死の舞踏
ミネルバは目覚めてすぐ、そこが自分の部屋だとわかった。枕にしみこませたスズランの香り。百合の模様が縫いとられた掛布。
天蓋を見上げたまま、意識を手放す前の記憶をたぐりよせていく。
鮮血が散った兄の横顔。
アトロス卿を見下ろす冷たい目。
父を手にかけたときも、あんな顔をしていたのだろうか。
ゆっくりと手を動かし、刃を受けた腹部にふれた。すでに傷はふさがれているようで、不思議なほど痛みを感じなかった。ただ少し熱があるのか、全身にだるさをおぼえた。
燭台が灯っている。
暖炉も煌々と燃えている。
引きよせられるように爆ぜる炎をみつめていると、薄暗がりの中にうごめく影が見えた。
肩がふるえた。息をとめ、じっと目を凝らした。
視線に気づいたのか、肘掛椅子に座っていたミシェイルがふりかえった。
ミネルバは微動だにできず、近づいてくる兄の姿をみつめていた。いつもの黒絹の礼装がやけに簡素に見えた。
白いスカーフがゆれている。ひらり、ひらりと目の端を踊る。
「傷は、さほど深くなかったそうだ」
ミシェイルが枕元に腰かけた。
「僧侶が驚いていた。おまえはよほど巧みな避け方をしたのだな」
「きっとコルセットの骨が刃を防いでくれたのだろう。今宵ばかりは、浮ついた衣装が役に立ってくれたようだ」
そっけなくこたえると、ミシェイルは顔をのぞきこんできた。
「開戦より二年のあいだ、おまえの体に傷をつけられる者などいなかったというのに。あの老いぼれの凡庸な人生を飾るにはあまりある武勇だったな。おまえにとっては不名誉であろうが」
「あのような戦いで得た名誉に価値などない」
むきになって言い返すと、ミシェイルは唇をつり上げた。けれども目は笑っていなかった。
冷たい指先が、頬にふれる。
「死は、恐ろしいか」
「いいや」
ためらいもせずミネルバがこたえると 一瞬の間をおいて、ミシェイルは身をよじって笑い出した。
「……なにがそんなにおかしいのだ」
「かつては、そうは言わなかったと思ってな」
いつのことか記憶にない。
どうせ幼いころの話だろう。
「あなたは昔話がお好きのようだが、子供のころのことをいまになって持ち出されても困る」
ミシェイルはなおも笑っていたが、ふいにつぶやいた。
「死とは負けだ」
ミネルバが不快に顔をしかめると、ミシェイルは嘲るような目つきになった。
「死すればすべてが失われる。だからおのが死の時は、あらかじめ定めておかねばならぬのだ。ほかならぬ、おのれの意思によってな」
「……不遜なことだ。神でもあるまいに」
「そんな大仰な話ではない。予見は怠るなと言っているだけだ。親父のように無策のまま死ねば、みじめになにもかも失うことになるのでな」
「あなたは……父上をどこまで愚弄すれば気がすむのだ」
「事実を言っているだけだ。親父にくらべれば、あの老いぼれはいくぶんましだな。おのれの死に場所を自分で選んだ。それでもまあ、徒死には違いないが」
「……兄上」
ミネルバはため息をつきながら身を起こした。
「あの場でアトロス卿を処断されたのは悪手ではないか。あれでは、怒りまかせに卿を手打ちにしたと、貴族たちに思われかねぬ」
「どう思われようとなにも変わりはせぬ。あの老いぼれは、俺の罪を暴き、一矢報いたつもりでいるのだろうがな」
幸せなことよ、とミシェイルは鼻を鳴らした。
「なにを知ったとて、四年も手をこまねいていた者どもにいまさら成せることなどありはしない。せいぜいが歯車になれるぐらいのものだ」
「歯車が牙をむくこともあろう。今宵のように」
「くだらん言葉遊びはいい」
強く顎をつかまれ、向きなおらされた。
「わかっているのだろう? 口をつぐんでいたのはおまえだけではない。やつらは時勢が読めぬほど愚鈍でもないのだ。望むのはおのが身の安寧のみ。適当に餌をまいてやれば従順になる」
「……それならば」
ぎゅっと掛布をつかむ。
「わたしに餌はくださらぬのか」
「必要ないだろう?」
ミシェイルはほほえみ、奇妙なほどやさしくミネルバの手をとった。
「この手を血に染め、身は汚辱にまみれ、いまさらおまえがどこにいける?」
