最終章 幸せな
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ペンのインクが切れてしまったので、机の引き出しにしまってある替えのペンを出そうと物色する。引き出しのなかに、しわだらけの見覚えのない一つの白封筒が目につく。宛名は書いてない。政府から預かった大事な書類だろうか。最近、嫌に忘れっぽいからあり得るかもしれない。だったらまずいな、おまけにしわくちゃだし、と不安になりながらそっと中身を見る。
三つ折りの紙切れが一枚。広げて見ると、達筆な、墨で書かれた何かの文字のようなものが書かれていた。読めそうで読めない。政府からの書類……ではないようだ。なら、いったい誰宛の手紙だろうか。もしかしてえみが誰かから預かっていたのを忘れているのだろうか。あるかもしれない。所在のわからない手紙をいつまでも持っているのも気持ち悪いし、男士の誰かならわかるはずだろう、と手近な男士に聞いてみる事にした。
本丸内を適当にうろつき出会った男士に片っ端から手紙の事を聞いてみる。どの男士も、知らない、わからないの一点張りだった。困った。どうしたもんかとぷらぷらしていると、たまたま兼さんが目に入る。きっと兼さんもわからないだろうけど、一応聞いてみるか。
「あ、兼さん。この手紙、何か知らない?」
「手紙?」えみが手に持っているしわくちゃの手紙を見ると、兼さんは怪訝な表情で「お前、忘れたのか」真摯に聞いてきた。若干、気圧されながらも「だから聞いてんじゃん」と何気なく聞き返す。
「これは……圡方の手紙だ」
どうして土方さんの手紙が、えみの机の引き出しに——と呟いたあと、ハッと記憶がよみがえる。走馬灯のように。——そうだ、この手紙は兼さんに元気を出してもらおうとえみが土方さんに書いてもらった手紙だ。これがきっかけで兼さんとすれ違って、思えば、あのときにえみは兼さんの事を——。そんな大事な事を、どうしてすっかり——まるでそこだけ抜け落ちたように——忘れてしまっていたのだろう。
「なんで……どうして……忘れて……? ごめ……兼さん……」
「落ち着け、主。そんなのはただの紙切れだ」
「紙切れじゃない! これは、土方さんの想いが込められた兼さんへの——!」ただの紙切れだと寂しい事を言う兼さんに反発して——忘れていた事のショックで気が動転している事もあり——声を荒らげるが、
「〝今〟は、ただの紙切れだ。……大事に持っていてくれたんだな」
えみの肩に手を置いて言い聞かせる兼さんの落ち着いた優しい物言いに、昂っていたえみの感情も落ち着く。「少し休め」と少し雑にぐしゃぐしゃと頭を撫でられて兼さんはえみに気を使うように静かにその場から立ち去った。ぼさぼさになった髪も整えずえみはその場で呆然と立ち尽くしていた。
(……ただの紙切れなんかじゃない)
兼さんはえみの気持ちを汲んでああ言ったのだろうが、この手紙は兼さんへの、土方さんの想いがこもった手紙なんだ。ただの紙切れなんて言葉で済ませていいものじゃない。えみ一人だけじゃない、よっちゃんや歌仙さんやキヨ達の力を借りてようやく手に入れた光——なのに……
(なのに……)
兼さんはああ言ってくれたけど、あんなに大事な事を綺麗さっぱり忘れてしまっていたなんて、落ち込まずにはいられない。それと同時に不安が確信へと変わっていく。点と点が繋がっていく。
——恐らく、えみに残された時間は、もうそんなに長くはない。元の世界へと戻るときが近づいてきている。夢だと思っていたのも、あれはきっと夢なんかじゃない。実際に起こって体験している出来事なんだ。やたらと長くてリアリティーがあるのも説明がいく。夢がだんだん現実へと変わってきて、現実がだんだん夢へと変わっていく。そんな感覚。今のえみにできる事は、何か。
確信してからの行動は自分でも驚くほど冷静で早かった。
「こんのすけ」呼んでから数拍のまをあけて、ぬらりと足下から音もなく現れた。上司に伝えたい事、言わなきゃいけない事があるとの主旨を綴った電報を届けてほしいと、データをこんのすけに送る。「かしこまりました」とデータの送信が完了したあと、すっとその場から立ち去った。
折り返しの連絡はすぐにきた。忙しい上司がわざわざえみに時間を割いてくれるなんて、恐らく上司も察したのだろう。えみの身に起こっている変化について。
翌日、本部へと向かう。
「おっ、よう宇佐美。元気してる?」
エントランスで、先輩が声をかけてきた。ちょうどいい、先輩にも立ち会ってもらおう。詳しい説明は後回しに、先輩を引き連れて上司が待っている部屋へ向かう。
辿り着いた部屋の扉をノックすると、なかからいつも上司の側にいる秘書らしき男性が顔を出した。「お話は伺っております」と端的に返事をしたあと先輩のほうをちらりと見やり「あなたは……」とこぼしたので、先輩も通してほしい事を伝えたら上司の返事を確認しに一旦部屋のなかに戻って行った。数秒と経たないうちに戻ってきて許可をもらう事ができたので、先輩と一緒になかに通されて秘書らしき男性は部屋から出て行った。
部屋には上司、先輩、えみの三人だけだ。何もわからずあれよあれよと連れてこられた先輩は突然の上司との対面に肩に力が入る。えみもこうしてきちんと対面するのは騒動があったとき以来だ。緊張が走る。口火を切ったのは上司からだった。
「文章は読ませてもらった。手短に言え」
「多分、なんですけど……もうすぐ元の世界に戻るかもしれません」
えっ、と先輩は大きな声を出して驚くが、上司は訝しげな眉を少しも動かさず無言でいた。
「……根拠は」
「元の世界での夢を見る事が多くなって……まだ、忘れたりもするんですけど。それと同時に最近物忘れが激しくなってきて……忘れるっていうよりかは、覚えていない感覚のほうが近いというか……上手く言えないんですけど」
「感覚がそう告げている、という事か」上司の言う事は言い得て妙だ。
「それで、本丸の事なんですけど……。引き継ぐにはやっぱり、縁を切らなきゃいけないんですよね」
騒動のときを思い返す。えみの勝手だとわかってはいるが、残していくみんなをいつ目覚めるのかわからない長い眠りにつかせたくないし、それならいっそ新しい主について生きていてもらったほうがいい。しかし、上司から告げられた言葉は次のような言葉だった。
「ないわけでもない」
「えっ」思いがけない上司の返答に驚きの声を上げる。上司は続ける。
「刀剣男士が何によって顕現しているか知っているか。逸話、伝記、言い伝え、……それら物語によって形作られる。形成するのは、人。数多の人の手を介し刀は物語を成していく。人と刀の繋がり、それもまた縁だ。あの本丸の刀剣男士を形作るのは、もはや君も物語の一部となっているだろう」
ならなぜあのとき男士とえみの縁を切ったのか、あれがあったから大騒動にまで発展した、と先輩はここぞとばかりに攻め入るが、色々と急でその手段を取るのが一番適切だと判断したからだと、特に弁解するわけでもなく上司は冷静に答える。色々と大変すぎるくらい大変だったが、もう過去の事を悔やんでも仕方がない。先輩は気持ちを切り替えて
「つー事はつまり、宇佐美の事は覚えたままでいられるって事ですね。よかったじゃん、宇佐美」
自分の事のように喜んでくれる。嬉しい。本当に、凄く。先輩が一緒に喜んでくれる事も含めて。えみがいなくなったとしても、みんなはえみの事を覚えていてくれる。えみは、みんなの心のなかに居続けられる。
(……でも、それってエゴじゃないか?)
