第六章 どこ吹いた風
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
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波のように行く手を阻む男士の隙間をかいくぐり、駆け抜ける。背後から迫る長谷部さんの雄叫びに足がすくみそうになるがなんとか自分を奮い立たせる。この機を逃せば、本当に最後だから。男士の力ならえみの爆走なんて簡単に止められるものだと思っていたが「どいて!」と一喝すると素直に聞き入れたりするのが妙に思った。が、今は気にしている場合じゃない。
目指す物見台まで振り返らずに、真っ直ぐ前だけを見てひたすらに駆け抜ける。そして、物見台の頂上まで一気に登る。息つくまもなく切れぎれの呼吸に、すうー、と肺にいっぱい空気を取り込んで——
「みんなあああ! えみの話を聞けえええ!!」
時はさかのぼり——臙脂色に映える浅葱色の羽織をひるがえした長髪の男性——男士の姿を見て、えみはあの人の名前をこぼした。
「兼、さん」ぴくり、と兼さんの片眉が動く。しまった、とえみは思った。えみに関する記憶が抜け落ちてるのに馴れ馴れしく兼さんと呼んだら不審感を持たれてしまう。ドキドキとうろたえていたら、兼さんは「あんた、このあいだの……。やっぱりあんたも審神者だったのか」
心配とは裏腹に落ち着いた態度で言ってきた。若干、ほっとする。
「えっと……まだ見習いのようなもの、なんだけど……」
今はえみと兼さんは初対面という事に気をつけて馴れ馴れしくならないように接するが妙によそよそしい態度になってしまう。あの兼さん相手にかしこまるというのもなんだかおかしな話だ。兼さんはまったく気にしていない——記憶がないので当然だが——様子でえみとの会話を続ける。
「妙に慣れてる嬢ちゃんだと思ったんだが……審神者なら納得だ」
そう言い、兼さんはじっとこちらに視線を固定させる。無駄に整った顔でずっと黙って見てくるから気が落ち着かない。何、ですか? とタメ語と敬語が混ざった変な口調で問いかけると、いや、と言葉を濁す。変な感じだ。
「……こんな子供が審神者だなんておかしいですか?」
どこからそんな情が湧いたのか、相手が兼さんだからなのか、卑屈気味に切り出してしまった。だが、えみの予想とは反して「そうじゃねえよ。子供だろうが実力が備わってるからあんたは審神者に選ばれたんだろう。立派なもんだと思ってねえ」
これは……兼さんじゃない。昔の兼さんならたとえそんな事を思っていたとしても絶対に言わない……だろう。多分。まず褒めない。認めない。皮肉しか言わない。本当にえみが主だった兼さんなのか……? 兼さんの思いがけなかった言葉によっぽど変な顔をしてしまっていたのか、なんだよ……といった顔でえみを見る兼さんは眉をしかめてややたじろぐ。本当に、変な感じだ。初めて会ったときの記憶がよみがえる。ここまで露骨に人を褒めたりはしなかったが、あのときの兼さんは今のように凛々しさの中に温和な情を秘めたカッコいいお兄さん、という感想だけだった。いつのまにかお互いの揚げ足を取るくらい皮肉を言い合える仲になって、いつのまにかとなりにいて、他人にも自分にも厳しい兼さんが土方さんを想って涙を流した事も知っているのに——今はどれだけ手を伸ばしても届かない距離にいる。
「立派じゃない、よ」
ぽつり、と独り言のようにこぼす。湧き水のように次から次に言葉があふれでる。
「自分ができる事なんてほんの少ししかなくて、誰かの力を借りないと何もできない。そのくせに誰かの力になりたくて、みんなに迷惑ばっかりかけてる。……きっと、こんな奴が審神者だなんて迷惑に思われてる」
愚痴るつもりはなかったのだが、兼さんの調子に釣られてなのと、寂しさから愚痴のようにこぼれてしまった。いつもの、えみが知ってる偉そうでふてぶてしい兼さん相手なら弱音を吐く事など天地がひっくり返ってもありえないのだが、えみを忘れている——えみを知らない兼さんだから無駄に張っていた虚勢も崩れて柔らかくなる。兼さんには、どう映っているだろう。こんならしくないえみが。
「……そいつらに言われたのか」
「え? ううん……でも、多分きっとそう思ってる」
「それはあんたの勝手な思い込みだろ。そいつらはあんたに嫌な顔をしてたのか」
兼さんの言葉に、審神者になった日から今までの彼らとの日々を振り返る。えみの記憶に残るみんなは、呆れながらも笑っていた。
「……ううん。でも、みんなが優しいだけだよ」
「それは、あんたがみんなに優しくしてるから、じゃねえか?」
え? とえみは黒目を僅かに小さくして兼さんの顔を見返す。
「優しくされて嫌に思う奴なんてそうそういないと思うがねえ。あんたがそいつらの事を大事にしてるから、そいつらもきっとあんたの事を大事に想ってるんだろう」兼さんは楽しげに遊んではしゃいでいる短刀の子達を眺めた。
「あんたはそいつらの主だ。主が信用しねえでどうする。あんたは、もっと自信を持っていいと思うぜ。あんたの想いは、そいつらに伝わってる。きっとな」
兼さんの言葉、ひとつひとつが乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨のように、えみの寂しい心に染みわたっていく。どこまでも、深く。潤いが満ちていく。兼さんに褒められるのが涙が出そうなくらい嬉しいなんて、思いがけず溢れそうな想いの雫を兼さんの前でこぼすわけにはいかないと、ぐっとこらえる。ざわついた気持ちを整理するために一呼吸置いてから、えみは続けた。
「優しいね、兼さ……和泉守さんは」
そう言われると思ってなかったのかえみを見る兼さんの黒目が僅かに小さくなったが、腕を胸の前で組んで「まあかっこ良くて強ーい最近流行りの刀だからな」
ちょっと得意気に、鼻を高くして言う。その兼さんが、えみが主だった頃の兼さんと雰囲気が一緒で——塞き止めていた感情のダムが溢れ出そうになる。慌てて抑え切れない想いをひた隠すように顔を伏せる。
「なんで、そんなに優しいのっ……」
声が震えそうなのを懸命にこらえて、これ以上優しくしないで、と意を込めて兼さんに言葉を投げた。
「……なんでかねえ。あんたと話してるとついべらべら喋っちまう。初対面なのになあ」
らしくない、というように頭をぽりぽりと掻く仕草をする。えみは、ハッとした。まだえみの記憶が残っている……だとするなら、伝えるしかない。それは、えみが兼さんの主だから——咄嗟にそう言おうと口を開くが、兼さーん、と堀川くんの声が本丸内の遠くから投げかけられる。間が悪い。まるで神様に意地悪されているみたいだ。たとえ神様の意地悪でなくとも何か別のもののせいにしてしまいそうになるくらい、タイミングが悪くてやきもきした。ああ、と堀川くんに届くように兼さんは大きな声で返事をしてえみのあとを立ち去ろうとする。
「待って」図らずも語気を強めて兼さんを引き止めようとした。兼さんは踵を返して、えみの呼び止める声に立ち止まってくれた。
——えみはこの本丸の審神者なんだよ。兼さんの主は、えみだよ。
……心のなかで訴えるのに、なぜだか言葉に出せなくて。喉の奥まで出かかっているのに、何かが詰まって声にならない。わからない。言ったところで、あんたおかしな奴だな、と嘲笑われて軽くあしらわれるからだろうか、今の兼さんを形作っているものをえみの手で壊したくないからなのか。少なくとも今こうしてここに顕現しているという事はえみの死を受け入れてなおも遡行軍と戦う道を選んだから。悔しいが兼さんらしい。何も言えずに黙りこくったままでいると不思議そうな目で兼さんはえみの返答を待つ。いったい何を言うのが正しいんだろう。そのうち堀川くんが兼さんの元へやってきて、主から遠征の要請だと伝えると二つ返事で兼さんは堀川くんと一緒に任務へと向かっていった。「またな」と兼さんが一言残して。
またな——また会ってもいい、という意味合いだろうか。兼さんにとったら本当に何気ない、他愛もない一言だろうがその言葉に心が弾んだ。けれど、今の自分が置かれている状況を思い出して、一筋の光が射したかと思えばすぐに暗雲がかかってしまった。その『またな』は、きっと、もうない。
事態は好転しないまま、残り、一日。この日を終えればえみは審神者に戻る事ができる——または普通の平凡な学生に戻る事が……。えみとしては、まだ普通の学生に戻りたくない。もう少しだけ彼らと時間をともにしたい。こんな事を記憶がなくなる前の兼さんに言ったら、あほか、と呆れて言われてしまうんだろうけど。今はそんな事を言ってくれる兼さんはいない。えみ自身の手で、自分の居場所は自分で取り戻さなくてはいけない。もしもえみが審神者に、あの本丸に戻る事ができたなら今、彼らの主である審神者の人はどうなるのだろうと気がかりな事もあるが今はよその心配をしている場合ではない。……でも、今日一日で彼ら全員の記憶を呼び覚ます事なんてできないだろうと思っている。
六日間、できる限りで手を尽くしてきたが今日まで一人もえみの事を思い出す人はいなかった。たった一日で叶うとするなら、それこそまさに奇跡だ。……それでも、やるしかないんだ。無駄なあがきだとしてもえみに残された道はもうないのだから。記憶を呼び覚ませるかわからないけど、今ある記憶が消えないうちにせめて彼らに気持ちを伝えたい。届かなくてもいい。今だから伝えたい、伝えなきゃいけない事がある。えみが死んだと聞かされても、なおも遡行軍と戦い続けると決めて前に進んでいった、彼らへの未練を断つためにも。
沸き立つ心のままに全身で風を切って一心不乱に彼らの本丸へと駆ける。宵闇がえみの背後から飲み込むかの如く迫ってきて茜色だった空を覆い尽くす。前進する事ばかりに気が取られてしまっていて、足下の地面のくぼみに気がつかずに足を取られてしまい派手に地面を転がった。痛い。全身が痛い。心も。挫けそうだ。別れの言葉を伝えるために走るなんて。いっそこのまますべてが夢で終わってしまえばいいのに。でも、出逢ってしまったから。この湧き上がってくる想いを伝えなくてはいけない。たとえ笑顔にならない結末だとしても。己を鼓舞して砂だらけになった身体を叩き起こす。再び駆け出そうとすると、ズキッとした鈍い痛みが左の足首から走った。転んだときに打ちどころが悪かったのだろう、左の足首が疼いて熱を帯び始める。左足の自由が利かない。こんなときにまで持ち前の不運が炸裂するなんて、本当に「ツイてないなあッ……」
石切丸さんに厄を落としてもらったほうがいいんじゃないか。そんな冗談が心に沸く。
ギリッと亀裂が入りそうなくらい、もどかしさと一緒に奥歯を噛み締める。それでも、痛みをこらえてもう一度走りだす。止まってはいられないから。一分一秒でも彼らのために時間を使いたいから。
篝火に淡く灯された正門が見えてくる。一気にえみは残っている体力を振り絞って本丸まで一直線に駆けていく。正門をくぐり抜けて、中庭のほうまで進むと、一旦足を止めた。大きく肩で呼吸をしながら夜に包まれる本丸の風景に溶け込む男士達の姿を確認するように一望する。この場に居合わせた男士は両手で数えられる程度の人数。この本丸に全員いるかわからない。一人ひとりに言葉を伝えたいが、きっとまにあわない。突然、現れたえみに驚く男士達の反応をよそにえみは考える。
さあ、どうする。どうやってみんなに気持ちを伝える。ふと、視界に〝それ〟が映るともう一度確かめるように目線をその建物に合わせた。——物見台。本丸の敷地内を一度に見渡す事ができる高さのある建物。これだ。物見台の頂上まで登って声を張り上げれば、きっとみんなに声が届く。一考したあと、男士達が妙にざわついている様子から見にきたと思われる、激しい剣幕の長谷部さんが。
