第三章 まわる
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
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どこか、昔を思い出すような、よく見る、けれど懐かしい街並みのなかの土手に立っていた。何も思い出せない。知っているような気がするのに。その風景のなかに、目の前に、兼さんが少し離れたところで立っていた。兼さん、と呼びかける。けれど、声が出ない。兼さんの唇が、何かを紡ぐ。けれど、聞こえなくて。
突然、目の前にいた兼さんとの距離が遠のいていく。追いかけたくても、身体が鉛みたいに、海の中に沈んでしまったように重くて動けない。もがいているうちに兼さんは小さくなっていって、いつのまにか満開の、花火のように色とりどりの桜並木に溶けるように消えていってしまう。兼さん、ねえ、待って——兼さん——!
ハッ、と。見慣れた白い天井が視界いっぱいに広がっていた。ゆっくりと、視線を右に、左に動かして辺りを見渡す。どうやら寮の部屋みたいだ。兼さんが去っていくのは……夢、だった? ふう、と深く安堵の息を吐く。なぜ、兼さんが去っていくような夢を見たのだろう。寝起きであまり冴えない思考を、集中して考える事、数秒。——兼さんを怒らせていたのを思い出した。本丸に行きたくないなぁ、と審神者になりたての頃の気持ちに返ってしまい、不満を表すようにゴロンと寝返りをうつ。
こんな鬱々とした気分になったのは、審神者になったばかりの頃以来だ。得体のしれないものと戦う付喪神、刀剣男士を率いらなくてはいけないわけで、そのプレッシャーと慣れない環境から初めの頃は審神者という仕事がとても憂鬱だった。今ではよっちゃん以外にも頼れる人が増えてきて、刀剣男士達みんなも支えてくれるからそんなに苦ではなくなった。むしろ楽しいと思えるときさえも。
……行かなきゃ、と特別な理由がない限り学校へ行かなくてはいけないという義務感から、まだ夢でも見ているかのように鉛のように重い身体を気力を振り絞って、のそりと起き上がらせる。今日は学校が休みなのだが、代わりに休みの日は本丸の業務へと宛てる事になっているので、学校が休みだからといって昼まで寝ていられるわけではない。まあ、学校の授業よりも審神者の仕事をやっているほうが、学校の授業より大変なものの、みんなが力になってくれるので精神面ではずっと楽だ。それに、みんなと一緒にいられるし。だから、大変でもこの本丸での仕事のときは心が穏やかになれた。けれど、今は——
「主様、聞いていますか?」
「……うん、何?」
政府からの電報を伝えに姿を現したこんのすけの問いかけに、問い返す。こんのすけは、何食わぬ顔で——といってもあまり表情が変わらないのだが——もう一度、命令内容を説明する。つまり、要約すると、いつもどおりだ。主要の任務に第一部隊を出陣させて以降の部隊は遠征に、それ以外は待機という名の自由行動だ。出陣先は一度出陣した事のある鳥羽。なら、出陣した事のある男士に加えて次の戦に出陣したがっていた男士を向かわせよう。
データベースから過去の出陣記録を検索する。該当の記録を見つけて目を通すと、思わず目の動きを止める。……『和泉守兼定』。代わりの男士に頼もうと考えたが、今は遠征に行かせていた。どうしてこうもタイミングが悪いのか。兼さんとギスギスしているときに限って——気乗りはしないが、みんなが安全に無事に任務をこなせる事が最優先だ。そう、これは主としての大事な務めだ。社会に出たらこんな事は日常茶飯事になるだろう。社会の厳しさと理不尽さを痛感しながら出陣するメンバーを決めて、本丸内にアナウンスをかける。
兼さんを含めた六人が転送場へ集まる。こんのすけから聞いた任務の内容をそのまま口頭で伝えて、みんながお守りを持っているか確認してから出陣を見送った。ふと、兼さんと目が合うと慌てて目線を逸らす。今の態度だと余計に兼さんを怒らせるだろうに。兼さんの顔を見る事ができないまま六人は行ってしまった。六人がいた場所を見つめて、ふう、と虚しいため息をつく。兼さんの顔を見られないなんて、兼さんと出会ったばかりの頃を思い出すようだ。
『あんた、人の目を見ないよな』
兼さんが本丸に顕現してしばらく経ったある日の事。唐突にそんな事を言われた。急に面と向かって言われると思ってもみなかったから——自分の意見はハッキリ言うタイプだとはたから見てわかってはいたけれど——咄嗟に目を伏せて『え……あ……、すみません……』としどろもどろに謝る。
『なんで謝る?』
『あっ……と……すみません……あ、』呆れた声で『わざとか?』兼さんは、はあ、とため息をつく。ごこちゃん——五虎退の事——ほどすぐに謝るタイプじゃないと自分では思っていたのだが。出会ったばかりの兼さんと上手く目を合わせられずによく謝っていた。
目を合わせられなかったのは、大きくて怖かったのもそうだけれど、何か危害を与えられるんじゃないかという怖さではなくて、艶のある漆黒の長い髪が——空のような、海のような、綺麗な青い瞳が——怖いくらいに凛々しくて、美しくて。目を合わせたら心に秘めているすべてを見透かされてしまうんじゃないかと、馬鹿げた事を馬鹿みたいに信じていた。目を合わせて冗談を言い合うようになったのはいつ頃だっただろうか。今、そんな事を思い出したところでどうなるわけでもないけれど。
兼さんとの気まずい雰囲気が三日ほど続いたあたり——兼さんとの確執を振り払うように、思い出さないように審神者の雑務に励んでいたら、えみの前に堀川くんが訪ねてきた。いつもならカモの子供みたいに兼さんの傍に引っ付いているのに、珍しく一人だ。えみが今、兼さんとの雰囲気が悪いのを気遣ってからだろか。堀川くんは少しためらってから開口する。
「あの、主さん。兼さんと、何かありましたよね?」
真摯に、投げかけてきた。やっぱり、きたか。むしろ兼さん関連の事ならすぐに飛んで聞いてくると思っていたので、遅いくらいだ。えみと兼さんとの心情を気にしてすぐには聞かないでくれていたのだろうか。それとも、気軽に踏み込めないくらいの状況だと察したのか。はたまた、すぐに仲直りするだろうと思っていたのか。いずれにしろ、ただならない雰囲気を作ってしまっていた。兼さんからは何も聞いていないのだろうか。相棒である堀川くんにさえ打ち明けないなんて——堀川くんが聞いてこなかった場合もあるだろうが——相当不快な思いをさせてしまったのか、とますます自己嫌悪に陥る。大丈夫、なんでもないよ、と表情を緩めて受け答えする。が、持ち前の世話焼き性からか食い気味に食い下がる堀川くん。
「兼さんとの事なら、僕が力になれるかもしれません。何があったか、教えてくれませんか……?」
確かに、堀川くんなら兼さんとの確執をなんとかしてくれるかもしれない。根拠はないが確信があるのは、自他ともに認める兼さんの相棒で、助手だから。堀川くんには話しておかなければいけないかもしれない。でも……兼さんとえみの問題だから、えみの失態を話して幻滅されたくないから、堀川くんにも迷惑をかけるわけにはいかないから、湧く自己保身に嫌気がさしながらも本能には逆らえず——あやふやな返事をしていると、堀川くんは諦めないで食い下がり続ける。真剣で、心配の色を浮かべる、兼さんと同じ色をした青い瞳に見つめられると、黙っている事が申し訳なくなって心が揺らいでくる。真摯な想いは不安定な想いには勝てない。結局根負けして、恐る恐る兼さんとの確執を、話した。誰かに話して楽になりたかったのかもしれない。兼さんが泣いていて心配だった事、土方さんに手紙をもらうために協力してもらった事、土方さんと接触してしまった事——堀川くんはえみが話し終わるまで、何も言わずに黙って聞いてくれていた。
話し終えると、堀川くんは大きくて丸い目を伏せ気味にして「……僕の、せいですよね」声の調子は暗かった。えみは驚く目つきで堀川くんの顔を見る。堀川くんは悲しげな目の色を浮かべていた。
「僕の余計な一言で、二人をこんな目にあわせてしまって……その上、主さんに危ない事までさせて、本当にっ……」
ぎゅっ、と後悔の強さを表すようにズボンを固く握りしめる。堀川くんが悪気を感じる事なんて、ない。
「堀川くんは悪くないよ。やったのは全部えみだから」
「でも、僕の一言がなければ、主さんはそんな事をしなくてすんだのにっ……兼さんとも……」
「兼さんは怒って当然だよ。えみが怒られたのも、当たり前だよ。だって……兼さん達ががんばって守ってる歴史が、えみの勝手で変わっちゃうかもしれないんだから。……全部、えみが悪いんだよ」
そう、悪いのは全部えみ。それでいい。みんなの良心につけ込んで悪い事をした。堀川くんは最後まで自分を責めていた。自分の責任だと。必ず、兼さんを説得すると言ってくれた。ああ、えみのやった事が、また一人迷惑をかけてしまった。堀川くんの言葉はありがたかったけれど、迷惑をかけてしまってとても不甲斐ない気持ちでいっぱいだ。やっぱり話さないでいておいたほうが良かったのかもしれない。余計に兼さんが怒るかもしれない。あとから後悔の念がわいても、もう遅い。「審神者、向いてないなぁ……」と呟くようにこぼれ落ちて、静かな部屋に虚しく響き、吐いた言葉がトゲのように胸に突き刺さる。自分で吐いた言葉なのに。
兼さんと仲が悪くなって一週間ほど経つが、未だに兼さんとのギクシャクした雰囲気が続く。始めの頃よりかはほんの少しずつ話せるようになってきたが、任務に関する事以外はほとんど話さなかった。ときどき、軽く突っ込みたいような受け答えでも、兼さんを怒らせてしまう恐怖から前みたいに強く言えなくなってしまい「うん、そうだね」とか尻込みした言い方になってしまう。徐々に悪い空気が周りにも伝わって、ランやキヨの他の男士達に心配の声が毎日のようにかけられる。嬉しいけれど、気遣ってくれるほどになんとかしなきゃと焦って、でもいざ話すとなると怖くて、言葉が出なくて。えみが何を言ったとしても火に油を注ぐだけなんじゃ、と、拒絶されるんじゃないか、と思うとためらってしまう。兼さんに今よりもっと嫌われてしまうなら、このままでいいと、心のどこかで諦め始めていた。