ふと、冷静な自分が顔を出す。きっと、優しいみんなの事だから、新しい主になってもえみの事を覚えていてくれるだろう。でも、新しい主の立場は? 上司は、本丸引き継ぎの際に前の主——審神者との繋がりがあると弊害があると言っていた。えみとの繋がりのせいでみんなの足を引っ張るのは嫌だ。何より——考えて、考えて、考え抜いたあと、
「……いえ、やっぱり忘れさせてください」
思いがけないえみの一言に「なんで……」と、急に天国から地獄へ突き落とされたような顔の先輩は、えみに問い詰める。それもそうだ、えみが一度、元の世界に戻って、こっちの世界にまた帰ってきたとき、本丸に戻りたい一心で奮闘していたのだから。えみのみんなに対する想いは堅物の上司の心も動かすほどに強い。
だけど、みんなを想うからこそ、前へ進んでほしい。いつか、兼さんが言っていた。『オレ達は〝武器〟だ』と。兼さんはそれを誇りに思っている。本質が〝刀〟であるみんなも。なら、主として最後にみんなにできる事は、新しい主に存分に使ってもらう事。歴史の改変を阻止して、〝今〟を守ってもらう事。使われる事が刀の本分なら、えみはそれを叶えてあげたい。それに、過去に囚われていたらいつか大きなしっぺ返しを食らうかもしれないから。みんなは優しいから、きっとえみの事は覚えていてくれる。けど、みんなが前の主を口に出すとき、どこか寂しい気持ちになった。だから、新しい主にも同じ思いはしてほしくない。単なる嫉妬心だけど。
喜んでくれた先輩に心が痛まないわけがない。先輩にもえみが秘めている想いを打ち明ける。けど、それで納得する先輩じゃない。
「宇佐美の死を受け入れても前に進んでった彼らなら、宇佐美の記憶を残したまま前に進めると、俺は思う。ってか、絶対消しちゃダメだ」
「でも、えみのほうが未練残っちゃうから。えみで上手くやれてたなら、みんながえみの事を忘れちゃっても、きっと上手くやっていける。えみがやってたときより上手くやれるよ。あの本丸にえみっていう足枷を残したくないんだ」
そもそもえみはこの世界の人間じゃないし、と笑って言う。先輩は懸命に止めてくれる。けど、上司は「……わかった。その方向で手続きを進めよう」
「上司!」
「縁には数多の繋がりがあるように、縁の形も結んだものそれぞれだ。我々外部が口を出すような事ではない」
「でも……、」と先輩はこぼすけど、それ以上は何も言わなかった。言えなかった、と思う。そのとおりだと理解したからか。
「……ありがとうございます」
初めて、上司に気持ちが伝わったと感じた。上司は怖い顔のまま何も言わないけれど。それと、もう一つ。
「あの……えみを審神者にしてくれて、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「……君に審神者としての素質を見出したのは、こんのすけだ。そしてそれを選んだのは君自身だ。私は私の仕事をしたまでだ」
上司の言葉は相変わらず冷たいままだ。けれど、今となっては遠回しな温かい言葉に聞こえる。きっと今までもそうだった。えみの単なる思い込みかもしれないが。
伝えたい事や出来る事はすべてこなしたので多忙の上司の仕事を邪魔しないように早めに退散しようとすると、えみと先輩の去り際に、
「……ここで得たものが無駄にならない事を祈っている」
上司からの思いがけない言葉。贈られた言葉にえみは嬉しくなって「……はいっ。ありがとうございます」と心から素直に笑顔で応えた。ほんの少し寂しい気持ちも織り交ぜて。
部屋の外で待機していた側近の男性に軽く会釈をして、えみと先輩は談笑しながらエントランスに戻る。
「上司はあんな言い草だったけどさ、本当は寂しいんだよ」
珍しく上司にフォローを入れる先輩の一言。いつもは対立しているような関係にあるのに。上司のセンチメンタルな言葉にに感化されたか。でも、今日のえみも、
「わかってる。なんとなく」
先輩に同意だ。いつも厳しい態度しかとられてなかったけれど、もう会えないとわかるとやっぱり少し寂しい。お世話になったから。こんな得体の知れない人間を受け入れて、居場所を与えてくれて、上司の判断がなかったらえみは今頃ここにいない。
きっと今頃、上司は噂をされてくしゃみをしているだろう。そう考えたらおかしくて思わず笑いが込み上げる。
「またこっちにくる事があったら審神者やりなよ。いつでも待ってるからさ」
まるでえみが留学でもするかのように、先輩は、本丸に戻るえみに言葉を贈る。旅行感覚で並行世界に行くのかと思えるくらいの軽い言葉だが、先輩なりの励ましだろう、「うん」とえみは笑って頷いた。
えみがいついなくなってもいいように本丸引き継ぎの手続きは密かに行われた。えみがいなくなってしまったあとは、審神者としての能力を失い組織を抜ける事となった、という事になった。これでいつえみが元の世界に帰っても安心だ。とりあえず一息つく。
上司から「齟齬がないように刀剣男士らに説明をしておいたほうがいい」と言われたが……。他の時間軸からやってきたという事は、上司の命令で男士にも伏せているのだが、そのまま話してもいいものなのだろうか。上司曰く、別の時間軸からやってきた人間だと知られると、並行世界説を信じている厄介な研究者がこぞってえみを研究対象として解剖するかもしれないから……らしい。本当かどうかは謎だが。胡散臭い話ではある。けれど現に時間遡行軍や刀剣男士という時を遡る事のできる存在がいるから完全に否定はできない。上司の命令を無視して本丸の男士くらいには素性を話しておくべきだろうとも考えたのだが、単に改まって話す機会がなかったのと、特に話すべき事柄でもないかなと思ったから。えみがやる事は変わらないし。(審神者業が思っていたよりもハードで、すっかりすっぽ抜けていたという事もある)
元の世界に戻ったら、恐らく、みんなの事は忘れてしまうだろう。夢で見る出来事のように。みんなの記憶からえみがいなくなったとき、凄く悲しかった。居場所がなくなってしまったと思えた。だからみんなにも同じ思いをしてほしくなかった。これはせめてものえみの贖罪だ。こんな不安定な存在を主としてみんなを仕えさせてしまった事に対する。
(この世界で、いつまでもみんなと一緒に生きれたら良かったんだけどな……)
だが、えみには帰るべき場所がある。いつまでもママとパパや友達を放っておくわけにはいかない。大丈夫、今ならきっと上手くやれる。
元の世界へ戻るんだと自覚すると、あれだけ不安に思っていた気持ちも嘘みたいに軽くなった。寂しい気持ちは消えないものの、視界がひらけたような感覚だ。
これから何をするべきか。記憶がなくなったとしても、何を残していけるか。みんなに何ができるか。
「今、えみができる事は——」
新しい審神者が就任してもバタつかないように部屋を整えておこう。まずは本棚の整理整頓から始める。長谷部さんが定期的に本棚を整えてくれるので案外やる事はないかもしれない。それでもえみのプライベートな空間はごちゃごちゃしているので——触らないようにと言っている——過去の自分を叱りつけたい気持ちで、いるものといらないものを選別する。どうしてこう細々としたものが多いんだ。テンションが下がる片づけランキングワースト一位じゃないか。
(……でも片づけたものって持って帰れないよな? 意味あるのか、これ)
片づけの意義を問い始めるくらいに片づけに嫌気がさしてきた頃、
「主、部屋の掃除かにゃあ?」よっちゃんがひょっこりと絶妙なタイミングで声をかけてきた。
「よっちゃん。まあ……そんな感じ? 一度やり始めちゃうと止まらなくってさー」
