第 章 『 』
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
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人生、何が起きるかわかったものじゃない。
この地球という青い星に生まれて落ちてたったの十四年——いわゆる『ゆとり世代』と、気合いと根性で生き抜いてきた頭のお硬い大人達が揶揄する〝イマドキ〟の若者が、年甲斐もなくそう思ってしまうほどに。
実は自分には生き別れの兄がいた? 違う。
初恋の人が実は火星人だった? 違う。
〝あんな現象〟が起こったあとでは、そんな現象は霞んで見えてしまうくらいに、衝撃的で、忘れようにも忘れられなくて——のちに、心に残るとても大切な思い出となる。けど、今はまだその事は、あのときの〝えみ〟は知らない。
雪の下の、名も知らない若芽が柔らかな日差しに向かって伸び始める季節——そのときが、えみの運命の日だった。
運命の日は、至って普通の日常だった。数学の小テストで意外にも高得点を取って喜んでいたら、昼休みにお弁当に入っていた赤いたこさんウインナーを落として涙目になって(気の利くクラスメートがミートボールを一つ分けてくれた)、明日、ミートボールのお返しは何にしようかと考えながら毎週視ている連続ドラマの続きに胸を膨らませて、浮き足立って歩く放課後の帰り道。なんの代わり映えもしない平和な日常だ。
日の入は段々と短くなってきているが、風が耳の横を通り抜けると毛が逆立つほどにぶるっと体が震える。早く家に帰ってこたつでぬくぬくと温まりながら、蜂蜜入りホットレモンティーでも飲みたいと思考を巡らせると、その足取りはさっきよりも軽く、早くなる。
なんの代わり映えもしない退屈で平和な日常——のはずだった。足元に転がっている石ころに気がつけば。石ころにつまずいて転ばなければ。転んだ先が川じゃなければ——。
さっきまでの今日みたいに、明日も普通の日常を送っていたのかもしれない。
「————い——お……、」
遠くの方で声がする。辺りは真っ暗でよく見えない。
また、声がする。
「じょぶ————おい……、オイ! 大丈夫か!」
今度はハッキリと聞こえた。声の質からして若い男の人だろうか。なぜかひどく焦った様子で誰か(恐らく自分)に対して呼びかける。気怠げに瞼をゆっくりと開く。ぼんやりと霞んで見えるのは、えみを覗き込むような人影と、冷たい藍色の風景。
「よかった。無事だったな。自分の事がわかるか?」
えみが目を覚ましてほっとしたのか、張り詰めた声が穏やかで明るい感じの声に変わる。次第に焦点が合ってくると、若い男の人は安心したような笑顔を浮かべていた。今、自分が置かれている状況がいまいち飲み込めなくて混乱しながらも若い男の人の問いかけに無言で頷く。
「そっか。大丈夫そうだな。けど、あんたここで何してたんだ? ここの川、溺れるような深さでもなかったけど……」
川? 溺れる? ……そうだ。確か学校の帰り道に石につまずいて運悪く川の方へと転がって、昨日、雨が降ったわけでもないのになぜか川の流れが激しくて、気がついたら——。
若い男の人の言うとおり、ここの川は溺れるような深さではない。一番深いところでも小学生の男子の腰あたりまでしかなかった。そんな近所の小学生達が魚取りをするぐらいの遊び場で本気で溺れていたなんて……。
そうだ、きっと溺れたのは幻想に違いない。幻だったんだ。そう思う事にした。そう思わないと自分がどれだけドジでマヌケな人間なのかと耐えきれない現実に発狂してしまいそうになるから。
「川遊びは楽しいけど危ないから次からは気をつけるんだぞ」
若い男の人はそう言い残して颯爽とその場を立ち去った。……あんな人になろう。川で溺れている人がいたら自分の危険も顧みず助け出して、見返りも求めない、そんなかっこいい人に。
若い男性……お兄さんが立ち去ったあと、少し時間が経って、やや頭が冷えた。ので、状況を把握するために、ちらっと辺りを見回したら——
あれ? あそこにあんな透明で大きなビルなんて建っていたっけ? ヘリコプターのような一人乗りの車のような空を飛び交っている近未来っぽいものはなんだ?
通り過ぎる車っぽい乗り物も、よく見てみたらタイヤが一つもついていなくてリニアモーターカーのように浮いていた。……もしかして、これはあれか。
(……何かの映画のセットかな?)
映画のセットなら納得がいく。しかし、今のセットの技術はここまで進んでいたなんて。世界観は、えみ好みの近未来SFだ。宇宙人と共存する近未来の地球人が宇宙人絡みの事件を解決していく映画や、宇宙人と地球人がお互いの生存を賭けて大戦争をする映画は面白くて何回も見た。
……でも、ただのセットの技術でバイクは空を飛ぶものなのか? ワイヤーはどこへと繋がっている? こんな街中で突然サメが飛び出してきたかと思ったら3Dのホログラムでできた映画の広告だし、本当にただのセットの技術で説明がつくのか?
極めつけは空を飛んでいる飛行船らしき機体についている巨大な液晶から流れるニュースで〝今日〟の西暦が〝二二〇五年〟だという事。いくらなんでも〝作り込まれすぎ〟ではないか? そしてここが撮影地ならば撮影用の機材の一つがあってもいいはずなのに、どこを見渡してもそれらしきものは見当たらない。
(………………夢?)
足りない頭で考えたなりの答え。川に落ちて溺れたショックで夢でも見ているのかもしれない。それなら、とよく漫画で見るほっぺたをつねって夢か現実かを判断する古典的な手法をとる。どうせ痛くないに決まっているので思いっきり力を込める——「っあ゛ぁ゛ぁ゛!」痛い。めっちゃ痛かった。ほっぺたの裏を噛んでしまったときくらい。ださい雄叫びをあげて、周りの人達から一気に冷ややかな視線が集まるので、あはは、と照れ笑いしながらその場から立ち去るように歩き出す。
痛い、という事は、(夢じゃ……ない?)
だとするなら、幻覚……? 川に溺れた弾みで頭を強く打っていたらあり得ない話ではないかもしれない。それならまず行くべきは病院だろうか。でも精神異常者と認定されるのも嫌だ。精神病練に入れられて強制入院なんて事になったら……考えたくもない。なら、この妙に変な世界はどうやって説明する? どうやって……——ハッ、と、ある一つの仮説に辿り着く。
〝異世界〟。漫画やアニメで見るのだと、エルフやゴブリンなんかがいる魔法ファンタジー系が定番だけど、この世界は現実世界と似通った近未来SF系の世界だ。そしてこの状況は、ネットの掲示板でよく見る〝気がついたら異世界に飛んでいた〟系のやつか。そうか、それなら納得だ。あはははははー、
(——って、全っっっ然笑えない! え、嘘、マジ? ここって異世界? 嘘でしょ? それとも数百年後の未来の世界? ああもうどっちにしろここどこだ!)
