第二章 水玉模様
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
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突然だが、諸君らは『ところてん』には何をかけるタイプだろうか? もちろん、からしと酢醤油に決まっているよな?
「おまっ、信じらんねー。ところてんには黒蜜だろ」
「それはくずきりだっつってんの。ところてんはからしに酢醤油。オッケー?」
「ところてんの食べ方ひとつも知らねえガキがイキるねえ。さすが豚肉じゃがが嗜好なだけあらあ」
「牛肉じゃがとか脂が堪えるオッサン向けの食べ物だろ」
「芋っ娘にゃ牛なんつーお高くとまった食いモンの味はわからねーよ」
「まあ牛は肉じゃがよりもステーキで食べるのが一番だけどな。肉じゃがとかモッタイナイ」
……と、まあ話がやや脱線しながらもマウス・ファイトの火蓋はいつのまにか切って落とされている。
「二人ともー、あんまり言い合いしてると歌仙の雷飛んでくるよー」
そう、いつもなら燃え上がりそうな絶妙なタイミングで歌仙さんが成敗しに割って入ってくるのだが……
「好きにさせておけばいいよ」
「あれ、いつもなら『雅じゃない』とかいって止めに入るのに。いいの?」
「今日は空がとても澄んでいるからね。いい句が書けそうなんだ」
あー、とキヨはなんとも言えない反応をする。歌仙さんも歌仙さんで、個性的なみんなに負けず劣らず大物だと思うんだけどなあ。歌仙さんが注意しない事をいい気に、兼さんとの言葉での争いはヒートアップしていく。
「人の嗜好に文句つけるなんて、人の好みは千差万別十人十色なのに、器がちっちぇーんじゃねえ? ところてんに黒蜜はないけど」
「言ってる事が矛盾してる事に気づいてねーのかわざとなのか。この洒落た食いかたを受け入れられないお前のほうが、よっぽど器がちっちぇーし、見てる世界が狭いんだよ。無知を露呈してるもんだぞ」
「いるよなー、そうやって人が無知なのをイイコトに自分の価値観語って固定観念持たせる奴。プライドがクソ高い自意識過剰な人に多いんだってさ」
「誰がクソだとオレは自意識過剰じゃね、」
ゴウンッ! と兼さんが声を荒らげた途端、鐘のような鈍い音が兼さんの頭から鳴り響いた。血管が浮き出るほど強く握りしめた岩のような拳を携えて、歌仙さんは言う。
「君達は何度も何度も……いったいどれだけ言えばわかるんだ」
「ってえ〜! なんで毎度毎度オレなんだよ〜!」
「歌仙さんも酢醤油派だからっしょ」
「僕は黒蜜派だ」だったらなんでオレを殴るんだよ! と怒りを飛ばす兼さんを華麗にスルーして歌仙さんはえみに言う。
「君も、もう少し名刀を束ねる主だという自覚を持ったほうがいい」
「こいつはまだケツも青いガキだぜ」
「口を慎め。子供といえど、その実力を認められているのだから審神者を任せられているのだろう? 茶器と同じように云々」
歌仙さん十八番のお小言が始まった。耳が痛くなる言葉だ。……はい、と少し反省しながら頷く。お小言の内容はあまり耳に入っていないけど。歌仙さんの言うとおり、主としてもっとしゃんとしたほうがいいのかもしれない。
「つーことだ。もっと敬意を持って振る舞う事だな」
「そうだね……これからは歌仙さん達には敬意を払って振る舞えるように心がけるよ」
「素直でいいじゃねーか」
「あれ? 兼さん、自分が敬意を払ってもらえるだけの器の大きい人だと思ってんの?」
「おめーを一瞬でも素直で良い娘だと思ったオレが阿呆だった」
歌仙さんが助言してくれたそばから変化球で投げ合う言葉のキャッチボールが始まる。いや、だってこの赤くて黒い兼定が偉そうに言うもんだから。それに、立場で考えたら主であるえみのほうが偉いのでは? ああだこうだ言い合っていたら歌仙さんが禍々しい怒りに満ち溢れたオーラを放ちながら腰の刀に手をかけたので、えみ達は一目散に散った。
「——って事があってさー、もーそのあとの歌仙さんの機嫌とるの大変だったんだよー」
「あははは! 歌仙さんてば、かわいい」
ランが笑う。庭園が一望できる縁側で、硬い醤油の煎餅をバリバリと食べながら、目の前で今、短刀の子達の間で流行っているドロケイで遊ぶ彼らを眺めていた。
「主は兼さんと本当にアツアツだよね」
「いやアツアツじゃねーし」
ランの誤解を招きそうな一言に、食べていた煎餅の大きな欠片を飲み込みそうになり、一歩手前のところでなんとか踏みとどまってすかさず早口でツッコんだ。ランの誤解を招きそうな物言いは、今に始まった事ではないが。時々、反応してしまう。うっかり受け答えしてしまうと、
「アツアツだよ、どこからどう見ても。ちょっと妬けちゃうなー」
からかうようにランが茶々を入れる。これだから真面目に答えてしまうと駄目なのだ。えみはやや冷静さを取り戻して、はいはいそーですか、と気持ちを散らすように食べかけの煎餅をもう一度、バリン、と噛み砕いた。
「あるじと兼さんって、いつからそんなに親密だったっけ」
ランのその言葉に、ふと煎餅を口に運ぼうとしていた手が、止まる。ランの物言いも、まあそうだが、気になったのは兼さんとの今の関係性についてだ。始めから今みたいに言葉での合戦が当たり前だったわけじゃない。一応、兼さんとの間にも社交辞令というものが始めは存在していた。自慢じゃないが、えみは物凄く人見知りだ。はじめに出会った、気さくなよっちゃんとも、打ち解けるのに三ヶ月はかかった。だから、それなりに兼さんにも礼儀はあった。それがどうした事か、今ではこうして毎日、歌仙さんの雷が落ちるほど皮肉を言い合う仲だ。いったい、いつからだったか。思い返してはみるものの……
「うーん、きっかけになりそうなフシがありすぎてどれがきっかけだったんだかわかんねえ……」
「やっぱりアツアツじゃない」
アツアツじゃない。すかさず突っ込みを入れてこの話はなかった事にした。ぶー、とあざとくふてくされるランはやっぱり女顔負けに可愛いが、その可愛さに釣られて思わず根負けしてしまうほど、えみはできた人間ではない。むしろ女としての嫉妬心がメラメラと燃え上がって対抗心に駆られる。……といって、無理矢理に話を切り上げたものの、一度疑問を持つと正解までとことん突き詰めたくなってしまうのが人間の性というかなんというか。どうでもいいとさじを投げようとしても、えみのなかの賢い犬がくわえて持ってきてしまい思考に横入りする。……よし。
(こうなったら……)
「えーっと……確かここいらに……、あったあった」
今や自室と化している——庭園を一望する事のできる六畳ほどの見晴らしのいい和室の——仕事部屋にある、歴史や遡行軍などについての様々な、審神者業に必要な資料がまとめられた大きな本棚から、一冊の本を取り出す。A4サイズほどの少し重たい本のページを一ページずつ流れるようにめくっていく。
「——主がマンガ以外の本読んでるなんて、珍しー」かけられた声のほうに本から顔を向けると、清光——キヨがこっちを見ていた。
「キヨ。失礼だな。えみだって漫画以外読む事だってあるさ」
「仕事?」
「いんや、個人趣味。アルバム見てたの」
結局文字だけの本じゃないじゃん、と呆れたように笑われて、キヨは近くまでやってくるとアルバムを覗き込む。
「どーれ……俺、可愛く写ってる?」
写ってるよー、と軽く流すように言うと、キヨはちょっとだけムッとして「てきとーに言わないでよ」と返す。……度々聞いてくるから、逐一返すのも面倒で、もはやテンプレート化してしまっているが、これだけ身なりに気を遣っているんだ。どれだけ下手に撮ろうとも可愛く撮れているだろう。嫌味などではなく、純粋に。……まあ完全に否定はできないが。キヨの努力はわかっている。言うのもなんだかむず痒いので静かに飲み込んでおくが。そんな事はつゆ知らず、楽しそうにアルバム鑑賞するキヨ。
「なんだか昨日の事のように感じるけど、わりと経ってるんだよねー。いつのまにかここも、いっぱい増えちゃってさ」
「そうだな、賑やかになったな」
「まさか和泉守と主が毎日じゃれ合っているだなんて、思いもしなかったよね」
「じゃれ合ってね……、」そうだ、兼さんとどうして今みたいに罵り合う仲になったのかアルバムを見ていたんだった。途中から普通に思い出鑑賞となっていた。キヨの言葉で思い出す。
「ねえキヨ。兼さんっていつからあんなにふてぶてしい態度なんだ? はじめはそうじゃなかった気が……」
「え? 結構最初からふてぶてしかった気がするけど……そうねー、今みたいにふてぶてしくなったのは、やっぱりあれじゃない?」
あれ? と首を傾げる。あれだよ、あれ、とキヨは立てた人差し指で円を描くようにくるくると回しながら発言を焦らしている。焦らさなくていいから、はよ教えろい! ともだもだしていると、キヨの目がゆらーっと泳ぎ始めた。……まさか、焦らしているのではなく、何かを思い出そうとしている? というか、知っている雰囲気を装って、本当はキヨも知らない……?
