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前編


「それで、手を出したんですか」
「だから、出してねぇよ!」
 賑やかな居酒屋の一室。座敷になってる個室には、二人の男がいた。
 一人はスーツ姿の鷹峯。もう一人は、ファッション雑誌にでも出てきそうな派手な色合いの服を着た糸目の男。鷹峯の向かいに座る若いその男の名は、芦屋睦月。かつて鷹峯と共に蒼世の部下だった、犲の一員だ。
 彼もまた、記憶はそのままに転生を果たしていると知ったのは、蒼世と再会した翌日のことだった。
 聞けば、蒼世は三年前にはすでに芦屋と出会っていたらしい。そしてもう一人、蒼世の傍には懐かしい人物がいた。
 今宵、鷹峯は蒼世の計らいによって、彼らと顔を合わせることになっていた。
 蒼世はそのもう一人と共に、遅れて合流することになっている。そのため、それまでの間、鷹峯は芦屋と二人で酒をあおっていた。
「惚れていた人が女性として生まれ変わっていて、一晩同じ部屋で過ごしたのに、手を出さなかったんですか?口説きもしないなんて……情けないですね」
 薄く緑がかったカクテルを嚥下し、芦屋は感情の見えない顔で鷹峯を見た。彼が云っているのは、鷹峯が蒼世と再会した夜のことだ。あの日、鷹峯は結局蒼世のマンションで一夜を明かした。だが、口付け以上のことは一切していない。それどころか、あれ以来、必要以上の接触はしていなかった。
「今のあいつは高校生だぞ。それに、出会っていきなりヤれるかよっ」
 器に入っていた日本酒を一気に飲み干す。鷹峯は苦々しげに呻いた。
「そういうとこ真面目ですよね、昔から。まぁいいですけど。蒼世さん、モテますから、気を抜いてたら他の奴に取られますよ」
「……モテるのか、あいつ」
「そりゃ、あの美貌ですから。少し冷たいところも、一部の男子にとってはたまらないようですよ」
 楽しげに語る芦屋に対し、鷹峯はどんどん顔を強張らせていった。
「随分と詳しいじゃねぇか。誰に聞いたんだ」
「蒼世さんたちと同じ高校に昔の恋人がいまして。彼女から聞きました」
「相変わらず、手広く女捕まえてるんだな」
「……そうでもありませんよ。昔に比べたら。ああ、でも、蒼世さんをそういう目で見たことはないので、ご安心下さい。俺は貴方と違って、純粋にあの人に仕えていましたから」
「……云ってくれるじゃねぇか」
 犲にとって隊長である蒼世は、絶対君主。隊員は誰もが蒼世の言葉に素直に従った。特にこの芦屋は、それが顕著だったと記憶している。
 対して副隊長として誰より近くにいた鷹峯は、忠誠を誓うと同時に別の情を抱いて蒼世に従っていた。
 熱を分けるように、何度も夜を共にした。体を重ねた回数は、もはや数え切れない。それは、犲がなくなり、蒼世について海軍に入った後も変わらなかった。
「と、そろそろいらっしゃる頃ですかね」
 芦屋がスマートフォンの時計を見る。鷹峯も腕時計に目を落とした。
 それから数分と経たず、店員に案内され、二人の少女が姿を現した。
「こんばんは。待たせてごめんなさい」
 先に登場したのは、金に近い髪を緩く結わえた艶やかな美女だった。豊満な体のラインがはっきり分かる服を着て、ルージュのひかれた赤い唇を笑みの形にしている。このような居酒屋には似つかわしくない、華やかさがあった。
「佐々木」
「久しぶりね」
 鷹峯が名を呼べば、佐々木妃子は妖艶な出で立ちとは裏腹に、ふわりと笑った。
 そんな彼女に続き、蒼世も顔を見せる。無造作に一纏めにされた髪、シンプルな白いワンピース。相変わらず飾り気のない、しかし息を呑むほどの美貌に、鷹峯は目を奪われた。彼女と会うのは、一週間ぶりだった。
「蒼世……」
「待たせた」
 妃子が芦屋の隣に座る。そのため、自然と蒼世は鷹峯の隣に腰を下ろすことになった。
「鷹峯、貴方変わらないわね。あ、でも、顔の傷は消えたのね」
