最終章 幸せな
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
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瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
古典が一体、大人になったらどこの役に立つのだろうか。数学の数式だって、理科の実験だって、将来は社会の歯車の一つに組み込まれる普通の平凡なサラリーマンになるのだろうから、勉強しても意味がないと思ってしまう。ゆえに、退屈だった。それでも楽しいと思う教科は一つくらいあるし、好きなものは好きだ。いつか将来の役に立てばいいなと。そう、思うだけだ。好きを仕事にしようと思えるほど熱心なわけではない。ただ、どこかの拍子で、なんとなく素敵な感じになればいいと漠然と思っている。それだけだ。自分の力でどうこうしようというほどではない。
そんな事を、授業の間の小休憩のときにえみの席までやってきた友達と喋っている。
「石灰水とか普段の生活で使う事ある? 元素記号だって絶対使わないでしょ。英語も日本にいたら役に立たないし」
友達の愚痴のような不服に「だよねー」と同意の相槌を打つ。もっと勉強が楽しければいいのだが、そう思える日はこなさそうだ。勉強は難しくて退屈なもの。カラスは黒くて賢いものと同義なくらい当たり前。
まもなく、次の授業が始まる。慌ただしく席に着く人や、既に準備を終えていて余裕がある人や、マイペースに教科書を探している人——えみは言わずもがな既に準備は終えている。英語の担当教師がやってきて授業が始まった。一応、真面目なほうに入るのできちんとノートはとる。わからないところを質問するほどではないが。
——やばい。眠くなってきた。少しくらいならバレないだろうと、数分程度のつもりで目をつむった。先生の声が選挙カーで演説する議員のように右から左へ緩やかに流れていき、次第に電波が悪いラジオみたいに途切れ途切れなり、数秒、真っ白な空間に飛ばされてぱたりと声がやんだ。また数秒後、かすかな音を耳が拾った。時間が逆流しているのか、今度は音——のようなものは声だった——が大きくなっていく。えみに向かってかけられているようだった。声に応えて、鈍い瞼を開かせると、
「——起きた? こんなところで寝てたら、悪い狼さんに襲われちゃうよ?」
羽根が生えたような軽くて甘い声。えみの顔を覗き込む宝石のような碧眼が引き立つ金糸の髪——
「らん……。あれ……えみ、ねてた……?」
「気持ち良さそうにね」よだれたらしてたよ。と言う乱藤四郎——こと、ラン。「うそ⁉︎」と慌てて口周りを手の甲で拭う仕草をする。が、「じょーだん」と茶目っ気たっぷりに言われた。ラ〜ン〜、と凄みたい気持ちにもなったが寝起き直後で働かない頭に加えて、ランのお茶目な性格はわかっていたので、黙っていた。起こしにきたのか、たまたま寝ているえみを見かけたのか定かではないが、ランが「仕事がないなら遊ぼうよ」とルンルン気分で誘ってくる。えみは寝ていた机の上にあるシンプルでシックな手帳をパラパラとめくる。——近代化が進んで情報のやりとりはとても便利で楽なものになったが、やはり重要なものは紙媒体に勝るものはない。と、アナログな手法も取り入れている政府の方針だ。
今日の予定を見てみると、定時までに提出期限が今日までの資料を支部のほうに送らなければいけない。そうだった。今がその資料の作成中だった。慌てて端末のデジタル時計に目をやると、定時までにはまだ時間がある。ほっと胸を撫で下ろした。とはいえ、また今みたいにうたた寝していたら多分間に合わない。事務的な作業は退屈だからすぐに集中力が切れて眠くなってしまうんだよなあ、と、ふあ〜っとまだ寝足りないように大きなあくびをひとつかく。
ルンルン気分のランには悪いが、遊べない趣旨を伝えると、「じゃあ、あるじが寝ちゃわないように見張っててあげる」と言ってきた。ただ見張っているのもつまらないだろうに。まあ一人で放っておけば、またうたた寝してしまいそうなえみからしたらありがたい気もする。「もしも寝ちゃったら、ボクが起こしてあげる。や・さ・し・く・ね♡」と妙に色めいた声でランがあやしい目つきで言ってきたので、いつものように冗談と受け取りつつも自分の身を案じて、ランに見張られる緊張感のなか資料作りを再開する。