「……キーヨー?」
「……ごめんっ。いざ振り返ってみるときっかけが多すぎてさ」
数分前のえみと同じ事を言っている。なんだかなあ、と思わず綻んでしまう。続けて「気づいたら、和泉守と主、いつのまにか仲良くなってたもんな」と言う。仲良いかー? と首を傾げながらキヨに疑問を投げかけた。常に馬鹿にされているだけのような気も……と、ここまで思考して、はたと気づいた。
「兼さんがあんなにふてぶてしくなったのって、まさかえみが関係してるのか?」
「まあ、おおかた。俺はそう思ってるけど」
ええー、とさらっとした重大な事実に、何か悪い事をしてしまったようで頭を抱え込んだ。悪い影響を与えていただなんて。さすがに相手が兼さんだろうが申し訳なく感じる。でもでも、元はと言えば、兼さんがおちょくってくるから……と考えて、こういう発想に至ってしまうから兼さんもえみにふてぶてしくせざるを得なかったんだろうな、とまた落ち込む。
「そんなに落ち込まなくたって……。根っこはああいう性質だし。主と波長が合うって事じゃん? 主なら気兼ねなく接する事ができるって事だよ。……多少、ナメてるとこもあるかもだけどさ」
キヨがフォローに入るが、最後の一言はいらなかったんじゃないか? 優しさが逆に傷にしみるという事もある。予想だにしていなかった目を向けたくない真実に、えみはカルマを背負って生きていく。しかし、人は生まれ落ちた事自体が罪なのだ。偉い人の本にそう書いてあった気がする。罪を背負いながら、どうやって罪をあがなうか、そして僕らは生まれた意味を知る……などとふざけた思考を巡らせるぐらいには余裕を取り戻している。
このときのえみは、思いもしなかった。審神者に就任して以来、初めての大きな事件——えみが審神者を辞める事態になるほどの事件が起きる事になろうとは——。
「兼さ……和泉守兼定と、堀川国広を函館に?」
本丸にやってきたこんのすけが、こんな事を言う。
「政府からの伝達です。和泉守兼定、堀川国広の二口を含めた部隊を慶應四年の函館に向かわせよ、との事です」
なぜ今になって函館なのだろうか。そこは本丸にきた当初から、さんざん調査したはず。こんのすけは二人の前の主絡みだという大雑把な事くらいしか教えてくれない。政府の思惑などわかるはずもないので——考えるだけ無駄のように思う——小さな疑問を抱きつつもこんのすけに言われるがまま任務を遂行する。
慶應四年の函館……『戊辰戦争』——土方歳三が銃で撃たれ旧幕府軍が敗北する……本当の意味での幕府の歴史に終止符が打たれる時代。兼さんと堀川くんにとっての因縁の地。そんな場所に兼さん達を向かわせて大丈夫だろうか。……まあ、兼さんの事だ。『昔の事は昔の事だ』ってきっぱり割り切るかもしれない。仕事人間——兼さんの場合は神だろうか——だから。むしろ『なんだ? オレの事を心配してくれんのか? 気になんのか?』と、えみの心配が反ってえみにとって仇になるかもしれない。うん、兼さん達なら大丈夫だろう。早速、兼さんと堀川くんに呼び出しのコールを送る。数分と経たないうちに二人揃ってやってきた。今回の任務の事を簡単に説明する。
「函館……ですか? 兼さんと?」
「うん。政府からの通達なんだけど……行ける?」
「……はい、大丈夫ですよ。ね、兼さん」堀川くんが、はい、と頷くとき、少しだけ開いた間が気になったが、堀川くんは穏やかな面持ちで兼さんに問いかけた。
「ん? ああ、問題ねえよ。チャッチャと行って片付けんぞ」
「……じゃ、向こうの事は二人に任せるから。準備できたら言ってね」
二人の函館への出陣は初めてになるが、決して少なくはない戦場を駆けてきた二人にとっては地の利もある函館の任務は楽勝だろう。それでも油断はしないでほしいが。様子を見るからに前の主と接触してしまってもきっと大丈夫だ。
兼さんと堀川くんを含め、残り四人の男士を加えて計六人の部隊を慶應四年の函館に送り出す。送り出したあとに、やっぱり少し不安になるが取り越し苦労、というやつだろう。あまり気にしていても仕方がない。二人が出陣しているあいだに審神者の他の仕事を片付けてしまおう。えみも業務に戻る。
二人を送り出してから数時間、寮の門限が近づいてきたので仕事机の上を整理整頓する。門限近くになると決まって長谷部さんがお見送りをしてくれるので、例の如く長谷部さんを傍らに城門まで向かっていく。
「ただ今戻りましたー」堀川くんの声だ。無事に帰ってきたようだ。
「おかえり。大丈夫だった?」
「はい、心配には及びませんよ。兼さんの活躍があってのものですから」
「当然だな。んじゃちょっくら湯浴みしてくらあ。砂だらけになっていけねえ。国広、あとは頼んだ」
自慢の身なりが汚れて少し不機嫌なのか、はたまた役不足なお使いで実力が目一杯出せなかったのが不満なのか、どことなくとっつきにくそうに——一見、普段どおりなのだが——兼さんは堀川くんを置いて行ってしまった。「主さん、お帰りですか?」と戦場から帰ってきたばっかで疲れているだろうに堀川くんも一緒になって見送ってくれた。戦果は長谷部さんが聞いておいてまとめてくれるみたいだ。安心しながら城門に立つ二人に手を振って帰路についた。
翌日、本丸に着いて早々に長谷部さんから昨日の函館の戦果をまとめた紙を渡される。堀川くんもやってきて改めて戦果を聞いた。前の主に関連する事に政府からの命令といえどつらい事をさせてしまった事を謝ると、土方さんとは直接接していないし、過去の事なので気にしていないと堀川くんは笑って気丈に振る舞った。強いな、と笑顔に釣られてほっとする。
報告を聞いたあと日課の審神者の雑務に手をつける。政府からの命令があれば出陣させ、男士からのお願いがあれば聞き、備蓄を管理し、本丸に破損が出たら修繕して……審神者って、本丸専属のお手伝いさんなのかなあ、とときどき思う事がある。一応、立場は主なので本丸内では一番上なのだが。歴史絡みの政治的な事はわからんので——経験が浅い事もある——長谷部さんや歌仙さんとかに任せているのもお手伝いさんだと感じる要因だろう。別に嫌ってわけではないが。もっとこう、審神者というものだから霊的な事をバンバンしてときには妖怪的なものと戦ったり……は、違うジャンルになってしまうか。まあ、あれだ。ようは地味だ。嫌ではないが退屈な部分もある。リフレッシュするために本丸内を適当にうろつく事にした。
中庭の一角で風を切る音が聞こえてきた。音の方向に目を向けると、兼さんが竹刀を振るっていた。
(お、真面目に稽古して——)は、と思わず視線を奪われる。風を切る音を出しながら竹刀を振るう兼さんの顔は、いつにも増して真剣そのものだった。まるで、何か抱えている思いを断ち切るように一心不乱に竹刀を振り続けているような……。いつもの兼さんとは、違っていた。単なるえみの気のせいかもしれないけど……。えみの視線に気づいて、兼さんは竹刀を振るう腕を止めてえみのほうに体を向ける。
「覗き見か? 汗も滴るイイ男に目を奪われちまう気持ちはわかるがなあ」
ふざけた事を言っている。通常運転だ。すん……と、えみの眼は虚無に満ちた眼になる。
「大男が棒を振り回して遊んでるのかと思ってつい好奇心で」
「遊んでるように見えたのかよ」
「そういえば動物園のクマがそんなふうに棒を振り回して遊んでるのを見た事あるよ」
「オレはクマじゃねえ」
クマも食わないくだらない応酬を繰り広げて特に大きな事件が起きるわけでもなく一日が終わった。
数日経った頃——兼さんが浮かべていた真剣な顔がいつまでも頭から離れなかった。妙に気にかかる。兼さんに直接理由を聞いてもはぐらかされるだろうし、そもそもえみに弱味を打ち明けたくないだろう。えみの前ではひょうひょうとしてるし。悶々と過ごしているのも限界に感じて、意を決してえみは聞いてみる事にした。ただし、聞く相手は兼さんではない。
件の人物を探しに本丸内を適当にうろつく。見つけた先は洗濯場。今日の洗濯場担当の男士と和気あいあいと雑用に励んでいた。「堀川くん」洗濯物を手に持った堀川くんを呼びかける。呼びかけに気づいて、ちょいちょい、と堀川くんを手招きする。兼さんの相棒、堀川くんならここ最近覚える兼さんに対する違和感の正体がわかるはず。
「どうかしましたか? 主さん」
「あのさ、兼さんに何かあった?」
堀川くんの眉毛がぴくっと動く。
「どうしてですか?」
「最近の兼さん、なんとなーく上の空っていうか、心ここにあらず、っていうか……たまにそんな顔してるような気がして……えみの気のせいかもしれないけど」
「……いえ、大丈夫ですよ。主さんが心配するような事は何もありません」
「……そっか。ならいーんだ。ありがと」
堀川くんは自分の持ち場へと戻る。相棒の堀川くんが何もないと言ってるから、やっぱりえみの考えすぎだったか。それはそうだ。そもそも、何かに悩むような男には見えないし。取り越し苦労というやつだ。もやもやも解消されたところでえみも自分の仕事をしに持ち場へと戻った。
数時間が経った頃だろうか。えみは上司に提出する報告書を作るため戦果をまとめた資料と数十分ものあいだ睨めっこをしていた。わかりやすく簡潔に、でも要点は押さえて作らなくてはいけない。センスが試される仕事だ。長谷部さんがいれば長谷部さんにほぼ任せきりにできるのだが今日は生憎遠征に出してしまった。長谷部さんの存在がどれほど大きいか痛感する。
嘆いていても仕方ないので孤軍奮闘していると、コンコン、と障子をノックする音から数泊あけて「堀川国広です。今、大丈夫ですか?」と堀川くんの声がした。「どうぞ」と声をかけると、障子を開けてえみの前までやってきて、正座で鎮座する。「あの……」と始めるが、そこから先は何も言葉が出ない。何か言いたそうな顔をしているのだが……。えみは向かっていた机の前から離れて、堀川くんに寄り添って「どうしたの?」と声をかける。堀川くんは、閉じ込めていた言葉を開放した。
「実は——」主さんの言うとおり、兼さんの様子は少し変わっている——それは、因縁の地……函館に行ったから——その地に立ち、前の主、土方さんと対峙した兼さんは……泣いていた——と、話す。
(兼さんが……泣いて……?)
