第四章 いつか
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
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事の一件から数日後、いつものように忙しくも比較的穏やかな日常が本丸に戻った。
「第二から第四部隊は遠征、第一部隊は安土に出陣してください。他の人達は当番やりながらいつでも出陣できるように準備をしておいてください。では、よろしくお願いしまーす」
はーい、とみんなそれぞれ返事をしたあと、与えられた自分の持ち場へと散り散りになった。えみも出陣するみんなを見送ってから、審神者の業務にとりかかる。昨日の続きの報告書をまとめて明日までに本部のほうに提出しないと……それが終わったら、あれにこれに……
「おい」呼びかけられて、進めていた足を止めて声のほうへと振り返る。
「兼さん。何?」
兼さんは懐から、しわくちゃの紙の包みを取り出した。三つ折りにされた、手紙のような……ハッ、とえみは思い出す。
「それ……土方さんの手紙?」
「悪りいな。グシャグシャにしちまって」
「いや……いいよ。それは兼さんのだし」
「その事なんだが……これはお前が持っておけ」
えみは目を丸くする。その手紙は、兼さんへ宛てたつもりで土方さんに書いてもらったのだから。えみが持っていても意味がない。その旨を伝えると、
「これは、お前が書いた手紙への返事だ。だからこれはお前が持つべきだ」
兼さんは断言する。もっともらしい、といえばもっともらしいけど……。「でも……、」と渋っているとえみの返事を待つ前に、
「いいから黙って持っとけ」
ぽん、と手紙をえみの頭に置いて、少し強引に引き取らせる。断っても、押しつけてくるんだろうなあ……これ以上、面倒事はごめんだし、ここは素直に受け取っておく。
「預かっといてあげる」
「そういう事にしといてやるか。なくすんじゃねえぞ」
なくしたら罰が当たりそうな気がする……その前に、兼さんのゲンコツが飛びそうだ。お守り代わりとして持っておくよ、と軽い調子で言うと、兼さんはやれやれといった感じで微笑んだ。
「このオレのお墨付きだ。ご利益があるかもなあ。そそっかしいお前に丁度良い」
誰がそそっかしいだ、と言い返すと、優しいような、小癪な笑みを浮かべながら、ぽんぽんとえみの頭を軽く叩いてえみの横を通り過ぎていった。……ナメられているのか、子供扱いされているのか……でも、不思議と、嫌な感じはしなくて、むしろ嬉しかったというか、花火のときのことを思い出すというか……。
(……なんでだ?)
この感情は一体なんなのか、兼さんに優しく叩かれた頭をそっと撫でながら物思いに耽っていた。
報告書のまとめを終えて、審神者の雑務もあらかたこなすと、空いた小腹を満たすためにお気に入りの煎餅を取りに台所へと向かう。醤油の味が濃くて、硬くて食べ応えがあってうまいんだ、これが。ついつい食べすぎてしまって夕食がそんなに食べられないのがネックだが。ルンルン気分で茶箪笥を開けて、中のアルミ缶を取って開けると、
「あれ、ない」
ここで一気にテンションが下がる。そういえば、このあいだ全部食べてしまったんだった。忘れていた……。丁度、明日は本部のほうに報告書を出しに行くし、ついでに煎餅も買って補充しておこう。と、なれば——
「明日、あっちのほうで買物してくるから、欲しいのがあったら今日までにノートに書いといてね」
集められるだけみんなを集めて——主に短刀の子達——それぞれ自分の名前と欲しいものを合わせて書いてもらう。二二〇五年ともなれば技術も進歩しているもので、大抵の欲しいものはネットで頼めばすぐに手元に届くのだが、なかにはその場所でしか買えないものもあるわけで。未だにえみがいた時代とあまり変わらない店があるのは、そういう理由からだろう。それに、今はもう最新鋭の技術にも慣れたが、やっぱり昔の時代を生きてきた(見てきた?)みんなにとっては店で直接見て、触って、人と会話して買うほうがしっくりくるのだろう。会話したりするのは全部えみがやる事だが。みんながワイワイと囲ってノートを書いているのをあとにして、えみは残っている審神者の仕事と、明日の準備を整えるために業務に戻った。
翌日、日課の数時間の教科を適当に受けたあと、本部のほうへおもむき受付のお姉さんに用件を伝え、上司とのアポがとれると早速上司の元へ向かう。とある一室の扉の前までくると、ノックをして返事をもらってから扉を開けて中に入り、デスクに向かって険しい顔——それが普通の顔——の上司に、少し怯えながらも報告書を提出する。審神者になってからもう一年以上の付き合いになるが、あまり顔を合わさないので未だにちょっと怖い。とっととその場から立ち去り、本日のメインミッションはコンプリートした事なので、サブミッションのおつかいにとりかかる事とする。昨日、みんなに書いてもらったおつかいノートをパラパラと一度、軽く目を通す。
キヨは店舗限定オリジナルアロマのシャンプーとリンス……前も同じのを頼まれたが、気に入っているらしい。ランは色々な果実がまるごと包まれた大福を数箱……兄弟達と一緒に食べるんだろう。お菓子や雑貨など、中には生き物まで書いてあったが、生き物は却下した。
本部から徒歩五分ほど行けば、全国でも五本の指に入る大型のショッピングモールが出迎える。有名なだけあって、平日のお昼頃にも関わらず恋人達や家族連れ、たくさんの老若男女が行き交っていた。やや人酔いしそうになりながらも、サブミッションも完遂するために、手始めに近場から着実に攻略していく。みんなでこれたら、楽しいんだろうなあ——よっちゃんはなんでもかんでも、目に入るもの全てが真新しいからずっと目をキラキラさせながらあちこち行ったり——キヨは可愛い雑貨屋やペットショップに行ってはしゃいだり——ランはフワフワでラブリーな洋服屋や——ランジェリー屋にも怖気づく事なく堂々と行ってしまうかもしれない——兼さんは案外よっちゃんと同じように子供のように目をキラキラさせて色々なところへ行くかもしれない——世話を焼く堀川くんが簡単に目に浮かぶ。ふふ、と笑いが込み上げてきて話しかけるように言う。
「あんまり堀川くん困らせるなよー、兼さん」言ってから、その言葉は誰に届くわけでもなく、すっと空気に溶けていく。あ、そうだ——兼さん達は向こうにいるんだ。こっちにくる事はできない。兼さん達は時間遡行軍と戦うために生まれた付喪神——刀剣男士で、普通の人みたいに好きに買物をしたり、一緒に遊んだりできないのだ。えみ達、人間となんら変わらない姿をしているのに。
がやがやと賑わう雑踏が、急に寂しさを煽った。早く、みんなに会いたい。早急に買物を済ませて、両手に背中にいっぱいの買物袋を、ショッピングモールの一角にある、買物客なら誰でも使えるロッカー式の宅配装置に詰め込んで、届け先を本部の玄関先に指定して、転送完了。本当に、未来は便利になったものだ。一般人にも気軽に転送装置が使えるくらい普及しているし、宇宙にだってロケットなんか乗らずともエレベーターでひとっ飛びだ。えみもいつか、宇宙へ行ってみたい。まあ、今の仕事が終わらない限りは無理だし、いつ終わるかもわからないから夢のまた夢な話だ。ウン百年後の未来だというのに。そもそものところえみが今いる世界は、えみが元々いた世界とは少し違う世界線だからえみが元々いた世界の未来が、今ここにいる世界と同じようになるとは限らないし。ちょっぴりブルーな気持ちを抱えながら、今日も果てのない審神者の仕事をこなすために本丸を取り締まる本部への道のりを歩いていく。
無邪気に追いかけっこをする小学校低学年くらいの子供達にぶつかられる。そのままよろけて倒れてしまう。そして某事件の階段落ちよろしく思いのほか勢いよく斜面を転がり落ちていき柵にぶつかって止まった。痛みに悶えているとメシャッという金属が潰れたような音がして音に気づいて振り向くより早くパキンッ——と音がしたとほぼ同時に鉄製の柵がえみがぶつかったところだけ壊れ身体が川に向かって吸い込まれる。
(嘘……!)と思ったときには既に遅く、まだ肌寒さも残るなか川へとダイブした。まさか川に落ちるなんて、最悪だ。ツイていない。たまたま柵が壊れるだなんて、そんな事あるだろうか。と、いうよりもこの川、深くないか? 見た目よりもずっと激しい川の流れに体勢が安定しない。落ち着けえみ、落ち着くんだ。冷静に足の裏を地面に着けて立てばいい。けれど足を地面に安定して着ける事さえままならず気ばかりが焦る。焦った結果、身体がみるみる沈んでいき下流に向かって流される。川面に顔を上げて息継ぎするのさえもやっとなくらい状況は悪化していった。まさかこんなところで死ぬのか? このタイミングで? あのときあれをやっておけばよかったとか本当に過去の出来事が今になって走馬灯になって蘇ってくる。兼さんの悪戯な小癪な微笑みが浮かんだのを最後にえみは意識を手放した。
……い……おい……。声が聞こえる。重たいまぶたをゆっくり開けるとオレンジ色の光に照らされた六十代くらいの、中肉中背のお爺さんと目が合った。
あんた、大丈夫か? とお爺さんが心配そうに声をかけてくれた。確かえみは買い物のあと本部に戻ろうとして……——そうだ、走ってきた小学生とぶつかってこけて運悪く川に転落してしまったんだった。ツイていなさすぎる。生きててよかった。お爺さんに大丈夫だと元気よく声をかけると少し安心したのかほっとした様子で、その場を立ち去った。お爺さんの背中を見送ってから川に落ちてずぶ濡れになった衣服の気持ち悪さに顔をしかめながら早く本部へと戻って本丸に帰ろうと帰宅路を進む。
——えみは本部へと向かっていた。……向かっている、はずなのだが、自分の中に湧いた突然の違和感を拭い切れない。同じ道を辿っているつもりなのにどことなく違う道の気がする。見慣れている景色のはずだ。不安をかき消すように少し早足で真っ直ぐと本部に向かって歩いていく。——湧いた違和感は気のせいではなかった事を、知る。
「……え?」
目の前の光景に、素っ頓狂な声を漏らす。漏らさずにはいられなかった。だって、十何階建ての、決して小さいとは言い難い全面ガラス張りの近代的な商業ビルが建って——いた、場所が駐車場になっていたから。一瞬、頭が真っ白になりかける。どくん、どくん、と静かだった心臓の音が大きく強く高鳴り始める。落ち着け、えみ。きっとよく似ている道があって、違和感に気を取られていて無意識にそっちのほうを渡ってきて間違えたのかもしれない。最寄りのコンビニに行こうとしたらなぜか自宅まで戻ってきてしまった事があるくらい自他共に認める方向音痴だし、きっとそうに違いない。と、自分に強く言い聞かせる。でないと不安で今にも押し潰されてしまいそうだから。今来た道を戻って、もう一度本部があるはずの場所へと、今度は周りの景色に注意しながらゆっくり歩いていく。二三世期にも現存している老舗の海苔問屋、完全無人のコンビニ、名前を知らない鮮やかな大輪の花が咲く低木——
「……やっぱり、ない?」
声に出す。目の前には、数分ほど前に見た同じ駐車場が広がっている。何かがおかしい。不安が確信に変わりつつある。それでもまだ希望を諦められなかった。
そうだ、本丸に行けば何かわかるかもしれない。本部から歩いていくには少し遠いが行けない距離ではない。本丸が〝あれば〟本部が消えているほうが間違いだと言う事になる。本丸があれば……——本丸が〝なかったら〟? いや、今はそんな最悪の事態を考えている場合ではない。一抹の不安を抱きながら希望にすがる思いで一心不乱に本丸に続く道を歩き続けた。
本丸に通ずる森の入口へと辿り着く。この森を通り抜ければ本丸だ。無意識に拳を固く握りしめて、一呼吸おいたあと、一歩を踏みだした。
——さくさくと静かな森の中を進んでいく。普段は癒しと思えるこの静けさが今のえみにとっては心地が悪かった。——もう何分歩いただろうか。そろそろ本丸が見えてもいい頃合いなのに、見渡せば鬱蒼と草木が生い茂っているだけだった。おかしい、またいつのまにか違う道にきてしまったのだろうか。気持ちが焦っている事も自覚している。一旦きた道を数十mほど戻って、本丸への道から辺りを見渡して確認する。小川、道沿いにある小さな祠、——やっぱり、この道の先が本丸だ。間違いない。もう一度、本丸のほうへと歩みを進める。
段々と草木が生い茂っていき、来る者を拒むかのようだ。いい加減本丸が見えてもいいはず……。しかし、歩いても、歩いても、本丸へと辿り着かない。どころか、城門の一片さえも見つからない。どこまでも、森。本丸は、いったいどこに……? 森の中をむやみやたらと進むのは危険だと判断して、また、目印の小川まで引き返した。長い事歩き続けて疲れたので、小川のほとりに腰を下ろして休息をとった。小川のせせらぎが唯一の癒しだった。
……本丸が消えたかもしれない。そう思った瞬間ドッと汗が吹き出て、今度こそ頭の中が真っ白になっていく。落ち着け、こういうときこそ冷静にならなくては。深く息を吸って、吐くのを二、三度繰り返す。もしかして、これはえみが見ている夢……? それともドッキリ? いや、こんな手の込んだドッキリは仕掛けられる覚えがない。いくら人を驚かせるのが好きな鶴丸さんでもあんな江戸城ばりにでかい本丸をたった一晩で消すなんて無理だ。……やっぱり、えみが間違えている? 考えれば考えるほど頭のなかがこんがらがって、わけがわからなくなっていく。
そうか、これは夢だ。それか川で溺れたショックで幻覚でも見ているのだろう。ああ、こんな心地の悪い夢、早く覚めてくれないか。ショッキングな事が立て続けに起こるものだから頭がクラクラしてきた。足元がふらついて、足が絡まって、しまった! と思う前に体が重力に逆らえず地面に吸い寄せられ——転んだ。無茶な転び方をしたのか、足首をひねったようで、痛い。——痛い? 痛い、という事は、
(夢、じゃ、ない……?)