「お前っ、主の許可なく勝手に本丸に入り込んで! 今すぐ出て行ってもらおうか!」
まずい。今、長谷部さんに捕まるわけにはいかない。今いる場所から物見台までは数十mある。長谷部さんとの距離も物見台までの距離と同じくらい。男士達の中で短刀の子達を除けば単独トップの足の速さの長谷部さんと渡り合おうものならオートバイでも持ってこないと話にならない。普段から運動といえば体育だけの、学業と審神者の事務業しかこなしていないえみと長谷部さんではうさぎと亀どころかチーターとナマケモノくらいの差がある。それでも駆けなければいけない。これが最後だから。
立ち塞がる男士の波をかいくぐり、物見台を駆け登って、切れぎれの息を整えるまもなく、すう、と肺いっぱいに空気を送り込んで、叫ぶ。
「みんなあああ! えみの話を聞けえええ!!」
はじめは自分に審神者が務まるのか不安でしょうがなかった。審神者、なんて言葉も聞いた事がなかったし、何をするのかわからなくって、怖くって、正直、審神者になったのもなりゆきだった。
心からなりたかった、って言われればそうじゃない。生きるために必要に迫られたからなっただけだった。右も左もわからない状態で、とにかく孤独で怖かった。けれどよっちゃんに出逢って、そこからみんなと出逢っていって、いつのまにかたくさんの人達に囲まれていた。みんなはとても優しくしてくれた。嬉しかった。
でも、えみが主だからみんなが優しくしてくれるんじゃないかと心のどこかで思っていた。今でも少し思っている。他人の気持ちなんて結局言葉にしないとわからないから、今えみが思っている事を伝えたい。
えみは優しいみんなが大好きだった。たとえ、えみが主だったからだとしてもえみにとってはみんなの優しさに何度も救われたよ。優しくしてくれてありがとう。
みんなの笑った顔も大好きだった。みんなが笑うと、悲しい事があってもえみも笑顔になれたよ。元気をくれてありがとう。
正直、審神者に向いてないなって思うときがいつもあった。審神者を辞めたいって思った事も何度も。えみの力じゃみんなを導けないから。だからえみ以外の主についてくれてホッとしてる。えみよりきっとずっとみんなを正しい方向へ導いてくれるから。
何をやってもだめだめで、みんなに心配かけたり、怒らせたり、それでも、こんなえみを支えてくれてありがとう。主にしてくれてありがとう。
審神者になってから、いーっぱい楽しい事が増えたよ。みんなが教えてくれたんだ。みんなと一緒だったから毎日が楽しかったよ。辞めたいなんて何度も思ったけど、今は心の底から、えみは審神者になって本当によかったって言えるよ。みんなと出逢えたから。みんなと出逢えた事は、えみにとって一生の宝物です。
みんなは主って慕ってくれるけど、えみはみんなの主だなんて思った事はない。大切な友達だと思っている。今までも、これからも。
もし次に会う事があったら、今度は主と刀としてじゃなくって友達として会いたい。そしたら今度は、いーっぱい遊ぼうね。主でも、刀でもなくて、友達として。
……ほんとは悔しい。こんな形でお別れするのは。けど、みんななら絶対大丈夫。えみがいなくても……えみはずっと、遠くからみんなを応援してるから。
えみはみんなの思い出があるから、寂しくないよ。
「どうか……歴史を、守って……——幸せに、なってください」
伝えたい気持ちは伝えた。全部。呼吸を整えて現実に返ると、降りてこい! と下から長谷部さんの大きな声が耳に響いた。えみは素直にゆっくりと物見台を降りていく。地面に足をつけて周りをゆっくりと眺めると、目の前には険しい顔をした長谷部さんを筆頭に、困惑している男士、驚いている男士、悲しそうな顔をしている男士——様々な面持ちの男士達が待ち構えていた。沈黙が流れる。えみのほうから沈黙を破る。
「お騒がせしてすみませんでした。もう、きませんので。……今までお世話になりました。皆さんの主に、よろしく伝えてください。……どうか、幸せに」
それだけを伝えて、えみは正門に向かって歩いた。正門をくぐり抜けもう一度、彼らのほうに振り返って深く、名残惜しみながら、お辞儀をする。早くこの場を立ち去らなくては。泣いてしまう。行くところなんて、もうどこにもないけれど。まるでえみが行く先かのように、真っ暗で何も見えない道に吸い込まれるようにあてもなくただ歩き続ける。彼らとの思い出をとどめておけるのも、あと少し。
思い返せば、本当に色々な事があった。審神者になった日が昨日の事のように感じる。彼らと過ごした約一年半の時間はとても濃厚で、毎日がお祭り状態で、上手くいかない事があって衝突したり避けられない悲劇に心を痛めたりした日もあったけれど……笑顔がたえなかった。励ましてくれたり、みんな優しかった。この記憶も忘れていって、今こうして苦しんでいる感情も忘れていくのだろう。やるせない。居場所もないのなら、いっそ、彼らの記憶が消える前に——
「待て!」
静寂の林道に耳に馴染んだ男の人の声が反響する。聞こえたのは、背後から。追ってくるはずがないと思っていた——えみの記憶がないうえに、今のあの人とは、なんの関係も持っていないから。高揚から震える拳を硬く握り締めて、息が止まるほど恐る恐る背後を振り返る。淡く浮かび上がる長身の輪郭。膝下まである漆黒の長髪が特徴的な、臙脂色の着物を身につけた——
「兼、さん。なんで……」
兼さんは一息ついて「——一目、見たときから感じていた。あんたに対する妙な違和感を。気のせいかと思っていたが……演説を聞いて確信に変わった。あんたを見てると頭んなかが霧がかかったようにおぼろげになりやがる。あんたは……お前はいったい、誰なんだ」
狼狽しながら告白する。——えみが誰かって? ……そんなの、決まってる。
「……えみだよ」
「あ?」
えみは、ずっとずっと——きっと初めて出会ったときから——心に秘めていた淡い想いを、解き放つ。
「——かっこ良くて強ーい、兼さんの事が大好きな、えみだよ」
もう、想いが届く事はないだろうけど。それでも、最後だからえみは伝えたかった。自分の気持ちに嘘をつかず、正直に。それが、こんなときになるとは思わなかったけれど。
「……バイバイ」
過去の記憶と別れを告げるように、えみは兼さんを背に歩き出す。過去の記憶と決別するように、振り向かず。
(これでいい……これで、いいんだ)
——突然、何かに、まるで引き止められるように腕を強く引かれる。思うが早いか、その愛おしくたくましい腕のなかに包まれた。過去の記憶が、すがるように、消させないように、強く。背中に感じる温もり。次第に重なっていくふたつの心音。万華鏡のようなキラキラした思い出が、よみがえる。
「……兼、さん?」ぽつりと、えみは大切な人の名を呼ぶ。
「——やっと、言ったな」
耳元で告げられる、答え。えみは直感した。全身を巡る血液が震えるのを感じる。早くなる、鼓動。それでも、周りの時間が、一瞬、止まったかのようで。——いや、あの頃に戻ったかのようで。答え合わせをするように兼さんと顔を合わせる。
「思い……だして……?」
「オレがかっこ良くて強いって事、認めるの遅えんだよ。まあ、嫉妬しちまうくらいかっこ良いって事だな」
「うわ、ウザ」息をするようにナチュラルに吐き捨ててしまった。嬉しい、本当に嬉しいんだけど、口が我慢できずに動いてしまった。「てめえ、ここはもうちょっと感動するところだろ」なんて興奮しながら兼さんは真っ当な意見を言う。これはあれだ、条件反射だ。テレ隠しともいう。感動的な対面はどこへやら、ともあれ、最後の最後で兼さんがえみを思い出した事実は確かに存在する。奇跡とはきっとこの事を言うのだろう。
最後に兼さんが思い出してくれただけでもいい。兼さんの手を離れて去ろうとすると「どこに行くんだ」とえみの腕をしっかりと掴んで離さない。そうだ、兼さんは忘れていたえみの記憶を思い出したけど、えみが抱えている諸々の事情は知らないんだ。「そういえば」と口火を切るなり兼さんは突然えみが消えたと思ったら現れた事や、なぜえみに関する記憶が抜けていたのかなど、息つくまもなく追及してきた。ちょうど良い、兼さんの疑問を一気に解決してあげるべく、えみが本丸に戻りたくても戻れない事情を冥土の土産の如く端的に説明する。
「はあ⁉︎」と非常に苛立った声色が夕闇の乾いた空に響き渡る。木にとまっていた鳥達が一斉に飛び立つ。
「……んだ、そのめちゃくちゃな事案は。お前、それを馬鹿正直に呑んだのか」
「だって、もうそれしか方法がなくて……えみだって必死だったんだよっ」
馬鹿とは失礼な。このさい気にしないが。兼さんは、うーんと訝しげに唸ったあと「とにかく、戻るぞ」と現実に立ち返ってえみの腕を引く。
「話聞いてた⁉︎ 戻ってもえみの居場所はないんだって!」
「仮にそれが事実だとして、大人しく身を引くわけにもいかねえだろ。……お前はそれでもいいのか」
最後のほうが心なしか寂しい感じに聞こえて。
「いいわけ、ない……けど、もう無理だよ。絶対戻りっこないっ」じたばたと兼さんに掴まれた腕を振り払おうと抵抗するも、しっかりと掴んで離そうとしない。
「普段諦めの悪い奴がこういうときばっか泣き言言ってんじゃねえよ。最後の最後までやってみなきゃわかんねえだろ」
「色々やったんだよ。でも無理だったんだよ。兼さんが思い出してくれただけでもいいから……」
「オレが癪なんだよ。負け戦だとわかってようが戦う事に意味がある。それに——」
それに? 言葉の先を期待してしまって兼さんの次の言葉に緊張しながら耳を澄ませる。
「オレだけお前の事を覚えてるのも居心地が悪りぃしな」オイ、と突っ込みたくなった。少しでも淡い期待をしたえみがバカだった。いや、そもそも兼さんにそういう甘酸っぱい展開を期待をするのが間違いというものだ。よく知っているくせに。
リードを引っ張る飼い主のように兼さんが無理矢理にでも引きずっていくように、えみの手を引きながら駆け足で本丸までUターンする。えみは散歩を嫌がる犬の如く抵抗するもズルズルと引きずられていく。そのとき、本丸まで向かうさいに転んでひねった左足から鈍痛が走る。急に声を上げたえみに、立ち止まり振り返って様子をうかがってくる兼さんに、左足をひねってしまい痛みであまり動けない事を伝えると、渋い顔をしてえみに視線を投げた。と思いきや、兼さんの大きな影が覆いかぶさってえみの重力が持ち上がり、目線が高くなる。——まるで米俵でも担ぐように兼さんの肩に乗せられた。
「ちょっ、もうちょっとマシな運びかたあるだろ! えみは米か!」
「ああ? お姫様抱っこっていうガラでもねえだろうが。黙ってねえと舌噛むぞ」
「失礼な奴だな!」
久しぶりに聞いた兼さんのズケズケした物言いに癇癪を起こしながらも、またこうして気兼ねなくなじりあえるのが凄く、凄く嬉しい。えみが講義する前に兼さんは本丸に向けて足を駆け出す。駆ける振動で本当に舌を噛みそうなので悔しいが兼さんの言うとおり黙って口を閉じる。
再び本丸に舞い戻ってくる。あれだけの告白をしておいて、数分でリターンしてくるなんて恥ずかしい。兼さんはえみの面目をまるで考えてはいないんだろうな。えみの告白が終わったあとも、まだ広場に残っていた男士達が兼さんを見るなり驚きの表情を見せる。なぜか兼さんが謎の告白をしていたペーペーの審神者を肩に担いでいるのだから無理もないだろう。兼さんに米俵のように肩に担がれた姿で注目を浴びるのは恥ずかしい。背中を壁の如くドンドンと両拳を撃ちつけて、足をバタバタと忙しなく動かして早く降ろせと幼児みたいに直接行動で表す。「暴れんな!」と兼さんはむかっ腹で声を荒らげながらも、すっと丁重にえみを地上に降ろしてから、怪訝な面持ちで自分に注目が集まっている男士達を見据えると「オメーら、いつまで夢を見てるつもりだ。オレたちの主は、本当の主は、コイツだ」