「まぁな。そう云うお前だって昔のままじゃねぇか」
「妃子さんはさらに美しくなりましたよ。会う度にメイクを変えられてますが、そのどれもがよくお似合いです」
「あら、よく分かりますね」
「そりゃ、勿論」
 目の前で繰り広げられる会話についていけず、鷹峯はつきかけた溜め息を呑みこんだ。つまみとして頼んだ唐揚げに齧り付く。そして何気なく、隣の蒼世に目を向けた。彼女はじっとメニュー表を眺めていた。
「お前は……変わったようで、変わってねぇな」
「どういう意味だ」
 鷹峯の物云いが勘に触ったらしく、蒼世はむっとした顔付きでこちらを見た。鋭い眼光に、やはり変わってないなと笑う。
「まさか、女になってるなんて思わなかったって話だよ」
「ああ、それは俺も驚きました」
 鷹峯の言葉に、芦屋も同意する。そういうことかと納得したようで、蒼世から剣呑さが消えた。
「自分では驚かなかったのか?」
「……然程驚くことはなかった。私が己が何者であるか思い出したのは、十二の時だった。その頃には、すでに女としての自分を確立していたから、“かつては男だった”、その程度の感慨しか持たなかったな」
「お前は本当、さっぱりしてるというか泰然としているというか」
「器が大きいんですよ、蒼世さんは」
 芦屋は目元を和らげながら云った。さらりとした口調は、彼が本心からそう思っていることの証拠だった。
 しかし、褒められたにも関わらず、蒼世は眉をしかめていた。今の彼女が何を思っているか、鷹峯には手に取るようにわかった。
 自分は、器の広い人間ではない。
 蒼世はそう云いたいのだ。 
「二人とも、もう結構飲んだの?」
 妃子がテーブル上のグラスを見回し、尋ねる。
「俺はほどほどですが、鷹峯さんはかなり」
「相変わらずね」
 鷹峯の手元に並ぶ空の徳利を見て、妃子はくすくすと肩を震わせた。
「お二人はソフトドリンクですよね。こちらをどうぞ」
「あら、ありがとうございます」
 芦屋が妃子に注文用の機会を渡す。タッチパネルを操作し、妃子は蒼世にも画面を見せた。
「そういや佐々木、お前も蒼世と同じ高校に通ってるんだってな?」
「ええ。そうよ。クラスは違うけど、同じ学年」
「他の奴等は?」
「いないわね。私は貴方達以外、昔の知り合いには会ったことがないのよ」
「……じゃぁ、天火にもか」
 何気なく、鷹峯はその名前を口にした。途端、蒼世の睫毛がふるりと震えるのがわかった。妃子が、どこか淋しげに微笑む。
「ええ……会ったことないわ。転生してるのかさえ、分からない」
「そうか」
「もしかしたらと思って、滋賀に行ったことがあるんだけど、そこにはもう曇神社はなかったの」
 それは初耳だった。鷹峯は驚きながら、妃子を見る。
「天火には……会えたら、嬉しいんだけどね」
 そう呟いて、妃子は瞼を伏せた。この少女が今でも並々ならぬ思いを、かつての幼馴染みに抱いていることを痛感した。そしてそれは、傍らにいる蒼世も同じなのだろう。
 だが、そんな鷹峯の想像を否定するように、蒼世は云った。
「生きているかも分からない男のことを考えてどうする。無駄なことだ」
「……相変わらずね。蒼世」
 無駄なことは考えないし、行動しない。それが蒼世のポリシーの一つだった。いや、ポリシーというよりは、短気な性格ゆえと云うべきかもしれない。
(にしても、素直じゃねぇな……)
 天火のことを考えても無駄だと思っているのは本音だろう。しかし、一方で会いたいと願っていることも間違いない。本人は、無意識のうちにそのことを隠そうとしているようだが。
 もし、天火と再会したら、今の蒼世は彼にどのような念を抱くのだろう。そんなことを想像して、ちくりと胸が痛む思いがした。


 四人での食事は、それから二時間続いた。
 未成年の蒼世と妃子が帰宅しなければならない時間が訪れ、店を出ることになった。支払いは鷹峯と芦屋が折半した。
「それじゃ、またね」