はたと、さっきまで見ていた夢の事を思い返す。何か、とても現実味のある夢を見ていた気がするのだが、今となっては靄がかかって思い出す事ができない。まあ、夢だし。と深く考え込まないで目の前の業務に思考を切り替える。
ランが見張ってくれていたおかげか、雑務は予定どおり、予定前にスムーズに片付いた。えみがお礼を言うが早いか、じゃあ遊ぼう、と前のめり気味にランが言うが、いくら定刻前に完成させても支部のほうに届かなければ意味がない。これを送ったらね、ともう少しだけおあずけさせると、はぁーい、と素直に元気よくランは返事をした。出来上がったばかりの紙の資料に欠けがないか、慎重に二回見直して、金庫にも似た転送機の中に入れて、おしまいだ。数分後には支部に届いている。どういう仕組みかは知らないが、電子メールのアナログ版、または郵便の電子版——どちらでも同じようなものだが——といったところだろうか。いまいちアナログな手法と最先端の科学技術を使うボーダーがわからない。だがこれでようやく一息ついた——矢先に、狙ったかのようなタイミングでこんのすけがどこからか急に現れた。本当にどこからか急に。そういえばクダギツネと言っていた事だし、好きなときに好きな場所に現れる事ができるのかもしれない。
それはそうとして、こんのすけが目の前に現れるときは決まって政府からの電報があるときだ。だからこんのすけには悪いが、こんのすけに会うと芳しくない状況を察して気が少しだけ滅入る。こんのすけは、やはり口を開いて「主さま、政府より入電を確認しました」と冷静な口調で淡々と政府から出陣要請を端的に伝えられると、やっぱりかー、と予感が的中して一気に脱力感に襲われる。構わずこんのすけは、脱力するえみを気にかけるものの、冷静に対処する。こっちがどういう状況であろうが知れた事じゃないと舞い込む任務——怒りの矛先を向けるのは、敵である歴史修正主義者か、審神者に仕事を投げる政府か。落ち込みつつもしっかりとこんのすけの話に耳を傾けてきっちり業務をこなしてやろうとする自分の生真面目さが憎い。
伝えられた任務の内容は、何度か飛んだ事のある時代の事件の再確認なので、前に任務に当たった男士に頼む事にしよう。確かデータベースに出陣のときの記録が残っていたはずだ。確認をしたら声をかけておこう。
伝達が終わるなり、ぬらりと物音も立てずに大きな尻尾を揺らしてこんのすけは障子の向こう側へと姿を消した。ランに現状を伝えておかないと。いつまでもワクワクして待っているかもしれない。伝えに出戻ろうとしたら、いいタイミングでばったりとランと鉢合わせた。どうやら様子を見にきてくれたらしい。ランの気持ちに水を差すようで少しばかり心が痛むが、こんのすけから、政府からの指令がきたから遊べない事を告げると、やっぱりランはつまらなさそうな顔をして、えーっ、と不満の声を上げた。
「ボクとお仕事、どっちが大事なのさっ」
「そんなセリフ、またなんか見たのか。ワガママ言わないの」
ワガママ、を言いつつも、その口振りや態度は冗談めいていて——とは言ってもやっぱり少し不服さを感じとれる——ランは、ふぐみたいにぷくーっとほっぺを膨らませる。あざとい仕種もさまになっているんだよなあ。ランを適当にいなして重い足取りで現場に向かう。
雑務もようやくひと段落したので、はあーっと声を上げながら机の上に打っ伏す。ハードな内容ではないが地味な内容がたくさんあったので地味に疲れてしまった。また、うとうとと眠気が襲ってくる。さっきうたた寝したばっかなのになあ、とここ最近の眠気が気になりつつも、雑務もひと段落した事だし、睡魔には勝てないので少しのつもりで机に頭を伏せたまま目を瞑った。あっというまに眠りの世界に誘われた。
「——宇佐美」
声がする。男の人の声。えみに向かって、呼びかけている。眠りの世界から目覚めると、どこかの教室で制服を着た学生達が机に向かっている。ふと、斜め上を見上げてみると、英語の教科書片手に眼鏡をかけた中肉中背の男の人がえみを見ていた。
目が合うと「熟睡か? よだれ垂れてるぞ」と言い放ち、えみは慌てて口元を拭う。が、「冗談だ」眼鏡の男性——英語の教師はそう言ったあと教壇に戻っていった。くすくすと小さな笑い声が周りから起きる。恥ずかしくって授業が終わるまでのあいだずっと俯いていた。——あれ? 確かこのやりとり、どこかでやった気がする。女の子のような男の子と……(夢、だった?)
