死の舞踏
「陛下がお呼びでございます」
礼拝堂に抑揚のない声が響いた。祈りをささげていたミネルバはゆっくりとふりかえり、礼をとる女官の顔をみつめた。
見慣れぬ者だった。長らく城を不在にしているあいだに、女官たちの顔ぶれも変わったのだろうか。
「わかりました。これより向かいます」
こうべをたれた女官の横を通りすぎ、ミネルバは礼拝堂を後にした。陽はすでに傾いており、風は夜の気配をふくんでいた。ずいぶん長いこと礼拝堂にいたようだ。遠征から戻ってのち、やたらとここに足が向いてしまう。
パレス陥落から十日あまり。聖都占領のための二個中隊を残して、遠征軍はすべて国に凱旋した。
難攻不落と唄われた聖都のあちらこちらから火の手が上がり、夜空を煌々と照らしていた。千年王宮パレスの最期を見たとき、ミネルバの胸に去来したものは喪失だった。かつて抱いた怒りも憎しみも、すべて燃やし尽くされているかのように思えた。胸に、白い灰がいまも降りつもっている。
重く、重く……
陰鬱な気持ちを呑みこめぬまま、兄の居室へ向かった。
「兄上、おられぬのか」
扉の前でいくどか呼びかけたが返事はなく、ミネルバは小さく息をつく。
このまま部屋を後にしてもよかった。顔を合わせずにすむのなら、そのほうがよい。けれどもそうやって逃げることも癪に思えて、しかたなく扉を開けた。
かつては声もかけずこの部屋に入っていた。廊下を駆け、ほとんど立ち止まりもせず扉を開ける。すると少し眉をひそめて笑う顔が待っていた。ミネルバが悪びれることなくほほえみかけると、兄は笑みをかえした。
……遠い過去だ。
とうの昔に深い水底に沈んでしまった日々。
それなのに、過去の幻影があちらこちらから顔を出す。この部屋はあのころとさほど内装が変わっていない。
記憶のなかにあるとおりの場所で、ミシェイルはカウチにもたれかかって眠っていた。待ちくたびれて、というわけではないだろう。いましがた呼ばれてすぐにここへ出向いたのだから。
抑えきれぬため息がもれた。
この数年というもの、兄にはふりまわされてばかりだ。ほんのささいな挙動でも心が乱されたが、動揺をつとめて表に出さぬことがささやかな抵抗となっていた。
カウチに近づき、じっと兄を見下ろす。
疲れているのだろうか。下まぶたに落ちる影がそう思わせた。眠っている姿を見ることなど久しくなかった。無防備な寝顔になつかしさをおぼえる。目覚めたとき、よくとなりにあった顔。
こうして見るとあまり変わっていないように思う。
いや、そんなことはない。
なにもかも変わってしまったはずなのだ。
――この人はだあれ?