確認するように、否定するように、利き手を耳元に持っていき、ぎゅっと力強く耳を引っ張った。
「っででで!」強く引っ張りすぎた。自分で耳を引きちぎるところだった……。ひりひり痛む耳を指先で撫でながら、えみは上司と初めて会った頃の話を思い出した。
ここは——本丸がある世界とは、別の世界だ。前に、えみが向こう側——時の政府と歴史修正主義者が拮抗する二二〇五年——の世界に初めて飛んだとき、政府の上司が言っていた。同じ時間を刻みながら、決して交わる事のない世界——並行世界——俗に言うパラレルワールド、だと。それこそ何百年も前から定説があるけれど、証明できた事は一度もない。それは、別軸の存在を〝誰も認識できない〟から。コインを指で弾いて表が出る未来か、裏が出る未来か、はたまたまったく別の未来か。そのあと起こる現象は蜘蛛の糸のように複雑に、幾重にも分岐していて、この世界の時間軸で辿る現象はいずれかのひとつの糸のみ。コインが表で出る未来も、裏で出る未来も、表でも裏でもない未来も、確かに同じように存在しているのだが確認する術はない。できないからだ。観測できるものが存在しないから。それこそ観測できるようになってしまったらこの世の理そのものが根底から覆されてしまうだろう。だからどれだけ科学が発展した未来でもパラレルワールドはおとぎ話の類を出なかった。観測できる術がないから。だが、そんなおとぎ話を信じる——というより信じなければ、えみの存在意義が問われてしまう。
急に元の世界らしき世界へと飛ばされたショックで思考も停止しかかるほど肉体的にも精神的にも疲弊する頭で、どこへ行くか見当もつけずふらふらとあてもなく歩き出す。
ハッと気づけば自宅付近にいた。無意識ながらも家に戻れば救われるかもしれないと本能が悟ったのか。元々のえみの世界とも向こう側の世界とも変わっていない。全身が心臓になったかのようにどくどくと脈を打つ音が響く。唇が乾く。ドアノブに伸ばす腕は震えて、何度も何度もドアノブに手をかける手前で引っ込める。考えてしまう。ママがえみの事を覚えていたら、やっぱりここはえみが元いた世界なんだと確信してしまうし、こんな形で急にみんなとお別れになるのがとても悔しい。ママがえみの事を覚えていなかったら……
——覚えていなかったら? 本部も本丸もない、別の世界……? さーっと血の気が引いていく。どうしてそんな最悪の事態を考えなかったのか。本部や本丸が存在する世界線があるのなら、本部や本丸や、親が存在しない——厳密に言えばえみという人物が他の誰かに成り代わっている——世界線の可能性だってあるのではないのだろうか。急に扉を開けるのがとても怖くなった。誰一人として知り合いがいない、えみの存在そのものがない世界で、独り、どうやって生きていけばいいのか。向こう側の世界はたまたま先輩が助けてくれたから、先輩が政府の人間だったからなんとかなっていた。今は——
ガチャ、とえみの思考を遮るようにいきなり、玄関の扉が開かれる。ママが玄関先に人がいる気配を察知したからか。中にいるママと、目が合う。
「あ……っと……」
急な事で上手く言葉がでなかった。目の前にいるママが、えみの本当の——えみが元いた世界のママである確証がないから。このときのえみは、いわゆる思春期特有の反抗期を迎えていて、親との仲はあまり良くなかった。だから、なおさらかける言葉が見つからなかった。えみが黙ったままでいると、向こうのほうから沈黙を破ってきた。
「——どうしたの。ビショビショじゃん。ちょっと待ってな、タオル持ってくるから」
まるで、親が子に接するように愛情を含んだ声色がえみにかけられる。この反応は、えみの事を覚えている? 驚いたままじっと見ていると「どうした? なんかあった?」
「……ママ……」
確認するように、小鳥のさえずりのようなか細い声でママを呼ぶ。なあに、とママはえみの変な態度を優しく包み込むような愛情のこもった返事をする。えみの事を覚えていると確信に変わったあと、久しぶりに聞いたママの肉声に、本能的に涙が溢れでた。よくわからないけれど、きっと、どこかずっと寂しかったんだろうな、ほっとしたんだろうなと、えみはしばらく涙を流し続けた。ママは驚いていたけど、何も聞かずに黙って優しい手で背中をさすってくれていた。
川に落ちてびしょ濡れだったのでお風呂に入ったあと、少し早い夕食の時間になった。食卓には懐かしいママの手料理が並ぶ。「……いただきます」と手を合わせて、目で見て懐かしんだあと、口に運ぶ。——おいしい。同じ料理なはずなのに燭台切さんが作ったものとは全然違う。ママの味だ。また、涙が溢れそうになる。ここで泣いたらおかしいと、ぐっと湧き上がる感情を抑え込む。ママはえみに気づく事なく悠々とご飯を食べていた。
テレビのバラエティ番組が流れるなか、相対してえみの心中は穏やかではなかった。〝あの事〟を聞いてみるべきだろうか。考えをまとめるように器のなかの肉じゃがを箸で取っては口に運ぶ事なく器のなかで移動させる。ママはテレビで芸人が馬鹿をやっているのを視てのんきに笑っている。空気は悪くはない。心を決めて、えみはママに聞く。
「あのさ、ママ……〝刀剣男士〟って、知ってる?」唐突に聞かれたママはテレビを視ていた目をえみに向けて、ぱちくりとさせて一瞬、箸を止めた。強く脈打つ鼓動の音はママには聞こえていないだろうか。
「とーけん……? どっかのアイドルグループ?」
まるで聞いた事がないみたいだ。知らないならいい、と話題を終了させる。えみに湧いたわだかまりは消えずにいた。そんなえみの気も知らずに「あんたもようやく現実《リアル》の男の子に興味を持ち始めたかー」
しみじみとママは言いながら箸で崩した肉じゃがのじゃがいもを口に運ぶ。別に、興味ないし、と素っ気なく返すと「今からそんなんじゃママは心配だよ」よよよ、とわざとらしく泣くふりをする。くだらない押し問答を繰り広げる感覚が妙にくすぐったくて、心地良くて、少しのあいだ向こう側の寂しさを忘れられた。
夕飯を食べ終えたあと、今日は色々な事がありすぎて何もする気力がなかったので早めに寝支度を整えて、布団に潜り込む。自分の布団なのに、なぜか落ち着けなくて寝つけない。元々寝つきが良いほうではないが。眠れないので枕元に置いてあるスマホを手に取り、検索窓にとあるワードを入力する。
(とうけんだんし……)
一瞬ためらい指の動きが止まりながら、すぐに検索をタップする。検索数は5ページにも満たない。『刀剣』『男士』とそれぞれのワードで引っかかっているのが多く、『刀剣男士』は顔の知らない誰かが考えた創作の造語となっている。
そもそも、政府絡みの事で秘密裏に活動していたため情報が公にされていない可能性がある。それを証明できる手立てもないのだが……。八方塞がりとはこの事を言うのだろうか。はぁ、ともう何度目かわからないため息をついて、スマホを閉じると、うとうとと眠気が襲ってきたのでそのまま身を委ねる。
朝。ピピピ……と機械音で目が覚めると見慣れない天井——いや、前に見慣れた天井が目に映る。うるさいので音を止めるためにのそりと起き上がって、音の元を止めたあと、ぼーっと辺りを見回す。色んなジャンルの漫画が詰まった本棚、物が少ない勉強机、やりっぱなしで雑に床に置かれているゲーム機、誕生日プレゼントでもらったテディベアが置かれているタンス……えみの部屋だ。
台所で忙しなく物音が聞こえるのでママが朝の支度をしている音に少し聞き入ったあと、台所へと向かってママに「おはよ」と挨拶をして眠気覚ましに冷たい水で顔を洗い、テーブルにつく。するとママが「今日は朝ご飯食べるの?」
「?」とえみも首を傾げるが、ハッと、向こう側に飛ばされる前まではギリギリまで寝て朝ご飯は食べずにいた事を思い出した。向こう側へと飛んですっかり朝ご飯を食べる事が習慣となった。本丸のみんなのおかげだ。今さら拒否しても勿体ない感じがするので、こくりと頷いて朝ご飯をもらう。香ばしいトーストの匂いにまた懐かしさを覚える。本丸でご飯を食べるときは基本的には和食だった。寮での朝食もトーストがなかったわけではないが、家——本当の意味での——で食べるものと違う。
しっかりと全部平らげて食器をシンクに置いてから歯を磨き、さっと懐かしい制服に着替えて、鏡で身だしなみを整えると、全教科の教科書を入れた重いスクールバッグを肩にかけて「行ってきます」
慣れ親しんだ道のはずなのに、入学式のときのような、不安感で胸がドキドキとする。学生が多くなるにつれてえみの不安感も募っていく。まるでえみだけがこの世界で浮いているみたいだ。元々の世界なのに。気が滅入りながら俯き加減に歩いていると「おっはよー」と背後から肩を軽くどつかれた。ドキィッ、と一瞬で胸の鼓動がピークを迎える。
「今日は歴史のテストだねー。あたし全っ然やってなくてさー」
えみのこっちの世界での学校の友達だ。顔を見るのは一、二年ぶりくらいなのに、まるで昨日も会って話していた感覚で話しかけてくる。
「あ……おはよ……。そう、だったっけ」バクバク鳴る心臓を落ち着かせるように胸に手を置いて、しどろもどろに返事をする。友達はえみの妙な態度を不審がっていたが、えみは適当にはぐらかした。
あっちへ飛んでからどれくらい経っているのか。学校へ着いてから周りの反応を伺う限り、数日か、はたまた一日しか経っていないのか。こっちでの、あの日——川に落ちて飛んだ日——の出来事は一年以上も前の事なので、はっきりと思い出せない。よそよそしくしていると変に思われるので、あちら側に飛ぶ前の事を思い出して記憶を頼りにふるまう。えみの必死な態度に、周りに少し違和感を持たれつつもあまり気にしてないようで、えみが心配していた以上に難なく、ごくあっさりと時間が過ぎていった。
「——ねー、あそこの部分全然意味わからんくなかった?」
歴史のテストが終わった小休憩、朝に話しかけてきた友達と、仲の良いもう一人の友達がえみの席の周りに集まる。えみは軽い気持ちで件の問題の回答と、ついでに回答にまつわる雑学をつらつらと話した。夢中で話すなか、ちらっと友達二人を見ると、ついてこられなかったのかえみの饒舌ぶりにぽかんと口を開けていた。(しまった、オタクっぽかったか……!)今さら気づいても遅い。こうして覚えた知識を誰かに披露するのがあまりにも久しぶりで、嬉しくてつい……。ハラハラと二人の反応をうかがっていると、ぽかんと口を開けていた友達の一人から
「歴史得意だったんだ。ねー、今度教えてっ。勉強会やろうじぇー」