ほどなくして授業を終え、学校での生活も終えて、特に寄り道をする事もなく真っ直ぐ帰宅し、気が進まない宿題を一応こなしたあとママに呼ばれて夕飯のカレーをママとパパで囲んだ。学校での出来事とか、たあいもない話をして夕飯を食べ終えたあとお風呂に入って、ようやくひと息つく。今日の英語の授業が終わったあと、眠気に襲われる事はなかった。夜更かしが祟ったのだろうか。それでも普段なら夢を見るほどに寝こけるほどではないのだが。
(そういえば……)妙にリアルな夢を見た気がする。もうどんな夢だったかは思い出せないが。まるでVR体験みたいな感覚だった事だけはなんとなく覚えている。いわゆる明晰夢というやつが見られるのがそこまできているのだろうか。だとするならあんな夢やこんな夢やそんな夢を見るために訓練をしなければ。善は急げと言うし、早速今日から特訓だ。授業中に居眠りしてしまったのも反省して今日は早めにベッドにつく。普段ならベッドについてもなかなか寝つけないのだが夜更かしして寝不足だったせいかすんなりと眠りに落ちた。
「——じ——るじ————あるじ」
誰かが、暗闇の意識のなかで呼びかける。えみの名前ではない、誰かを。けれど、呼びかける声はえみに向けられている。誰だろう。
「起きないとー……ちゅーしちゃうよ︎」
目を、開ける。真っ白な光が一瞬差し込んだあと、世界を見るためにピントを合わせる。背の高い本棚、真っ白な障子、障子の向こうに見える庭園、そして——えみの顔を覗き込むようにして見る宝石のようにキラキラとした青い瞳を持った色素の薄い少女——
「あ、起きちゃった? んー、でも寝ぼけてるから、ちゅーしちゃうよ︎」
フランス人形のような綺麗な顔が近づいてくる。——ようやく、言葉の意味を理解したところでえみは条件反射的にガバッと打っ伏していた上半身を起こして謎の美少女の行為をかわす。美少女は不服そうに唇を尖らせる。いくら相手がどれほどの美少女でも、夢のなかでも、知らない相手に唇を許すのはためらう。いや、相手がこれほどの美少女ならたとえ同性でもご褒美では……? 寝ぼけまなこでぼーっと見ていると不思議そうな顔で美少女は見返してくる。……この美少女を、えみは知っている。いや、美少女、ではなくて、美男子、だ。えみを「あるじ」と呼び慕う——
「ラン……そうだ、ラン……」
「なあに?」とラン——粟田口吉光が打った短刀、乱藤四郎——は可愛く首を傾げる。ランはなぜここにいる? えみはなぜ寝ていた? えみはここで何をしていた? 寝起きで頭が働かないせいか考えがごちゃごちゃしてまとまらない。
「あるじったら、まだ寝ぼすけさんなの? やっぱりちゅーしてあげようか」
「いや、いい……。えみ、何してたっけ」
むーっと、ちゅーを拒まれて不満げに唇を尖らせるラン。なんでそんなにちゅーしたいんだ。ランはえみの問いに「こんのすけから追加のお仕事やってたんでしょ。そろそろ終わったかなーって思って見にきたら、あるじ、また居眠りしてるんだもん。お疲れ?」
……ああ、そうだ。言われてみればそうだった。段々と記憶がよみがえってきた。えみはこんのすけから追加された政府の任務をこなしていて、そこから派生的に雑務が放り込まれてきたので片づけていってたんだった。そしてひと段落したから、眠気が襲ってきたのでほんの少しのつもりでうたた寝したんだった。
手元の電子端末に表示されている時計を見ると、うたた寝してから二十分ほどしか経っていない。長くて妙にリアリティーのある夢を見ていたわりには短い。深く寝ついていたのだろうか。でも、夢を見てたって事は眠りが浅いんじゃ……? よくわからなくなってきた。
「お仕事終わったんなら遊ぼうよ」
ランは期待した目でこちらを見ている。今、えみには『はい』か『いいえ』の選択肢が浮かんでいる。二度もふったのに——仕事でやむを得ず、だが——三度ふるのはさすがに悪い気もして、うたた寝して雑務の変な疲れもとれた事だし、気分転換もしたいところだし。
「よっしゃ、遊ぶぞー! めいっぱい遊ぶぞー!」
「わーい! そうこなくっちゃ! ボク、みんな呼んでくるね」
ルンルン気分で他の兄弟達にも声をかけに小走りでランは向かっていった。大人数でやるならドロケイだろうか。ドッジボールもできるな。缶蹴りでも遊べるな。すぐに人数が集まって日が暮れるまでめいっぱい遊んだ。