腰をかがめて顔を近づける。まなじりが下がっているせいか、おだやかな父の面影を感じさせた。肖像画に描かれた少年のころの父は兄とよく似ていた。
そぞろに手をのばした。目にかかる髪をすくうように払った。
そのとき、ふっと口元が笑み、まぶたがひらかれた。ミネルバは驚き、あわてて身を引こうとしたが、すばやく手をとられた。兄の上に倒れこむ。
「馬鹿なやつだ」
ミシェイルは起きあがり、ミネルバをからかうような目で見る。
「いまなら本懐を遂げられただろうに」
反論する気すら失せ、ミネルバは目をそらした。
――この人は、わたしに殺したいほど憎まれていると思っているのだろうか。
なにもかも見透かしているようにふるまうくせに、その実、なにもわかってなどいない。口からつむがれるのは的外れなことばかり。からかっているのか、本気なのかもわからず、いらだちをおぼえてしまう。
なにを思ったのか、ミシェイルが笑いだした。その声があまりに遠く感じられた。
知らない声だ。
ミネルバは唇を噛みしめ、立ちあがる。
「いったいなんの用でわたしを呼ばれたのか」
「なんのことだ」
「いましがた、使いの者を遣られただろう?」
ややあって、ああ、とたったいま思い出したとでもいうようにミシェイルがつぶやいた。
「今宵、戦勝の祝宴をあげる。さほど規模の大きなものではないが、六年ぶりの仮装舞踏会だ」
突然のことに驚きあきれ、ミネルバはしばし二の句が継げなかった。
「……そのようなこと、いつ決まったのだ」
「もとより祝宴は予定されていたぞ。仮装舞踏会と決まったのは、三日前だったが」
ならば、そのときに伝えてくれればよいものを。
手に力がこもる。爪が皮膚に食いこむ。
「おまえも今宵は戦のことなど忘れて楽しめばいい」
「とてもそのような気分ではない」
「おまえがそう言うと思ってな、これまで伝えずにいたのだ」
「兄上」
ため息を噛み殺して、口早に告げる。
「いかにパレスを制圧したとて、こたびの戦でわが国の払った犠牲は多大。これではドルーアを利するばかりではないか。みながみな、戦に勝ったと浮かれているわけでもない」
「たしかに、こたびの遠征では多くの者が命を落とした。腐ってもアカネイア。一筋縄ではいかぬと思っていたが、パレス攻略にあれほど犠牲が出ることになったのは俺も想定外だった」
「しらじらしいことを。はじめからわかっておられただろうに」
「よもやおまえがあの策にのってくるとは思わなかったのでな」
喉を鳴らして笑う。
いらだちがつのる。
なにが言いたいのか。
あれはわたしが選んだことだとでも?
喉元まで出かかった言葉を押しとどめる。
「国に殉じた者を静かに弔うというなればともかく、華美な宴などひかえられてはどうか」
「追悼など司祭どもに任せておればよい。われらのなすべきことは、次なる一手を進めることだ」
目の奥に鋭い光が宿る。
そうだ。まだ道半ばですらない。真価はむしろこれから問われる。マケドニアをドルーアから解放せねば、すべてが無に帰してしまう。
「……よろしいでしょう。戦場を生き抜いた者たちにとって、ねぎらいとなるのであれば」
兄の顔を見ずに答え、ミネルバはそのまま部屋を後にした。ミシェイルには逃げるように見えたかもしれないが、かまってはいられなかった。抗うことに倦み疲れ、すでに激情は去った。
白い灰が、胸に重く降りつもっている。
偽りの上に、高い城郭を築きあげていく。いつか崩れ去る城だろうに、多くの者は楼閣を見上げて歓喜の声を上げている。
空虚だ。
われらが勝利と信じるものは、その実、敗北にひとしいというのに。
自室に戻ると、数人の女中が湯殿へ入れ替わり立ち代わり入っていった。ただの宴ではなく仮装舞踏会だから支度には時間がかかる。