もう一人も同じような反応だった。なんとか事なきを得て(?)ほっと一息つく。——得意ではないが、元々歴史は興味があったから触り程度に勉強していた。審神者に就いてからは歴史を学ばざるを得なくなったので勉強していたが、まさか労が報われるとは。喜びと同時に、あっちの世界への想いを巡らせ胸が切なくなる。
無事に学校生活を終えて、友達と、次に来たるテスト《いくさ》に備えるための勉強会の約束をとりつけて帰宅部のえみは今日の歴史のテストに手応えを感じながら真っ直ぐ家へと帰り、家での生活も適切にこなして、一日の終わりにベッドで羽を伸ばす。審神者業ほど大変ではないのに、妙に神経を使ったからかやたらと疲れた。ぼーっと木の天井を眺める。……今日からずっとこの生活なのだろうか。なんとなく学校に行って、なんとなく授業を受けて、なんとなく友達と遊んで、なんとなく家族と過ごして、なんとなく、なんとなく、なんとなく……。また、代わり映えのしない平凡で退屈な日常に戻るのだろうか。審神者になりたての頃は、あんなにも平凡で退屈な日常が恋しかったのに。贅沢だろうか。いや、何も事件が起きない平和な日常のほうがきっと贅沢だろう。それなのに戻りたがっているのは……やっぱり贅沢だ。——あの日、ママに『刀剣男士って、知ってる?』と聞いて、湧いた胸のわだかまりは消えていない。
——そうだ、審神者の能力を確かめるために刀剣に会いに行けばいい。会いに、という表現は一般で言ったら誤表記だろうが、えみにとっては間違いではない。会いに行くのは、そう——土方歳三の愛刀、和泉守兼定——兼さんに。記憶の片隅で刀の展示の事が残っていたのであろう、急に思いついた。すぐさまスマホを手に取って素早いタップで『和泉守兼定 展示』とキーワード入力し、情報を収集する。タイミングがいい事に、もうじき土方さんの命日が近い事に併せて刀剣も展示されるようだ。土方さんが愛した刀——和泉守兼定が。運命なのだろうか、はたまた単なる偶然なのだろうか。一筋の希望が見えてきた。目的を見つけたえみは刀の展示日を心の糧として、普段どおりに、けれど普段とは少しだけ違う、心が潤った気分で運命の日までを過ごした。
土方さんの命日。愛刀の和泉守兼定が展示される日。この日をどれだけ心待ちにしていたか。前日は緊張と期待が入り混じって興奮してあまり眠れなかった。ふあー、と大きなあくびを何度もかきながら目的を果たすための準備を整えていく。兼さんに会いに行くと決意した日からママに刀の展示会に行く事を伝えて、たくさんお手伝いをする代わりにお小遣いを増やしてもらった。パパにも伝えたら「お土産よろしく」とお土産代+軍資金がもらえた。観光に行くんじゃないんだけれどな……とは思いつつ、せっかく初めての地に行くんだから兼さんに会いに行ったあと街を少し見て回るか。
スマホの地図アプリを頼りに、バスに乗り、電車に乗り、迷いそうになりながらまたバスに乗って揺られる事数時間——目的の場所へと辿り着く。ドキドキと緊張と期待で胸が高鳴る。この日は休日なのもあって人が非常に多い。想像していた以上に若い女性の姿が見える。きっと土方さんのファンなのだろう。土方さんの人気ぶりに圧倒され、人混みの気迫に尻込みしそうになるが、ここへきた目的を思い出して、気合を入れて立ち向かう。
長蛇の列を乗り越えて、もう何時間ほど経ったのか——実際にはそれほど経っていないと思う——ようやく入館する。兼さんに一刻も早く会いに行きたいが、人だかりができていて突撃できない感じなので、人が少なくなるまで他の展示品を見て回った。土方さん縁の物を展示品として見るとなんだか崇高な感じがする。そういう風に飾られているからだろうが、言葉にするのが難しいが、土方さんの想いというやつが込められている……気がする。……思えば直接、土方さんと会った事があるんだよなあ。会うのみならず、喋って手紙のやり取りまでしたんだよなあ。感覚として希薄だったけれど、物凄い事なのでは……。
思いを巡らせていると、和泉守兼定の前にできていた人だかりが少なくなっていた。今だ! とその場から飛び出していき真正面に立つ。和泉守兼定——兼さんと、対峙する。人の姿のときはあまり気にとめてなかったが、その刀身は雄々しくありながらも綺麗で——打たれてから何百年も経っているとは思えないほどに。……いや、眺めるためにきたんじゃないだろう。思わず見惚れてしまっていたが、深呼吸をして心を落ち着かせて、意識を刀剣に集中させた。審神者の能力を思い出すように、刀剣に眠る想いに耳を澄ませる。
(兼さん——兼さん——っ)
呼びかける。強く。僅かな声も聞き逃さないように、雑踏のなか意識を研ぎ澄ませる。(兼さんっ……!)
——どうして。なんで、応えてくれない。声が、聞こえない。気配も、感じられない。まるでただの〝物〟みたいに冷たく佇んでいる。焦り始めて集中が途切れながらも、無理矢理に抑え込んで懸命に呼びかける。何度も何度も、何度も、何度も。……それでも、
「——兼さん……っ」
募る想いが、言葉となって溢れ出る。想いは虚しく空に溶ける。
閉館間際までいたが、結局、兼さんの声が聞こえる事は一度もなかった。それどころか、想いが宿っている気配すらしなかった。審神者の能力が消えてしまったのか。帰りのバスのなか、すっかり日が暮れ夕日を呑みこもうとしている空が、まるでえみの心を映しているようで、ぼうっと眺めながら膝の上のお土産とともに揺られていた。
家に着くや否や、上着も脱がないで自分の部屋のベッドに倒れ込む。疲れた。身体も。心も。濁ったヘドロのようなものが心の中心で渦巻いている感覚。きっとこの世界に、えみの世界に、兼さん——刀剣男士は、いない。概念そのものが存在しない。だから審神者の能力も消えてしまった。刀剣男士を知っているのは、覚えているのは、この世でたった一人、えみだけ。現実を突きつけられたようで、ショックの大きさにもはや泣く気力さえも湧かなかった。もう一度だけ向こう側の世界に行く事ができないだろうか。
——なぜ、向こう側に戻る必要がある? 元の世界に戻ってこられたのだからいいのではないか? ふと、そんな考えが頭をよぎった。元々、意図しない異世界トリップで、審神者を始めたのも向こう側の世界で生きるためになりゆきで、だ。元の世界に戻るまでの、期間限定の。何をそんなに執着する事があるのだろう。歴史の改変だとか紛争に関わらなくなって、良かったじゃないか。面倒な事務仕事からも解放されて、ようやく普通の平凡な学生に戻れる。願ったり叶ったりじゃないか。そう、これでいい……いいはずなのに……心のどこかで思っていた。そう思う事で未練を断ち切ろうと。忘れようと。でなければ、想いが強すぎて今にも心が潰れてしまいそうだった。
パジャマに着替えず夕食も食べず、浅い短い眠りで一晩を過ごす。目が覚めるといつもどおりの木の天井。鳥の鳴き声が朝を告げる。しばらくぼーっと天井を見上げていた。——決めた。決意を固めるとガバッと勢いよくベッドから起き上がって新しい外着に着替える。お腹が空いている事に気づいたので何かないかと冷蔵庫のなかを物色する。昨日の残り物らしきおかずを発見してレンジで温めているあいだ、テーブルの上に今朝の朝食の残りがラップをかけて置いてあったのでありがたく頂戴する。今日は学校がお休みなので家にえみ以外は仕事でいない。一人で静かにあるだけのご飯を胃に詰め込み、さっさと片付けてささっとえみも出かける準備を整えて、ある場所へと向かった。美容院だ。
女は失恋すると髪を切るとよく言ったものだけど、今回のは失恋のうちに入るのだろうか。きっと、似たようなものだろうな。自分は幸せだった事を思って、みんなが幸せな事を願って、未練を断ち切るように、短くさっぱりとした自分の髪を指先でいじり、なんだかおかしくてふふっと小さな笑いがこぼれ落ちる。後悔はないわけじゃない。だけど、もう決めたから。向こう側の世界の事は忘れて、この世界で生きようと。えみが生きるべき世界は、今、この足で立っている、ここなんだ。きっとみんなもわかってくれる。ちゃんとしたお別れを言えなかったのは残念だけれど。
髪を切り、昨日までの自分と決別したえみは、順風満帆とまではいかずとも、以前の暮らしのように普通に学校へ行き、普通に友達と他愛もない会話をして、前よりも少し仲良くなったママの温かいご飯を食べて、普通の日常を過ごした。体に染み込むまでは少しかかったけれど。うん、大丈夫だ。えみは、やっていける。
「今回もホント助かるわー」
友達がそんな事を言う。えみと友達は次の日のテストに向けて格安ファミレスで勉強をしていた。テスト期間だからかえみ達以外にも学生達がちらほらとテーブルに広げたノートとにらめっこしていた。えみ達は勉強とは言っても半分くらいは趣味とか昨日視たドラマやバラエティーの話をしているけれど。友達は数学、えみは歴史を教えあっていた。今はえみが友達に歴史の勉強を教えているところだ。
「歴史ってなんか複雑でさー。よく覚えられるよねー」
「数学のほうが複雑だと思うけど」はは、と笑いながらアイスティーのストローに口をつける。友達も白ぶどうのジュースが入ったコップを手に持って
「数学はパターンが決まってるからさー。覚えたら簡単だよ。歴史なんて引っかけみたいなの多いじゃん。しかも変わったりするじゃん。イイクニツクロウ、が、イイハコツクロウ、ってさ。なんだよ箱って、国のほうが絶対いいじゃんって」
確かに、とおかしく笑いながら相槌を打つ。……これももしかして、歴史修正主義者の仕業なのかな。と、ふと感傷に浸るが、そもそも歴史修正主義者という概念すら存在しない世界だから。今となってはえみには関係ない。あの頃に返りそうだった自分をこちら側に引き戻す。友人は白ぶどうのジュースを二口程度、喉に通して、潤った声で「ねえ、どうやって歴史覚えたの? 何かコツとかあるの?」何気なく、口にする。どうやって歴史を覚えたか……歴史を覚える事が、必要だったから。正しい歴史の知識を身につけていなければ、だめだったから。なぜ、だめだったか? それは……それは——
「どうしたの……どっか痛いの?」
友達が急に曇ったような顔で問いかけるから、え? と声を漏らした。視界が滲む。世界が歪んで見える。何かが、つーっと頬を伝い落ちる。触って確かめる。ほんのり温かい。指先は、濡れている。……汗? 店内は特別暑くもない。じゃあ、これは? また、温かい雫が頬を伝う。
これは……涙? えみは今、泣いている……?