渡り廊下を歩いていると向こう側から兼さんがやってくる。今度こそ……と声をかけようと意気込むが、近づいてくるごとに緊張は増して、すれ違いさまに目が合おうとすると、とっさに視線を落として回避してしまう。ああ、またやってしまった。兼さんは無言のまま通り過ぎようとする。……こんな窮屈な日々をあと何回過ごせば元どおりになるんだろう。ぎゅっ、と上着の裾を握りしめる。
「——おまん、いつまで主にそんな態度とっちゅうつもりじゃ」
降りかかってきた土佐弁に、え、と驚いて振り返る。よっちゃんが、淀んだ空気にメスを入れるように、えみと兼さんのあいだに介入してきた。「ああ?」と兼さんは眉をしかめていつも以上に不機嫌な声を上げる。そんな威嚇じみた声にひるむ事なく、よっちゃんはえみの前に出る。
「ええ加減、機嫌なおしたらどうじゃ。ずっと子供みたいに不貞腐れよって」
「テメーには関係ねえ」
「ある」ためらわないよっちゃんの返答に「あ?」と兼さんは苛立ちのこもった短い声を上げる。よっちゃんは、続ける。
「わしは、主の刀じゃ。主の元気がないと刀のわしも元気が出ん。主に仕えるんは、おまんだけじゃない事、わかっちゅうがか。おまんの勝手で主の調子が乱されるんは辛抱ならんっちゅうね」
「オレが悪いって言いてぇのかよ」
「そう聞こえんかったが?」
挑発するようなよっちゃんの返しに「てめえ!」と兼さんは青筋を立ててよっちゃんに殴りかかろうとする。タイミング良く兼さんの後ろからきていた堀川くんが状況を察して背後から身を呈して兼さんを抑える。よっちゃんは後ろに立っているえみをかばうように、黙って兼さんの目を見据えていた。よっちゃんの眼力のおかげか、兼さんはよっちゃんと睨み合って数秒後、えみのほうを一瞬だけ見て、チッ、と吐き捨てるように舌打ちをしたあと、堀川くんの拘束を解いて——やりあうつもりはないとわかったのか堀川くんから力を緩めて——えみの視界から遠ざかっていった。背中を見るのは、兼さんと喧嘩してからもう何度目だろう。
修羅場を乗り越えたあとのよっちゃんの顔をちらっと伺うと、兼さんが去っていった方向にむすっとしたような険しい顔を珍しく浮かべていて、えみの視線に気がつくと、ふっ、と怖かった表情が柔らかく戻って、えみがいつもよく見る、えみを落ち着けさせる笑い顔になった。よっちゃんは、いつまでも言えないえみの代わりに言ってくれたんだ。「あの……ごめん、ね」
「気にせんでええ。しっかし、おんしら何をそこまで張りおうちょるんじゃ?」
あくまでも軽い感じでよっちゃんが聞いてくる。そこまで深刻そうでもない風に。気さくに聞けばえみが少しは話しやすくなるだろうと、よっちゃんなりの気遣いだろう。気持ちに応えたいけれど、口ごもっていると、言いたくないなら言わんでえい、とよっちゃんはえみの気持ちを汲んでそれ以上は追求しないでくれた。普段から気兼ねないよっちゃんにまで気を遣わせるなんて……だめだな。自分がとても情けなく思えてくる。同時に、よっちゃんの優しさがどれだけ心強い事か。もう一度、ごめん、と謝ると、やっぱり豪快に笑って同じ事を言った。
「よっちゃんが、ああ言ってくれて凄く嬉しかった。ありがとう」
「おん。しっかし、和泉守も頑固者やき。いつまでも堅くなっちょったらいかんちゅう話じゃ。いい加減和泉守の態度に我慢できんかったぜよ」
普段は、えい、えい、となんでも笑ってかっ飛ばしてしまうよっちゃんが、誰かに対して真面目に怒るなんて初めて見た。「相手が兼さんだから?」と何気なく口にすると、よっちゃんは、目を丸くしていた。よっちゃんの丸い目をぱちくりと見たあとに、しまった、今のは嫌な言葉だったかもしれないと気づいた。ああ、もうどうして、お世話になったよっちゃんに仇で返してしまうのか。けれど、えみの心配とは裏腹に、よっちゃんは目を弓なりに曲げて笑った。
「ま、それもあるかのう。ぐわっはっは! けんど、相手が誰じゃろうが、わしは主の味方じゃ」
よっちゃんの、からっとした、ジメジメとした気持ちを晴らす笑顔がえみの元気がない心にさんさんと降り注ぐ。裏表のないまっすぐな笑顔を向けられて、悪事の片棒を担がせた事を黙っているなんて……罪悪感でチクチクと胸が痛む。一番付き合いが長いよっちゃんに黙ったままでいいのだろうか。……よくない。何より、よっちゃんに対してもやもやした気持ちのままでい続けるのが嫌だ。きっと、よっちゃんなら受け止めてくれるだろうと——
「よっちゃん、あのね、」兼さんとの確執を、よっちゃんに背負わせてしまった罪を、正直に全部話した。
「ほんとに、ごめんなさいっ」
深く深く、反省の意を込めて頭を下げる。よっちゃんは黙ったままでいた。軽蔑されても仕方がない。きっと幻滅しただろう。歴史を守らなくてはいけない審神者が、歴史を変えてしまうかもしれない事をしただなんて。何も知らなかったと言えど利用された事——怒っているか、悲しんでいるか、そのどちらともか。本当にえみは審神者失格だ。だが、思いがけない、よっちゃんの「顔を上げぇ」と優しい声色が耳に伝わった。おもむろにえみは顔を上げてよっちゃんを見た。よっちゃんは淀みのない笑い顔を向けていた。
「一人でそがな事を抱え込んじょったんやね。えらかったやろう。話してくれてありがとう」
よっちゃんのその言葉に、寛大な心に、涙が出そうになる——のを、ぐっとこらえる。泣いてしまいそうになるくらい、嬉しい。同時に、こんなに優しい人の主がえみだなんて申し訳なくなってしまう。心が震えるくらい誰かの優しさが身に染みたのはいつ以来だろう。よっちゃんの温かさを噛みしめながら「よっちゃん以外にも、謝らなきゃいけない人達がいるんだよね」独り言のように呟く。
「そうかえ。なら、わしもついていってやろう」
「えっ。でも……悪いのはえみだし……」驚いて思わず声を上げる。よっちゃんが味方になってくれるなんて、これ以上心強い事はない。が、本当にいいのだろうか。えみが言えた事じゃないがよっちゃんだってえみの被害者なのに。よっちゃんはそんな気は微塵も感じない様子で豪快に立ち振る舞う。
「えいがえいが! わしも一緒に謝っちょる。主だけでどうにもできんかったら、わしがなんとかしちゅうね」
具体的にはどうするのかわからない、無鉄砲ともとれる豪快さ辺りが前の主の性質を引き継いでいるんだろうなぁ、と肌で感じる。けれど、事実その豪快さに助けられている。本来ならえみ一人で解決しなくちゃいけないんだろうけれど、やっぱり誰かが傍にいてくれたほうが安心する。素直によっちゃんの胸を借りて、よっちゃんおともに、キヨと歌仙さんのところへ謝りに行く。
——馬小屋。渦中のキヨと対峙する。キヨは竹箒をたずさえてえみが話しだすのを待っていた。緊張が走る。けれど、思いどおりの結果にならなかったとしても真実を話すべきだ。軽く深呼吸をして、意を決して、手紙の本当の意味を伝えた。
「——なので、本っ当にごめんっ」頭を下げる。よっちゃんも頭を下げる。キヨは少し驚いたような表情をして、冷静な顔つきに戻った。数秒の沈黙——えみにはとても長い時間に感じられた——のあと「……じゃあ、俺はまんまと利用されていたってわけ」
妙にトゲのある言い方がえみの敏感な心に突き刺さる。そうとられても仕方がない事をした。愛想を尽かされてしまうだろう。そうなっても、仕方がない。それが報いだ。えみは罪悪感から何も言えずにいた。よっちゃんが援護しようと仲介に入るが、次のキヨの一言にえみは衝撃を受けた。
「……フルーツタルト」
え? とえみは脈絡のない応答に思わず声をもらしてキヨを見る。キヨは冷静な調子のまま、続ける。
「あそこのフルーツタルトで、許してあげる」
天使かっ! と叫びたくなるほどキヨの寛大な心に感激する。フルーツタルトというチョイスも可愛い。さすがは〝可愛い〟を地で行く男士だ。キヨの真髄(?)に触れたところで「五個? 十個⁉︎」と食い気味にキヨに迫る。いくらでも出す気でいたのだけれど、えみの勢いに若干引きながら「じゃー、三つ」と言われてしまった。一つはヤス——キヨと同じ沖田総司の愛刀、大和守安定——にあげて、二つは自分で食べるのかな? とわいた小さな疑問はさておき。
よかったのう、とよっちゃんも喜んでくれた。よっちゃんにも何か買ってあげなくては。去り際に事情を知ったキヨから応援してもらい、次は、歌仙さんの元へ。普段は穏やかで優しいけど、怒ると鬼がとりついたようにめちゃめちゃ怖いので、凄く腰が引ける。今のところえみには向けられていないが。今日がその日になるかもしれない。そう考えると今すぐにでも逃げ出して穴にこもりたい。けれど、よっちゃんが傍にいる。
部屋で詩をしたためていた歌仙さんと、対峙する。詩をしたためたあとで気分が良いみたいなのでタイミング的には良かったのかもしれない。柔和な歌仙さんの表情を崩してしまう事を考えると胸がざわざわとする。えみの心情を察してか知らずか、ぽんとよっちゃんの温かい手のひらが背中を後押ししてくれた。頭が真っ白になりかけながらも、言葉を選んで、紡ぐ。歌仙さんも、たどたどしいえみの話を、えみが話し終わるまで何も言わずに静かに聞いてくれていた。
「本当に、ごめんなさいっ」
「……なるほど、そういう事だったんだね。急に手紙の書きかたを習いたいと言い出したから、何事なのかと思ったよ」
「わしからもこのとーりじゃっ」
陸奥守はいいとして、と、とりあえず置いといてから、歌仙さんは本題に入った。