一瞬、よっちゃんにも部屋の整理整頓を手伝ってもらおうかと頭をよぎったが、自分の事は自分で決着をつけたい(?)身辺整理を手伝ってもらうってのも、なんかアレだし。
よっちゃんに見守られるなか、渋々に、淡々と整理整頓をしていると、
「主は頑張り屋やねぇ」
「えっ……そう?」いきなり褒められたので照れながら受け止める。
「初めの頃から今までずっと見ちょったけど、主は頑張り屋じゃ。主がわしの主で、わしは誇らしく思う」
急にそんなド直球のボールを投げられたら照れずにはいられない。でも、出会った当初からよっちゃんはわりとこんな感じで、今までずっと変わらない。はじめの頃よりは慣れたけど、やっぱりちょっと照れてしまう。裏表がないのがよっちゃんのいいところだ。よっちゃんの前では、どこかの誰かさんの前みたいに取り繕えない。
「急になに〜?」とおどけながらも、よっちゃんがくれた言葉に返すように「……えみも、よっちゃんを最初に選んで本当に良かったって思ってる」
面を食らったような顔をするよっちゃん。えみは続けて、
「みんな優しいけど、でも、よっちゃんとだったからここまで走ってこられたんだと思う。……ありがとう」
ほうけた顔をしていたよっちゃんは、ニッと歯を見せて笑顔で返した。えみもつられて笑顔になる。まだ最後の別れと決まったわけではないのに、なんか雰囲気的にそうなってしまった。おかしくって二人で笑いあう。
「頑張りとおせー」とよっちゃんに見送られて、気合を入れ直して整理整頓にとりかかる。
ほどなくして、誰も文句がつけようもないくらいに片づけ終わった。我ながら立派なものだ。自分で自分を褒めたい。いるもの、いらないものの分別の葛藤は凄まじいものだった。どっと疲れてしまった。
(……みんなに伝えておいたほうがいいんだよなぁ)
ぼんやりと、えみが審神者を辞める事を考える。大事な事とはいえ——大事な事だからこそ——言いにくい。みんな引き止めてくれるかな。引き止められたら審神者を辞める事をやめちゃうかもしれない。すんなり受け入れられたらそれはそれでショックだが。う〜ん、う〜ん、と頭を悩ませるが何も浮かんでこないので気分転換に本丸内を散歩する事にした。
ぶらぶらと散歩していると、とある一つの部屋に、骨が抜かれたかのようにだらーんと横たわっている男士が一人、二人、三人……と大きい小さいを問わずに数人がいた。それを、先ほどまで喋っていたよっちゃんが難しそうな顔で見下ろしていた。
「どしたの?」
「おお、主。いやなに、ここ最近楽しい事がなくてだらけゆうが。なんか楽しい事はないかなー思うてみんなで考えちょったところがやき」
付喪神も人間みたいにだらける事があるのか……と関心を寄せる。人の身になってるから感覚が人間のそれに近いのか。一緒に考えてあげたいが、えみも今は審神者を辞める事をなんて伝えるか悩み中だ。あまり深刻な感じじゃなく、さくっと楽しい感じに伝えられたらいいのだが……
「そうだ、宴会やろう!」
我ながらナイスアイデアだ。と言っても、えみと兼さんがギクシャクしていたときによっちゃんがやってくれたのを思い出して真似しているだけだが。えみからの急な提案に驚かれるが、すぐに楽しい事が大好きな男士は乗ってくれた。だらーんとしていた男士達にも貢献できるし一石二鳥だ。
宴会の雰囲気でなら言いにくい事も言えるだろう。それに、もしかしたら、これがみんなとの最後の宴会になるかもしれないし。善は急げという事で、さっきまでだらーんとしていた男士達は嘘みたいに切り替わって活動的になる。えみも一旦悩み事を置いといてみんなと宴会の準備をする。
——夜。みんな揃って宴会が始まる。お酒や料理も今日は特別に奮発した。そのおかげもあってか、いつもの宴会以上に賑やかな気がする。宴会の規模は外にまで広がって光忠さんが網焼きをしたり、歌仙さんが詩の披露をしていたり、よっちゃんがなぜか射的屋をやっていたりと本当にお祭り状態だ。割とえらい事になってしまった。明日から節約しなくては。
相変わらず本丸のみんなは宴会が大好きだ。はしゃいでいる姿を見ているとこっちも楽しくなってくる。けれど、この光景を見られるのも、あと何回だろう。
少し、しんみりしていたところに短刀の子達がイカ焼きや焼きとうもろこしを持ってきてくれて、遊びに誘ってくれる。そうだ、楽しい事は楽しまなきゃ損だ。短刀の子達と一緒に宴会という名のお祭りを楽しむ。
ひととおり遊んで、ほっと一息つくと、ハッと雷に撃たれたように、重要な事を思い出した。お祭り騒ぎですっかり忘れていたが、どんちゃん騒ぎをするために宴会を開いたんじゃない。目的は別にあるだろう、えみ。みんなに打ち明ける事だ。えみが審神者を辞める事、新しい審神者に本丸を引き継いでもらう事、みんなの記憶から、えみが……。
うじうじするな、えみ。自分で決めた事だろう。鼻から深く息を吸って「みんな!」とお祭り騒ぎに負けないようにお腹から声を出す。
「聞いてほしい事、が……」段々と声が小さくなっていく。あれだけ騒いでいたみんなに一斉に見られると、急に緊張してしまって縮こまってしまう。えーっと、とか無駄に引き伸ばしながら余計に注目を浴びる。
「——き、今日はたっくさん楽しもうね!」
違う。何を言っているんだえみは。主から直々にお許しが出たと思ってしまったのか周りから「おおー!」と嬉々とした雄叫びが上がる。ああ、余計に言いづらくなってしまった。
少しのあいだ一人になって言葉を整えようと、みんなの輪からこっそり外れて、手入れされた池の近くまで行く。
早く言わないとますます言いづらくなってしまう。兼さんとの一件で痛いほどにしみたはずなのに。はーっと深くて重いため息をつく。ぼーっと水面に映る自分の姿を眺めて——
「鯉でも食うつもりか?」
いきなり背後から声がかけられて水鏡に兼さんの姿が映ったものだから「うわあっ!」と飛び上がるくらいに驚いて、驚いた拍子に足がもつれて視界がぐらつく。そのまま池を背にして倒れていく。咄嗟に兼さんが手を伸ばし、えみも伸ばされた手を掴もうとするがその甲斐も虚しく水しぶきをあげて豪快に水のなかに吸い込まれた。
「…………」無言で睨み続ける。本気で怒っていると察した兼さんは、えみの無言の圧にやや怯みながら自分の非を素直に認めて、手を伸ばす。兼さんの手を掴んだ——瞬間、えみは思いっきり掴んだ手を引っ張る。油断していた兼さんはあっけなく間抜けに池に落ちる。
「……て〜めぇ〜」
「おあいこだろ」
ったく、とため息をついて濡れて張りつく髪をかきあげる。不意の仕草にときめいてしまう。絶対に悟られてはいけない。ごまかすように素っ気ない態度で兼さんに接する。
「ってか、何しにきたんだよ」
「おめーの事だから本丸で迷子になってるんじゃねえかと思ってな」
えみをなんだと思ってるんだ。鶏と思われているんじゃないか。いつもの皮肉だとわかっているので特段怒りはしないが。「わざわざ探しにくるなんて暇人なんですねー」とこちらも皮肉混じりで返すと「わざわざお前を探しにこられる大人の余裕があるってこったあ」などとああ言えばこう言う。「本当の大人なら自分を大人とは言わない」なんて心に思っていたつもりだけど、口に出ていてしまったようで、これまた大人げなく兼さんが反応する。やれやれ、大人子供をいちいち相手にするのは大変だ。不毛な言い争いを続けたのち、不意に、
「また何か悩み事か」
えっ、と驚いて兼さんを見る。まさかまた勘づかれていたのだろうか。えみ自身は隠し事をするのが上手いと思っていたが、兼さんには尽く見抜かれてしまう……本当は隠し事が下手なのでは。兼さんも妙なところで察しがいいし。話すなら今なんだろうけど、やっぱり言葉に詰まってしまう。