どうしてかわからなかった。悲しいわけでもなかった。のに、涙の正体を知ると、溢れて、止まらなくなった。拭っても拭っても泉のように湧き出てくる。友達が慌てて慰めるためにえみの肩をさすってくれた。その温かさにますます涙が止まらなかった。
忘れられるはずがなかったんだ。みんながいなくてもえみは大丈夫、なんて強気な事を思ったけれど、全然大丈夫なんかじゃなかった。悲しい。寂しい。恋しい。みんなに会いたい。話したい事、まだまだたくさんあったのに。こんな別れかたは、嫌だ。でも、もうどうしようもできない。戻りたくても戻れない。いつかは訪れる事だってわかっていたけれど、こんなに早くくるのなら、もっとちゃんと話しておけば良かった。後悔ばかりが募る。
一人、とぼとぼと日が暮れかかりそうな家までの道を力なく歩く。あれから友達が気を遣って勉強会は切り上げてくれた。申し訳ないと思いつつ、優しさが嬉しくあったりもする。髪まで切ったのに、情けない。自分の髪の毛先を指先で気を揉むようにいじる。
浮かんでくるのはみんなの顔——特に兼さんの顔。兼さんの事を考えると、また寂しさが込み上げてきて目の前が滲んでくる。また、あの腹が立つドヤ顔を見せてほしい。ムカつくけれど、えみを小馬鹿にするときのような楽しげな声を聞かせてほしい。兼さんがいないと……
「寂しいよ……」声は、宛てた本人に届く事はなく黄昏の虚空へと溶けていく。
家に着くや否やいつぞやの兼さんの刀身に会いに行ったあとのように、倒れるようにベッドに身を投げ出してうずまった。全身が鉛のように重い。しばらくぼーっとしてから急に思い立ったようにベッドから起き上がってスマホで検索をした。『異世界 行きかた』『異世界トリップ』『異世界 行くには』……検索結果には自分は異世界からやってきたものだとか異世界に行ったきり帰ってこれないだとか作り話のような掲示板の書き込みが並ぶ。あちら側の世界へ飛ぶ前なら淡い期待を抱きつつも完全な創作話として面白おかしく受け止めていた。だが、今は藁にもすがる思いで創作話でしかない異世界トリップの方法を真面目に受け止める。迷う余地もなかった。目に入ったもの片っ端からやっていく。さすがに生死が問われそうな方法は尻込みしてしまうが。それは最後の最後の手段にとっておく。無我夢中だった。
——目を開き、ベッドから起き上がってみたが、景色は何も変わらない。何個ほど試したあとか、思わず、はは、と乾いた笑いが漏れる。何をやっているんだか。こんな事で本当に好きな世界へ行けるのなら苦労はしない。急に頭が冷えてもう一度ベッドに力なく倒れ込んだ。静けさのなかでただただ天井をじっと見つめる。みんなに会いたい。会ってもう一度話したい。
……本当に、それだけ? 急に自分の胸のなかに湧いた小さな疑問に思考を巡らせる。みんなと会って話したいだけでこんなにも執着が湧くものだろうか。みんなと会って、話して……伝えたい事があるんだ。ちゃんとさよならを言って……さよならだけ? 他にもっと伝えたい事、伝えなきゃいけない事があると思う。そんな気がする。
兼さんの顔が浮かぶ。澄ました顔、得意げな顔。人を小馬鹿にするときの笑い顔。……怒った顔。思い返せば思い返すほどもう戻らない兼さんとの日々に胸が焦がれる。傍にいない事がこんなにも寂しく虚しいものなのか。兼さんに伝えたい。えみは兼さんと会えなくて寂しいぞ、と。傍にいて慰めてほしいぞ、と。ちょっと雑だけれど、もう一度頭を撫でてほしいぞ、と……。
(——あ、)そうか。えみは自分に湧いた執着心の本当の意味を、今、知った。兼さんの隣が心地良いのも、頭を撫でられてくすぐったいのも、小癪な笑みに悪い気がしないのも、兼さんに笑っていてほしかったのも、一つの感情へと繋がる。
(えみは、兼さんが……兼さんの事が——)だが、今さら気づいたこの小さな感情を知ったところでどうにかできるわけでもない。むしろ知ってしまったから余計に向こう側への未練が強くなった。もう少しだけ素直になれていたら、胸がぐしゃぐしゃになるほど後悔する事はなかったのかな。こっちに戻ってきてからもう何度目かわからない涙を流す。いくら泣いたって向こうに戻れるわけじゃない。兼さんに叱られた事を思い出すけど、叱ってくれる兼さんはもういない。
ひとしきり感傷に浸ったあと、泣いてべとべとになった顔を綺麗にするためにお風呂へ向かった。無心で機械的に体を洗い、お風呂から上がって髪の毛を適当に乾かし、なんだか乾かすのが面倒になってしまって完全に乾ききらないまま布団に潜り込んだ。布団が包み込んでくれる無償の温もりにうとうとと意識を緩やかに持っていかれて、いつのまにか眠りに落ちた。眠りに落ちる前にある想いを頭のなかで唱えながら。
(もう一度だけ向こうに戻れたら、そのときは、兼さんに——)
目が覚める。ふるっと少し感じた寒気に身を震わせる。ちゃんと髪の毛を乾かしきらないまま寝てしまったからそれかなと思い、朝の支度をするために重々しく身体を起き上がらせた。顔を上げると白いカーテンの隙間から薄日が差して家具の輪郭を浮かび上がらせる。
……あれ? と違和感を感じる。起きたばかりで覚醒していない頭でも食卓の長テーブルはえみの部屋には置いていないし、天井まで届きそうな大きい本棚——棚の中には数冊しか本が置いていない——も置いていないし、何より、えみはベッドで寝ていたはずだ。なのに今は成人女性が一人横になれる程度のソファの上にいる。
どういう事だ? 夢だろうか。どういった理由でこんな夢を見ているのだろうか。にしては意識がはっきりとしている。試しに起き上がろうとしたらベッドの感覚で手を置いたので幅を間違えて手を滑らせてソファから無様に転げ落ちてしまった。頭から。痛い。一気に頭が冴える。痛い、という事は……夢じゃ、ない? 不安感を晴らすように薄日が差し込むカーテンを握りしめると、一気に開けた——というわけはなく、慎重にゆっくりと開けて、初めてケージから出る子猫みたいに恐る恐るカーテンの向こう側の世界を覗いた。
寄せ集まった一軒家、滑空する一人乗りバイクのような乗り物——ん? 鳥と見間違いかと思って目をこすってもう一度見てみると今度はラジコンヘリに似た機械が四角い箱をぶら下げて目の前を通過する。……えみが少し向こう側の世界に行っているあいだにテクノロジーはここまで進化していたのか? いや、ありえない。そもそも起きたら知らない部屋だったのだから。……あれ? えみの部屋ではない、SFじみた街の風景——だとするなら……。
空気を吸った瞬間、ピンときた。確実には言えないけれど、でもこの空気の感じに確信が持てる。胸が少しずつ高鳴り始める。確かめに行くために玄関に早足で向かう。ふと思い出したように足を止めて居間のほうを振り返った。ソファにテーブルに本棚と物が少ない。誰かが住んでいるにしては片付きすぎていて生活感がない。空き部屋なのだろうか。気になるところは多々あるけれどそれよりももっと重要な事を確かめるために部屋をあとにした。どうやらここはマンションみたいだ。エレベーターを探し当てて七階から一階へと降りる。
外に足を踏み出すとそこには——道路を走る車輪のないオートバイに似た車、空を飛ぶ車に似た乗り物——どれも〝現代ではありえない〟テクノロジーだ。——この景色、見た事がある。それは、えみが初めて異世界に飛んだときの——そう、審神者になった世界。興奮気味に道行く人に「今は西暦何年ですか」と聞くと、変なものを見るような目で、二二〇九年ですよ、と答えてくれた。
二二〇九年——やっぱり、この世界は刀剣男士が存在する世界——待てよ。二二〇……九年? えみが最初にこの世界に飛んできたときから、四年後の世界? まあ、二年近く審神者をやっていた事もあるし、それを含めて二年の誤差はそんなに大きなロスではないだろう。はやる気持ちを抑え切れず、えみは今立っている場所から迷いながらも本丸があるだろう場所へと力いっぱい駆け出した。どうにかこうにか森へと辿り着き目印の小川や祠を通り過ぎ、森林を掻き分けて進んでいくと、急に視界が開けた。えみは、目を大きく開いた。
「本丸だあ……!」
「第二から第四部隊は遠征、第一部隊は安土に出陣してください。他の人達は当番やりながらいつでも出陣できるように準備をしておいてください。では、よろしくお願いしまーす」
はーい、とみんなそれぞれ返事をしたあと、与えられた自分の持ち場へと散り散りになった。えみも出陣するみんなを見送ってから、審神者の業務にとりかかる。昨日の続きの報告書をまとめて明日までに本部のほうに提出しないと……それが終わったら、あれにこれに……
「おい」呼びかけられて、進めていた足を止めて声のほうへと振り返る。
「兼さん。何?」
兼さんは懐から、しわくちゃの紙の包みを取り出した。三つ折りにされた、手紙のような……ハッ、とえみは思い出す。
「それ……土方さんの手紙?」
「悪りいな。グシャグシャにしちまって」
「いや……いいよ。それは兼さんのだし」
「その事なんだが……これはお前が持っておけ」
えみは目を丸くする。その手紙は、兼さんへ宛てたつもりで土方さんに書いてもらったのだから。えみが持っていても意味がない。その旨を伝えると、
「これは、お前が書いた手紙への返事だ。だからこれはお前が持つべきだ」
兼さんは断言する。もっともらしい、といえばもっともらしいけど……。「でも……、」と渋っているとえみの返事を待つ前に、
「いいから黙って持っとけ」
ぽん、と手紙をえみの頭に置いて、少し強引に引き取らせる。断っても、押しつけてくるんだろうなあ……これ以上、面倒事はごめんだし、ここは素直に受け取っておく。
「預かっといてあげる」
「そういう事にしといてやるか。なくすんじゃねえぞ」
なくしたら罰が当たりそうな気がする……その前に、兼さんのゲンコツが飛びそうだ。お守り代わりとして持っておくよ、と軽い調子で言うと、兼さんはやれやれといった感じで微笑んだ。
「このオレのお墨付きだ。ご利益があるかもなあ。そそっかしいお前に丁度良い」
誰がそそっかしいだ、と言い返すと、優しいような、小癪な笑みを浮かべながら、ぽんぽんとえみの頭を軽く叩いてえみの横を通り過ぎていった。……ナメられているのか、子供扱いされているのか……でも、不思議と、嫌な感じはしなくて、むしろ嬉しかったというか、花火のときのことを思い出すというか……。
(……なんでだ?)