えみを担いできただけでも驚きで顔を歪める男士達の顔つきは、はあ? と頭上にハテナを浮かべて呆れるあまり、顔を曇らせた。まあ、そうなるだろう。えみの青臭い告白に感化されたか? と疑いたくもなるだろう。彼らの不審感を抱く視線をものともしないで、兼さんは男らしく堂々たる態度で続ける。
「頑固で生意気で臭い事ばかり抜かしやがるケツの青いガキがオレ達の主だなんて、目を背けたくなる気持ちはわかるが、だが紛れもねえ、オレ達の主は、コイツなんだよ」
いや、いやいや、ちょっと待てと。すかさずえみは口をはさむ。
「あんたバカにしてんのかっ。悪口しか出てこないじゃねーか」
「おっと、そう聞こえたなら悪りぃ。だが事実だ」
「言って良い事と悪い事があんだろ」
「事実なんだから今のは前者だろ」
「お前ほんっと性格悪りーな! カッコイイのは見た目だけかよっ」
「見た目のかっこ良さは、認めるんだな?」
ふふん、と、えみが元の世界へ飛ばされて以来、もはやなぜだか感動を覚えてしまうくらいの、兼さんのキメ顔——通称ドヤ顔——が炸裂する。ああ、やっぱり腹が立つ。このムシャクシャする感情でさえ、懐かしくて、感傷に浸る……時間はそんなにないし、やはり単純にムカついたので、時間がないのはわかっているが、言い返さなくては気が済まない。
「前の兼さんのほうが中身もカッコ良かったけどな」
「はあ!? どういう事だ、それ」
「そのまんまの意味だけど。記憶がない兼さんのほうが優しかったし超紳士的でカッコ良かったわ」
「おまっ……同じオレだろうが!」
「ねー、どうしてこうも違うんだろうねー」えみは、可哀想な子を見るような憐れむ目で兼さんを眺める。
「そんな目で見るなっ、腹が立つ。優しくされたかったらなあ、身の振りかたを見直してみる事だな」
「それってえみがガサツだって言いてーのか」
「自覚してるたあ立派じゃねえか、感心感心」
記憶をなくして離ればなれになっていたブランクなど感じないくらいに、いとも簡単に兼さんとのマウス・ファイトが開幕する。こいつだけはなんとかして言い負かさないと、審神者に戻れたとしても気持ち良くない。言い負かされるくらいなら、いっその事、このまま戦って消えたほうが、
「本当にふたりって、アツアツだよねえ」
ふと、何気なく呟いたランの言葉が兼さんとえみの間に割って入ってくる。えみと兼さんは張り合っていた口を止めて、ランに顔を向けた。周りの視線を一度に浴びるランは、言ってから、ハッと自分が放った言葉の意味に、指先で唇に触れるように手を当てて驚いた。
「ボク……今、なんて?」
「思い出せ、乱藤四郎。お前はこいつの傍に一番いただろう。こいつのワガママもお前が一番聞いていたはずだ」
「ちょ、ランにそんなにワガママ言った覚えはない。むしろワガママ聞いてたのはえみのほうだよ」
「ワガママ以外の口も利けるのか」
んだとこのやろう! と熱がこもって攻撃態勢に入る。チャンスを横目にぎゃあぎゃあと兼さんとみにくくなじりあい、その様子をただぽかんと眺めている蚊帳の外の男士達——「ああっ!」とランが空に響かせんばかりの驚いた声を唐突に上げたと思ったら「あーっ!」と共鳴するように立て続けにその場にいた男士達の声も一斉に轟いた。
「——あるじ……あるじ……! なんでボク、忘れて……」
「ラン……! 思い出したのか? わかるか? えみの事……」
ランは、深く、ゆっくりと頷いて愛おしい眼差しを向けた。
「わかるよ。思い出したよ。ボクの可愛いあるじさん」
兼さんとのやりとりを見ていたら思い出したのだという。怪我の功名だろうか。えみとしてはあまり納得がいかないような……。思い出すなら、もっとこう、ロマンチックな感じが良かったというのはわがままだろうか。現実はそう甘くはないもんだな。ともあれ、男士達がなぜえみの事を忘れてしまっていたのか、詳しく説明している時間はないので、騒然としている男士達に、手短に兼さんが要点だけを説明する。
「ええー!」と三度目の驚きの声が宵闇にぼうっと光る茜色の木の葉を震わせる。木にとまっていたカラスが一斉に飛び立つ。二度もごめん、鳥達。兼さんは男士達に、この場にいない他の男士達の居場所を問う。奇跡的に全員、本丸内にいてそれぞれ当番についているみたいだ。よし、と兼さんは全員この場に集めろ、と支持を出した。それぞれが兼さんの支持に二つ返事で応えて、散り散りに散っていった。みんながえみのために動いてくれるなんて。まだ、みんなの主でいてもいいという事だろうか。また、みんなと一緒にいてもいいという事だろうか。嬉しい。たとえ全員が思い出せなくて、元に戻れなかったとしても、悔いはないだろう。すぐに散っていった男士達が他の男士達を連れてきた。
「思い出して、みんな。ボク達の前のあるじ……ううん、今のあるじは、この娘だよ」
何を言っているんだ、こいつは、といった渋い顔で連れてこられた男士達は、えみ達を見る。みんなが説得しようとも、不審感を抱いて耳を傾けてくれない。当然だ。説得している彼らも、つい数分前までは、えみの事など他人も同然だったのだから。えみの気か何かに当てられたと思うしかない。
「ほら、よく思い出してみてよ。あるじと兼さんが毎日イチャイチャしてた事」イチャイチャしてねえ、と条件反射のように、ランの語弊がある言いかたに意識しなくても、えみと兼さんの声がぴたりと重なる。ほらあ、と煽るように無邪気にランは指摘した。これ以上、感情に任せて反論したら煽られに煽られてずぶずぶとランの策略にはまってしまうだろうと考えて、くっ、と苦虫を噛み潰すような思いで口をつぐんだ。
「大体、お前からつっかかってくるんじゃねーか。そんなにオレに構ってほしいのか」
「構ってほしいのはそっちだろ」とすかさず突っ込んだ。どうしてこう、少しくらい黙っている事ができないのか。短気な事はわかっているが、今は時と場合を考えてほしい。そういうえみも、なんで今、兼さんと言い争っているのか、その様子を男士達に見守られているのかわからなくなってきているが。たしか、えみは、えみの事を思い出した兼さんに引きずられて、男士達の記憶を呼び覚ますよう、こうして本丸にいるわけだ。そうだ、記憶を呼び覚まさなければいけない。みにくい言い争いなどしている時間は、えみには一分一秒もないのだ。なのに、この兼定ときたら。
また、言い争いに発展しそうになった途端に、あっ、と周りを囲んでいる男士達の中から声が上がる。もしや、と僅かに疑心を抱いて、声が上がった方向におもむろに目をやると、声の主だと思われる、切れ長な目をかすかに見開いて唖然とする男士——清光、キヨとばっちり目が合った。お互いに見合ったまま、何も言葉が出ないまま一瞬の静寂が訪れる。
「……まったく、痴話喧嘩ならよそでやってよねー」
「痴話喧嘩じゃねえ!」と兼さんとえみは、悔しい事にぴったりと口を揃える。呆れたような、どこか慈愛に満ちたような、苦笑いを浮かべて見守るキヨ。いつまでこのパターンが続くのだろう。えみとしては複雑な気持ちだ。だが、このさい、なりふりかまっていられない。ほぼ全員が思い出しただろうか。無理だと思っていた。希望が見えてきたかもしれない。隣にいる、えみの希望の横顔を仰ぐ。不安など感じさせない、未来を見据えた凛々しい顔つきだった。彼になら、できるかもしれない。彼となら、できる。希望を抱いた刹那、
「茶番は済んだか?」
平穏な雰囲気を断絶するように、冷徹な声が響く。
「長谷部……」そう呟いた、兼さんが長谷部さんを見る目が険しいものになった。ただ一人、長谷部さんだけは揺らがない。えみが主だった頃も、男士達の中の誰よりも忠義心が高かった。それが今、こんな形で障害になるなんて。周りを囲む男士達の温和な空気と違った、険悪でピリピリとした空気が長谷部さんと兼さんの間に流れる。
「いい加減、持ち場に戻れ。娘も、もう充分満足しただろう。いい夢は見れたか?」
「てめえこそいつまで夢を見てるつもりだ。とっとと目を覚ませ。てめえが一番、仕えていた奴だろうが」
「はっ、戯言を。俺の一番は、今の主だ。そんな娘など知らん」
鉄のように冷たく、揺るぎもしない。長谷部さんの忠誠心の高さに怯んでしまうが、以前はその忠誠心の高さに助けられていたと思うと、寂しさと同時に誇らしさを感じた。えみと兼さんの茶番も通じないとなると、ここまでなのか……。
(あとちょっと、だったのに……)
兼さんが口火を切る。
「お前、確か言ってたよな。一口も漏れる事なく、全員の記憶を呼び覚ます事ができれば審神者に戻れるって」
「う、うん」と答えると兼さんは、腰に据えてある刀の鞘を握り、柄に手をかけてゆっくりとした動きで鞘から刀身を引き抜いて「——なら、あいつを折れば、条件は整うはずだよな?」
「なっ……兼さん!?」
兼さんの思いもよらない発言に、えみはたまらず声を荒らげる。えみが制止の声をかける前に、抜身の刀を構えた。息を吸い、終わるのと同時に、兼さんは地面を蹴りだして長谷部さんとの間合いを瞬く間に詰め、構えた刀を振り下げる。瞬間、鈍色に閃いた抜身の柄で長谷部さんは受け止めた。
兼さんと長谷部さんが争っている。えみの生存を懸けて。えみが審神者に、みんなの主に戻るために、誰かが欠けなきゃいけないなんて、そんなの間違っている。止めなくては。凄まじい真剣での攻防が繰り広げられるなかに飛び込もうとすると、「危ない!」とキヨが腕を伸ばして、えみの行く手を阻んだ。男士達が近づこうにしても、命のやりとりの気迫に気圧されて、入り込む隙がなかった。
「主が変わってもしぶてえ奴だな。とっとと折れやがれ!」
兼さんが一閃するも、長谷部さんは受け止めて、薙ぎ払う。
「和泉守、貴様は主に謀反を働いたと見て、俺がこれより手討ちにしてやる」
「それはこっちの台詞だ。可愛げがねえ、融通も利かねえ、口から出るのは生意気な戯言ばかり、そんな手ばっかり焼かせる乳くせえガキを、それでもお前は慕っていただろ。お前の狸娘への忠義心は、所詮その程度かよ。笑っちまうねえ」
——ん? ちょっと待てよ。どう聞いてもえみへの悪態をついているだけじゃないか。こんなときにまでえみへの悪口が絶えないなんて、この兼定は。「おおい!」と怒りを込めて吼える。兼さんへの心配など霧のように消え失せて、むしろ今は兼さんをぶった斬ってくれないかと、長谷部さんを応援したくなってきた。一方、長谷部さんは怪訝な面持ちを崩さないまま、少しのあいだ黙りこくって、刀の柄を握り直す。
「それではまるで、その娘を乏しているように聞こえるが? 貴様はその娘を庇いたいのか。貶めたいのか」
「んなこたどっちでもいい。てめえがあのケツの青い狸娘を思い出せねえのなら、折るだけだ」
クッ、と苦虫を噛み潰したように、怪訝な面持ちにさらに眉間にしわが寄り、長谷部さんは沸々と怒りを込み上がらせる。長谷部さんは地面を蹴りだすと、息もつかぬ素早さで兼さんとの間合いに入り込み、空気を斬り裂きながら喉元に向かって鉄の刃を振り上げた。ガキンッ! と鋭く冷たい、無機物がぶつかりあう音が響き、長谷部さんの刃は兼さんの刀身によって受け止められる。どっちも引かない乱れあう刃の攻防。止めなきゃいけないのにえみは黙って見ている事しかできなかった。
「もう、やめて……やめてよ! 二人が争ってるところなんて見たくない! 長谷部さんを折ってえみが戻れたとしても、嬉しくない! 長谷部さんを折らなきゃいけないくらいならえみは戻りたくない!」
感情のままに吼えるけど、「うるせえ、黙ってろ!」と兼さんに一喝される。二人の力は互角……いや、若干兼さんのほうが上回っているように見えた。長谷部さんも決して弱くはない。けど兼さんの鬼気迫る気迫に圧されてしまっている感じだ。今は主じゃないけど、前の主はえみだ。止めなければいけない。
(どうすれば……どうすれば……このままじゃ長谷部さんが……ううん、最悪、兼さんも……!)