「あれから考えていたんですけど、やっぱり、主さんには話しておいたほうがいいと思って……。でも、兼さんの事だからきっと主さんには心配かけたくないと思うんです。この事は、兼さんには内緒にしておいてもらえませんか?」
堀川くんの言うとおり、泣いた、などそんなかっこ悪い姿を知られたくないだろう。プライドが服を着たような兼さんなら特に。茶化しの絶好の餌とでも捉えられてしまうだろう。えみはそこまで極悪非道じゃない。「わかった」と堀川くんの気持ちを受け入れた。
「すみません、僕から話しておいて……」
「ううん。ありがと、話してくれて。兼さんには内緒ね」
すっ、と立てた人差し指を唇の前に持っていく。胸のつっかえが取れたように、ほっ、と安心した様子で堀川くんは穏やかな面持ちになる。自分の持ち場に戻る堀川くんを見送る。
兼さんの様子が変わったのは、函館に行ったあとか。ちょうどその頃に兼さんの様子の変化に気づいたのは、やはり勘違いではなかった。
(……あの兼さんが……)相棒の堀川くんに打ち明けてもらったものの、いまいち信じられなかった。涙を流そうものなら腹を斬るぐらいの厳格なイメージがあったのだが、意外にも情にもろいところもあったんだな。さすがに兼さんも前の主を目の前にしたら体裁を取り繕えないものか。そりゃあそうか、自分の事を好きでいてくれた人だもんな。取り乱さないほうが難しいものだ。
(……えみに、何かできる事って……)
堀川くんは内緒にしてくれと言ってたけど、あんな顔を見て、そんな事を聞かされて、心がざわつかないはずがなかった。放っておけばそのうち調子を取り戻すんだろうけど、えみのほうがいたたまれない。兼さんに元気になってもらうためにはどうしたらいいのか。……べ、別に兼さんのためじゃねーし。兼さんが調子悪いとこっちも調子狂うだけだし。そう、これはえみのためだし。刀剣男士の士気をまかなうのも主としての務めだ。……と、息衝くもやっぱり空回り。何かいい案はないかと思案する。
(……そうだ! 確か土方さんは故郷にたくさんの手紙を送ってた人なんだよね)
いつかの資料で見た事がある。そこから推測するに、筆まめな人=手紙好きな人だろう。……多分。土方さんの手紙で兼さんに活を入れられれば、きっと兼さんも元気になるだろう。全く単純な男だ。
……さて、名案が浮かんだのはいいが、問題はどうやって土方さんの手紙を手に入れるかだ。審神者という立場上、歴史に干渉してはいけないし……だからといって上の空な兼さんを放っておく事なんてできない。えみのために。審神者、なんて言うからなんか凄そうな能力を持ってるんじゃないかと思われそうだが——実際、えみも最初はそう思ってた——審神者の能力は『眠っている刀の想いを聞き、呼び覚ます』事。時を止めたり駆けたりなどの超次元的な能力は兼ね備えていないのだ。いや、なかにはいるかもしれないが、少なくともここにいるえみはそんな力はてんでない。審神者としての能力を取り除いたら、どこにでもいる凡庸な中学生だ。
このまま考えていても、らちがあきそうにないので、土方さんの手紙を手に入れるという目標は決まっているので、とりあえずは土方さんへの手紙を書く準備をする事にする。そうと決まれば、善は急げだ。
便箋……は時代にそぐわないから、和紙。と、きたら墨に筆。よし、準備はばっちり。さあ、書くぞ! ——なんて、意気込んだのはいいものの、今から数百年前の手紙の書きかたなんてわかるわけがない。根本的なところでつまずいてしまった……。誰か手紙の書きかたが上手い人はいないだろうか……。しばらく悩んで、あ、と心当たりのある人を見つけた。
「——手紙の書きかた?」
「はい。お願いできますか?」えみの救世主——になるかもしれない——歌仙さんは少し間を開けて「誰に書くんだい?」と聞き、うっ、と思わず声が出そうになるのをなんとかこらえる。まさか新撰組副長の土方さん宛に書きますだなんて口が裂けても言えるわけがない。適当に学校の課題でのコンクールに出すといった感じでぼかして伝えると、歌仙さんは、ふむ、と頷いてから「そういう事なら、助力しよう」と特に詮索はせずに快く引き受けてくれた。
歌仙さんが力になってくれるなら百人力だ。きっと土方さんも、あっと驚くような手紙が書けるぞ。書体とかの問題があるが、まあそこは二二〇五年のネットワークで調べれば大丈夫だろう。そんな充実しているネットワーク下で歌仙さんに習う目的は、本場仕込みのプロに習えば本格的なものができると考えた。手紙を渡すからにはやはりそれなりのものを渡したい。早速、歌仙さんとえみの作業場兼自室に向かって、すずりと筆と和紙の準備を終えると、歌仙さんとのマンツーマンの手紙講座が始まる。
「ここは崩して……そう。良い感じだ」「こんな感じですか?」そんな感じで、歌仙さんの丁寧な指導もあって順調に手紙の作成は進んでいった。……このときまでは。
「——ふむ……手紙でもいいけれど、詩にして贈ってみるのもいいんじゃないかい?」
詩? とえみは首を傾げる。
「風流だろう? 詩にするのなら、まずは雅だと感じる心を育てなくてはいけない。そしてその雅とは何か。それを知る事で詩にぐっと深みがでるよ」
はあ、と急な話の展開に、詩を書こうとも考えていなかったえみは、空返事をしてしまう。えみは普通に手紙が書ければそれでいいのだが、どうやら歌仙さんの文系魂に火がついたようで、特別講習『雅とは』が始まる。花を綺麗だと思う気持ち、空はどうしてあんなに青いのか、と疑問に感じる心などを言の葉に乗せて詩をつづる。歌仙さんの熱弁は止まらない。
どうして空が青く見えるのか。太陽の光と空気の厚さが関係していて、空気中に散らばりやすいのが青い光だから……とかなんとか、いつかのどこかで視た科学の番組でやっていた。ただ、それを言うと、風流じゃない、と説教されてしまう未来が見えたので言わずに押し黙っていた。歌仙さんの求める答えは、科学的なものではないのだろう。歌仙さんの眠たくなるような語りから、適当に理由をつけて逃れてきたのはいいのだが、肝心の手紙の書きかたについて、さほど学べなかったのは悔やまれる。もう一度、習いにいこうものなら、また特別講習が始まってしまうだろう。仕方がないが、歌仙さんから学ぶのを諦めて、再び手紙の書きかたを快く教えてくれそうな刀剣男士を頭のなかで検索する。手紙を書くのが好きそうで、感性が豊かで、話上手な……「あ、」と検索候補に一件、引っかかった。困ったときはとりあえず、あの人に相談する。この本丸一番の古株。
「手紙の書きかた? わしに?」
陸奥守吉行こと、よっちゃんが、驚いた顔で自分を指差す。そう、よっちゃん——刀よりも言葉の力で日本を切り開いた坂本龍馬の魂を受け継いでいるのなら、相手に想いが伝わる素敵な手紙がきっと書けるはず。自分の直感を信じてよっちゃんにお願いする。よっちゃんは、にっと歯を見せて「えいよ」と快く引き受けてくれた。やっぱり、よっちゃんは期待を裏切らない。よっちゃんを連れてもう一度、仕事場兼自室に戻り、適当な紙と筆を用意して、いざ、よっちゃんの手紙講習を受ける。
「誰に書くが?」とえみが手紙を書く本当の理由を知らないよっちゃんは、なんの気なしに軽い気持ちで聞いてくる。ドキッ、と異様に胸を高鳴らせた。誰かに宛てるための手紙なのだから、相手が誰なのか知りたいのは当然だろう。目上や目下で使う言葉もまるっきり違ってくるし。でも、言えない。兼さんを元気づけたいがために、土方さんの手紙をもらうために、土方さんに手紙を書くなんて。歌仙さんのときと同じように、適当に、学校の課題で偉人に手紙を書くのなら〜、とそれっぽい事を言ってお茶を濁す。特によっちゃんは追及する事もなく、納得してくれた。気を取り直して、講座を再開する。
ときどき雑談を交えながら筆を走らせていると、突然よっちゃんが思いついたように「そうじゃ。手紙に写真を添えてみるのはどうじゃ?」
提案する。写真かあ……綺麗な写真が手紙に同封されていたら、ちょっと嬉しいかも。夢を追うロマンチストなよっちゃんらしい発想だ。
「外国では、はがきに絵を書いたものが流行っちゅうね。流行りを取り入れるのもえいと思うが」