より一層頭がパニックになる。それならまだ幻覚のほうがマシだ。いや、幻覚も嫌だけども。これがドッキリという事はないのか? そもそも、ドッキリだとしても仕掛けられる理由がわからないし、えみがパニック状態になっているのをどこかで見て楽しんでいるんじゃないのか? 誰が? 考えれば考えるほど頭のなかがごちゃごちゃになってわからなくなっていく。
とりあえず、水でも飲んで落ち着こう……喉が渇いた。今日はたまたまお金を持っていたので、近くのコンビニに入って適当なエコパックのペットボトルの水を選び、レジに持っていき小銭を卓上に置いた。すると、
「……すみませんお客様、こちらの硬貨はうちでは取り扱っていません」
なぜか困ったような微笑み顔でレジのおばさんはマニュアル対応をする。いや、そんな顔されたらえみも困るんですけど? というか、今、なんて言った?〝こちらの硬貨はうちでは取り扱っていない?〟そんなおかしな話あってたまるか。昭和ウン年に作られた、純日本製の、百円玉と十円玉だ。全国共通の通貨であるはずなのに、平民の身近なショップ代表であるコンビニエンスストアで使えないだと? よく見てくださいと、本物である事を押し通そうとするが、おばさんは困り果ててしまってとりあえず店長を呼び出して、三人で話し合う事になったものの、店長もおばさんと同意見で、段々とえみを見る目が怪しい目に変わったのでこれ以上トラブルは抱えたくないと逃げるようにしてコンビニを出ていった。
とぼとぼと足の赴くままに河原へ辿り着き、膝を抱えてぼーっと川の流れを眺める。ポケットに入れている使えなかった硬貨を手に取り出して見つめた。——夢でも幻覚でもないとすると、今ので確信した。——やっぱり、ここは〝異世界〟だ。見た目はえみの住む世界とそんなに変わらないのに——SFチックな外観はさておいて——えみが持っているお金が使えない。……確信したくなかった。認めたくないけど、その説に妙に納得してしまっている自分がいる。
お金が使えないから食べ物はおろか水すら買えない。……まあ、水は公園の飲み水を使えばいいとして、お腹が空いたらどうしよう。今夜泊まるところも考えなくては。というか、帰れるのかな。考えたら急に不安に襲われて、今、この世界にひとりぼっちなんだと思うと、凄く寂しくなって、怖くて、どうしてこんな事になっているのか、わからなくて、河川敷でうずくまる。ぐずったってどうしようもないけど、どうすればいいかわからなかった。
(……お兄さん)
ふと、警察よりも先に川で溺れたえみを助けてくれたお兄さんが思い浮かんだ。本当に、なんの気なしに。とにかくこの世界の顔見知りに会いたい一心で、お兄さんを探し回る。あてなどない。手がかりもない。例えば、砂丘のなかから一粒の砂糖を見つけるくらい途方もない。けど、直感を信じて駆け回る。
えみと別れてからそんなに時間が経っていないからそう遠くまで行っていないはずと思っていたけど、見当たらない。当たり前と言ったら当たり前か。諦めかけていたそのとき、
(——お兄さん!)らしき、男の人が遠くで見つかる。駆け寄って近づいて声をかけると「……あんた、さっきの?」
えみを見るなり驚いた目でそう言う。
「あの、こんな事初めてで、っていうか初めても何もないけど、あたしも凄く混乱してて、どうしたらいいかわからないんですけど、」
矢継ぎ早に展開のない事を喋っていると、お兄さんは不審な目で「エンジョコーサイ……?」
「違います!」と思わずがなり立てる。お兄さんに落ち着くように宥められて、少しだけ冷静になったえみは、
「……今、凄く困ってるんです。お話、聞いてもらえませんか」
信じてもらえないかもしれないけど——目が覚めたら知らないところにいた事、えみがいた時代よりも遥かに世界の時間が進んでいる事、多分、えみはこの世界の人間じゃない事をしどろもどろに伝えると、笑いもせずにずっと黙って聞いていたお兄さんは、含みのある顔でえみを見る。
「ちょっと待ってて」とお兄さんは言うなりえみから少し離れて、手のひらほどの棒状の何かを耳に当てて、誰かと何かを話している。やっぱり警察行きだろうか……警察は嫌だ。何も悪い事はしていないけど、警察に保護されたってなんの意味もない。話したって信じてもらえない。お兄さんを頼ればなんとかなるかもしれないと感じた直感は間違いだったのだろうか。たかだか溺れていたところを助けてもらっただけだ。お兄さんが話しているあいだに逃げてしまおうかと、じりじりと距離を離し、背を向けて一気に走り出す。お兄さんは慌てた様子でえみを追いかけた。体育の教科が二の全力疾走じゃ大学生くらいの男の人の走りに敵わず、目論見も虚しくあっけなく散ってしまう。
「なんで逃げるんだ!」
「だ、だって、ケーサツに引き渡すんでしょ? ケーサツは嫌だ!」
「警察じゃないから! あんたの話、信じるから!」
「ほ、本当に?」自分から言っておいてこんな嘘みたいな話を信じてくれるなんて……とのちのえみは思うのだが、このときのえみは素直に信じてくれたのだと喜んだ。
「一緒にきて」お兄さんは真面目な雰囲気でえみをどこかへと連れていく。不安しかないけれど、今はただえみの話を信じるというお兄さんの背中を信じてついていくしかなかった。
そこそこ人通りのあった街中から賑わいのある中心部に向かって進んでいき、しばらく歩くと、この街のシンボルとも言えそうなガラス張りの大きなビルのなかへと入っていく。なかはドラマとかでよく見るような感じの近未来的なエントランスだ。社員と思われる人達が行き交う。受付に行くお兄さんを少し離れたところから眺めていると、戻ってきて、通行証だという半透明なカードを手渡されて、ビルの奥へと入っていく。えみは落ち着かないというのに、お兄さんは涼しい顔でどんどんビルのなかを進んでいく。見た目はわりと軽そうな感じ——失礼だけど——に見えるのに、この大きな会社の関係者だとは意外だ。
端っこのエスカレーターに乗り込み、お兄さんは半透明のカードを扉の横についている小さな液晶画面にかざすと、エスカレーターは動き出した。お兄さんとえみが乗った箱はぐんぐん地下へと降りていき、降りていき、降りていき……果てのないところまで降りていくと、急に止まる。扉が開くと、そこはまるでSF映画で出てくるような組織の要塞みたいな外観が広がっていた。ぽかんと口を開けている暇もなく、お兄さんに引き連れられて奥へと進む。グレイや火星人が出てきてもおかしくない雰囲気だ。とある一つの扉の前で立ち止まった。
重厚な扉の先には、小太りで見るからに機嫌が悪そうな一重まぶたの中年男性が、文字が羅列するホログラムに囲まれて座っていた。蛇のような鋭い瞳が、えみをちらりと見たあとに、お兄さんを直視する。
「……私は忙しいと、言ったはずだが」緊張感のある低い声で男性は言う。思わず背筋が伸びる。
「なので、こうやって直に参りました。単刀直入に言います」と、お兄さんは臆する事なく、一呼吸置いてから「彼女を元の〝過去〟の時間に帰すためにも転送装置を使用する許可をください」
「私情で許可がおりるようなら、私の役職など無に等しい」
「っじゃあ、このまま放っておけと言うんですか。俺らの機関って、そういうものじゃないんですか」
「お前のようにぬるま湯で極楽にいけるような烏合の衆ではない。拠り所を求めているのなら他を当たれ」
「他に当たるところがないから言っているんでしょう。彼女だって、無下にされるかもしれないのに、勇気を振り絞って俺らに当たってくれて……これは、俺らの〝使命〟だと思うんです。たまたま〝俺らの機関〟の人間に当たるって、奇跡じゃないですか? きっと〝神様〟が与えてくれた——」
「〝使命〟だの〝神〟だの、朧気な台詞で説き伏せる気か。相手を良く見る事だな、小童」
一喝される。負けじとお兄さんは反論しようとすると、間髪入れずに「僅かでも私の時間をお前に割いてやっているんだ。とっとと下がれ」とさらに一喝して、男性の一声でどこからともなくやってきた別の男の人が、お兄さんとえみを部屋へ追い出そうとする。お兄さんがわちゃわちゃ言うが、もう男性は聞く耳を持たずホログラムに目を移す。
「あ、あの!」思い切って声を上げた。男性は目線だけをこちらに一瞬向けてくれた。すかさずえみは声を上げる。
「お兄さんの言う事は全部本当なんです。信じてくれないかもしれないけど……。お兄さんは悪くないです。むしろここまで連れてきて助けてくれました。だから……えっと、その……ごめんなさい、でした」
言い終わって少しの間が空き、再び男の人に追い出そうとされる。
「待て」背後から低い声が投げかけられる。一旦足を止めて、えみとお兄さんは男性のほうに振り返った。男性は依然として怖い顔で、
「……お前が拾ってきた種だ。何か問題が起こった場合は、お前が責任を持つという事だという事は心得ているな?」
その一言でお兄さんは固まってしまうけど、「……はいっ」と振り絞って声を出した。どこか嬉しそうにも聞こえた。「下がれ」と冷たく突っぱねる男性の言葉を背に、扉を隔てた先で、お兄さんは、はあ〜っと大きなため息を漏らして肩の力を抜く。脱力したあとに、「よしっ!」と拳を強く握りしめた。
いったい何がどういう事なのだろう。もしかして、許可をもらえた……という事なのだろうか。じゃなければ「よしっ!」と言ったお兄さんの説明がつかない。置いてけぼりのえみに気づいて「ああ、ごめん」とお兄さんは一言言ったあとに、えみをどこかへと連れていく。
「えっと……許可をもらえた……って事、ですか?」お兄さんのうしろを歩きながら聞いてみる。歩みは止めないまま、お兄さんはえみのほうを振り向いて、「多分。ま、大丈夫だろ。あの人、いっつもあんな感じだから緊張するんだよなあ。あんたが美人だったおかげだな」
えみの不安を和らげてくれるかのように冗談っぽく話す。はは……と思わず笑いをこぼしてしまう。しばらく歩き続けていると、地下へと続く長いエスカレーターを下っていき、周りの風景が段々と薄暗闇に包まれて、辿り着いた先は地上と雰囲気が違う広間だった。トンネルのような通路を進むと大きな機械が中央に鎮座していて、周りを囲うように丸くて平たい台座がいくつか並んでいた。どうやらこれが〝転送装置〟なるものらしい。
お兄さんに指示されて台座の中心に恐る恐る立つ。お兄さんはえみの向かい側に立って突然目の前に現れた液晶のようなホログラムに何かを打つ動作をしながら「あんたがここに来る前の時代は?」とか「場所は?」とか色々聞いてきたので、答えて、お兄さんの動作を見ていたら、えみの足元から青い光の粒が立ち込めてきて次第にえみを包むようにして舞い上がる。機械から発する青い光が蛍のようでとても幻想的に見えた。いつか見たファンタジーゲームのなかの古代の遺跡がこんな感じだった。不安だけど優しい光が気持ちを落ち着かせる。冷たいけれど温かみのある青い光の粒子に包まれるなか、お兄さんに見送られながら真っ白くて強い光が一瞬で辺りを包む。眩しくて、ぎゅっと目を閉じ、光が穏やかなものになるのと同時に、子供の声や車の音が耳に入ってくる。ゆっくりと目を開けると、どこかの川辺の土手にえみは立っていた。ぽかんと、空いた口が塞がらない。確かに、ついさっきまでえみは古代の遺跡のようなファンタジーなところにいたはずだ。それが今、目の前に広がっているのは、いつもの平穏な日常。
(……夢、だったのか?)
いったいもうどこからどこまでが夢なのかわからない。始めから夢だった? 白昼夢? 痛かったのも思い込みだったのだろうか。まあ、夢じゃなかったとしてもいい思い出になった。現実ならば、お兄さんによってえみの元いた時代へと帰ってきた。
……が、(……なんとなく、違う?)