この感情は一体なんなのか、兼さんに優しく叩かれた頭をそっと撫でながら物思いに耽っていた。
報告書のまとめを終えて、審神者の雑務もあらかたこなすと、空いた小腹を満たすためにお気に入りの煎餅を取りに台所へと向かう。醤油の味が濃くて、硬くて食べ応えがあってうまいんだ、これが。ついつい食べすぎてしまって夕食がそんなに食べられないのがネックだが。ルンルン気分で茶箪笥を開けて、中のアルミ缶を取って開けると、
「あれ、ない」
ここで一気にテンションが下がる。そういえば、このあいだ全部食べてしまったんだった。忘れていた……。丁度、明日は本部のほうに報告書を出しに行くし、ついでに煎餅も買って補充しておこう。と、なれば——
「明日、あっちのほうで買物してくるから、欲しいのがあったら今日までにノートに書いといてね」
集められるだけみんなを集めて——主に短刀の子達——それぞれ自分の名前と欲しいものを合わせて書いてもらう。二二〇五年ともなれば技術も進歩しているもので、大抵の欲しいものはネットで頼めばすぐに手元に届くのだが、なかにはその場所でしか買えないものもあるわけで。未だにえみがいた時代とあまり変わらない店があるのは、そういう理由からだろう。それに、今はもう最新鋭の技術にも慣れたが、やっぱり昔の時代を生きてきた(見てきた?)みんなにとっては店で直接見て、触って、人と会話して買うほうがしっくりくるのだろう。会話したりするのは全部えみがやる事だが。みんながワイワイと囲ってノートを書いているのをあとにして、えみは残っている審神者の仕事と、明日の準備を整えるために業務に戻った。
翌日、日課の数時間の教科を適当に受けたあと、本部のほうへおもむき受付のお姉さんに用件を伝え、上司とのアポがとれると早速上司の元へ向かう。とある一室の扉の前までくると、ノックをして返事をもらってから扉を開けて中に入り、デスクに向かって険しい顔——それが普通の顔——の上司に、少し怯えながらも報告書を提出する。審神者になってからもう一年以上の付き合いになるが、あまり顔を合わさないので未だにちょっと怖い。とっととその場から立ち去り、本日のメインミッションはコンプリートした事なので、サブミッションのおつかいにとりかかる事とする。昨日、みんなに書いてもらったおつかいノートをパラパラと一度、軽く目を通す。
キヨは店舗限定オリジナルアロマのシャンプーとリンス……前も同じのを頼まれたが、気に入っているらしい。ランは色々な果実がまるごと包まれた大福を数箱……兄弟達と一緒に食べるんだろう。お菓子や雑貨など、中には生き物まで書いてあったが、生き物は却下した。
本部から徒歩五分ほど行けば、全国でも五本の指に入る大型のショッピングモールが出迎える。有名なだけあって、平日のお昼頃にも関わらず恋人達や家族連れ、たくさんの老若男女が行き交っていた。やや人酔いしそうになりながらも、サブミッションも完遂するために、手始めに近場から着実に攻略していく。みんなでこれたら、楽しいんだろうなあ——よっちゃんはなんでもかんでも、目に入るもの全てが真新しいからずっと目をキラキラさせながらあちこち行ったり——キヨは可愛い雑貨屋やペットショップに行ってはしゃいだり——ランはフワフワでラブリーな洋服屋や——ランジェリー屋にも怖気づく事なく堂々と行ってしまうかもしれない——兼さんは案外よっちゃんと同じように子供のように目をキラキラさせて色々なところへ行くかもしれない——世話を焼く堀川くんが簡単に目に浮かぶ。ふふ、と笑いが込み上げてきて話しかけるように言う。
「あんまり堀川くん困らせるなよー、兼さん」言ってから、その言葉は誰に届くわけでもなく、すっと空気に溶けていく。あ、そうだ——兼さん達は向こうにいるんだ。こっちにくる事はできない。兼さん達は時間遡行軍と戦うために生まれた付喪神——刀剣男士で、普通の人みたいに好きに買物をしたり、一緒に遊んだりできないのだ。えみ達、人間となんら変わらない姿をしているのに。
がやがやと賑わう雑踏が、急に寂しさを煽った。早く、みんなに会いたい。早急に買物を済ませて、両手に背中にいっぱいの買物袋を、ショッピングモールの一角にある、買物客なら誰でも使えるロッカー式の宅配装置に詰め込んで、届け先を本部の玄関先に指定して、転送完了。本当に、未来は便利になったものだ。一般人にも気軽に転送装置が使えるくらい普及しているし、宇宙にだってロケットなんか乗らずともエレベーターでひとっ飛びだ。えみもいつか、宇宙へ行ってみたい。まあ、今の仕事が終わらない限りは無理だし、いつ終わるかもわからないから夢のまた夢な話だ。ウン百年後の未来だというのに。そもそものところえみが今いる世界は、えみが元々いた世界とは少し違う世界線だからえみが元々いた世界の未来が、今ここにいる世界と同じようになるとは限らないし。ちょっぴりブルーな気持ちを抱えながら、今日も果てのない審神者の仕事をこなすために本丸を取り締まる本部への道のりを歩いていく。
無邪気に追いかけっこをする小学校低学年くらいの子供達にぶつかられる。そのままよろけて倒れてしまう。そして某事件の階段落ちよろしく思いのほか勢いよく斜面を転がり落ちていき柵にぶつかって止まった。痛みに悶えているとメシャッという金属が潰れたような音がして音に気づいて振り向くより早くパキンッ——と音がしたとほぼ同時に鉄製の柵がえみがぶつかったところだけ壊れ身体が川に向かって吸い込まれる。
(嘘……!)と思ったときには既に遅く、まだ肌寒さも残るなか川へとダイブした。まさか川に落ちるなんて、最悪だ。ツイていない。たまたま柵が壊れるだなんて、そんな事あるだろうか。と、いうよりもこの川、深くないか? 見た目よりもずっと激しい川の流れに体勢が安定しない。落ち着けえみ、落ち着くんだ。冷静に足の裏を地面に着けて立てばいい。けれど足を地面に安定して着ける事さえままならず気ばかりが焦る。焦った結果、身体がみるみる沈んでいき下流に向かって流される。川面に顔を上げて息継ぎするのさえもやっとなくらい状況は悪化していった。まさかこんなところで死ぬのか? このタイミングで? あのときあれをやっておけばよかったとか本当に過去の出来事が今になって走馬灯になって蘇ってくる。兼さんの悪戯な小癪な微笑みが浮かんだのを最後にえみは意識を手放した。
……い……おい……。声が聞こえる。重たいまぶたをゆっくり開けるとオレンジ色の光に照らされた六十代くらいの、中肉中背のお爺さんと目が合った。
あんた、大丈夫か? とお爺さんが心配そうに声をかけてくれた。確かえみは買い物のあと本部に戻ろうとして……——そうだ、走ってきた小学生とぶつかってこけて運悪く川に転落してしまったんだった。ツイていなさすぎる。生きててよかった。お爺さんに大丈夫だと元気よく声をかけると少し安心したのかほっとした様子で、その場を立ち去った。お爺さんの背中を見送ってから川に落ちてずぶ濡れになった衣服の気持ち悪さに顔をしかめながら早く本部へと戻って本丸に帰ろうと帰宅路を進む。
——えみは本部へと向かっていた。……向かっている、はずなのだが、自分の中に湧いた突然の違和感を拭い切れない。同じ道を辿っているつもりなのにどことなく違う道の気がする。見慣れている景色のはずだ。不安をかき消すように少し早足で真っ直ぐと本部に向かって歩いていく。——湧いた違和感は気のせいではなかった事を、知る。
「……え?」
目の前の光景に、素っ頓狂な声を漏らす。漏らさずにはいられなかった。だって、十何階建ての、決して小さいとは言い難い全面ガラス張りの近代的な商業ビルが建って——いた、場所が駐車場になっていたから。一瞬、頭が真っ白になりかける。どくん、どくん、と静かだった心臓の音が大きく強く高鳴り始める。落ち着け、えみ。きっとよく似ている道があって、違和感に気を取られていて無意識にそっちのほうを渡ってきて間違えたのかもしれない。最寄りのコンビニに行こうとしたらなぜか自宅まで戻ってきてしまった事があるくらい自他共に認める方向音痴だし、きっとそうに違いない。と、自分に強く言い聞かせる。でないと不安で今にも押し潰されてしまいそうだから。今来た道を戻って、もう一度本部があるはずの場所へと、今度は周りの景色に注意しながらゆっくり歩いていく。二三世期にも現存している老舗の海苔問屋、完全無人のコンビニ、名前を知らない鮮やかな大輪の花が咲く低木——
「……やっぱり、ない?」
声に出す。目の前には、数分ほど前に見た同じ駐車場が広がっている。何かがおかしい。不安が確信に変わりつつある。それでもまだ希望を諦められなかった。
そうだ、本丸に行けば何かわかるかもしれない。本部から歩いていくには少し遠いが行けない距離ではない。本丸が〝あれば〟本部が消えているほうが間違いだと言う事になる。本丸があれば……——本丸が〝なかったら〟? いや、今はそんな最悪の事態を考えている場合ではない。一抹の不安を抱きながら希望にすがる思いで一心不乱に本丸に続く道を歩き続けた。
本丸に通ずる森の入口へと辿り着く。この森を通り抜ければ本丸だ。無意識に拳を固く握りしめて、一呼吸おいたあと、一歩を踏みだした。
——さくさくと静かな森の中を進んでいく。普段は癒しと思えるこの静けさが今のえみにとっては心地が悪かった。——もう何分歩いただろうか。そろそろ本丸が見えてもいい頃合いなのに、見渡せば鬱蒼と草木が生い茂っているだけだった。おかしい、またいつのまにか違う道にきてしまったのだろうか。気持ちが焦っている事も自覚している。一旦きた道を数十mほど戻って、本丸への道から辺りを見渡して確認する。小川、道沿いにある小さな祠、——やっぱり、この道の先が本丸だ。間違いない。もう一度、本丸のほうへと歩みを進める。
段々と草木が生い茂っていき、来る者を拒むかのようだ。いい加減本丸が見えてもいいはず……。しかし、歩いても、歩いても、本丸へと辿り着かない。どころか、城門の一片さえも見つからない。どこまでも、森。本丸は、いったいどこに……? 森の中をむやみやたらと進むのは危険だと判断して、また、目印の小川まで引き返した。長い事歩き続けて疲れたので、小川のほとりに腰を下ろして休息をとった。小川のせせらぎが唯一の癒しだった。
……本丸が消えたかもしれない。そう思った瞬間ドッと汗が吹き出て、今度こそ頭の中が真っ白になっていく。落ち着け、こういうときこそ冷静にならなくては。深く息を吸って、吐くのを二、三度繰り返す。もしかして、これはえみが見ている夢……? それともドッキリ? いや、こんな手の込んだドッキリは仕掛けられる覚えがない。いくら人を驚かせるのが好きな鶴丸さんでもあんな江戸城ばりにでかい本丸をたった一晩で消すなんて無理だ。……やっぱり、えみが間違えている? 考えれば考えるほど頭のなかがこんがらがって、わけがわからなくなっていく。
そうか、これは夢だ。それか川で溺れたショックで幻覚でも見ているのだろう。ああ、こんな心地の悪い夢、早く覚めてくれないか。ショッキングな事が立て続けに起こるものだから頭がクラクラしてきた。足元がふらついて、足が絡まって、しまった! と思う前に体が重力に逆らえず地面に吸い寄せられ——転んだ。無茶な転び方をしたのか、足首をひねったようで、痛い。——痛い? 痛い、という事は、
(夢、じゃ、ない……?)