「うん、いいかも」
「そうと決まったら、早速撮りにいくが!」
言うや否や、よっちゃんは軽いフットワークで愛用のカメラを取りに走っていった。手紙を書く事から脱線してしまっているが、まあ、よっちゃんが楽しそうなので良しとしよう。一枚くらいなら、いいかな。ドタドタと元気な足音とともによっちゃんが一眼レフカメラを手に持ってきたので、えみもスマホを持って縁側から被写体となるものを探しに出た。
気がつけば、空はすっかり暁色に染まっていた。あちゃあ、とスマホのアルバムに増えた数十枚の写真を見て、ちょっぴり後悔する。手紙に添えるための写真なのに、写真に本気を出してどうするんだ。肝心の手紙は、まだ冒頭しか書けていない。今になってよっちゃんもようやく手紙の事を思い出して、すまんのお、とバツが悪そうな笑みで謝った。えみも思いがけず夢中になって本来の目的をすっかり忘れていたので、お互い様だ。よっちゃんが撮った写真は、えみがプリントアウトするために、よっちゃんからカメラをのネガを一旦預かる事にした。できあがりが待ち遠しい。
翌日。もう一度、手紙の書きかたをきちんと教えてくれそうな男士《ひと》を脳内で検索する。まだ諦めていない。字の綺麗さとか、感情の機微とか、このさい置いといて、真面目にやってくれそうな……「主ー、何かやっておく事ある? 手、空いちゃって暇なんだよね」
ひょこ、と障子の向こう側から頭を出して突然訪ねてくるキヨ。やっておく事……審神者の仕事も手が回らないというほどでもないし——ハッ、と稲妻が落ちたように名案が降りてきた。
「ある。あるある、特別任務」
「えっ、特別任務? 何?」
「えみに手紙の書きかたを教えてくれ」
は? とキヨは素っ頓狂な声を上げる。まあ、それが素直な反応だろう。特別な任務だというからどんなものかと思えば、主に手紙の書きかたを教える仕事ときたもんだ。あくまでも彼らは刀で、遡行軍と戦う事が仕事だというのに。もちろん、蔑ろにしているわけではない。ただ、人という姿で顕現している以上、情で頼まずにはいられない。
「逆に聞くけどさ、それ、俺でいいの? あんまり字、上手くないし」
不安げな面持ちを浮かべながらキヨは尋ねる。字の上手い下手などこの際、関係ない。真面目に、手紙の書きかただけに取り組んでくれる事がえみにとっての最重要項目だ。その点で言えば、キヨは適任だろう。なんだかんだ言いつつも、仕事はきっちりこなしてくれる。えみは自分の直感を信じる。えみの真剣な想いを察してくれたのか、
「わかった。主の頼みだもんね。俺が教えられるところまでね」
やれやれ、と短く息を吐いてキヨは聞き入れてくれた。言葉のわりにどことなく嬉しそうに感じる気がする。そういえば、こうして面と向かってキヨにお願い事をするのはあまりなかった気がする。わざわざ頼むまでもない用事が多かったからなあ。キヨと仕事場兼自室へ向かい、何度目かの手紙の講座を始める。もはや手慣れたものだ。キヨが不思議な目で見るのをよそに、ちゃきちゃきと進める。
予め、キヨが予告していたとおり筆跡は歌仙さんに届かないが、他の二人と比べて同じ目線で取り組んでくれる。歌仙さんは、いかにも「先生!」という感じだったし、よっちゃんは、良くも悪くもおおらかだ。自分は川の下の子と揶揄しながらも——揶揄しているからこそ、同じ目線で合わせようとしてくれているのかもしれない。河原の人達の心がわかる、気高い心を持った人——神——だ。キヨも一緒に学ぶようにゆったりとしたときのなかで、筆を走らせていく。
「そーいえば、誰に書くの」
例に漏れずキヨも軽い感じで聞いてきた。歌仙さんとよっちゃんの二人にも言ったとおり、学校の課題なのだと適当に濁して答える。ふーん、とキヨは特に疑う様子もなくすんなりと受け入れた。少しだけ、良心が痛む。こんなに真面目に取り組んでくれるのに、えみは嘘でしか返せない。キヨにだけじゃない。歌仙さんにもよっちゃんにもときどき罪悪感を感じていた。
「偉人に手紙を書く、かあ。実際にやったら、歴史が変わっちゃうのもあるかもだけど」のんきだよねえ、とえみ達人間の平和ボケに対して、どこか愛おしさを含んだ言いかたで呟く。ドキッ、と今まさに歴史を変えかねないかもしれない事を実行しようとしている事実に、ハラハラと肝を冷やす。かつ、何も知らないキヨに片棒を担がせる事に、罪悪感に苛まれる。この作戦はなかった事にしようか……でも、土方さんの事で元気がない兼さんを、他にどうやって元気づけたらいいのか……足りない頭でようやく搾りだした、えみができる精一杯の最善策だから、これ以上の良い方法が思いつかない。
キヨは……さ、とあとに続く言葉を探しながら、重たく口を動かす。
「もしも……もしも、沖田さんから手紙が届いたら、どう思う?」
予想外だったのか、えみの質問にキヨは、クールな面持ちはそのままに切れ長の目を僅かに大きく開かせた。ほんの数秒、沈黙が訪れる。たったの数秒だが、えみにはとても長い時間に感じた。キヨの言葉次第で諦めるかもしれない。……諦めさせてくれる言葉が欲しいのかもしれない。覚悟をしてキヨの言葉を待った。キヨは、そうねー、といつもの緩い調子で開口一番そう言い、続けて、唱えた。
「剣しかやってこなかったから、あの人が書く手紙は簡単に想像がつくけど……嬉しい、かな。やっぱり」
ハッ、と一瞬、息を呑むようにして、キヨを見る。
「あの人の色々な想いが知れたら、ああ、この人の刀でいれて幸せだったなーとか思うかもね。逆に失望したりするかもしれない。けど、どんな想いにしろ、俺を使ってくれた事実は変わらないから」
声の調子はいつもどおりの緩い感じなのだが、表情がどことなく穏やかで優しかった。前の主、沖田さんの事がとても大好きなんだなと伝わる。……兼さんも、土方さんから手紙をもらったら、こんな顔をするのかな。喜んでくれるかな。
「……あの人宛に書くの?」
あんな話をしたものだから勘ぐる様子でキヨが聞いてきて、不意にドキッと緊張するが、落ち着いて、さあ、どうだか。とはぐらかした。もー、とキヨはちょっと不満げな顔で唇を軽く尖らせる。
「——っしゃあー、書けたー!」
歌仙さん、よっちゃん、キヨの指導を受けて手紙が書きあがった。一時はどうなるかと思ったがどうにかなってよかった。自分を褒めたい。まずえみが書いた手紙だとは思わないだろう。一つ目の難所はクリアした。残す二つ目の難所が最難関だ。『土方さんに手紙を渡して返事をもらう』今まで立ち向かってきたどんな任務よりも一番難しい。歴史に干渉する事なく最小限の接触で……やはり直接手渡すしかないだろうか。
唯一、時を遡る事を許される刀剣男士の力を借りるのも難しいだろう。そもそも彼らとは、歴史を改変されないように手を取り合っているのだから。彼らのなかにも本当は歴史を変えたいと思ってる人が少なからずいる。それでも、悲しい結末でも、力を貸してくれる。だから、なるべく刀剣男士の力を借りないでなんとかしたいのだが……(それに、歴史を守らなきゃいけない立場の審神者が歴史に直接関わったなんてバレたらマズい。超マズい。やっぱり渡すのやめよっかな〜)
急に怖じ気づいてきた。そもそもえみがこんな事をしなくたって兼さんは勝手に元気になるだろうし、そもそもえみはなんでこんなやばい事をしようとしてるんだ? 頭がおかしい。そうだ、兼さんのあんな調子を見たからおかしくなったのかもしれない。そこに堀川くんの一言が叩き込まれたから今の状況に至る。
けど、ここで諦めたら今までなんのために頑張ってきたのか。全部が無駄になる。歌仙さんや、よっちゃんや、キヨがかけてくれた想いも……。
「……」
「おまっ、信じらんねー。ところてんには黒蜜だろ」
「それはくずきりだっつってんの。ところてんはからしに酢醤油。オッケー?」
「ところてんの食べ方ひとつも知らねえガキがイキるねえ。さすが豚肉じゃがが嗜好なだけあらあ」
「牛肉じゃがとか脂が堪えるオッサン向けの食べ物だろ」
「芋っ娘にゃ牛なんつーお高くとまった食いモンの味はわからねーよ」
「まあ牛は肉じゃがよりもステーキで食べるのが一番だけどな。肉じゃがとかモッタイナイ」