直感でそう思い、妙な不信感を抱いた。知っているはずの風景なのに初めて見るような感覚。よく、初めて見る景色なのにどこか懐かしさを感じるという事を耳にするだろう。それは魂が帰るべき場所で、いわゆる魂の故郷なのだそうだ。……と、何かの科学の番組で見た事がある。郷愁感という言葉があるが、その逆バージョンといったところ……かもしれない。新商品のお菓子を買いによく通っているコンビニや、軒先で行き交う人々を眺めながら静かに佇む柴犬や、肌を撫でる春の陽気を含んだ冷たい空気でさえも、えみが〝元いた場所のものではない〟と徐々に感じさせられる。妙な不信感が拭えないまま帰路に着いた。
——湧いた疑惑は、間違いではなかった。疑惑から確信に変わったのは、自宅だった。今朝、家から出てきたままの変わらない外観で、ほっと一安心したが、そのあとだ。まるで我が家のように家に入っていく見知らぬ他人。見た目はえみと同い年か年下に見える。出迎えるのは、えみのパパとママに瓜二つの人。なんの疑いもなく、見知らぬ他人を受け入れる。愛する我が子のように。
一瞬、立ちくらみしそうなくらい目の前が真っ白になりかける。一呼吸、間を置いて、ハッと我に返って慌てて三人の元へ駆け寄り問い詰めた。
「ちょ、ちょっとっ、あんた……誰? なんでえみの家入ってくの?」
えみと同世代くらいの子は驚いた目で「え? ここ、ウチの家だけど……誰?」
そんな事、ありえない。この家はえみと、えみのパパとママの家だ。その子だけならともかく、パパもママもその子と同じ目でえみを見る。この瞳……コンビニで、もめた店員が向けてきた瞳と同じだ。嫌な予感が加速する。
「パパ、ママ、えみだよ。忘れちゃったの?」
そんなはずはない。ない、はずだ。気ばかりが焦る。えみをじっと見つめたあと、ママはこう言った。
「……どちらの子? ショウ、お友達?」
——嘘だ。
ショウ、と呼ばれた子は「知らない」と怯えた様子で首を振る。
——その子は、誰だ。まるで二人の子みたいに振る舞って。
——じゃあ、ここにいるえみは? えみは〝何者〟だ?
「とりあえず警察に……」パパがそう言うと、えみは慌てて逃げ出した。自分の家なのに。もう何もかもがめちゃくちゃのぐちゃぐちゃだ。一心不乱に走り続ける。
通学路の通りでもある土手を降りたところの河川敷で、ショックを受け止めきれずにうずくまるように膝を抱えていた。ドッキリにしてはタチが悪すぎる。隠し子というわけでもない。そんな話は聞いた事がない。何より二人の反応に嘘は見られなかった。
まるで初めからえみがこの世に存在してなかったかのように……。ゾクッと悪寒が走る。悪い夢なら早く覚めてくれ。
途方に暮れていると、背後から「どうしたんだ?」と、ついさっきまで聞いていた声がかけられる。
「お兄さん……。どうして、ここに?」
お兄さんがいる、という事は、やっぱり夢のような出来事は夢じゃなかったのか。そんな事より、
「ちゃんと家に帰れたか心配でさ。実はずっとあとつけてた。ごめんな。で、何かあったのか? 家族の事で他人のオレが首突っ込むもんじゃないだろうけどさ、オレに何か出来る事があるなら力になるよ」あの人に最後まで責任持てって言われちゃったし……とどこかバツが悪そうに苦笑するお兄さん。
えみは泣きそうになりながら、お兄さんに実の両親に赤の他人を見るような目で見られた事、えみの事は知らないと言われた事、えみが知らない子供を我が子のように扱っている事、全てを話した。
「……本当にここはあんたの家で、あの二人はあんたの両親なんだな?」
「はい……」
念を押すように聞いてきたお兄さんは、軽そうな雰囲気に似合わない訝しげな顔をして顎に手を添えて、いかにも考え事をしてるといった姿でしばらく考え込む。「もしかしたら……」と独り言のように呟く。「え?」とえみが聞き返すと、
「悪い、詳しい話は元の時代……っと、あんたにとったら未来の時代だな。そこに行ってから。未来人のオレが過去にあまりとどまってると良くないからさ」
お兄さんは言うなり、いつか観た映画で出てくるスパイ道具宜しく、テニスボールくらいのサイズのSFチックな謎の球体状の機械を取り出して地面に放り投げると、まるで蜘蛛の足みたいに開いて地面に設置して、青くて丸い発光体が浮かんで光の粒が舞い上がる。その美しさに目を奪われていたら、急に吹雪みたいに激しく舞い上がって辺りを包み込むと、晴れたときには別の場所——元の世界(?)に送ってもらう際に転送された古代の遺跡みたいなところ、元の時代——えみにとったら未来の時代——に戻ってきた。ぽかんとしてる間もなく、お兄さんに言われるがままうしろをついていく。そしてまた怖そうな中年男性の前へと現れる。男性はお兄さんとえみを見ると不機嫌そうな目をより一層不機嫌にして睨む。えみのみならずお兄さんも緊張して硬直する。
「……その子は、なぜここにいる」
「はいっ。その事なんですが——彼女はもしかしたら〝平行世界〟の人間なんじゃないかと」
(平行世界?)SF映画とかで聞いたりする突拍子もない単語に、えみは疑問符しか浮かべなかったけど、急な展開にもかかわらず男性は、お兄さんの言葉に無造作な太い眉毛をぴくりと動かしたような気がした。
「……根拠は」男性が静かに呟く。
「彼女が両親だという二人には彼女と同世代の子供がいました。彼女には自分以外の兄弟はいないようです。両親は、本来の子であるはずの彼女の事は記憶になく、代わりに見ず知らずの子供を我が子としていました。これは〝平行世界〟による〝同個体〟の〝変換〟なのでは、と」
「その証言だけでは信憑性に欠けるな。〝変換〟を証明する手立てもあるまい」
「なら、戸籍を調べてみてください。彼女の証言が本当なら、彼女の戸籍は〝実在していない〟という事になります」
「調べてもいいが、その子が嘘をついている可能性もある。鵜呑みにしたとして、〝彼方側〟からの刺客だとも否定できん」
「っああもう、なんでわかんないかなー!」
がしがしとお兄さんは頭を掻きむしる。話の内容の次元が違いすぎてまったくついていけてないが、えみのせいでお兄さんに迷惑をかけてしまっている事はわかる。懸命に説得を試みるお兄さんに、
「あ、あの、もう大丈夫ですから」
「……っつってもさ、アテとかあるの?」
「それは……」口ごもる。こんな見ず知らずの世界でアテなんかあるわけない。けど、これ以上えみの事で迷惑をかけるのは嫌だから。もしかしたら一晩寝たら元の世界に帰れているかもしれないし。案外、そんなものかもしれない。
適当にお兄さんをなだめて「ありがとうございました」とお礼を言ってさっさとその場から去ろうと歩き出す。そのときに、チャリーン——と甲高い音が響く。ポケットに入れていた硬貨が落ちてしまった。えみが拾う前にお兄さんが拾って——
「……これだ」硬貨を見つめたまま、ぽつりとお兄さんが呟く。「え?」と聞き返すと、お兄さんはえみそっちのけでえみの硬貨を男性に見せつけるように突き出しながら声を上げる。
「これが〝証明〟です! この硬貨のデザインは現代では流通していないものです。それを彼女が持っていた。彼女が〝平行世界〟の人間だと言えるのではないでしょうか」
「……コレクション、という事もあるだろう。数百年前のものが現存しているのは、よもや珍しい事ではない」
「なら詳しく調べてみてください。これが別世界のものだったとしたなら、この世界で発見されていない未知なる物質でできているかもしれません」
「……なぜ、そこまで執着をする」
「——上司、あなたに『最後まで責任を持て』と言われたのもそうですが……〝意地〟、です」
気迫のあるお兄さんの物言いに、上司と呼ばれた男性は無言でお兄さんを睨み続ける。重い空気が続く。——男性の食指が、机を叩くように動く。液晶のようなホログラムに向かって誰かと喋るように話し始めた。短いやりとりのすぐあとに、お兄さんと同じような格好をした、お兄さんとはタイプが違う真面目そうな男の人がやってきた。やってくるなり、男性が男の人に指示を出す。
「その者が持っている物を鑑定へ。判明次第、早急に結果を告げろ」