仮装舞踏会は過去に何度も催されてきたが、もとは辺境の暮らしに飽いたアカネイア貴族が聖都の遊びを赴任地に持ちこんだのが発端だった。最後に仮装舞踏会が開かれたのは、まだ父が壮健であったころのことで、ミネルバは兄とともに古代風の衣装をまとって参加した。大広間には神話の英雄や聖獣に扮した貴族たちがひしめいていた。そのなかには旅の一座もまぎれこんでいて、円舞のさなかに曲芸を披露し、参加者の目を楽しませた。上座から眺めていた父王もなごやかに手を叩き、賛辞を贈っていた。
暖炉の前でたたずんでいると、女官長のタマーラがやってきた。あきらかに不機嫌とわかるミネルバを見て、タマーラは有無を言わさぬ端正な微笑をうかべる。
「急ぎお衣装の準備をいたしますので、そのあいだに殿下は湯あみをなさってくださいませ」
「今宵わたしはどのような衣装を?」
「まあ、陛下から聞いておられませんの?」
「なにも」
「陛下はほんとうにいたずら好きな方ですこと」
タマーラが笑うと、女官たちも忍び笑いをもらした。ミネルバは軽やかな笑い声を背に、湯殿に向かった。
湯につかりながら、ひらかれた窓の外を見つめた。すでに宵の刻限となっている。初冬の陽が落ちる前に貴族たちは登城してくるだろう。
彼らは今宵の宴をどう思うのだろうか。
名目は戦勝の宴とはいえ、招待された貴族は戦を生き抜いた騎士たちだけではない。夫や兄弟、子を失った者たちも多くいるだろう。彼らになにか思うところがあったとて、王からの招待を断って宴に水を差すようなことはすまい。正義の戦いのため、祖国に殉じていった騎士たちは、名誉に彩られ、墓の下で眠っている。そう信じているはずだ。
――あのような戦いのなにが誉れか。
堅固な要塞に囲まれた聖都を落とすには、まずは弓兵部隊の一角を崩さねばならなかった。その先陣を切る役目を担ったのが騎兵の第五部隊だった。
大元となった作戦の立案はミネルバが行ったから、ある程度の犠牲が出ることも想定していた。しかしあのような運用がなされるとは思ってもいなかった。
上空からの援護を信じて騎兵は突撃したが、竜騎士団はいっさいの援護をしなかった。もはや味方による騙し打ちにひとしいものだった。
結果をみれば、マケドニア軍は最小限の犠牲ですんだ。パレス攻略戦において、竜騎士団に死者は一人も出なかったのは驚異的と言えるだろう。しかしその代償を払ったのが騎兵部隊だった。平素より騎士団の中で軽んじられてきた者たちが容赦なく捨て駒となった。
砦が落ちたのち、ほぼ全滅した第五部隊の騎士たちの亡骸が集められた。その死に顔はひどく恨めしげなものだった。
南の砦を制圧したのち、作戦の全貌を知らされていなかった者たちは困惑し、うろたえていた。怨嗟の声も上がった。だがそれも一時のことで、聖都陥落の偉業を前にかき消えた。
マケドニアの悲願。聖王国による間接支配からの脱却。
建国以来、百年ものあいだ渇望しつづけていた夢がようやく叶った。一報を受けた民は歓喜したことだろう。だが、あの戦いの中で行われた非情な作戦を知れば、喜んでばかりもいられまい。
なにかこらえきれないものが胸にわだかまっている。怒りでも悲しみでもない。
きっと、喪失に近い。
あれから十日以上すぎても、ミネルバはいくども頭のなかで作戦を組み立てている。ほかにも策はあった。たとえ危険をともなったとしても、どれほど困難であっても、別の策を試す価値はあったはずだと、必死に夢想を描きつづけている。
湯あみを終えたミネルバは、身体を亜麻布でぬぐいながら居間へ戻った。卓上に広げられた黒一色のドレスを見て、苦笑をもらす。
「なにやら喪服のようですね」