……と、まあ話がやや脱線しながらもマウス・ファイトの火蓋はいつのまにか切って落とされている。
「二人ともー、あんまり言い合いしてると歌仙の雷飛んでくるよー」
そう、いつもなら燃え上がりそうな絶妙なタイミングで歌仙さんが成敗しに割って入ってくるのだが……
「好きにさせておけばいいよ」
「あれ、いつもなら『雅じゃない』とかいって止めに入るのに。いいの?」
「今日は空がとても澄んでいるからね。いい句が書けそうなんだ」
あー、とキヨはなんとも言えない反応をする。歌仙さんも歌仙さんで、個性的なみんなに負けず劣らず大物だと思うんだけどなあ。歌仙さんが注意しない事をいい気に、兼さんとの言葉での争いはヒートアップしていく。
「人の嗜好に文句つけるなんて、人の好みは千差万別十人十色なのに、器がちっちぇーんじゃねえ? ところてんに黒蜜はないけど」
「言ってる事が矛盾してる事に気づいてねーのかわざとなのか。この洒落た食いかたを受け入れられないお前のほうが、よっぽど器がちっちぇーし、見てる世界が狭いんだよ。無知を露呈してるもんだぞ」
「いるよなー、そうやって人が無知なのをイイコトに自分の価値観語って固定観念持たせる奴。プライドがクソ高い自意識過剰な人に多いんだってさ」
「誰がクソだとオレは自意識過剰じゃね、」
ゴウンッ! と兼さんが声を荒らげた途端、鐘のような鈍い音が兼さんの頭から鳴り響いた。血管が浮き出るほど強く握りしめた岩のような拳を携えて、歌仙さんは言う。
「君達は何度も何度も……いったいどれだけ言えばわかるんだ」
「ってえ〜! なんで毎度毎度オレなんだよ〜!」
「歌仙さんも酢醤油派だからっしょ」
「僕は黒蜜派だ」だったらなんでオレを殴るんだよ! と怒りを飛ばす兼さんを華麗にスルーして歌仙さんはえみに言う。
「君も、もう少し名刀を束ねる主だという自覚を持ったほうがいい」
「こいつはまだケツも青いガキだぜ」
「口を慎め。子供といえど、その実力を認められているのだから審神者を任せられているのだろう? 茶器と同じように云々」
歌仙さん十八番のお小言が始まった。耳が痛くなる言葉だ。……はい、と少し反省しながら頷く。お小言の内容はあまり耳に入っていないけど。歌仙さんの言うとおり、主としてもっとしゃんとしたほうがいいのかもしれない。
「つーことだ。もっと敬意を持って振る舞う事だな」
「そうだね……これからは歌仙さん達には敬意を払って振る舞えるように心がけるよ」
「素直でいいじゃねーか」
「あれ? 兼さん、自分が敬意を払ってもらえるだけの器の大きい人だと思ってんの?」
「おめーを一瞬でも素直で良い娘だと思ったオレが阿呆だった」
歌仙さんが助言してくれたそばから変化球で投げ合う言葉のキャッチボールが始まる。いや、だってこの赤くて黒い兼定が偉そうに言うもんだから。それに、立場で考えたら主であるえみのほうが偉いのでは? ああだこうだ言い合っていたら歌仙さんが禍々しい怒りに満ち溢れたオーラを放ちながら腰の刀に手をかけたので、えみ達は一目散に散った。
「——って事があってさー、もーそのあとの歌仙さんの機嫌とるの大変だったんだよー」
「あははは! 歌仙さんてば、かわいい」
ランが笑う。庭園が一望できる縁側で、硬い醤油の煎餅をバリバリと食べながら、目の前で今、短刀の子達の間で流行っているドロケイで遊ぶ彼らを眺めていた。
「主は兼さんと本当にアツアツだよね」
「いやアツアツじゃねーし」
ランの誤解を招きそうな一言に、食べていた煎餅の大きな欠片を飲み込みそうになり、一歩手前のところでなんとか踏みとどまってすかさず早口でツッコんだ。ランの誤解を招きそうな物言いは、今に始まった事ではないが。時々、反応してしまう。うっかり受け答えしてしまうと、
「アツアツだよ、どこからどう見ても。ちょっと妬けちゃうなー」
からかうようにランが茶々を入れる。これだから真面目に答えてしまうと駄目なのだ。えみはやや冷静さを取り戻して、はいはいそーですか、と気持ちを散らすように食べかけの煎餅をもう一度、バリン、と噛み砕いた。
「あるじと兼さんって、いつからそんなに親密だったっけ」
ランのその言葉に、ふと煎餅を口に運ぼうとしていた手が、止まる。ランの物言いも、まあそうだが、気になったのは兼さんとの今の関係性についてだ。始めから今みたいに言葉での合戦が当たり前だったわけじゃない。一応、兼さんとの間にも社交辞令というものが始めは存在していた。自慢じゃないが、えみは物凄く人見知りだ。はじめに出会った、気さくなよっちゃんとも、打ち解けるのに三ヶ月はかかった。だから、それなりに兼さんにも礼儀はあった。それがどうした事か、今ではこうして毎日、歌仙さんの雷が落ちるほど皮肉を言い合う仲だ。いったい、いつからだったか。思い返してはみるものの……
「うーん、きっかけになりそうなフシがありすぎてどれがきっかけだったんだかわかんねえ……」
「やっぱりアツアツじゃない」
アツアツじゃない。すかさず突っ込みを入れてこの話はなかった事にした。ぶー、とあざとくふてくされるランはやっぱり女顔負けに可愛いが、その可愛さに釣られて思わず根負けしてしまうほど、えみはできた人間ではない。むしろ女としての嫉妬心がメラメラと燃え上がって対抗心に駆られる。……といって、無理矢理に話を切り上げたものの、一度疑問を持つと正解までとことん突き詰めたくなってしまうのが人間の性というかなんというか。どうでもいいとさじを投げようとしても、えみのなかの賢い犬がくわえて持ってきてしまい思考に横入りする。……よし。
(こうなったら……)
「えーっと……確かここいらに……、あったあった」
今や自室と化している——庭園を一望する事のできる六畳ほどの見晴らしのいい和室の——仕事部屋にある、歴史や遡行軍などについての様々な、審神者業に必要な資料がまとめられた大きな本棚から、一冊の本を取り出す。A4サイズほどの少し重たい本のページを一ページずつ流れるようにめくっていく。
「——主がマンガ以外の本読んでるなんて、珍しー」かけられた声のほうに本から顔を向けると、清光——キヨがこっちを見ていた。
「キヨ。失礼だな。えみだって漫画以外読む事だってあるさ」
「仕事?」
「いんや、個人趣味。アルバム見てたの」
結局文字だけの本じゃないじゃん、と呆れたように笑われて、キヨは近くまでやってくるとアルバムを覗き込む。
「どーれ……俺、可愛く写ってる?」
写ってるよー、と軽く流すように言うと、キヨはちょっとだけムッとして「てきとーに言わないでよ」と返す。……度々聞いてくるから、逐一返すのも面倒で、もはやテンプレート化してしまっているが、これだけ身なりに気を遣っているんだ。どれだけ下手に撮ろうとも可愛く撮れているだろう。嫌味などではなく、純粋に。……まあ完全に否定はできないが。キヨの努力はわかっている。言うのもなんだかむず痒いので静かに飲み込んでおくが。そんな事はつゆ知らず、楽しそうにアルバム鑑賞するキヨ。
「なんだか昨日の事のように感じるけど、わりと経ってるんだよねー。いつのまにかここも、いっぱい増えちゃってさ」
「そうだな、賑やかになったな」
「まさか和泉守と主が毎日じゃれ合っているだなんて、思いもしなかったよね」
「じゃれ合ってね……、」そうだ、兼さんとどうして今みたいに罵り合う仲になったのかアルバムを見ていたんだった。途中から普通に思い出鑑賞となっていた。キヨの言葉で思い出す。
「ねえキヨ。兼さんっていつからあんなにふてぶてしい態度なんだ? はじめはそうじゃなかった気が……」
「え? 結構最初からふてぶてしかった気がするけど……そうねー、今みたいにふてぶてしくなったのは、やっぱりあれじゃない?」
あれ? と首を傾げる。あれだよ、あれ、とキヨは立てた人差し指で円を描くようにくるくると回しながら発言を焦らしている。焦らさなくていいから、はよ教えろい! ともだもだしていると、キヨの目がゆらーっと泳ぎ始めた。……まさか、焦らしているのではなく、何かを思い出そうとしている? というか、知っている雰囲気を装って、本当はキヨも知らない……?