「いいよ。話しにくい事なら無理に話さなくても」ただ……、と念を押す。えみは耳を傾ける。
「自分だけの力じゃどうしようもできなくなったとき、必ず言え。……オレらは刀剣男士であると同時に、主に仕える刀なんだからさ」
意外な言葉に、えみは兼さんの顔を見た。兼さんは驚くえみの顔を見て、してやったり、ともとれる大人の余裕の微笑を浮かべた。悔しい。結局、翻弄されてしまってる。心地の良い言葉に、余韻に浸っていた。
突然——ドンッ、と空気を震わせる大きな音が夜空に轟いた。本丸襲撃⁉︎ と思い音がした方向を見上げると、光の筋が空へ向かって伸びていき、消えると、刹那——光の大輪が夜空に咲いた。続けて、二つ、三つと色や形の違う光の大輪が夜空を彩る。
(花火……)
夜空というキャンパスに次々と描かれては消えていく、綺麗でどこか切ないアートにただただ魅了されていた。——確か、前にも似たような事があった気がする。そのときも兼さんと一緒に見ていたような……。思い出そうとしてはみるものの、目の前の幻想的な光景に圧倒されて次第に思い出す事をやめてしまう。
少なくとも今、言える事は、今見ている花火が——この景色が、この世で一番綺麗だという事。きっとそれは、大好きな場所で、隣に大事な人がいるからだ。兼さんとえみは、外界から切り離された、賑やかな声の片隅で、静かに花火を見上げていた。このままときが止まってしまえばと、いつまでも、いつまでも、二人で同じ景色を見ていたい——心のなかで密かに願う。
「兼さんさ——えみの事、また忘れちゃっても、思い出してくれる?」
花火の雰囲気に当てられて、思わず口走る。何を言っているんだ、とか疑問で返されるだろうと思っていたけれど、予想に反して返しは次のような言葉だった。
「……おめーみたいなアクが強い狸娘は、忘れたくても忘れられねえよ」
誰が狸娘だ、と兼さんの顔面目掛けて水面を手で弾き水しぶきをおみまいする。やられたら黙っていないのが兼さんで、えみの数倍の水しぶきを仕返しにとばかりにおみまいされる。さっきまでの良い感じの雰囲気はどこへやら、バシャバシャと子供みたいに水をかけあう。良い感じの雰囲気をこの兼定に求める事が間違っている。こっちのほうがえみ達らしい。少し疲れたあとに夜空に咲く花火を見上げる。
なんだか満たされた気分だ。今日はもうこのままお祭りを楽しんで、また明日にすればいいか、と。
急に、強い眠気に襲われる。逆えずにそのまま水のなかへと沈む。ぼんやりと、目の前には視界いっぱいに水にゆらゆらと揺れている赤や黄色や青などの色鮮やかな光の粒が宝石のようにきらきらと輝いていて、まるで万華鏡のようでとても美しかった。ああ、このまま死ぬのも、悪くない。と。
人影が風景を遮って、たゆたうえみを水のなかから引きずり上げた。兼さんだ。暗くてあまり見えないけれど、空に咲く大輪の光の花にときどき照らされて、やっぱり綺麗な顔をしているなあと思った。
その、どこか寂しそうで綺麗な顔が近づいてきて——そっと、限りなく、優しい声で耳元で何かを囁く。意識が朦朧としていて言葉の意味までわからなかったけれど、とても温かな言葉に感じたので、微笑むと、釣られて、寂しげな顔をしていた兼さんも微笑んだ。やっぱり兼さんはそうでなくっちゃ。
そして——兼さんの腕のなかに包まれたまま、意識が、深く、深く、底が見えない闇へと落ちていく。落ちて、落ちて、落ちて——
眼を覚ますと、木材の天井と、輪っかの蛍光灯と、薄暗い部屋の厚手のカーテンから差し込む帯状の光があった。のそり、と頭の上を見上げてみるとAM5:50と表示されたデジタルクロックが目に入る。目が覚めてしまったのでなんとなく起き上がってみる。合成化学の掛け布団、薄い生地の部屋着兼寝巻きのTシャツと半ズボン。
——あれ、こんな格好だったっけ。そもそも、別の場所にいた気がする。ここではないどこか。あれ、どこだっけ。そこで、あの人が何かを言っていたのだけれど……あの人って、
(誰、だっけ)
思い出そうとすると、ぽたり、と目から雫が手の甲にこぼれ落ちた。なんで。悲しいわけじゃないのに、あの人の事を思うと雫が雨のようにぽたりぽたりと降り注いでいく。あの人——そう、とても大事な人だった……はず。長い長い夢が覚めていくかのように、あの人に関する事が忘却のかなたへと溶けるように消えていく。待って。まだ、忘れたくない。でも、思い出せない。
どうして、名前も、姿も、声も、消えていく人に、こんなに想い焦がれるのか。あなたはいったい——あなたの、名前は——
(————)
随分と長い夢を見ていた気がする。えみが覚えているのは、通学中に川に落ちて溺れた事。そこから先は記憶が曖昧だ。ママの話から聞くに、えみが川で溺れたあと、たまたまとおりがかった背の高い大学生くらいの青年が助けてくれて事なきを得たらしい。お礼をしたかったらしいけど青年は名前も言わずに颯爽と去っていってしまったようだ。
えみはというと運ばれた病院で検査したのち、特に異常は見られなかったので少しのあいだ点滴を打ってから自宅療養というわけだ。今はすっかりぴんぴんとしている。次から川の近くは充分に気をつけようと心に誓った。
時は移り、旧暦の七夕に当たる頃。テレビメディアではここぞとばかりに第二の七夕と銘打って世間を盛り上げようとしていた。まあ、七夕セットなど販売の恩恵にあやかれるのでそこまで悪い気はしないが。ママが買ってきた、七夕の恩恵にあやかった七夕セットの飾り寿司をつまみながらテレビで流れる七夕の由来についての情報を適当に流し見る。
『今夜は夏の大三角が良く見られる事でしょう——』とキャスターの言葉で、星座が見えるかもしれない、と期待してベランダに出て夜空を見上げる。いくつもの住宅からもれる淡い光が夜空を照らし、ぼんやりとしか星を確認できない。はあ、と落胆するが、まあ、こんな明るい場所じゃ星なんて見えないよな、と妙に納得する自分もいる。
居間のテレビから耳に入ってくる。七夕に関する事で、あの新撰組、鬼の副長と恐れられた土方歳三の愛刀の鍔に印されている葉の模様は、クローバーではなくて梶の葉だという事——なぜか、強く心を惹かれた。土方歳三、ではなく、愛刀の方に。
刀になんて興味はないはずなのに、なぜか、その刀の名前だけは、強く心に残って。なぜかは、わからない。とても、寂しいけれど、温かい気持ちになれる。その気持ちと照らし合わせるように、ズボンのポケットから臙脂色のとんぼ玉の簪を取り出して眺めた。
あの、わけもなくぽろぽろ泣いていた日に手に握り締められていた。簪を買った記憶などない。家族のでもない。友達からのプレゼントかとも思って聞いてみたのだが心当たりがないという。川で溺れたときに無我夢中で掴んでいたのかもしれない。溺れる者は藁をも掴む、とは言うが、えみにとっての藁だったのだろう、と苦笑いを浮かべる。でも、逆に考えれば、この藁がえみを助けてくれたのかもしれない……と考えて、自分でおかしくなってしまい、ないないと一掃した。
所在がわからない物など普通なら気味が悪くて、捨ててしまえばいいのに、なぜかそれができなくて、なぜできないのかもわからなくて、ただ、捨ててはいけないような、大事なもののような気がして——この簪を見ていると、不思議と寂しさと温かい気持ちになる。もう、今になってはなぜあの朝、泣いていたのかもあまり思い出せなくなってしまったけれど。この簪を持っていれば、きっとこの気持ちの正体もいつかわかるのかな。