「今宵の参加者は、みな黒い衣装と決められておりますのよ」
タマーラは黒い絹地をなでながらほほえんだ。
ミネルバは卓におかれた仮面を手にとる。
「男も女も黒装束に仮面ですか。異様な光景でしょうね」
「ええ、誰が誰やらわからなくなりますわね」
「わたしは髪の色で気づかれるでしょうが」
「でしたら、御髪の色を少し変えましょうか」
「いえ、そうまでせずとも――」
「そうと決まったら、急いで支度いたしましょう」
タマーラにせかされるままに姿見の前に立たされ、女官二人に身体を丹念にぬぐわれた。下着と長靴下を身につけ、普段身に着けているものよりも丈の長い、胸まで覆うコルセットをきつく締めていく。そしてドレスに袖をとおすと、鎧とはまた違った重みと窮屈さを感じた。ドルーアとの同盟以後、華やかな宴は一度も開かれていないから、なつかしい感覚だった。
ドレスの着付けを終えると、今度は鏡台の前に座り、髪を整えていく。髪を結うのは幼いころからタマーラに任せていた。彼女の器用に動く指が好きだった。鏡越しに見るタマーラは喜々としていて、ミネルバは思わず声をかけた。
「ずいぶん楽しそうですね」
「ええ、それはもう」
紅を引いた唇が弓なりにしなる。
「こうして介添えをさせていただく機会はめったにございませんもの。姫さまはなにもかもご自分でなされますゆえ」
「わたしとて甲冑は一人ではまとえませんよ」
「甲冑のお手伝いはわたくしには無理ですわ」
「あなたはほんとうに……」
ミネルバは嘆息まじりに言いかけたものの、そこで言葉を止めた。すべてをゆだねるように目を閉じる。
薄化粧をほどこし、すべての支度が終わるころ、すでに陽は落ちていた。
タマーラにうながされ、姿見の前に立ったミネルバは、改めておのれの姿をじっとみつめる。
髪粉で深い色味になった髪をきっちり結い上げたせいで、いつもとはずいぶんと印象が違って見えた。
「仮面がなくとも、殿下とおわかりになりませんわね」
そう言いながら、タマーラは最後に金の蔦模様がほどこされた仮面をミネルバの目元にあて、リボンで結わえた。視界が一気に悪くなる。
タマーラは一歩足を引き、満足そうにミネルバを上から下へとながめた。
「今宵はどうぞお楽しみになってください。願わくは、一軍の将ではなく、うら若き姫君として」
「わたしに別人になれと?」
「ええ。戦いは終わったのですから。いっそこのまま剣など捨てて、飛竜も手放してくださればよいと思っておりますのよ」
「……あなたは、いつもそればかりですね」
「何度でも申しあげますわ。姫さまのかたくなお心が変わられるまでは」
「いずれ時が来れば、そうしましょう」
微笑を残し、ミネルバは自室を後にした。背筋をのばし、規則的な足どりで大広間へ向かう。
いかに城から一歩も出ることのないタマーラとて、戦争がすでに終わり、平和が訪れたなどと本気で思ってはいないだろう。ただ彼女は信じたいだけなのだ。もう王女が剣をとる必要ないのだと、戦火に身を投じることはないのだと、無理にでも安堵したがっている。
八つになったばかりころ、剣の訓練を受けたいと言い出したミネルバを必死に止めたのがタマーラだった。竜騎士を志したときも最後まで反対しつづけ、この有事においてさえ彼女は変わらず、たわむれのような小言をミネルバに向けてくる。
剣をとったきっかけは兄の言葉だ。もし俺になにかあれば、おまえが父を支えよ、せめておのが身を守れるようにだけはしておけ。そう言われたからだった。
けれどミネルバにはおのが身を守るだけの力では父を支えることはできないとわかっていた。父はアカネイアをしのぐ武力を欲していた。自分もまたその一角でありたいと願ったから、王女でありながらマケドニアではじめての女竜騎士となった。
