このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

前編

「お前、このままじゃ一生あいつの尻に敷かれるぞ」
 新しく就任した外交官を艦に乗せ、アメリカへと向かっていた時のことだ。
 古い仲である外交官は、鷹峯にそんなことを囁いた。
「まーだろうな」
「あの根暗の相手は大変だぞ」
「いいんだよ。今更、他の奴の下につく気にもならねぇし」
「物好きめ」
 そう云って、男は歯を見せて笑った。対して鷹峯も、釣られるように破顔した。
 そんな二人の笑顔は、背後から聞こえてきた真冬の風より冷たい声によって凍りつくこととなった。



 その日は、蒼世と約束を交わした土曜日だった。
 鷹峯は自家用車で蒼世のマンションに向かい、彼女を拾うことになっていた。待ち合わせは、午前十時にマンションの前と決めていた。
 鷹峯が到着したのは、15分前だった。車から降り、途中で購入した缶コーヒーに口をつける。蒼世が現れるのを、今か今かと待ち続けた。
 蒼世がマンションから出てきたのは、50分くらいのことだった。空になった缶を握り潰し、車内のゴミ箱に入れてから、鷹峯は蒼世に近寄った。
「よ。はよさん」
「おはよう」
 短く挨拶を交わし、鷹峯は車のドアを開けて蒼世に乗るよう促した。フレアスカートの裾を押さえながら、蒼世は助手席についた。
 今日の彼女の出で立ちは、高校の制服に比べて格段に大人びたものだった。柔らかな紺色のロングスカートに薄い青のブラウスの裾をしまい、細い腰にはベルトが巻かれている。ヒールのあるサンダルを履いているせいか、引き締まった脚のラインがさらに美しく見えた。長い髪は低い位置で緩くポニーテールにされ、後れ毛が幾本も首筋にのっている。いつも艷やかで真っ直ぐな髪が、今は僅かに波うっていた。その耳の下では、金色のイヤリングが揺れていた。鷹峯にははっきりとは分からないが、どうやら化粧もしているらしい。
「……何だ」
 無意識のうちに蒼世を凝視していた。視線に気付いた相手が、未だドアに手をかけたままの鷹峯を見上げた。
「いや、お前のそういう格好が珍しくてな。昔はプライベートの服装には拘りなかったのに、変わるものだな」
「……これは、佐々木にされただけだ。今日お前と出掛けると云ったら、朝一で家に来て、色々支度をさせられた」
「なるほどな。そういうことか」
 さすが、妃子といったところか。芦屋が事あるごとに妃子の美的センスを褒めているが、確かに彼女のセンスは目を見張るものがある。蒼世の美貌をどう飾り立てればいいか、よく理解している。
「似合ってる」
「…………」
 蒼世は何も答えなかった。鷹峯から目をそらし、「早く車を出せ」と急かした。
 苦笑いし、蒼世の指示に従う。運転席に乗り込み、鷹峯はシートベルトを締めた。
「ここから二時間かかる。寝ててもいいぞ。着いたら起こしてやる。あ、そこにお前の分のペットボトルの茶があるから」
 蒼世と共に出掛ける約束をしてから、鷹峯は今日どこに行こうか真剣に悩んだ。それまでの人生で女性と二人で出掛けたことは幾度もあったが、それとは比にならないほど悩んだ。蒼世の行きたい所に連れて行ってやろうかと思ったが、彼女からは「お前が連れていきたい所に連れて行け」と云われてしまった。思案した末、鷹峯は美しい湖の畔にあるホテルに行くことを決めた。
 ホテルのレストランで食事を取り、その後は自由に周囲を散策するつもりだった。緑に囲まれたホテルの敷地内には、湖の他、温泉や水族館、商業施設が並んでいる。蒼世が静かに寛ぎたいと云えば、そのための場所もすでに目星がついていた。
「そういえば初めてだな。お前とこうしてプライベートで出掛けるのは」
 寝ていいと云ったものの、寝る気配のない蒼世に話しかける。彼女は窓ガラスの外に向けていた顔を、こちらに向けた。
「そうだったな」
「ああ。過ごした時間は長かったが、だいたい仕事絡みだった」
「何度かお前に飲みに連れて行かれたことはあったが」
「そりゃあくまで近場だろ? こうして遠出する機会はなかったじゃねぇか」
「遠出という距離でもないだろう」
「なら、今度はもっと遠くに行くか?」
「……そうだな。それなら私は、呉に行きたい」
 蒼世の言葉に、鷹峯のハンドルを持つ手が束の間固まった。
 呉、広島。そこはかつて海軍の鎮守府があり、蒼世が東京に転居するまで家族と共に暮らしていた場所でもある。
「帰りたいのか?」
「帰りたいというわけではない。ただもう一度、あの地を踏んでみたいと思うだけだ」
「そうか……」
 訥々と語る蒼世の声には、僅かに哀愁が感じられた。今、彼女がどのような顔をしているのか、目にできないのが悔やまれた。
「なら、今度連れて行ってやる。なんなら、佐々木たちも一緒に向こうに泊まるか。日帰りだときついだろ。夏休みとかどうだ?」
「……いや、金銭的なことを考えると、学生のうちは無理だ」
「少しくらい出してやるよ」
「必要ない」
 にべもなく断られ、鷹峯は苦笑した。こちらは社会人で蒼世は高校生だ。少しくらい甘えてきてもいいだろうに、生真面目な彼女はそれを良しとしない。今日の支払いについてもそうだ。全て自分が持つという鷹峯の申し出を受け入れさせるまで、だいぶ骨が折れた。