笑みをかたどった唇が、噛みつくように唇にふれた。熱い舌が歯列を割り、口内にすべりこんでくる。ミネルバはそれを当然のように受け入れた。身をよじろうとさえせず、こわばっていた身体の力を少しずつ抜いてゆく。
舌をからませ、抱き合ったまま、敷布の上に倒れこんだ。スズランの香りがふわりと舞いあがる。その清らかさがたまらなくわずらわしくて、ミネルバは腕をのばし、兄の胸に顔をうずめた。
寝衣をはだけさせる手が、胸から腰へとすべり落ちてくる。長い指が敏感な場所をまさぐる。
これまで、いくどこんな夜を過ごしてきただろうか。
支配と屈従の延長として始まった関係だった。それは過去と決別するための儀式でもあった。もう昔に戻れはしないと、何度も何度も思い知ったはずだった。
それなのにミネルバはしがみついている。まだ過去に囚われつづけている。
さらに深く指を挿し入れられ、ミネルバは思わず声をもらした。よじろうとする身体を組み伏せられ、乱れる呼吸を吞みこむように唇をふさがれる。ざらりとした舌の感触に身がふるえる。
こんな不毛で爛れた関係を拒めないのは、本心では求めているからなのか。それともあきらめなのか。たぶんそのどちらでもあるのだろう。
過去と決別などできない。すでにちぎれた細い糸を、こんな形ででもつないでおきたくてしかたがないのだ。
顔をそむけ、唇を噛みしめていると、ふいに指が止まった。
「……痛むのか」
さもやさしげに聞こえる問いに、ミネルバはかぶりをふった。
内奥でうごめいていた指が引き抜かれ、間髪を入れず、熱い猛りを突き入れられた。下肢に戦慄が走り、ミネルバは息をもらした。膝を抱え上げられ、深く奥へと押しつけられる。突き上げられ、ゆさぶられる。
声を上げるたびに抽送が激しくなっていく。それでも傷を気遣ってか、いつもより手心が加えられていた。手首を敷布に押しつける強さも、汗ばんだ前髪をすく手つきも、いたわるようでさえあった。
そんな気まぐれのやさしさに心がかき乱される。
……今宵、ミネルバは気づいた。
おのれのなかの妄執とも呼ぶべき願いに。
正義や大義などどうでもよかった。昔日の夢が壊れてしまったことが信じられなくて、あふれる悲しみを、終わりのない絶望を、非の打ち所のない大義にすりかえて剣をとったのだ。
なくしたものは取り戻せる、そう自分に言い聞かせ、ただ前へと進みつづけてきた。うずたかく積みあがる屍を踏みつけてでも、ひたすら高みへ登りつめていこうとした。きっとその先には、求めていた光があるのだと、そう信じようとしてきた。
けれどもう、この手に光はとどかない。
ふいに涙がこぼれそうになり、枕に顔をうずめた。
ミシェイルは身体を起こし、寝台を降りた。手早く前を直し、ほどけたスカーフを結んでいる。行為が終わればすぐに部屋へ戻っていくのが常だ。そのままおなじ寝台で眠ることなどしない。
四肢を投げ出したままのミネルバは、力の入らぬ脚を閉じた。枕元でまるまっている寝衣を引きよせ、のろのろと素肌にまとう。
ミシェイルは寝室を出ていこうとしていたが、扉の前で立ち止まった。
「なぜ、俺をかばった?」
ふりかえりざまにいきなり問われ、ミネルバは目をしばたたかせた。
「べつに、かばったわけでは……」
「ではなんだ?」
ミネルバはこたえなかった。なぜそんなことをいまになって聞くのか。言わねばわからぬというのか。
沈黙がつづいた。
うつむいたままでいると、やがてミシェイルは吐息をもらした。
「おまえはほんとうに馬鹿なやつだな」
扉が音を立てて開く。
「本懐を遂げるよい機会だったろうに」
扉が無情にしまると、ミネルバはため息をつく。
言いたいことはあったはずだ。けれどなにも言えなかった。声にはならぬ言葉をずっと呑みこんでいる。
――あなたの死を願ったことなどない。
一度たりとも。
きっとこれからも。
涙が頬をつたう。
わたしは愚かにもまだ望んでしまうのだ。この夜の果てに、あなたが王でありつづけていることを。そして自分はそのかたわらに立ちつづける、そんな夢を……。
ふいに寒さをおぼえ、はだけた寝衣をかきあわせる。
空は、白みはじめていた。
こうしてまた夜が始まる。(了)