それだけは絶対に避けなくてはいけない。二人の息も上がってきている。そろそろ決着をつける頃だろう。解決策が浮かばずいたずらのように時間はただすぎていく。
「おい! しょげてんじゃねえぞ! 誰のために命張ってやってると思ってんだ。主なら主らしく偉そうにふんぞりかえってろ! それともその生意気な態度はお飾りか」
兼さんの叱咤激励が飛んでくる。言い返したいけれど言い返せない。兼さんがえみのために命を張ってくれているのは事実だからだ。何も言えない。兼さんが飛ばしてくる喝に唇を噛む事しかできなかった。——そのとき、秒針が動いた。
「——っき、さまは、本当に口が減らないな! 主の手下としての意志が足りていない! 主に対してそのような罵詈雑言など、万死に値する——」ぞ……、と、小さくなった語尾を呟いた長谷部さんの目が、冷たい闘志を燃やしていた色から徐々に霧が晴れていくような色に変わっていって、鋭く切れ長だった目をおもむろに丸く開いていく。絵に描いたような仰天顔で、何か言いたげに口を大きく開かせるが、何も出てこない。えみは、息を呑んだ。ようやく、長谷部さんが弱々しく声を絞りだす。
「俺の……主は…………そうだ……。主、あるじ……俺は、主になんて無礼な事をっ……」
心が、震える。胸が、高鳴る。「長谷部さん……?」と呼びかけてみると、門前払いをした冷めた目つきとは打って変わって、不安げに、だけどその藤色の瞳にしっかりとえみを映した。
クッ、と長谷部さんは唇を噛み締めるや否や、その場にドカッと腰を下ろして、急に前をはだけさせたと思ったら、露出した腹筋に圧しただけで斬れるほどの斬れ味を持った、へし切長谷部の刃を宛てがう。ワッ、と長谷部さんが突然行う行為に、焦って声を上げる。
「長谷部さん!? 何してるんですか!」
「主にした非礼の数々……腹を斬って詫びるしか……!」
「やめてください!」「止めないでください!」ともろもろ応酬が繰り広げられて、さんざん押し問答が続いた結果、なんだかんだで最終的には切り札の『主命』を使ってようやく長谷部さんを落ち着けさせる事ができた。さっきまでの殺気と凄みはどこへいったのやら、今の長谷部さんはきのこが生えそうなくらい、じめじめとしてどんよりと落ち込んでいる。あんなに落ち込んでいる長谷部さんも初めて見た。他の男士がのんきに励ましの言葉をかける。ちょっと痛々しいくらいだが、それほどまでえみを慕ってくれているんだなあ、と思うとちょっと嬉しい。
「もしかして、こうなる事を読んで……?」
隣の兼さんに問いかけると、「ん」と目線だけをこちらにやり、
「当然だろ。オレを誰だと思っていやがる」
自信ありげに、ご立派に言ってのけた。うん、多分、結果的にこうなっただけで、始めから図って戦闘を仕掛けたわけじゃないな。本当に折ろうとしていたんだな。と、えみは思うのだが、真意は兼さんにしかわからない。ともあれ、これで、全員、記憶が戻った——
「約束の時間だ」
温和な空気を凍りつかせるような、初老の男の人の静かな声が解き放たれた。声の方を振り返ると、黒いスラックスと白いYシャツの上から縦線が走る鼠色の羽織を着た小太りな細い目をした男性——上司と、似たような格好をした中肉中背の青年が取り巻いていた。過去へと飛んだときに上司を取り巻いていた人達だ。
「あんたら……政府のもんか」
兼さんが、神妙な面持ちで言う。この本丸には、何も知らない一般の人が立ち寄らないように人避けの結界が張られているので、ここに来られる人といえば、関係者である政府の者か、この世とあの世の境が曖昧な子供か高い霊力を持った人間か……極稀にだが、子供が迷って来てしまうことがある。だから、記憶をなくしていた長谷部さんが、えみを初めて見たときにそう言ったのだ。厳格な雰囲気をまとう上司は、えみ達を一瞥して
「約束は覚えているな? 別れの挨拶は済ませたか」
「ま、待ってください! 全員の記憶を呼び覚ましました。えみは、審神者に戻れるはずですよね?」
えみが問い詰めようとすると、肩が制止を促されるように、ぐいと大きな手に引き止められた。兼さんの手だった。きょとんとした目で兼さんの横顔を見上げると、兼さんは視線をこちらに落とさず、けれど肩に手は置いたまま、上司達を真っ直ぐ見つめる。
「事情は、主から聞かせてもらった。そっちが納得できないってんならオレ達を折るなり溶かすなりすりゃあいい」
兼さんの強気な発言に口を出そうとしたが、続けて「オレ達は、この人間の娘の声に応えて顕現した。オレ達が忠誠を尽くすのは、主であるこの人間の娘だ」
この娘が、オレ達の主。今度は、最後まで、ともにあると。心が揺さぶられる。——えみも、兼さんの、兼さん達の、主でありたい。最後まで。上司は面白くないものを見るように、もともとの険しい面持ちが、さらに険しい顔つきになる。
「もし、開示されたとして、それをどうやって証明する」
「お待ちください、専務」
ただならない険悪なムードのなか一人、涼しい顔をしてA4サイズほどの端末を指で叩いていた取り巻きの青年が声を上げた。
「その刀剣男士の言う事は、間違いではないかと。刀剣男士と彼女のあいだに、強い縁が感じ取れます。それもひとつではなく、いくつも。恐らく、ここに顕現している刀剣男士すべての」
上司は専務と呼んだ青年の言葉に、険しい顔つきをほんの僅かに驚きの色に染めて、青年に事実確認をするために青年の端末を受け取り、目を通した。訝しげな表情を浮かべてしばらくのあいだ無言でいると、端末を青年に渡して「……確かに、その少女と刀剣男士とのあいだに強い繋がりが見て取れるようだ」言うなり、上司の険しかっただけの面持ちに、どこか何かを考えさせるような色を帯びて
「縁、か」
独り言のように、ここではない遠くを見つめるかのような目つきで呟いた。
縁。人と人との不思議な繋がり。何かと何かとの奇妙な繋がり。えみと男士達とのあいだに、強い繋がりを感じ取れると言った。繋がりの強さは、記憶の多さ。彼らは、えみと過ごした幾重もの記憶を大事に忘れないでいてくれているという事だろうか。
はあ、と仕方ないといった感じに上司が短く息を吐いた。
「……彼女の審神者復帰、及び前本丸への復職を認める」
審神者に復帰……前本丸への復職——という事は、「えみは、みんなの事を忘れなくていい……? 覚えていて、いられる?」
初めて審神者になって刀剣男士という不思議な存在と出逢った事も、始めは二人だけだった本丸に次々と仲間が増えて賑やかになっていった事も、彼らとの思い出を全部とっておける。
喜びを爆発させるのもつかのま、えみが正式に審神者に戻れるのは手続きが色々とかかるため、およそ一週間後だという。なんだかヌカ喜びだ。それでも、戻れたんだ。審神者に、兼さん達の主に、また。実感が湧かなくて信じられないが、やった……んだな。上司は相変わらず険しい面持ちのまま、それ以上、何も語らずに本丸をあとにした。
えみは、この場にいるみんなの顔を眺めた。なんだか妙に懐かしい気分だ。みんなと離ればなれになって数週間ほどだというのに。いや、こっちの世界では二年くらいか。付喪神である彼らにとって、二年はあっというまなのだろうか。それとも、やっぱり人間と同じように長いと感じたのだろうか。えみと同じように、長いと感じてくれたなら嬉しいな、なんて。
眺めるみんなの顔は、えみの思いとは裏腹に神妙な雰囲気を帯びていた。なんだかみんな、怒っている? 考えてもみれば、いきなり消息を絶った挙句、死んだと思っていた主が実は生きていて、いけしゃあしゃあと戻ってきたものだから、思うところがないわけがないだろう。冷静な頭になった今、なぜこんな人間のガキを取り戻すのに躍起になっていたんだろう、などと思われているんじゃないか。色々と申し訳なく思えて、重圧に負けて頭を下げた。
「あの、ごめんっ……なさい。みんなに迷惑かけて。みんなの主だから、もっとちゃんとしっかりしないといけないのに」
沈黙が続く。どんな顔をしているのか、きっと呆れているだろう。顔を見るのが怖くて、頭を上げられずにいた。
「それで?」
開口一番、キヨのものと思わしき声がえみに投げられる。反射的に頭を上げようとしたが、ふと思い返して、途中で止まる。怒っている……ふうには、えみには感じられない気もするが、キヨの気持ちはキヨにしかわからない。えっと、と言葉を探して頭をぐるぐるとさせていると、間髪入れずに続けてキヨが「他にも言う事、あるでしょ」
その言葉を聞いて確信した。やっぱり怒っている。それもかなり、だ。これ以上、何を言えばいいのだろうか。いや、何を言っても「それで?」と冷たく返されるに決まっている。他のみんなに助けを求めたいがどのツラさげて、と突っぱねられるのがオチだろう。いや、でも長谷部さんだけなら今のえみの味方になってくれるだろう。待てよ、長谷部さんなら、えみの敵と見なしたなら殺してしまう恐れがある。考えがまとまらず堂々巡りに焦っていると、とうとうキヨから宣告が。
「——おかえり、主」
想像もしていなかった、優しい声色に、思わず頭を上げてキヨを、キヨ達を見る。みんなは、優しい顔をしていた。
「おかえりなさい、あるじ。もう、待ちくたびれちゃったよ」羽根のような軽い、愛らしい声色でランが言う。
「おかえり。待っちょったね」ニカッと、いつでも変わらない晴れた笑顔でよっちゃんが言う。
「おかえりなさい、主」いつのまにか身だしなみを整えていつもの凛とした調子に戻った長谷部さんが言う。
「ったく、遅えんだよお前は」こんなときでもいつもの調子の兼さん。こういうときくらい、素直におかえりと言えないものなのか。と、思っていたら、よっちゃんが「テレ隠しじゃ」と代弁してくれていた。兼さんはよっちゃんに食ってかかっている。まあ、でもここで妙に優しくても調子が狂ってしまう。ちょっと鼻につくくらいで、丁度いい。それが、兼さんらしい。
目頭が熱くなり、湧き上がる熱い滴が溢れそうなのを必死にこらえて、息を目一杯吸い込むと、いつもどおりに、
「——ただいまっ」
目指す物見台まで振り返らずに、真っ直ぐ前だけを見てひたすらに駆け抜ける。そして、物見台の頂上まで一気に登る。息つくまもなく切れぎれの呼吸に、すうー、と肺にいっぱい空気を取り込んで——
「みんなあああ! えみの話を聞けえええ!!」
時はさかのぼり——臙脂色に映える浅葱色の羽織をひるがえした長髪の男性——男士の姿を見て、えみはあの人の名前をこぼした。
「兼、さん」ぴくり、と兼さんの片眉が動く。しまった、とえみは思った。えみに関する記憶が抜け落ちてるのに馴れ馴れしく兼さんと呼んだら不審感を持たれてしまう。ドキドキとうろたえていたら、兼さんは「あんた、このあいだの……。やっぱりあんたも審神者だったのか」
心配とは裏腹に落ち着いた態度で言ってきた。若干、ほっとする。
「えっと……まだ見習いのようなもの、なんだけど……」
今はえみと兼さんは初対面という事に気をつけて馴れ馴れしくならないように接するが妙によそよそしい態度になってしまう。あの兼さん相手にかしこまるというのもなんだかおかしな話だ。兼さんはまったく気にしていない——記憶がないので当然だが——様子でえみとの会話を続ける。
