支援を受け、恵まれない者たちを保護してきたが、今年に入ってからレナは孤児を五十人ほど受け入れた。下は一歳、上は十一歳まで。その大半が労働力にはならぬと見捨てられた幼い女児だった。
通路の奥の階段を上り、二階の渡り廊下から中庭を見下ろす。授業を終えた子供たちが厨房のある棟へと駆けていくのが見えた。おだやかな目で子供たちをみつめるミネルバに、レナがそっと語りかける。
「お礼を申しあげるのが遅れましたが、先だっての援助に感謝しております」
「わずかばかりです」
「そんな……どれほどの足しになるか」
ミネルバはしばし沈黙し、ゆっくりとふりむいた。吹き抜ける風が赤いマントを大きくあおる。
「あなたも知っているでしょうが、この国には十五歳前後の者が非常に少ないのです。この国の未来を担うであろう若者たちが……」
「あのころグルニアでも多くの民が飢えていましたが、マケドニアはそれ以上だったと聞きおよんでおります」
「父のなされた判断のすべてが誤りとは思いません。ですが結果として多くの民を見捨てることとなったのは事実。乳飲み子や幼子から息絶え、親たちはそれを嘆き悲しむ力もないほど飢えていた……。あのような時代をへたからこそ、この国は戦争へと走らせることとなったのです」
ミネルバは悲痛に目を細める。
「この国はドルーアの野望に与し、そして敗北しました。多くの騎士たちが戦場に散り、国は荒廃し、その結果、こうして孤児たちがあふれています。……あの子たちはこの国の未来です。どうかあなたの手で癒してあげてください」
「はい、わたしのすべての力を捧げたいと思っています」
レナは胸の前を手を組み合わせた。
ミネルバは重々しくうなづく。
「わたしはわたしのなすべきことに力をそそぎます。この国の民を守ること、それがわたしの使命ですから……」
その声はどこかうつろだった。
いま、ミネルバの脳裏にうかぶのは、民の歓喜する姿だった。七年前、祖国解放のためにアカネイアと戦うとミシェイルが宣言した日の情景が頭をめぐっていた。
民は、アイオテの裔たる王家の者を神のように崇めていた。だからこそ多くの若者が遠征軍に加わった。本国に残った者は大仰に発表される戦勝の報を受けとるばかりだった。天啓のごときまばゆい光が彼らの目をくらませていた。
ミネルバが同盟軍に加わり、マケドニアの敗退がつづいても、彼らはなにも知らぬままであった。兵士に取られた者たちは帰還せず、人手のいなくなった田畑は荒れ、賊の襲撃を受けても王都からの助けはこない。そこでやっと、頭上をおおう暗雲に気づいたのだろう。
敗戦ののち、マケドニアはアカネイアの占領下におかれる可能性もあったが、幸いなことにミネルバによる統治が許された。これを知ったときも民は歓喜した。彼らには敗北というものがよく理解できていないのかもしれない。
正午を告げる修道院の鐘が鳴った。
ミネルバは空を見あげた。すっきりした蒼天だが、東の空に一雨きそうな雲が低くたれこめていた。
「そろそろ戻ります」
「いつもお忙しいのですね」
「午後に、客人が訪れる予定があるのです」
「どうぞご無理はなさらず」
「あなたこそ」
屋上にあがり、愛竜イージスの背に乗ろうとしたところ、シスターに連れられたエルマが現れた。その小さな手にはリラの花がにぎられていた。
シスターにうながされ、おずおずと進み出てくる。
「殿下にこのお花を。その、とてもよい香りだから……」
「ありがとう」
受けとったリラの花を胸に抱き、ミネルバは修道院を後にした。
礼拝堂の裏手に広がる薬草園には、シスターと子供たちがいた。そのうちの一人、カミツレの花を摘んでいる七つほどの少女にミネルバは近づいていく。
「あなたはエルマといいましたね」
やさしく語りかけると、エルマは大きな茶色の目をみはった。
「あなたはいつも薬草の世話をしているのですか」
「はい。シスターと一緒にお水をあげたり、摘みとったりしています」
「ここでの生活で困っていることはありませんか」
「いいえ」
「では、いいことはありましたか」
「たくさん字をおぼえられたこと、妹の病気が良くなってること、それと……」
おずおずとミネルバを見上げた。
「殿下がまた来てくださったこと」
栗色のおさげ髪をなでると、エルマははにかむようにほほえんだ。
王都東部に位置するテオフィラ修道院は、初代王アイオテの孫娘によって設立された。テオフィラ王女は夫であるヴェーリ伯の死後、持参金をもとに修道院を設立し、弱き者の救済につとめた。戦後はヴェーリ伯マチスの妹レナによって運営されている。
