第七章 恋
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
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前略、向こうの世界での母様。人の嗜好に文句をつける人間になるなと育てられてきたえみですが、やっぱりそれでもあれにアレはないと思うのです。かしこ。
「だーかーらー、おにぎりの海苔はパリパリで鮭が定番だっての!」
『ああ!? パリパリの海苔とか顎の裏についたらとりにくいだろ。鮭は朝食の定番だおにぎりの定番じゃねえたくあんだ』
「女子かっ! たくあんなんておにぎりの供え物だろーが。朝食でも箸休めだし」
『だからこそ他の一品が引き立つってのがガキの嗜好にゃわかんねえんだな。一生、海苔をパリパリしてろ』
「言うけど、あんた朝飯でパリパリの海苔食ってるだろっ」
『あのさあ、戦闘中《こんなとき》にまで痴話喧嘩は控えてくんない?』
一応、兼さんらは戦場に赴いていて、一応、命のやり取りの最中でさすがに多少気が立っているらしいキヨが珍しく語気を強めて言ったのに対して、何が痴話喧嘩だ! と兼さんは迫りくる一閃を、上半身をひねって避けながら吼える。えみは本丸の一角にある通信施設のモニター越しから喋っている。過去に飛んでいる男士達とのやりとりはモニターを通じて介されるため、どれだけ兼さんが憤怒していようが現代にいるえみには一切合切、手出しできないのだ。ざまあみろ。まあ、帰ってきてからが怖いが。長谷部さんを盾にしておこう。
任務は滞りなく終わった。さっきまで戦場にいた第一部隊を出迎えに行く。疲れたー、ネイルボロボロー、と言葉がそれぞれ飛び交うなか第一部隊のみんなは手入れに休息に各々散らばる。兼さんは先程の口論の続きでえみにとってかかりそうだったので長谷部さんを召喚してターンエンド、流れるままえみは自分の持ち場に着く。おにぎり討論の決着については割愛させていただこう。
業務作業の息抜きに傍らに置いているタブレットを手に取りSNSで今何が起こっているか流し見したり。ついつい見すぎてあっというまに時間が経っちゃって何も手についていないっていうのがよくあるんだよね。ぼーっと流し見していると、一つの投稿に目がいく。『告白』の二文字。あ、と思わず声が漏れたあとに忘れていた記憶が鮮明にフラッシュバックする。声が漏れてしまうのも仕方がない。だって、
(そうだったー、兼さんに告白してるんだったーっ)
今更、その事実に気づいてしまう。あのとき、もう帰れないと悟って最後のつもりで告白していたんだった。肩に残る兼さんの腕のぬくもりがまだ新しい。心臓が強く鼓動を打ち始める。顔に熱がのぼってきた。思い出してしまったから、これから兼さんにどんな顔をして会えばいいのか。向こうはこっちの想いに気づいているわけだし。
……いや、待てよ。あの日から数日が経つが兼さんのえみに対する態度は告白する前となんら変わりない。忘れているのか、それとも、覚えていないのか? 実は、えみが告白したときには、まだ記憶がよみがえっていなかったのではないのだろうか。抱き締めたのも、勢い、とか。雰囲気に飲まれてしまってそういう事になる事はよくある話だ。でも、告白してからの行動を思い返してみるに、それはあり得ない。だとするなら、やっぱり忘れているのだろうか。もしくは……えみに興味が、ない? それなら態度が変わらないのにも納得がいく。……もしそうだとしたなら急激に落ち込んできた。えみは兼さんにとっては河原の石ころと変わりないと思うと。いや、あれだけ突っかかってきたのだから河原の石ころではないだろう。せめて地元のよくつるむダチくらい……。
ぐるぐるとネガティブな考えばかりが思考を埋め尽くして悶々とする。こんなんじゃだめだ、仕事もあるし、とすっくと立ち上がって気分転換に飲み物を取りに台所のほうへと歩いた。
台所へ辿り着くと麦茶を飲んでいる袴姿のキヨと目が合った。今日は畑当番だったっけか。キヨに麦茶を一杯頼むと戸棚にしまってある新しいコップを取り出して注いでくれた。冷たく麦の香ばしい香りがじんわりと身に染みていく感覚が渡った。
「主、髪切ったんだね」
ふとキヨが言う。えみは髪をいじりながら
「まあなー。似合わないか?」
やっぱりバッサリいきすぎただろうか……と指先で毛先を弄びながら物思いにふけていると
「そんな事ないよ。可愛い」
ジッと目を見つめられて微笑みながらそんな事を言うもんだから、不覚にも胸を高鳴らせてしまった。ときどきドキッとする事を言うんだよな、キヨは。可愛いは口癖のようなものだから本人はなんの気なしに言ったのだろうけれど。キヨに惚れる女達は苦労するだろう。罪作りな男だ。「ありがとー」と照れ臭くお礼を言う。
「やっぱり失恋?」
「なんでや」
「だって、女の子が髪切るってそういう事なんでしょ?」
「それはドラマとか漫画。えみは、まあ、ただなんとなくだよ。イメチェン?」
「ほんとにー? 髪は女の子の命なんだよ? それをただの気まぐれで、そんなにばっさりと切ったりする?」
「えみは切るの」
やっぱりキヨも身だしなみに気を使っている以上、人の身だしなみも気になるものなのだろうか。失恋……といえば似たようなものになるのだろうか。もう二度と兼さんと、みんなと会えないと思ったから、想いを断ち切るように髪の毛を切ったわけだが。まさか戻ってくる事になるなんて。嫌なわけではない。えみが再び審神者に戻るために奔走したのだから。
兼さんがあのとき追いかけてきてくれたから、えみのために頑張ってくれたから——思い出して、かあっと忘れていた熱が上がって顔が火照る。「なんか顔赤いけど」とキヨが心配して聞いてきて、はっと慌てて露骨になんでもない素振りをした。コップの麦茶を一気に飲み干してキヨに「麦茶ありがとう」と伝えたあと踵を返して仕事に戻る事にした。
結局また兼さんの事を思い出してもやもやしてしまう。気になる。告白の事は覚えているのか、忘れているのか、覚えていながら忘れているふりをしているとするなら悪質だ。ああもう、どうしてこんなにも悩むのか。兼さんの事で頭をいっぱいにしてしまっている今のえみの状況がとても悔しい。
思い悩んでいる矢先、ばったりと兼さんと鉢合わせる。噂をすればなんとやらだ。どうしてこう絶妙なタイミングで顔を合わせる事になるのか。実はお空の上の神様が鶴丸さんで、面白がって遭遇させているんじゃないのだろうか。そう考えるとちょっと腹が立ってきた。鶴丸さんは悪くないけど。兼さんはえみの複雑なオトメゴコロを知る由もないだろう。
「人の行くとこ行くとこに現れて……あれですか? えみの熱烈なファンですか?」
悟られないように、調子を取り戻すようにいつものように冷静に兼さんへの挨拶代わりの煽りをかます。
「それはこっちの台詞だ。そもそも本丸にいるんだから嫌でも顔合わせるだろ」
それもそうだと、正論を言われるが兼さんに論破されるのが悔しいから腑に落ちない。何か他にかましてやろうと言葉を考えるが、調子が悪いのか普段なら湯水のように湧き出る言葉が浮かんでこない。妙にそわそわしてしまう。
兼さんは、じっとえみを見ていた。ドキッと胸が高鳴り、「な、なに」と強がりな声を出すと「髪、はねてんぞ」
え? どこ? と跳ねてる部分を確認しようと手のひらを頭に当てていると、すっ——と角張りつつもしなやかな白い手が伸びてきて、するっとえみの髪に指を通す。兼さんの手が、指が、えみの髪の毛に触れていた。
「っ——」
バシッ、と虫を払うように脊髄反射で兼さんの、髪の毛の跳ねを直そうとする手を払いのけてしまった。
(やば、)兼さんは目をパチクリとさせる。
「は、流行りのヘアスタイルなんだから崩すなよ」
咄嗟に出た方便だが、さすがに無理がありすぎるだろうか。いつもどおりを装ってぶちぶちと兼さんへの煽りを入れながら髪の毛を整えるふりをする。例の如くまんまと兼さんは釣られてえみの思惑どおりになった。少し安心する。兼さんがあのときの告白を覚えているのか覚えていないのかハッキリしない限り兼さんを意識している事を悟られてはいけない。だって超恥ずかしいし。好きと言ったら、ほおほおようやく素直になったかオレに見惚れちまうのは仕方がない事だからな、なんて嫌味ったらしく笑う奴だから好きだなんて認めたくないけれど言ってしまったものはしょうがない。
兼さんと妙に顔を合わせづらい。気持ちを告白してからどんな顔で会えばいいのかわからなくて、どんな顔を兼さんがしているのか見づらくて、怖い。土方さん関係ですれ違ってしまったときに向けられた、冷たい怒りの目を向けられたときよりも。
どうして気持ちを告白しただけで、好きだと自覚しただけでこんなにもいたたまれない。告白した事に後悔はないけれど、今、鉢合わせでもしたら冷静を保っていられない。
「お」と、縁側の曲がり角の向こうから——なぜか決まってこういう繊細な心境のときにばかり——今、一番会いたくない、声を聞くと胸が高鳴る大きな人影がえみの直線上に立つ。
(兼さん……!)