「妙に慣れてる嬢ちゃんだと思ったんだが……審神者なら納得だ」
そう言い、兼さんはじっとこちらに視線を固定させる。無駄に整った顔でずっと黙って見てくるから気が落ち着かない。何、ですか? とタメ語と敬語が混ざった変な口調で問いかけると、いや、と言葉を濁す。変な感じだ。
「……こんな子供が審神者だなんておかしいですか?」
どこからそんな情が湧いたのか、相手が兼さんだからなのか、卑屈気味に切り出してしまった。だが、えみの予想とは反して「そうじゃねえよ。子供だろうが実力が備わってるからあんたは審神者に選ばれたんだろう。立派なもんだと思ってねえ」
これは……兼さんじゃない。昔の兼さんならたとえそんな事を思っていたとしても絶対に言わない……だろう。多分。まず褒めない。認めない。皮肉しか言わない。本当にえみが主だった兼さんなのか……? 兼さんの思いがけなかった言葉によっぽど変な顔をしてしまっていたのか、なんだよ……といった顔でえみを見る兼さんは眉をしかめてややたじろぐ。本当に、変な感じだ。初めて会ったときの記憶がよみがえる。ここまで露骨に人を褒めたりはしなかったが、あのときの兼さんは今のように凛々しさの中に温和な情を秘めたカッコいいお兄さん、という感想だけだった。いつのまにかお互いの揚げ足を取るくらい皮肉を言い合える仲になって、いつのまにかとなりにいて、他人にも自分にも厳しい兼さんが土方さんを想って涙を流した事も知っているのに——今はどれだけ手を伸ばしても届かない距離にいる。
「立派じゃない、よ」
ぽつり、と独り言のようにこぼす。湧き水のように次から次に言葉があふれでる。
「自分ができる事なんてほんの少ししかなくて、誰かの力を借りないと何もできない。そのくせに誰かの力になりたくて、みんなに迷惑ばっかりかけてる。……きっと、こんな奴が審神者だなんて迷惑に思われてる」
愚痴るつもりはなかったのだが、兼さんの調子に釣られてなのと、寂しさから愚痴のようにこぼれてしまった。いつもの、えみが知ってる偉そうでふてぶてしい兼さん相手なら弱音を吐く事など天地がひっくり返ってもありえないのだが、えみを忘れている——えみを知らない兼さんだから無駄に張っていた虚勢も崩れて柔らかくなる。兼さんには、どう映っているだろう。こんならしくないえみが。
「……そいつらに言われたのか」
「え? ううん……でも、多分きっとそう思ってる」
「それはあんたの勝手な思い込みだろ。そいつらはあんたに嫌な顔をしてたのか」
兼さんの言葉に、審神者になった日から今までの彼らとの日々を振り返る。えみの記憶に残るみんなは、呆れながらも笑っていた。
「……ううん。でも、みんなが優しいだけだよ」
「それは、あんたがみんなに優しくしてるから、じゃねえか?」
え? とえみは黒目を僅かに小さくして兼さんの顔を見返す。
「優しくされて嫌に思う奴なんてそうそういないと思うがねえ。あんたがそいつらの事を大事にしてるから、そいつらもきっとあんたの事を大事に想ってるんだろう」兼さんは楽しげに遊んではしゃいでいる短刀の子達を眺めた。
「あんたはそいつらの主だ。主が信用しねえでどうする。あんたは、もっと自信を持っていいと思うぜ。あんたの想いは、そいつらに伝わってる。きっとな」
兼さんの言葉、ひとつひとつが乾いた大地に降り注ぐ恵みの雨のように、えみの寂しい心に染みわたっていく。どこまでも、深く。潤いが満ちていく。兼さんに褒められるのが涙が出そうなくらい嬉しいなんて、思いがけず溢れそうな想いの雫を兼さんの前でこぼすわけにはいかないと、ぐっとこらえる。ざわついた気持ちを整理するために一呼吸置いてから、えみは続けた。
「優しいね、兼さ……和泉守さんは」
そう言われると思ってなかったのかえみを見る兼さんの黒目が僅かに小さくなったが、腕を胸の前で組んで「まあかっこ良くて強ーい最近流行りの刀だからな」
ちょっと得意気に、鼻を高くして言う。その兼さんが、えみが主だった頃の兼さんと雰囲気が一緒で——塞き止めていた感情のダムが溢れ出そうになる。慌てて抑え切れない想いをひた隠すように顔を伏せる。
「なんで、そんなに優しいのっ……」
声が震えそうなのを懸命にこらえて、これ以上優しくしないで、と意を込めて兼さんに言葉を投げた。
「……なんでかねえ。あんたと話してるとついべらべら喋っちまう。初対面なのになあ」
らしくない、というように頭をぽりぽりと掻く仕草をする。えみは、ハッとした。まだえみの記憶が残っている……だとするなら、伝えるしかない。それは、えみが兼さんの主だから——咄嗟にそう言おうと口を開くが、兼さーん、と堀川くんの声が本丸内の遠くから投げかけられる。間が悪い。まるで神様に意地悪されているみたいだ。たとえ神様の意地悪でなくとも何か別のもののせいにしてしまいそうになるくらい、タイミングが悪くてやきもきした。ああ、と堀川くんに届くように兼さんは大きな声で返事をしてえみのあとを立ち去ろうとする。
「待って」図らずも語気を強めて兼さんを引き止めようとした。兼さんは踵を返して、えみの呼び止める声に立ち止まってくれた。
——えみはこの本丸の審神者なんだよ。兼さんの主は、えみだよ。
……心のなかで訴えるのに、なぜだか言葉に出せなくて。喉の奥まで出かかっているのに、何かが詰まって声にならない。わからない。言ったところで、あんたおかしな奴だな、と嘲笑われて軽くあしらわれるからだろうか、今の兼さんを形作っているものをえみの手で壊したくないからなのか。少なくとも今こうしてここに顕現しているという事はえみの死を受け入れてなおも遡行軍と戦う道を選んだから。悔しいが兼さんらしい。何も言えずに黙りこくったままでいると不思議そうな目で兼さんはえみの返答を待つ。いったい何を言うのが正しいんだろう。そのうち堀川くんが兼さんの元へやってきて、主から遠征の要請だと伝えると二つ返事で兼さんは堀川くんと一緒に任務へと向かっていった。「またな」と兼さんが一言残して。
またな——また会ってもいい、という意味合いだろうか。兼さんにとったら本当に何気ない、他愛もない一言だろうがその言葉に心が弾んだ。けれど、今の自分が置かれている状況を思い出して、一筋の光が射したかと思えばすぐに暗雲がかかってしまった。その『またな』は、きっと、もうない。
事態は好転しないまま、残り、一日。この日を終えればえみは審神者に戻る事ができる——または普通の平凡な学生に戻る事が……。えみとしては、まだ普通の学生に戻りたくない。もう少しだけ彼らと時間をともにしたい。こんな事を記憶がなくなる前の兼さんに言ったら、あほか、と呆れて言われてしまうんだろうけど。今はそんな事を言ってくれる兼さんはいない。えみ自身の手で、自分の居場所は自分で取り戻さなくてはいけない。もしもえみが審神者に、あの本丸に戻る事ができたなら今、彼らの主である審神者の人はどうなるのだろうと気がかりな事もあるが今はよその心配をしている場合ではない。……でも、今日一日で彼ら全員の記憶を呼び覚ます事なんてできないだろうと思っている。
六日間、できる限りで手を尽くしてきたが今日まで一人もえみの事を思い出す人はいなかった。たった一日で叶うとするなら、それこそまさに奇跡だ。……それでも、やるしかないんだ。無駄なあがきだとしてもえみに残された道はもうないのだから。記憶を呼び覚ませるかわからないけど、今ある記憶が消えないうちにせめて彼らに気持ちを伝えたい。届かなくてもいい。今だから伝えたい、伝えなきゃいけない事がある。えみが死んだと聞かされても、なおも遡行軍と戦い続けると決めて前に進んでいった、彼らへの未練を断つためにも。
沸き立つ心のままに全身で風を切って一心不乱に彼らの本丸へと駆ける。宵闇がえみの背後から飲み込むかの如く迫ってきて茜色だった空を覆い尽くす。前進する事ばかりに気が取られてしまっていて、足下の地面のくぼみに気がつかずに足を取られてしまい派手に地面を転がった。痛い。全身が痛い。心も。挫けそうだ。別れの言葉を伝えるために走るなんて。いっそこのまますべてが夢で終わってしまえばいいのに。でも、出逢ってしまったから。この湧き上がってくる想いを伝えなくてはいけない。たとえ笑顔にならない結末だとしても。己を鼓舞して砂だらけになった身体を叩き起こす。再び駆け出そうとすると、ズキッとした鈍い痛みが左の足首から走った。転んだときに打ちどころが悪かったのだろう、左の足首が疼いて熱を帯び始める。左足の自由が利かない。こんなときにまで持ち前の不運が炸裂するなんて、本当に「ツイてないなあッ……」
石切丸さんに厄を落としてもらったほうがいいんじゃないか。そんな冗談が心に沸く。
ギリッと亀裂が入りそうなくらい、もどかしさと一緒に奥歯を噛み締める。それでも、痛みをこらえてもう一度走りだす。止まってはいられないから。一分一秒でも彼らのために時間を使いたいから。
篝火に淡く灯された正門が見えてくる。一気にえみは残っている体力を振り絞って本丸まで一直線に駆けていく。正門をくぐり抜けて、中庭のほうまで進むと、一旦足を止めた。大きく肩で呼吸をしながら夜に包まれる本丸の風景に溶け込む男士達の姿を確認するように一望する。この場に居合わせた男士は両手で数えられる程度の人数。この本丸に全員いるかわからない。一人ひとりに言葉を伝えたいが、きっとまにあわない。突然、現れたえみに驚く男士達の反応をよそにえみは考える。
さあ、どうする。どうやってみんなに気持ちを伝える。ふと、視界に〝それ〟が映るともう一度確かめるように目線をその建物に合わせた。——物見台。本丸の敷地内を一度に見渡す事ができる高さのある建物。これだ。物見台の頂上まで登って声を張り上げれば、きっとみんなに声が届く。一考したあと、男士達が妙にざわついている様子から見にきたと思われる、激しい剣幕の長谷部さんが。
「お前っ、主の許可なく勝手に本丸に入り込んで! 今すぐ出て行ってもらおうか!」
まずい。今、長谷部さんに捕まるわけにはいかない。今いる場所から物見台までは数十mある。長谷部さんとの距離も物見台までの距離と同じくらい。男士達の中で短刀の子達を除けば単独トップの足の速さの長谷部さんと渡り合おうものならオートバイでも持ってこないと話にならない。普段から運動といえば体育だけの、学業と審神者の事務業しかこなしていないえみと長谷部さんではうさぎと亀どころかチーターとナマケモノくらいの差がある。それでも駆けなければいけない。これが最後だから。
立ち塞がる男士の波をかいくぐり、物見台を駆け登って、切れぎれの息を整えるまもなく、すう、と肺いっぱいに空気を送り込んで、叫ぶ。
「みんなあああ! えみの話を聞けえええ!!」
はじめは自分に審神者が務まるのか不安でしょうがなかった。審神者、なんて言葉も聞いた事がなかったし、何をするのかわからなくって、怖くって、正直、審神者になったのもなりゆきだった。
心からなりたかった、って言われればそうじゃない。生きるために必要に迫られたからなっただけだった。右も左もわからない状態で、とにかく孤独で怖かった。けれどよっちゃんに出逢って、そこからみんなと出逢っていって、いつのまにかたくさんの人達に囲まれていた。みんなはとても優しくしてくれた。嬉しかった。