子供たち一人ずつに声をかけ終え、ふたたび回廊を進むと、中庭の噴水の周りで三人の女の子たちが駆けまわっていた。そのなかで一番小さい、二歳ぐらいの巻き毛の女の子がレナのほうへ駆けてきた。
「まあ、アニー」
甘えんぼうさんね、とレナは僧衣にすがりつく子供を抱きしめた。
「その子は、テルニ村の子でしたか」
「はい。この子のほかに、あの二人も」
レナは目をほそめて噴水を見やった。六歳ぐらいの女の子たちがスカートのすそをひるがえし、水を手ですくっては、ふりまいて笑い声を上げた。顔に水をかけられた見習いシスターが、二人のお転婆ぶりをたしなめている。
「先月訪れたときより、子供たちはずいぶんと明るくなったようですね」
「夜になると急に泣き出す子もいますけれど、ここにいれば安心だと抱きしめると眠ってくれるのです」
「あなたにも苦労をかけますね」
「いいえ。これは、神がわたしに与えたもうた使命と思っておりますから」
レナはアニーの手を引いて、木陰の長椅子に腰かけた。
ミネルバもそのとなりに腰を下ろす。
木漏れ日のもと、アニーは大きな黒い瞳をかがやかせ、笑みをふりまいていた。ミネルバの顔もほころぶが、その目には悲哀が入りまじっている。
アニーたちが暮らしていたテルニ村は賊に襲われ、村人のほとんどが惨殺された。テルニ村だけではない。戦争末期、国軍の目が行き届かなくなった辺境の村々でわずかな蓄えを奪うために多くの命が失われた。
もとは国を守るための戦いだった。けっして侵略が目的だったわけではない。しかしいかな大義を掲げようと、着地点を見失い、終わりなき戦いがつづくにつれ、守られるべきはずの民は見捨てられていった。
ふいにひざに重みを感じ、ミネルバは目をみひらいた。アニーがひざによじのぼってきていた。じっとミネルバを見あげて、ちいさな手をのばしている。
「どうしたの、アニー」
ほほえみかけると、いきなり首に抱きついてくる。ミネルバは一瞬とまどったものの、ゆっくりと体の力を抜いた。無邪気な幼子とのふれあいは、日々政務に追われるミネルバにやすらぎを与えるものだった。
目を閉じて、あやすように体をゆらしていると、レナがくすくすと笑った。
「あいかわらず子供になつかれますね」
「……人懐こい子のようですから」
「いいえ、この子はなかなか心を開いてくれませんでしたの」
レナは目元をかげらせた。
「ここへ引き取ってしばらくのあいだ、誰に対してもひどく怯えていました。少しずつ笑ってくれるようになりましたが、それでも近寄ってくるのは、おなじ村の子かわたしぐらいです。以前はもっとおしゃべりの好きな子だったようなのですが、めっきり口をきかなくなってしまったみたいで……」
「それほど怖い思いをしたのでしょう」
「ええ……グルニアでもそういった子たちをたくさん見てきました」
深刻な話をよそに笑い声をあげるアニーを抱きしめ、ミネルバは眉根をよせた。
「レナ」
「はい」
「ほんとうは、グルニアへ戻りたかったのではないのですか」
しばし沈黙が落ちる。
「あなたはずっとグルニアの民のために尽くしてきたでしょう? それに……あなたにとってこの国は、あまりよい思い出はないでしょうに」
レナはほほえみ、ゆるくかぶりをふった。
「グルニアのことはいつも心にかかっています。ですが、あちらには祖父がおりますし、わたしとともに修業を積んだ尼僧たちもおります。この修道院は亡き母が遺してくれたもの。わたしにはここで果たすべき役割があると思っているのです」
たおやかでありながら、芯の強さを秘めた瞳だった。
レナは生まれこそマケドニアだが、母の故郷グルニアで尼僧として修業を積み、恵まれない者たちのために働いてきた。養父の野心により故国に戻されたものの、自身の存在が政争に利用されることを嫌い、ふたたび国を出た。その後は戦火の吹き荒れる各地で癒しの手を差しのべつづけてきた。そしていま、彼女の慈愛は祖国の者たちにむけられている。
「シスター・レナ」
噴水で遊んでいた女の子たちが駆けよってきた。
「わたしたち、これからお食事の手伝いをしてきます」
「その前に菜園に行ってらっしゃい。野イチゴがたくさんなっているわ」
「わあ、アニーも行こ!」
女の子たちに手を引かれ、アニーは菜園のほうへとことこ歩いていった。
「では、次はあちらを」
レナにいざなわれ、図書館のある建物へと向かう。南向きの一棟は子供たちの学び舎である。
声が響かぬよう、レナが耳元でささやく。
「フロスト司祭が週に二度来てくださるんです」
「とても慕われているそうですね。孫がたくさん増えたようだとよろこんでいました」