審神者業も終えて、寮。久しぶりに思いっきり体を動かして遊んだおかげで、ベッドにつくなりすぐに寝落ちた。眠りが深かったようで妙にリアルな夢は見なかった。寝起きもスッキリだ。
学校生活も滞りなく進み、あっというまに本丸へ。よく眠れたからか気力が妙にありあまっている。捗る事をいい気に雑務をたくさん受ける。——結果、追い切れないほどの量を抱える事となってしまった。自分が進んで請け負った以上、誰かの手を借りるのはかっこ悪い。ネバーギブアップ精神で頑張る。
どうにかこうにか請け負っていた雑務をすべて消化して、はあーっと深いため息をつく。ちょっとだけ畳の上で寝転がり、次の予定はなんだっけ、と思考を巡らせる。今日やるべき事は終わらせたのでこのあとはどうしようか、とのんびり考えていると、雑務のせいで頭をいっぱい働かせたからか、眠たくなってきた。少し居眠りしてから考えるのでもいいか、とゆっくりと意識を手放していく。そういえば、眠ったらまた妙にリアルで長い夢を見るかもしれない、と、思ったときには既に眠りに落ちていた。
ピピピピピ——と電子音が鳴り続ける。重たいまなこを開いてみれば、よく見知った木目の天井。電子音は頭の上で鳴り止まない。うるさいので腕を頭の上に伸ばして音の元を手で探る。手のひら程度の箱に触れると上にスイッチがあるので押すと、電子音が鳴り止む。首だけを動かして辺りを見渡す。……えみの部屋だ。元の世界の。
(……元の、世界……?)自分で頭のなかで言って、疑問に思う。元の世界とは、何と比べて〝元〟なのだろうか。恐らく、眠っていたときにいた世界なのだろうが……思い出そうとしても断片的でもやがかかったような場面しか思い出せない。もう一度眠ればもやの正体がわかるだろうか。なぜだかこのまま起きたらいけない気がして。大事な事を忘れてしまいそうな気がして。それがなんでなのかはわからないけど。再び眠りにつこうとまぶたを閉じる——
「おい、起きな。学校遅刻するよ」ママの声が耳に入る。学校……そうだ、今日は平日だった。がばっと勢いよく上半身を起こして枕元にある時計を見る。七時四十五分。(まずい!)このままだとママの言うとおり本当に遅刻する。慌てて寝巻きから制服に早着替えして——身だしなみはきちんと整えて——食卓に出ているオレンジジュースを一気飲みすると「行ってきます!」脱兎の如く家を飛び出した。全力で走ればギリギリ間に合う。普段なら寝坊する事なんて絶対にないのに、今世紀最大のピンチだ。神様がいるなら今だけお願いを聞いてください!
全力で走った結果、ギリギリホームルームまでには教室に着いた。ぜえぜえとフルマラソンでも走ってきたばりに醜態を晒す。やっとの思いで自分の席に着席するなり、どっと疲労が出てもうなんも言えねえ状態。息をするので精一杯だ。
「大丈夫?」なんて隣の席のクラスメイトに心配されるが、この座礁したような姿を見て本当に大丈夫などと思うのだろうか。と内心思いつつも口にするわけにはいかないので「大……丈夫……」と息絶え絶えに受け答えする。息つく暇もなく担任の教師がやってきて出席を取り始める。呼吸が落ち着いたのは一時間目が始まる辺りくらいだった。全力で走ったおかげか全身に血が巡って今日は妙に頭が冴える。怪我の功名……というやつだろうか。皮肉なものだ。
ほどなくして午前の授業が終わり、昼休み。
「今日めずいじゃん。遅刻ギリギリ」
めずい、とは、友達曰く珍しい、の略らしい。確かに、普段なら遅くとも五分前着席が当たり前なのに、えみとしてはとんでもない醜態を晒したわけだ。机に広げたノートに、もやもやを表現するようにぐりぐりとシャーペンを走らせる。真面目に授業の復習をするわけではなく、ノートもただのお絵描き専用のノートだ。
「夜遅くまで何してたのかな〜?」とにやにやと怪しげな笑いかたをしながらえみのペンケースから勝手にペンを取り出して、えみが広げているノートに落書きをし始める友達。スキャンダル的なものを期待しているんだろうが、あいにく青春真っ盛りの中学生だ。夜更かしの原因は漫画の読みすぎかゲームのやりすぎくらいしかない。友達もそれはわかっていてあえて言っている事なので深くはツッコまない。友達が量産する落書きに上から付け足していく。くだらない話をしながら昼休みが終わり、午後の授業が始まる。