みずから選んだ道だ。けっして強いられたからではない。
それならば、とミネルバは思う。
この戦争もわたしが望んだ結果なのだろうか。自由と栄光を勝ちとるために諸国へ攻め入り、屍の山を作るために、わたしは力を得ようとしたのだろうか、と。
どうしていまになってこんなことを考えてしまうのだろう。幼いころも、長じてのちも、同盟が結ばれたときでさえ、おのれの選んだ道に疑問を抱いたことなど一度もなかったというのに。
まだ戦争は終わってはいない。自分がなすべきことはまだ残っている。それなのに迷いが生まれてきている。
……あのとき。懸命に学んできた無数の戦術のなかから、勝利へとつづく道筋が明澄に浮かびあがった。突破口が見えたと思った。高揚のままに策を組み立てた。その結果、一軍が狂気の渦に呑みこまれていった。
わたしの命ずるままに――
軽いめまいを覚え、ミネルバは額に手を当てた。
……死んでいった者たちの顔も名も、うまく思い出すことができない。濃い霧がかかったようにうすぼやけている。
礼拝堂に抑揚のない声が響いた。祈りをささげていたミネルバはゆっくりとふりかえり、礼をとる女官の顔をみつめた。
見慣れぬ者だった。長らく城を不在にしているあいだに、女官たちの顔ぶれも変わったのだろうか。
「わかりました。これより向かいます」
こうべをたれた女官の横を通りすぎ、ミネルバは礼拝堂を後にした。陽はすでに傾いており、風は夜の気配をふくんでいた。ずいぶん長いこと礼拝堂にいたようだ。遠征から戻ってのち、やたらとここに足が向いてしまう。
パレス陥落から十日あまり。聖都占領のための二個中隊を残して、遠征軍はすべて国に凱旋した。
難攻不落と唄われた聖都のあちらこちらから火の手が上がり、夜空を煌々と照らしていた。千年王宮パレスの最期を見たとき、ミネルバの胸に去来したものは喪失だった。かつて抱いた怒りも憎しみも、すべて燃やし尽くされているかのように思えた。胸に、白い灰がいまも降りつもっている。
重く、重く……
陰鬱な気持ちを呑みこめぬまま、兄の居室へ向かった。
「兄上、おられぬのか」
扉の前でいくどか呼びかけたが返事はなく、ミネルバは小さく息をつく。
このまま部屋を後にしてもよかった。顔を合わせずにすむのなら、そのほうがよい。けれどもそうやって逃げることも癪に思えて、しかたなく扉を開けた。
かつては声もかけずこの部屋に入っていた。廊下を駆け、ほとんど立ち止まりもせず扉を開ける。すると少し眉をひそめて笑う顔が待っていた。ミネルバが悪びれることなくほほえみかけると、兄は笑みをかえした。
……遠い過去だ。
とうの昔に深い水底に沈んでしまった日々。
それなのに、過去の幻影があちらこちらから顔を出す。この部屋はあのころとさほど内装が変わっていない。
記憶のなかにあるとおりの場所で、ミシェイルはカウチにもたれかかって眠っていた。待ちくたびれて、というわけではないだろう。いましがた呼ばれてすぐにここへ出向いたのだから。
抑えきれぬため息がもれた。
この数年というもの、兄にはふりまわされてばかりだ。ほんのささいな挙動でも心が乱されたが、動揺をつとめて表に出さぬことがささやかな抵抗となっていた。
カウチに近づき、じっと兄を見下ろす。
疲れているのだろうか。下まぶたに落ちる影がそう思わせた。眠っている姿を見ることなど久しくなかった。無防備な寝顔になつかしさをおぼえる。目覚めたとき、よくとなりにあった顔。
こうして見るとあまり変わっていないように思う。
いや、そんなことはない。
なにもかも変わってしまったはずなのだ。
――この人はだあれ?