いつもどおり、変わらない朝。少し、変わったといえば、今日はいつもなら食べない朝食を食べていった事。「行ってきまーす」と言い残して、学校へ行く。
朝から元気いっぱいにはしゃいでとおりすぎる小学生達、眠そうな顔で自転車を漕ぐ高校生、普段どおり代わり映えのしない平凡で穏やかな風景。川沿いの近くにくると、溺れたときの記憶がよみがえる。スクールバッグに忍ばせていた簪をお守り代わりにして川沿いを気をつけて歩いていく。
それは、いつしか二人で歩いた川のほとり。木漏れ日に揺らめく名も知らぬ二匹の魚は、まるで互いに寄り添うようにどこまでも続く泡沫の世界を、何にも縛られる事なく綺麗に泳いでいた。
三つ折りの紙切れが一枚。広げて見ると、達筆な、墨で書かれた何かの文字のようなものが書かれていた。読めそうで読めない。政府からの書類……ではないようだ。なら、いったい誰宛の手紙だろうか。もしかしてえみが誰かから預かっていたのを忘れているのだろうか。あるかもしれない。所在のわからない手紙をいつまでも持っているのも気持ち悪いし、男士の誰かならわかるはずだろう、と手近な男士に聞いてみる事にした。
本丸内を適当にうろつき出会った男士に片っ端から手紙の事を聞いてみる。どの男士も、知らない、わからないの一点張りだった。困った。どうしたもんかとぷらぷらしていると、たまたま兼さんが目に入る。きっと兼さんもわからないだろうけど、一応聞いてみるか。
「あ、兼さん。この手紙、何か知らない?」
「手紙?」えみが手に持っているしわくちゃの手紙を見ると、兼さんは怪訝な表情で「お前、忘れたのか」真摯に聞いてきた。若干、気圧されながらも「だから聞いてんじゃん」と何気なく聞き返す。
「これは……圡方の手紙だ」
どうして土方さんの手紙が、えみの机の引き出しに——と呟いたあと、ハッと記憶がよみがえる。走馬灯のように。——そうだ、この手紙は兼さんに元気を出してもらおうとえみが土方さんに書いてもらった手紙だ。これがきっかけで兼さんとすれ違って、思えば、あのときにえみは兼さんの事を——。そんな大事な事を、どうしてすっかり——まるでそこだけ抜け落ちたように——忘れてしまっていたのだろう。
「なんで……どうして……忘れて……? ごめ……兼さん……」
「落ち着け、主。そんなのはただの紙切れだ」
「紙切れじゃない! これは、土方さんの想いが込められた兼さんへの——!」ただの紙切れだと寂しい事を言う兼さんに反発して——忘れていた事のショックで気が動転している事もあり——声を荒らげるが、
「〝今〟は、ただの紙切れだ。……大事に持っていてくれたんだな」
えみの肩に手を置いて言い聞かせる兼さんの落ち着いた優しい物言いに、昂っていたえみの感情も落ち着く。「少し休め」と少し雑にぐしゃぐしゃと頭を撫でられて兼さんはえみに気を使うように静かにその場から立ち去った。ぼさぼさになった髪も整えずえみはその場で呆然と立ち尽くしていた。
(……ただの紙切れなんかじゃない)
兼さんはえみの気持ちを汲んでああ言ったのだろうが、この手紙は兼さんへの、土方さんの想いがこもった手紙なんだ。ただの紙切れなんて言葉で済ませていいものじゃない。えみ一人だけじゃない、よっちゃんや歌仙さんやキヨ達の力を借りてようやく手に入れた光——なのに……
(なのに……)
兼さんはああ言ってくれたけど、あんなに大事な事を綺麗さっぱり忘れてしまっていたなんて、落ち込まずにはいられない。それと同時に不安が確信へと変わっていく。点と点が繋がっていく。
——恐らく、えみに残された時間は、もうそんなに長くはない。元の世界へと戻るときが近づいてきている。夢だと思っていたのも、あれはきっと夢なんかじゃない。実際に起こって体験している出来事なんだ。やたらと長くてリアリティーがあるのも説明がいく。夢がだんだん現実へと変わってきて、現実がだんだん夢へと変わっていく。そんな感覚。今のえみにできる事は、何か。
確信してからの行動は自分でも驚くほど冷静で早かった。
「こんのすけ」呼んでから数拍のまをあけて、ぬらりと足下から音もなく現れた。上司に伝えたい事、言わなきゃいけない事があるとの主旨を綴った電報を届けてほしいと、データをこんのすけに送る。「かしこまりました」とデータの送信が完了したあと、すっとその場から立ち去った。
折り返しの連絡はすぐにきた。忙しい上司がわざわざえみに時間を割いてくれるなんて、恐らく上司も察したのだろう。えみの身に起こっている変化について。
翌日、本部へと向かう。
「おっ、よう宇佐美。元気してる?」
エントランスで、先輩が声をかけてきた。ちょうどいい、先輩にも立ち会ってもらおう。詳しい説明は後回しに、先輩を引き連れて上司が待っている部屋へ向かう。
辿り着いた部屋の扉をノックすると、なかからいつも上司の側にいる秘書らしき男性が顔を出した。「お話は伺っております」と端的に返事をしたあと先輩のほうをちらりと見やり「あなたは……」とこぼしたので、先輩も通してほしい事を伝えたら上司の返事を確認しに一旦部屋のなかに戻って行った。数秒と経たないうちに戻ってきて許可をもらう事ができたので、先輩と一緒になかに通されて秘書らしき男性は部屋から出て行った。
部屋には上司、先輩、えみの三人だけだ。何もわからずあれよあれよと連れてこられた先輩は突然の上司との対面に肩に力が入る。えみもこうしてきちんと対面するのは騒動があったとき以来だ。緊張が走る。口火を切ったのは上司からだった。
「文章は読ませてもらった。手短に言え」
「多分、なんですけど……もうすぐ元の世界に戻るかもしれません」
えっ、と先輩は大きな声を出して驚くが、上司は訝しげな眉を少しも動かさず無言でいた。
「……根拠は」
「元の世界での夢を見る事が多くなって……まだ、忘れたりもするんですけど。それと同時に最近物忘れが激しくなってきて……忘れるっていうよりかは、覚えていない感覚のほうが近いというか……上手く言えないんですけど」
「感覚がそう告げている、という事か」上司の言う事は言い得て妙だ。
「それで、本丸の事なんですけど……。引き継ぐにはやっぱり、縁を切らなきゃいけないんですよね」
騒動のときを思い返す。えみの勝手だとわかってはいるが、残していくみんなをいつ目覚めるのかわからない長い眠りにつかせたくないし、それならいっそ新しい主について生きていてもらったほうがいい。しかし、上司から告げられた言葉は次のような言葉だった。
「ないわけでもない」
「えっ」思いがけない上司の返答に驚きの声を上げる。上司は続ける。
「刀剣男士が何によって顕現しているか知っているか。逸話、伝記、言い伝え、……それら物語によって形作られる。形成するのは、人。数多の人の手を介し刀は物語を成していく。人と刀の繋がり、それもまた縁だ。あの本丸の刀剣男士を形作るのは、もはや君も物語の一部となっているだろう」
ならなぜあのとき男士とえみの縁を切ったのか、あれがあったから大騒動にまで発展した、と先輩はここぞとばかりに攻め入るが、色々と急でその手段を取るのが一番適切だと判断したからだと、特に弁解するわけでもなく上司は冷静に答える。色々と大変すぎるくらい大変だったが、もう過去の事を悔やんでも仕方がない。先輩は気持ちを切り替えて
「つー事はつまり、宇佐美の事は覚えたままでいられるって事ですね。よかったじゃん、宇佐美」
自分の事のように喜んでくれる。嬉しい。本当に、凄く。先輩が一緒に喜んでくれる事も含めて。えみがいなくなったとしても、みんなはえみの事を覚えていてくれる。えみは、みんなの心のなかに居続けられる。
(……でも、それってエゴじゃないか?)