 妃子と芦屋の二人と駅のホームで別れる。彼らは鷹峯と蒼世とは別方向に住んでおり、使う電車の路線も異なっていた。
 電車に乗りこみ遠ざかる二人の姿を無言で見送る。それから、鷹峯は蒼世と共に自分たちの乗るべき電車を待った。
 もうすぐ夏を迎える夜の風は生暖かい。すっかり花びらを散らした桜の木々が、線路の向こう側で揺れていた。
「蒼世、家まで送る」
 正面を向いたまま、鷹峯は隣の蒼世に云った。
「駅から家までは近い。気遣いは無用だ」
「家が近いのは知ってる。だが、もう九時だ。“女子高生”を一人で帰らせるわけにはいかねぇよ」
「…………」
 蒼世はそれ以上何も云わなかった。反論がないということは、釈然としないながらも鷹峯の提案を受け入れたということだ。
 蒼世に目を向ける。彼女は伏し目がちに、どことも云えない空間を見詰めていた。その横顔は言葉を失うほどに美しい。

 誰も、夢にも思わないだろう。
 この華奢で透き通るような美貌の持ち主が、かつてこの国で軍神とまで讃えられた、海軍中将であった男だったとは―

 陰陽師の名家・安倍の出であり、右大臣である岩倉具視の近衛隊隊長を務め、大蛇討伐やその後の大蛇細胞をめぐる陸軍内部の諍いを見事に治めた蒼世の軍人としての昇進は、異例とも云える早さだった。
 彼は海軍に入ると同時に、少佐の地位を与えられた。蒼世や犲をよく知らない者たちは、慣例や年齢にそぐわない階級に不満を口にしていたものだ。金を積んだ、色を使った。そんな根も葉もない噂が絶えなかった。中には、上に直接苦言を呈す者もいたらしい。だが、蒼世はただひたすら、己の力と実績を持って、その全てを黙らせた。
 常に冷静で、感情的になることなく判断を下せる蒼世の姿に、多くの者が感嘆した。状況が不利になろうと、顔色一つ変えず、前を向いて指示を出す蒼世の言葉には、多くの兵が奮い立たされた。
 そうしていつしか、蒼世の発言力と存在は、軍内部で確固たるものとなっていた。
 蒼世は、気付いていたのだろうか。歳を重ねるごとに、己を慕う下官が増えていたことに。蒼世の部隊に配属になったことを歓喜する若人が幾人もいたことに。
「気付いてねぇんだろうな、お前は」
 蒼世宅の最寄り駅に降り、住宅街を進むこと数分。人気の少ない道で、鷹峯は思わず呟いていた。鷹峯にそうさせたのは、先程の居酒屋で芦屋が口にした一言がきっかけだった。
 蒼世がこちらを仰ぎ見る。足を止めることなく、鷹峯はその視線を受け止めた。
「何の話をしている」
「さっき、睦月が云ってただろ。お前は器が広いって。だが、どうせお前のことだから、そんなふうには自分を捉えてねぇんだろうなって」
「……下らないことを」
 わざとらしいほど大きな溜め息が、蒼世の口から出る。彼女は前に向き直ると、云った。
「多くの指揮官と呼べる人物を見てきてわかったことだ。私は、決して器の広い人間ではない。ましてや、人の上に立つ器ではなかった」
 指揮官と呼べる人物。蒼世がそう示す中には、恐らくかつての師や相棒だった男も含まれているのだろう。確かに、彼らにはそこにいるだけで人を惹き付ける力があった。それは人間的な魅力がそうさせていたのだろう。だが、それを云うなら蒼世だって同じことだと、鷹峯は考えていた。
「お前は、充分懐の大きい奴だよ。じゃなきゃ、俺も佐々木も睦月も、他の奴等も命まるごと預けてない。実際、他にもお前を慕う奴はいただろ。軍に入ってからも、多くの人間のトップに立って、結果を残してきたじゃねぇか。それなのに、どうしてそんな自己評価が下せるんだ」
「…………」 
「連合艦隊司令長官の話を辞退した時もそうだ。自分はその器じゃないなんて、よく云えたな」
「あれは、当時司令官にはもっと相応しい者がいるという海軍大臣の山本様の意向に従っただけだ」
「それは、東郷さんの元でお前に学ばせるためでもあったからだろ。器云々は誰も指摘してねぇ」
「……確かに、あの方はいずれ私に司令官の役職を任せるつもりだったようだが」