確認するように、否定するように、利き手を耳元に持っていき、ぎゅっと力強く耳を引っ張った。
「っででで!」強く引っ張りすぎた。自分で耳を引きちぎるところだった……。ひりひり痛む耳を指先で撫でながら、えみは上司と初めて会った頃の話を思い出した。
ここは——本丸がある世界とは、別の世界だ。前に、えみが向こう側——時の政府と歴史修正主義者が拮抗する二二〇五年——の世界に初めて飛んだとき、政府の上司が言っていた。同じ時間を刻みながら、決して交わる事のない世界——並行世界——俗に言うパラレルワールド、だと。それこそ何百年も前から定説があるけれど、証明できた事は一度もない。それは、別軸の存在を〝誰も認識できない〟から。コインを指で弾いて表が出る未来か、裏が出る未来か、はたまたまったく別の未来か。そのあと起こる現象は蜘蛛の糸のように複雑に、幾重にも分岐していて、この世界の時間軸で辿る現象はいずれかのひとつの糸のみ。コインが表で出る未来も、裏で出る未来も、表でも裏でもない未来も、確かに同じように存在しているのだが確認する術はない。できないからだ。観測できるものが存在しないから。それこそ観測できるようになってしまったらこの世の理そのものが根底から覆されてしまうだろう。だからどれだけ科学が発展した未来でもパラレルワールドはおとぎ話の類を出なかった。観測できる術がないから。だが、そんなおとぎ話を信じる——というより信じなければ、えみの存在意義が問われてしまう。
急に元の世界らしき世界へと飛ばされたショックで思考も停止しかかるほど肉体的にも精神的にも疲弊する頭で、どこへ行くか見当もつけずふらふらとあてもなく歩き出す。
ハッと気づけば自宅付近にいた。無意識ながらも家に戻れば救われるかもしれないと本能が悟ったのか。元々のえみの世界とも向こう側の世界とも変わっていない。全身が心臓になったかのようにどくどくと脈を打つ音が響く。唇が乾く。ドアノブに伸ばす腕は震えて、何度も何度もドアノブに手をかける手前で引っ込める。考えてしまう。ママがえみの事を覚えていたら、やっぱりここはえみが元いた世界なんだと確信してしまうし、こんな形で急にみんなとお別れになるのがとても悔しい。ママがえみの事を覚えていなかったら……
——覚えていなかったら? 本部も本丸もない、別の世界……? さーっと血の気が引いていく。どうしてそんな最悪の事態を考えなかったのか。本部や本丸が存在する世界線があるのなら、本部や本丸や、親が存在しない——厳密に言えばえみという人物が他の誰かに成り代わっている——世界線の可能性だってあるのではないのだろうか。急に扉を開けるのがとても怖くなった。誰一人として知り合いがいない、えみの存在そのものがない世界で、独り、どうやって生きていけばいいのか。向こう側の世界はたまたま先輩が助けてくれたから、先輩が政府の人間だったからなんとかなっていた。今は——
ガチャ、とえみの思考を遮るようにいきなり、玄関の扉が開かれる。ママが玄関先に人がいる気配を察知したからか。中にいるママと、目が合う。
「あ……っと……」
急な事で上手く言葉がでなかった。目の前にいるママが、えみの本当の——えみが元いた世界のママである確証がないから。このときのえみは、いわゆる思春期特有の反抗期を迎えていて、親との仲はあまり良くなかった。だから、なおさらかける言葉が見つからなかった。えみが黙ったままでいると、向こうのほうから沈黙を破ってきた。
「——どうしたの。ビショビショじゃん。ちょっと待ってな、タオル持ってくるから」
まるで、親が子に接するように愛情を含んだ声色がえみにかけられる。この反応は、えみの事を覚えている? 驚いたままじっと見ていると「どうした? なんかあった?」
「……ママ……」
確認するように、小鳥のさえずりのようなか細い声でママを呼ぶ。なあに、とママはえみの変な態度を優しく包み込むような愛情のこもった返事をする。えみの事を覚えていると確信に変わったあと、久しぶりに聞いたママの肉声に、本能的に涙が溢れでた。よくわからないけれど、きっと、どこかずっと寂しかったんだろうな、ほっとしたんだろうなと、えみはしばらく涙を流し続けた。ママは驚いていたけど、何も聞かずに黙って優しい手で背中をさすってくれていた。
川に落ちてびしょ濡れだったのでお風呂に入ったあと、少し早い夕食の時間になった。食卓には懐かしいママの手料理が並ぶ。「……いただきます」と手を合わせて、目で見て懐かしんだあと、口に運ぶ。——おいしい。同じ料理なはずなのに燭台切さんが作ったものとは全然違う。ママの味だ。また、涙が溢れそうになる。ここで泣いたらおかしいと、ぐっと湧き上がる感情を抑え込む。ママはえみに気づく事なく悠々とご飯を食べていた。
テレビのバラエティ番組が流れるなか、相対してえみの心中は穏やかではなかった。〝あの事〟を聞いてみるべきだろうか。考えをまとめるように器のなかの肉じゃがを箸で取っては口に運ぶ事なく器のなかで移動させる。ママはテレビで芸人が馬鹿をやっているのを視てのんきに笑っている。空気は悪くはない。心を決めて、えみはママに聞く。
「あのさ、ママ……〝刀剣男士〟って、知ってる?」唐突に聞かれたママはテレビを視ていた目をえみに向けて、ぱちくりとさせて一瞬、箸を止めた。強く脈打つ鼓動の音はママには聞こえていないだろうか。
「とーけん……? どっかのアイドルグループ?」
まるで聞いた事がないみたいだ。知らないならいい、と話題を終了させる。えみに湧いたわだかまりは消えずにいた。そんなえみの気も知らずに「あんたもようやく現実《リアル》の男の子に興味を持ち始めたかー」
しみじみとママは言いながら箸で崩した肉じゃがのじゃがいもを口に運ぶ。別に、興味ないし、と素っ気なく返すと「今からそんなんじゃママは心配だよ」よよよ、とわざとらしく泣くふりをする。くだらない押し問答を繰り広げる感覚が妙にくすぐったくて、心地良くて、少しのあいだ向こう側の寂しさを忘れられた。
夕飯を食べ終えたあと、今日は色々な事がありすぎて何もする気力がなかったので早めに寝支度を整えて、布団に潜り込む。自分の布団なのに、なぜか落ち着けなくて寝つけない。元々寝つきが良いほうではないが。眠れないので枕元に置いてあるスマホを手に取り、検索窓にとあるワードを入力する。
(とうけんだんし……)
一瞬ためらい指の動きが止まりながら、すぐに検索をタップする。検索数は5ページにも満たない。『刀剣』『男士』とそれぞれのワードで引っかかっているのが多く、『刀剣男士』は顔の知らない誰かが考えた創作の造語となっている。
そもそも、政府絡みの事で秘密裏に活動していたため情報が公にされていない可能性がある。それを証明できる手立てもないのだが……。八方塞がりとはこの事を言うのだろうか。はぁ、ともう何度目かわからないため息をついて、スマホを閉じると、うとうとと眠気が襲ってきたのでそのまま身を委ねる。
朝。ピピピ……と機械音で目が覚めると見慣れない天井——いや、前に見慣れた天井が目に映る。うるさいので音を止めるためにのそりと起き上がって、音の元を止めたあと、ぼーっと辺りを見回す。色んなジャンルの漫画が詰まった本棚、物が少ない勉強机、やりっぱなしで雑に床に置かれているゲーム機、誕生日プレゼントでもらったテディベアが置かれているタンス……えみの部屋だ。
台所で忙しなく物音が聞こえるのでママが朝の支度をしている音に少し聞き入ったあと、台所へと向かってママに「おはよ」と挨拶をして眠気覚ましに冷たい水で顔を洗い、テーブルにつく。するとママが「今日は朝ご飯食べるの?」
「?」とえみも首を傾げるが、ハッと、向こう側に飛ばされる前まではギリギリまで寝て朝ご飯は食べずにいた事を思い出した。向こう側へと飛んですっかり朝ご飯を食べる事が習慣となった。本丸のみんなのおかげだ。今さら拒否しても勿体ない感じがするので、こくりと頷いて朝ご飯をもらう。香ばしいトーストの匂いにまた懐かしさを覚える。本丸でご飯を食べるときは基本的には和食だった。寮での朝食もトーストがなかったわけではないが、家——本当の意味での——で食べるものと違う。
しっかりと全部平らげて食器をシンクに置いてから歯を磨き、さっと懐かしい制服に着替えて、鏡で身だしなみを整えると、全教科の教科書を入れた重いスクールバッグを肩にかけて「行ってきます」
慣れ親しんだ道のはずなのに、入学式のときのような、不安感で胸がドキドキとする。学生が多くなるにつれてえみの不安感も募っていく。まるでえみだけがこの世界で浮いているみたいだ。元々の世界なのに。気が滅入りながら俯き加減に歩いていると「おっはよー」と背後から肩を軽くどつかれた。ドキィッ、と一瞬で胸の鼓動がピークを迎える。
「今日は歴史のテストだねー。あたし全っ然やってなくてさー」
えみのこっちの世界での学校の友達だ。顔を見るのは一、二年ぶりくらいなのに、まるで昨日も会って話していた感覚で話しかけてくる。
「あ……おはよ……。そう、だったっけ」バクバク鳴る心臓を落ち着かせるように胸に手を置いて、しどろもどろに返事をする。友達はえみの妙な態度を不審がっていたが、えみは適当にはぐらかした。
あっちへ飛んでからどれくらい経っているのか。学校へ着いてから周りの反応を伺う限り、数日か、はたまた一日しか経っていないのか。こっちでの、あの日——川に落ちて飛んだ日——の出来事は一年以上も前の事なので、はっきりと思い出せない。よそよそしくしていると変に思われるので、あちら側に飛ぶ前の事を思い出して記憶を頼りにふるまう。えみの必死な態度に、周りに少し違和感を持たれつつもあまり気にしてないようで、えみが心配していた以上に難なく、ごくあっさりと時間が過ぎていった。
「——ねー、あそこの部分全然意味わからんくなかった?」
歴史のテストが終わった小休憩、朝に話しかけてきた友達と、仲の良いもう一人の友達がえみの席の周りに集まる。えみは軽い気持ちで件の問題の回答と、ついでに回答にまつわる雑学をつらつらと話した。夢中で話すなか、ちらっと友達二人を見ると、ついてこられなかったのかえみの饒舌ぶりにぽかんと口を開けていた。(しまった、オタクっぽかったか……!)今さら気づいても遅い。こうして覚えた知識を誰かに披露するのがあまりにも久しぶりで、嬉しくてつい……。ハラハラと二人の反応をうかがっていると、ぽかんと口を開けていた友達の一人から
「歴史得意だったんだ。ねー、今度教えてっ。勉強会やろうじぇー」