「よお、ある、」言うが早いか、あくまで自然な動作ですぐ脇の部屋の障子を開け、流れるようになかへと入っていき、スッ、と静かに隔てるように障子を閉める。直後に、今のは不自然じゃなかったか、逃げたって思われてないか気がかりになった。兼さんの足音に聞き耳を立てる。えみが入っていった部屋の前まで足音が続いて、止まる。開けられるかひやひやしていると、しばらく止まっていた足音は再び再開して小さくなって消えていった。ほっと一息つく。
さっきは兼さんに対して悪い事をしてしまったなと自覚して反省する。気持ちが落ち着いていなかったから、ついあんな露骨に避けるような行動をとってしまった。避けていると気づいてなければいいが。が、次に会うときは落ち着けば大丈夫——
「あ。ある、」と、思っていた矢先に渦中の人の声がえみに降りかかって、とっさにえみは「えーと戦果の報告書と遡行軍の履歴とー」と上司への連絡を急かされているように立ち振る舞って、兼さんの声には一切脇目も振らず、聞こえなかったふりをして早足でささっと兼さんの前を横切る。
兼さんとの距離をだいぶ離してから、立ち止まり、(あ〜〜〜)と典型的に頭を抱えて、やってしまったと落ち込む。今のは完全に不自然だったし、また避けてしまった。今度こそは、と思ったのに……。いざとなったら逃げ出してしまう臆病な性格の自分が嫌になる。は〜〜〜、とどんよりと長めのため息をついてとぼとぼと自室までの道のりを歩く。
そんな具合で兼さんと鉢合わせしそうになっては逃げ出す行為がかれこれ数回ほど続き、とうとう、
「おいてめえ」苛立ちがこもった言葉が投げられるのと同時にドカッ、と大きく長い丸太のように頑丈そうな脚がえみの行く手を阻むように壁に向かって伸ばされた。ひっ、と思わず身を縮こませる。脚の持ち主は腕組みをしていかにも機嫌が悪そうに顔に影を作って上からえみを見下ろし、もとい見下していた。
「なーんでオレから逃げようとしてんだよ。理由を言え」
「に、逃げてない」
「じゃあなんで避けてんだよ」
「避けてもない」
「嘘つくならもうちったあマシな嘘つけ。バレバレなんだよ。こっちだって理由もなしに避けられちゃあイライラすんだよ」
やっぱり避けているのがバレていた。ごもっともです。と頷くしかない。けれど今の心の状態では兼さんと顔を合わせてまともに話せる気がしない。今までもまともに話せているかどうかはさておいて。あれはノリだ。そう返すのがえみらしいというか兼さんに対して正しい反応というか……と、余談はここまでにしておいて。
なぜ兼さんを避けているのかだなんて本人を前に言えるわけがない。兼さんの事が好きで意識しちゃうから逃げちゃうんです、なんて言ったらプライドが高い兼さんはなんて言うか。火を見るよりも明らかだ。完全勝利S判定の余裕の風を吹かせるだろう。何を言ってもえみの敗北が決まってしまう。それはムカつくから嫌だ。
不機嫌な兼さんが壁となって立ち塞がるこの状況、どう突破しよう⁉︎ ——ふと、舞い降りた打開策。考えるより先に叫ぶ。
「——誰かあああ! 助けてえええ!」
ギョッと兼さんは目を丸くする。渾身の叫びが本丸に響いて数秒後、「ぁぁぁあああ主いぃ! 如何なされましたか!?」
本当に文字どおり光の速さで畑仕事をしていたと思われる土に汚れたジャージ姿の長谷部さんが血相を変えて目の前に現れた。確か今のこの場所から畑まではそこそこ距離があったはず……そんな事よりも、だ。長谷部さんの驚きの早さは後回しにして兼さんには悪いが長谷部さんに、「兼さんが苛めるんですぅ」とわざとらしく泣きついてみたりすり寄ってみたり。
「和泉守、貴様ァ! 主に対する反逆なら俺が粛清する! 主、ここは俺にお任せを。この長谷部が奴の腐った性根を刀身ごと圧し斬ってみせましょう」
「話を聞け、長谷部! そいつがデタラメ言ってるだけだ」
デタラメではない。ちょっとは合っている。今は話したくないのに突っかかってくるから。
「主をそいつ呼ばわりだと!? 前から気にはなっていたが、やはり貴様は主に対する忠義というものが全く備わってないようだな」
「お前は主以外に対する聞く耳を備えろ!」
「戯言はそこまでだ。和泉守兼定、覚悟!」
泥にまみれた軍手をはめた右拳を思い切り振りかぶって兼さんに一直線に飛んでいく。うおっ、と紙一重で兼さんは長谷部さんの鉄拳を避ける。兼さんは弁解しようとするけれど長谷部さんは容赦ないようで拳や足をどんどん繰り出していく。兼さんが長谷部さんに夢中になっているうちにそそくさとその場から退場する。兼さんの呼び止める声が聞こえるようだけど、無視。
ズドンッ! とまるで隕石でも落ちたかのような轟音が本丸中に響き渡る。ちょっとやりすぎではないだろうか。二人ともやりすぎるところがあるので少し心配になる、が、兼さんと長谷部さんには遠くから、心から深く深く心の中で謝った。
それから数日、特段変わった事はなかった。しいて言うならば兼さんが長谷部さんとの戦闘のあと、えみへの態度がちょっと素っ気ないものになったぐらい。そういった態度を取られるのは当然だろう。まるで土方さんとの一件がよみがえったかのようだ。どうしていつもこうなってしまうんだろう。自分が素直にならないのがいけない。もう少しだけ素直になれればきっと……。そうだ、次に会ったときはもうちょっと素直になろう。早くに謝ればきっと許してくれる……はず。今、遠征に行っている兼さんが帰ってきたら早速謝ろう。どうやって謝ろうか……などと考えながら与えられた仕事をこなしていく。
そう思いながら一時間が過ぎた。思っていたより時間がかかっている。少し気になりながらも兼さん達だから大丈夫だろうと着々と仕事を片付けていく。
それから二時間が過ぎた。遠征に時間がかかるのはよくある事だ。でもどうしてこんなときに限って帰りが遅いのだろうか。心配になるけれど連絡したらオレがいなくて寂しいのはわかるけどよおなどと戯言を吐かれてしまう。むー、ともやもやのあまり唸る。そろそろ寮に帰る時間だ。今日はもう諦めて明日きちんと謝るか……とその矢先、遠征に行っていた男士達の声が聞こえてきた。兼さんが帰ってきた。自分が思うより浮き足立つ足取りで兼さん達のところへ足を早めた。
「お帰りなさー——い……?」
視界に映った兼さんは、茹で蛸みたいに顔を真っ赤にして、足取りもおぼつかない感じで堀川くんに肩を担がれていた。兼さんから、一体どれほど飲んだのか濃い酒の匂いが漂う。
「くっさ! 酒くっさ! え、お酒飲んできたの?」
「あ、主さん、これには事情がありまして」
へべれけな兼さんに代わって堀川くんが代弁してくれた。どうやら遠征先の仕事は予定どおり終わったのだが、帰りがけにしつこい客引きに捕まってしまい仕方なく軽く一杯やるどころか給仕の女性の巧妙なおだてに気分が良くなって今に至ったと。
「んお? おー、着いたか。よお主! えんせー行ってきたぞ。ほら、しゅーかくだ。いやー、主にも見せてやりたかったぜ。女達がこぞってオレを取り合う事取り合う事。ま、これもひとえにオレがかっこ良くてつえーからかな。これなら、またえんせーに行ってやってもいーぜ」
カラカラと屈託のない顔で兼さんは笑う。なんだ? それは? 今の今まで散々悩んでいたというのに、えみが悩んでいるあいだにこの兼定は呑気にお酒を飲んで楽しくやっていたというのか? 腹の底からドロドロとした赤黒いものがふつふつと沸き上がり、すぐにでも沸点に達し、今にも煮え滾りそうだった。
「んあ? どーした、だんまりして。腹でも下したか? お、そーだそーだ、土産があるんだった……っと。ほら」
兼さんがお土産を持ってくるなんて想像していなかった。ほんの少しでもえみの事を考えてくれていたのかな……そう思うと、ぐらぐら沸き立っていたよどんだ感情も少し落ち着いた。期待に胸を膨らませながら差し伸べた両手の平に、兼さんが着物の裾から取り出し置いた——
「どうだ、羽の模様が唐草模様みたいで珍しいだろ」
「ぎゃあああああ!!」
虫。足がたくさんついた、ウジャウジャと蠢く虫。えみは手の平に置かれた奇妙な虫を汚物を払うようにブンと彼方へ放り投げる。
「オイ! せっかく拾って来た珍しい虫が! なんなんだよ……色気のねえ声上げてよお」
濃い酒の匂いを漂わせてぶちぶちと文句を言う兼さん。——プチッ、とその瞬間、えみの中で鮮明に何かが切れる音がした。
「——こっちのセリフだよ。大事な遠征だってのに、酒飲んで酔っ払って帰って来て……みんな一生懸命仕事してたってのに……可愛いお姉ちゃん侍らせてさあ」
「まー確かに、レベルのたけー女だったな。お前もあの女達の爪の垢煎じて飲ませてもらえば、ちったー色気のある女になるんじゃねーのか?」
ワッハッハと軽快に笑い飛ばす兼さんに、えみの許容範囲が超えた。
「……あっそ。なんか、もーバカみたい。だったらずっと遠征行ってりゃいーだろ。もう戻ってこなくていーよ」
「……あ? んだそりゃ」
自分が思うより冷静に、淡々とした口調で「堀川くん、そいつ井戸にでもぶっこんどいて。冷たい水でも浴びれば酔い醒めるでしょ。あとえみのところに近づけさせないで。酒臭ぇから。えみもう帰るね。バイバイ」
言うだけ言ってさっさと足早に本丸から、兼さんから立ち去る。一秒だって顔を見たくない。
「オイ、オレの事を井戸にぶっ込むたあどーいう了見だ」そんな声が聞こえたがまったくもって正しい判断だと思う。馬鹿はいっぺん沈め、ってな。
「っあー、もーっ!」
——抑えきれずに思わず声を上げる。先日の兼さんの酔っ払いを思い出してどうにも虫の居所が悪い。審神者の事務仕事にも手がつかない。今日中にまとめあげなければいけない資料があるのに、進まないのは全部兼さんのせいだ。そりゃあそうだろう、自分だけ馬鹿みたいに悩んで悩んで、向こうはそんな事知ったこっちゃないとのんきに酔っ払って。
じっと座っているとイライラが収まらないので立ち上がってドカドカと床を踏み鳴らしながら台所へと向かって、棚にしまってある煎餅や大福など目についた茶菓子を片っ端から取り出してまた自室へと戻っていく。バリバリと茶菓子の袋を力任せに開けて口のなかに放り込む。ヤケ食いしたってイライラは収まらないのだけれど、湧き出るイライラを別のところにぶつけたかった。ぶつけずにはいられなかった。
ひとしきり食べて、お腹が満たされると不思議と心も満たされ……るはずもなく、煮え立つ激情のままに「がーっ!」と叫んだあとに寝転がる。もうこのままふて寝してやろうか。資料なんて知らん。怒られたら全部ぜんぶ兼さんのせいにしてやる。
「そがな大声出して、どいた?」
たまたま近くにいたようで、びっくりした様子でよっちゃんが覗きに来た。しまった、よっちゃんがいたのか……。なんでもない、今日中に仕上げなきゃいけない資料がなかなかできなくて唸っていただけだとそれなりの事を適当に言うと、ほうか、とよっちゃんは素直に信じた。
「わしにも何か出来る事はないがか?」
気を利かせてよっちゃんは言うなりえみの傍にきては胡座をかいて、さあなんでも頼れと言わんばかりの顔を向ける。気持ちは嬉しいけれどえみがやらなければいけない雑務を任せてしまうのは申し訳ない気がして、
「あー、大丈夫だよ」遠慮をして言ったつもりだったが、ほうか、とちょっぴり寂しそうな顔を向けられたら、なんとなく悪い事をしたなという気持ちになって良心が痛む。でも、よっちゃんはめげる事なく持ち前のタフさで食い下がる。
「どんな資料作っとるんじゃ?」
よっちゃんのタフさはよく知っているので、これはなかなか諦めないやつだと察すると早々にえみのほうが根負けしてよっちゃんに甘える事にした。手伝いと言ってもえみが怠けないように見張っていてもらうだけだが。そんな手伝いとも言えない手伝いを快く快諾してくれるよっちゃんの器量の大きさに——単に他にやる事がなくて暇だからかもだけれど——感心する。
ときどき仕事の事についてや、たわいもない言葉を交わしながらよっちゃんは自分の役目を、えみは自分の仕事をこなしていく。あれだけはかどらなかった作業が、よっちゃんがいてくれるだけで進むようになった。ぐちゃぐちゃだった気持ちも、とりあえず今のところは落ち着いている。今日中にはなんとか資料が仕上がりそうだ。ふと、よっちゃんがこんな事を言った。
「ほお言やあ、和泉守が遠征から酔っ払って帰ってきたけんど、長谷部が和泉守を井戸に落とそぉしてそりゃもー大変やったがよ」
本当に井戸にぶっこもうとしたのか。まあ長谷部さんなら納得だ。まったく、迷惑をかけて……——
「かっこ良さが取り柄の和泉守が我を忘れて飲むなんて、よっぽどの事があったのかにゃあ」
……確かに、言われてみればプライドが服を着て歩いているような自信家の兼さんなのにかっこ悪いみっともない姿を晒してまでも酔っ払うまで飲むなんて、ちょっと意外だ。それはそれとしてムカつくが。えみの事を弄んでいるのか? それとも本当に本当に何も思っていないのか?