でも、えみが主だからみんなが優しくしてくれるんじゃないかと心のどこかで思っていた。今でも少し思っている。他人の気持ちなんて結局言葉にしないとわからないから、今えみが思っている事を伝えたい。
えみは優しいみんなが大好きだった。たとえ、えみが主だったからだとしてもえみにとってはみんなの優しさに何度も救われたよ。優しくしてくれてありがとう。
みんなの笑った顔も大好きだった。みんなが笑うと、悲しい事があってもえみも笑顔になれたよ。元気をくれてありがとう。
正直、審神者に向いてないなって思うときがいつもあった。審神者を辞めたいって思った事も何度も。えみの力じゃみんなを導けないから。だからえみ以外の主についてくれてホッとしてる。えみよりきっとずっとみんなを正しい方向へ導いてくれるから。
何をやってもだめだめで、みんなに心配かけたり、怒らせたり、それでも、こんなえみを支えてくれてありがとう。主にしてくれてありがとう。
審神者になってから、いーっぱい楽しい事が増えたよ。みんなが教えてくれたんだ。みんなと一緒だったから毎日が楽しかったよ。辞めたいなんて何度も思ったけど、今は心の底から、えみは審神者になって本当によかったって言えるよ。みんなと出逢えたから。みんなと出逢えた事は、えみにとって一生の宝物です。
みんなは主って慕ってくれるけど、えみはみんなの主だなんて思った事はない。大切な友達だと思っている。今までも、これからも。
もし次に会う事があったら、今度は主と刀としてじゃなくって友達として会いたい。そしたら今度は、いーっぱい遊ぼうね。主でも、刀でもなくて、友達として。
……ほんとは悔しい。こんな形でお別れするのは。けど、みんななら絶対大丈夫。えみがいなくても……えみはずっと、遠くからみんなを応援してるから。
えみはみんなの思い出があるから、寂しくないよ。
「どうか……歴史を、守って……——幸せに、なってください」
伝えたい気持ちは伝えた。全部。呼吸を整えて現実に返ると、降りてこい! と下から長谷部さんの大きな声が耳に響いた。えみは素直にゆっくりと物見台を降りていく。地面に足をつけて周りをゆっくりと眺めると、目の前には険しい顔をした長谷部さんを筆頭に、困惑している男士、驚いている男士、悲しそうな顔をしている男士——様々な面持ちの男士達が待ち構えていた。沈黙が流れる。えみのほうから沈黙を破る。
「お騒がせしてすみませんでした。もう、きませんので。……今までお世話になりました。皆さんの主に、よろしく伝えてください。……どうか、幸せに」
それだけを伝えて、えみは正門に向かって歩いた。正門をくぐり抜けもう一度、彼らのほうに振り返って深く、名残惜しみながら、お辞儀をする。早くこの場を立ち去らなくては。泣いてしまう。行くところなんて、もうどこにもないけれど。まるでえみが行く先かのように、真っ暗で何も見えない道に吸い込まれるようにあてもなくただ歩き続ける。彼らとの思い出をとどめておけるのも、あと少し。
思い返せば、本当に色々な事があった。審神者になった日が昨日の事のように感じる。彼らと過ごした約一年半の時間はとても濃厚で、毎日がお祭り状態で、上手くいかない事があって衝突したり避けられない悲劇に心を痛めたりした日もあったけれど……笑顔がたえなかった。励ましてくれたり、みんな優しかった。この記憶も忘れていって、今こうして苦しんでいる感情も忘れていくのだろう。やるせない。居場所もないのなら、いっそ、彼らの記憶が消える前に——
「待て!」
静寂の林道に耳に馴染んだ男の人の声が反響する。聞こえたのは、背後から。追ってくるはずがないと思っていた——えみの記憶がないうえに、今のあの人とは、なんの関係も持っていないから。高揚から震える拳を硬く握り締めて、息が止まるほど恐る恐る背後を振り返る。淡く浮かび上がる長身の輪郭。膝下まである漆黒の長髪が特徴的な、臙脂色の着物を身につけた——
「兼、さん。なんで……」
兼さんは一息ついて「——一目、見たときから感じていた。あんたに対する妙な違和感を。気のせいかと思っていたが……演説を聞いて確信に変わった。あんたを見てると頭んなかが霧がかかったようにおぼろげになりやがる。あんたは……お前はいったい、誰なんだ」
狼狽しながら告白する。——えみが誰かって? ……そんなの、決まってる。
「……えみだよ」
「あ?」
えみは、ずっとずっと——きっと初めて出会ったときから——心に秘めていた淡い想いを、解き放つ。
「——かっこ良くて強ーい、兼さんの事が大好きな、えみだよ」
もう、想いが届く事はないだろうけど。それでも、最後だからえみは伝えたかった。自分の気持ちに嘘をつかず、正直に。それが、こんなときになるとは思わなかったけれど。
「……バイバイ」
過去の記憶と別れを告げるように、えみは兼さんを背に歩き出す。過去の記憶と決別するように、振り向かず。
(これでいい……これで、いいんだ)
——突然、何かに、まるで引き止められるように腕を強く引かれる。思うが早いか、その愛おしくたくましい腕のなかに包まれた。過去の記憶が、すがるように、消させないように、強く。背中に感じる温もり。次第に重なっていくふたつの心音。万華鏡のようなキラキラした思い出が、よみがえる。
「……兼、さん?」ぽつりと、えみは大切な人の名を呼ぶ。
「——やっと、言ったな」
耳元で告げられる、答え。えみは直感した。全身を巡る血液が震えるのを感じる。早くなる、鼓動。それでも、周りの時間が、一瞬、止まったかのようで。——いや、あの頃に戻ったかのようで。答え合わせをするように兼さんと顔を合わせる。
「思い……だして……?」
「オレがかっこ良くて強いって事、認めるの遅えんだよ。まあ、嫉妬しちまうくらいかっこ良いって事だな」
「うわ、ウザ」息をするようにナチュラルに吐き捨ててしまった。嬉しい、本当に嬉しいんだけど、口が我慢できずに動いてしまった。「てめえ、ここはもうちょっと感動するところだろ」なんて興奮しながら兼さんは真っ当な意見を言う。これはあれだ、条件反射だ。テレ隠しともいう。感動的な対面はどこへやら、ともあれ、最後の最後で兼さんがえみを思い出した事実は確かに存在する。奇跡とはきっとこの事を言うのだろう。
最後に兼さんが思い出してくれただけでもいい。兼さんの手を離れて去ろうとすると「どこに行くんだ」とえみの腕をしっかりと掴んで離さない。そうだ、兼さんは忘れていたえみの記憶を思い出したけど、えみが抱えている諸々の事情は知らないんだ。「そういえば」と口火を切るなり兼さんは突然えみが消えたと思ったら現れた事や、なぜえみに関する記憶が抜けていたのかなど、息つくまもなく追及してきた。ちょうど良い、兼さんの疑問を一気に解決してあげるべく、えみが本丸に戻りたくても戻れない事情を冥土の土産の如く端的に説明する。
「はあ⁉︎」と非常に苛立った声色が夕闇の乾いた空に響き渡る。木にとまっていた鳥達が一斉に飛び立つ。
「……んだ、そのめちゃくちゃな事案は。お前、それを馬鹿正直に呑んだのか」
「だって、もうそれしか方法がなくて……えみだって必死だったんだよっ」
馬鹿とは失礼な。このさい気にしないが。兼さんは、うーんと訝しげに唸ったあと「とにかく、戻るぞ」と現実に立ち返ってえみの腕を引く。
「話聞いてた⁉︎ 戻ってもえみの居場所はないんだって!」
「仮にそれが事実だとして、大人しく身を引くわけにもいかねえだろ。……お前はそれでもいいのか」
最後のほうが心なしか寂しい感じに聞こえて。
「いいわけ、ない……けど、もう無理だよ。絶対戻りっこないっ」じたばたと兼さんに掴まれた腕を振り払おうと抵抗するも、しっかりと掴んで離そうとしない。
「普段諦めの悪い奴がこういうときばっか泣き言言ってんじゃねえよ。最後の最後までやってみなきゃわかんねえだろ」
「色々やったんだよ。でも無理だったんだよ。兼さんが思い出してくれただけでもいいから……」
「オレが癪なんだよ。負け戦だとわかってようが戦う事に意味がある。それに——」
それに? 言葉の先を期待してしまって兼さんの次の言葉に緊張しながら耳を澄ませる。
「オレだけお前の事を覚えてるのも居心地が悪りぃしな」オイ、と突っ込みたくなった。少しでも淡い期待をしたえみがバカだった。いや、そもそも兼さんにそういう甘酸っぱい展開を期待をするのが間違いというものだ。よく知っているくせに。
リードを引っ張る飼い主のように兼さんが無理矢理にでも引きずっていくように、えみの手を引きながら駆け足で本丸までUターンする。えみは散歩を嫌がる犬の如く抵抗するもズルズルと引きずられていく。そのとき、本丸まで向かうさいに転んでひねった左足から鈍痛が走る。急に声を上げたえみに、立ち止まり振り返って様子をうかがってくる兼さんに、左足をひねってしまい痛みであまり動けない事を伝えると、渋い顔をしてえみに視線を投げた。と思いきや、兼さんの大きな影が覆いかぶさってえみの重力が持ち上がり、目線が高くなる。——まるで米俵でも担ぐように兼さんの肩に乗せられた。
「ちょっ、もうちょっとマシな運びかたあるだろ! えみは米か!」
「ああ? お姫様抱っこっていうガラでもねえだろうが。黙ってねえと舌噛むぞ」
「失礼な奴だな!」
久しぶりに聞いた兼さんのズケズケした物言いに癇癪を起こしながらも、またこうして気兼ねなくなじりあえるのが凄く、凄く嬉しい。えみが講義する前に兼さんは本丸に向けて足を駆け出す。駆ける振動で本当に舌を噛みそうなので悔しいが兼さんの言うとおり黙って口を閉じる。
再び本丸に舞い戻ってくる。あれだけの告白をしておいて、数分でリターンしてくるなんて恥ずかしい。兼さんはえみの面目をまるで考えてはいないんだろうな。えみの告白が終わったあとも、まだ広場に残っていた男士達が兼さんを見るなり驚きの表情を見せる。なぜか兼さんが謎の告白をしていたペーペーの審神者を肩に担いでいるのだから無理もないだろう。兼さんに米俵のように肩に担がれた姿で注目を浴びるのは恥ずかしい。背中を壁の如くドンドンと両拳を撃ちつけて、足をバタバタと忙しなく動かして早く降ろせと幼児みたいに直接行動で表す。「暴れんな!」と兼さんはむかっ腹で声を荒らげながらも、すっと丁重にえみを地上に降ろしてから、怪訝な面持ちで自分に注目が集まっている男士達を見据えると「オメーら、いつまで夢を見てるつもりだ。オレたちの主は、本当の主は、コイツだ」
えみを担いできただけでも驚きで顔を歪める男士達の顔つきは、はあ? と頭上にハテナを浮かべて呆れるあまり、顔を曇らせた。まあ、そうなるだろう。えみの青臭い告白に感化されたか? と疑いたくもなるだろう。彼らの不審感を抱く視線をものともしないで、兼さんは男らしく堂々たる態度で続ける。
「頑固で生意気で臭い事ばかり抜かしやがるケツの青いガキがオレ達の主だなんて、目を背けたくなる気持ちはわかるが、だが紛れもねえ、オレ達の主は、コイツなんだよ」
いや、いやいや、ちょっと待てと。すかさずえみは口をはさむ。
「あんたバカにしてんのかっ。悪口しか出てこないじゃねーか」