「……キーヨー?」
「……ごめんっ。いざ振り返ってみるときっかけが多すぎてさ」
数分前のえみと同じ事を言っている。なんだかなあ、と思わず綻んでしまう。続けて「気づいたら、和泉守と主、いつのまにか仲良くなってたもんな」と言う。仲良いかー? と首を傾げながらキヨに疑問を投げかけた。常に馬鹿にされているだけのような気も……と、ここまで思考して、はたと気づいた。
「兼さんがあんなにふてぶてしくなったのって、まさかえみが関係してるのか?」
「まあ、おおかた。俺はそう思ってるけど」
ええー、とさらっとした重大な事実に、何か悪い事をしてしまったようで頭を抱え込んだ。悪い影響を与えていただなんて。さすがに相手が兼さんだろうが申し訳なく感じる。でもでも、元はと言えば、兼さんがおちょくってくるから……と考えて、こういう発想に至ってしまうから兼さんもえみにふてぶてしくせざるを得なかったんだろうな、とまた落ち込む。
「そんなに落ち込まなくたって……。根っこはああいう性質だし。主と波長が合うって事じゃん? 主なら気兼ねなく接する事ができるって事だよ。……多少、ナメてるとこもあるかもだけどさ」
キヨがフォローに入るが、最後の一言はいらなかったんじゃないか? 優しさが逆に傷にしみるという事もある。予想だにしていなかった目を向けたくない真実に、えみはカルマを背負って生きていく。しかし、人は生まれ落ちた事自体が罪なのだ。偉い人の本にそう書いてあった気がする。罪を背負いながら、どうやって罪をあがなうか、そして僕らは生まれた意味を知る……などとふざけた思考を巡らせるぐらいには余裕を取り戻している。
このときのえみは、思いもしなかった。審神者に就任して以来、初めての大きな事件——えみが審神者を辞める事態になるほどの事件が起きる事になろうとは——。
「兼さ……和泉守兼定と、堀川国広を函館に?」
本丸にやってきたこんのすけが、こんな事を言う。
「政府からの伝達です。和泉守兼定、堀川国広の二口を含めた部隊を慶應四年の函館に向かわせよ、との事です」
なぜ今になって函館なのだろうか。そこは本丸にきた当初から、さんざん調査したはず。こんのすけは二人の前の主絡みだという大雑把な事くらいしか教えてくれない。政府の思惑などわかるはずもないので——考えるだけ無駄のように思う——小さな疑問を抱きつつもこんのすけに言われるがまま任務を遂行する。
慶應四年の函館……『戊辰戦争』——土方歳三が銃で撃たれ旧幕府軍が敗北する……本当の意味での幕府の歴史に終止符が打たれる時代。兼さんと堀川くんにとっての因縁の地。そんな場所に兼さん達を向かわせて大丈夫だろうか。……まあ、兼さんの事だ。『昔の事は昔の事だ』ってきっぱり割り切るかもしれない。仕事人間——兼さんの場合は神だろうか——だから。むしろ『なんだ? オレの事を心配してくれんのか? 気になんのか?』と、えみの心配が反ってえみにとって仇になるかもしれない。うん、兼さん達なら大丈夫だろう。早速、兼さんと堀川くんに呼び出しのコールを送る。数分と経たないうちに二人揃ってやってきた。今回の任務の事を簡単に説明する。
「函館……ですか? 兼さんと?」
「うん。政府からの通達なんだけど……行ける?」
「……はい、大丈夫ですよ。ね、兼さん」堀川くんが、はい、と頷くとき、少しだけ開いた間が気になったが、堀川くんは穏やかな面持ちで兼さんに問いかけた。
「ん? ああ、問題ねえよ。チャッチャと行って片付けんぞ」
「……じゃ、向こうの事は二人に任せるから。準備できたら言ってね」
二人の函館への出陣は初めてになるが、決して少なくはない戦場を駆けてきた二人にとっては地の利もある函館の任務は楽勝だろう。それでも油断はしないでほしいが。様子を見るからに前の主と接触してしまってもきっと大丈夫だ。
兼さんと堀川くんを含め、残り四人の男士を加えて計六人の部隊を慶應四年の函館に送り出す。送り出したあとに、やっぱり少し不安になるが取り越し苦労、というやつだろう。あまり気にしていても仕方がない。二人が出陣しているあいだに審神者の他の仕事を片付けてしまおう。えみも業務に戻る。
二人を送り出してから数時間、寮の門限が近づいてきたので仕事机の上を整理整頓する。門限近くになると決まって長谷部さんがお見送りをしてくれるので、例の如く長谷部さんを傍らに城門まで向かっていく。
「ただ今戻りましたー」堀川くんの声だ。無事に帰ってきたようだ。
「おかえり。大丈夫だった?」
「はい、心配には及びませんよ。兼さんの活躍があってのものですから」
「当然だな。んじゃちょっくら湯浴みしてくらあ。砂だらけになっていけねえ。国広、あとは頼んだ」
自慢の身なりが汚れて少し不機嫌なのか、はたまた役不足なお使いで実力が目一杯出せなかったのが不満なのか、どことなくとっつきにくそうに——一見、普段どおりなのだが——兼さんは堀川くんを置いて行ってしまった。「主さん、お帰りですか?」と戦場から帰ってきたばっかで疲れているだろうに堀川くんも一緒になって見送ってくれた。戦果は長谷部さんが聞いておいてまとめてくれるみたいだ。安心しながら城門に立つ二人に手を振って帰路についた。
翌日、本丸に着いて早々に長谷部さんから昨日の函館の戦果をまとめた紙を渡される。堀川くんもやってきて改めて戦果を聞いた。前の主に関連する事に政府からの命令といえどつらい事をさせてしまった事を謝ると、土方さんとは直接接していないし、過去の事なので気にしていないと堀川くんは笑って気丈に振る舞った。強いな、と笑顔に釣られてほっとする。
報告を聞いたあと日課の審神者の雑務に手をつける。政府からの命令があれば出陣させ、男士からのお願いがあれば聞き、備蓄を管理し、本丸に破損が出たら修繕して……審神者って、本丸専属のお手伝いさんなのかなあ、とときどき思う事がある。一応、立場は主なので本丸内では一番上なのだが。歴史絡みの政治的な事はわからんので——経験が浅い事もある——長谷部さんや歌仙さんとかに任せているのもお手伝いさんだと感じる要因だろう。別に嫌ってわけではないが。もっとこう、審神者というものだから霊的な事をバンバンしてときには妖怪的なものと戦ったり……は、違うジャンルになってしまうか。まあ、あれだ。ようは地味だ。嫌ではないが退屈な部分もある。リフレッシュするために本丸内を適当にうろつく事にした。
中庭の一角で風を切る音が聞こえてきた。音の方向に目を向けると、兼さんが竹刀を振るっていた。
(お、真面目に稽古して——)は、と思わず視線を奪われる。風を切る音を出しながら竹刀を振るう兼さんの顔は、いつにも増して真剣そのものだった。まるで、何か抱えている思いを断ち切るように一心不乱に竹刀を振り続けているような……。いつもの兼さんとは、違っていた。単なるえみの気のせいかもしれないけど……。えみの視線に気づいて、兼さんは竹刀を振るう腕を止めてえみのほうに体を向ける。
「覗き見か? 汗も滴るイイ男に目を奪われちまう気持ちはわかるがなあ」
ふざけた事を言っている。通常運転だ。すん……と、えみの眼は虚無に満ちた眼になる。
「大男が棒を振り回して遊んでるのかと思ってつい好奇心で」
「遊んでるように見えたのかよ」
「そういえば動物園のクマがそんなふうに棒を振り回して遊んでるのを見た事あるよ」
「オレはクマじゃねえ」
クマも食わないくだらない応酬を繰り広げて特に大きな事件が起きるわけでもなく一日が終わった。
数日経った頃——兼さんが浮かべていた真剣な顔がいつまでも頭から離れなかった。妙に気にかかる。兼さんに直接理由を聞いてもはぐらかされるだろうし、そもそもえみに弱味を打ち明けたくないだろう。えみの前ではひょうひょうとしてるし。悶々と過ごしているのも限界に感じて、意を決してえみは聞いてみる事にした。ただし、聞く相手は兼さんではない。
件の人物を探しに本丸内を適当にうろつく。見つけた先は洗濯場。今日の洗濯場担当の男士と和気あいあいと雑用に励んでいた。「堀川くん」洗濯物を手に持った堀川くんを呼びかける。呼びかけに気づいて、ちょいちょい、と堀川くんを手招きする。兼さんの相棒、堀川くんならここ最近覚える兼さんに対する違和感の正体がわかるはず。
「どうかしましたか? 主さん」
「あのさ、兼さんに何かあった?」
堀川くんの眉毛がぴくっと動く。
「どうしてですか?」
「最近の兼さん、なんとなーく上の空っていうか、心ここにあらず、っていうか……たまにそんな顔してるような気がして……えみの気のせいかもしれないけど」
「……いえ、大丈夫ですよ。主さんが心配するような事は何もありません」
「……そっか。ならいーんだ。ありがと」
堀川くんは自分の持ち場へと戻る。相棒の堀川くんが何もないと言ってるから、やっぱりえみの考えすぎだったか。それはそうだ。そもそも、何かに悩むような男には見えないし。取り越し苦労というやつだ。もやもやも解消されたところでえみも自分の仕事をしに持ち場へと戻った。
数時間が経った頃だろうか。えみは上司に提出する報告書を作るため戦果をまとめた資料と数十分ものあいだ睨めっこをしていた。わかりやすく簡潔に、でも要点は押さえて作らなくてはいけない。センスが試される仕事だ。長谷部さんがいれば長谷部さんにほぼ任せきりにできるのだが今日は生憎遠征に出してしまった。長谷部さんの存在がどれほど大きいか痛感する。
嘆いていても仕方ないので孤軍奮闘していると、コンコン、と障子をノックする音から数泊あけて「堀川国広です。今、大丈夫ですか?」と堀川くんの声がした。「どうぞ」と声をかけると、障子を開けてえみの前までやってきて、正座で鎮座する。「あの……」と始めるが、そこから先は何も言葉が出ない。何か言いたそうな顔をしているのだが……。えみは向かっていた机の前から離れて、堀川くんに寄り添って「どうしたの?」と声をかける。堀川くんは、閉じ込めていた言葉を開放した。
「実は——」主さんの言うとおり、兼さんの様子は少し変わっている——それは、因縁の地……函館に行ったから——その地に立ち、前の主、土方さんと対峙した兼さんは……泣いていた——と、話す。
(兼さんが……泣いて……?)