もう一人も同じような反応だった。なんとか事なきを得て(?)ほっと一息つく。——得意ではないが、元々歴史は興味があったから触り程度に勉強していた。審神者に就いてからは歴史を学ばざるを得なくなったので勉強していたが、まさか労が報われるとは。喜びと同時に、あっちの世界への想いを巡らせ胸が切なくなる。
無事に学校生活を終えて、友達と、次に来たるテスト《いくさ》に備えるための勉強会の約束をとりつけて帰宅部のえみは今日の歴史のテストに手応えを感じながら真っ直ぐ家へと帰り、家での生活も適切にこなして、一日の終わりにベッドで羽を伸ばす。審神者業ほど大変ではないのに、妙に神経を使ったからかやたらと疲れた。ぼーっと木の天井を眺める。……今日からずっとこの生活なのだろうか。なんとなく学校に行って、なんとなく授業を受けて、なんとなく友達と遊んで、なんとなく家族と過ごして、なんとなく、なんとなく、なんとなく……。また、代わり映えのしない平凡で退屈な日常に戻るのだろうか。審神者になりたての頃は、あんなにも平凡で退屈な日常が恋しかったのに。贅沢だろうか。いや、何も事件が起きない平和な日常のほうがきっと贅沢だろう。それなのに戻りたがっているのは……やっぱり贅沢だ。——あの日、ママに『刀剣男士って、知ってる?』と聞いて、湧いた胸のわだかまりは消えていない。
——そうだ、審神者の能力を確かめるために刀剣に会いに行けばいい。会いに、という表現は一般で言ったら誤表記だろうが、えみにとっては間違いではない。会いに行くのは、そう——土方歳三の愛刀、和泉守兼定——兼さんに。記憶の片隅で刀の展示の事が残っていたのであろう、急に思いついた。すぐさまスマホを手に取って素早いタップで『和泉守兼定 展示』とキーワード入力し、情報を収集する。タイミングがいい事に、もうじき土方さんの命日が近い事に併せて刀剣も展示されるようだ。土方さんが愛した刀——和泉守兼定が。運命なのだろうか、はたまた単なる偶然なのだろうか。一筋の希望が見えてきた。目的を見つけたえみは刀の展示日を心の糧として、普段どおりに、けれど普段とは少しだけ違う、心が潤った気分で運命の日までを過ごした。
土方さんの命日。愛刀の和泉守兼定が展示される日。この日をどれだけ心待ちにしていたか。前日は緊張と期待が入り混じって興奮してあまり眠れなかった。ふあー、と大きなあくびを何度もかきながら目的を果たすための準備を整えていく。兼さんに会いに行くと決意した日からママに刀の展示会に行く事を伝えて、たくさんお手伝いをする代わりにお小遣いを増やしてもらった。パパにも伝えたら「お土産よろしく」とお土産代+軍資金がもらえた。観光に行くんじゃないんだけれどな……とは思いつつ、せっかく初めての地に行くんだから兼さんに会いに行ったあと街を少し見て回るか。
スマホの地図アプリを頼りに、バスに乗り、電車に乗り、迷いそうになりながらまたバスに乗って揺られる事数時間——目的の場所へと辿り着く。ドキドキと緊張と期待で胸が高鳴る。この日は休日なのもあって人が非常に多い。想像していた以上に若い女性の姿が見える。きっと土方さんのファンなのだろう。土方さんの人気ぶりに圧倒され、人混みの気迫に尻込みしそうになるが、ここへきた目的を思い出して、気合を入れて立ち向かう。
長蛇の列を乗り越えて、もう何時間ほど経ったのか——実際にはそれほど経っていないと思う——ようやく入館する。兼さんに一刻も早く会いに行きたいが、人だかりができていて突撃できない感じなので、人が少なくなるまで他の展示品を見て回った。土方さん縁の物を展示品として見るとなんだか崇高な感じがする。そういう風に飾られているからだろうが、言葉にするのが難しいが、土方さんの想いというやつが込められている……気がする。……思えば直接、土方さんと会った事があるんだよなあ。会うのみならず、喋って手紙のやり取りまでしたんだよなあ。感覚として希薄だったけれど、物凄い事なのでは……。
思いを巡らせていると、和泉守兼定の前にできていた人だかりが少なくなっていた。今だ! とその場から飛び出していき真正面に立つ。和泉守兼定——兼さんと、対峙する。人の姿のときはあまり気にとめてなかったが、その刀身は雄々しくありながらも綺麗で——打たれてから何百年も経っているとは思えないほどに。……いや、眺めるためにきたんじゃないだろう。思わず見惚れてしまっていたが、深呼吸をして心を落ち着かせて、意識を刀剣に集中させた。審神者の能力を思い出すように、刀剣に眠る想いに耳を澄ませる。
(兼さん——兼さん——っ)
呼びかける。強く。僅かな声も聞き逃さないように、雑踏のなか意識を研ぎ澄ませる。(兼さんっ……!)
——どうして。なんで、応えてくれない。声が、聞こえない。気配も、感じられない。まるでただの〝物〟みたいに冷たく佇んでいる。焦り始めて集中が途切れながらも、無理矢理に抑え込んで懸命に呼びかける。何度も何度も、何度も、何度も。……それでも、
「——兼さん……っ」
募る想いが、言葉となって溢れ出る。想いは虚しく空に溶ける。
閉館間際までいたが、結局、兼さんの声が聞こえる事は一度もなかった。それどころか、想いが宿っている気配すらしなかった。審神者の能力が消えてしまったのか。帰りのバスのなか、すっかり日が暮れ夕日を呑みこもうとしている空が、まるでえみの心を映しているようで、ぼうっと眺めながら膝の上のお土産とともに揺られていた。
家に着くや否や、上着も脱がないで自分の部屋のベッドに倒れ込む。疲れた。身体も。心も。濁ったヘドロのようなものが心の中心で渦巻いている感覚。きっとこの世界に、えみの世界に、兼さん——刀剣男士は、いない。概念そのものが存在しない。だから審神者の能力も消えてしまった。刀剣男士を知っているのは、覚えているのは、この世でたった一人、えみだけ。現実を突きつけられたようで、ショックの大きさにもはや泣く気力さえも湧かなかった。もう一度だけ向こう側の世界に行く事ができないだろうか。
——なぜ、向こう側に戻る必要がある? 元の世界に戻ってこられたのだからいいのではないか? ふと、そんな考えが頭をよぎった。元々、意図しない異世界トリップで、審神者を始めたのも向こう側の世界で生きるためになりゆきで、だ。元の世界に戻るまでの、期間限定の。何をそんなに執着する事があるのだろう。歴史の改変だとか紛争に関わらなくなって、良かったじゃないか。面倒な事務仕事からも解放されて、ようやく普通の平凡な学生に戻れる。願ったり叶ったりじゃないか。そう、これでいい……いいはずなのに……心のどこかで思っていた。そう思う事で未練を断ち切ろうと。忘れようと。でなければ、想いが強すぎて今にも心が潰れてしまいそうだった。
パジャマに着替えず夕食も食べず、浅い短い眠りで一晩を過ごす。目が覚めるといつもどおりの木の天井。鳥の鳴き声が朝を告げる。しばらくぼーっと天井を見上げていた。——決めた。決意を固めるとガバッと勢いよくベッドから起き上がって新しい外着に着替える。お腹が空いている事に気づいたので何かないかと冷蔵庫のなかを物色する。昨日の残り物らしきおかずを発見してレンジで温めているあいだ、テーブルの上に今朝の朝食の残りがラップをかけて置いてあったのでありがたく頂戴する。今日は学校がお休みなので家にえみ以外は仕事でいない。一人で静かにあるだけのご飯を胃に詰め込み、さっさと片付けてささっとえみも出かける準備を整えて、ある場所へと向かった。美容院だ。
女は失恋すると髪を切るとよく言ったものだけど、今回のは失恋のうちに入るのだろうか。きっと、似たようなものだろうな。自分は幸せだった事を思って、みんなが幸せな事を願って、未練を断ち切るように、短くさっぱりとした自分の髪を指先でいじり、なんだかおかしくてふふっと小さな笑いがこぼれ落ちる。後悔はないわけじゃない。だけど、もう決めたから。向こう側の世界の事は忘れて、この世界で生きようと。えみが生きるべき世界は、今、この足で立っている、ここなんだ。きっとみんなもわかってくれる。ちゃんとしたお別れを言えなかったのは残念だけれど。
髪を切り、昨日までの自分と決別したえみは、順風満帆とまではいかずとも、以前の暮らしのように普通に学校へ行き、普通に友達と他愛もない会話をして、前よりも少し仲良くなったママの温かいご飯を食べて、普通の日常を過ごした。体に染み込むまでは少しかかったけれど。うん、大丈夫だ。えみは、やっていける。
「今回もホント助かるわー」
友達がそんな事を言う。えみと友達は次の日のテストに向けて格安ファミレスで勉強をしていた。テスト期間だからかえみ達以外にも学生達がちらほらとテーブルに広げたノートとにらめっこしていた。えみ達は勉強とは言っても半分くらいは趣味とか昨日視たドラマやバラエティーの話をしているけれど。友達は数学、えみは歴史を教えあっていた。今はえみが友達に歴史の勉強を教えているところだ。
「歴史ってなんか複雑でさー。よく覚えられるよねー」
「数学のほうが複雑だと思うけど」はは、と笑いながらアイスティーのストローに口をつける。友達も白ぶどうのジュースが入ったコップを手に持って
「数学はパターンが決まってるからさー。覚えたら簡単だよ。歴史なんて引っかけみたいなの多いじゃん。しかも変わったりするじゃん。イイクニツクロウ、が、イイハコツクロウ、ってさ。なんだよ箱って、国のほうが絶対いいじゃんって」
確かに、とおかしく笑いながら相槌を打つ。……これももしかして、歴史修正主義者の仕業なのかな。と、ふと感傷に浸るが、そもそも歴史修正主義者という概念すら存在しない世界だから。今となってはえみには関係ない。あの頃に返りそうだった自分をこちら側に引き戻す。友人は白ぶどうのジュースを二口程度、喉に通して、潤った声で「ねえ、どうやって歴史覚えたの? 何かコツとかあるの?」何気なく、口にする。どうやって歴史を覚えたか……歴史を覚える事が、必要だったから。正しい歴史の知識を身につけていなければ、だめだったから。なぜ、だめだったか? それは……それは——
「どうしたの……どっか痛いの?」
友達が急に曇ったような顔で問いかけるから、え? と声を漏らした。視界が滲む。世界が歪んで見える。何かが、つーっと頬を伝い落ちる。触って確かめる。ほんのり温かい。指先は、濡れている。……汗? 店内は特別暑くもない。じゃあ、これは? また、温かい雫が頬を伝う。
これは……涙? えみは今、泣いている……?