「おっと、そう聞こえたなら悪りぃ。だが事実だ」
「言って良い事と悪い事があんだろ」
「事実なんだから今のは前者だろ」
「お前ほんっと性格悪りーな! カッコイイのは見た目だけかよっ」
「見た目のかっこ良さは、認めるんだな?」
ふふん、と、えみが元の世界へ飛ばされて以来、もはやなぜだか感動を覚えてしまうくらいの、兼さんのキメ顔——通称ドヤ顔——が炸裂する。ああ、やっぱり腹が立つ。このムシャクシャする感情でさえ、懐かしくて、感傷に浸る……時間はそんなにないし、やはり単純にムカついたので、時間がないのはわかっているが、言い返さなくては気が済まない。
「前の兼さんのほうが中身もカッコ良かったけどな」
「はあ!? どういう事だ、それ」
「そのまんまの意味だけど。記憶がない兼さんのほうが優しかったし超紳士的でカッコ良かったわ」
「おまっ……同じオレだろうが!」
「ねー、どうしてこうも違うんだろうねー」えみは、可哀想な子を見るような憐れむ目で兼さんを眺める。
「そんな目で見るなっ、腹が立つ。優しくされたかったらなあ、身の振りかたを見直してみる事だな」
「それってえみがガサツだって言いてーのか」
「自覚してるたあ立派じゃねえか、感心感心」
記憶をなくして離ればなれになっていたブランクなど感じないくらいに、いとも簡単に兼さんとのマウス・ファイトが開幕する。こいつだけはなんとかして言い負かさないと、審神者に戻れたとしても気持ち良くない。言い負かされるくらいなら、いっその事、このまま戦って消えたほうが、
「本当にふたりって、アツアツだよねえ」
ふと、何気なく呟いたランの言葉が兼さんとえみの間に割って入ってくる。えみと兼さんは張り合っていた口を止めて、ランに顔を向けた。周りの視線を一度に浴びるランは、言ってから、ハッと自分が放った言葉の意味に、指先で唇に触れるように手を当てて驚いた。
「ボク……今、なんて?」
「思い出せ、乱藤四郎。お前はこいつの傍に一番いただろう。こいつのワガママもお前が一番聞いていたはずだ」
「ちょ、ランにそんなにワガママ言った覚えはない。むしろワガママ聞いてたのはえみのほうだよ」
「ワガママ以外の口も利けるのか」
んだとこのやろう! と熱がこもって攻撃態勢に入る。チャンスを横目にぎゃあぎゃあと兼さんとみにくくなじりあい、その様子をただぽかんと眺めている蚊帳の外の男士達——「ああっ!」とランが空に響かせんばかりの驚いた声を唐突に上げたと思ったら「あーっ!」と共鳴するように立て続けにその場にいた男士達の声も一斉に轟いた。
「——あるじ……あるじ……! なんでボク、忘れて……」
「ラン……! 思い出したのか? わかるか? えみの事……」
ランは、深く、ゆっくりと頷いて愛おしい眼差しを向けた。
「わかるよ。思い出したよ。ボクの可愛いあるじさん」
兼さんとのやりとりを見ていたら思い出したのだという。怪我の功名だろうか。えみとしてはあまり納得がいかないような……。思い出すなら、もっとこう、ロマンチックな感じが良かったというのはわがままだろうか。現実はそう甘くはないもんだな。ともあれ、男士達がなぜえみの事を忘れてしまっていたのか、詳しく説明している時間はないので、騒然としている男士達に、手短に兼さんが要点だけを説明する。
「ええー!」と三度目の驚きの声が宵闇にぼうっと光る茜色の木の葉を震わせる。木にとまっていたカラスが一斉に飛び立つ。二度もごめん、鳥達。兼さんは男士達に、この場にいない他の男士達の居場所を問う。奇跡的に全員、本丸内にいてそれぞれ当番についているみたいだ。よし、と兼さんは全員この場に集めろ、と支持を出した。それぞれが兼さんの支持に二つ返事で応えて、散り散りに散っていった。みんながえみのために動いてくれるなんて。まだ、みんなの主でいてもいいという事だろうか。また、みんなと一緒にいてもいいという事だろうか。嬉しい。たとえ全員が思い出せなくて、元に戻れなかったとしても、悔いはないだろう。すぐに散っていった男士達が他の男士達を連れてきた。
「思い出して、みんな。ボク達の前のあるじ……ううん、今のあるじは、この娘だよ」
何を言っているんだ、こいつは、といった渋い顔で連れてこられた男士達は、えみ達を見る。みんなが説得しようとも、不審感を抱いて耳を傾けてくれない。当然だ。説得している彼らも、つい数分前までは、えみの事など他人も同然だったのだから。えみの気か何かに当てられたと思うしかない。
「ほら、よく思い出してみてよ。あるじと兼さんが毎日イチャイチャしてた事」イチャイチャしてねえ、と条件反射のように、ランの語弊がある言いかたに意識しなくても、えみと兼さんの声がぴたりと重なる。ほらあ、と煽るように無邪気にランは指摘した。これ以上、感情に任せて反論したら煽られに煽られてずぶずぶとランの策略にはまってしまうだろうと考えて、くっ、と苦虫を噛み潰すような思いで口をつぐんだ。
「大体、お前からつっかかってくるんじゃねーか。そんなにオレに構ってほしいのか」
「構ってほしいのはそっちだろ」とすかさず突っ込んだ。どうしてこう、少しくらい黙っている事ができないのか。短気な事はわかっているが、今は時と場合を考えてほしい。そういうえみも、なんで今、兼さんと言い争っているのか、その様子を男士達に見守られているのかわからなくなってきているが。たしか、えみは、えみの事を思い出した兼さんに引きずられて、男士達の記憶を呼び覚ますよう、こうして本丸にいるわけだ。そうだ、記憶を呼び覚まさなければいけない。みにくい言い争いなどしている時間は、えみには一分一秒もないのだ。なのに、この兼定ときたら。
また、言い争いに発展しそうになった途端に、あっ、と周りを囲んでいる男士達の中から声が上がる。もしや、と僅かに疑心を抱いて、声が上がった方向におもむろに目をやると、声の主だと思われる、切れ長な目をかすかに見開いて唖然とする男士——清光、キヨとばっちり目が合った。お互いに見合ったまま、何も言葉が出ないまま一瞬の静寂が訪れる。
「……まったく、痴話喧嘩ならよそでやってよねー」
「痴話喧嘩じゃねえ!」と兼さんとえみは、悔しい事にぴったりと口を揃える。呆れたような、どこか慈愛に満ちたような、苦笑いを浮かべて見守るキヨ。いつまでこのパターンが続くのだろう。えみとしては複雑な気持ちだ。だが、このさい、なりふりかまっていられない。ほぼ全員が思い出しただろうか。無理だと思っていた。希望が見えてきたかもしれない。隣にいる、えみの希望の横顔を仰ぐ。不安など感じさせない、未来を見据えた凛々しい顔つきだった。彼になら、できるかもしれない。彼となら、できる。希望を抱いた刹那、
「茶番は済んだか?」
平穏な雰囲気を断絶するように、冷徹な声が響く。
「長谷部……」そう呟いた、兼さんが長谷部さんを見る目が険しいものになった。ただ一人、長谷部さんだけは揺らがない。えみが主だった頃も、男士達の中の誰よりも忠義心が高かった。それが今、こんな形で障害になるなんて。周りを囲む男士達の温和な空気と違った、険悪でピリピリとした空気が長谷部さんと兼さんの間に流れる。
「いい加減、持ち場に戻れ。娘も、もう充分満足しただろう。いい夢は見れたか?」
「てめえこそいつまで夢を見てるつもりだ。とっとと目を覚ませ。てめえが一番、仕えていた奴だろうが」
「はっ、戯言を。俺の一番は、今の主だ。そんな娘など知らん」
鉄のように冷たく、揺るぎもしない。長谷部さんの忠誠心の高さに怯んでしまうが、以前はその忠誠心の高さに助けられていたと思うと、寂しさと同時に誇らしさを感じた。えみと兼さんの茶番も通じないとなると、ここまでなのか……。
(あとちょっと、だったのに……)
兼さんが口火を切る。
「お前、確か言ってたよな。一口も漏れる事なく、全員の記憶を呼び覚ます事ができれば審神者に戻れるって」
「う、うん」と答えると兼さんは、腰に据えてある刀の鞘を握り、柄に手をかけてゆっくりとした動きで鞘から刀身を引き抜いて「——なら、あいつを折れば、条件は整うはずだよな?」
「なっ……兼さん!?」
兼さんの思いもよらない発言に、えみはたまらず声を荒らげる。えみが制止の声をかける前に、抜身の刀を構えた。息を吸い、終わるのと同時に、兼さんは地面を蹴りだして長谷部さんとの間合いを瞬く間に詰め、構えた刀を振り下げる。瞬間、鈍色に閃いた抜身の柄で長谷部さんは受け止めた。
兼さんと長谷部さんが争っている。えみの生存を懸けて。えみが審神者に、みんなの主に戻るために、誰かが欠けなきゃいけないなんて、そんなの間違っている。止めなくては。凄まじい真剣での攻防が繰り広げられるなかに飛び込もうとすると、「危ない!」とキヨが腕を伸ばして、えみの行く手を阻んだ。男士達が近づこうにしても、命のやりとりの気迫に気圧されて、入り込む隙がなかった。
「主が変わってもしぶてえ奴だな。とっとと折れやがれ!」
兼さんが一閃するも、長谷部さんは受け止めて、薙ぎ払う。
「和泉守、貴様は主に謀反を働いたと見て、俺がこれより手討ちにしてやる」
「それはこっちの台詞だ。可愛げがねえ、融通も利かねえ、口から出るのは生意気な戯言ばかり、そんな手ばっかり焼かせる乳くせえガキを、それでもお前は慕っていただろ。お前の狸娘への忠義心は、所詮その程度かよ。笑っちまうねえ」
——ん? ちょっと待てよ。どう聞いてもえみへの悪態をついているだけじゃないか。こんなときにまでえみへの悪口が絶えないなんて、この兼定は。「おおい!」と怒りを込めて吼える。兼さんへの心配など霧のように消え失せて、むしろ今は兼さんをぶった斬ってくれないかと、長谷部さんを応援したくなってきた。一方、長谷部さんは怪訝な面持ちを崩さないまま、少しのあいだ黙りこくって、刀の柄を握り直す。
「それではまるで、その娘を乏しているように聞こえるが? 貴様はその娘を庇いたいのか。貶めたいのか」
「んなこたどっちでもいい。てめえがあのケツの青い狸娘を思い出せねえのなら、折るだけだ」
クッ、と苦虫を噛み潰したように、怪訝な面持ちにさらに眉間にしわが寄り、長谷部さんは沸々と怒りを込み上がらせる。長谷部さんは地面を蹴りだすと、息もつかぬ素早さで兼さんとの間合いに入り込み、空気を斬り裂きながら喉元に向かって鉄の刃を振り上げた。ガキンッ! と鋭く冷たい、無機物がぶつかりあう音が響き、長谷部さんの刃は兼さんの刀身によって受け止められる。どっちも引かない乱れあう刃の攻防。止めなきゃいけないのにえみは黙って見ている事しかできなかった。
「もう、やめて……やめてよ! 二人が争ってるところなんて見たくない! 長谷部さんを折ってえみが戻れたとしても、嬉しくない! 長谷部さんを折らなきゃいけないくらいならえみは戻りたくない!」
感情のままに吼えるけど、「うるせえ、黙ってろ!」と兼さんに一喝される。二人の力は互角……いや、若干兼さんのほうが上回っているように見えた。長谷部さんも決して弱くはない。けど兼さんの鬼気迫る気迫に圧されてしまっている感じだ。今は主じゃないけど、前の主はえみだ。止めなければいけない。
(どうすれば……どうすれば……このままじゃ長谷部さんが……ううん、最悪、兼さんも……!)