また、もやもやと出口のない部屋でぐるぐると考えが堂々巡りする。仕事が手につかない。少し休憩したほうがいいと、よっちゃんはえみの上の空な表情を読んでか、そう言った。早く仕事を片付けたいので、大丈夫だよ、と返すと、こんを詰めすぎるとかえってよくないとアドバイスをもらってしまった。それもそうかも、と——なんとなく食い下がってきそうと、こうなったらよっちゃんは強いので——よっちゃんの言うとおりに一旦仕事を中断して特に行くあてもなく足の向くままに本丸内をうろついた。悩んでいるときは体を動かすといいと聞いた事があるが、そのとおりだなと、ぐるぐると巡っていた悩み事が、絡まっていた紐がほどけるように一つひとつ解けていく。
一応、謝っておいたほうがいいのだろうか。長谷部さんが兼さんを井戸に落とそうとしたのもえみの発言が原因だし。いや、でも悪いのは兼さんだと思う。遠征でいくらえみの目が届いていないからといって——いざというときの連絡手段はあるが——しかもべろべろに酔っ払って帰ってくるなんて。遠征中に飲みに行くのはまだ良しとしよう。可愛いお姉ちゃんと喋るのも百歩譲って許そう。だが任務中だというのに我を忘れるまで飲んで誰かに迷惑をかけるのは——主にえみだが——許せない。いくら堀川くんがついているからといえどもだ。堀川くんももう少し兼さんに厳しくしてもいいと思う。
……けれどこのままずっとこの状態が続くのは心地が悪い。土方さんの件の二の舞にならないように早めに謝ろう。決断してから兼さんを探し始めて本丸内をうろつく。しばらくうろついていると丁度探していた主の声ともう一人の声が耳に入ってきた。声の元へと近づいてひょいと壁の向こうを覗いてみると、やはり声の主は兼さんとキヨだった。謝ると決めたのにいざ兼さんを目の前にすると尻込みしてしまう。キヨと何か話しているみたいだし頃合いを見計らって話しかけようか。二人の話にそっと聞き耳を立てる。
「昨日は珍しく酔っ払ってたじゃん。何かあったの?」
「なんでもねーよ」
二日酔いなのか元々近い目と眉を一層ひそめて渋そうに兼さんは呟く。
「ふーん……主とまた素っ気なくなってる事と無関係なの? 本当に?」
キヨのピンポイントな一言に、ぐっ、と痛いところを突かれたかのような古典的な反応を見せる兼さん。
(えみとの事で……?)二人に見つからないように身を乗り出して聞き耳を立てる。
「お前には関係ねえ」
「……そーね。でも、あんまり主の事弄んでると俺も黙っちゃいないよ」
「……弄んでねえよ」
「お前はそう思ってても主はそう思ってないかもよ」
胸騒ぎがする。瞬間に感じた胸騒ぎは間違いではなく、続けて「……主は、」と、そのあとキヨが何を言うつもりなのか、本能で察した。
その気持ちは今は言ってはいけない。えみのなかでも整理がついていないのに。何より、兼さんの言葉を受け止める心の準備ができていない。
「お前の事が、」——待って! と慌てて止めに飛び出していこうとした。
——刹那、
「んな事はどうでもいいんだよ」
兼さんが吐き出した一言に、踏み出そうとした足が止まった。身体が固まった。『どうでもいい』という言葉を理解するのに——一瞬の事だけれど——長い永い時間がかかった。えみの混乱をよそに兼さんの言葉は続く。
「あいつの想いも、オレの想いも、どうだっていいんだよ。オレは現行の歴史を守るために力を与えられた武器だ。ただそれだけの存在だ」
「……お前、それ本気で言ってんの? 主の想いを蔑ろにしてるふうに聞こえるけど」
「お前こそオレ達の使命を忘れちゃいねえか。オレ達はなんのために顕現された。時間遡行軍と戦う術を与えられたオレ達は戦う事が使命だろ」
「忘れてるわけじゃないよ。けど、それとこれとは話が別だろ」
「……現世に夢現になって、大事なもん守れなかったら意味ねえんだよ。守れなかった先に何がある?」
非情にも続く兼さんの厳しい言葉を、これ以上は聞くに耐えられなくて足早にその場から逃げ出した。兼さんに謝ろうとしていた事さえ、今のえみには忘れていた。
——ああ、そうか、フラれたんだ。えみだけが兼さんを意識してたって事。兼さんはえみの事は主にしか見てないって事なんだ。あまつさえ友人としてでもなく。えみは兼さんという『武器』を扱う『主』。それ以上でもそれ以下でもない。
……本当は薄々と心のどこかで気づいていたのかもしれない。でも、認めたくなくて。認めてしまった瞬間から、今までの尊い時間が砂の城のように崩れ去っていきそうで。……でも、現実を突きつけられてしまった。胸の真ん中に太い槍が刺さって抜けない感覚だ。だから気づきたくなかった。知りたくなかった。こんなにも深い苦しみを味わう事になるのなら。
——さよなら、えみの初恋。
フラれたショックで——決まったわけではないが、もう、そうとしか考えられない——逃げるように寮に戻ったあとベッドにうずくまって、泣いて、泣いて、力尽きてそのまま次の日の朝まで眠ってしまった。頭が痛い。泣きすぎて目が腫れぼったい。小さい窓から射し込む日の光が染みるくらいに眩しい。初恋は叶わないというジンクスを唐突に思い出す。ああ、終わったんだ。兼さんに会いたくない。みんなと会うのが億劫だ。想像以上にダメージが大きくて布団から出たくない。ズル休みしてしまおうか。
結局、布団から出られなくて上司に連絡をしてズル休みしてしまった。泣き果てて鼻声だったし、声に覇気もなかったので、頭の固い上司だがすんなりと聞き入れてくれた。休んでしまった業務の手当てはしてくれないけれど。えみぐらいいなくなったところで代わりなんていくらでもいるだろう。そんな事を考えてしまうくらい何に対しても無気力になってしまった。
(……消えたい)
あれから三日ほど経った。ほど、というのはトイレに行くときや無気力状態でもお腹は減るので最低限の食事を済ませるとき以外は、しおれた雑草のようにベッドのなかでただひたすらに時間を過ごしていた。さすがに三日も風邪じゃ疑われそうで不安なので気は進まないが重い腰を上げて本丸へと向かう事にした。鏡でいつも以上に自分の顔がひどくないかチェックする。泣き腫らしたままの顔を晒したら確実にみんなに余計に心配をさせてしまう。よし、大丈夫だ。ニッ、と歯を見せて笑顔の練習をする。よし、と気合を入れて三日ぶりに寮の外へと出る。
最初にどんな顔をすればいいか、なんて言葉から始めるかもやもや考えているうちにあっというまに本丸の正門の前へと到着する。変に緊張してしまう。深く息を吸って、吐いて、本丸への一歩を踏み出した。三日ぶりに顔を出すとえみに気づいたランやキヨ達が心配したと言わんばかりに駆け寄ってきてくれた。体の調子とか色々聞かれたが、大丈夫、と笑顔で通すとホッと安心した顔になった。ラン達の話によると長谷部さんは特に、「主がご不在のあいだは俺がこの本丸を守る!」と普段以上に厳しかったらしい。ランもキヨも長谷部さんの指導に疲れ果てていたみたいだ。そんな長谷部さんはいつもどおりの自信に満ちた涼しい微笑みでえみを出迎えてくれた。
「主がいなくて兼さんも寂しがってたよ」とランが言う。えみがいなくて寂しがる兼さんにほんの少しばかりテンションが上がったが、このあいだキヨと話していた事がフラッシュバックしてすぐにテンションが下がった。ランから見てもわかるほどに。こんな個人的な事でまた迷惑をかけたくない。とりあえず無理矢理にでも笑顔を作って気持ちを切り替える。
音もなく虚空からひょいと現れたこんのすけに、案の定、休んでいたあいだの業務内容の報告と、今日これからの業務内容を非情とも思える冷静さで淡々と告げられる。こんのすけが悪いわけではないが、油揚げを取り上げたくなってくる。素直に聞き入れるふりをする。せっかくテンションを上げていたのにまた下がってきた。作業にのめり込めば少しは兼さんの言葉を忘れられるかもしれない。
そう考えて作業に集中してみたのはいいものの、やっぱりどうしても兼さんの言葉がちらついて作業に集中できなかった。何か小腹でも満たせば少しはやる気がでるかもしれない。お腹が満たされていると心も満たされる、と偉い誰かが言っていた気がする、とお菓子がしまってある台所へと向かっていった。
道中。ばったり。兼さんと顔を合わせてしまう。ばっちりと目も合う。——まずい、言葉が出てこない。いつもどんなふうに切り出していたっけ、と考えをぐるぐると巡らせる。兼さんはいつもどおり調子のいいと思っているえみに言い飽きない言葉を売りつける。
「三日も休むなんて珍しいな。落ちてるもんでも拾って食って腹でも下してたのか」
「そこまで卑しくないわっ」と冷静にツッコミを入れて、そこから普段どおりに言い合い合戦が始まると思ったのだけれど、思いどおりに言葉が口に出せなくて「ち、違うよ……」とふてくされながら至って普通に、つまらない返事をしてしまった。えみがまだ調子が悪いのを察したのか兼さんはアプローチを変えてきた。
「病み上がりなんだろ。あんま無茶すんじゃねーぞ。長谷部がうるせえからな。主がいないあいだの本丸は俺が守るだのなんだのって……」
兼さんも長谷部さんの熱心な指導には堪えたようで、ぐちぐちと不満げにぼやく。長谷部さんの仕事熱心(?)なところはえみでもときどき困る事があるから気持ちは分からなくはない。
気を遣ってくれている。なんとなく、口振りから、声の調子からそんな気がする。妙にえみの身を案じて当たり障りのない事を言う兼さん……「きしょっ」
「てめえヒトの気遣いを仇で返しやがって——」と今度は容赦なく皮肉混じりの言葉を続ける。仕方がない、条件反射というやつだ。よし、なんとか兼さんとの会話も調子を取り戻してきた。
——はずだった。本当に何気ない、いつもどおりの兼さんの調子のいい一言に、突然兼さんの輪郭がじわっと水中のようにぼやけたあとに、つうっと水のようなものが頬を一筋伝った。兼さんはえみの眼からこぼれたそれを凝視する。ぽた、ぽた、と顔から離れて滴り落ちてから、ようやくそれが涙だと気づいた。
泣きたいわけじゃないのに。兼さんの前で急に泣いたら変な奴だと思われる。けれど、止めようと思えば思うほど泉のように湧いてきて眼から水が溢れてくる。ほら、兼さんがびっくりしたような顔でえみを心配するだろう。いつもは犬も食わないようなしょうもない意地悪するくせに、えみが弱っているときに限って優しく接してくる。
兼さんのそういうところが——えみは——
心配して伸ばしてきた手に触れられたら何もかもが崩れてきてしまいそうな気がして、兼さんの優しさに甘えてしまいそうな気がして、これ以上期待を持ちたくなくて、逃れるようにえみは兼さんに背を向けて走った。どこへ向かって行くわけでもなく、ただ兼さんからできるだけ遠くへ、離れようと、あの優しい手が届かないところまでいこうと。
……思って、走り出したのだが、背後からドタドタと騒がしい音が鳴り響く。まさかと思って顔を向けると、そこはやっぱり追ってくるのが兼さんだ。
「追ってくんなよ!」
「おめーがオレから逃げるからだろうが!」