ふと、冷静な自分が顔を出す。きっと、優しいみんなの事だから、新しい主になってもえみの事を覚えていてくれるだろう。でも、新しい主の立場は? 上司は、本丸引き継ぎの際に前の主——審神者との繋がりがあると弊害があると言っていた。えみとの繋がりのせいでみんなの足を引っ張るのは嫌だ。何より——考えて、考えて、考え抜いたあと、
「……いえ、やっぱり忘れさせてください」
思いがけないえみの一言に「なんで……」と、急に天国から地獄へ突き落とされたような顔の先輩は、えみに問い詰める。それもそうだ、えみが一度、元の世界に戻って、こっちの世界にまた帰ってきたとき、本丸に戻りたい一心で奮闘していたのだから。えみのみんなに対する想いは堅物の上司の心も動かすほどに強い。
だけど、みんなを想うからこそ、前へ進んでほしい。いつか、兼さんが言っていた。『オレ達は〝武器〟だ』と。兼さんはそれを誇りに思っている。本質が〝刀〟であるみんなも。なら、主として最後にみんなにできる事は、新しい主に存分に使ってもらう事。歴史の改変を阻止して、〝今〟を守ってもらう事。使われる事が刀の本分なら、えみはそれを叶えてあげたい。それに、過去に囚われていたらいつか大きなしっぺ返しを食らうかもしれないから。みんなは優しいから、きっとえみの事は覚えていてくれる。けど、みんなが前の主を口に出すとき、どこか寂しい気持ちになった。だから、新しい主にも同じ思いはしてほしくない。単なる嫉妬心だけど。
喜んでくれた先輩に心が痛まないわけがない。先輩にもえみが秘めている想いを打ち明ける。けど、それで納得する先輩じゃない。
「宇佐美の死を受け入れても前に進んでった彼らなら、宇佐美の記憶を残したまま前に進めると、俺は思う。ってか、絶対消しちゃダメだ」
「でも、えみのほうが未練残っちゃうから。えみで上手くやれてたなら、みんながえみの事を忘れちゃっても、きっと上手くやっていける。えみがやってたときより上手くやれるよ。あの本丸にえみっていう足枷を残したくないんだ」
そもそもえみはこの世界の人間じゃないし、と笑って言う。先輩は懸命に止めてくれる。けど、上司は「……わかった。その方向で手続きを進めよう」
「上司!」
「縁には数多の繋がりがあるように、縁の形も結んだものそれぞれだ。我々外部が口を出すような事ではない」
「でも……、」と先輩はこぼすけど、それ以上は何も言わなかった。言えなかった、と思う。そのとおりだと理解したからか。
「……ありがとうございます」
初めて、上司に気持ちが伝わったと感じた。上司は怖い顔のまま何も言わないけれど。それと、もう一つ。
「あの……えみを審神者にしてくれて、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「……君に審神者としての素質を見出したのは、こんのすけだ。そしてそれを選んだのは君自身だ。私は私の仕事をしたまでだ」
上司の言葉は相変わらず冷たいままだ。けれど、今となっては遠回しな温かい言葉に聞こえる。きっと今までもそうだった。えみの単なる思い込みかもしれないが。
伝えたい事や出来る事はすべてこなしたので多忙の上司の仕事を邪魔しないように早めに退散しようとすると、えみと先輩の去り際に、
「……ここで得たものが無駄にならない事を祈っている」
上司からの思いがけない言葉。贈られた言葉にえみは嬉しくなって「……はいっ。ありがとうございます」と心から素直に笑顔で応えた。ほんの少し寂しい気持ちも織り交ぜて。
部屋の外で待機していた側近の男性に軽く会釈をして、えみと先輩は談笑しながらエントランスに戻る。
「上司はあんな言い草だったけどさ、本当は寂しいんだよ」
珍しく上司にフォローを入れる先輩の一言。いつもは対立しているような関係にあるのに。上司のセンチメンタルな言葉にに感化されたか。でも、今日のえみも、
「わかってる。なんとなく」
先輩に同意だ。いつも厳しい態度しかとられてなかったけれど、もう会えないとわかるとやっぱり少し寂しい。お世話になったから。こんな得体の知れない人間を受け入れて、居場所を与えてくれて、上司の判断がなかったらえみは今頃ここにいない。
きっと今頃、上司は噂をされてくしゃみをしているだろう。そう考えたらおかしくて思わず笑いが込み上げる。
「またこっちにくる事があったら審神者やりなよ。いつでも待ってるからさ」
まるでえみが留学でもするかのように、先輩は、本丸に戻るえみに言葉を贈る。旅行感覚で並行世界に行くのかと思えるくらいの軽い言葉だが、先輩なりの励ましだろう、「うん」とえみは笑って頷いた。
えみがいついなくなってもいいように本丸引き継ぎの手続きは密かに行われた。えみがいなくなってしまったあとは、審神者としての能力を失い組織を抜ける事となった、という事になった。これでいつえみが元の世界に帰っても安心だ。とりあえず一息つく。
上司から「齟齬がないように刀剣男士らに説明をしておいたほうがいい」と言われたが……。他の時間軸からやってきたという事は、上司の命令で男士にも伏せているのだが、そのまま話してもいいものなのだろうか。上司曰く、別の時間軸からやってきた人間だと知られると、並行世界説を信じている厄介な研究者がこぞってえみを研究対象として解剖するかもしれないから……らしい。本当かどうかは謎だが。胡散臭い話ではある。けれど現に時間遡行軍や刀剣男士という時を遡る事のできる存在がいるから完全に否定はできない。上司の命令を無視して本丸の男士くらいには素性を話しておくべきだろうとも考えたのだが、単に改まって話す機会がなかったのと、特に話すべき事柄でもないかなと思ったから。えみがやる事は変わらないし。(審神者業が思っていたよりもハードで、すっかりすっぽ抜けていたという事もある)
元の世界に戻ったら、恐らく、みんなの事は忘れてしまうだろう。夢で見る出来事のように。みんなの記憶からえみがいなくなったとき、凄く悲しかった。居場所がなくなってしまったと思えた。だからみんなにも同じ思いをしてほしくなかった。これはせめてものえみの贖罪だ。こんな不安定な存在を主としてみんなを仕えさせてしまった事に対する。
(この世界で、いつまでもみんなと一緒に生きれたら良かったんだけどな……)
だが、えみには帰るべき場所がある。いつまでもママとパパや友達を放っておくわけにはいかない。大丈夫、今ならきっと上手くやれる。
元の世界へ戻るんだと自覚すると、あれだけ不安に思っていた気持ちも嘘みたいに軽くなった。寂しい気持ちは消えないものの、視界がひらけたような感覚だ。
これから何をするべきか。記憶がなくなったとしても、何を残していけるか。みんなに何ができるか。
「今、えみができる事は——」
新しい審神者が就任してもバタつかないように部屋を整えておこう。まずは本棚の整理整頓から始める。長谷部さんが定期的に本棚を整えてくれるので案外やる事はないかもしれない。それでもえみのプライベートな空間はごちゃごちゃしているので——触らないようにと言っている——過去の自分を叱りつけたい気持ちで、いるものといらないものを選別する。どうしてこう細々としたものが多いんだ。テンションが下がる片づけランキングワースト一位じゃないか。
(……でも片づけたものって持って帰れないよな? 意味あるのか、これ)
片づけの意義を問い始めるくらいに片づけに嫌気がさしてきた頃、
「主、部屋の掃除かにゃあ?」よっちゃんがひょっこりと絶妙なタイミングで声をかけてきた。
「よっちゃん。まあ……そんな感じ? 一度やり始めちゃうと止まらなくってさー」
一瞬、よっちゃんにも部屋の整理整頓を手伝ってもらおうかと頭をよぎったが、自分の事は自分で決着をつけたい(?)身辺整理を手伝ってもらうってのも、なんかアレだし。