(……?)胸に湧いた突然の妙な違和感に気づく。風が吹けば消えてしまいそうなほどの小さな違和感で、気のせいだと言ってしまえばそれまでなのだが、いつもの代わり映えしない退屈な日常の風景なのに、胸がむずむずとする。朝、目覚めたときと同じ感覚のような……。あのときは確か夢を見ていた。夢のせいで遅刻ギリギリになった。どんな夢を見ていたんだっけか……田舎のおばあちゃんの家を思わせるような和室に、えみより年下と思われる子供がいて、えみに親しげに話しかけていた。それから、広い和風の庭でたくさんの子供達と遊んでいた。子供達一人ひとりの顔はぼやけていてよく思い出せないが、とても仲が良かった気がする。えみが忘れているだけで小さい頃に遊んだ事がある子供達だろうか。なぜか胸に引っかかる。
授業の終わりを知らせるチャイムが耳に入ると、ハッと空想に浸っていた状態から現実世界へと引き戻される。まずい、授業の内容がほとんど頭に入っていない。思い当たる節もないし、湧いた違和感はきっと気のせいだろうとパッと気持ちを切り替えた。むずむずとしていた胸の感覚も消え去ってしまった。なんなく午後の授業を終え、なんなく学校生活を終え、なんなく一日を終えようとしていた。今日の夕飯は肉じゃがだった。今朝、猛ダッシュを決めたのもあってかベッドで横になって数十分と経たないうちに寝落ちた。
翌朝、ピピピピピ——と昨日と同じ電子音で起こされる。夢は見なかった。ぐっすり眠れた証拠だろう。それでもまだ寝ぼけ眼で朝の支度を始める。朝食を食べて、学校へ行って、授業を受けて、友達とお喋りして、学校が終わって放課後に友達と遊んだり遊ばなかったり、家に帰って宿題をやったりやらなかったりしながら、夕飯を囲んだあと、お風呂に入って、昨日のゲームの続きを遊び、ふと時計を見て慌てて明日の準備を整えてから寝床について一日を終える。大体こんな日常を数日繰り返して過ごした。始めの頃に胸に感じた違和感はすっかり忘れ去られていた。
とある日の午後の授業。えみは絶賛、昼食のあとにやってくる睡魔と戦っていた。今は歴史の授業中だ。黒船で捕鯨だとか外人が侍狩りだとか理解できる言葉が飛び飛びでめちゃくちゃだ。ああ、もう限界だ、とかくんと意識を手放してしまった。
手放す事、数秒——ふと、意識が覚醒する。目を開けると学校の白い天井……ではなく、温かな木の作りの天井が見え、えみは寝転がっているのがわかる。頭上に、黒いベストに白いワイシャツ、真っ赤なマフラーを身にまとった線が細い、えみより少し年上だと思われる男の人が大きな布を持って立っていた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」と男の人はわざわざ広げた布を畳んで、しゃがみこんでえみの顔を覗き込む。切れ長の目のなかに紅玉色が光り、口元のほくろが艶っぽい整った黒髪の……。まるで作り物のような造形の良さにぼーっと眺めていると男の人は「主?」とえみを主と呼んで心配の声をかける。この夢のなかでは今、えみは主という設定なのか。
「くろふねでほげーは……?」
は? と呪文のようなえみの言葉に、頭上に大きなクエスチョンマークが浮かびそうなくらい男の人はわかりやすく困惑する。
「どんな夢見てたの」
どんな夢……と言われても、今見ているのが夢の世界なのだが……。「ここは……?」と聞くと男の人は再び疑問符を浮かべつつもえみの質問に親切に答える。
「主の仕事部屋でしょ。通りかかったら主が寝てたから俺が毛布をかけてあげようとしてたってわけ。あ、寝込みを襲おうとかじゃないからね、絶対。本当に」
妙にそわそわしだして下心はまったくないと潔白を証明する。なぜそんな事を思うのかがわからない。夢は深層心理が現れると聞いた事がある。イケメンとそういう関係になりたいと心のどこかでは願っているという事か。えみも女なんだな……と自分の隠された欲望にほんの少しだけ感心する。起き上がるべくえみは上半身を起こした。体を動かした感覚まで本当にリアルと同じだ。
「授業……」ぽつりと呟くと、男の人が反応する。
「仕事してたんでしょ? 大丈夫? 疲れてるんじゃない?」
このやりとり……デジャヴを感じる。どこで見たっけ……色素の薄い髪の長い女の子と……——いや、女の子じゃない。女の子のように可愛らしい——(あれは、夢じゃない。これも……夢じゃ、ない?)