パァ、とお兄さんの表情が明るくなる。お兄さんが喜ぶのもつかのま「お預かりいたします」と男の人は自分が与えられた仕事をこなす。えみが持っていた硬貨は専門の人の手によって鑑定へと出される。結果が出るのに少し時間がかかるみたいなのでそれまで待ちぼうけだ。凄く変な感じだ。お茶を出されて、待っているあいだ、ずっと地に足がつかない感じだった。まるで自分が生ける化石とでもなった感じだ——実際、そのとおりらしいのだが——。偉人や恐竜も解析される気持ちはこんな感じなのかなあ、とぼんやりと変な事を考えていると、解析の結果が男性に届いたようだ。これでごく普通の硬貨だったらどうしよう……大言を吐いたお兄さんが報われないし、えみはいったいなんなのかという事になる。緊張して男性の言葉を待つ。
結果は——クロ。つまり、解析の結果、現代の硬貨と似ているが性質が違う、この世界に発見されていない〝未知なる物質〟で出来ている事がわかった。これによってえみが〝平行世界〟の人間だという確証が濃くなった。なんだかよくわからないが、喜んでいい……のだろうか。いや、つまりはえみはこの世界で言う〝宇宙人〟みたいなものだ。喜べるわけがない。えみにとったらむしろ今見ている世界のほうが異質だっていうのに。そもそも、
「平行世界って……?」
映画では観た事があるが自分が体験する事になろうとは思ってもいなかったので理解が追いつかず混乱状態に陥っていると、上司と言われた男性がえみの疑問に怖い顔のまま、だけど丁寧に説明してくれた。
「今、ここにいる世界がAだとしよう。このAの世界の性質と、ほぼ同一である別世界がAと並行して存在している。それが、君がいたと推測されるBの世界。パラレルワールド……と言ったほうがわかりやすいかね。世界は唯一無二のように思われるが、Aの世界、Bの世界、Cの世界……と蜘蛛の糸のように、いくつもの世界で構築されている。それが〝世界線〟または〝時間軸〟。同じ時間を平行している故、決して干渉する事はない。のだが……なんらかのきっかけでB地点の君はA地点のここへと跳躍してきてしまった。それが現状の君だ。ここまではわかるかね?」
「はあ……」と、どっちつかずな返事をする。わかったようなわからないような。つまり、無数にあるなかの一枚の硬貨の表面がお兄さん達が住む世界、裏面がえみが住んでいたとされる世界で、どちらの面もお互いの面にくる事はできないはずなのだが、なんらかのきっかけで裏面が表面へときてしまった……と、硬貨を使ってお兄さんが説明してくれた。男性は、続ける。
「君が、平行世界の人間である前提で話を進める。この世界へと来る事ができたのなら、帰る事もできるはずなのだろうが……。何か、この世界へと来るきっかけになった出来事などないのか?」
断片的に残っている記憶の端々を繋げていき、そこから関連が高いであろう事の発端を導き出す。
「川に、溺れて……気がついたらここへ……。でも、あのときは無我夢中だったから、詳しい事は、何も……」
「そうか。さすがにもう一度、川で溺れさせるのは非人道的だな。ふむ……」
男性とお兄さんは考え込んで黙ってしまう。もう一度、転送装置で元の時代に転送してもらうにも、えみは、先程お兄さん達が言った〝平行世界〟の人間らしいので、そもそも帰るところがない。元の時代に戻ったときに抱いた妙な違和感にもなんとなく説明がつく。考えあぐねていると、どこからともなく影からぬらりと小型犬ほどの大きさの〝何か〟が現れて、「このお方を『審神者』として従事していただくのはいかがでしょう」
「きっ、きつね……? が、しゃべ……⁉︎」
狐(?)のような、よくわからないもふもふとした生き物がえみの目の前で喋った。ちゃんと人語だった。えみにも理解できた。理解できたからパニックになる。まさか自分が魔法少女のようなお決まりの台詞をこうも自然とこぼすなんて、思ってもみなかった。いや、思うはずがないだろう。だってフィクションなんだから。そんなフィクションのようなノンフィクションのなか、一番フィクションに釣り合わなそうな一人——男性——と一匹は、驚くえみに構わず話を続ける。
「こんのすけ。しかし、女——ましてや子供に、その役は荷が重すぎるのではないか」
「『歴史修正主義者』は日に日にその勢力を強めています。今は一人でも多くの使者を向かわせ、一刻も早く沈静させるべきではないでしょうか。こちらの世界の歴史が改変されてしまったら、このお方の世界の歴史にも影響が及ばないとは言い切れません」
男性は口ごもる。喋る子狐に言い負かされている男性の図はあまりにもシュールすぎる。やっぱり夢なんじゃないのか、これ? 白昼夢? それとも幻覚?
「帰る方法もわからず、帰る家もなく……。そうだな……——君はどうしたい」
男性の問いかけに、ずっと置いてけぼりでぼんやりしていたえみは、ハッと現実に戻される。
「自力で帰る方法を見つけるも良し、ここに在留するも良し。ただし、ここに居る条件として、君には我々の機構に所属して働いてもらう。知らない世界で路頭に迷うより余程賢明だと思うがね」
誘導尋問かの如く、二者択一のように、この世界で独りぼっちのえみに救いの手を差し伸べる耳障りのいい言葉だが、裏を返せば答えなんてはなから一つしか用意されていないのに、あくまでもえみの意思を問う。大人の汚い部分を垣間見た気がした。男性のいいように使われるなんて……でも、男性の言うとおり、似ているけれど知らない土地であてもなくさまようのは心細い。「いくら適性があるからと言って——」と傍らのお兄さんはえみを弁護してくれる——が、
「……やります。その審神者っていうの、やります」
自分でもびっくりするくらいにハッキリとした口調で言った。
前を歩くこんのすけをじっと見る。大きなふわふわとした尻尾を左右に揺らしながらちょこちょこと歩く姿は可愛い……じゃなくて、どこからどう見ても子狐——だいぶ変わってはいるが——にしか見えないのに、人の言葉をぺらぺらと喋るのが不思議でしょうがない。どこかに小型のスピーカーでもついていて、誰かが喋っているのだろうか。はたまたAIを搭載した子狐型のロボットか。だとするならスイッチがどこかに……。
「どうかされましたか?」と、えみの行動を察したのか、頭をこっちに向けてこんのすけが見上げてきたので、「なんでもない」と少し言葉に詰まりながら返した。
あのあと、男性の指示に従って、こんのすけについていく事になった。詳しい事はこんのすけがすべて説明してくれるという。こんな子狐が……と不審な目を向けるが、立場が偉そうな男性と対等に言い合っていたし、堅物そうな男性が一任するくらいだし、見かけによらず物凄い子狐なのかもしれない。不審な目を向けている事がバレないように、空気を切り替えるように話題を吹っかける。
「その、さにわっていうやつ? ほんとにえみにできるものなの?」霊感とかまったくないし……とぼやいたあとに、淡白に、しかし当然かのように「できますよ」とこんのすけは断言した。なぜ?
「先程、あの場で申し上げましたが、あなた様には適性があります。あなた様が自覚がなくとも私には感じられます。その力があったからこちらの世界線に飛んでこられたのかどうかはわかりかねますが、仮定するとならば、あなた様がこちら側に飛んでこられたという説明にも合点がいきます」
可愛い見た目のわりに言っている事は難しいが、「信じて……くれるの?」と言葉をこぼす。
「私も、そういう存在ですから」
いまいち腑には落ちなかったが——ロボットだか妖怪だか曖昧な変な存在と一緒にされたから——この際、人の言葉を喋る子狐でも信じてくれるなら心強い。
談笑も少なく、こんのすけに連れられた場所は、男性達がいた近未来的な外観とは打って変わって、とても親しみのある木造の広い和室だった。それでも豪奢な飾りつけがあちこちにあって、例えるならば、神社のなかのような、凄い神様が祀られているような、とても神聖な場所の雰囲気だった。自然と背筋が伸びて、緊張して呼吸が浅くなる。
こんのすけの合図で目の前の重厚な扉がゆっくりと開かれる。なかには、日本刀の刃の部分だけが五つ、飾られていた。灯りが差し込んでいないのに、輝きが見てとれる。まるで、暗闇のなかに差す、希望の光のような……。
「これから、あなた様を『審神者』として迎える儀を執り行います。目の前に並べられた五口の刀に語りかけるように、強く念じてください」