「前にも言ったと思うけど、君は数多の名刀を束ねる主なんだ。そして歴史を守護する審神者でもある。まだ幼子だから、君の力が及ばないところは僕たちが補助するつもりでいる。大事な事は、特に歴史に関わりそうな事は僕たちに相談しないといけないよ。取り返しのつかない事になる前にね」
「次から気をつければええじゃろ」
「今回は恐らく大丈夫だったとしても、次はそう上手くいかないかもしれない。もっと主としての自覚を持って行動しなくてはいけないよ。いいね?」
歌仙さんの言葉の一つひとつが、心に深く染みた。もっと鬼のように怒られるかと思っていたが——兼さんにいつもカミナリオヤジの如く怒っているので——たしなめられただけなのには予想外だった。けど、その落ち着きぶりが逆に心に突き刺さる。えみの事をちゃんと思ってくれている……という事なのだろうか。だとするなら、嬉しい。嬉しい、けれど、こんなに大切に思ってくれる人を騙してしまって、痛み続ける胸がさらにチクチクと痛みを増す。
やっぱり、えみは審神者には向いていないんじゃないかと何度も頭をよぎる。そもそも兼さん達、刀剣男士を率いる主としての器も、霊力も、何もかも足りない。子供だから……と言ってしまえばそれで終わりだろうけれど、子供だからという理由に甘えているようで凄く嫌だ。もっと審神者としてちゃんとしないと、と思う一方で自分の無力さに鬱々とする。
事件に関わらせてしまった、よっちゃん、キヨ、歌仙さんには無事に謝る事ができた。あとは肝心の兼さんだけ。なのだが、その肝心な問題が最難関なわけで。早めにきちんと謝っていればここまで引きずる事はなかっただろうに。えみがしっかりしないから三人を巻き込んでしまった。さすがにこれ以上、三人に迷惑をかけるわけにはいかない。けれど、今の兼さんと話すのはとても気まずい。怖い。どう謝ろうか考えあぐねる。悩むえみの心中を察してよっちゃんが、キラーン、と効果音が聞こえそうな、目を輝かせて言った。
「わしに任せちょけ。とっておきの作戦を思いついたにゃあ」
よっちゃんのとっておきの作戦の決行日は、翌日になって急にやってきた。
「宴会?」いつも賑やかだが今日はやたらと賑やかな本丸を不思議に思っていたら、通りすがりの男士に賑やかの正体を教えてもらう。新しい刀剣男士の歓迎会や大きな任務の祝賀会なんかで宴会を開く事はあったが、今日は何かの記念日だっただろうか。聞いてみると、よっちゃんの提案で、という事らしい。任せろ、と言っていたのはこの事だったのか? でも、兼さんとの喧嘩と宴会にどういった関係があるのだろう。その答えはよっちゃんにしかわからない。謎と不安が残るが、長年の付き添いだし、よっちゃんを信じよう。意図はなかったとしても、いい骨抜きにはなるかもしれない。えみにも業務はあるが、空いた時間で手伝おうと、心躍りながら今日の業務をいつも以上に早めに終わるように手をつけていく。
そして夜。あっというまに本丸の大広間はたくさんの料理と、お酒と、嬉々とした男達の声でいっぱいになった。次郎ちゃん達、飲兵衛の男士は宴会が始まる前から既にできあがっていて、宴会が始まるとさらにブースターがかかったように飲み始める。絡まれないように細心の注意を払いながら、みんなの賑やかな声と楽しげな表情に包まれて、つられてえみの気分も高揚してジュースや料理がいつも以上に美味しく感じる。えみにお酌をしに男士達が次々にやってきては注いでくれるので、有り難いと思いつつもお腹はもう水っ腹でたぽたぽだ。それでも行為が嬉しくて、ないがしろにはできなくてついつい受け取ってしまう。
ちら、と遠方にいる兼さんに視線を移す。相変わらず隣で堀川くんが世話を焼きながら、普段と変わらない調子で振舞っている。少しだけ、チクンと針が刺さったように胸が痛くなった。同じ場所にいるのに、すぐそこにいるのに、兼さんとの距離が凄く遠く感じる。……だめだなあ。せっかくよっちゃんが企画してくれた宴会なのに、湿っぽい気持ちになってしまって。よっちゃんに申し訳ない。気持ちを切り替えるように、光忠さん達が作った料理を掻っ込む。いい食べっぷりだと周りからはやされるのも気に留めないで。
舌鼓を打っていると、兼さんのほうにいつのまにかよっちゃんが隣にいて、何かを話していた。あまり見ない組み合わせの二人だが、何を話しているのだろう……。このあいだの続きだろうか。だとするなら嫌だなぁ……とそわそわして見ていると二人は立ち上がって、襖の向こう側へと行ってしまった。堀川くんが兼さんについて行っていないところを見るあたり、他の人には知られたくない事でもあるのだろうか……。勝手に推測してハラハラしていたのもつかのま、すぐによっちゃんだけ戻ってきた。よっちゃんは真っ直ぐにえみのところにやってきて「主、ちくと頼みたい事があるんじゃが」そう告げる。男士達が飲む追加の酒瓶を運ぶのを手伝ってほしいと、それならと、お酌地獄を抜け出したいのもあって快く引き受ける。襖の縁の手前で、ぴたっとえみは思わず足を止めた。
なぜなら、視線の先に、この縁をまたいだ先に、今一番会うのが気まずい人——兼さんがいたから。立ち往生していると兼さんがこっちに振り返りばっちりと視線が合ってしまった。えみは蛇に睨まれた蛙のように、ぴたっと固まってしまう。見かねたよっちゃんがえみの背中をずいっと押して——物理的に——兼さんと一緒の空間に押し入れられた。慌てて兼さんから逃げるように脱出を試みるも、よっちゃんは笑顔で立ちふさがり出られないようにする。
「よ、よっちゃん!?」
「一度、腹を割ってじっくり話し合ってみたらどうじゃ? なぁに、何かあればわしがおるし、みんなもおる。とことん話し合ってみる事じゃ」
そう言うとよっちゃんは背中を向けてその場で腰を下ろして、宴会の続きに入ってしまった。兼さんも苛立ちながらよっちゃんに不服を投げかけるが、右から左へ流れるようにまるで聞き入れなかった。
強い。こういうときのよっちゃんはとても頼りになる……が、今はそのときではないし、敵(?)に回るとこれほどまでに厄介な存在になるとは……。肝が座っているというか……だからこそ、よっちゃんの前の主——坂本龍馬さんは新時代を切り開けたのだろう。兼さんとの和平を結ぶために持ちかけられた話し合い——言わば、現代の薩長同盟、といったところだろうか。きちんと譲り受けてるんだなあ、と感心……している場合ではない。
すぐ隣には不機嫌度最高潮な、今にも斬りかかりそうな兼さんがいる。今のえみは、まるで不機嫌な猛獣の檻の中に閉じ込められた草食動物だ。よっちゃんも一体この状況で何を話し合えというのか。腹を割るどころか引き裂かれて内臓を引きずり出されてしまいそうな勢いだ。とにかく、今のこの状況はいたたまれず……恐る恐る、ちらっと横目で兼さんを見ると、ふてくされた顔でこっちを見ていた。ぴゃあ、と小動物だったら飛び跳ねるくらいえみは肩を痙攣させて兼さんから数歩あとずさる。
えみが完全に警戒態勢なのを察してか、はあ、と兼さんは少し大きめのため息をつくと、その場に片膝を立てて腰を下ろした。目を伏せているが……眠いのだろうか? どれだけ飲んだか知らないが、お酒を飲んでいたようだし酔いでも回ったか。じり……じり……と様子をうかがうためににじり寄っていく、と、
「取って食いやしねーよ」兼さんの口から放たれた。またも、ぴゃあっ、と驚くが声色と言葉にそれほど怒りを感じない。まだ少し怒っているように感じるが。えみは妙に大人しい兼さんの気をうかがいながら襖一枚分のところで腰を据える。
遠い距離でもないが、近いとも言えない微妙な距離間。これが、今のえみと兼さんの心の距離。賑やかな歓声を背中に受け、二人の間には沈黙が続く。楽しげな声が余計に沈黙を寂しいものにした。
話したい事がたくさんあったはずなのに、いざ本人を目の前にすると言葉が詰まって出てこない。また、あの目を——怒りに満ちた目を向けられるんじゃないかと思うと、怖くて、何を話せばいいのかわからない。兼さんと話すのって、こんなにも難しかったっけ——。
「なんで歴史を変えるかもしれねえ事をした」
沈黙を先に破ったのは、兼さんだった。えみは兼さんを見る。薄暗くてわかりにくいが、至って真面目な顔をしていた。普段なら軽く冗談で返すのだが、そんな事は言えた雰囲気じゃないし、だからといって真面目に答えるのも緊張して気後れしてしまう。
「それは……その……」なんて言うのが正解だろう。兼さんを元気づけたかったから? ……そうだが、少し、違う。兼さんに褒められたかったから? ……そういう気持ちもあったかもしれないけど、やっぱり、少し違う。言葉を探していると
「お前は、歴史が変わっちまってもいいって思ってるのか?」兼さんが、言った。
「そんな事っ……」
「じゃあなんであんな事をした。たかだか一振りの刀の感傷のためだけに歴史を喰いかねねえ事をしやがって……オレ達がなんのためにここにいるのか忘れちまったのか」
なんのため……兼さん達がここにいるのか。兼さんは切れ長の目で、顔は向けずに視線だけをえみに向けたあと「オレは歴史の改変を防ぐために、お前——審神者から戦う力を与えられた刀剣男士——そして刀剣男士を従えて今の歴史を守るのが審神者——お前だろ。オレ達は今の歴史を守るためにここにいるはずだ。違うか」
兼さんの言っている事は正しくて、返そうにも言葉が出ない。えみが何も言えずにいると、兼さんは続ける。
「お前がやった事は一歩間違えれば歴史が変わっていた事になったかもしれねえ。そんなのは敵と変わりねえ」
「ちがっ——!」否定しようと声を上げると、言葉で制される。
「自分の思いどおりにするために歴史に手を加える事の何が違う」
鋭利な刃物で心臓を一突きされたかのような衝撃が胸に走る。えみのやった事は歴史を変えようとしている敵と変わらない……「違う!」と頭では浮かんでいるのに、力強く否定する事が出来なかった。心のどこかで納得してしまっているから。後ろめたい気持ちが募って兼さんと真正面から顔を合わす事ができなかった。兼さんは淡々と続ける。