腰をかがめて顔を近づける。まなじりが下がっているせいか、おだやかな父の面影を感じさせた。肖像画に描かれた少年のころの父は兄とよく似ていた。
そぞろに手をのばした。目にかかる髪をすくうように払った。
そのとき、ふっと口元が笑み、まぶたがひらかれた。ミネルバは驚き、あわてて身を引こうとしたが、すばやく手をとられた。兄の上に倒れこむ。
「馬鹿なやつだ」
ミシェイルは起きあがり、ミネルバをからかうような目で見る。
「いまなら本懐を遂げられただろうに」
反論する気すら失せ、ミネルバは目をそらした。
――この人は、わたしに殺したいほど憎まれていると思っているのだろうか。
なにもかも見透かしているようにふるまうくせに、その実、なにもわかってなどいない。口からつむがれるのは的外れなことばかり。からかっているのか、本気なのかもわからず、いらだちをおぼえてしまう。
なにを思ったのか、ミシェイルが笑いだした。その声があまりに遠く感じられた。
知らない声だ。
ミネルバは唇を噛みしめ、立ちあがる。
「いったいなんの用でわたしを呼ばれたのか」
「なんのことだ」
「いましがた、使いの者を遣られただろう?」
ややあって、ああ、とたったいま思い出したとでもいうようにミシェイルがつぶやいた。
「今宵、戦勝の祝宴をあげる。さほど規模の大きなものではないが、六年ぶりの仮装舞踏会だ」
突然のことに驚きあきれ、ミネルバはしばし二の句が継げなかった。
「……そのようなこと、いつ決まったのだ」
「もとより祝宴は予定されていたぞ。仮装舞踏会と決まったのは、三日前だったが」
ならば、そのときに伝えてくれればよいものを。
手に力がこもる。爪が皮膚に食いこむ。
「おまえも今宵は戦のことなど忘れて楽しめばいい」
「とてもそのような気分ではない」
「おまえがそう言うと思ってな、これまで伝えずにいたのだ」
「兄上」
ため息を噛み殺して、口早に告げる。
「いかにパレスを制圧したとて、こたびの戦でわが国の払った犠牲は多大。これではドルーアを利するばかりではないか。みながみな、戦に勝ったと浮かれているわけでもない」
「たしかに、こたびの遠征では多くの者が命を落とした。腐ってもアカネイア。一筋縄ではいかぬと思っていたが、パレス攻略にあれほど犠牲が出ることになったのは俺も想定外だった」
「しらじらしいことを。はじめからわかっておられただろうに」
「よもやおまえがあの策にのってくるとは思わなかったのでな」
喉を鳴らして笑う。
いらだちがつのる。
なにが言いたいのか。
あれはわたしが選んだことだとでも?
喉元まで出かかった言葉を押しとどめる。
「国に殉じた者を静かに弔うというなればともかく、華美な宴などひかえられてはどうか」
「追悼など司祭どもに任せておればよい。われらのなすべきことは、次なる一手を進めることだ」
目の奥に鋭い光が宿る。
そうだ。まだ道半ばですらない。真価はむしろこれから問われる。マケドニアをドルーアから解放せねば、すべてが無に帰してしまう。
「……よろしいでしょう。戦場を生き抜いた者たちにとって、ねぎらいとなるのであれば」
兄の顔を見ずに答え、ミネルバはそのまま部屋を後にした。ミシェイルには逃げるように見えたかもしれないが、かまってはいられなかった。抗うことに倦み疲れ、すでに激情は去った。
白い灰が、胸に重く降りつもっている。
偽りの上に、高い城郭を築きあげていく。いつか崩れ去る城だろうに、多くの者は楼閣を見上げて歓喜の声を上げている。
空虚だ。
われらが勝利と信じるものは、その実、敗北にひとしいというのに。
自室に戻ると、数人の女中が湯殿へ入れ替わり立ち代わり入っていった。ただの宴ではなく仮装舞踏会だから支度には時間がかかる。
仮装舞踏会は過去に何度も催されてきたが、もとは辺境の暮らしに飽いたアカネイア貴族が聖都の遊びを赴任地に持ちこんだのが発端だった。最後に仮装舞踏会が開かれたのは、まだ父が壮健であったころのことで、ミネルバは兄とともに古代風の衣装をまとって参加した。大広間には神話の英雄や聖獣に扮した貴族たちがひしめいていた。そのなかには旅の一座もまぎれこんでいて、円舞のさなかに曲芸を披露し、参加者の目を楽しませた。上座から眺めていた父王もなごやかに手を叩き、賛辞を贈っていた。