はあ、と現実味のない指示に思わず空返事をしつつ、とりあえず言われたとおりにする。念じろ、と言われても何をどう念じればいいのか。それとなくそれっぽく手を組んで、むむむ……と集中する。
(こんにちは。いや、はじめまして……? ええと、これからなんか、さにわっていうのになるので、よろしくお願いします云々……)と、心のなかで唱えていたら、心なしか刀が淡く光りはじめ、どこからともなく小さな花びらが淡雪のように舞い落ちはじめる。目の前の出来事に混乱していたら「集中してください」とこんのすけの冷静な一言が入ったので、もう一度、集中しなおす。こんなマジックみたいな光景を目の当たりにしたら嫌でも集中が削がれてしまうけど、一所懸命、刀に語りかける。
花びらの数は多くなっていき、刀から発する光も強くなっていく。一つの刀が僅かにひとりでに動いたような気がした——のは、気のせいではなく、浮き上がって、花びらが運ぶようにゆっくりとえみの目の前まで近づいてくる。ぽかんと口を開けそうになるが、
「手を伸ばしてください」
こんのすけがすぱりと言う。恐るおそる、言われるがまま灯火ともとれる鈍色の光に右手を伸ばすと、かざした瞬間——桜の花びらが吹雪のように舞い上がり刀を包み込む。桜の乱舞が晴れると、そこに確かにあった刀は、人の姿へと変わって現れた。人の姿をした〝何か〟が、えみとばっちり目が合うなり、ニッと歯を見せて快活に笑った。そして、次のように言葉を紡いだ。
「——おお、おんしが新しい主か。わしは陸奥守吉行。一緒に、世界を掴むぜよ!」
(ぜよ……)
これが、えみの——平凡で退屈な人生を歩んできた凡庸の中学生、えみの〝審神者なる者〟としての数奇で奇妙な第二の人生の幕開けである。
この地球という青い星に生まれて落ちてたったの十四年——いわゆる『ゆとり世代』と、気合いと根性で生き抜いてきた頭のお硬い大人達が揶揄する〝イマドキ〟の若者が、年甲斐もなくそう思ってしまうほどに。
実は自分には生き別れの兄がいた? 違う。
初恋の人が実は火星人だった? 違う。
〝あんな現象〟が起こったあとでは、そんな現象は霞んで見えてしまうくらいに、衝撃的で、忘れようにも忘れられなくて——のちに、心に残るとても大切な思い出となる。けど、今はまだその事は、あのときの〝えみ〟は知らない。
雪の下の、名も知らない若芽が柔らかな日差しに向かって伸び始める季節——そのときが、えみの運命の日だった。
運命の日は、至って普通の日常だった。数学の小テストで意外にも高得点を取って喜んでいたら、昼休みにお弁当に入っていた赤いたこさんウインナーを落として涙目になって(気の利くクラスメートがミートボールを一つ分けてくれた)、明日、ミートボールのお返しは何にしようかと考えながら毎週視ている連続ドラマの続きに胸を膨らませて、浮き足立って歩く放課後の帰り道。なんの代わり映えもしない平和な日常だ。
日の入は段々と短くなってきているが、風が耳の横を通り抜けると毛が逆立つほどにぶるっと体が震える。早く家に帰ってこたつでぬくぬくと温まりながら、蜂蜜入りホットレモンティーでも飲みたいと思考を巡らせると、その足取りはさっきよりも軽く、早くなる。
なんの代わり映えもしない退屈で平和な日常——のはずだった。足元に転がっている石ころに気がつけば。石ころにつまずいて転ばなければ。転んだ先が川じゃなければ——。
さっきまでの今日みたいに、明日も普通の日常を送っていたのかもしれない。
「————い——お……、」
遠くの方で声がする。辺りは真っ暗でよく見えない。
また、声がする。
「じょぶ————おい……、オイ! 大丈夫か!」
今度はハッキリと聞こえた。声の質からして若い男の人だろうか。なぜかひどく焦った様子で誰か(恐らく自分)に対して呼びかける。気怠げに瞼をゆっくりと開く。ぼんやりと霞んで見えるのは、えみを覗き込むような人影と、冷たい藍色の風景。
「よかった。無事だったな。自分の事がわかるか?」
えみが目を覚ましてほっとしたのか、張り詰めた声が穏やかで明るい感じの声に変わる。次第に焦点が合ってくると、若い男の人は安心したような笑顔を浮かべていた。今、自分が置かれている状況がいまいち飲み込めなくて混乱しながらも若い男の人の問いかけに無言で頷く。
「そっか。大丈夫そうだな。けど、あんたここで何してたんだ? ここの川、溺れるような深さでもなかったけど……」
川? 溺れる? ……そうだ。確か学校の帰り道に石につまずいて運悪く川の方へと転がって、昨日、雨が降ったわけでもないのになぜか川の流れが激しくて、気がついたら——。
若い男の人の言うとおり、ここの川は溺れるような深さではない。一番深いところでも小学生の男子の腰あたりまでしかなかった。そんな近所の小学生達が魚取りをするぐらいの遊び場で本気で溺れていたなんて……。
そうだ、きっと溺れたのは幻想に違いない。幻だったんだ。そう思う事にした。そう思わないと自分がどれだけドジでマヌケな人間なのかと耐えきれない現実に発狂してしまいそうになるから。
「川遊びは楽しいけど危ないから次からは気をつけるんだぞ」
若い男の人はそう言い残して颯爽とその場を立ち去った。……あんな人になろう。川で溺れている人がいたら自分の危険も顧みず助け出して、見返りも求めない、そんなかっこいい人に。
若い男性……お兄さんが立ち去ったあと、少し時間が経って、やや頭が冷えた。ので、状況を把握するために、ちらっと辺りを見回したら——
あれ? あそこにあんな透明で大きなビルなんて建っていたっけ? ヘリコプターのような一人乗りの車のような空を飛び交っている近未来っぽいものはなんだ?
通り過ぎる車っぽい乗り物も、よく見てみたらタイヤが一つもついていなくてリニアモーターカーのように浮いていた。……もしかして、これはあれか。
(……何かの映画のセットかな?)
映画のセットなら納得がいく。しかし、今のセットの技術はここまで進んでいたなんて。世界観は、えみ好みの近未来SFだ。宇宙人と共存する近未来の地球人が宇宙人絡みの事件を解決していく映画や、宇宙人と地球人がお互いの生存を賭けて大戦争をする映画は面白くて何回も見た。
……でも、ただのセットの技術でバイクは空を飛ぶものなのか? ワイヤーはどこへと繋がっている? こんな街中で突然サメが飛び出してきたかと思ったら3Dのホログラムでできた映画の広告だし、本当にただのセットの技術で説明がつくのか?
極めつけは空を飛んでいる飛行船らしき機体についている巨大な液晶から流れるニュースで〝今日〟の西暦が〝二二〇五年〟だという事。いくらなんでも〝作り込まれすぎ〟ではないか? そしてここが撮影地ならば撮影用の機材の一つがあってもいいはずなのに、どこを見渡してもそれらしきものは見当たらない。
(………………夢?)
足りない頭で考えたなりの答え。川に落ちて溺れたショックで夢でも見ているのかもしれない。それなら、とよく漫画で見るほっぺたをつねって夢か現実かを判断する古典的な手法をとる。どうせ痛くないに決まっているので思いっきり力を込める——「っあ゛ぁ゛ぁ゛!」痛い。めっちゃ痛かった。ほっぺたの裏を噛んでしまったときくらい。ださい雄叫びをあげて、周りの人達から一気に冷ややかな視線が集まるので、あはは、と照れ笑いしながらその場から立ち去るように歩き出す。
痛い、という事は、(夢じゃ……ない?)
だとするなら、幻覚……? 川に溺れた弾みで頭を強く打っていたらあり得ない話ではないかもしれない。それならまず行くべきは病院だろうか。でも精神異常者と認定されるのも嫌だ。精神病練に入れられて強制入院なんて事になったら……考えたくもない。なら、この妙に変な世界はどうやって説明する? どうやって……——ハッ、と、ある一つの仮説に辿り着く。
〝異世界〟。漫画やアニメで見るのだと、エルフやゴブリンなんかがいる魔法ファンタジー系が定番だけど、この世界は現実世界と似通った近未来SF系の世界だ。そしてこの状況は、ネットの掲示板でよく見る〝気がついたら異世界に飛んでいた〟系のやつか。そうか、それなら納得だ。あはははははー、
(——って、全っっっ然笑えない! え、嘘、マジ? ここって異世界? 嘘でしょ? それとも数百年後の未来の世界? ああもうどっちにしろここどこだ!)