「もしも歴史が変わっちまったら……お前はどうするつもりだったんだ」
「それ、は……」
もしも歴史が変わってしまったら。責任をとって本来あるべき歴史に戻す、と簡単に考えていた——兼さんを怒らせるまで。自分ではよく考えていたつもりだったけれど、実はそんなに考えていなかった事に気づかされる。手紙を渡した程度で歴史が変わるなんてありえないと思っていた。
時間の波というものはえみが思っているよりも非常に繊細で、ほんの少しの歪みから大きなうねりとなって襲いかかってくるかもしれない。どの歪みからくるのかもわからない。一匹の蝶の羽ばたきが竜巻を起こす……いつだか観た映画がそんな事を言っていたのを思い出した。今のえみには関係のない話だけど。
「お前の行動は単なる独り善がりだ。救いになると思っただろうが……誰一人として救えちゃいねえよ」
兼さんの言葉の一つひとつが鉛のようにズシンと重くのしかかって何も言い返せなかった。全部ぜんぶ兼さんの言うとおりだ。えみだけがいいと思い込んでいて兼さんの気持ちなんてちっとも考えていなかった。……いや、兼さんだけではなくえみが関わった人達全ての気持ちを考えていなかった。目に熱いものが込み上げて溢れ出そうになる。泣いたらだめだ。泣いたって兼さんは許さないだろうし何も解決しない。懸命にこらえるけれど、抑えようと思えば思うほど反発して熱いものが溢れて目に滲む。
「……泣いたところで起こった事実が変わるわけでもねえ」
「わかっ、てるよ」
「わかってねえだろ。だから泣いてんだろ。自分のなかで認められねえものがあるから泣くんだろ」
認められないものがあるから泣く……ふと、ある日の事を思い出した。今は関係ないはずなのに咆えろと心が掻き立てる。涙声で奮い立つ。
「……ったら、……いの……」
「あ?」
「だったら、悪いの? 認めたくないものがあったら、悪いの? 兼さんだって土方さんの死を認めたくなかったから泣いたんじゃないの?」
違う。本当はこんな事を言いたいわけじゃない。けれど涙が溢れて止まらないように、湧き上がる感情が言葉を紡いで溢れ出ていく。今、こんな事を言えば兼さんの神経を逆撫でするだけなのに。一度こぼれ出た思いは流水の如く止まらない。
「兼さんは土方さんが死んじゃうのは歴史だから仕方がないって、ほんとにそう思えるの?」
「……なんだって?」
今まで冷たい顔つきだった兼さんの眉がぴくりと動いて、初めてえみのほうに顔を向けた。
「兼さんが言ってる事ってそういう事だろ。今の歴史を守るって……それって土方さんが函館戦争で戦死しちゃう歴史だろ。兼さんは土方さんが死んじゃってなんとも思わないの?」
「——っ思わないわけねえだろ!」
兼さんが吼える。激しい剣幕でえみを睨みつける。けれど、どこか哀しいような気持ちを感じとった。怖いけれど、小さい子供が寂しさで怒っているような。
「ガキが……わかったふうな口を利きやがって。あの人の死は今となってはただの歴史でしかねえ」
「そんなの、悲しすぎるよ。土方さんの一番近くにいた兼さんがそれでいいの?」
「お前にあの人の何がわかるんだよ。ただの審神者がでしゃばってくるんじゃねえっ」
声を荒らげて言ったあとに、兼さんはえみを見るとハッとした表情になって顔つきを曇らせた。えみの表情がよっぽどひどかったのか、ひどい事を言ってしまったと気づいて悔いているのか。えみ自身はそんなにひどい顔をしている自覚はなかったのだけれど、兼さんの顔を見ると、ああ、物凄くショックを受けたんだなあと自分の事なのにまるで他人事のように思えた。
「……どうして、そこまでしたんだ」
さっきより落ち着いた調子の声で——えみを気遣ってなのか自分を戒めているのか——兼さんは言った。兼さんの言葉に対してえみはこれまでの——審神者になり始めてから今までの、兼さんとの出来事を思い返してみる。
初めて兼さんを見て抱いた印象は、先に本丸にきていた相棒の堀川くんが言っていたとおり『かっこいい』人——神?——で、同時に『怖い』印象も抱いた。『怖い』も最初はその言葉の意味のまま——威圧感がある、言葉遣いなど——で『怖い』は時間が経つに連れて、現実味がない美しさを感じる、未知の感情に対して『怖い』ものとなっていった。きっと美しいと評判である刀の評価が体現したからであろうと今になって思う。
そして今は——失ってしまう事が『怖い』。よっちゃんやキヨ、歌仙さん達、みんなを失ってしまう事が。いつだって死と隣り合わせの戦いに身を投じていて、いつ死んだっておかしくない。だから毎日怯えている。生きて帰ってくる事をただひたすらに手を合わせて祈る事しか出来ない。彼らにとっては戦う事が使命だから——刀剣男士として顕現した意味だから。頭ではわかっていても、失うのが『怖い』。今さら失うには『思い出』を作りすぎた。
(思い出……そう、)
兼さんとこれからも思い出を作っていきたい。だから、えみは——
「……おい、」
「怖かったから」
ずっと黙りこくっていて心配だったのか呼びかける兼さんの声に重ねるように目尻に溜まっていた悲しみの雫を指で拭って、今度は真っ直ぐ兼さんの浅葱色の眼を見つめる。
「は……?」
「兼さんがどっか行っちゃいそうで怖かった。何言ってるかわかんないかもしれないけど、助けたかった。兼さんが泣いてたのを堀川くんから聞いたとき、不安になった。だから……」
「……世の中、そんな綺麗事じゃあ成り立たねえんだよ」
「っ……綺麗事だって、」何かしてあげたいと思った、してあげなきゃと思った、元気づけたいと、思った。ただ、それだけだった。
「……綺麗事と言われようが、そこまでやる理由はなんだ」と兼さんは訝しげにぼやく。少しのあいだ考えて、えみは「……笑顔に、したいから」
「!」兼さんは驚きのまなこでえみを見た。
「笑っていて、ほしいから。泣いてほしく、ないから」
また涙が滲んでくるのを感じるが、今度は悲しみの涙とは違う、よくわからないけれど湧き上がる熱い想いが涙となって込み上げてくるのを感じる。兼さんはしばらく呆けたあと、——はあ、と気の抜けたため息をつきながら前髪をくしゃりと掻き上げる。
「結局、それも綺麗事じゃねえか……」
……だが、と言葉を続ける。
「悪くはねえ」
ふっ、と口元を緩める。張り詰めていた緊張感が解けるのを感じた。——いつもの兼さんだ。
「にしても、そうか、オレに笑っていてほしいから〜かぁ。モテる男はつらいねえ」
「なっ……うぐぅっ……」
笑っていてほしいと言った建前、否定はできなかった。この兼定、調子を取り戻した途端これである。恥ずかしさや怒りや呆れなどといったいろんな感情がせめぎ合う。
「よーしよーし、皆まで言うな」
まるで小さい子を褒め称えるように完全にナメた態度でえみの頭を撫でる。撫でられるのは正直に言うと悪い気はしないが態度がむちゃくちゃに腹が立つ。とりあえず一件落着……か? 解決したのになんだか煮え切らないもやもやしたえみの気持ちを知る由もなく兼さんはいつもの調子を取り戻して飲み直そうと宴会場へと戻ろうとする。
よっちゃんが盾となっていたはずなのだが、よっちゃんはえみ達から離れた場所で他の男士と意気揚々と三味線の音に合わせて踊っていた。こちら側の温度差にさすがの兼さんとえみも調子を合わせて、えーっ、と呆れた様子で眺める。なんだか今まで張り詰めていた肩の力とか色々な力が変な感じに抜けてしまった。よっちゃんがこっちに気づくと、わしは仲直りできると信じちょったぜよ、なんて調子のいい事を言っていた。
よっちゃんは外へと手招きをする。招かれるまま外へと出てみると離れた場所へと移動して床に置いてある何かをいじり始めた。よっちゃんの合図とともに何かから野球ボール大くらいの火球が空へと向かって昇っていき、パッ——と星屑のようなものが放射線状に飛び散り、まるで花のように光が咲いて、ドン——と大気を震わす音が遅れて続いた。二個、三個、と光の花が澄んだ漆黒の夜空を鮮やかに彩る。音と光に反応して男士達が続々と夜空の花を見に外へと出てくる。一体こんな準備をいつやっていた、とか、打ち上げ花火をやる費用なんてあったのか、とか、現実的なところを思うところはあったけれど、光の美しさに一瞬でどうでも良くなってしまった。
ふと、兼さんに視線を移す。光の花が兼さんの鼻筋の通った、漆のような黒髪に映える、健康的な白い肌を華やかに照らす。横顔が、悔しいくらいに、目を奪われてしまうほどに格好良くて。思わず、ぼんやりと見惚れてしまう。
えみの視線に気づく兼さんは、「オレがかっこ良いのはわかるけどよぉ」といつもどおり鼻につく態度で煽ってくる——かと思いきや、次の行動にえみの周りの世界の時間が、一瞬だけ止まる事となる。
ふ——といつもみたいに哀れみを込めた、けれど、ずっとずっと優しい眼差しで兼さんは微笑んだ。何が起きたのかわからなかった。けれど、その顔は確かに美しくて。我に返ったとき思わず、顔を背けてしまう。夜空を震わせるほどの大きな音でも聞こえるくらいに心臓が強く音を刻んでいる。喧嘩していたときの恐怖感からとは全く違う、この高鳴る鼓動は、湧き上がった熱い思いは——? 湧いた感情を確かめるように脈打つ胸に手を置いて未知の感情の不安を取り除くようにきゅっと拳を握り締めた。
この気持ちは、この昂ぶる気持ちは、花火の魔法のせいだろうか。キヨから貰ったフルーツタルトがとても甘く感じた。
突然、目の前にいた兼さんとの距離が遠のいていく。追いかけたくても、身体が鉛みたいに、海の中に沈んでしまったように重くて動けない。もがいているうちに兼さんは小さくなっていって、いつのまにか満開の、花火のように色とりどりの桜並木に溶けるように消えていってしまう。兼さん、ねえ、待って——兼さん——!