 だが、蒼世はその直後戦争で命を落とした。そのことが、海軍にとってどれだけ痛手だったか、鷹峯はよく知っている。
「……私は、ただ部下に恵まれただけだ」
 ポツリと、まるで独り言のように蒼世は呟いた。その言葉に、鷹峯は思わず歩みを止めそうになるほど驚いた。
「蒼世、お前」
 呼び掛けるが、それに反発するように、蒼世は歩く速度を上げた。
「これ以上この話はするな。今更話したところで、何かが変わるわけでもない」
「……お前の認識は、変えられるかもしれねぇだろ」
「変えてどうする」
 蒼世は振り返ることなく、どんどん鷹峯から距離を取っていった。強情な奴だと苦笑しながら、鷹峯は小走りで蒼世の横に並んだ。
『私は部下に恵まれた』
 それは、初めて蒼世の口から聞けた本音だった。彼女が云う部下の中に、自分は含まれているのか。尋ねようかと思ったが、無粋な真似だと考え、やめた。
 それからの道中、二人は一言も喋ることはなかった。



 記憶が、蘇る。
「あの人は、最期まで国を守るために戦い抜いたのですね」
 秋の暮れのことだった。
 東京にある蒼世の自宅を訪ねた鷹峯は、仏壇の前で彼の家族と向かい合っていた。
 鷹峯から自身の夫がいかにして戦死したかを聞き、蒼世の細君は感情を堪えるように目を伏せた。
 蒼世の容姿がずば抜けて整っているのに比べ、彼女は特別美人というわけではなかった。しかし、知性と品性が彼女に落ち着いた色をもたらしていた。何より、笑った顔が魅力的な女性だった。まるで少女のように明るく笑う顔を見た時、鷹峯はなぜ蒼世が彼女を娶ることを決めたのか、理解したほどだ。
 そんな彼女の傍らには、今年で十五を迎える五女が寄り添っていた。
 蒼世には、実の子供がいない。彼は結婚してすぐに、己の体が生殖能力を失っていることを医師から告げられた。原因は、大蛇の熱線を浴びたことにあった。だからだったのか、蒼世とその妻は、孤児院から五人の子供を引き取った。一番上の子供は男で、今年で二十三になる。体が弱いため、軍人になる道は諦めたが、父の友人の影響を受けてか、外交官を志していた。ドイツに留学していたが、父の訃報を知り、現在急遽帰国していた。
「……彼の力がなければ、連合艦隊が敵艦隊を打ち破ることはできなかったでしょう。見事な戦死でした。部下であれたことを、誇りに思います」
「ありがとうございます……」
 きゅっと彼女の指に力が込められる。零れ落ちそうになった涙を拭い、彼女は顔を上げ、鷹峯を見た。
「鷹峯さん、いつか、主人が申しておりました。自分の後ろに常に貴方がいてくれるから、自分は前を向いて突き進めるのだと。きっと、あの人にとっても、貴方は誇りだったのだと思います」
「……中将が、そのようなことを?」
「はい」
 潤んだ瞳のまま、彼女は笑う。そして、鷹峯に対し、深々と頭を下げた。
 声が、聞こえる。
 懐かしい呼び声だった。
 鷹峯は顎を上げた。そうしないと、枯れたはずの滴が畳を濡らしそうだったから。
 

 

 先週も訪れたマンションの部屋の前、蒼世がドアの鍵を開けるのを後ろで待ちながら、鷹峯は今の彼女はどのような生活をしているのか気になった。
 高校生であり、妃子と同じ私立学校に通っていることは聞いた。しかし、家族のことや、なぜ独り暮らしをしているのかまでは知らない。訊こうと思ったことはあるが、さすがに踏み込んだ質問だったため、躊躇っていた。
「わざわざ、すまなかったな」
「構わねぇよ。慣れてる」
 海軍にいた頃、蒼世の送り迎えは鷹峯が率先して行っていた。そのことをやんわり含ませると、蒼世は少しばかり口元を緩めた。
「明日は休みだと云っていたな。茶くらい出してやる。上がっていけ」
「……いや、それは遠慮しておく」
 蒼世の心遣いは嬉しかったが、立場が立場なだけに、鷹峯は首を横に振った。同時に、昔馴染みとはいえ、こんな時間に男を簡単に自宅に上げようとする蒼世の態度に目眩を覚えた。それだけ鷹峯を信用してくれていると云えるかもしれないが、鷹峯にはその信用に答えられる自信がなかった。