 高原にある目的地には、ほぼ予定通り到着した。夏は避暑地として利用されるだけあって、晴れているにも関わらず、外はうっすら肌寒かった。
 車から降りて、蒼世は春物のコートに袖を通した。
「蒼世、こっちだ」
 二棟ある建物の片方、新館へと蒼世を案内する。
「お前は、以前もここに来たことがあるのか?」
「ああ、会社の同僚の結婚式の時に一度だけ。静かな場所だから、お前も気にいると思った」
「……そうか」
「女と来るのは、これが初めてだ」
 直感的に、蒼世が何を思って尋ねてきたのかわかった鷹峯は、声を潜めてそう云った。
 蒼世が横目で鷹峯を見る。彼女は再び「そうか」とだけ返した。

 食事を終えた二人は、湖へと足を運んだ。
 その頃には風が出始め、体感する温度はさらに低くなっていた。
 一度車にジャケットを取りに行った鷹峯が蒼世の元に戻ると、彼女は野原に立って湖を眺めていた。
 その後ろ姿は、弛んだところなど一つもなく、凛然としていた。不意に、鷹峯は甲板に立つ蒼世の姿を思い出した。背中しか見えないはずなのに、彼が真っ直ぐに海を見据える眼差しを肌で感じることができたものだ。
 蒼世の近くを、二人組の女性が通る。彼女たちは蒼世をちらちらと気にする様子で、こちらに歩いて来た。
「あの人、すごく綺麗だね。立ってるだけでカッコよかった……モデルさんかな」
「めっちゃスタイル良いもんね。気になるー」
 二人とすれ違う際、そんな会話が聞こえてきた。鷹峯はこっそり微笑んだ。
「蒼世」
 近くまで来たところで名前を呼ぶ。蒼世がゆっくりと振り返った。彼女の隣に立ち、鷹峯もまた、湖に目を向けた。
「寒くねぇか?」
「ああ。問題ない」
「こうしてると、琵琶湖を思い出すな。規模でいうなら、向こうのほうがはるかにデカかったが」
「琵琶湖か……久しく目にしていないな」
「俺もだ。こうして長らく離れてみると、獄門処や大蛇のことが夢物語のように感じることがある」
「……決して、夢物語ではないがな」
「俺だって、本気でそう思ってるわけじゃねぇよ……」
 何気なく、蒼世を振り返ったその時だった。鷹峯は言葉を失った。
 何を思ったのか、蒼世は己のブラウスのボタンを外していた。突然の出来事に、鷹峯は止めることもできずにいた。
 胸元までのボタンが外され、キャミソールや下着の肩紐が顕になる。咄嗟に鷹峯は目を背けた。しかし、すぐに蒼世に名を呼ばれ、再び彼女を目にすることになる。
 蒼世の右手がキャミソールの襟を下にずらし、鷹峯に向けて鎖骨から胸部の上を晒していた。躊躇いながらも、白い肌の上を視線でなぞる。 
 鷹峯は、すぐに蒼世が何を見せようとしているのか理解した。理解し、目を見開いた。彼女の右胸は、赤黒く変色していたのだ。
「お前、まさかそれ……」
「おぞましい色をしているだろ。かつて、大蛇の攻撃でできた火傷の痕だ。顔や腕からは消えていたが、胸部から腹にかけてはまだ残っている。呪い、とでも云うべきなのだろうな。生まれた時から、この痕はあったらしい」
「……俺達の記憶の中にある大蛇は、間違いなくいたってことか」
「……ああ。だが、子供の頃は火傷の理由がわからず、だいぶ苦しんだ。周囲からも奇異の目で見られ、私は……これが理由で、両親に捨てられた」
「……っ!」
 ブラウスのボタンを留めながら、大したことでもないように口にする蒼世に、鷹峯は後頭部を殴られた心地になった。
「お前、じゃ今はどうやって生活してるんだ……」
「親戚に引き取られた。本当は引き取りたくなどなかったそうだが、世間体を気にしたみたいだな。高校までは出してやると云われたが、その後は一人で生きていけとも云われた。自分たちと同じ家に置いておきたくなかったらしく、中学の頃から実質独り暮らしをさせられている」
「……大学はどうするんだ。就職するのか?」
「金銭的な問題さえクリアすれば、進学したいと考えている」
「そうか」
 鷹峯は唇を噛み締めた。
 なぜだと、心の底から叫びたくなった。
 かつて男であった蒼世は、実の親の顔を知らなかった。大蛇討伐のため親から引き離され、曇夫婦に引き取られるまで愛情など知らずに育った。そして今世では、火傷の痕を理由に親に捨てられたと云うではないか。なぜ二度も、蒼世ばかりがこのような目に合わねばならないのか、鷹峯は憤った。憤ると同時に、この細い肩が背負う荷物の重さに圧倒されそうになった。
「……お前が、そんな顔をするな」
 常より柔らかな声で、蒼世は云った。その瞳は少しも揺らいではいなかった。
 鷹峯の胸に、強い思いが宿ったのはその時だった。
 犲副隊長として、隊長である蒼世を支えると誓った時とよく似た衝動だった。自分は彼女のために何ができるのか、そればかりを考え出していた。
 その背中を支えたい。彼女が進む道を共に進み、力になりたい。
 沈黙した二人を、風の音だけが包む。緑と水の中、鷹峯に芽生えたのは、確かな愛情だった。