より一層頭がパニックになる。それならまだ幻覚のほうがマシだ。いや、幻覚も嫌だけども。これがドッキリという事はないのか? そもそも、ドッキリだとしても仕掛けられる理由がわからないし、えみがパニック状態になっているのをどこかで見て楽しんでいるんじゃないのか? 誰が? 考えれば考えるほど頭のなかがごちゃごちゃになってわからなくなっていく。
とりあえず、水でも飲んで落ち着こう……喉が渇いた。今日はたまたまお金を持っていたので、近くのコンビニに入って適当なエコパックのペットボトルの水を選び、レジに持っていき小銭を卓上に置いた。すると、
「……すみませんお客様、こちらの硬貨はうちでは取り扱っていません」
なぜか困ったような微笑み顔でレジのおばさんはマニュアル対応をする。いや、そんな顔されたらえみも困るんですけど? というか、今、なんて言った?〝こちらの硬貨はうちでは取り扱っていない?〟そんなおかしな話あってたまるか。昭和ウン年に作られた、純日本製の、百円玉と十円玉だ。全国共通の通貨であるはずなのに、平民の身近なショップ代表であるコンビニエンスストアで使えないだと? よく見てくださいと、本物である事を押し通そうとするが、おばさんは困り果ててしまってとりあえず店長を呼び出して、三人で話し合う事になったものの、店長もおばさんと同意見で、段々とえみを見る目が怪しい目に変わったのでこれ以上トラブルは抱えたくないと逃げるようにしてコンビニを出ていった。
とぼとぼと足の赴くままに河原へ辿り着き、膝を抱えてぼーっと川の流れを眺める。ポケットに入れている使えなかった硬貨を手に取り出して見つめた。——夢でも幻覚でもないとすると、今ので確信した。——やっぱり、ここは〝異世界〟だ。見た目はえみの住む世界とそんなに変わらないのに——SFチックな外観はさておいて——えみが持っているお金が使えない。……確信したくなかった。認めたくないけど、その説に妙に納得してしまっている自分がいる。
お金が使えないから食べ物はおろか水すら買えない。……まあ、水は公園の飲み水を使えばいいとして、お腹が空いたらどうしよう。今夜泊まるところも考えなくては。というか、帰れるのかな。考えたら急に不安に襲われて、今、この世界にひとりぼっちなんだと思うと、凄く寂しくなって、怖くて、どうしてこんな事になっているのか、わからなくて、河川敷でうずくまる。ぐずったってどうしようもないけど、どうすればいいかわからなかった。
(……お兄さん)
ふと、警察よりも先に川で溺れたえみを助けてくれたお兄さんが思い浮かんだ。本当に、なんの気なしに。とにかくこの世界の顔見知りに会いたい一心で、お兄さんを探し回る。あてなどない。手がかりもない。例えば、砂丘のなかから一粒の砂糖を見つけるくらい途方もない。けど、直感を信じて駆け回る。
えみと別れてからそんなに時間が経っていないからそう遠くまで行っていないはずと思っていたけど、見当たらない。当たり前と言ったら当たり前か。諦めかけていたそのとき、
(——お兄さん!)らしき、男の人が遠くで見つかる。駆け寄って近づいて声をかけると「……あんた、さっきの?」
えみを見るなり驚いた目でそう言う。
「あの、こんな事初めてで、っていうか初めても何もないけど、あたしも凄く混乱してて、どうしたらいいかわからないんですけど、」
矢継ぎ早に展開のない事を喋っていると、お兄さんは不審な目で「エンジョコーサイ……?」
「違います!」と思わずがなり立てる。お兄さんに落ち着くように宥められて、少しだけ冷静になったえみは、
「……今、凄く困ってるんです。お話、聞いてもらえませんか」
信じてもらえないかもしれないけど——目が覚めたら知らないところにいた事、えみがいた時代よりも遥かに世界の時間が進んでいる事、多分、えみはこの世界の人間じゃない事をしどろもどろに伝えると、笑いもせずにずっと黙って聞いていたお兄さんは、含みのある顔でえみを見る。
「ちょっと待ってて」とお兄さんは言うなりえみから少し離れて、手のひらほどの棒状の何かを耳に当てて、誰かと何かを話している。やっぱり警察行きだろうか……警察は嫌だ。何も悪い事はしていないけど、警察に保護されたってなんの意味もない。話したって信じてもらえない。お兄さんを頼ればなんとかなるかもしれないと感じた直感は間違いだったのだろうか。たかだか溺れていたところを助けてもらっただけだ。お兄さんが話しているあいだに逃げてしまおうかと、じりじりと距離を離し、背を向けて一気に走り出す。お兄さんは慌てた様子でえみを追いかけた。体育の教科が二の全力疾走じゃ大学生くらいの男の人の走りに敵わず、目論見も虚しくあっけなく散ってしまう。
「なんで逃げるんだ!」
「だ、だって、ケーサツに引き渡すんでしょ? ケーサツは嫌だ!」
「警察じゃないから! あんたの話、信じるから!」
「ほ、本当に?」自分から言っておいてこんな嘘みたいな話を信じてくれるなんて……とのちのえみは思うのだが、このときのえみは素直に信じてくれたのだと喜んだ。
「一緒にきて」お兄さんは真面目な雰囲気でえみをどこかへと連れていく。不安しかないけれど、今はただえみの話を信じるというお兄さんの背中を信じてついていくしかなかった。
そこそこ人通りのあった街中から賑わいのある中心部に向かって進んでいき、しばらく歩くと、この街のシンボルとも言えそうなガラス張りの大きなビルのなかへと入っていく。なかはドラマとかでよく見るような感じの近未来的なエントランスだ。社員と思われる人達が行き交う。受付に行くお兄さんを少し離れたところから眺めていると、戻ってきて、通行証だという半透明なカードを手渡されて、ビルの奥へと入っていく。えみは落ち着かないというのに、お兄さんは涼しい顔でどんどんビルのなかを進んでいく。見た目はわりと軽そうな感じ——失礼だけど——に見えるのに、この大きな会社の関係者だとは意外だ。
端っこのエスカレーターに乗り込み、お兄さんは半透明のカードを扉の横についている小さな液晶画面にかざすと、エスカレーターは動き出した。お兄さんとえみが乗った箱はぐんぐん地下へと降りていき、降りていき、降りていき……果てのないところまで降りていくと、急に止まる。扉が開くと、そこはまるでSF映画で出てくるような組織の要塞みたいな外観が広がっていた。ぽかんと口を開けている暇もなく、お兄さんに引き連れられて奥へと進む。グレイや火星人が出てきてもおかしくない雰囲気だ。とある一つの扉の前で立ち止まった。
重厚な扉の先には、小太りで見るからに機嫌が悪そうな一重まぶたの中年男性が、文字が羅列するホログラムに囲まれて座っていた。蛇のような鋭い瞳が、えみをちらりと見たあとに、お兄さんを直視する。
「……私は忙しいと、言ったはずだが」緊張感のある低い声で男性は言う。思わず背筋が伸びる。
「なので、こうやって直に参りました。単刀直入に言います」と、お兄さんは臆する事なく、一呼吸置いてから「彼女を元の〝過去〟の時間に帰すためにも転送装置を使用する許可をください」
「私情で許可がおりるようなら、私の役職など無に等しい」
「っじゃあ、このまま放っておけと言うんですか。俺らの機関って、そういうものじゃないんですか」
「お前のようにぬるま湯で極楽にいけるような烏合の衆ではない。拠り所を求めているのなら他を当たれ」
「他に当たるところがないから言っているんでしょう。彼女だって、無下にされるかもしれないのに、勇気を振り絞って俺らに当たってくれて……これは、俺らの〝使命〟だと思うんです。たまたま〝俺らの機関〟の人間に当たるって、奇跡じゃないですか? きっと〝神様〟が与えてくれた——」
「〝使命〟だの〝神〟だの、朧気な台詞で説き伏せる気か。相手を良く見る事だな、小童」
一喝される。負けじとお兄さんは反論しようとすると、間髪入れずに「僅かでも私の時間をお前に割いてやっているんだ。とっとと下がれ」とさらに一喝して、男性の一声でどこからともなくやってきた別の男の人が、お兄さんとえみを部屋へ追い出そうとする。お兄さんがわちゃわちゃ言うが、もう男性は聞く耳を持たずホログラムに目を移す。
「あ、あの!」思い切って声を上げた。男性は目線だけをこちらに一瞬向けてくれた。すかさずえみは声を上げる。
「お兄さんの言う事は全部本当なんです。信じてくれないかもしれないけど……。お兄さんは悪くないです。むしろここまで連れてきて助けてくれました。だから……えっと、その……ごめんなさい、でした」
言い終わって少しの間が空き、再び男の人に追い出そうとされる。
「待て」背後から低い声が投げかけられる。一旦足を止めて、えみとお兄さんは男性のほうに振り返った。男性は依然として怖い顔で、
「……お前が拾ってきた種だ。何か問題が起こった場合は、お前が責任を持つという事だという事は心得ているな?」
その一言でお兄さんは固まってしまうけど、「……はいっ」と振り絞って声を出した。どこか嬉しそうにも聞こえた。「下がれ」と冷たく突っぱねる男性の言葉を背に、扉を隔てた先で、お兄さんは、はあ〜っと大きなため息を漏らして肩の力を抜く。脱力したあとに、「よしっ!」と拳を強く握りしめた。
いったい何がどういう事なのだろう。もしかして、許可をもらえた……という事なのだろうか。じゃなければ「よしっ!」と言ったお兄さんの説明がつかない。置いてけぼりのえみに気づいて「ああ、ごめん」とお兄さんは一言言ったあとに、えみをどこかへと連れていく。
「えっと……許可をもらえた……って事、ですか?」お兄さんのうしろを歩きながら聞いてみる。歩みは止めないまま、お兄さんはえみのほうを振り向いて、「多分。ま、大丈夫だろ。あの人、いっつもあんな感じだから緊張するんだよなあ。あんたが美人だったおかげだな」
えみの不安を和らげてくれるかのように冗談っぽく話す。はは……と思わず笑いをこぼしてしまう。しばらく歩き続けていると、地下へと続く長いエスカレーターを下っていき、周りの風景が段々と薄暗闇に包まれて、辿り着いた先は地上と雰囲気が違う広間だった。トンネルのような通路を進むと大きな機械が中央に鎮座していて、周りを囲うように丸くて平たい台座がいくつか並んでいた。どうやらこれが〝転送装置〟なるものらしい。
お兄さんに指示されて台座の中心に恐る恐る立つ。お兄さんはえみの向かい側に立って突然目の前に現れた液晶のようなホログラムに何かを打つ動作をしながら「あんたがここに来る前の時代は?」とか「場所は?」とか色々聞いてきたので、答えて、お兄さんの動作を見ていたら、えみの足元から青い光の粒が立ち込めてきて次第にえみを包むようにして舞い上がる。機械から発する青い光が蛍のようでとても幻想的に見えた。いつか見たファンタジーゲームのなかの古代の遺跡がこんな感じだった。不安だけど優しい光が気持ちを落ち着かせる。冷たいけれど温かみのある青い光の粒子に包まれるなか、お兄さんに見送られながら真っ白くて強い光が一瞬で辺りを包む。眩しくて、ぎゅっと目を閉じ、光が穏やかなものになるのと同時に、子供の声や車の音が耳に入ってくる。ゆっくりと目を開けると、どこかの川辺の土手にえみは立っていた。ぽかんと、空いた口が塞がらない。確かに、ついさっきまでえみは古代の遺跡のようなファンタジーなところにいたはずだ。それが今、目の前に広がっているのは、いつもの平穏な日常。
(……夢、だったのか?)
いったいもうどこからどこまでが夢なのかわからない。始めから夢だった? 白昼夢? 痛かったのも思い込みだったのだろうか。まあ、夢じゃなかったとしてもいい思い出になった。現実ならば、お兄さんによってえみの元いた時代へと帰ってきた。
……が、(……なんとなく、違う?)