眠っている記憶のかけらを掘り起こす。
「きよみつ……」
「ん?」と目の前の男の人はえみの呼びかけに反応する。「かしゅう……きよみつ……」
「なあに」と困ったような顔で、その名の男の人はえみに笑いかける。——そうだ、彼の名前は加州清光。刀剣男士で、少しやさぐれ者で、可愛いが口癖の——。えみの様子がいつもと違うからか「ほんとに大丈夫? まだ寝てたほうがいいんじゃない」とえみの体調を気遣うように、清光——キヨは言葉をかける。大丈夫だと、キヨに心配をかけまいと気丈にふるまった。えみの様子を見て、キヨは安堵の笑みを浮かべる。「じゃ、何かあったら呼んでね」と自分の持ち場へと戻っていくキヨの背中を、手を振りながら見送った。
——加州清光——キヨ。新選組、沖田総司の愛刀。今の主は、えみ。大丈夫だ。しっかり覚えている。夢があまりにもリアルすぎて、長くて、元の世界に戻った気分でいたからすっかり夢と現実があべこべだ。……そもそも、今見ているのも夢、という事はないよな……? 不安になってほっぺをぎゅっとつまむ。痛い。痛みがあるという事は、これは現実だ。元の世界で平和な日常を過ごしていたのは、夢。ほっとため息をつく。夢で良かった……はずなのに、なんだか胸騒ぎがする。もやもやを拭いきれないまま、残っている審神者の仕事を片づけていった。
仕事をしているうちに気づいた事がある。最近になって物忘れが急に増えた気がする。いや、確実に増えている。元々忘れっぽい性格だけれど、増してひどい。まだ中学生なのにもうボケが始まっているのか。あと、やたらと眠い。うたた寝をすると眠りこけてしまう。そこまで夜更かししているつもりもないのに、いくら寝てもちょくちょく眠くなってしまう。気になるから男士との会話のなかでそれとなく打ち明けてみたりもした。成長期だからでは? との見解。本当に成長期だから、で済むのだろうか。なんとなく納得できない。でも無理矢理にでも納得して聞き入れる事にした。
夢が妙に現実味を帯びてきているのと何か関係があるのだろうか。確かそのときからだった気がする。えみの体に異変が起き始めたのは。夢のなかの記憶や感覚が少しずつはっきりと鮮明になってきている。些細だが現実での記憶と引き換えるように。少し、怖かった。
「なに辛気臭い顔してんだ」
声とともにひょっこりと兼さんの顔が急に目の前にカットインしてきたので、うわあ! と思わず間抜けな声を上げて飛び上がってしまった。心臓がばくばくと破裂しそうなくらい脈を打つ。
「こっ、殺す気か! びっくりしたわ急に目の前に現れんな!」
「オレのかっこ良さに殺られちまうってか」
「え、それ本気で言ってんの。さぶ」
言う事がますますナルシストじみている。もはや病気の一種だ。いつもどおり言葉の爆弾キャッチボールをしたあとで、兼さんが「何を一人で一丁前に抱え込んでんだよ。そういうのはもっと大人になってからしろ」
「悩んでるなんて言ってないだろ」
「顔に描いてらあ」嘘! と焦ると、やっぱりお前隠し事下手だな、と兼さんが言う。はめられた。はめられたのが悔しくてふてくされながら「……別に、悩んでないし」と突っぱねると、どの事を指して言っているんだか「二の舞になりたくねえからなぁ」と腕を組みながらぼやかれた。痛いところを突かれて、ぐぅ……、と唸り声をもらす。そういうのはずるいと思う。もう充分に反省したんだから掘り起こさなくたっていいだろう。性格が悪いぞ。でも、珍しく兼さん自らが相談に乗ってくれるような感じで言っているみたいだし、ここは兼さんの顔を立ててやるというていで相談してやろう。
「……夢を、見るんだ」
「夢?」兼さんは聞き返す。
「うん。学校に通ってて、授業受けて、休み時間に友達と話したり、そんな普通の夢。……なんだけどさ、結構リアルで、夢か現実かたまにわからなくなっちゃうときがあるんだよね。……だからさ、今、このときが、もしかしたら、夢なんじゃないかなって、ちょっと思ったり……。——なんて、ときどき考えたりする、みたいな?」
たははー、と兼さん相手に妙にしんみりするのも癪なので、おちゃらけて誤魔化した。そもそも、兼さん相手に何を神妙になっているのだろうか。……兼さんに答えを聞きたかったのかもしれない。兼さん自身の答えを。