暖炉の前でたたずんでいると、女官長のタマーラがやってきた。あきらかに不機嫌とわかるミネルバを見て、タマーラは有無を言わさぬ端正な微笑をうかべる。
「急ぎお衣装の準備をいたしますので、そのあいだに殿下は湯あみをなさってくださいませ」
「今宵わたしはどのような衣装を?」
「まあ、陛下から聞いておられませんの?」
「なにも」
「陛下はほんとうにいたずら好きな方ですこと」
タマーラが笑うと、女官たちも忍び笑いをもらした。ミネルバは軽やかな笑い声を背に、湯殿に向かった。
湯につかりながら、ひらかれた窓の外を見つめた。すでに宵の刻限となっている。初冬の陽が落ちる前に貴族たちは登城してくるだろう。
彼らは今宵の宴をどう思うのだろうか。
名目は戦勝の宴とはいえ、招待された貴族は戦を生き抜いた騎士たちだけではない。夫や兄弟、子を失った者たちも多くいるだろう。彼らになにか思うところがあったとて、王からの招待を断って宴に水を差すようなことはすまい。正義の戦いのため、祖国に殉じていった騎士たちは、名誉に彩られ、墓の下で眠っている。そう信じているはずだ。
――あのような戦いのなにが誉れか。
堅固な要塞に囲まれた聖都を落とすには、まずは弓兵部隊の一角を崩さねばならなかった。その先陣を切る役目を担ったのが騎兵の第五部隊だった。
大元となった作戦の立案はミネルバが行ったから、ある程度の犠牲が出ることも想定していた。しかしあのような運用がなされるとは思ってもいなかった。
上空からの援護を信じて騎兵は突撃したが、竜騎士団はいっさいの援護をしなかった。もはや味方による騙し打ちにひとしいものだった。
結果をみれば、マケドニア軍は最小限の犠牲ですんだ。パレス攻略戦において、竜騎士団に死者は一人も出なかったのは驚異的と言えるだろう。しかしその代償を払ったのが騎兵部隊だった。平素より騎士団の中で軽んじられてきた者たちが容赦なく捨て駒となった。
砦が落ちたのち、ほぼ全滅した第五部隊の騎士たちの亡骸が集められた。その死に顔はひどく恨めしげなものだった。
南の砦を制圧したのち、作戦の全貌を知らされていなかった者たちは困惑し、うろたえていた。怨嗟の声も上がった。だがそれも一時のことで、聖都陥落の偉業を前にかき消えた。
マケドニアの悲願。聖王国による間接支配からの脱却。
建国以来、百年ものあいだ渇望しつづけていた夢がようやく叶った。一報を受けた民は歓喜したことだろう。だが、あの戦いの中で行われた非情な作戦を知れば、喜んでばかりもいられまい。
なにかこらえきれないものが胸にわだかまっている。怒りでも悲しみでもない。
きっと、喪失に近い。
あれから十日以上すぎても、ミネルバはいくども頭のなかで作戦を組み立てている。ほかにも策はあった。たとえ危険をともなったとしても、どれほど困難であっても、別の策を試す価値はあったはずだと、必死に夢想を描きつづけている。
湯あみを終えたミネルバは、身体を亜麻布でぬぐいながら居間へ戻った。卓上に広げられた黒一色のドレスを見て、苦笑をもらす。
「なにやら喪服のようですね」
「今宵の参加者は、みな黒い衣装と決められておりますのよ」
タマーラは黒い絹地をなでながらほほえんだ。
ミネルバは卓におかれた仮面を手にとる。
「男も女も黒装束に仮面ですか。異様な光景でしょうね」
「ええ、誰が誰やらわからなくなりますわね」
「わたしは髪の色で気づかれるでしょうが」
「でしたら、御髪の色を少し変えましょうか」
「いえ、そうまでせずとも――」
「そうと決まったら、急いで支度いたしましょう」
タマーラにせかされるままに姿見の前に立たされ、女官二人に身体を丹念にぬぐわれた。下着と長靴下を身につけ、普段身に着けているものよりも丈の長い、胸まで覆うコルセットをきつく締めていく。そしてドレスに袖をとおすと、鎧とはまた違った重みと窮屈さを感じた。ドルーアとの同盟以後、華やかな宴は一度も開かれていないから、なつかしい感覚だった。