 夕方。蒼世を自宅に送り届け、鷹峯は自分の住むマンションに帰宅した。
 部屋の明かりをつけ、一目散にサイドボードに向かう。一番上の棚を開け、そこに入っていた通帳を手に取った。そして、ソファーの上に仰向けに横たわる。顔の前に開いた通帳を掲げ、そこに記された数字に目を通した。
 鷹峯は現在、その体格と運動能力の高さを買われ、民間の警備会社に勤めている。中でも特に危険な仕事を引き受けることが多いため、給料も同年代に比べると比較的高い。酒以外に金を使う機会がほとんどないため、貯金は増える一方だった。
 自分の金で、蒼世の学費を援助できるのではないかと、ずっと考えていた。
 しかし、問題は彼女が素直に金銭を受け取る可能性が低いことにあった。貸与という形を取ったとしても、渋ることだろう。
 通帳を下ろし、胸の上に乗せる。鷹峯は深く息を吐き出した。
 今の自分は、いったいどこまで蒼世の人生に踏み込んでいいのだろうか。その答えが出せずにいた。
 軍人として部下であった頃は、そんな迷いは生まれなかった。副官という立場柄、彼の自宅に足繁く通うことも、彼や彼の家族のため行動することも、自由にできた。しかし、今や自分たちは社会人の男と女子高生だ。この先蒼世が結婚するようなことがあれば、傍にいて力になってやることは、難しい。それは、どうにも耐え切れなかった。
 そうなると、方法は限られてくる。養子に取るか、後見人になるか、あるいは―
「結婚でもするか?」
 冗談混じりに呟く。何を云っているんだと自嘲しようとした。しかし、その一言は声になった途端、まるで天啓のように鷹峯の目を開かせた。
「…………」
 天井を見上げたまま、思考が停止した。口の中がやけに乾き、鼓動がうるさいほどに高鳴った。
 気が付けば、鷹峯は起き上がり、スマートフォンを取り出していた。電話帳の一番上にある名前に、電話をかける。数コール後、相手は電話に出た。
「すまねぇな、突然電話して。いや……そういうわけじゃねぇよ……蒼世……これから、お前の家に行ってもいいか?」







 人は時として、己でも信じられない行動に出ることがある。
 まるで突き動かされるように、何者かに手を引きずられるように。頭は冷静に考え行動するのに、後々振り返ると「なぜ」と疑問が噴出するほど信じられない行いをしていることがある。
 だが、それが愚行であるかというと、決してそんなことはない。
 今の鷹峯が、まさにそれだった。

 つい先程も訪れた蒼世のマンション。その部屋の前に立ち、鷹峯は扉が開くのを待っていた。
 早鐘を打っていた心臓は、いつしか落ち着いていた。頭も妙にクリアで、ひどく自分が冷静であることを自覚した。
 ドアが開き、蒼世が顔を出した。彼女は別れた時と同じ服のままだった。化粧も落としていない。
「悪い。いきなり押し掛けて」
「構わん。話があるのだろ? 上がれ」
 蒼世に続いて、リビングへと向かう。お茶を用意するためキッチンに入ろうとした蒼世の腕を掴み、止めた。
「茶はいい。それより、聞いてほしいことがある」
 蒼世の右手を握ったまま、鷹峯は云った。蒼世は無言でこちらを振り返り、真っ直ぐ見上げてきた。
 その言葉は、躊躇いなく、鷹峯の口から零れ出た。 