どうしてかわからなかった。悲しいわけでもなかった。のに、涙の正体を知ると、溢れて、止まらなくなった。拭っても拭っても泉のように湧き出てくる。友達が慌てて慰めるためにえみの肩をさすってくれた。その温かさにますます涙が止まらなかった。
忘れられるはずがなかったんだ。みんながいなくてもえみは大丈夫、なんて強気な事を思ったけれど、全然大丈夫なんかじゃなかった。悲しい。寂しい。恋しい。みんなに会いたい。話したい事、まだまだたくさんあったのに。こんな別れかたは、嫌だ。でも、もうどうしようもできない。戻りたくても戻れない。いつかは訪れる事だってわかっていたけれど、こんなに早くくるのなら、もっとちゃんと話しておけば良かった。後悔ばかりが募る。
一人、とぼとぼと日が暮れかかりそうな家までの道を力なく歩く。あれから友達が気を遣って勉強会は切り上げてくれた。申し訳ないと思いつつ、優しさが嬉しくあったりもする。髪まで切ったのに、情けない。自分の髪の毛先を指先で気を揉むようにいじる。
浮かんでくるのはみんなの顔——特に兼さんの顔。兼さんの事を考えると、また寂しさが込み上げてきて目の前が滲んでくる。また、あの腹が立つドヤ顔を見せてほしい。ムカつくけれど、えみを小馬鹿にするときのような楽しげな声を聞かせてほしい。兼さんがいないと……
「寂しいよ……」声は、宛てた本人に届く事はなく黄昏の虚空へと溶けていく。
家に着くや否やいつぞやの兼さんの刀身に会いに行ったあとのように、倒れるようにベッドに身を投げ出してうずまった。全身が鉛のように重い。しばらくぼーっとしてから急に思い立ったようにベッドから起き上がってスマホで検索をした。『異世界 行きかた』『異世界トリップ』『異世界 行くには』……検索結果には自分は異世界からやってきたものだとか異世界に行ったきり帰ってこれないだとか作り話のような掲示板の書き込みが並ぶ。あちら側の世界へ飛ぶ前なら淡い期待を抱きつつも完全な創作話として面白おかしく受け止めていた。だが、今は藁にもすがる思いで創作話でしかない異世界トリップの方法を真面目に受け止める。迷う余地もなかった。目に入ったもの片っ端からやっていく。さすがに生死が問われそうな方法は尻込みしてしまうが。それは最後の最後の手段にとっておく。無我夢中だった。
——目を開き、ベッドから起き上がってみたが、景色は何も変わらない。何個ほど試したあとか、思わず、はは、と乾いた笑いが漏れる。何をやっているんだか。こんな事で本当に好きな世界へ行けるのなら苦労はしない。急に頭が冷えてもう一度ベッドに力なく倒れ込んだ。静けさのなかでただただ天井をじっと見つめる。みんなに会いたい。会ってもう一度話したい。
……本当に、それだけ? 急に自分の胸のなかに湧いた小さな疑問に思考を巡らせる。みんなと会って話したいだけでこんなにも執着が湧くものだろうか。みんなと会って、話して……伝えたい事があるんだ。ちゃんとさよならを言って……さよならだけ? 他にもっと伝えたい事、伝えなきゃいけない事があると思う。そんな気がする。
兼さんの顔が浮かぶ。澄ました顔、得意げな顔。人を小馬鹿にするときの笑い顔。……怒った顔。思い返せば思い返すほどもう戻らない兼さんとの日々に胸が焦がれる。傍にいない事がこんなにも寂しく虚しいものなのか。兼さんに伝えたい。えみは兼さんと会えなくて寂しいぞ、と。傍にいて慰めてほしいぞ、と。ちょっと雑だけれど、もう一度頭を撫でてほしいぞ、と……。
(——あ、)そうか。えみは自分に湧いた執着心の本当の意味を、今、知った。兼さんの隣が心地良いのも、頭を撫でられてくすぐったいのも、小癪な笑みに悪い気がしないのも、兼さんに笑っていてほしかったのも、一つの感情へと繋がる。
(えみは、兼さんが……兼さんの事が——)だが、今さら気づいたこの小さな感情を知ったところでどうにかできるわけでもない。むしろ知ってしまったから余計に向こう側への未練が強くなった。もう少しだけ素直になれていたら、胸がぐしゃぐしゃになるほど後悔する事はなかったのかな。こっちに戻ってきてからもう何度目かわからない涙を流す。いくら泣いたって向こうに戻れるわけじゃない。兼さんに叱られた事を思い出すけど、叱ってくれる兼さんはもういない。
ひとしきり感傷に浸ったあと、泣いてべとべとになった顔を綺麗にするためにお風呂へ向かった。無心で機械的に体を洗い、お風呂から上がって髪の毛を適当に乾かし、なんだか乾かすのが面倒になってしまって完全に乾ききらないまま布団に潜り込んだ。布団が包み込んでくれる無償の温もりにうとうとと意識を緩やかに持っていかれて、いつのまにか眠りに落ちた。眠りに落ちる前にある想いを頭のなかで唱えながら。
(もう一度だけ向こうに戻れたら、そのときは、兼さんに——)
目が覚める。ふるっと少し感じた寒気に身を震わせる。ちゃんと髪の毛を乾かしきらないまま寝てしまったからそれかなと思い、朝の支度をするために重々しく身体を起き上がらせた。顔を上げると白いカーテンの隙間から薄日が差して家具の輪郭を浮かび上がらせる。
……あれ? と違和感を感じる。起きたばかりで覚醒していない頭でも食卓の長テーブルはえみの部屋には置いていないし、天井まで届きそうな大きい本棚——棚の中には数冊しか本が置いていない——も置いていないし、何より、えみはベッドで寝ていたはずだ。なのに今は成人女性が一人横になれる程度のソファの上にいる。
どういう事だ? 夢だろうか。どういった理由でこんな夢を見ているのだろうか。にしては意識がはっきりとしている。試しに起き上がろうとしたらベッドの感覚で手を置いたので幅を間違えて手を滑らせてソファから無様に転げ落ちてしまった。頭から。痛い。一気に頭が冴える。痛い、という事は……夢じゃ、ない? 不安感を晴らすように薄日が差し込むカーテンを握りしめると、一気に開けた——というわけはなく、慎重にゆっくりと開けて、初めてケージから出る子猫みたいに恐る恐るカーテンの向こう側の世界を覗いた。
寄せ集まった一軒家、滑空する一人乗りバイクのような乗り物——ん? 鳥と見間違いかと思って目をこすってもう一度見てみると今度はラジコンヘリに似た機械が四角い箱をぶら下げて目の前を通過する。……えみが少し向こう側の世界に行っているあいだにテクノロジーはここまで進化していたのか? いや、ありえない。そもそも起きたら知らない部屋だったのだから。……あれ? えみの部屋ではない、SFじみた街の風景——だとするなら……。
空気を吸った瞬間、ピンときた。確実には言えないけれど、でもこの空気の感じに確信が持てる。胸が少しずつ高鳴り始める。確かめに行くために玄関に早足で向かう。ふと思い出したように足を止めて居間のほうを振り返った。ソファにテーブルに本棚と物が少ない。誰かが住んでいるにしては片付きすぎていて生活感がない。空き部屋なのだろうか。気になるところは多々あるけれどそれよりももっと重要な事を確かめるために部屋をあとにした。どうやらここはマンションみたいだ。エレベーターを探し当てて七階から一階へと降りる。
外に足を踏み出すとそこには——道路を走る車輪のないオートバイに似た車、空を飛ぶ車に似た乗り物——どれも〝現代ではありえない〟テクノロジーだ。——この景色、見た事がある。それは、えみが初めて異世界に飛んだときの——そう、審神者になった世界。興奮気味に道行く人に「今は西暦何年ですか」と聞くと、変なものを見るような目で、二二〇九年ですよ、と答えてくれた。
二二〇九年——やっぱり、この世界は刀剣男士が存在する世界——待てよ。二二〇……九年? えみが最初にこの世界に飛んできたときから、四年後の世界? まあ、二年近く審神者をやっていた事もあるし、それを含めて二年の誤差はそんなに大きなロスではないだろう。はやる気持ちを抑え切れず、えみは今立っている場所から迷いながらも本丸があるだろう場所へと力いっぱい駆け出した。どうにかこうにか森へと辿り着き目印の小川や祠を通り過ぎ、森林を掻き分けて進んでいくと、急に視界が開けた。えみは、目を大きく開いた。
「本丸だあ……!」