「あれから考えていたんですけど、やっぱり、主さんには話しておいたほうがいいと思って……。でも、兼さんの事だからきっと主さんには心配かけたくないと思うんです。この事は、兼さんには内緒にしておいてもらえませんか?」
堀川くんの言うとおり、泣いた、などそんなかっこ悪い姿を知られたくないだろう。プライドが服を着たような兼さんなら特に。茶化しの絶好の餌とでも捉えられてしまうだろう。えみはそこまで極悪非道じゃない。「わかった」と堀川くんの気持ちを受け入れた。
「すみません、僕から話しておいて……」
「ううん。ありがと、話してくれて。兼さんには内緒ね」
すっ、と立てた人差し指を唇の前に持っていく。胸のつっかえが取れたように、ほっ、と安心した様子で堀川くんは穏やかな面持ちになる。自分の持ち場に戻る堀川くんを見送る。
兼さんの様子が変わったのは、函館に行ったあとか。ちょうどその頃に兼さんの様子の変化に気づいたのは、やはり勘違いではなかった。
(……あの兼さんが……)相棒の堀川くんに打ち明けてもらったものの、いまいち信じられなかった。涙を流そうものなら腹を斬るぐらいの厳格なイメージがあったのだが、意外にも情にもろいところもあったんだな。さすがに兼さんも前の主を目の前にしたら体裁を取り繕えないものか。そりゃあそうか、自分の事を好きでいてくれた人だもんな。取り乱さないほうが難しいものだ。
(……えみに、何かできる事って……)
堀川くんは内緒にしてくれと言ってたけど、あんな顔を見て、そんな事を聞かされて、心がざわつかないはずがなかった。放っておけばそのうち調子を取り戻すんだろうけど、えみのほうがいたたまれない。兼さんに元気になってもらうためにはどうしたらいいのか。……べ、別に兼さんのためじゃねーし。兼さんが調子悪いとこっちも調子狂うだけだし。そう、これはえみのためだし。刀剣男士の士気をまかなうのも主としての務めだ。……と、息衝くもやっぱり空回り。何かいい案はないかと思案する。
(……そうだ! 確か土方さんは故郷にたくさんの手紙を送ってた人なんだよね)
いつかの資料で見た事がある。そこから推測するに、筆まめな人=手紙好きな人だろう。……多分。土方さんの手紙で兼さんに活を入れられれば、きっと兼さんも元気になるだろう。全く単純な男だ。
……さて、名案が浮かんだのはいいが、問題はどうやって土方さんの手紙を手に入れるかだ。審神者という立場上、歴史に干渉してはいけないし……だからといって上の空な兼さんを放っておく事なんてできない。えみのために。審神者、なんて言うからなんか凄そうな能力を持ってるんじゃないかと思われそうだが——実際、えみも最初はそう思ってた——審神者の能力は『眠っている刀の想いを聞き、呼び覚ます』事。時を止めたり駆けたりなどの超次元的な能力は兼ね備えていないのだ。いや、なかにはいるかもしれないが、少なくともここにいるえみはそんな力はてんでない。審神者としての能力を取り除いたら、どこにでもいる凡庸な中学生だ。
このまま考えていても、らちがあきそうにないので、土方さんの手紙を手に入れるという目標は決まっているので、とりあえずは土方さんへの手紙を書く準備をする事にする。そうと決まれば、善は急げだ。
便箋……は時代にそぐわないから、和紙。と、きたら墨に筆。よし、準備はばっちり。さあ、書くぞ! ——なんて、意気込んだのはいいものの、今から数百年前の手紙の書きかたなんてわかるわけがない。根本的なところでつまずいてしまった……。誰か手紙の書きかたが上手い人はいないだろうか……。しばらく悩んで、あ、と心当たりのある人を見つけた。
「——手紙の書きかた?」
「はい。お願いできますか?」えみの救世主——になるかもしれない——歌仙さんは少し間を開けて「誰に書くんだい?」と聞き、うっ、と思わず声が出そうになるのをなんとかこらえる。まさか新撰組副長の土方さん宛に書きますだなんて口が裂けても言えるわけがない。適当に学校の課題でのコンクールに出すといった感じでぼかして伝えると、歌仙さんは、ふむ、と頷いてから「そういう事なら、助力しよう」と特に詮索はせずに快く引き受けてくれた。
歌仙さんが力になってくれるなら百人力だ。きっと土方さんも、あっと驚くような手紙が書けるぞ。書体とかの問題があるが、まあそこは二二〇五年のネットワークで調べれば大丈夫だろう。そんな充実しているネットワーク下で歌仙さんに習う目的は、本場仕込みのプロに習えば本格的なものができると考えた。手紙を渡すからにはやはりそれなりのものを渡したい。早速、歌仙さんとえみの作業場兼自室に向かって、すずりと筆と和紙の準備を終えると、歌仙さんとのマンツーマンの手紙講座が始まる。
「ここは崩して……そう。良い感じだ」「こんな感じですか?」そんな感じで、歌仙さんの丁寧な指導もあって順調に手紙の作成は進んでいった。……このときまでは。
「——ふむ……手紙でもいいけれど、詩にして贈ってみるのもいいんじゃないかい?」
詩? とえみは首を傾げる。
「風流だろう? 詩にするのなら、まずは雅だと感じる心を育てなくてはいけない。そしてその雅とは何か。それを知る事で詩にぐっと深みがでるよ」
はあ、と急な話の展開に、詩を書こうとも考えていなかったえみは、空返事をしてしまう。えみは普通に手紙が書ければそれでいいのだが、どうやら歌仙さんの文系魂に火がついたようで、特別講習『雅とは』が始まる。花を綺麗だと思う気持ち、空はどうしてあんなに青いのか、と疑問に感じる心などを言の葉に乗せて詩をつづる。歌仙さんの熱弁は止まらない。
どうして空が青く見えるのか。太陽の光と空気の厚さが関係していて、空気中に散らばりやすいのが青い光だから……とかなんとか、いつかのどこかで視た科学の番組でやっていた。ただ、それを言うと、風流じゃない、と説教されてしまう未来が見えたので言わずに押し黙っていた。歌仙さんの求める答えは、科学的なものではないのだろう。歌仙さんの眠たくなるような語りから、適当に理由をつけて逃れてきたのはいいのだが、肝心の手紙の書きかたについて、さほど学べなかったのは悔やまれる。もう一度、習いにいこうものなら、また特別講習が始まってしまうだろう。仕方がないが、歌仙さんから学ぶのを諦めて、再び手紙の書きかたを快く教えてくれそうな刀剣男士を頭のなかで検索する。手紙を書くのが好きそうで、感性が豊かで、話上手な……「あ、」と検索候補に一件、引っかかった。困ったときはとりあえず、あの人に相談する。この本丸一番の古株。
「手紙の書きかた? わしに?」
陸奥守吉行こと、よっちゃんが、驚いた顔で自分を指差す。そう、よっちゃん——刀よりも言葉の力で日本を切り開いた坂本龍馬の魂を受け継いでいるのなら、相手に想いが伝わる素敵な手紙がきっと書けるはず。自分の直感を信じてよっちゃんにお願いする。よっちゃんは、にっと歯を見せて「えいよ」と快く引き受けてくれた。やっぱり、よっちゃんは期待を裏切らない。よっちゃんを連れてもう一度、仕事場兼自室に戻り、適当な紙と筆を用意して、いざ、よっちゃんの手紙講習を受ける。
「誰に書くが?」とえみが手紙を書く本当の理由を知らないよっちゃんは、なんの気なしに軽い気持ちで聞いてくる。ドキッ、と異様に胸を高鳴らせた。誰かに宛てるための手紙なのだから、相手が誰なのか知りたいのは当然だろう。目上や目下で使う言葉もまるっきり違ってくるし。でも、言えない。兼さんを元気づけたいがために、土方さんの手紙をもらうために、土方さんに手紙を書くなんて。歌仙さんのときと同じように、適当に、学校の課題で偉人に手紙を書くのなら〜、とそれっぽい事を言ってお茶を濁す。特によっちゃんは追及する事もなく、納得してくれた。気を取り直して、講座を再開する。
ときどき雑談を交えながら筆を走らせていると、突然よっちゃんが思いついたように「そうじゃ。手紙に写真を添えてみるのはどうじゃ?」