ハッ、と。見慣れた白い天井が視界いっぱいに広がっていた。ゆっくりと、視線を右に、左に動かして辺りを見渡す。どうやら寮の部屋みたいだ。兼さんが去っていくのは……夢、だった? ふう、と深く安堵の息を吐く。なぜ、兼さんが去っていくような夢を見たのだろう。寝起きであまり冴えない思考を、集中して考える事、数秒。——兼さんを怒らせていたのを思い出した。本丸に行きたくないなぁ、と審神者になりたての頃の気持ちに返ってしまい、不満を表すようにゴロンと寝返りをうつ。
こんな鬱々とした気分になったのは、審神者になったばかりの頃以来だ。得体のしれないものと戦う付喪神、刀剣男士を率いらなくてはいけないわけで、そのプレッシャーと慣れない環境から初めの頃は審神者という仕事がとても憂鬱だった。今ではよっちゃん以外にも頼れる人が増えてきて、刀剣男士達みんなも支えてくれるからそんなに苦ではなくなった。むしろ楽しいと思えるときさえも。
……行かなきゃ、と特別な理由がない限り学校へ行かなくてはいけないという義務感から、まだ夢でも見ているかのように鉛のように重い身体を気力を振り絞って、のそりと起き上がらせる。今日は学校が休みなのだが、代わりに休みの日は本丸の業務へと宛てる事になっているので、学校が休みだからといって昼まで寝ていられるわけではない。まあ、学校の授業よりも審神者の仕事をやっているほうが、学校の授業より大変なものの、みんなが力になってくれるので精神面ではずっと楽だ。それに、みんなと一緒にいられるし。だから、大変でもこの本丸での仕事のときは心が穏やかになれた。けれど、今は——
「主様、聞いていますか?」
「……うん、何?」
政府からの電報を伝えに姿を現したこんのすけの問いかけに、問い返す。こんのすけは、何食わぬ顔で——といってもあまり表情が変わらないのだが——もう一度、命令内容を説明する。つまり、要約すると、いつもどおりだ。主要の任務に第一部隊を出陣させて以降の部隊は遠征に、それ以外は待機という名の自由行動だ。出陣先は一度出陣した事のある鳥羽。なら、出陣した事のある男士に加えて次の戦に出陣したがっていた男士を向かわせよう。
データベースから過去の出陣記録を検索する。該当の記録を見つけて目を通すと、思わず目の動きを止める。……『和泉守兼定』。代わりの男士に頼もうと考えたが、今は遠征に行かせていた。どうしてこうもタイミングが悪いのか。兼さんとギスギスしているときに限って——気乗りはしないが、みんなが安全に無事に任務をこなせる事が最優先だ。そう、これは主としての大事な務めだ。社会に出たらこんな事は日常茶飯事になるだろう。社会の厳しさと理不尽さを痛感しながら出陣するメンバーを決めて、本丸内にアナウンスをかける。
兼さんを含めた六人が転送場へ集まる。こんのすけから聞いた任務の内容をそのまま口頭で伝えて、みんながお守りを持っているか確認してから出陣を見送った。ふと、兼さんと目が合うと慌てて目線を逸らす。今の態度だと余計に兼さんを怒らせるだろうに。兼さんの顔を見る事ができないまま六人は行ってしまった。六人がいた場所を見つめて、ふう、と虚しいため息をつく。兼さんの顔を見られないなんて、兼さんと出会ったばかりの頃を思い出すようだ。
『あんた、人の目を見ないよな』
兼さんが本丸に顕現してしばらく経ったある日の事。唐突にそんな事を言われた。急に面と向かって言われると思ってもみなかったから——自分の意見はハッキリ言うタイプだとはたから見てわかってはいたけれど——咄嗟に目を伏せて『え……あ……、すみません……』としどろもどろに謝る。
『なんで謝る?』
『あっ……と……すみません……あ、』呆れた声で『わざとか?』兼さんは、はあ、とため息をつく。ごこちゃん——五虎退の事——ほどすぐに謝るタイプじゃないと自分では思っていたのだが。出会ったばかりの兼さんと上手く目を合わせられずによく謝っていた。
目を合わせられなかったのは、大きくて怖かったのもそうだけれど、何か危害を与えられるんじゃないかという怖さではなくて、艶のある漆黒の長い髪が——空のような、海のような、綺麗な青い瞳が——怖いくらいに凛々しくて、美しくて。目を合わせたら心に秘めているすべてを見透かされてしまうんじゃないかと、馬鹿げた事を馬鹿みたいに信じていた。目を合わせて冗談を言い合うようになったのはいつ頃だっただろうか。今、そんな事を思い出したところでどうなるわけでもないけれど。
兼さんとの気まずい雰囲気が三日ほど続いたあたり——兼さんとの確執を振り払うように、思い出さないように審神者の雑務に励んでいたら、えみの前に堀川くんが訪ねてきた。いつもならカモの子供みたいに兼さんの傍に引っ付いているのに、珍しく一人だ。えみが今、兼さんとの雰囲気が悪いのを気遣ってからだろか。堀川くんは少しためらってから開口する。
「あの、主さん。兼さんと、何かありましたよね?」
真摯に、投げかけてきた。やっぱり、きたか。むしろ兼さん関連の事ならすぐに飛んで聞いてくると思っていたので、遅いくらいだ。えみと兼さんとの心情を気にしてすぐには聞かないでくれていたのだろうか。それとも、気軽に踏み込めないくらいの状況だと察したのか。はたまた、すぐに仲直りするだろうと思っていたのか。いずれにしろ、ただならない雰囲気を作ってしまっていた。兼さんからは何も聞いていないのだろうか。相棒である堀川くんにさえ打ち明けないなんて——堀川くんが聞いてこなかった場合もあるだろうが——相当不快な思いをさせてしまったのか、とますます自己嫌悪に陥る。大丈夫、なんでもないよ、と表情を緩めて受け答えする。が、持ち前の世話焼き性からか食い気味に食い下がる堀川くん。
「兼さんとの事なら、僕が力になれるかもしれません。何があったか、教えてくれませんか……?」
確かに、堀川くんなら兼さんとの確執をなんとかしてくれるかもしれない。根拠はないが確信があるのは、自他ともに認める兼さんの相棒で、助手だから。堀川くんには話しておかなければいけないかもしれない。でも……兼さんとえみの問題だから、えみの失態を話して幻滅されたくないから、堀川くんにも迷惑をかけるわけにはいかないから、湧く自己保身に嫌気がさしながらも本能には逆らえず——あやふやな返事をしていると、堀川くんは諦めないで食い下がり続ける。真剣で、心配の色を浮かべる、兼さんと同じ色をした青い瞳に見つめられると、黙っている事が申し訳なくなって心が揺らいでくる。真摯な想いは不安定な想いには勝てない。結局根負けして、恐る恐る兼さんとの確執を、話した。誰かに話して楽になりたかったのかもしれない。兼さんが泣いていて心配だった事、土方さんに手紙をもらうために協力してもらった事、土方さんと接触してしまった事——堀川くんはえみが話し終わるまで、何も言わずに黙って聞いてくれていた。
話し終えると、堀川くんは大きくて丸い目を伏せ気味にして「……僕の、せいですよね」声の調子は暗かった。えみは驚く目つきで堀川くんの顔を見る。堀川くんは悲しげな目の色を浮かべていた。
「僕の余計な一言で、二人をこんな目にあわせてしまって……その上、主さんに危ない事までさせて、本当にっ……」
ぎゅっ、と後悔の強さを表すようにズボンを固く握りしめる。堀川くんが悪気を感じる事なんて、ない。
「堀川くんは悪くないよ。やったのは全部えみだから」
「でも、僕の一言がなければ、主さんはそんな事をしなくてすんだのにっ……兼さんとも……」
「兼さんは怒って当然だよ。えみが怒られたのも、当たり前だよ。だって……兼さん達ががんばって守ってる歴史が、えみの勝手で変わっちゃうかもしれないんだから。……全部、えみが悪いんだよ」
そう、悪いのは全部えみ。それでいい。みんなの良心につけ込んで悪い事をした。堀川くんは最後まで自分を責めていた。自分の責任だと。必ず、兼さんを説得すると言ってくれた。ああ、えみのやった事が、また一人迷惑をかけてしまった。堀川くんの言葉はありがたかったけれど、迷惑をかけてしまってとても不甲斐ない気持ちでいっぱいだ。やっぱり話さないでいておいたほうが良かったのかもしれない。余計に兼さんが怒るかもしれない。あとから後悔の念がわいても、もう遅い。「審神者、向いてないなぁ……」と呟くようにこぼれ落ちて、静かな部屋に虚しく響き、吐いた言葉がトゲのように胸に突き刺さる。自分で吐いた言葉なのに。
兼さんと仲が悪くなって一週間ほど経つが、未だに兼さんとのギクシャクした雰囲気が続く。始めの頃よりかはほんの少しずつ話せるようになってきたが、任務に関する事以外はほとんど話さなかった。ときどき、軽く突っ込みたいような受け答えでも、兼さんを怒らせてしまう恐怖から前みたいに強く言えなくなってしまい「うん、そうだね」とか尻込みした言い方になってしまう。徐々に悪い空気が周りにも伝わって、ランやキヨの他の男士達に心配の声が毎日のようにかけられる。嬉しいけれど、気遣ってくれるほどになんとかしなきゃと焦って、でもいざ話すとなると怖くて、言葉が出なくて。えみが何を言ったとしても火に油を注ぐだけなんじゃ、と、拒絶されるんじゃないか、と思うとためらってしまう。兼さんに今よりもっと嫌われてしまうなら、このままでいいと、心のどこかで諦め始めていた。
渡り廊下を歩いていると向こう側から兼さんがやってくる。今度こそ……と声をかけようと意気込むが、近づいてくるごとに緊張は増して、すれ違いさまに目が合おうとすると、とっさに視線を落として回避してしまう。ああ、またやってしまった。兼さんは無言のまま通り過ぎようとする。……こんな窮屈な日々をあと何回過ごせば元どおりになるんだろう。ぎゅっ、と上着の裾を握りしめる。