「兼さんが追ってくるから逃げるんだろ!」
「理由もなく泣かれちゃ虫の居所が悪りぃんだよっ。理由を言え! 白状するまで追い回すぞ!」
たちが悪い。捕まったらきっと最期だと、捕まるわけにはいかないと、記憶を失くした長谷部さんに追いかけられたときの恐怖を思い出し、自分を震え立たせて必死に駆ける。そういえば兼さんの元の主の土方さんは拷問のスペシャリストだと聞いた事があるようなないような。まさに鬼ごっこ。捕まれば、死。
「いやー! 殺されるうぅ!」
「殺さねえよ! 何かまた余計な事企んでちゃたまんねえからなっ」
また余計な事とは土方さんとの一件だろうか。今になって蒸し返さなくていいのではないか? さすがにえみも猛烈に反省している。だからそう何遍も蒸し返されるとかえって腹が立つのだが。とことん器の小さい男だ。
兼さんをまけそうにないし、体力勝負では絶対に勝ち目がないし——わかっていて兼さんはえみを追い回しているのだろう——こうなったら奥の手だ、と、走っていて既に切れぎれである呼吸を懸命に整えて、すうっ、と肺いっぱいに息を吸い込んでから、一気に、
「っ長谷部さあん!」
「バカ!」と兼さんの焦ったような声が背後から飛んできたあとに、ものの数秒で長谷部さんがどこからともなく電光石火で駆けつけてきてくれた。一つも息を乱していない。
「和泉守、また貴様か! いったいどれだけ主に無礼を働けば気が済む! 万死に値するぞ」
「お前もこりねえ奴だな。やっぱあのとき斬っといたほうが良かったんじゃねえか?」
「それはこちらの台詞だ。主の命によりここで死んでもらうぞ、和泉守兼定!」
「命令されてねーだろうが!」
そんなこんなで二人がやりとりしているあいだにこっそりと逃げる。なんだかデジャヴを感じる。毎度の事、長谷部さんには申し訳なく思いながら心のなかで感謝をしてえみは兼さんからまかせてもらう。長谷部さんなら充分に時間を稼げるだろう。涙で濡れた顔でなんて兼さんと会いたくない。
とおりすがりの手近な男士に、少し調子が悪いので一人になりたいから誰も部屋に入ってこないようにと伝言を残して仕事部屋兼自室に籠城した。伝言を残された男士が、えみの体調を気にかけて心配してくれた事に嬉しい半面、少し罪悪感に苛まれて心が痛い。嘘をついているわけではない。ただ、今はどんな理由をとってつけても一人になりたかった。
だが、本丸にいる以上、戦果の報告や業務連絡やその他もろもろの入り用に対応しないといけないわけで……実際、部屋に一人でこもっていても戦果の報告をしにくる男士やえみの体調が良くないのを聞きつけた男士が心配して声をかけにきてくれたり、何か色々とお見舞いの品を置いていったりするので本当の意味で一人にはなれなかった。けれどみんなの気遣いが嬉しい。荒んでいた心も少しだけ癒された気がした。
今のえみの心の状態のように閉め切っていた障子を、恐る恐る人一人分くらいの間を開ける。障子を隔てた先の床には、花やお菓子や薬のようなものにホッカイロなどが置かれていた。キヨの言葉を借りるとするなら「愛されているな」と胸のあたりが温かくなる。
色々な物のなかから、定規くらいの細長い重厚な箱に目を惹かれる。手にとって開けてみた。なかには箸くらいの細長い一本の漆塗りの黒い棒の先に、繊細な花の模様が描かれた紅いとんぼ玉がついていた。
「かんざし……? きれい……」
箱から取り出して、その美しさにほうっと見惚れる。なぜ簪のチョイスなのか。いったい誰からなのか。こういうおしゃれな贈り物をする人で思い当たる人は何人か候補がいるけれど、直接渡すわけでもなくこうして贈るくらいなのだから、わざわざ聞いて回るのは野暮かな、と簪を箱に丁寧に戻した。
みんなの温かさに触れたおかげで、先ほどよりは感情も落ち着いてきたので——落ち着いて休まらないのもある——審神者の仕事に就こうと、本当は全く乗り気ではないが——いつだって乗り気ではない——審神者の仕事をさぼって、いつも不機嫌そうな上司からお小言を言われるのが嫌なので重い腰を上げて審神者業を再開する。
みんなには上手く説明しておいて、普段どおりの穏やかな日常に戻りつつあった。まだ兼さんとの件で少しもやもやしているところはあるが、泣いて、みんなの優しさに触れたら、案外すっと淀んだ気持ちが溶けていった。みんなには感謝しないと。
そして、兼さんの前で急に泣き出してしまった事を謝らなければ。……いけないような気がする。兼さんは何も知らないで、何も悪い事をしていないのだから、兼さんに非はない。いつもは罵り合っているが一方的なのは良くない。今回は(今回も?)えみが悪い。素直に認めて兼さんに謝る事を決めた。兼さんを探しに本丸内を散策する。広場から少し離れた、木が生い茂っている場所に兼さんと堀川くんを見つける。声をかけようと近づいていくと、「主さん、大丈夫かな」
堀川くんが兼さんに問いかける。自分の事で気になるので声をかけるのを一旦待って、近くの建物の陰に身を潜めて聞き耳を立てた。
堀川くんの問いかけに兼さんは木のほうを見つめて黙ったままだった。「兼さん?」と堀川くんが呼びかけて、ようやく話しかけられていると気づいた兼さんは、「さあな」と静かに一言言っただけでまた黙ってしまった。お喋り、というほどではないけれど、えみの前ではべらべらと口達者だから物静かな姿を見るのは珍しい。物陰から見ているので兼さんの顔がよく見えないが、何かまた想いを抱えているのだろうか。
兼さんが黙ったままでいるので堀川くんも何も喋らずにいた。兼さんはえみに対して「さあな」という程度の感情しかないのか。少し寂しい。まあ、兼さんはえみの事を『主』としてしか見ていないから仕方のない事といえば仕方のない事なのかもしれないけど。二人が何も話さないし、そろそろ出て声をかけようかな……と思っていた矢先、
「ちゃんと主さんに渡してきた? 兼さん」
堀川くんがそう切り出す。渡してきた? とは、なんの事だろう。絶対に違うとは思うが、兼さんが泥酔していたときにもらった珍しい虫の事だろうか。それ以外にまるで思い浮かばない。
「渡してきたよ。……つーか、置いてきた」
「だめだよ、ちゃんと直接手渡さないと。誠意がないって思われちゃう」
「長谷部の目があるからな。あいつと次に目が合ったら、斬り捨ててくるつもりだぜ」
あー……と堀川くんは苦い顔をして笑う。置いてきた、という事は部屋の前に置かれていたお見舞いの品のなかにあったものだろうか。お菓子? ホッカイロ? それとも花?
「きっと喜ぶよ。主さんを想って兼さんが選んだんだから。——あの簪」
(え……?)一瞬、呼吸をするのを忘れる。
「どーかな。オレのセンスはいいとして、素直に喜ぶようなタマじゃないからな、あの小娘は」
「ふふ、確かにそうかも」
「渡すタイミングがズレちまったのがなあ……」
「それは兼さんがいつまでも意地を張ってるから、だよ」
「言うじゃねえか、国広ぉ」
——驚いた。あの紅いとんぼ玉の綺麗な簪の贈り主が、兼さんだったなんて。でも、普段から身なりにも気をつけている兼さんなら納得で、実は思い当たる人の候補に一瞬だけ入っていた。一瞬だけというのは、意地悪で皮肉屋な人だからそんな揚げ足取りの餌になりそうな事はしないだろうと——何より、相手がえみだからしゃれた事はしないだろうと——遠征の手土産に珍しい虫をプレゼントするくらいなので——決めつけていた。今のこの瞬間までは。
「兼さんも、もう少し主さんに素直に接してあげればいいのに」
「オレは素直なつもりだぜ? あいつが揚げ足ばっかとってくるからオレもそのまま返してやってるだけだ」
「でも、この前みたいな事が、またいつ起こるかわからないよ?」事の発端は僕なんだけれど……と申し訳なさそうな顔をして呟く堀川くん。土方さんの件の事を指しているのだろう。えみも口をつぐむ。
「……そんときになったらそんときだ。どうにか丸め込んでやるさ。オレ達はそのためにいるんだからな」
「……歴史を、守るために」
「……浮かない顔だな」
「歴史を守る事は大事だよ。よくわかってる。僕がなんのためにここに顕現されたのかも——けど、大事な人の涙を、想いを、見て見ぬ振りしてまで歴史を守る事が本当に正しいのかなって、ときどき思ったりするんだ」
きっと堀川くんは兼さんの事を思って言っているんだろう。土方さんを前にして流した涙を思い出して。兼さんは黙っていた。
「兼さんは本当に土方さんに似て仕事人間だよね」いや、刀の付喪神だから仕事刀? 仕事神? と悠長に堀川くんの言葉が続く。少しの沈黙のあと、兼さんは言葉を紡いだ。
「……いや、そんな立派なもんじゃねえよ。オレが刀を振るう理由も、歴史のためとかいう大義名分があるが、本質はもっとちっぽけなもんだよ。多分、陸奥守とかに似た感じだ」癪に障るが、と続けて「——オレは歴史だけじゃねえ。その先に続く未来を守るために刀を振るう。オレの忠義はそこにある」
「未来?」と訝しげな顔をする堀川くんは兼さんが放った言葉の意味を考えているのか、しばらく黙ったあと、ハッと何かに気づいたような顔をして声を上げる。
「未来を守るって……主さんの、今——未来を?」
堀川くんの言葉に目を見張る。次に語る兼さんの言葉を聞こうと自然と身が乗り出していた。兼さんの口が、紡ぐ。
「誰がなんと言おうと、あいつが何を言おうと、オレは歴史を守るため——主《あいつ》が、ただアホみたいにのんきに笑って過ごせる未来を守るために戦うだけだ。今までも——これからも——」
「あいつには絶対言うなよ」と釘を刺す兼さんに隣にいる堀川くんは兼さんが珍しい事を言って意表をつかれたのか珍しいものを見る目で目を丸くして眉を上げていたけれど、そのあとすぐにフッと笑みをこぼして
「やっぱり兼さんは主さんの事、とても大切に思ってるんだね。主さんが贔屓しちゃうわけだよね」
「お前あれが贔屓に見えんのか」「大切にされているよね」などの押収をのんきに繰り広げる。
えみはその場で立ち尽くしていた。——兼さんがそんな事を思っていたなんて。考えていたなんて。えみの事なんか可愛げがない生意気なガキとしか思ってないと、思っていた。
知らなかった。今頃そんな事を言うなんて、ずるい。あふれんばかりの想いの丈がこぼれ落ちないように、両手で口元を覆った。
堀川くんの言うとおり本当に不器用な人だ。それ以上に、えみはなんて子供なのだろう。自分の気持ちばかり考えて、兼さんの想いなんて少しも考えなかった。——本当はわかっていたはずなのに。皮肉な言葉の裏に思いやりがあるって事を——揚げ足をとれるくらい、いつでも見ていてくれたって事を——いつだってえみのために全力を尽くしてくれたって事——振り返ってみればたくさんの兼さんなりの優しさをもらっていた。それなのに見て見ぬ振りをしていた。
「言ってくれなきゃ、わかるわけないじゃんっ……!」
絞りでるようにもれた想いの丈は、誰に届く事もなく空気と溶けていく。ずっと、ずっと、兼さんの想いに守られていた。兼さんの気持ちも、えみの気持ちも、掬う事なく、ただ、握り締められた剣は、己の願い《想い》を叶えるために。