よっちゃんに見守られるなか、渋々に、淡々と整理整頓をしていると、
「主は頑張り屋やねぇ」
「えっ……そう?」いきなり褒められたので照れながら受け止める。
「初めの頃から今までずっと見ちょったけど、主は頑張り屋じゃ。主がわしの主で、わしは誇らしく思う」
急にそんなド直球のボールを投げられたら照れずにはいられない。でも、出会った当初からよっちゃんはわりとこんな感じで、今までずっと変わらない。はじめの頃よりは慣れたけど、やっぱりちょっと照れてしまう。裏表がないのがよっちゃんのいいところだ。よっちゃんの前では、どこかの誰かさんの前みたいに取り繕えない。
「急になに〜?」とおどけながらも、よっちゃんがくれた言葉に返すように「……えみも、よっちゃんを最初に選んで本当に良かったって思ってる」
面を食らったような顔をするよっちゃん。えみは続けて、
「みんな優しいけど、でも、よっちゃんとだったからここまで走ってこられたんだと思う。……ありがとう」
ほうけた顔をしていたよっちゃんは、ニッと歯を見せて笑顔で返した。えみもつられて笑顔になる。まだ最後の別れと決まったわけではないのに、なんか雰囲気的にそうなってしまった。おかしくって二人で笑いあう。
「頑張りとおせー」とよっちゃんに見送られて、気合を入れ直して整理整頓にとりかかる。
ほどなくして、誰も文句がつけようもないくらいに片づけ終わった。我ながら立派なものだ。自分で自分を褒めたい。いるもの、いらないものの分別の葛藤は凄まじいものだった。どっと疲れてしまった。
(……みんなに伝えておいたほうがいいんだよなぁ)
ぼんやりと、えみが審神者を辞める事を考える。大事な事とはいえ——大事な事だからこそ——言いにくい。みんな引き止めてくれるかな。引き止められたら審神者を辞める事をやめちゃうかもしれない。すんなり受け入れられたらそれはそれでショックだが。う〜ん、う〜ん、と頭を悩ませるが何も浮かんでこないので気分転換に本丸内を散歩する事にした。
ぶらぶらと散歩していると、とある一つの部屋に、骨が抜かれたかのようにだらーんと横たわっている男士が一人、二人、三人……と大きい小さいを問わずに数人がいた。それを、先ほどまで喋っていたよっちゃんが難しそうな顔で見下ろしていた。
「どしたの?」
「おお、主。いやなに、ここ最近楽しい事がなくてだらけゆうが。なんか楽しい事はないかなー思うてみんなで考えちょったところがやき」
付喪神も人間みたいにだらける事があるのか……と関心を寄せる。人の身になってるから感覚が人間のそれに近いのか。一緒に考えてあげたいが、えみも今は審神者を辞める事をなんて伝えるか悩み中だ。あまり深刻な感じじゃなく、さくっと楽しい感じに伝えられたらいいのだが……
「そうだ、宴会やろう!」
我ながらナイスアイデアだ。と言っても、えみと兼さんがギクシャクしていたときによっちゃんがやってくれたのを思い出して真似しているだけだが。えみからの急な提案に驚かれるが、すぐに楽しい事が大好きな男士は乗ってくれた。だらーんとしていた男士達にも貢献できるし一石二鳥だ。
宴会の雰囲気でなら言いにくい事も言えるだろう。それに、もしかしたら、これがみんなとの最後の宴会になるかもしれないし。善は急げという事で、さっきまでだらーんとしていた男士達は嘘みたいに切り替わって活動的になる。えみも一旦悩み事を置いといてみんなと宴会の準備をする。
——夜。みんな揃って宴会が始まる。お酒や料理も今日は特別に奮発した。そのおかげもあってか、いつもの宴会以上に賑やかな気がする。宴会の規模は外にまで広がって光忠さんが網焼きをしたり、歌仙さんが詩の披露をしていたり、よっちゃんがなぜか射的屋をやっていたりと本当にお祭り状態だ。割とえらい事になってしまった。明日から節約しなくては。
相変わらず本丸のみんなは宴会が大好きだ。はしゃいでいる姿を見ているとこっちも楽しくなってくる。けれど、この光景を見られるのも、あと何回だろう。
少し、しんみりしていたところに短刀の子達がイカ焼きや焼きとうもろこしを持ってきてくれて、遊びに誘ってくれる。そうだ、楽しい事は楽しまなきゃ損だ。短刀の子達と一緒に宴会という名のお祭りを楽しむ。
ひととおり遊んで、ほっと一息つくと、ハッと雷に撃たれたように、重要な事を思い出した。お祭り騒ぎですっかり忘れていたが、どんちゃん騒ぎをするために宴会を開いたんじゃない。目的は別にあるだろう、えみ。みんなに打ち明ける事だ。えみが審神者を辞める事、新しい審神者に本丸を引き継いでもらう事、みんなの記憶から、えみが……。
うじうじするな、えみ。自分で決めた事だろう。鼻から深く息を吸って「みんな!」とお祭り騒ぎに負けないようにお腹から声を出す。
「聞いてほしい事、が……」段々と声が小さくなっていく。あれだけ騒いでいたみんなに一斉に見られると、急に緊張してしまって縮こまってしまう。えーっと、とか無駄に引き伸ばしながら余計に注目を浴びる。
「——き、今日はたっくさん楽しもうね!」
違う。何を言っているんだえみは。主から直々にお許しが出たと思ってしまったのか周りから「おおー!」と嬉々とした雄叫びが上がる。ああ、余計に言いづらくなってしまった。
少しのあいだ一人になって言葉を整えようと、みんなの輪からこっそり外れて、手入れされた池の近くまで行く。
早く言わないとますます言いづらくなってしまう。兼さんとの一件で痛いほどにしみたはずなのに。はーっと深くて重いため息をつく。ぼーっと水面に映る自分の姿を眺めて——
「鯉でも食うつもりか?」
いきなり背後から声がかけられて水鏡に兼さんの姿が映ったものだから「うわあっ!」と飛び上がるくらいに驚いて、驚いた拍子に足がもつれて視界がぐらつく。そのまま池を背にして倒れていく。咄嗟に兼さんが手を伸ばし、えみも伸ばされた手を掴もうとするがその甲斐も虚しく水しぶきをあげて豪快に水のなかに吸い込まれた。
「…………」無言で睨み続ける。本気で怒っていると察した兼さんは、えみの無言の圧にやや怯みながら自分の非を素直に認めて、手を伸ばす。兼さんの手を掴んだ——瞬間、えみは思いっきり掴んだ手を引っ張る。油断していた兼さんはあっけなく間抜けに池に落ちる。
「……て〜めぇ〜」
「おあいこだろ」
ったく、とため息をついて濡れて張りつく髪をかきあげる。不意の仕草にときめいてしまう。絶対に悟られてはいけない。ごまかすように素っ気ない態度で兼さんに接する。
「ってか、何しにきたんだよ」
「おめーの事だから本丸で迷子になってるんじゃねえかと思ってな」
えみをなんだと思ってるんだ。鶏と思われているんじゃないか。いつもの皮肉だとわかっているので特段怒りはしないが。「わざわざ探しにくるなんて暇人なんですねー」とこちらも皮肉混じりで返すと「わざわざお前を探しにこられる大人の余裕があるってこったあ」などとああ言えばこう言う。「本当の大人なら自分を大人とは言わない」なんて心に思っていたつもりだけど、口に出ていてしまったようで、これまた大人げなく兼さんが反応する。やれやれ、大人子供をいちいち相手にするのは大変だ。不毛な言い争いを続けたのち、不意に、
「また何か悩み事か」
えっ、と驚いて兼さんを見る。まさかまた勘づかれていたのだろうか。えみ自身は隠し事をするのが上手いと思っていたが、兼さんには尽く見抜かれてしまう……本当は隠し事が下手なのでは。兼さんも妙なところで察しがいいし。話すなら今なんだろうけど、やっぱり言葉に詰まってしまう。
「いいよ。話しにくい事なら無理に話さなくても」ただ……、と念を押す。えみは耳を傾ける。
「自分だけの力じゃどうしようもできなくなったとき、必ず言え。……オレらは刀剣男士であると同時に、主に仕える刀なんだからさ」