「——おまん、いつまで主にそんな態度とっちゅうつもりじゃ」
降りかかってきた土佐弁に、え、と驚いて振り返る。よっちゃんが、淀んだ空気にメスを入れるように、えみと兼さんのあいだに介入してきた。「ああ?」と兼さんは眉をしかめていつも以上に不機嫌な声を上げる。そんな威嚇じみた声にひるむ事なく、よっちゃんはえみの前に出る。
「ええ加減、機嫌なおしたらどうじゃ。ずっと子供みたいに不貞腐れよって」
「テメーには関係ねえ」
「ある」ためらわないよっちゃんの返答に「あ?」と兼さんは苛立ちのこもった短い声を上げる。よっちゃんは、続ける。
「わしは、主の刀じゃ。主の元気がないと刀のわしも元気が出ん。主に仕えるんは、おまんだけじゃない事、わかっちゅうがか。おまんの勝手で主の調子が乱されるんは辛抱ならんっちゅうね」
「オレが悪いって言いてぇのかよ」
「そう聞こえんかったが?」
挑発するようなよっちゃんの返しに「てめえ!」と兼さんは青筋を立ててよっちゃんに殴りかかろうとする。タイミング良く兼さんの後ろからきていた堀川くんが状況を察して背後から身を呈して兼さんを抑える。よっちゃんは後ろに立っているえみをかばうように、黙って兼さんの目を見据えていた。よっちゃんの眼力のおかげか、兼さんはよっちゃんと睨み合って数秒後、えみのほうを一瞬だけ見て、チッ、と吐き捨てるように舌打ちをしたあと、堀川くんの拘束を解いて——やりあうつもりはないとわかったのか堀川くんから力を緩めて——えみの視界から遠ざかっていった。背中を見るのは、兼さんと喧嘩してからもう何度目だろう。
修羅場を乗り越えたあとのよっちゃんの顔をちらっと伺うと、兼さんが去っていった方向にむすっとしたような険しい顔を珍しく浮かべていて、えみの視線に気がつくと、ふっ、と怖かった表情が柔らかく戻って、えみがいつもよく見る、えみを落ち着けさせる笑い顔になった。よっちゃんは、いつまでも言えないえみの代わりに言ってくれたんだ。「あの……ごめん、ね」
「気にせんでええ。しっかし、おんしら何をそこまで張りおうちょるんじゃ?」
あくまでも軽い感じでよっちゃんが聞いてくる。そこまで深刻そうでもない風に。気さくに聞けばえみが少しは話しやすくなるだろうと、よっちゃんなりの気遣いだろう。気持ちに応えたいけれど、口ごもっていると、言いたくないなら言わんでえい、とよっちゃんはえみの気持ちを汲んでそれ以上は追求しないでくれた。普段から気兼ねないよっちゃんにまで気を遣わせるなんて……だめだな。自分がとても情けなく思えてくる。同時に、よっちゃんの優しさがどれだけ心強い事か。もう一度、ごめん、と謝ると、やっぱり豪快に笑って同じ事を言った。
「よっちゃんが、ああ言ってくれて凄く嬉しかった。ありがとう」
「おん。しっかし、和泉守も頑固者やき。いつまでも堅くなっちょったらいかんちゅう話じゃ。いい加減和泉守の態度に我慢できんかったぜよ」
普段は、えい、えい、となんでも笑ってかっ飛ばしてしまうよっちゃんが、誰かに対して真面目に怒るなんて初めて見た。「相手が兼さんだから?」と何気なく口にすると、よっちゃんは、目を丸くしていた。よっちゃんの丸い目をぱちくりと見たあとに、しまった、今のは嫌な言葉だったかもしれないと気づいた。ああ、もうどうして、お世話になったよっちゃんに仇で返してしまうのか。けれど、えみの心配とは裏腹に、よっちゃんは目を弓なりに曲げて笑った。
「ま、それもあるかのう。ぐわっはっは! けんど、相手が誰じゃろうが、わしは主の味方じゃ」
よっちゃんの、からっとした、ジメジメとした気持ちを晴らす笑顔がえみの元気がない心にさんさんと降り注ぐ。裏表のないまっすぐな笑顔を向けられて、悪事の片棒を担がせた事を黙っているなんて……罪悪感でチクチクと胸が痛む。一番付き合いが長いよっちゃんに黙ったままでいいのだろうか。……よくない。何より、よっちゃんに対してもやもやした気持ちのままでい続けるのが嫌だ。きっと、よっちゃんなら受け止めてくれるだろうと——
「よっちゃん、あのね、」兼さんとの確執を、よっちゃんに背負わせてしまった罪を、正直に全部話した。
「ほんとに、ごめんなさいっ」
深く深く、反省の意を込めて頭を下げる。よっちゃんは黙ったままでいた。軽蔑されても仕方がない。きっと幻滅しただろう。歴史を守らなくてはいけない審神者が、歴史を変えてしまうかもしれない事をしただなんて。何も知らなかったと言えど利用された事——怒っているか、悲しんでいるか、そのどちらともか。本当にえみは審神者失格だ。だが、思いがけない、よっちゃんの「顔を上げぇ」と優しい声色が耳に伝わった。おもむろにえみは顔を上げてよっちゃんを見た。よっちゃんは淀みのない笑い顔を向けていた。
「一人でそがな事を抱え込んじょったんやね。えらかったやろう。話してくれてありがとう」
よっちゃんのその言葉に、寛大な心に、涙が出そうになる——のを、ぐっとこらえる。泣いてしまいそうになるくらい、嬉しい。同時に、こんなに優しい人の主がえみだなんて申し訳なくなってしまう。心が震えるくらい誰かの優しさが身に染みたのはいつ以来だろう。よっちゃんの温かさを噛みしめながら「よっちゃん以外にも、謝らなきゃいけない人達がいるんだよね」独り言のように呟く。
「そうかえ。なら、わしもついていってやろう」
「えっ。でも……悪いのはえみだし……」驚いて思わず声を上げる。よっちゃんが味方になってくれるなんて、これ以上心強い事はない。が、本当にいいのだろうか。えみが言えた事じゃないがよっちゃんだってえみの被害者なのに。よっちゃんはそんな気は微塵も感じない様子で豪快に立ち振る舞う。
「えいがえいが! わしも一緒に謝っちょる。主だけでどうにもできんかったら、わしがなんとかしちゅうね」
具体的にはどうするのかわからない、無鉄砲ともとれる豪快さ辺りが前の主の性質を引き継いでいるんだろうなぁ、と肌で感じる。けれど、事実その豪快さに助けられている。本来ならえみ一人で解決しなくちゃいけないんだろうけれど、やっぱり誰かが傍にいてくれたほうが安心する。素直によっちゃんの胸を借りて、よっちゃんおともに、キヨと歌仙さんのところへ謝りに行く。
——馬小屋。渦中のキヨと対峙する。キヨは竹箒をたずさえてえみが話しだすのを待っていた。緊張が走る。けれど、思いどおりの結果にならなかったとしても真実を話すべきだ。軽く深呼吸をして、意を決して、手紙の本当の意味を伝えた。
「——なので、本っ当にごめんっ」頭を下げる。よっちゃんも頭を下げる。キヨは少し驚いたような表情をして、冷静な顔つきに戻った。数秒の沈黙——えみにはとても長い時間に感じられた——のあと「……じゃあ、俺はまんまと利用されていたってわけ」
妙にトゲのある言い方がえみの敏感な心に突き刺さる。そうとられても仕方がない事をした。愛想を尽かされてしまうだろう。そうなっても、仕方がない。それが報いだ。えみは罪悪感から何も言えずにいた。よっちゃんが援護しようと仲介に入るが、次のキヨの一言にえみは衝撃を受けた。
「……フルーツタルト」
え? とえみは脈絡のない応答に思わず声をもらしてキヨを見る。キヨは冷静な調子のまま、続ける。
「あそこのフルーツタルトで、許してあげる」
天使かっ! と叫びたくなるほどキヨの寛大な心に感激する。フルーツタルトというチョイスも可愛い。さすがは〝可愛い〟を地で行く男士だ。キヨの真髄(?)に触れたところで「五個? 十個⁉︎」と食い気味にキヨに迫る。いくらでも出す気でいたのだけれど、えみの勢いに若干引きながら「じゃー、三つ」と言われてしまった。一つはヤス——キヨと同じ沖田総司の愛刀、大和守安定——にあげて、二つは自分で食べるのかな? とわいた小さな疑問はさておき。
よかったのう、とよっちゃんも喜んでくれた。よっちゃんにも何か買ってあげなくては。去り際に事情を知ったキヨから応援してもらい、次は、歌仙さんの元へ。普段は穏やかで優しいけど、怒ると鬼がとりついたようにめちゃめちゃ怖いので、凄く腰が引ける。今のところえみには向けられていないが。今日がその日になるかもしれない。そう考えると今すぐにでも逃げ出して穴にこもりたい。けれど、よっちゃんが傍にいる。
部屋で詩をしたためていた歌仙さんと、対峙する。詩をしたためたあとで気分が良いみたいなのでタイミング的には良かったのかもしれない。柔和な歌仙さんの表情を崩してしまう事を考えると胸がざわざわとする。えみの心情を察してか知らずか、ぽんとよっちゃんの温かい手のひらが背中を後押ししてくれた。頭が真っ白になりかけながらも、言葉を選んで、紡ぐ。歌仙さんも、たどたどしいえみの話を、えみが話し終わるまで何も言わずに静かに聞いてくれていた。
「本当に、ごめんなさいっ」
「……なるほど、そういう事だったんだね。急に手紙の書きかたを習いたいと言い出したから、何事なのかと思ったよ」
「わしからもこのとーりじゃっ」
陸奥守はいいとして、と、とりあえず置いといてから、歌仙さんは本題に入った。
「前にも言ったと思うけど、君は数多の名刀を束ねる主なんだ。そして歴史を守護する審神者でもある。まだ幼子だから、君の力が及ばないところは僕たちが補助するつもりでいる。大事な事は、特に歴史に関わりそうな事は僕たちに相談しないといけないよ。取り返しのつかない事になる前にね」
「次から気をつければええじゃろ」