——決めた。兼さんがえみの未来を守るため歴史を変えられないように戦うのなら、えみは兼さんを支えよう。今は何ができるかわからないけれど、兼さんが歴史を守れるようにえみが支える。
今まではどこかなあなあと与えられた事だけをこなしていた。流されるままに生きていた。審神者になって、ようやく〝主としての意味〟を見つけた気がする。
ふと、空を仰ぐと、雲がひとつもない爽やかな青が一面に広がっている。さっきまでのもやもやが、見上げた空のようにすっと晴れたような気がした。
どこか清々しい気分で仕事部屋に戻ろうとする途中、ばったりと兼さんと顔を突き合わせる。しまった、今の顔は大丈夫だろうか。えみの気持ちをよそに兼さんから言葉を発する。
「昨日は、その……悪かった」
謝られる事を想定していなかったので、素直に眼を丸くして驚いた。まあ、あれだけ失礼な事をしておいて謝らないのはどうかしているだろう。これが昔だったら、主に無礼を働いた罰として斬られてもおかしくはないんだろうなあ、と思う。えみは現代っ子なので血生臭いのはごめんだが。
「うん……」とそれ以上、何を言えばいいのかわからずに黙ってしまう。妙な雰囲気だ。むず痒い。
「あのよ、」と切り出した兼さんの雰囲気が、余裕があるいつもとは違って、真摯な感じだった。兼さんは、次にこう発した。
「お前に言わなくちゃいけねえ事がある」
いつもとは違った真摯な佇まい、そしてその言葉の本質を直感で察したえみは、ぐっと唇を噛みたくなる思いを我慢して、その口元に笑みを作って、
「なになに? もしかしてえみに働いた今までの無礼を懺悔するとか?」
シリアスな表情から一変、「はあ?」と案の定、兼さんのぽかんと空いた口から拍子抜けな声が出る。
「謝るんだったらそれなりの誠意を見せないとさ、和牛十年分とか」などと軽い調子で適当に言葉を並べると、「どんだけ貢がせるつもりなんだよ」と呆れた調子ながらも食いついてきた。
「お前に貢いでたら国の経済が破綻すんぞ」
どんだけ食うと思ってるんだこの之定はえみを怪獣か何かかと思ってるのか。自分から仕掛けたのに思わず感情的になって反発してしまう。
でも、これでいい。今はまだ。
せめて、えみがいつか元の世界に戻るその日までは、この心地良い関係を壊さないでいたい。
泡沫の夢だとしても。覚めてしまう夢ならば。
「だーかーらー、おにぎりの海苔はパリパリで鮭が定番だっての!」
『ああ!? パリパリの海苔とか顎の裏についたらとりにくいだろ。鮭は朝食の定番だおにぎりの定番じゃねえたくあんだ』
「女子かっ! たくあんなんておにぎりの供え物だろーが。朝食でも箸休めだし」
『だからこそ他の一品が引き立つってのがガキの嗜好にゃわかんねえんだな。一生、海苔をパリパリしてろ』
「言うけど、あんた朝飯でパリパリの海苔食ってるだろっ」
『あのさあ、戦闘中《こんなとき》にまで痴話喧嘩は控えてくんない?』
一応、兼さんらは戦場に赴いていて、一応、命のやり取りの最中でさすがに多少気が立っているらしいキヨが珍しく語気を強めて言ったのに対して、何が痴話喧嘩だ! と兼さんは迫りくる一閃を、上半身をひねって避けながら吼える。えみは本丸の一角にある通信施設のモニター越しから喋っている。過去に飛んでいる男士達とのやりとりはモニターを通じて介されるため、どれだけ兼さんが憤怒していようが現代にいるえみには一切合切、手出しできないのだ。ざまあみろ。まあ、帰ってきてからが怖いが。長谷部さんを盾にしておこう。
任務は滞りなく終わった。さっきまで戦場にいた第一部隊を出迎えに行く。疲れたー、ネイルボロボロー、と言葉がそれぞれ飛び交うなか第一部隊のみんなは手入れに休息に各々散らばる。兼さんは先程の口論の続きでえみにとってかかりそうだったので長谷部さんを召喚してターンエンド、流れるままえみは自分の持ち場に着く。おにぎり討論の決着については割愛させていただこう。
業務作業の息抜きに傍らに置いているタブレットを手に取りSNSで今何が起こっているか流し見したり。ついつい見すぎてあっというまに時間が経っちゃって何も手についていないっていうのがよくあるんだよね。ぼーっと流し見していると、一つの投稿に目がいく。『告白』の二文字。あ、と思わず声が漏れたあとに忘れていた記憶が鮮明にフラッシュバックする。声が漏れてしまうのも仕方がない。だって、
(そうだったー、兼さんに告白してるんだったーっ)
今更、その事実に気づいてしまう。あのとき、もう帰れないと悟って最後のつもりで告白していたんだった。肩に残る兼さんの腕のぬくもりがまだ新しい。心臓が強く鼓動を打ち始める。顔に熱がのぼってきた。思い出してしまったから、これから兼さんにどんな顔をして会えばいいのか。向こうはこっちの想いに気づいているわけだし。
……いや、待てよ。あの日から数日が経つが兼さんのえみに対する態度は告白する前となんら変わりない。忘れているのか、それとも、覚えていないのか? 実は、えみが告白したときには、まだ記憶がよみがえっていなかったのではないのだろうか。抱き締めたのも、勢い、とか。雰囲気に飲まれてしまってそういう事になる事はよくある話だ。でも、告白してからの行動を思い返してみるに、それはあり得ない。だとするなら、やっぱり忘れているのだろうか。もしくは……えみに興味が、ない? それなら態度が変わらないのにも納得がいく。……もしそうだとしたなら急激に落ち込んできた。えみは兼さんにとっては河原の石ころと変わりないと思うと。いや、あれだけ突っかかってきたのだから河原の石ころではないだろう。せめて地元のよくつるむダチくらい……。
ぐるぐるとネガティブな考えばかりが思考を埋め尽くして悶々とする。こんなんじゃだめだ、仕事もあるし、とすっくと立ち上がって気分転換に飲み物を取りに台所のほうへと歩いた。
台所へ辿り着くと麦茶を飲んでいる袴姿のキヨと目が合った。今日は畑当番だったっけか。キヨに麦茶を一杯頼むと戸棚にしまってある新しいコップを取り出して注いでくれた。冷たく麦の香ばしい香りがじんわりと身に染みていく感覚が渡った。
「主、髪切ったんだね」
ふとキヨが言う。えみは髪をいじりながら
「まあなー。似合わないか?」
やっぱりバッサリいきすぎただろうか……と指先で毛先を弄びながら物思いにふけていると
「そんな事ないよ。可愛い」
ジッと目を見つめられて微笑みながらそんな事を言うもんだから、不覚にも胸を高鳴らせてしまった。ときどきドキッとする事を言うんだよな、キヨは。可愛いは口癖のようなものだから本人はなんの気なしに言ったのだろうけれど。キヨに惚れる女達は苦労するだろう。罪作りな男だ。「ありがとー」と照れ臭くお礼を言う。
「やっぱり失恋?」
「なんでや」
「だって、女の子が髪切るってそういう事なんでしょ?」
「それはドラマとか漫画。えみは、まあ、ただなんとなくだよ。イメチェン?」
「ほんとにー? 髪は女の子の命なんだよ? それをただの気まぐれで、そんなにばっさりと切ったりする?」
「えみは切るの」
やっぱりキヨも身だしなみに気を使っている以上、人の身だしなみも気になるものなのだろうか。失恋……といえば似たようなものになるのだろうか。もう二度と兼さんと、みんなと会えないと思ったから、想いを断ち切るように髪の毛を切ったわけだが。まさか戻ってくる事になるなんて。嫌なわけではない。えみが再び審神者に戻るために奔走したのだから。
兼さんがあのとき追いかけてきてくれたから、えみのために頑張ってくれたから——思い出して、かあっと忘れていた熱が上がって顔が火照る。「なんか顔赤いけど」とキヨが心配して聞いてきて、はっと慌てて露骨になんでもない素振りをした。コップの麦茶を一気に飲み干してキヨに「麦茶ありがとう」と伝えたあと踵を返して仕事に戻る事にした。
結局また兼さんの事を思い出してもやもやしてしまう。気になる。告白の事は覚えているのか、忘れているのか、覚えていながら忘れているふりをしているとするなら悪質だ。ああもう、どうしてこんなにも悩むのか。兼さんの事で頭をいっぱいにしてしまっている今のえみの状況がとても悔しい。
思い悩んでいる矢先、ばったりと兼さんと鉢合わせる。噂をすればなんとやらだ。どうしてこう絶妙なタイミングで顔を合わせる事になるのか。実はお空の上の神様が鶴丸さんで、面白がって遭遇させているんじゃないのだろうか。そう考えるとちょっと腹が立ってきた。鶴丸さんは悪くないけど。兼さんはえみの複雑なオトメゴコロを知る由もないだろう。
「人の行くとこ行くとこに現れて……あれですか? えみの熱烈なファンですか?」
悟られないように、調子を取り戻すようにいつものように冷静に兼さんへの挨拶代わりの煽りをかます。
「それはこっちの台詞だ。そもそも本丸にいるんだから嫌でも顔合わせるだろ」
それもそうだと、正論を言われるが兼さんに論破されるのが悔しいから腑に落ちない。何か他にかましてやろうと言葉を考えるが、調子が悪いのか普段なら湯水のように湧き出る言葉が浮かんでこない。妙にそわそわしてしまう。
兼さんは、じっとえみを見ていた。ドキッと胸が高鳴り、「な、なに」と強がりな声を出すと「髪、はねてんぞ」
え? どこ? と跳ねてる部分を確認しようと手のひらを頭に当てていると、すっ——と角張りつつもしなやかな白い手が伸びてきて、するっとえみの髪に指を通す。兼さんの手が、指が、えみの髪の毛に触れていた。
「っ——」
バシッ、と虫を払うように脊髄反射で兼さんの、髪の毛の跳ねを直そうとする手を払いのけてしまった。
(やば、)兼さんは目をパチクリとさせる。
「は、流行りのヘアスタイルなんだから崩すなよ」
咄嗟に出た方便だが、さすがに無理がありすぎるだろうか。いつもどおりを装ってぶちぶちと兼さんへの煽りを入れながら髪の毛を整えるふりをする。例の如くまんまと兼さんは釣られてえみの思惑どおりになった。少し安心する。兼さんがあのときの告白を覚えているのか覚えていないのかハッキリしない限り兼さんを意識している事を悟られてはいけない。だって超恥ずかしいし。好きと言ったら、ほおほおようやく素直になったかオレに見惚れちまうのは仕方がない事だからな、なんて嫌味ったらしく笑う奴だから好きだなんて認めたくないけれど言ってしまったものはしょうがない。
兼さんと妙に顔を合わせづらい。気持ちを告白してからどんな顔で会えばいいのかわからなくて、どんな顔を兼さんがしているのか見づらくて、怖い。土方さん関係ですれ違ってしまったときに向けられた、冷たい怒りの目を向けられたときよりも。
どうして気持ちを告白しただけで、好きだと自覚しただけでこんなにもいたたまれない。告白した事に後悔はないけれど、今、鉢合わせでもしたら冷静を保っていられない。
「お」と、縁側の曲がり角の向こうから——なぜか決まってこういう繊細な心境のときにばかり——今、一番会いたくない、声を聞くと胸が高鳴る大きな人影がえみの直線上に立つ。
(兼さん……!)