それだけは絶対に避けなくてはいけない。二人の息も上がってきている。そろそろ決着をつける頃だろう。解決策が浮かばずいたずらのように時間はただすぎていく。
「おい! しょげてんじゃねえぞ! 誰のために命張ってやってると思ってんだ。主なら主らしく偉そうにふんぞりかえってろ! それともその生意気な態度はお飾りか」
兼さんの叱咤激励が飛んでくる。言い返したいけれど言い返せない。兼さんがえみのために命を張ってくれているのは事実だからだ。何も言えない。兼さんが飛ばしてくる喝に唇を噛む事しかできなかった。——そのとき、秒針が動いた。
「——っき、さまは、本当に口が減らないな! 主の手下としての意志が足りていない! 主に対してそのような罵詈雑言など、万死に値する——」ぞ……、と、小さくなった語尾を呟いた長谷部さんの目が、冷たい闘志を燃やしていた色から徐々に霧が晴れていくような色に変わっていって、鋭く切れ長だった目をおもむろに丸く開いていく。絵に描いたような仰天顔で、何か言いたげに口を大きく開かせるが、何も出てこない。えみは、息を呑んだ。ようやく、長谷部さんが弱々しく声を絞りだす。
「俺の……主は…………そうだ……。主、あるじ……俺は、主になんて無礼な事をっ……」
心が、震える。胸が、高鳴る。「長谷部さん……?」と呼びかけてみると、門前払いをした冷めた目つきとは打って変わって、不安げに、だけどその藤色の瞳にしっかりとえみを映した。
クッ、と長谷部さんは唇を噛み締めるや否や、その場にドカッと腰を下ろして、急に前をはだけさせたと思ったら、露出した腹筋に圧しただけで斬れるほどの斬れ味を持った、へし切長谷部の刃を宛てがう。ワッ、と長谷部さんが突然行う行為に、焦って声を上げる。
「長谷部さん!? 何してるんですか!」
「主にした非礼の数々……腹を斬って詫びるしか……!」
「やめてください!」「止めないでください!」ともろもろ応酬が繰り広げられて、さんざん押し問答が続いた結果、なんだかんだで最終的には切り札の『主命』を使ってようやく長谷部さんを落ち着けさせる事ができた。さっきまでの殺気と凄みはどこへいったのやら、今の長谷部さんはきのこが生えそうなくらい、じめじめとしてどんよりと落ち込んでいる。あんなに落ち込んでいる長谷部さんも初めて見た。他の男士がのんきに励ましの言葉をかける。ちょっと痛々しいくらいだが、それほどまでえみを慕ってくれているんだなあ、と思うとちょっと嬉しい。
「もしかして、こうなる事を読んで……?」
隣の兼さんに問いかけると、「ん」と目線だけをこちらにやり、
「当然だろ。オレを誰だと思っていやがる」
自信ありげに、ご立派に言ってのけた。うん、多分、結果的にこうなっただけで、始めから図って戦闘を仕掛けたわけじゃないな。本当に折ろうとしていたんだな。と、えみは思うのだが、真意は兼さんにしかわからない。ともあれ、これで、全員、記憶が戻った——
「約束の時間だ」
温和な空気を凍りつかせるような、初老の男の人の静かな声が解き放たれた。声の方を振り返ると、黒いスラックスと白いYシャツの上から縦線が走る鼠色の羽織を着た小太りな細い目をした男性——上司と、似たような格好をした中肉中背の青年が取り巻いていた。過去へと飛んだときに上司を取り巻いていた人達だ。
「あんたら……政府のもんか」
兼さんが、神妙な面持ちで言う。この本丸には、何も知らない一般の人が立ち寄らないように人避けの結界が張られているので、ここに来られる人といえば、関係者である政府の者か、この世とあの世の境が曖昧な子供か高い霊力を持った人間か……極稀にだが、子供が迷って来てしまうことがある。だから、記憶をなくしていた長谷部さんが、えみを初めて見たときにそう言ったのだ。厳格な雰囲気をまとう上司は、えみ達を一瞥して
「約束は覚えているな? 別れの挨拶は済ませたか」
「ま、待ってください! 全員の記憶を呼び覚ましました。えみは、審神者に戻れるはずですよね?」
えみが問い詰めようとすると、肩が制止を促されるように、ぐいと大きな手に引き止められた。兼さんの手だった。きょとんとした目で兼さんの横顔を見上げると、兼さんは視線をこちらに落とさず、けれど肩に手は置いたまま、上司達を真っ直ぐ見つめる。
「事情は、主から聞かせてもらった。そっちが納得できないってんならオレ達を折るなり溶かすなりすりゃあいい」
兼さんの強気な発言に口を出そうとしたが、続けて「オレ達は、この人間の娘の声に応えて顕現した。オレ達が忠誠を尽くすのは、主であるこの人間の娘だ」
この娘が、オレ達の主。今度は、最後まで、ともにあると。心が揺さぶられる。——えみも、兼さんの、兼さん達の、主でありたい。最後まで。上司は面白くないものを見るように、もともとの険しい面持ちが、さらに険しい顔つきになる。
「もし、開示されたとして、それをどうやって証明する」
「お待ちください、専務」
ただならない険悪なムードのなか一人、涼しい顔をしてA4サイズほどの端末を指で叩いていた取り巻きの青年が声を上げた。
「その刀剣男士の言う事は、間違いではないかと。刀剣男士と彼女のあいだに、強い縁が感じ取れます。それもひとつではなく、いくつも。恐らく、ここに顕現している刀剣男士すべての」
上司は専務と呼んだ青年の言葉に、険しい顔つきをほんの僅かに驚きの色に染めて、青年に事実確認をするために青年の端末を受け取り、目を通した。訝しげな表情を浮かべてしばらくのあいだ無言でいると、端末を青年に渡して「……確かに、その少女と刀剣男士とのあいだに強い繋がりが見て取れるようだ」言うなり、上司の険しかっただけの面持ちに、どこか何かを考えさせるような色を帯びて
「縁、か」
独り言のように、ここではない遠くを見つめるかのような目つきで呟いた。
縁。人と人との不思議な繋がり。何かと何かとの奇妙な繋がり。えみと男士達とのあいだに、強い繋がりを感じ取れると言った。繋がりの強さは、記憶の多さ。彼らは、えみと過ごした幾重もの記憶を大事に忘れないでいてくれているという事だろうか。
はあ、と仕方ないといった感じに上司が短く息を吐いた。
「……彼女の審神者復帰、及び前本丸への復職を認める」
審神者に復帰……前本丸への復職——という事は、「えみは、みんなの事を忘れなくていい……? 覚えていて、いられる?」
初めて審神者になって刀剣男士という不思議な存在と出逢った事も、始めは二人だけだった本丸に次々と仲間が増えて賑やかになっていった事も、彼らとの思い出を全部とっておける。
喜びを爆発させるのもつかのま、えみが正式に審神者に戻れるのは手続きが色々とかかるため、およそ一週間後だという。なんだかヌカ喜びだ。それでも、戻れたんだ。審神者に、兼さん達の主に、また。実感が湧かなくて信じられないが、やった……んだな。上司は相変わらず険しい面持ちのまま、それ以上、何も語らずに本丸をあとにした。
えみは、この場にいるみんなの顔を眺めた。なんだか妙に懐かしい気分だ。みんなと離ればなれになって数週間ほどだというのに。いや、こっちの世界では二年くらいか。付喪神である彼らにとって、二年はあっというまなのだろうか。それとも、やっぱり人間と同じように長いと感じたのだろうか。えみと同じように、長いと感じてくれたなら嬉しいな、なんて。
眺めるみんなの顔は、えみの思いとは裏腹に神妙な雰囲気を帯びていた。なんだかみんな、怒っている? 考えてもみれば、いきなり消息を絶った挙句、死んだと思っていた主が実は生きていて、いけしゃあしゃあと戻ってきたものだから、思うところがないわけがないだろう。冷静な頭になった今、なぜこんな人間のガキを取り戻すのに躍起になっていたんだろう、などと思われているんじゃないか。色々と申し訳なく思えて、重圧に負けて頭を下げた。
「あの、ごめんっ……なさい。みんなに迷惑かけて。みんなの主だから、もっとちゃんとしっかりしないといけないのに」
沈黙が続く。どんな顔をしているのか、きっと呆れているだろう。顔を見るのが怖くて、頭を上げられずにいた。
「それで?」
開口一番、キヨのものと思わしき声がえみに投げられる。反射的に頭を上げようとしたが、ふと思い返して、途中で止まる。怒っている……ふうには、えみには感じられない気もするが、キヨの気持ちはキヨにしかわからない。えっと、と言葉を探して頭をぐるぐるとさせていると、間髪入れずに続けてキヨが「他にも言う事、あるでしょ」
その言葉を聞いて確信した。やっぱり怒っている。それもかなり、だ。これ以上、何を言えばいいのだろうか。いや、何を言っても「それで?」と冷たく返されるに決まっている。他のみんなに助けを求めたいがどのツラさげて、と突っぱねられるのがオチだろう。いや、でも長谷部さんだけなら今のえみの味方になってくれるだろう。待てよ、長谷部さんなら、えみの敵と見なしたなら殺してしまう恐れがある。考えがまとまらず堂々巡りに焦っていると、とうとうキヨから宣告が。
「——おかえり、主」
想像もしていなかった、優しい声色に、思わず頭を上げてキヨを、キヨ達を見る。みんなは、優しい顔をしていた。
「おかえりなさい、あるじ。もう、待ちくたびれちゃったよ」羽根のような軽い、愛らしい声色でランが言う。
「おかえり。待っちょったね」ニカッと、いつでも変わらない晴れた笑顔でよっちゃんが言う。
「おかえりなさい、主」いつのまにか身だしなみを整えていつもの凛とした調子に戻った長谷部さんが言う。
「ったく、遅えんだよお前は」こんなときでもいつもの調子の兼さん。こういうときくらい、素直におかえりと言えないものなのか。と、思っていたら、よっちゃんが「テレ隠しじゃ」と代弁してくれていた。兼さんはよっちゃんに食ってかかっている。まあ、でもここで妙に優しくても調子が狂ってしまう。ちょっと鼻につくくらいで、丁度いい。それが、兼さんらしい。
目頭が熱くなり、湧き上がる熱い滴が溢れそうなのを必死にこらえて、息を目一杯吸い込むと、いつもどおりに、
「——ただいまっ」