天蓋を見上げたまま、意識を手放す前の記憶をたぐりよせていく。
鮮血が散った兄の横顔。
アトロス卿を見下ろす冷たい目。
父を手にかけたときも、あんな顔をしていたのだろうか。
ゆっくりと手を動かし、刃を受けた腹部にふれた。すでに傷はふさがれているようで、不思議なほど痛みを感じなかった。ただ少し熱があるのか、全身にだるさをおぼえた。
燭台が灯っている。
暖炉も煌々と燃えている。
引きよせられるように爆ぜる炎をみつめていると、薄暗がりの中にうごめく影が見えた。
肩がふるえた。息をとめ、じっと目を凝らした。
視線に気づいたのか、肘掛椅子に座っていたミシェイルがふりかえった。
ミネルバは微動だにできず、近づいてくる兄の姿をみつめていた。いつもの黒絹の礼装がやけに簡素に見えた。
白いスカーフがゆれている。ひらり、ひらりと目の端を踊る。
「傷は、さほど深くなかったそうだ」
ミシェイルが枕元に腰かけた。
「僧侶が驚いていた。おまえはよほど巧みな避け方をしたのだな」
「きっとコルセットの骨が刃を防いでくれたのだろう。今宵ばかりは、浮ついた衣装が役に立ってくれたようだ」
そっけなくこたえると、ミシェイルは顔をのぞきこんできた。
「開戦より二年のあいだ、おまえの体に傷をつけられる者などいなかったというのに。あの老いぼれの凡庸な人生を飾るにはあまりある武勇だったな。おまえにとっては不名誉であろうが」
「あのような戦いで得た名誉に価値などない」
むきになって言い返すと、ミシェイルは唇をつり上げた。けれども目は笑っていなかった。
冷たい指先が、頬にふれる。
「死は、恐ろしいか」
「いいや」
ためらいもせずミネルバがこたえると 一瞬の間をおいて、ミシェイルは身をよじって笑い出した。
「……なにがそんなにおかしいのだ」
「かつては、そうは言わなかったと思ってな」
いつのことか記憶にない。
どうせ幼いころの話だろう。
「あなたは昔話がお好きのようだが、子供のころのことをいまになって持ち出されても困る」
ミシェイルはなおも笑っていたが、ふいにつぶやいた。
「死とは負けだ」
ミネルバが不快に顔をしかめると、ミシェイルは嘲るような目つきになった。
「死すればすべてが失われる。だからおのが死の時は、あらかじめ定めておかねばならぬのだ。ほかならぬ、おのれの意思によってな」
「……不遜なことだ。神でもあるまいに」
「そんな大仰な話ではない。予見は怠るなと言っているだけだ。親父のように無策のまま死ねば、みじめになにもかも失うことになるのでな」
「あなたは……父上をどこまで愚弄すれば気がすむのだ」
「事実を言っているだけだ。親父にくらべれば、あの老いぼれはいくぶんましだな。おのれの死に場所を自分で選んだ。それでもまあ、徒死には違いないが」
「……兄上」
ミネルバはため息をつきながら身を起こした。
「あの場でアトロス卿を処断されたのは悪手ではないか。あれでは、怒りまかせに卿を手打ちにしたと、貴族たちに思われかねぬ」
「どう思われようとなにも変わりはせぬ。あの老いぼれは、俺の罪を暴き、一矢報いたつもりでいるのだろうがな」
幸せなことよ、とミシェイルは鼻を鳴らした。
「なにを知ったとて、四年も手をこまねいていた者どもにいまさら成せることなどありはしない。せいぜいが歯車になれるぐらいのものだ」
「歯車が牙をむくこともあろう。今宵のように」
「くだらん言葉遊びはいい」
強く顎をつかまれ、向きなおらされた。
「わかっているのだろう? 口をつぐんでいたのはおまえだけではない。やつらは時勢が読めぬほど愚鈍でもないのだ。望むのはおのが身の安寧のみ。適当に餌をまいてやれば従順になる」
「……それならば」
ぎゅっと掛布をつかむ。
「わたしに餌はくださらぬのか」
「必要ないだろう?」
ミシェイルはほほえみ、奇妙なほどやさしくミネルバの手をとった。
「この手を血に染め、身は汚辱にまみれ、いまさらおまえがどこにいける?」
笑みをかたどった唇が、噛みつくように唇にふれた。熱い舌が歯列を割り、口内にすべりこんでくる。ミネルバはそれを当然のように受け入れた。身をよじろうとさえせず、こわばっていた身体の力を少しずつ抜いてゆく。