「今回は恐らく大丈夫だったとしても、次はそう上手くいかないかもしれない。もっと主としての自覚を持って行動しなくてはいけないよ。いいね?」
歌仙さんの言葉の一つひとつが、心に深く染みた。もっと鬼のように怒られるかと思っていたが——兼さんにいつもカミナリオヤジの如く怒っているので——たしなめられただけなのには予想外だった。けど、その落ち着きぶりが逆に心に突き刺さる。えみの事をちゃんと思ってくれている……という事なのだろうか。だとするなら、嬉しい。嬉しい、けれど、こんなに大切に思ってくれる人を騙してしまって、痛み続ける胸がさらにチクチクと痛みを増す。
やっぱり、えみは審神者には向いていないんじゃないかと何度も頭をよぎる。そもそも兼さん達、刀剣男士を率いる主としての器も、霊力も、何もかも足りない。子供だから……と言ってしまえばそれで終わりだろうけれど、子供だからという理由に甘えているようで凄く嫌だ。もっと審神者としてちゃんとしないと、と思う一方で自分の無力さに鬱々とする。
事件に関わらせてしまった、よっちゃん、キヨ、歌仙さんには無事に謝る事ができた。あとは肝心の兼さんだけ。なのだが、その肝心な問題が最難関なわけで。早めにきちんと謝っていればここまで引きずる事はなかっただろうに。えみがしっかりしないから三人を巻き込んでしまった。さすがにこれ以上、三人に迷惑をかけるわけにはいかない。けれど、今の兼さんと話すのはとても気まずい。怖い。どう謝ろうか考えあぐねる。悩むえみの心中を察してよっちゃんが、キラーン、と効果音が聞こえそうな、目を輝かせて言った。
「わしに任せちょけ。とっておきの作戦を思いついたにゃあ」
よっちゃんのとっておきの作戦の決行日は、翌日になって急にやってきた。
「宴会?」いつも賑やかだが今日はやたらと賑やかな本丸を不思議に思っていたら、通りすがりの男士に賑やかの正体を教えてもらう。新しい刀剣男士の歓迎会や大きな任務の祝賀会なんかで宴会を開く事はあったが、今日は何かの記念日だっただろうか。聞いてみると、よっちゃんの提案で、という事らしい。任せろ、と言っていたのはこの事だったのか? でも、兼さんとの喧嘩と宴会にどういった関係があるのだろう。その答えはよっちゃんにしかわからない。謎と不安が残るが、長年の付き添いだし、よっちゃんを信じよう。意図はなかったとしても、いい骨抜きにはなるかもしれない。えみにも業務はあるが、空いた時間で手伝おうと、心躍りながら今日の業務をいつも以上に早めに終わるように手をつけていく。
そして夜。あっというまに本丸の大広間はたくさんの料理と、お酒と、嬉々とした男達の声でいっぱいになった。次郎ちゃん達、飲兵衛の男士は宴会が始まる前から既にできあがっていて、宴会が始まるとさらにブースターがかかったように飲み始める。絡まれないように細心の注意を払いながら、みんなの賑やかな声と楽しげな表情に包まれて、つられてえみの気分も高揚してジュースや料理がいつも以上に美味しく感じる。えみにお酌をしに男士達が次々にやってきては注いでくれるので、有り難いと思いつつもお腹はもう水っ腹でたぽたぽだ。それでも行為が嬉しくて、ないがしろにはできなくてついつい受け取ってしまう。
ちら、と遠方にいる兼さんに視線を移す。相変わらず隣で堀川くんが世話を焼きながら、普段と変わらない調子で振舞っている。少しだけ、チクンと針が刺さったように胸が痛くなった。同じ場所にいるのに、すぐそこにいるのに、兼さんとの距離が凄く遠く感じる。……だめだなあ。せっかくよっちゃんが企画してくれた宴会なのに、湿っぽい気持ちになってしまって。よっちゃんに申し訳ない。気持ちを切り替えるように、光忠さん達が作った料理を掻っ込む。いい食べっぷりだと周りからはやされるのも気に留めないで。
舌鼓を打っていると、兼さんのほうにいつのまにかよっちゃんが隣にいて、何かを話していた。あまり見ない組み合わせの二人だが、何を話しているのだろう……。このあいだの続きだろうか。だとするなら嫌だなぁ……とそわそわして見ていると二人は立ち上がって、襖の向こう側へと行ってしまった。堀川くんが兼さんについて行っていないところを見るあたり、他の人には知られたくない事でもあるのだろうか……。勝手に推測してハラハラしていたのもつかのま、すぐによっちゃんだけ戻ってきた。よっちゃんは真っ直ぐにえみのところにやってきて「主、ちくと頼みたい事があるんじゃが」そう告げる。男士達が飲む追加の酒瓶を運ぶのを手伝ってほしいと、それならと、お酌地獄を抜け出したいのもあって快く引き受ける。襖の縁の手前で、ぴたっとえみは思わず足を止めた。
なぜなら、視線の先に、この縁をまたいだ先に、今一番会うのが気まずい人——兼さんがいたから。立ち往生していると兼さんがこっちに振り返りばっちりと視線が合ってしまった。えみは蛇に睨まれた蛙のように、ぴたっと固まってしまう。見かねたよっちゃんがえみの背中をずいっと押して——物理的に——兼さんと一緒の空間に押し入れられた。慌てて兼さんから逃げるように脱出を試みるも、よっちゃんは笑顔で立ちふさがり出られないようにする。
「よ、よっちゃん!?」
「一度、腹を割ってじっくり話し合ってみたらどうじゃ? なぁに、何かあればわしがおるし、みんなもおる。とことん話し合ってみる事じゃ」
そう言うとよっちゃんは背中を向けてその場で腰を下ろして、宴会の続きに入ってしまった。兼さんも苛立ちながらよっちゃんに不服を投げかけるが、右から左へ流れるようにまるで聞き入れなかった。
強い。こういうときのよっちゃんはとても頼りになる……が、今はそのときではないし、敵(?)に回るとこれほどまでに厄介な存在になるとは……。肝が座っているというか……だからこそ、よっちゃんの前の主——坂本龍馬さんは新時代を切り開けたのだろう。兼さんとの和平を結ぶために持ちかけられた話し合い——言わば、現代の薩長同盟、といったところだろうか。きちんと譲り受けてるんだなあ、と感心……している場合ではない。
すぐ隣には不機嫌度最高潮な、今にも斬りかかりそうな兼さんがいる。今のえみは、まるで不機嫌な猛獣の檻の中に閉じ込められた草食動物だ。よっちゃんも一体この状況で何を話し合えというのか。腹を割るどころか引き裂かれて内臓を引きずり出されてしまいそうな勢いだ。とにかく、今のこの状況はいたたまれず……恐る恐る、ちらっと横目で兼さんを見ると、ふてくされた顔でこっちを見ていた。ぴゃあ、と小動物だったら飛び跳ねるくらいえみは肩を痙攣させて兼さんから数歩あとずさる。
えみが完全に警戒態勢なのを察してか、はあ、と兼さんは少し大きめのため息をつくと、その場に片膝を立てて腰を下ろした。目を伏せているが……眠いのだろうか? どれだけ飲んだか知らないが、お酒を飲んでいたようだし酔いでも回ったか。じり……じり……と様子をうかがうためににじり寄っていく、と、
「取って食いやしねーよ」兼さんの口から放たれた。またも、ぴゃあっ、と驚くが声色と言葉にそれほど怒りを感じない。まだ少し怒っているように感じるが。えみは妙に大人しい兼さんの気をうかがいながら襖一枚分のところで腰を据える。
遠い距離でもないが、近いとも言えない微妙な距離間。これが、今のえみと兼さんの心の距離。賑やかな歓声を背中に受け、二人の間には沈黙が続く。楽しげな声が余計に沈黙を寂しいものにした。
話したい事がたくさんあったはずなのに、いざ本人を目の前にすると言葉が詰まって出てこない。また、あの目を——怒りに満ちた目を向けられるんじゃないかと思うと、怖くて、何を話せばいいのかわからない。兼さんと話すのって、こんなにも難しかったっけ——。
「なんで歴史を変えるかもしれねえ事をした」
沈黙を先に破ったのは、兼さんだった。えみは兼さんを見る。薄暗くてわかりにくいが、至って真面目な顔をしていた。普段なら軽く冗談で返すのだが、そんな事は言えた雰囲気じゃないし、だからといって真面目に答えるのも緊張して気後れしてしまう。
「それは……その……」なんて言うのが正解だろう。兼さんを元気づけたかったから? ……そうだが、少し、違う。兼さんに褒められたかったから? ……そういう気持ちもあったかもしれないけど、やっぱり、少し違う。言葉を探していると
「お前は、歴史が変わっちまってもいいって思ってるのか?」兼さんが、言った。
「そんな事っ……」
「じゃあなんであんな事をした。たかだか一振りの刀の感傷のためだけに歴史を喰いかねねえ事をしやがって……オレ達がなんのためにここにいるのか忘れちまったのか」
なんのため……兼さん達がここにいるのか。兼さんは切れ長の目で、顔は向けずに視線だけをえみに向けたあと「オレは歴史の改変を防ぐために、お前——審神者から戦う力を与えられた刀剣男士——そして刀剣男士を従えて今の歴史を守るのが審神者——お前だろ。オレ達は今の歴史を守るためにここにいるはずだ。違うか」
兼さんの言っている事は正しくて、返そうにも言葉が出ない。えみが何も言えずにいると、兼さんは続ける。
「お前がやった事は一歩間違えれば歴史が変わっていた事になったかもしれねえ。そんなのは敵と変わりねえ」
「ちがっ——!」否定しようと声を上げると、言葉で制される。
「自分の思いどおりにするために歴史に手を加える事の何が違う」
鋭利な刃物で心臓を一突きされたかのような衝撃が胸に走る。えみのやった事は歴史を変えようとしている敵と変わらない……「違う!」と頭では浮かんでいるのに、力強く否定する事が出来なかった。心のどこかで納得してしまっているから。後ろめたい気持ちが募って兼さんと真正面から顔を合わす事ができなかった。兼さんは淡々と続ける。