「俺と、結婚してほしい」

 蒼世の双眸が、限界まで見開かれた。彼女がそこまで驚愕する様は、数えるほどしか見たことがなかった。
 蒼世は絶句しているようだった。当然だろうと胸中で呟き、鷹峯は云った。
「今すぐにってわけじゃない。お前は高校生だから、卒業するまでは待つつもりだ。だから、正確には結婚を前提にして、俺と付き合ってほしい」
 繋いだ手に、いつしか力がこもる。蒼世の顔つきが、徐々に平静なものに変わる。彼女は目を伏せた。
「お前は、本気で云ってるのか」
「ああ、本気だ」
「私と再会して、まだ一ヶ月あまりだぞ」
「関係ねぇよ」
 本当は、自分でも驚いていた。ずっと焦がれ、求めていた相手であることは違いない。それでも、まさか求婚に至るとは予想もしなかった。
「蒼世、お前云ったよな? 今の俺達の立場を踏まえた上で、どのような関係になりたいのか決めろって。俺は、そこそこ収入もあるし、仕事も安定してる。お前を社会的にも経済的にも支えてやれる自信がある。いや、支えてやりたいと思った。これが、俺の答えだ」
 握り締めていた手を解く。下からすくい上げるように持ち直し、鷹峯は蒼世の前に片膝をついた。
「俺の人生を、まるごとお前にくれてやる。だから、お前の傍にいることを、お前の力となることを、許してほしい」
 鷹峯の、心からの懇願だった。
 蒼世は瞬きせず、ただじっと鷹峯を見下ろしていた。その眼差しは澄んでいて、心の奥まで見透かされるような気がした。
「……お前が、そこまでする理由は何だ。私への忠誠か? それとも憐憫か?」
「憐憫なんかじゃねぇよ。忠誠心がなくなったと云えば、嘘になる。俺の中には、今でもお前に仕えていた頃の自分がいるからな。だが、そうだな……今の俺を動かしているのは、忠誠とは別のものだ」
 鷹峯がそのことに気付いたのは、湖畔で蒼世を見詰めていた時だった。きっとそれは、ずっと昔から鷹峯の中に存在していた。それでも、立場や蒼世との関係に覆い隠され、外に出ることがなかった。
「愛してる、お前を」
 それが、鷹峯の素直な思いだった。
「……二度目の人生を、また私に捧げるというのか」
「ああ」
「物好きだな」
「お前までそれを云うか」
 かつて、同じことを別の奴に云われたなと、鷹峯は苦笑した。
 蒼世が暫し口を閉ざす。目を瞑り、静かに想い巡らせているようだった。
 鷹峯はひたすら、彼女の返答を待った。
「……高校を卒業してからだ」
「ん?」
「高校を卒業したら、まずは婚約する。結婚は、その後タイミングを考えてから決める。いいな」
「え、あ、ああ……」
「性交渉も卒業してからだ。万が一、妊娠してしまっては事だからな。前戯までは許可してやる」
「おい、蒼世、ちょっと待て」
 突如、蒼世の口から淡々と飛び出してきた言葉の数々に、理解が追いつかなかった。それは、最大の前提が欠けてしまっているからだ。鷹峯は一度深呼吸して、ゆっくりと尋ねた。
「……つまり、お前は、俺のプロポーズを受けるってことか?」
「ああ」
 即座に肯定される。鷹峯は瞠目し、その場に項垂れそうになった。
「情緒がなさすぎるだろ、お前……」
「今更だろう。突然、自宅でプロポーズしておいて、何を云う」
「確かにそうかもしれねぇが……」
 鷹峯は嘆息した。だが、蒼世らしいと云えばその通りだ。本人は不快な顔をするかも知れないが、“らしい”と感じる彼女の言動に、鷹峯は安心した。
「いいんだな」
「ああ」
 蒼世の瞳には、迷いがなかった。認められたのだと、鷹峯は痛感した。
「……お前が卒業したら、また正式にプロポーズする。今度は、ちゃんと場を用意してな」
「楽しみにしている」
 蒼世は微笑んだ。グロスのひかれた唇が、艷やかに弧を描く。口付けたいと、感情が動いた。
 立ち上がり、蒼世の頬に手を添える。身を屈めると、その先を察した蒼世が瞼を下ろした。
 唇が、優しく重なる。一度離し、至近距離で見詰め合う。鷹峯は蒼世の腰を抱き寄せ、今度は深く、唇を奪った。
「っ、ん」
 壊れ物を扱うように触れ、その髪をまとめるヘアゴムを外す。
 感じる体温が、吐息が、声が。鷹峯を満たしていく。
 なだれ込むように、鷹峯は蒼世の体をソファーに押し倒した。





3/4ページ