しかし、いつまで経っても答えが返ってこないのでじれったく感じて兼さんを見ると、兼さんはじっとえみの目を見る。黙って見つめられて、思わず照れてそっぽを向こうとするが早いか——むにっ、と急に左の頬を摘まれた。驚いて目を丸くすると、むぎゅーっと力を込めてほっぺを引っ張られる。「いふぁー⁉︎」と間抜けな声を上げて払い落とそうと腕を叩いて抵抗する。パッと兼さんは手を離す。
「何すんだよ!」摘まれて熱くなった頬を手で押さえながら兼さんに向かって吼える。
「痛てぇなら夢じゃねえだろ」
はあ? と言いたくなるくらいの適当な答えでえみの怒りはさらにボルテージがあがり復讐しようと兼さんに手を伸ばす。だが弄ばれているかのようにえみの怒りの手をひらりとかわして、手を掴まれて制止されて、悶着しているあいだに、遠くから兼さんを呼びかける堀川くんの声に、兼さんは導かれるようにしてスマートに立ち去った。遊んでやったつもりか、あの兼定は。苛立ちがおさまらない。
きっと兼さんなりに励ましてくれたのだろう。そうだとしても、もう少しスマートなやりかたはなかったのか。おかげでほっぺが伸びてしまったではないか。いつのまにか不安に思っていた気持ちは消えてしまっていた。不服に感じながら兼さんの優しさ(?)で伸びて熱くなったほっぺをさする。じんわりと残る熱をしんみりと感じていた。
いくら悩んでいても仕事の量が減るわけでもなく。いつも以上に乗らない気分で雑務を片付けていく。そういう日に限って仕事や面倒事が舞い込んでくるのは人類に課せられた世界の謎だ。ともあれ課せられた以上、無視する事はできない。こういうとき自分の『妙なところで真面目』さを恨む。
審神者の仕事を終えて、疲労困憊でえみは学生寮の自室にいた。気分転換にゲームで遊んでいたが、よっぽど疲れたのか気力がもたずものの数分で放りだしてしまった。今日はもう大人しく寝よう。明日になればきっとまた元気がでるさ。目覚ましをセットしてベッドに横になるなり早々に寝ついた。
翌日、眠れはしたもののなんとなく体がだるい。カツ丼とカレーをペロリとたいらげる食欲はあるのだが、どこか疲れが残っているようだった。連日の激務——というほど激務でもないが——で回復が追いついてないのか、体調を崩してしまったのか。たびたびぼーっとしてしまう。このままではいけない、みんなの主としてしっかりしなくては、とほっぺを叩いて、喝を入れて自分を奮い立たせるが、少しでも気を抜くとまたぼーっとしてしまう。男士の話を聞けていないときもままあった。そんなえみの不調を察した勘付くのが早い男士達が、労いの言葉をかけてくれたり、差し入れをくれたり、なぜか修行を持ちかけられたりもした。みんなの優しさが嬉しい。期待に応えようと精を出した。
そんな日々を繰り返す事、数日——体調も良くなり仕事も軌道に乗ってきた頃、とある事件が起きる。このときのえみはこのあと起きる悲しい出来事を知る由もなくのんきに時間を持て余していた。ここ最近の連日の激務が異常だっただけで普段なら暇ができるほどに時間に余裕があるのだ。とはいえ緊急の指令がでたらいつでも男士を出陣出来るようにしなくてはならないが。審神者を務めてから一度もでた事がないので大丈夫だろう。それよりどうやって暇を潰そうかと考える。短刀の子達と遊ぼうか……外遊びばかりだったからたまにはテレビゲームでも……。
縁側に当たる太陽の光がぽかぽかして気持ちいい。風も穏やかだ。なんだか眠たくなってきてしまった。昼寝をするには絶好の日和だ。疲れがたまっている事もあるし、ほんの数分眠ればきっと疲れが取れるだろう。障子に体を預けると瞬く間に眠りの世界へと誘われた。
「——……宇佐美」
は、と意識が覚醒する。学習机にうっぷしていた頭をゆっくりと声が降ってきた方向に向けると、片手に教科書を開いて持った、中年の男性の顔がえみを見下ろしていた。
「〜〜の〜〜は?」
悩んでも寝起きのぼーっとした頭じゃ浮かんでこない。32ページ、ともはや呆れたような口調で教師らしき男性はえみに言う。周りからくすくすと小さな笑いが漏れる。恥ずかしい思いをしながらもなんとかその場を切り抜け、授業が終わるまでのあいだうたた寝しないように気を張っていた。
——あれ? さっきまでえみは何をやっていたんだっけ? ここじゃない、学校の教室じゃないどこかで、誰かと話していたはずだ。男の人……だったような気がする。けど、今えみは学校の教室で授業を受けている。まぎれもない現実。
(……夢、だった?)