提案する。写真かあ……綺麗な写真が手紙に同封されていたら、ちょっと嬉しいかも。夢を追うロマンチストなよっちゃんらしい発想だ。
「外国では、はがきに絵を書いたものが流行っちゅうね。流行りを取り入れるのもえいと思うが」
「うん、いいかも」
「そうと決まったら、早速撮りにいくが!」
言うや否や、よっちゃんは軽いフットワークで愛用のカメラを取りに走っていった。手紙を書く事から脱線してしまっているが、まあ、よっちゃんが楽しそうなので良しとしよう。一枚くらいなら、いいかな。ドタドタと元気な足音とともによっちゃんが一眼レフカメラを手に持ってきたので、えみもスマホを持って縁側から被写体となるものを探しに出た。
気がつけば、空はすっかり暁色に染まっていた。あちゃあ、とスマホのアルバムに増えた数十枚の写真を見て、ちょっぴり後悔する。手紙に添えるための写真なのに、写真に本気を出してどうするんだ。肝心の手紙は、まだ冒頭しか書けていない。今になってよっちゃんもようやく手紙の事を思い出して、すまんのお、とバツが悪そうな笑みで謝った。えみも思いがけず夢中になって本来の目的をすっかり忘れていたので、お互い様だ。よっちゃんが撮った写真は、えみがプリントアウトするために、よっちゃんからカメラをのネガを一旦預かる事にした。できあがりが待ち遠しい。
翌日。もう一度、手紙の書きかたをきちんと教えてくれそうな男士《ひと》を脳内で検索する。まだ諦めていない。字の綺麗さとか、感情の機微とか、このさい置いといて、真面目にやってくれそうな……「主ー、何かやっておく事ある? 手、空いちゃって暇なんだよね」
ひょこ、と障子の向こう側から頭を出して突然訪ねてくるキヨ。やっておく事……審神者の仕事も手が回らないというほどでもないし——ハッ、と稲妻が落ちたように名案が降りてきた。
「ある。あるある、特別任務」
「えっ、特別任務? 何?」
「えみに手紙の書きかたを教えてくれ」
は? とキヨは素っ頓狂な声を上げる。まあ、それが素直な反応だろう。特別な任務だというからどんなものかと思えば、主に手紙の書きかたを教える仕事ときたもんだ。あくまでも彼らは刀で、遡行軍と戦う事が仕事だというのに。もちろん、蔑ろにしているわけではない。ただ、人という姿で顕現している以上、情で頼まずにはいられない。
「逆に聞くけどさ、それ、俺でいいの? あんまり字、上手くないし」
不安げな面持ちを浮かべながらキヨは尋ねる。字の上手い下手などこの際、関係ない。真面目に、手紙の書きかただけに取り組んでくれる事がえみにとっての最重要項目だ。その点で言えば、キヨは適任だろう。なんだかんだ言いつつも、仕事はきっちりこなしてくれる。えみは自分の直感を信じる。えみの真剣な想いを察してくれたのか、
「わかった。主の頼みだもんね。俺が教えられるところまでね」
やれやれ、と短く息を吐いてキヨは聞き入れてくれた。言葉のわりにどことなく嬉しそうに感じる気がする。そういえば、こうして面と向かってキヨにお願い事をするのはあまりなかった気がする。わざわざ頼むまでもない用事が多かったからなあ。キヨと仕事場兼自室へ向かい、何度目かの手紙の講座を始める。もはや手慣れたものだ。キヨが不思議な目で見るのをよそに、ちゃきちゃきと進める。
予め、キヨが予告していたとおり筆跡は歌仙さんに届かないが、他の二人と比べて同じ目線で取り組んでくれる。歌仙さんは、いかにも「先生!」という感じだったし、よっちゃんは、良くも悪くもおおらかだ。自分は川の下の子と揶揄しながらも——揶揄しているからこそ、同じ目線で合わせようとしてくれているのかもしれない。河原の人達の心がわかる、気高い心を持った人——神——だ。キヨも一緒に学ぶようにゆったりとしたときのなかで、筆を走らせていく。
「そーいえば、誰に書くの」
例に漏れずキヨも軽い感じで聞いてきた。歌仙さんとよっちゃんの二人にも言ったとおり、学校の課題なのだと適当に濁して答える。ふーん、とキヨは特に疑う様子もなくすんなりと受け入れた。少しだけ、良心が痛む。こんなに真面目に取り組んでくれるのに、えみは嘘でしか返せない。キヨにだけじゃない。歌仙さんにもよっちゃんにもときどき罪悪感を感じていた。
「偉人に手紙を書く、かあ。実際にやったら、歴史が変わっちゃうのもあるかもだけど」のんきだよねえ、とえみ達人間の平和ボケに対して、どこか愛おしさを含んだ言いかたで呟く。ドキッ、と今まさに歴史を変えかねないかもしれない事を実行しようとしている事実に、ハラハラと肝を冷やす。かつ、何も知らないキヨに片棒を担がせる事に、罪悪感に苛まれる。この作戦はなかった事にしようか……でも、土方さんの事で元気がない兼さんを、他にどうやって元気づけたらいいのか……足りない頭でようやく搾りだした、えみができる精一杯の最善策だから、これ以上の良い方法が思いつかない。
キヨは……さ、とあとに続く言葉を探しながら、重たく口を動かす。
「もしも……もしも、沖田さんから手紙が届いたら、どう思う?」
予想外だったのか、えみの質問にキヨは、クールな面持ちはそのままに切れ長の目を僅かに大きく開かせた。ほんの数秒、沈黙が訪れる。たったの数秒だが、えみにはとても長い時間に感じた。キヨの言葉次第で諦めるかもしれない。……諦めさせてくれる言葉が欲しいのかもしれない。覚悟をしてキヨの言葉を待った。キヨは、そうねー、といつもの緩い調子で開口一番そう言い、続けて、唱えた。
「剣しかやってこなかったから、あの人が書く手紙は簡単に想像がつくけど……嬉しい、かな。やっぱり」
ハッ、と一瞬、息を呑むようにして、キヨを見る。
「あの人の色々な想いが知れたら、ああ、この人の刀でいれて幸せだったなーとか思うかもね。逆に失望したりするかもしれない。けど、どんな想いにしろ、俺を使ってくれた事実は変わらないから」
声の調子はいつもどおりの緩い感じなのだが、表情がどことなく穏やかで優しかった。前の主、沖田さんの事がとても大好きなんだなと伝わる。……兼さんも、土方さんから手紙をもらったら、こんな顔をするのかな。喜んでくれるかな。
「……あの人宛に書くの?」
あんな話をしたものだから勘ぐる様子でキヨが聞いてきて、不意にドキッと緊張するが、落ち着いて、さあ、どうだか。とはぐらかした。もー、とキヨはちょっと不満げな顔で唇を軽く尖らせる。
「——っしゃあー、書けたー!」
歌仙さん、よっちゃん、キヨの指導を受けて手紙が書きあがった。一時はどうなるかと思ったがどうにかなってよかった。自分を褒めたい。まずえみが書いた手紙だとは思わないだろう。一つ目の難所はクリアした。残す二つ目の難所が最難関だ。『土方さんに手紙を渡して返事をもらう』今まで立ち向かってきたどんな任務よりも一番難しい。歴史に干渉する事なく最小限の接触で……やはり直接手渡すしかないだろうか。
唯一、時を遡る事を許される刀剣男士の力を借りるのも難しいだろう。そもそも彼らとは、歴史を改変されないように手を取り合っているのだから。彼らのなかにも本当は歴史を変えたいと思ってる人が少なからずいる。それでも、悲しい結末でも、力を貸してくれる。だから、なるべく刀剣男士の力を借りないでなんとかしたいのだが……(それに、歴史を守らなきゃいけない立場の審神者が歴史に直接関わったなんてバレたらマズい。超マズい。やっぱり渡すのやめよっかな〜)
急に怖じ気づいてきた。そもそもえみがこんな事をしなくたって兼さんは勝手に元気になるだろうし、そもそもえみはなんでこんなやばい事をしようとしてるんだ? 頭がおかしい。そうだ、兼さんのあんな調子を見たからおかしくなったのかもしれない。そこに堀川くんの一言が叩き込まれたから今の状況に至る。
けど、ここで諦めたら今までなんのために頑張ってきたのか。全部が無駄になる。歌仙さんや、よっちゃんや、キヨがかけてくれた想いも……。
「……」