直感でそう思い、妙な不信感を抱いた。知っているはずの風景なのに初めて見るような感覚。よく、初めて見る景色なのにどこか懐かしさを感じるという事を耳にするだろう。それは魂が帰るべき場所で、いわゆる魂の故郷なのだそうだ。……と、何かの科学の番組で見た事がある。郷愁感という言葉があるが、その逆バージョンといったところ……かもしれない。新商品のお菓子を買いによく通っているコンビニや、軒先で行き交う人々を眺めながら静かに佇む柴犬や、肌を撫でる春の陽気を含んだ冷たい空気でさえも、えみが〝元いた場所のものではない〟と徐々に感じさせられる。妙な不信感が拭えないまま帰路に着いた。
——湧いた疑惑は、間違いではなかった。疑惑から確信に変わったのは、自宅だった。今朝、家から出てきたままの変わらない外観で、ほっと一安心したが、そのあとだ。まるで我が家のように家に入っていく見知らぬ他人。見た目はえみと同い年か年下に見える。出迎えるのは、えみのパパとママに瓜二つの人。なんの疑いもなく、見知らぬ他人を受け入れる。愛する我が子のように。
一瞬、立ちくらみしそうなくらい目の前が真っ白になりかける。一呼吸、間を置いて、ハッと我に返って慌てて三人の元へ駆け寄り問い詰めた。
「ちょ、ちょっとっ、あんた……誰? なんでえみの家入ってくの?」
えみと同世代くらいの子は驚いた目で「え? ここ、ウチの家だけど……誰?」
そんな事、ありえない。この家はえみと、えみのパパとママの家だ。その子だけならともかく、パパもママもその子と同じ目でえみを見る。この瞳……コンビニで、もめた店員が向けてきた瞳と同じだ。嫌な予感が加速する。
「パパ、ママ、えみだよ。忘れちゃったの?」
そんなはずはない。ない、はずだ。気ばかりが焦る。えみをじっと見つめたあと、ママはこう言った。
「……どちらの子? ショウ、お友達?」
——嘘だ。
ショウ、と呼ばれた子は「知らない」と怯えた様子で首を振る。
——その子は、誰だ。まるで二人の子みたいに振る舞って。
——じゃあ、ここにいるえみは? えみは〝何者〟だ?
「とりあえず警察に……」パパがそう言うと、えみは慌てて逃げ出した。自分の家なのに。もう何もかもがめちゃくちゃのぐちゃぐちゃだ。一心不乱に走り続ける。
通学路の通りでもある土手を降りたところの河川敷で、ショックを受け止めきれずにうずくまるように膝を抱えていた。ドッキリにしてはタチが悪すぎる。隠し子というわけでもない。そんな話は聞いた事がない。何より二人の反応に嘘は見られなかった。
まるで初めからえみがこの世に存在してなかったかのように……。ゾクッと悪寒が走る。悪い夢なら早く覚めてくれ。
途方に暮れていると、背後から「どうしたんだ?」と、ついさっきまで聞いていた声がかけられる。
「お兄さん……。どうして、ここに?」
お兄さんがいる、という事は、やっぱり夢のような出来事は夢じゃなかったのか。そんな事より、
「ちゃんと家に帰れたか心配でさ。実はずっとあとつけてた。ごめんな。で、何かあったのか? 家族の事で他人のオレが首突っ込むもんじゃないだろうけどさ、オレに何か出来る事があるなら力になるよ」あの人に最後まで責任持てって言われちゃったし……とどこかバツが悪そうに苦笑するお兄さん。
えみは泣きそうになりながら、お兄さんに実の両親に赤の他人を見るような目で見られた事、えみの事は知らないと言われた事、えみが知らない子供を我が子のように扱っている事、全てを話した。
「……本当にここはあんたの家で、あの二人はあんたの両親なんだな?」
「はい……」
念を押すように聞いてきたお兄さんは、軽そうな雰囲気に似合わない訝しげな顔をして顎に手を添えて、いかにも考え事をしてるといった姿でしばらく考え込む。「もしかしたら……」と独り言のように呟く。「え?」とえみが聞き返すと、
「悪い、詳しい話は元の時代……っと、あんたにとったら未来の時代だな。そこに行ってから。未来人のオレが過去にあまりとどまってると良くないからさ」
お兄さんは言うなり、いつか観た映画で出てくるスパイ道具宜しく、テニスボールくらいのサイズのSFチックな謎の球体状の機械を取り出して地面に放り投げると、まるで蜘蛛の足みたいに開いて地面に設置して、青くて丸い発光体が浮かんで光の粒が舞い上がる。その美しさに目を奪われていたら、急に吹雪みたいに激しく舞い上がって辺りを包み込むと、晴れたときには別の場所——元の世界(?)に送ってもらう際に転送された古代の遺跡みたいなところ、元の時代——えみにとったら未来の時代——に戻ってきた。ぽかんとしてる間もなく、お兄さんに言われるがままうしろをついていく。そしてまた怖そうな中年男性の前へと現れる。男性はお兄さんとえみを見ると不機嫌そうな目をより一層不機嫌にして睨む。えみのみならずお兄さんも緊張して硬直する。
「……その子は、なぜここにいる」
「はいっ。その事なんですが——彼女はもしかしたら〝平行世界〟の人間なんじゃないかと」
(平行世界?)SF映画とかで聞いたりする突拍子もない単語に、えみは疑問符しか浮かべなかったけど、急な展開にもかかわらず男性は、お兄さんの言葉に無造作な太い眉毛をぴくりと動かしたような気がした。
「……根拠は」男性が静かに呟く。
「彼女が両親だという二人には彼女と同世代の子供がいました。彼女には自分以外の兄弟はいないようです。両親は、本来の子であるはずの彼女の事は記憶になく、代わりに見ず知らずの子供を我が子としていました。これは〝平行世界〟による〝同個体〟の〝変換〟なのでは、と」
「その証言だけでは信憑性に欠けるな。〝変換〟を証明する手立てもあるまい」
「なら、戸籍を調べてみてください。彼女の証言が本当なら、彼女の戸籍は〝実在していない〟という事になります」
「調べてもいいが、その子が嘘をついている可能性もある。鵜呑みにしたとして、〝彼方側〟からの刺客だとも否定できん」
「っああもう、なんでわかんないかなー!」
がしがしとお兄さんは頭を掻きむしる。話の内容の次元が違いすぎてまったくついていけてないが、えみのせいでお兄さんに迷惑をかけてしまっている事はわかる。懸命に説得を試みるお兄さんに、
「あ、あの、もう大丈夫ですから」
「……っつってもさ、アテとかあるの?」
「それは……」口ごもる。こんな見ず知らずの世界でアテなんかあるわけない。けど、これ以上えみの事で迷惑をかけるのは嫌だから。もしかしたら一晩寝たら元の世界に帰れているかもしれないし。案外、そんなものかもしれない。
適当にお兄さんをなだめて「ありがとうございました」とお礼を言ってさっさとその場から去ろうと歩き出す。そのときに、チャリーン——と甲高い音が響く。ポケットに入れていた硬貨が落ちてしまった。えみが拾う前にお兄さんが拾って——
「……これだ」硬貨を見つめたまま、ぽつりとお兄さんが呟く。「え?」と聞き返すと、お兄さんはえみそっちのけでえみの硬貨を男性に見せつけるように突き出しながら声を上げる。
「これが〝証明〟です! この硬貨のデザインは現代では流通していないものです。それを彼女が持っていた。彼女が〝平行世界〟の人間だと言えるのではないでしょうか」
「……コレクション、という事もあるだろう。数百年前のものが現存しているのは、よもや珍しい事ではない」
「なら詳しく調べてみてください。これが別世界のものだったとしたなら、この世界で発見されていない未知なる物質でできているかもしれません」
「……なぜ、そこまで執着をする」
「——上司、あなたに『最後まで責任を持て』と言われたのもそうですが……〝意地〟、です」
気迫のあるお兄さんの物言いに、上司と呼ばれた男性は無言でお兄さんを睨み続ける。重い空気が続く。——男性の食指が、机を叩くように動く。液晶のようなホログラムに向かって誰かと喋るように話し始めた。短いやりとりのすぐあとに、お兄さんと同じような格好をした、お兄さんとはタイプが違う真面目そうな男の人がやってきた。やってくるなり、男性が男の人に指示を出す。
「その者が持っている物を鑑定へ。判明次第、早急に結果を告げろ」
パァ、とお兄さんの表情が明るくなる。お兄さんが喜ぶのもつかのま「お預かりいたします」と男の人は自分が与えられた仕事をこなす。えみが持っていた硬貨は専門の人の手によって鑑定へと出される。結果が出るのに少し時間がかかるみたいなのでそれまで待ちぼうけだ。凄く変な感じだ。お茶を出されて、待っているあいだ、ずっと地に足がつかない感じだった。まるで自分が生ける化石とでもなった感じだ——実際、そのとおりらしいのだが——。偉人や恐竜も解析される気持ちはこんな感じなのかなあ、とぼんやりと変な事を考えていると、解析の結果が男性に届いたようだ。これでごく普通の硬貨だったらどうしよう……大言を吐いたお兄さんが報われないし、えみはいったいなんなのかという事になる。緊張して男性の言葉を待つ。