「年長の子たちはいま、司祭からさまざまな勉強を教わっています。まだ読み書きはまだあまりできませんが、早くたくさんの本を読めるようになりたいとみな懸命にがんばっています」
「では、そちらは遠慮しましょう。邪魔をしてしまいますので」
開いた扉のすきまからちらと部屋をうかがうと、十人ほどの子供たちがフロスト司祭の話に聞き入っていた。そのうち四人が男の子だった。
通路を進みながら、ミネルバが尋ねる。
「引き取られた男の子たちはたしか五人だったのでは?」
「はい。一人は先日、南部の商家へ引き取られていきました」
「そうでしたか」
「年長の二人にも養子のお話があるのです。よい方であれば、申し出をお受けしようと思います」
「もっと民の暮らしが落ちつけば、引き取り手も出てくるでしょう」
テオフィラ修道院は創設時より修道よりも慈善に重きをおいてきた。王家から支援を受け、恵まれない者たちを保護してきたが、今年に入ってからレナは孤児を五十人ほど受け入れた。下は一歳、上は十一歳まで。その大半が労働力にはならぬと見捨てられた幼い女児だった。
通路の奥の階段を上り、二階の渡り廊下から中庭を見下ろす。授業を終えた子供たちが厨房のある棟へと駆けていくのが見えた。おだやかな目で子供たちをみつめるミネルバに、レナがそっと語りかける。
「お礼を申しあげるのが遅れましたが、先だっての援助に感謝しております」
「わずかばかりです」
「そんな……どれほどの足しになるか」
ミネルバはしばし沈黙し、ゆっくりとふりむいた。吹き抜ける風が赤いマントを大きくあおる。
「あなたも知っているでしょうが、この国には十五歳前後の者が非常に少ないのです。この国の未来を担うであろう若者たちが……」
「あのころグルニアでも多くの民が飢えていましたが、マケドニアはそれ以上だったと聞きおよんでおります」
「父のなされた判断のすべてが誤りとは思いません。ですが結果として多くの民を見捨てることとなったのは事実。乳飲み子や幼子から息絶え、親たちはそれを嘆き悲しむ力もないほど飢えていた……。あのような時代をへたからこそ、この国は戦争へと走らせることとなったのです」
ミネルバは悲痛に目を細める。
「この国はドルーアの野望に与し、そして敗北しました。多くの騎士たちが戦場に散り、国は荒廃し、その結果、こうして孤児たちがあふれています。……あの子たちはこの国の未来です。どうかあなたの手で癒してあげてください」
「はい、わたしのすべての力を捧げたいと思っています」
レナは胸の前を手を組み合わせた。
ミネルバは重々しくうなづく。
「わたしはわたしのなすべきことに力をそそぎます。この国の民を守ること、それがわたしの使命ですから……」
その声はどこかうつろだった。
いま、ミネルバの脳裏にうかぶのは、民の歓喜する姿だった。七年前、祖国解放のためにアカネイアと戦うとミシェイルが宣言した日の情景が頭をめぐっていた。
民は、アイオテの裔たる王家の者を神のように崇めていた。だからこそ多くの若者が遠征軍に加わった。本国に残った者は大仰に発表される戦勝の報を受けとるばかりだった。天啓のごときまばゆい光が彼らの目をくらませていた。
ミネルバが同盟軍に加わり、マケドニアの敗退がつづいても、彼らはなにも知らぬままであった。兵士に取られた者たちは帰還せず、人手のいなくなった田畑は荒れ、賊の襲撃を受けても王都からの助けはこない。そこでやっと、頭上をおおう暗雲に気づいたのだろう。
敗戦ののち、マケドニアはアカネイアの占領下におかれる可能性もあったが、幸いなことにミネルバによる統治が許された。これを知ったときも民は歓喜した。彼らには敗北というものがよく理解できていないのかもしれない。
正午を告げる修道院の鐘が鳴った。
ミネルバは空を見あげた。すっきりした蒼天だが、東の空に一雨きそうな雲が低くたれこめていた。
「そろそろ戻ります」
「いつもお忙しいのですね」
「午後に、客人が訪れる予定があるのです」
「どうぞご無理はなさらず」
「あなたこそ」
屋上にあがり、愛竜イージスの背に乗ろうとしたところ、シスターに連れられたエルマが現れた。その小さな手にはリラの花がにぎられていた。
シスターにうながされ、おずおずと進み出てくる。
「殿下にこのお花を。その、とてもよい香りだから……」
「ありがとう」
受けとったリラの花を胸に抱き、ミネルバは修道院を後にした。
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