ドレスの着付けを終えると、今度は鏡台の前に座り、髪を整えていく。髪を結うのは幼いころからタマーラに任せていた。彼女の器用に動く指が好きだった。鏡越しに見るタマーラは喜々としていて、ミネルバは思わず声をかけた。
「ずいぶん楽しそうですね」
「ええ、それはもう」
紅を引いた唇が弓なりにしなる。
「こうして介添えをさせていただく機会はめったにございませんもの。姫さまはなにもかもご自分でなされますゆえ」
「わたしとて甲冑は一人ではまとえませんよ」
「甲冑のお手伝いはわたくしには無理ですわ」
「あなたはほんとうに……」
ミネルバは嘆息まじりに言いかけたものの、そこで言葉を止めた。すべてをゆだねるように目を閉じる。
薄化粧をほどこし、すべての支度が終わるころ、すでに陽は落ちていた。
タマーラにうながされ、姿見の前に立ったミネルバは、改めておのれの姿をじっとみつめる。
髪粉で深い色味になった髪をきっちり結い上げたせいで、いつもとはずいぶんと印象が違って見えた。
「仮面がなくとも、殿下とおわかりになりませんわね」
そう言いながら、タマーラは最後に金の蔦模様がほどこされた仮面をミネルバの目元にあて、リボンで結わえた。視界が一気に悪くなる。
タマーラは一歩足を引き、満足そうにミネルバを上から下へとながめた。
「今宵はどうぞお楽しみになってください。願わくは、一軍の将ではなく、うら若き姫君として」
「わたしに別人になれと?」
「ええ。戦いは終わったのですから。いっそこのまま剣など捨てて、飛竜も手放してくださればよいと思っておりますのよ」
「……あなたは、いつもそればかりですね」
「何度でも申しあげますわ。姫さまのかたくなお心が変わられるまでは」
「いずれ時が来れば、そうしましょう」
微笑を残し、ミネルバは自室を後にした。背筋をのばし、規則的な足どりで大広間へ向かう。
いかに城から一歩も出ることのないタマーラとて、戦争がすでに終わり、平和が訪れたなどと本気で思ってはいないだろう。ただ彼女は信じたいだけなのだ。もう王女が剣をとる必要ないのだと、戦火に身を投じることはないのだと、無理にでも安堵したがっている。
八つになったばかりころ、剣の訓練を受けたいと言い出したミネルバを必死に止めたのがタマーラだった。竜騎士を志したときも最後まで反対しつづけ、この有事においてさえ彼女は変わらず、たわむれのような小言をミネルバに向けてくる。
剣をとったきっかけは兄の言葉だ。もし俺になにかあれば、おまえが父を支えよ、せめておのが身を守れるようにだけはしておけ。そう言われたからだった。
けれどミネルバにはおのが身を守るだけの力では父を支えることはできないとわかっていた。父はアカネイアをしのぐ武力を欲していた。自分もまたその一角でありたいと願ったから、王女でありながらマケドニアではじめての女竜騎士となった。
みずから選んだ道だ。けっして強いられたからではない。
それならば、とミネルバは思う。
この戦争もわたしが望んだ結果なのだろうか。自由と栄光を勝ちとるために諸国へ攻め入り、屍の山を作るために、わたしは力を得ようとしたのだろうか、と。
どうしていまになってこんなことを考えてしまうのだろう。幼いころも、長じてのちも、同盟が結ばれたときでさえ、おのれの選んだ道に疑問を抱いたことなど一度もなかったというのに。
まだ戦争は終わってはいない。自分がなすべきことはまだ残っている。それなのに迷いが生まれてきている。
……あのとき。懸命に学んできた無数の戦術のなかから、勝利へとつづく道筋が明澄に浮かびあがった。突破口が見えたと思った。高揚のままに策を組み立てた。その結果、一軍が狂気の渦に呑みこまれていった。
わたしの命ずるままに――
軽いめまいを覚え、ミネルバは額に手を当てた。
……死んでいった者たちの顔も名も、うまく思い出すことができない。濃い霧がかかったようにうすぼやけている。
1/3ページ