意外な言葉に、えみは兼さんの顔を見た。兼さんは驚くえみの顔を見て、してやったり、ともとれる大人の余裕の微笑を浮かべた。悔しい。結局、翻弄されてしまってる。心地の良い言葉に、余韻に浸っていた。
突然——ドンッ、と空気を震わせる大きな音が夜空に轟いた。本丸襲撃⁉︎ と思い音がした方向を見上げると、光の筋が空へ向かって伸びていき、消えると、刹那——光の大輪が夜空に咲いた。続けて、二つ、三つと色や形の違う光の大輪が夜空を彩る。
(花火……)
夜空というキャンパスに次々と描かれては消えていく、綺麗でどこか切ないアートにただただ魅了されていた。——確か、前にも似たような事があった気がする。そのときも兼さんと一緒に見ていたような……。思い出そうとしてはみるものの、目の前の幻想的な光景に圧倒されて次第に思い出す事をやめてしまう。
少なくとも今、言える事は、今見ている花火が——この景色が、この世で一番綺麗だという事。きっとそれは、大好きな場所で、隣に大事な人がいるからだ。兼さんとえみは、外界から切り離された、賑やかな声の片隅で、静かに花火を見上げていた。このままときが止まってしまえばと、いつまでも、いつまでも、二人で同じ景色を見ていたい——心のなかで密かに願う。
「兼さんさ——えみの事、また忘れちゃっても、思い出してくれる?」
花火の雰囲気に当てられて、思わず口走る。何を言っているんだ、とか疑問で返されるだろうと思っていたけれど、予想に反して返しは次のような言葉だった。
「……おめーみたいなアクが強い狸娘は、忘れたくても忘れられねえよ」
誰が狸娘だ、と兼さんの顔面目掛けて水面を手で弾き水しぶきをおみまいする。やられたら黙っていないのが兼さんで、えみの数倍の水しぶきを仕返しにとばかりにおみまいされる。さっきまでの良い感じの雰囲気はどこへやら、バシャバシャと子供みたいに水をかけあう。良い感じの雰囲気をこの兼定に求める事が間違っている。こっちのほうがえみ達らしい。少し疲れたあとに夜空に咲く花火を見上げる。
なんだか満たされた気分だ。今日はもうこのままお祭りを楽しんで、また明日にすればいいか、と。
急に、強い眠気に襲われる。逆えずにそのまま水のなかへと沈む。ぼんやりと、目の前には視界いっぱいに水にゆらゆらと揺れている赤や黄色や青などの色鮮やかな光の粒が宝石のようにきらきらと輝いていて、まるで万華鏡のようでとても美しかった。ああ、このまま死ぬのも、悪くない。と。
人影が風景を遮って、たゆたうえみを水のなかから引きずり上げた。兼さんだ。暗くてあまり見えないけれど、空に咲く大輪の光の花にときどき照らされて、やっぱり綺麗な顔をしているなあと思った。
その、どこか寂しそうで綺麗な顔が近づいてきて——そっと、限りなく、優しい声で耳元で何かを囁く。意識が朦朧としていて言葉の意味までわからなかったけれど、とても温かな言葉に感じたので、微笑むと、釣られて、寂しげな顔をしていた兼さんも微笑んだ。やっぱり兼さんはそうでなくっちゃ。
そして——兼さんの腕のなかに包まれたまま、意識が、深く、深く、底が見えない闇へと落ちていく。落ちて、落ちて、落ちて——
眼を覚ますと、木材の天井と、輪っかの蛍光灯と、薄暗い部屋の厚手のカーテンから差し込む帯状の光があった。のそり、と頭の上を見上げてみるとAM5:50と表示されたデジタルクロックが目に入る。目が覚めてしまったのでなんとなく起き上がってみる。合成化学の掛け布団、薄い生地の部屋着兼寝巻きのTシャツと半ズボン。
——あれ、こんな格好だったっけ。そもそも、別の場所にいた気がする。ここではないどこか。あれ、どこだっけ。そこで、あの人が何かを言っていたのだけれど……あの人って、
(誰、だっけ)
思い出そうとすると、ぽたり、と目から雫が手の甲にこぼれ落ちた。なんで。悲しいわけじゃないのに、あの人の事を思うと雫が雨のようにぽたりぽたりと降り注いでいく。あの人——そう、とても大事な人だった……はず。長い長い夢が覚めていくかのように、あの人に関する事が忘却のかなたへと溶けるように消えていく。待って。まだ、忘れたくない。でも、思い出せない。
どうして、名前も、姿も、声も、消えていく人に、こんなに想い焦がれるのか。あなたはいったい——あなたの、名前は——
(————)
随分と長い夢を見ていた気がする。えみが覚えているのは、通学中に川に落ちて溺れた事。そこから先は記憶が曖昧だ。ママの話から聞くに、えみが川で溺れたあと、たまたまとおりがかった背の高い大学生くらいの青年が助けてくれて事なきを得たらしい。お礼をしたかったらしいけど青年は名前も言わずに颯爽と去っていってしまったようだ。
えみはというと運ばれた病院で検査したのち、特に異常は見られなかったので少しのあいだ点滴を打ってから自宅療養というわけだ。今はすっかりぴんぴんとしている。次から川の近くは充分に気をつけようと心に誓った。
時は移り、旧暦の七夕に当たる頃。テレビメディアではここぞとばかりに第二の七夕と銘打って世間を盛り上げようとしていた。まあ、七夕セットなど販売の恩恵にあやかれるのでそこまで悪い気はしないが。ママが買ってきた、七夕の恩恵にあやかった七夕セットの飾り寿司をつまみながらテレビで流れる七夕の由来についての情報を適当に流し見る。
『今夜は夏の大三角が良く見られる事でしょう——』とキャスターの言葉で、星座が見えるかもしれない、と期待してベランダに出て夜空を見上げる。いくつもの住宅からもれる淡い光が夜空を照らし、ぼんやりとしか星を確認できない。はあ、と落胆するが、まあ、こんな明るい場所じゃ星なんて見えないよな、と妙に納得する自分もいる。
居間のテレビから耳に入ってくる。七夕に関する事で、あの新撰組、鬼の副長と恐れられた土方歳三の愛刀の鍔に印されている葉の模様は、クローバーではなくて梶の葉だという事——なぜか、強く心を惹かれた。土方歳三、ではなく、愛刀の方に。
刀になんて興味はないはずなのに、なぜか、その刀の名前だけは、強く心に残って。なぜかは、わからない。とても、寂しいけれど、温かい気持ちになれる。その気持ちと照らし合わせるように、ズボンのポケットから臙脂色のとんぼ玉の簪を取り出して眺めた。
あの、わけもなくぽろぽろ泣いていた日に手に握り締められていた。簪を買った記憶などない。家族のでもない。友達からのプレゼントかとも思って聞いてみたのだが心当たりがないという。川で溺れたときに無我夢中で掴んでいたのかもしれない。溺れる者は藁をも掴む、とは言うが、えみにとっての藁だったのだろう、と苦笑いを浮かべる。でも、逆に考えれば、この藁がえみを助けてくれたのかもしれない……と考えて、自分でおかしくなってしまい、ないないと一掃した。
所在がわからない物など普通なら気味が悪くて、捨ててしまえばいいのに、なぜかそれができなくて、なぜできないのかもわからなくて、ただ、捨ててはいけないような、大事なもののような気がして——この簪を見ていると、不思議と寂しさと温かい気持ちになる。もう、今になってはなぜあの朝、泣いていたのかもあまり思い出せなくなってしまったけれど。この簪を持っていれば、きっとこの気持ちの正体もいつかわかるのかな。
いつもどおり、変わらない朝。少し、変わったといえば、今日はいつもなら食べない朝食を食べていった事。「行ってきまーす」と言い残して、学校へ行く。
朝から元気いっぱいにはしゃいでとおりすぎる小学生達、眠そうな顔で自転車を漕ぐ高校生、普段どおり代わり映えのしない平凡で穏やかな風景。川沿いの近くにくると、溺れたときの記憶がよみがえる。スクールバッグに忍ばせていた簪をお守り代わりにして川沿いを気をつけて歩いていく。
それは、いつしか二人で歩いた川のほとり。木漏れ日に揺らめく名も知らぬ二匹の魚は、まるで互いに寄り添うようにどこまでも続く泡沫の世界を、何にも縛られる事なく綺麗に泳いでいた。
2/2ページ