「もしも歴史が変わっちまったら……お前はどうするつもりだったんだ」
「それ、は……」
もしも歴史が変わってしまったら。責任をとって本来あるべき歴史に戻す、と簡単に考えていた——兼さんを怒らせるまで。自分ではよく考えていたつもりだったけれど、実はそんなに考えていなかった事に気づかされる。手紙を渡した程度で歴史が変わるなんてありえないと思っていた。
時間の波というものはえみが思っているよりも非常に繊細で、ほんの少しの歪みから大きなうねりとなって襲いかかってくるかもしれない。どの歪みからくるのかもわからない。一匹の蝶の羽ばたきが竜巻を起こす……いつだか観た映画がそんな事を言っていたのを思い出した。今のえみには関係のない話だけど。
「お前の行動は単なる独り善がりだ。救いになると思っただろうが……誰一人として救えちゃいねえよ」
兼さんの言葉の一つひとつが鉛のようにズシンと重くのしかかって何も言い返せなかった。全部ぜんぶ兼さんの言うとおりだ。えみだけがいいと思い込んでいて兼さんの気持ちなんてちっとも考えていなかった。……いや、兼さんだけではなくえみが関わった人達全ての気持ちを考えていなかった。目に熱いものが込み上げて溢れ出そうになる。泣いたらだめだ。泣いたって兼さんは許さないだろうし何も解決しない。懸命にこらえるけれど、抑えようと思えば思うほど反発して熱いものが溢れて目に滲む。
「……泣いたところで起こった事実が変わるわけでもねえ」
「わかっ、てるよ」
「わかってねえだろ。だから泣いてんだろ。自分のなかで認められねえものがあるから泣くんだろ」
認められないものがあるから泣く……ふと、ある日の事を思い出した。今は関係ないはずなのに咆えろと心が掻き立てる。涙声で奮い立つ。
「……ったら、……いの……」
「あ?」
「だったら、悪いの? 認めたくないものがあったら、悪いの? 兼さんだって土方さんの死を認めたくなかったから泣いたんじゃないの?」
違う。本当はこんな事を言いたいわけじゃない。けれど涙が溢れて止まらないように、湧き上がる感情が言葉を紡いで溢れ出ていく。今、こんな事を言えば兼さんの神経を逆撫でするだけなのに。一度こぼれ出た思いは流水の如く止まらない。
「兼さんは土方さんが死んじゃうのは歴史だから仕方がないって、ほんとにそう思えるの?」
「……なんだって?」
今まで冷たい顔つきだった兼さんの眉がぴくりと動いて、初めてえみのほうに顔を向けた。
「兼さんが言ってる事ってそういう事だろ。今の歴史を守るって……それって土方さんが函館戦争で戦死しちゃう歴史だろ。兼さんは土方さんが死んじゃってなんとも思わないの?」
「——っ思わないわけねえだろ!」
兼さんが吼える。激しい剣幕でえみを睨みつける。けれど、どこか哀しいような気持ちを感じとった。怖いけれど、小さい子供が寂しさで怒っているような。
「ガキが……わかったふうな口を利きやがって。あの人の死は今となってはただの歴史でしかねえ」
「そんなの、悲しすぎるよ。土方さんの一番近くにいた兼さんがそれでいいの?」
「お前にあの人の何がわかるんだよ。ただの審神者がでしゃばってくるんじゃねえっ」
声を荒らげて言ったあとに、兼さんはえみを見るとハッとした表情になって顔つきを曇らせた。えみの表情がよっぽどひどかったのか、ひどい事を言ってしまったと気づいて悔いているのか。えみ自身はそんなにひどい顔をしている自覚はなかったのだけれど、兼さんの顔を見ると、ああ、物凄くショックを受けたんだなあと自分の事なのにまるで他人事のように思えた。
「……どうして、そこまでしたんだ」
さっきより落ち着いた調子の声で——えみを気遣ってなのか自分を戒めているのか——兼さんは言った。兼さんの言葉に対してえみはこれまでの——審神者になり始めてから今までの、兼さんとの出来事を思い返してみる。
初めて兼さんを見て抱いた印象は、先に本丸にきていた相棒の堀川くんが言っていたとおり『かっこいい』人——神?——で、同時に『怖い』印象も抱いた。『怖い』も最初はその言葉の意味のまま——威圧感がある、言葉遣いなど——で『怖い』は時間が経つに連れて、現実味がない美しさを感じる、未知の感情に対して『怖い』ものとなっていった。きっと美しいと評判である刀の評価が体現したからであろうと今になって思う。
そして今は——失ってしまう事が『怖い』。よっちゃんやキヨ、歌仙さん達、みんなを失ってしまう事が。いつだって死と隣り合わせの戦いに身を投じていて、いつ死んだっておかしくない。だから毎日怯えている。生きて帰ってくる事をただひたすらに手を合わせて祈る事しか出来ない。彼らにとっては戦う事が使命だから——刀剣男士として顕現した意味だから。頭ではわかっていても、失うのが『怖い』。今さら失うには『思い出』を作りすぎた。
(思い出……そう、)
兼さんとこれからも思い出を作っていきたい。だから、えみは——
「……おい、」
「怖かったから」
ずっと黙りこくっていて心配だったのか呼びかける兼さんの声に重ねるように目尻に溜まっていた悲しみの雫を指で拭って、今度は真っ直ぐ兼さんの浅葱色の眼を見つめる。
「は……?」
「兼さんがどっか行っちゃいそうで怖かった。何言ってるかわかんないかもしれないけど、助けたかった。兼さんが泣いてたのを堀川くんから聞いたとき、不安になった。だから……」
「……世の中、そんな綺麗事じゃあ成り立たねえんだよ」
「っ……綺麗事だって、」何かしてあげたいと思った、してあげなきゃと思った、元気づけたいと、思った。ただ、それだけだった。
「……綺麗事と言われようが、そこまでやる理由はなんだ」と兼さんは訝しげにぼやく。少しのあいだ考えて、えみは「……笑顔に、したいから」
「!」兼さんは驚きのまなこでえみを見た。
「笑っていて、ほしいから。泣いてほしく、ないから」
また涙が滲んでくるのを感じるが、今度は悲しみの涙とは違う、よくわからないけれど湧き上がる熱い想いが涙となって込み上げてくるのを感じる。兼さんはしばらく呆けたあと、——はあ、と気の抜けたため息をつきながら前髪をくしゃりと掻き上げる。
「結局、それも綺麗事じゃねえか……」
……だが、と言葉を続ける。
「悪くはねえ」
ふっ、と口元を緩める。張り詰めていた緊張感が解けるのを感じた。——いつもの兼さんだ。
「にしても、そうか、オレに笑っていてほしいから〜かぁ。モテる男はつらいねえ」
「なっ……うぐぅっ……」
笑っていてほしいと言った建前、否定はできなかった。この兼定、調子を取り戻した途端これである。恥ずかしさや怒りや呆れなどといったいろんな感情がせめぎ合う。
「よーしよーし、皆まで言うな」
まるで小さい子を褒め称えるように完全にナメた態度でえみの頭を撫でる。撫でられるのは正直に言うと悪い気はしないが態度がむちゃくちゃに腹が立つ。とりあえず一件落着……か? 解決したのになんだか煮え切らないもやもやしたえみの気持ちを知る由もなく兼さんはいつもの調子を取り戻して飲み直そうと宴会場へと戻ろうとする。
よっちゃんが盾となっていたはずなのだが、よっちゃんはえみ達から離れた場所で他の男士と意気揚々と三味線の音に合わせて踊っていた。こちら側の温度差にさすがの兼さんとえみも調子を合わせて、えーっ、と呆れた様子で眺める。なんだか今まで張り詰めていた肩の力とか色々な力が変な感じに抜けてしまった。よっちゃんがこっちに気づくと、わしは仲直りできると信じちょったぜよ、なんて調子のいい事を言っていた。
よっちゃんは外へと手招きをする。招かれるまま外へと出てみると離れた場所へと移動して床に置いてある何かをいじり始めた。よっちゃんの合図とともに何かから野球ボール大くらいの火球が空へと向かって昇っていき、パッ——と星屑のようなものが放射線状に飛び散り、まるで花のように光が咲いて、ドン——と大気を震わす音が遅れて続いた。二個、三個、と光の花が澄んだ漆黒の夜空を鮮やかに彩る。音と光に反応して男士達が続々と夜空の花を見に外へと出てくる。一体こんな準備をいつやっていた、とか、打ち上げ花火をやる費用なんてあったのか、とか、現実的なところを思うところはあったけれど、光の美しさに一瞬でどうでも良くなってしまった。
ふと、兼さんに視線を移す。光の花が兼さんの鼻筋の通った、漆のような黒髪に映える、健康的な白い肌を華やかに照らす。横顔が、悔しいくらいに、目を奪われてしまうほどに格好良くて。思わず、ぼんやりと見惚れてしまう。
えみの視線に気づく兼さんは、「オレがかっこ良いのはわかるけどよぉ」といつもどおり鼻につく態度で煽ってくる——かと思いきや、次の行動にえみの周りの世界の時間が、一瞬だけ止まる事となる。
ふ——といつもみたいに哀れみを込めた、けれど、ずっとずっと優しい眼差しで兼さんは微笑んだ。何が起きたのかわからなかった。けれど、その顔は確かに美しくて。我に返ったとき思わず、顔を背けてしまう。夜空を震わせるほどの大きな音でも聞こえるくらいに心臓が強く音を刻んでいる。喧嘩していたときの恐怖感からとは全く違う、この高鳴る鼓動は、湧き上がった熱い思いは——? 湧いた感情を確かめるように脈打つ胸に手を置いて未知の感情の不安を取り除くようにきゅっと拳を握り締めた。
この気持ちは、この昂ぶる気持ちは、花火の魔法のせいだろうか。キヨから貰ったフルーツタルトがとても甘く感じた。