「よお、ある、」言うが早いか、あくまで自然な動作ですぐ脇の部屋の障子を開け、流れるようになかへと入っていき、スッ、と静かに隔てるように障子を閉める。直後に、今のは不自然じゃなかったか、逃げたって思われてないか気がかりになった。兼さんの足音に聞き耳を立てる。えみが入っていった部屋の前まで足音が続いて、止まる。開けられるかひやひやしていると、しばらく止まっていた足音は再び再開して小さくなって消えていった。ほっと一息つく。
さっきは兼さんに対して悪い事をしてしまったなと自覚して反省する。気持ちが落ち着いていなかったから、ついあんな露骨に避けるような行動をとってしまった。避けていると気づいてなければいいが。が、次に会うときは落ち着けば大丈夫——
「あ。ある、」と、思っていた矢先に渦中の人の声がえみに降りかかって、とっさにえみは「えーと戦果の報告書と遡行軍の履歴とー」と上司への連絡を急かされているように立ち振る舞って、兼さんの声には一切脇目も振らず、聞こえなかったふりをして早足でささっと兼さんの前を横切る。
兼さんとの距離をだいぶ離してから、立ち止まり、(あ〜〜〜)と典型的に頭を抱えて、やってしまったと落ち込む。今のは完全に不自然だったし、また避けてしまった。今度こそは、と思ったのに……。いざとなったら逃げ出してしまう臆病な性格の自分が嫌になる。は〜〜〜、とどんよりと長めのため息をついてとぼとぼと自室までの道のりを歩く。
そんな具合で兼さんと鉢合わせしそうになっては逃げ出す行為がかれこれ数回ほど続き、とうとう、
「おいてめえ」苛立ちがこもった言葉が投げられるのと同時にドカッ、と大きく長い丸太のように頑丈そうな脚がえみの行く手を阻むように壁に向かって伸ばされた。ひっ、と思わず身を縮こませる。脚の持ち主は腕組みをしていかにも機嫌が悪そうに顔に影を作って上からえみを見下ろし、もとい見下していた。
「なーんでオレから逃げようとしてんだよ。理由を言え」
「に、逃げてない」
「じゃあなんで避けてんだよ」
「避けてもない」
「嘘つくならもうちったあマシな嘘つけ。バレバレなんだよ。こっちだって理由もなしに避けられちゃあイライラすんだよ」
やっぱり避けているのがバレていた。ごもっともです。と頷くしかない。けれど今の心の状態では兼さんと顔を合わせてまともに話せる気がしない。今までもまともに話せているかどうかはさておいて。あれはノリだ。そう返すのがえみらしいというか兼さんに対して正しい反応というか……と、余談はここまでにしておいて。
なぜ兼さんを避けているのかだなんて本人を前に言えるわけがない。兼さんの事が好きで意識しちゃうから逃げちゃうんです、なんて言ったらプライドが高い兼さんはなんて言うか。火を見るよりも明らかだ。完全勝利S判定の余裕の風を吹かせるだろう。何を言ってもえみの敗北が決まってしまう。それはムカつくから嫌だ。
不機嫌な兼さんが壁となって立ち塞がるこの状況、どう突破しよう⁉︎ ——ふと、舞い降りた打開策。考えるより先に叫ぶ。
「——誰かあああ! 助けてえええ!」
ギョッと兼さんは目を丸くする。渾身の叫びが本丸に響いて数秒後、「ぁぁぁあああ主いぃ! 如何なされましたか!?」
本当に文字どおり光の速さで畑仕事をしていたと思われる土に汚れたジャージ姿の長谷部さんが血相を変えて目の前に現れた。確か今のこの場所から畑まではそこそこ距離があったはず……そんな事よりも、だ。長谷部さんの驚きの早さは後回しにして兼さんには悪いが長谷部さんに、「兼さんが苛めるんですぅ」とわざとらしく泣きついてみたりすり寄ってみたり。
「和泉守、貴様ァ! 主に対する反逆なら俺が粛清する! 主、ここは俺にお任せを。この長谷部が奴の腐った性根を刀身ごと圧し斬ってみせましょう」
「話を聞け、長谷部! そいつがデタラメ言ってるだけだ」
デタラメではない。ちょっとは合っている。今は話したくないのに突っかかってくるから。
「主をそいつ呼ばわりだと!? 前から気にはなっていたが、やはり貴様は主に対する忠義というものが全く備わってないようだな」
「お前は主以外に対する聞く耳を備えろ!」
「戯言はそこまでだ。和泉守兼定、覚悟!」
泥にまみれた軍手をはめた右拳を思い切り振りかぶって兼さんに一直線に飛んでいく。うおっ、と紙一重で兼さんは長谷部さんの鉄拳を避ける。兼さんは弁解しようとするけれど長谷部さんは容赦ないようで拳や足をどんどん繰り出していく。兼さんが長谷部さんに夢中になっているうちにそそくさとその場から退場する。兼さんの呼び止める声が聞こえるようだけど、無視。
ズドンッ! とまるで隕石でも落ちたかのような轟音が本丸中に響き渡る。ちょっとやりすぎではないだろうか。二人ともやりすぎるところがあるので少し心配になる、が、兼さんと長谷部さんには遠くから、心から深く深く心の中で謝った。
それから数日、特段変わった事はなかった。しいて言うならば兼さんが長谷部さんとの戦闘のあと、えみへの態度がちょっと素っ気ないものになったぐらい。そういった態度を取られるのは当然だろう。まるで土方さんとの一件がよみがえったかのようだ。どうしていつもこうなってしまうんだろう。自分が素直にならないのがいけない。もう少しだけ素直になれればきっと……。そうだ、次に会ったときはもうちょっと素直になろう。早くに謝ればきっと許してくれる……はず。今、遠征に行っている兼さんが帰ってきたら早速謝ろう。どうやって謝ろうか……などと考えながら与えられた仕事をこなしていく。
そう思いながら一時間が過ぎた。思っていたより時間がかかっている。少し気になりながらも兼さん達だから大丈夫だろうと着々と仕事を片付けていく。
それから二時間が過ぎた。遠征に時間がかかるのはよくある事だ。でもどうしてこんなときに限って帰りが遅いのだろうか。心配になるけれど連絡したらオレがいなくて寂しいのはわかるけどよおなどと戯言を吐かれてしまう。むー、ともやもやのあまり唸る。そろそろ寮に帰る時間だ。今日はもう諦めて明日きちんと謝るか……とその矢先、遠征に行っていた男士達の声が聞こえてきた。兼さんが帰ってきた。自分が思うより浮き足立つ足取りで兼さん達のところへ足を早めた。
「お帰りなさー——い……?」
視界に映った兼さんは、茹で蛸みたいに顔を真っ赤にして、足取りもおぼつかない感じで堀川くんに肩を担がれていた。兼さんから、一体どれほど飲んだのか濃い酒の匂いが漂う。
「くっさ! 酒くっさ! え、お酒飲んできたの?」
「あ、主さん、これには事情がありまして」
へべれけな兼さんに代わって堀川くんが代弁してくれた。どうやら遠征先の仕事は予定どおり終わったのだが、帰りがけにしつこい客引きに捕まってしまい仕方なく軽く一杯やるどころか給仕の女性の巧妙なおだてに気分が良くなって今に至ったと。
「んお? おー、着いたか。よお主! えんせー行ってきたぞ。ほら、しゅーかくだ。いやー、主にも見せてやりたかったぜ。女達がこぞってオレを取り合う事取り合う事。ま、これもひとえにオレがかっこ良くてつえーからかな。これなら、またえんせーに行ってやってもいーぜ」
カラカラと屈託のない顔で兼さんは笑う。なんだ? それは? 今の今まで散々悩んでいたというのに、えみが悩んでいるあいだにこの兼定は呑気にお酒を飲んで楽しくやっていたというのか? 腹の底からドロドロとした赤黒いものがふつふつと沸き上がり、すぐにでも沸点に達し、今にも煮え滾りそうだった。
「んあ? どーした、だんまりして。腹でも下したか? お、そーだそーだ、土産があるんだった……っと。ほら」
兼さんがお土産を持ってくるなんて想像していなかった。ほんの少しでもえみの事を考えてくれていたのかな……そう思うと、ぐらぐら沸き立っていたよどんだ感情も少し落ち着いた。期待に胸を膨らませながら差し伸べた両手の平に、兼さんが着物の裾から取り出し置いた——
「どうだ、羽の模様が唐草模様みたいで珍しいだろ」
「ぎゃあああああ!!」
虫。足がたくさんついた、ウジャウジャと蠢く虫。えみは手の平に置かれた奇妙な虫を汚物を払うようにブンと彼方へ放り投げる。
「オイ! せっかく拾って来た珍しい虫が! なんなんだよ……色気のねえ声上げてよお」
濃い酒の匂いを漂わせてぶちぶちと文句を言う兼さん。——プチッ、とその瞬間、えみの中で鮮明に何かが切れる音がした。
「——こっちのセリフだよ。大事な遠征だってのに、酒飲んで酔っ払って帰って来て……みんな一生懸命仕事してたってのに……可愛いお姉ちゃん侍らせてさあ」
「まー確かに、レベルのたけー女だったな。お前もあの女達の爪の垢煎じて飲ませてもらえば、ちったー色気のある女になるんじゃねーのか?」
ワッハッハと軽快に笑い飛ばす兼さんに、えみの許容範囲が超えた。
「……あっそ。なんか、もーバカみたい。だったらずっと遠征行ってりゃいーだろ。もう戻ってこなくていーよ」
「……あ? んだそりゃ」
自分が思うより冷静に、淡々とした口調で「堀川くん、そいつ井戸にでもぶっこんどいて。冷たい水でも浴びれば酔い醒めるでしょ。あとえみのところに近づけさせないで。酒臭ぇから。えみもう帰るね。バイバイ」
言うだけ言ってさっさと足早に本丸から、兼さんから立ち去る。一秒だって顔を見たくない。
「オイ、オレの事を井戸にぶっ込むたあどーいう了見だ」そんな声が聞こえたがまったくもって正しい判断だと思う。馬鹿はいっぺん沈め、ってな。
「っあー、もーっ!」
——抑えきれずに思わず声を上げる。先日の兼さんの酔っ払いを思い出してどうにも虫の居所が悪い。審神者の事務仕事にも手がつかない。今日中にまとめあげなければいけない資料があるのに、進まないのは全部兼さんのせいだ。そりゃあそうだろう、自分だけ馬鹿みたいに悩んで悩んで、向こうはそんな事知ったこっちゃないとのんきに酔っ払って。
じっと座っているとイライラが収まらないので立ち上がってドカドカと床を踏み鳴らしながら台所へと向かって、棚にしまってある煎餅や大福など目についた茶菓子を片っ端から取り出してまた自室へと戻っていく。バリバリと茶菓子の袋を力任せに開けて口のなかに放り込む。ヤケ食いしたってイライラは収まらないのだけれど、湧き出るイライラを別のところにぶつけたかった。ぶつけずにはいられなかった。
ひとしきり食べて、お腹が満たされると不思議と心も満たされ……るはずもなく、煮え立つ激情のままに「がーっ!」と叫んだあとに寝転がる。もうこのままふて寝してやろうか。資料なんて知らん。怒られたら全部ぜんぶ兼さんのせいにしてやる。
「そがな大声出して、どいた?」
たまたま近くにいたようで、びっくりした様子でよっちゃんが覗きに来た。しまった、よっちゃんがいたのか……。なんでもない、今日中に仕上げなきゃいけない資料がなかなかできなくて唸っていただけだとそれなりの事を適当に言うと、ほうか、とよっちゃんは素直に信じた。
「わしにも何か出来る事はないがか?」
気を利かせてよっちゃんは言うなりえみの傍にきては胡座をかいて、さあなんでも頼れと言わんばかりの顔を向ける。気持ちは嬉しいけれどえみがやらなければいけない雑務を任せてしまうのは申し訳ない気がして、
「あー、大丈夫だよ」遠慮をして言ったつもりだったが、ほうか、とちょっぴり寂しそうな顔を向けられたら、なんとなく悪い事をしたなという気持ちになって良心が痛む。でも、よっちゃんはめげる事なく持ち前のタフさで食い下がる。
「どんな資料作っとるんじゃ?」
よっちゃんのタフさはよく知っているので、これはなかなか諦めないやつだと察すると早々にえみのほうが根負けしてよっちゃんに甘える事にした。手伝いと言ってもえみが怠けないように見張っていてもらうだけだが。そんな手伝いとも言えない手伝いを快く快諾してくれるよっちゃんの器量の大きさに——単に他にやる事がなくて暇だからかもだけれど——感心する。
ときどき仕事の事についてや、たわいもない言葉を交わしながらよっちゃんは自分の役目を、えみは自分の仕事をこなしていく。あれだけはかどらなかった作業が、よっちゃんがいてくれるだけで進むようになった。ぐちゃぐちゃだった気持ちも、とりあえず今のところは落ち着いている。今日中にはなんとか資料が仕上がりそうだ。ふと、よっちゃんがこんな事を言った。
「ほお言やあ、和泉守が遠征から酔っ払って帰ってきたけんど、長谷部が和泉守を井戸に落とそぉしてそりゃもー大変やったがよ」
本当に井戸にぶっこもうとしたのか。まあ長谷部さんなら納得だ。まったく、迷惑をかけて……——
「かっこ良さが取り柄の和泉守が我を忘れて飲むなんて、よっぽどの事があったのかにゃあ」
……確かに、言われてみればプライドが服を着て歩いているような自信家の兼さんなのにかっこ悪いみっともない姿を晒してまでも酔っ払うまで飲むなんて、ちょっと意外だ。それはそれとしてムカつくが。えみの事を弄んでいるのか? それとも本当に本当に何も思っていないのか?