舌をからませ、抱き合ったまま、敷布の上に倒れこんだ。スズランの香りがふわりと舞いあがる。その清らかさがたまらなくわずらわしくて、ミネルバは腕をのばし、兄の胸に顔をうずめた。
寝衣をはだけさせる手が、胸から腰へとすべり落ちてくる。長い指が敏感な場所をまさぐる。
これまで、いくどこんな夜を過ごしてきただろうか。
支配と屈従の延長として始まった関係だった。それは過去と決別するための儀式でもあった。もう昔に戻れはしないと、何度も何度も思い知ったはずだった。
それなのにミネルバはしがみついている。まだ過去に囚われつづけている。
さらに深く指を挿し入れられ、ミネルバは思わず声をもらした。よじろうとする身体を組み伏せられ、乱れる呼吸を吞みこむように唇をふさがれる。ざらりとした舌の感触に身がふるえる。
こんな不毛で爛れた関係を拒めないのは、本心では求めているからなのか。それともあきらめなのか。たぶんそのどちらでもあるのだろう。
過去と決別などできない。すでにちぎれた細い糸を、こんな形ででもつないでおきたくてしかたがないのだ。
顔をそむけ、唇を噛みしめていると、ふいに指が止まった。
「……痛むのか」
さもやさしげに聞こえる問いに、ミネルバはかぶりをふった。
内奥でうごめいていた指が引き抜かれ、間髪を入れず、熱い猛りを突き入れられた。下肢に戦慄が走り、ミネルバは息をもらした。膝を抱え上げられ、深く奥へと押しつけられる。突き上げられ、ゆさぶられる。
声を上げるたびに抽送が激しくなっていく。それでも傷を気遣ってか、いつもより手心が加えられていた。手首を敷布に押しつける強さも、汗ばんだ前髪をすく手つきも、いたわるようでさえあった。
そんな気まぐれのやさしさに心がかき乱される。
……今宵、ミネルバは気づいた。
おのれのなかの妄執とも呼ぶべき願いに。
正義や大義などどうでもよかった。昔日の夢が壊れてしまったことが信じられなくて、あふれる悲しみを、終わりのない絶望を、非の打ち所のない大義にすりかえて剣をとったのだ。
なくしたものは取り戻せる、そう自分に言い聞かせ、ただ前へと進みつづけてきた。うずたかく積みあがる屍を踏みつけてでも、ひたすら高みへ登りつめていこうとした。きっとその先には、求めていた光があるのだと、そう信じようとしてきた。
けれどもう、この手に光はとどかない。
ふいに涙がこぼれそうになり、枕に顔をうずめた。
ミシェイルは身体を起こし、寝台を降りた。手早く前を直し、ほどけたスカーフを結んでいる。行為が終わればすぐに部屋へ戻っていくのが常だ。そのままおなじ寝台で眠ることなどしない。
四肢を投げ出したままのミネルバは、力の入らぬ脚を閉じた。枕元でまるまっている寝衣を引きよせ、のろのろと素肌にまとう。
ミシェイルは寝室を出ていこうとしていたが、扉の前で立ち止まった。
「なぜ、俺をかばった?」
ふりかえりざまにいきなり問われ、ミネルバは目をしばたたかせた。
「べつに、かばったわけでは……」
「ではなんだ?」
ミネルバはこたえなかった。なぜそんなことをいまになって聞くのか。言わねばわからぬというのか。
沈黙がつづいた。
うつむいたままでいると、やがてミシェイルは吐息をもらした。
「おまえはほんとうに馬鹿なやつだな」
扉が音を立てて開く。
「本懐を遂げるよい機会だったろうに」
扉が無情にしまると、ミネルバはため息をつく。
言いたいことはあったはずだ。けれどなにも言えなかった。声にはならぬ言葉をずっと呑みこんでいる。
――あなたの死を願ったことなどない。
一度たりとも。
きっとこれからも。
涙が頬をつたう。
わたしは愚かにもまだ望んでしまうのだ。この夜の果てに、あなたが王でありつづけていることを。そして自分はそのかたわらに立ちつづける、そんな夢を……。
ふいに寒さをおぼえ、はだけた寝衣をかきあわせる。
空は、白みはじめていた。
こうしてまた夜が始まる。(了)
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