「つい先日は、私の傍にしつこくいようとしたというのに、随分な変わりようだな」
「……あの時は再会したばかりで余裕なかったんだよ。だが、今は反省してる」
「反省? 何をだ」
「何って、独り暮らしの未成年の家に泊まったことをだよ」
 男ならまだしも、今の蒼世は女だ。しかも高校生とあっては、周囲に知られた時に批判の目で見られることは避けられまい。軽率だったと悔やんでいた。
 しかし、蒼世は意外にも下らないと云わんばかりに目を細めた。
「今更だな。私の唇まで奪っておいて何を云っている」
「いや、そうだけどよ……まさか今世でも、俺に抱かれていいとまで思ってるわけじゃねぇだろ」
「…………」
 蒼世は何も云わない。直接的な鷹峯の発言に動じた様子もなく、ただ鷹峯を見上げたまま、探るように瞳を覗き込んでくる。彼女が何を考えているのか、鷹峯には分かりかねた。
 最初、口付けを仕掛けてきたのは蒼世だった。しかし、それはかつて肉体関係を持っていた男への挨拶代わりのようなものだったのではないかと、鷹峯は捉えていた。それ以上の特別な意味など、考えないようにしていた。
「……お前は、口説く前に女を抱くのか」
「は?」
 あまりに突拍子のない台詞に、鷹峯は思わず声を上げた。戸惑う鷹峯の前で、蒼世はいたって真剣な顔をしていた。
「どうなんだ?」
「いや、云ってる意味がわからねぇ」
「そのままの意味だ。私を口説くこともせず、襲うつもりかと聞いてる」
 今度こそ、開いた口が塞がらなくなった。
「お前、俺がそんな真似をすると本気で思ってるのか」
「尋ねているのは私だ」
「しねぇよ」
 鷹峯は拳を握りしめた。何十年と傍で仕えてきたというのに、自分が女に暴力を振るうかもしれない男だと思われていたことが悔しかった。
 そんな鷹峯の葛藤を嘲るように、蒼世は鼻を鳴らした。
「だろうな。そのつもりなら、お前はとっくにあの夜、私を抱いていた」
 強張る鷹峯の手を、蒼世の指がゆっくりとなぞる。その途端、するりと力が抜けていった。
「……お前、何を考えてる」
 まるで蒼世の真意が掴めない。確かなのは、試されているということだけだった。
 ではいったい何を試されているのか。鷹峯は眉を顰めた。だが、蒼世は答えない。代わりに、色を帯びた声で、低く囁いた。
「……口説くなら、好きにしろ」
 蒼世が踵を返す。そのまま部屋の中に入り、扉が閉められそうになった。反射的に、鷹峯はドアの隙間に足を差し込んでいた。
 閉まりかけたドアが止まる。蒼世と目が合った。
「お前、それでいいのか」
 情けないことに、声が震えそうになった。鷹峯は唾を呑み込み、落ち着けと自分に云い聞かせた。
「俺が口説いて、お前はそれでいいのか」
「好きにしろと云ったはずだ」
「だけどよ……」
 かつての蒼世が鷹峯に向けていたのは、決して恋慕の情でも、愛情でもなかった。しかし、鷹峯は違った。忠誠を誓いながら、その心と体に触れたいと欲を覚えた。
 長年蓋をされていたソレは、蒼世と再会した瞬間、再び溢れだした。だが、それをそのまま蒼世に向けていいのか、鷹峯は懊悩していた。
「今の私とお前は、ただの学生と社会人。そう云ったのは、鷹峯、お前だ。なら、その立場を踏まえた上でお前がどうしたいのか、好きに決めればいい」
「蒼世……」
「今夜はもう帰れ。茶を出してやろうと思ったが、気が変わった」
「……なら、来週の土曜、空いてるか?」
 手を伸ばして、いいのだろうか。一抹の不安と希望を抱き、鷹峯は問うた。
「……土曜だな。空けておいてやる」
「また、連絡する……」
「ああ」
 足を引き抜く。ドアは閉まり、中から鍵がかけられる音がした。
 真新しい扉を見詰めたまま、暫し鷹峯は動けずにいた。



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