また、もやもやと出口のない部屋でぐるぐると考えが堂々巡りする。仕事が手につかない。少し休憩したほうがいいと、よっちゃんはえみの上の空な表情を読んでか、そう言った。早く仕事を片付けたいので、大丈夫だよ、と返すと、こんを詰めすぎるとかえってよくないとアドバイスをもらってしまった。それもそうかも、と——なんとなく食い下がってきそうと、こうなったらよっちゃんは強いので——よっちゃんの言うとおりに一旦仕事を中断して特に行くあてもなく足の向くままに本丸内をうろついた。悩んでいるときは体を動かすといいと聞いた事があるが、そのとおりだなと、ぐるぐると巡っていた悩み事が、絡まっていた紐がほどけるように一つひとつ解けていく。
一応、謝っておいたほうがいいのだろうか。長谷部さんが兼さんを井戸に落とそうとしたのもえみの発言が原因だし。いや、でも悪いのは兼さんだと思う。遠征でいくらえみの目が届いていないからといって——いざというときの連絡手段はあるが——しかもべろべろに酔っ払って帰ってくるなんて。遠征中に飲みに行くのはまだ良しとしよう。可愛いお姉ちゃんと喋るのも百歩譲って許そう。だが任務中だというのに我を忘れるまで飲んで誰かに迷惑をかけるのは——主にえみだが——許せない。いくら堀川くんがついているからといえどもだ。堀川くんももう少し兼さんに厳しくしてもいいと思う。
……けれどこのままずっとこの状態が続くのは心地が悪い。土方さんの件の二の舞にならないように早めに謝ろう。決断してから兼さんを探し始めて本丸内をうろつく。しばらくうろついていると丁度探していた主の声ともう一人の声が耳に入ってきた。声の元へと近づいてひょいと壁の向こうを覗いてみると、やはり声の主は兼さんとキヨだった。謝ると決めたのにいざ兼さんを目の前にすると尻込みしてしまう。キヨと何か話しているみたいだし頃合いを見計らって話しかけようか。二人の話にそっと聞き耳を立てる。
「昨日は珍しく酔っ払ってたじゃん。何かあったの?」
「なんでもねーよ」
二日酔いなのか元々近い目と眉を一層ひそめて渋そうに兼さんは呟く。
「ふーん……主とまた素っ気なくなってる事と無関係なの? 本当に?」
キヨのピンポイントな一言に、ぐっ、と痛いところを突かれたかのような古典的な反応を見せる兼さん。
(えみとの事で……?)二人に見つからないように身を乗り出して聞き耳を立てる。
「お前には関係ねえ」
「……そーね。でも、あんまり主の事弄んでると俺も黙っちゃいないよ」
「……弄んでねえよ」
「お前はそう思ってても主はそう思ってないかもよ」
胸騒ぎがする。瞬間に感じた胸騒ぎは間違いではなく、続けて「……主は、」と、そのあとキヨが何を言うつもりなのか、本能で察した。
その気持ちは今は言ってはいけない。えみのなかでも整理がついていないのに。何より、兼さんの言葉を受け止める心の準備ができていない。
「お前の事が、」——待って! と慌てて止めに飛び出していこうとした。
——刹那、
「んな事はどうでもいいんだよ」
兼さんが吐き出した一言に、踏み出そうとした足が止まった。身体が固まった。『どうでもいい』という言葉を理解するのに——一瞬の事だけれど——長い永い時間がかかった。えみの混乱をよそに兼さんの言葉は続く。
「あいつの想いも、オレの想いも、どうだっていいんだよ。オレは現行の歴史を守るために力を与えられた武器だ。ただそれだけの存在だ」
「……お前、それ本気で言ってんの? 主の想いを蔑ろにしてるふうに聞こえるけど」
「お前こそオレ達の使命を忘れちゃいねえか。オレ達はなんのために顕現された。時間遡行軍と戦う術を与えられたオレ達は戦う事が使命だろ」
「忘れてるわけじゃないよ。けど、それとこれとは話が別だろ」
「……現世に夢現になって、大事なもん守れなかったら意味ねえんだよ。守れなかった先に何がある?」
非情にも続く兼さんの厳しい言葉を、これ以上は聞くに耐えられなくて足早にその場から逃げ出した。兼さんに謝ろうとしていた事さえ、今のえみには忘れていた。
——ああ、そうか、フラれたんだ。えみだけが兼さんを意識してたって事。兼さんはえみの事は主にしか見てないって事なんだ。あまつさえ友人としてでもなく。えみは兼さんという『武器』を扱う『主』。それ以上でもそれ以下でもない。
……本当は薄々と心のどこかで気づいていたのかもしれない。でも、認めたくなくて。認めてしまった瞬間から、今までの尊い時間が砂の城のように崩れ去っていきそうで。……でも、現実を突きつけられてしまった。胸の真ん中に太い槍が刺さって抜けない感覚だ。だから気づきたくなかった。知りたくなかった。こんなにも深い苦しみを味わう事になるのなら。
——さよなら、えみの初恋。
フラれたショックで——決まったわけではないが、もう、そうとしか考えられない——逃げるように寮に戻ったあとベッドにうずくまって、泣いて、泣いて、力尽きてそのまま次の日の朝まで眠ってしまった。頭が痛い。泣きすぎて目が腫れぼったい。小さい窓から射し込む日の光が染みるくらいに眩しい。初恋は叶わないというジンクスを唐突に思い出す。ああ、終わったんだ。兼さんに会いたくない。みんなと会うのが億劫だ。想像以上にダメージが大きくて布団から出たくない。ズル休みしてしまおうか。
結局、布団から出られなくて上司に連絡をしてズル休みしてしまった。泣き果てて鼻声だったし、声に覇気もなかったので、頭の固い上司だがすんなりと聞き入れてくれた。休んでしまった業務の手当てはしてくれないけれど。えみぐらいいなくなったところで代わりなんていくらでもいるだろう。そんな事を考えてしまうくらい何に対しても無気力になってしまった。
(……消えたい)
あれから三日ほど経った。ほど、というのはトイレに行くときや無気力状態でもお腹は減るので最低限の食事を済ませるとき以外は、しおれた雑草のようにベッドのなかでただひたすらに時間を過ごしていた。さすがに三日も風邪じゃ疑われそうで不安なので気は進まないが重い腰を上げて本丸へと向かう事にした。鏡でいつも以上に自分の顔がひどくないかチェックする。泣き腫らしたままの顔を晒したら確実にみんなに余計に心配をさせてしまう。よし、大丈夫だ。ニッ、と歯を見せて笑顔の練習をする。よし、と気合を入れて三日ぶりに寮の外へと出る。
最初にどんな顔をすればいいか、なんて言葉から始めるかもやもや考えているうちにあっというまに本丸の正門の前へと到着する。変に緊張してしまう。深く息を吸って、吐いて、本丸への一歩を踏み出した。三日ぶりに顔を出すとえみに気づいたランやキヨ達が心配したと言わんばかりに駆け寄ってきてくれた。体の調子とか色々聞かれたが、大丈夫、と笑顔で通すとホッと安心した顔になった。ラン達の話によると長谷部さんは特に、「主がご不在のあいだは俺がこの本丸を守る!」と普段以上に厳しかったらしい。ランもキヨも長谷部さんの指導に疲れ果てていたみたいだ。そんな長谷部さんはいつもどおりの自信に満ちた涼しい微笑みでえみを出迎えてくれた。
「主がいなくて兼さんも寂しがってたよ」とランが言う。えみがいなくて寂しがる兼さんにほんの少しばかりテンションが上がったが、このあいだキヨと話していた事がフラッシュバックしてすぐにテンションが下がった。ランから見てもわかるほどに。こんな個人的な事でまた迷惑をかけたくない。とりあえず無理矢理にでも笑顔を作って気持ちを切り替える。
音もなく虚空からひょいと現れたこんのすけに、案の定、休んでいたあいだの業務内容の報告と、今日これからの業務内容を非情とも思える冷静さで淡々と告げられる。こんのすけが悪いわけではないが、油揚げを取り上げたくなってくる。素直に聞き入れるふりをする。せっかくテンションを上げていたのにまた下がってきた。作業にのめり込めば少しは兼さんの言葉を忘れられるかもしれない。
そう考えて作業に集中してみたのはいいものの、やっぱりどうしても兼さんの言葉がちらついて作業に集中できなかった。何か小腹でも満たせば少しはやる気がでるかもしれない。お腹が満たされていると心も満たされる、と偉い誰かが言っていた気がする、とお菓子がしまってある台所へと向かっていった。
道中。ばったり。兼さんと顔を合わせてしまう。ばっちりと目も合う。——まずい、言葉が出てこない。いつもどんなふうに切り出していたっけ、と考えをぐるぐると巡らせる。兼さんはいつもどおり調子のいいと思っているえみに言い飽きない言葉を売りつける。
「三日も休むなんて珍しいな。落ちてるもんでも拾って食って腹でも下してたのか」
「そこまで卑しくないわっ」と冷静にツッコミを入れて、そこから普段どおりに言い合い合戦が始まると思ったのだけれど、思いどおりに言葉が口に出せなくて「ち、違うよ……」とふてくされながら至って普通に、つまらない返事をしてしまった。えみがまだ調子が悪いのを察したのか兼さんはアプローチを変えてきた。
「病み上がりなんだろ。あんま無茶すんじゃねーぞ。長谷部がうるせえからな。主がいないあいだの本丸は俺が守るだのなんだのって……」
兼さんも長谷部さんの熱心な指導には堪えたようで、ぐちぐちと不満げにぼやく。長谷部さんの仕事熱心(?)なところはえみでもときどき困る事があるから気持ちは分からなくはない。
気を遣ってくれている。なんとなく、口振りから、声の調子からそんな気がする。妙にえみの身を案じて当たり障りのない事を言う兼さん……「きしょっ」
「てめえヒトの気遣いを仇で返しやがって——」と今度は容赦なく皮肉混じりの言葉を続ける。仕方がない、条件反射というやつだ。よし、なんとか兼さんとの会話も調子を取り戻してきた。
——はずだった。本当に何気ない、いつもどおりの兼さんの調子のいい一言に、突然兼さんの輪郭がじわっと水中のようにぼやけたあとに、つうっと水のようなものが頬を一筋伝った。兼さんはえみの眼からこぼれたそれを凝視する。ぽた、ぽた、と顔から離れて滴り落ちてから、ようやくそれが涙だと気づいた。
泣きたいわけじゃないのに。兼さんの前で急に泣いたら変な奴だと思われる。けれど、止めようと思えば思うほど泉のように湧いてきて眼から水が溢れてくる。ほら、兼さんがびっくりしたような顔でえみを心配するだろう。いつもは犬も食わないようなしょうもない意地悪するくせに、えみが弱っているときに限って優しく接してくる。
兼さんのそういうところが——えみは——
心配して伸ばしてきた手に触れられたら何もかもが崩れてきてしまいそうな気がして、兼さんの優しさに甘えてしまいそうな気がして、これ以上期待を持ちたくなくて、逃れるようにえみは兼さんに背を向けて走った。どこへ向かって行くわけでもなく、ただ兼さんからできるだけ遠くへ、離れようと、あの優しい手が届かないところまでいこうと。
……思って、走り出したのだが、背後からドタドタと騒がしい音が鳴り響く。まさかと思って顔を向けると、そこはやっぱり追ってくるのが兼さんだ。
「追ってくんなよ!」
「おめーがオレから逃げるからだろうが!」
「兼さんが追ってくるから逃げるんだろ!」
「理由もなく泣かれちゃ虫の居所が悪りぃんだよっ。理由を言え! 白状するまで追い回すぞ!」
たちが悪い。捕まったらきっと最期だと、捕まるわけにはいかないと、記憶を失くした長谷部さんに追いかけられたときの恐怖を思い出し、自分を震え立たせて必死に駆ける。そういえば兼さんの元の主の土方さんは拷問のスペシャリストだと聞いた事があるようなないような。まさに鬼ごっこ。捕まれば、死。
「いやー! 殺されるうぅ!」
「殺さねえよ! 何かまた余計な事企んでちゃたまんねえからなっ」
また余計な事とは土方さんとの一件だろうか。今になって蒸し返さなくていいのではないか? さすがにえみも猛烈に反省している。だからそう何遍も蒸し返されるとかえって腹が立つのだが。とことん器の小さい男だ。
兼さんをまけそうにないし、体力勝負では絶対に勝ち目がないし——わかっていて兼さんはえみを追い回しているのだろう——こうなったら奥の手だ、と、走っていて既に切れぎれである呼吸を懸命に整えて、すうっ、と肺いっぱいに息を吸い込んでから、一気に、
「っ長谷部さあん!」