結果は——クロ。つまり、解析の結果、現代の硬貨と似ているが性質が違う、この世界に発見されていない〝未知なる物質〟で出来ている事がわかった。これによってえみが〝平行世界〟の人間だという確証が濃くなった。なんだかよくわからないが、喜んでいい……のだろうか。いや、つまりはえみはこの世界で言う〝宇宙人〟みたいなものだ。喜べるわけがない。えみにとったらむしろ今見ている世界のほうが異質だっていうのに。そもそも、
「平行世界って……?」
映画では観た事があるが自分が体験する事になろうとは思ってもいなかったので理解が追いつかず混乱状態に陥っていると、上司と言われた男性がえみの疑問に怖い顔のまま、だけど丁寧に説明してくれた。
「今、ここにいる世界がAだとしよう。このAの世界の性質と、ほぼ同一である別世界がAと並行して存在している。それが、君がいたと推測されるBの世界。パラレルワールド……と言ったほうがわかりやすいかね。世界は唯一無二のように思われるが、Aの世界、Bの世界、Cの世界……と蜘蛛の糸のように、いくつもの世界で構築されている。それが〝世界線〟または〝時間軸〟。同じ時間を平行している故、決して干渉する事はない。のだが……なんらかのきっかけでB地点の君はA地点のここへと跳躍してきてしまった。それが現状の君だ。ここまではわかるかね?」
「はあ……」と、どっちつかずな返事をする。わかったようなわからないような。つまり、無数にあるなかの一枚の硬貨の表面がお兄さん達が住む世界、裏面がえみが住んでいたとされる世界で、どちらの面もお互いの面にくる事はできないはずなのだが、なんらかのきっかけで裏面が表面へときてしまった……と、硬貨を使ってお兄さんが説明してくれた。男性は、続ける。
「君が、平行世界の人間である前提で話を進める。この世界へと来る事ができたのなら、帰る事もできるはずなのだろうが……。何か、この世界へと来るきっかけになった出来事などないのか?」
断片的に残っている記憶の端々を繋げていき、そこから関連が高いであろう事の発端を導き出す。
「川に、溺れて……気がついたらここへ……。でも、あのときは無我夢中だったから、詳しい事は、何も……」
「そうか。さすがにもう一度、川で溺れさせるのは非人道的だな。ふむ……」
男性とお兄さんは考え込んで黙ってしまう。もう一度、転送装置で元の時代に転送してもらうにも、えみは、先程お兄さん達が言った〝平行世界〟の人間らしいので、そもそも帰るところがない。元の時代に戻ったときに抱いた妙な違和感にもなんとなく説明がつく。考えあぐねていると、どこからともなく影からぬらりと小型犬ほどの大きさの〝何か〟が現れて、「このお方を『審神者』として従事していただくのはいかがでしょう」
「きっ、きつね……? が、しゃべ……⁉︎」
狐(?)のような、よくわからないもふもふとした生き物がえみの目の前で喋った。ちゃんと人語だった。えみにも理解できた。理解できたからパニックになる。まさか自分が魔法少女のようなお決まりの台詞をこうも自然とこぼすなんて、思ってもみなかった。いや、思うはずがないだろう。だってフィクションなんだから。そんなフィクションのようなノンフィクションのなか、一番フィクションに釣り合わなそうな一人——男性——と一匹は、驚くえみに構わず話を続ける。
「こんのすけ。しかし、女——ましてや子供に、その役は荷が重すぎるのではないか」
「『歴史修正主義者』は日に日にその勢力を強めています。今は一人でも多くの使者を向かわせ、一刻も早く沈静させるべきではないでしょうか。こちらの世界の歴史が改変されてしまったら、このお方の世界の歴史にも影響が及ばないとは言い切れません」
男性は口ごもる。喋る子狐に言い負かされている男性の図はあまりにもシュールすぎる。やっぱり夢なんじゃないのか、これ? 白昼夢? それとも幻覚?
「帰る方法もわからず、帰る家もなく……。そうだな……——君はどうしたい」
男性の問いかけに、ずっと置いてけぼりでぼんやりしていたえみは、ハッと現実に戻される。
「自力で帰る方法を見つけるも良し、ここに在留するも良し。ただし、ここに居る条件として、君には我々の機構に所属して働いてもらう。知らない世界で路頭に迷うより余程賢明だと思うがね」
誘導尋問かの如く、二者択一のように、この世界で独りぼっちのえみに救いの手を差し伸べる耳障りのいい言葉だが、裏を返せば答えなんてはなから一つしか用意されていないのに、あくまでもえみの意思を問う。大人の汚い部分を垣間見た気がした。男性のいいように使われるなんて……でも、男性の言うとおり、似ているけれど知らない土地であてもなくさまようのは心細い。「いくら適性があるからと言って——」と傍らのお兄さんはえみを弁護してくれる——が、
「……やります。その審神者っていうの、やります」
自分でもびっくりするくらいにハッキリとした口調で言った。
前を歩くこんのすけをじっと見る。大きなふわふわとした尻尾を左右に揺らしながらちょこちょこと歩く姿は可愛い……じゃなくて、どこからどう見ても子狐——だいぶ変わってはいるが——にしか見えないのに、人の言葉をぺらぺらと喋るのが不思議でしょうがない。どこかに小型のスピーカーでもついていて、誰かが喋っているのだろうか。はたまたAIを搭載した子狐型のロボットか。だとするならスイッチがどこかに……。
「どうかされましたか?」と、えみの行動を察したのか、頭をこっちに向けてこんのすけが見上げてきたので、「なんでもない」と少し言葉に詰まりながら返した。
あのあと、男性の指示に従って、こんのすけについていく事になった。詳しい事はこんのすけがすべて説明してくれるという。こんな子狐が……と不審な目を向けるが、立場が偉そうな男性と対等に言い合っていたし、堅物そうな男性が一任するくらいだし、見かけによらず物凄い子狐なのかもしれない。不審な目を向けている事がバレないように、空気を切り替えるように話題を吹っかける。
「その、さにわっていうやつ? ほんとにえみにできるものなの?」霊感とかまったくないし……とぼやいたあとに、淡白に、しかし当然かのように「できますよ」とこんのすけは断言した。なぜ?
「先程、あの場で申し上げましたが、あなた様には適性があります。あなた様が自覚がなくとも私には感じられます。その力があったからこちらの世界線に飛んでこられたのかどうかはわかりかねますが、仮定するとならば、あなた様がこちら側に飛んでこられたという説明にも合点がいきます」
可愛い見た目のわりに言っている事は難しいが、「信じて……くれるの?」と言葉をこぼす。
「私も、そういう存在ですから」
いまいち腑には落ちなかったが——ロボットだか妖怪だか曖昧な変な存在と一緒にされたから——この際、人の言葉を喋る子狐でも信じてくれるなら心強い。
談笑も少なく、こんのすけに連れられた場所は、男性達がいた近未来的な外観とは打って変わって、とても親しみのある木造の広い和室だった。それでも豪奢な飾りつけがあちこちにあって、例えるならば、神社のなかのような、凄い神様が祀られているような、とても神聖な場所の雰囲気だった。自然と背筋が伸びて、緊張して呼吸が浅くなる。
こんのすけの合図で目の前の重厚な扉がゆっくりと開かれる。なかには、日本刀の刃の部分だけが五つ、飾られていた。灯りが差し込んでいないのに、輝きが見てとれる。まるで、暗闇のなかに差す、希望の光のような……。
「これから、あなた様を『審神者』として迎える儀を執り行います。目の前に並べられた五口の刀に語りかけるように、強く念じてください」
はあ、と現実味のない指示に思わず空返事をしつつ、とりあえず言われたとおりにする。念じろ、と言われても何をどう念じればいいのか。それとなくそれっぽく手を組んで、むむむ……と集中する。
(こんにちは。いや、はじめまして……? ええと、これからなんか、さにわっていうのになるので、よろしくお願いします云々……)と、心のなかで唱えていたら、心なしか刀が淡く光りはじめ、どこからともなく小さな花びらが淡雪のように舞い落ちはじめる。目の前の出来事に混乱していたら「集中してください」とこんのすけの冷静な一言が入ったので、もう一度、集中しなおす。こんなマジックみたいな光景を目の当たりにしたら嫌でも集中が削がれてしまうけど、一所懸命、刀に語りかける。
花びらの数は多くなっていき、刀から発する光も強くなっていく。一つの刀が僅かにひとりでに動いたような気がした——のは、気のせいではなく、浮き上がって、花びらが運ぶようにゆっくりとえみの目の前まで近づいてくる。ぽかんと口を開けそうになるが、
「手を伸ばしてください」
こんのすけがすぱりと言う。恐るおそる、言われるがまま灯火ともとれる鈍色の光に右手を伸ばすと、かざした瞬間——桜の花びらが吹雪のように舞い上がり刀を包み込む。桜の乱舞が晴れると、そこに確かにあった刀は、人の姿へと変わって現れた。人の姿をした〝何か〟が、えみとばっちり目が合うなり、ニッと歯を見せて快活に笑った。そして、次のように言葉を紡いだ。
「——おお、おんしが新しい主か。わしは陸奥守吉行。一緒に、世界を掴むぜよ!」
(ぜよ……)
これが、えみの——平凡で退屈な人生を歩んできた凡庸の中学生、えみの〝審神者なる者〟としての数奇で奇妙な第二の人生の幕開けである。