「バカ!」と兼さんの焦ったような声が背後から飛んできたあとに、ものの数秒で長谷部さんがどこからともなく電光石火で駆けつけてきてくれた。一つも息を乱していない。
「和泉守、また貴様か! いったいどれだけ主に無礼を働けば気が済む! 万死に値するぞ」
「お前もこりねえ奴だな。やっぱあのとき斬っといたほうが良かったんじゃねえか?」
「それはこちらの台詞だ。主の命によりここで死んでもらうぞ、和泉守兼定!」
「命令されてねーだろうが!」
そんなこんなで二人がやりとりしているあいだにこっそりと逃げる。なんだかデジャヴを感じる。毎度の事、長谷部さんには申し訳なく思いながら心のなかで感謝をしてえみは兼さんからまかせてもらう。長谷部さんなら充分に時間を稼げるだろう。涙で濡れた顔でなんて兼さんと会いたくない。
とおりすがりの手近な男士に、少し調子が悪いので一人になりたいから誰も部屋に入ってこないようにと伝言を残して仕事部屋兼自室に籠城した。伝言を残された男士が、えみの体調を気にかけて心配してくれた事に嬉しい半面、少し罪悪感に苛まれて心が痛い。嘘をついているわけではない。ただ、今はどんな理由をとってつけても一人になりたかった。
だが、本丸にいる以上、戦果の報告や業務連絡やその他もろもろの入り用に対応しないといけないわけで……実際、部屋に一人でこもっていても戦果の報告をしにくる男士やえみの体調が良くないのを聞きつけた男士が心配して声をかけにきてくれたり、何か色々とお見舞いの品を置いていったりするので本当の意味で一人にはなれなかった。けれどみんなの気遣いが嬉しい。荒んでいた心も少しだけ癒された気がした。
今のえみの心の状態のように閉め切っていた障子を、恐る恐る人一人分くらいの間を開ける。障子を隔てた先の床には、花やお菓子や薬のようなものにホッカイロなどが置かれていた。キヨの言葉を借りるとするなら「愛されているな」と胸のあたりが温かくなる。
色々な物のなかから、定規くらいの細長い重厚な箱に目を惹かれる。手にとって開けてみた。なかには箸くらいの細長い一本の漆塗りの黒い棒の先に、繊細な花の模様が描かれた紅いとんぼ玉がついていた。
「かんざし……? きれい……」
箱から取り出して、その美しさにほうっと見惚れる。なぜ簪のチョイスなのか。いったい誰からなのか。こういうおしゃれな贈り物をする人で思い当たる人は何人か候補がいるけれど、直接渡すわけでもなくこうして贈るくらいなのだから、わざわざ聞いて回るのは野暮かな、と簪を箱に丁寧に戻した。
みんなの温かさに触れたおかげで、先ほどよりは感情も落ち着いてきたので——落ち着いて休まらないのもある——審神者の仕事に就こうと、本当は全く乗り気ではないが——いつだって乗り気ではない——審神者の仕事をさぼって、いつも不機嫌そうな上司からお小言を言われるのが嫌なので重い腰を上げて審神者業を再開する。
みんなには上手く説明しておいて、普段どおりの穏やかな日常に戻りつつあった。まだ兼さんとの件で少しもやもやしているところはあるが、泣いて、みんなの優しさに触れたら、案外すっと淀んだ気持ちが溶けていった。みんなには感謝しないと。
そして、兼さんの前で急に泣き出してしまった事を謝らなければ。……いけないような気がする。兼さんは何も知らないで、何も悪い事をしていないのだから、兼さんに非はない。いつもは罵り合っているが一方的なのは良くない。今回は(今回も?)えみが悪い。素直に認めて兼さんに謝る事を決めた。兼さんを探しに本丸内を散策する。広場から少し離れた、木が生い茂っている場所に兼さんと堀川くんを見つける。声をかけようと近づいていくと、「主さん、大丈夫かな」
堀川くんが兼さんに問いかける。自分の事で気になるので声をかけるのを一旦待って、近くの建物の陰に身を潜めて聞き耳を立てた。
堀川くんの問いかけに兼さんは木のほうを見つめて黙ったままだった。「兼さん?」と堀川くんが呼びかけて、ようやく話しかけられていると気づいた兼さんは、「さあな」と静かに一言言っただけでまた黙ってしまった。お喋り、というほどではないけれど、えみの前ではべらべらと口達者だから物静かな姿を見るのは珍しい。物陰から見ているので兼さんの顔がよく見えないが、何かまた想いを抱えているのだろうか。
兼さんが黙ったままでいるので堀川くんも何も喋らずにいた。兼さんはえみに対して「さあな」という程度の感情しかないのか。少し寂しい。まあ、兼さんはえみの事を『主』としてしか見ていないから仕方のない事といえば仕方のない事なのかもしれないけど。二人が何も話さないし、そろそろ出て声をかけようかな……と思っていた矢先、
「ちゃんと主さんに渡してきた? 兼さん」
堀川くんがそう切り出す。渡してきた? とは、なんの事だろう。絶対に違うとは思うが、兼さんが泥酔していたときにもらった珍しい虫の事だろうか。それ以外にまるで思い浮かばない。
「渡してきたよ。……つーか、置いてきた」
「だめだよ、ちゃんと直接手渡さないと。誠意がないって思われちゃう」
「長谷部の目があるからな。あいつと次に目が合ったら、斬り捨ててくるつもりだぜ」
あー……と堀川くんは苦い顔をして笑う。置いてきた、という事は部屋の前に置かれていたお見舞いの品のなかにあったものだろうか。お菓子? ホッカイロ? それとも花?
「きっと喜ぶよ。主さんを想って兼さんが選んだんだから。——あの簪」
(え……?)一瞬、呼吸をするのを忘れる。
「どーかな。オレのセンスはいいとして、素直に喜ぶようなタマじゃないからな、あの小娘は」
「ふふ、確かにそうかも」
「渡すタイミングがズレちまったのがなあ……」
「それは兼さんがいつまでも意地を張ってるから、だよ」
「言うじゃねえか、国広ぉ」
——驚いた。あの紅いとんぼ玉の綺麗な簪の贈り主が、兼さんだったなんて。でも、普段から身なりにも気をつけている兼さんなら納得で、実は思い当たる人の候補に一瞬だけ入っていた。一瞬だけというのは、意地悪で皮肉屋な人だからそんな揚げ足取りの餌になりそうな事はしないだろうと——何より、相手がえみだからしゃれた事はしないだろうと——遠征の手土産に珍しい虫をプレゼントするくらいなので——決めつけていた。今のこの瞬間までは。
「兼さんも、もう少し主さんに素直に接してあげればいいのに」
「オレは素直なつもりだぜ? あいつが揚げ足ばっかとってくるからオレもそのまま返してやってるだけだ」
「でも、この前みたいな事が、またいつ起こるかわからないよ?」事の発端は僕なんだけれど……と申し訳なさそうな顔をして呟く堀川くん。土方さんの件の事を指しているのだろう。えみも口をつぐむ。
「……そんときになったらそんときだ。どうにか丸め込んでやるさ。オレ達はそのためにいるんだからな」
「……歴史を、守るために」
「……浮かない顔だな」
「歴史を守る事は大事だよ。よくわかってる。僕がなんのためにここに顕現されたのかも——けど、大事な人の涙を、想いを、見て見ぬ振りしてまで歴史を守る事が本当に正しいのかなって、ときどき思ったりするんだ」
きっと堀川くんは兼さんの事を思って言っているんだろう。土方さんを前にして流した涙を思い出して。兼さんは黙っていた。
「兼さんは本当に土方さんに似て仕事人間だよね」いや、刀の付喪神だから仕事刀? 仕事神? と悠長に堀川くんの言葉が続く。少しの沈黙のあと、兼さんは言葉を紡いだ。
「……いや、そんな立派なもんじゃねえよ。オレが刀を振るう理由も、歴史のためとかいう大義名分があるが、本質はもっとちっぽけなもんだよ。多分、陸奥守とかに似た感じだ」癪に障るが、と続けて「——オレは歴史だけじゃねえ。その先に続く未来を守るために刀を振るう。オレの忠義はそこにある」
「未来?」と訝しげな顔をする堀川くんは兼さんが放った言葉の意味を考えているのか、しばらく黙ったあと、ハッと何かに気づいたような顔をして声を上げる。
「未来を守るって……主さんの、今——未来を?」
堀川くんの言葉に目を見張る。次に語る兼さんの言葉を聞こうと自然と身が乗り出していた。兼さんの口が、紡ぐ。
「誰がなんと言おうと、あいつが何を言おうと、オレは歴史を守るため——主《あいつ》が、ただアホみたいにのんきに笑って過ごせる未来を守るために戦うだけだ。今までも——これからも——」
「あいつには絶対言うなよ」と釘を刺す兼さんに隣にいる堀川くんは兼さんが珍しい事を言って意表をつかれたのか珍しいものを見る目で目を丸くして眉を上げていたけれど、そのあとすぐにフッと笑みをこぼして
「やっぱり兼さんは主さんの事、とても大切に思ってるんだね。主さんが贔屓しちゃうわけだよね」
「お前あれが贔屓に見えんのか」「大切にされているよね」などの押収をのんきに繰り広げる。
えみはその場で立ち尽くしていた。——兼さんがそんな事を思っていたなんて。考えていたなんて。えみの事なんか可愛げがない生意気なガキとしか思ってないと、思っていた。
知らなかった。今頃そんな事を言うなんて、ずるい。あふれんばかりの想いの丈がこぼれ落ちないように、両手で口元を覆った。
堀川くんの言うとおり本当に不器用な人だ。それ以上に、えみはなんて子供なのだろう。自分の気持ちばかり考えて、兼さんの想いなんて少しも考えなかった。——本当はわかっていたはずなのに。皮肉な言葉の裏に思いやりがあるって事を——揚げ足をとれるくらい、いつでも見ていてくれたって事を——いつだってえみのために全力を尽くしてくれたって事——振り返ってみればたくさんの兼さんなりの優しさをもらっていた。それなのに見て見ぬ振りをしていた。
「言ってくれなきゃ、わかるわけないじゃんっ……!」
絞りでるようにもれた想いの丈は、誰に届く事もなく空気と溶けていく。ずっと、ずっと、兼さんの想いに守られていた。兼さんの気持ちも、えみの気持ちも、掬う事なく、ただ、握り締められた剣は、己の願い《想い》を叶えるために。
——決めた。兼さんがえみの未来を守るため歴史を変えられないように戦うのなら、えみは兼さんを支えよう。今は何ができるかわからないけれど、兼さんが歴史を守れるようにえみが支える。
今まではどこかなあなあと与えられた事だけをこなしていた。流されるままに生きていた。審神者になって、ようやく〝主としての意味〟を見つけた気がする。
ふと、空を仰ぐと、雲がひとつもない爽やかな青が一面に広がっている。さっきまでのもやもやが、見上げた空のようにすっと晴れたような気がした。
どこか清々しい気分で仕事部屋に戻ろうとする途中、ばったりと兼さんと顔を突き合わせる。しまった、今の顔は大丈夫だろうか。えみの気持ちをよそに兼さんから言葉を発する。
「昨日は、その……悪かった」
謝られる事を想定していなかったので、素直に眼を丸くして驚いた。まあ、あれだけ失礼な事をしておいて謝らないのはどうかしているだろう。これが昔だったら、主に無礼を働いた罰として斬られてもおかしくはないんだろうなあ、と思う。えみは現代っ子なので血生臭いのはごめんだが。
「うん……」とそれ以上、何を言えばいいのかわからずに黙ってしまう。妙な雰囲気だ。むず痒い。
「あのよ、」と切り出した兼さんの雰囲気が、余裕があるいつもとは違って、真摯な感じだった。兼さんは、次にこう発した。
「お前に言わなくちゃいけねえ事がある」
いつもとは違った真摯な佇まい、そしてその言葉の本質を直感で察したえみは、ぐっと唇を噛みたくなる思いを我慢して、その口元に笑みを作って、
「なになに? もしかしてえみに働いた今までの無礼を懺悔するとか?」
シリアスな表情から一変、「はあ?」と案の定、兼さんのぽかんと空いた口から拍子抜けな声が出る。
「謝るんだったらそれなりの誠意を見せないとさ、和牛十年分とか」などと軽い調子で適当に言葉を並べると、「どんだけ貢がせるつもりなんだよ」と呆れた調子ながらも食いついてきた。
「お前に貢いでたら国の経済が破綻すんぞ」
どんだけ食うと思ってるんだこの之定はえみを怪獣か何かかと思ってるのか。自分から仕掛けたのに思わず感情的になって反発してしまう。
でも、これでいい。今はまだ。
せめて、えみがいつか元の世界に戻るその日までは、この心地良い関係を壊さないでいたい。
泡沫の夢だとしても。覚めてしまう夢ならば。