「昨日、なんかやってたの?」
授業のあとの小休憩、友達が席に寄って話しかけてきた。なんでそんな事を聞くのだろう? と、えみは首を傾げる。さっきの居眠りについてだった。いつもの夜更かしだろう……とは思うのだが、いつもどおりなら授業中に夢を見るほど寝こける事はない。うっかり居眠りしてしまうほどに何かに没頭していたわけではないし、テスト明けの疲れが今になって出てきたのだろうかと自分を納得させるための理由を探す。思い当たる節がないままというのも気持ち悪いからだ。友達には適当にそれらしい理由を話して、ほどなくして次の授業が始まる。
授業が始まってからも、居眠りの原因を頭のなかで探していた。授業中に居眠りをするなどという失態を再び犯してしまわないように。結局、夜更かし以外に思い当たる節がない。というよりも居眠りの原因が夜更かしによる睡眠不足以外に何かあるのか? えみには思いつかない。そういえば、夢を見ていたはずなのだが、思い出そうとしてももやもやとしていてちゃんと思い出せない。夢を見た、という感覚はうっすらと残っているのだが……。もしかすると夢のなかに居眠りの原因があるんじゃないかとも一瞬思ったりもしたが、そんなSFみたいな展開あるわけないか、と考える事をやめた。考える事を放棄すると次第に夢も忘れていった。
朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、放課後に友達と遊んで、家族団らんで食卓を囲んで——特に代わり映えしない平凡な日常を繰り返すが、可もなく不可もない……と言ったところで、きっと恐らく幸せな日々の部類に入るんだろうなあとぼんやりと思う。世のなかには学校へ行きたくても行けない子がいて、ご飯も満足に食べられなかったり、そもそも親がいなかったり、戦争に駆り出されたり、今日生きていける保証さえなかったり……世界規模で見たら退屈と思える時間がある事が幸せなんだろう。そんな幸せな時間を退屈と思いながら過ごす事は贅沢なんだろうな。しかし、それはそれ、これはこれ、だ。幸せな環境に身を置きながらも幸せ者なりの悩みはあるものだ。アイスをチョコ味にするか抹茶味にするかとか、身体測定の前に体重をどれだけ落とせるかとか、ダンジョンの扉で右の扉を選ぶか左の扉を選ぶかとか、大なり小なり悩みは尽きない。
例えば、最近起こる眠気について。眠気のもとはなんとなく心当たりがあるのだが——夜遅くまでのゲームや漫画——今まで居眠りを我慢できなくなるほどに眠くなった事はなかった。急に体質が変わるなんて事、あるだろうか。成長期だから? どこかもやもやするけれど、成長期という事を認めるとしたら納得できる部分もあった。そうだ、心のもやもやも体の不調もすべて成長期のせいにしてしまおう。考える事を手放せる。面倒臭くないからだ。そんな事で悩むよりも明日の昼食をうどんにするかラーメンにするかで悩みたい。小難しい事を長く考えていられない頭なのでご飯に思いを馳せているうちにもやもやはすっかりどこかへ飛んでいってしまった。
いつもどおり、特に事件が起きない平穏で平凡な一日を繰り返す事数日——奴がやってくる。そう、食後で授業中の睡魔だ。しかも特大の。ここ数日間のあいだ、眠気はあっても授業中は乗り越えられるくらいのものだったが、今回はやばい。久々に寝落ちてしまうくらいの猛烈な眠気だ。
(昨日はちゃんと早めに寝たのに……なんで……?)
原因を考えようにも脳は眠気をこらえる事にリソースを割いていて、余地などない。数日前に注意されたばっかなのに、このままでは教師に目をつけられてしまう。穏やかな学校生活を送りたいえみにとっては死活問題だ。だが、眠い。眠いものは眠いのである。そもそも眠いという事は体が休息を取りたがっているからでキャパオーバーする前に脳が信号を送って
(あ——無理だ、これ)そう、えみは悪くない。掻い摘んで言うと何も悪くない。本能に従ったまでだ。小難しい理屈を考え出したのが仇となった。抵抗虚しくあっけなく深い眠りにへと落ちる。
「——……————」
何かの気配がする。誰かが、呼んでいるような。
「——い、……おい——」
呼びかけに応えるように、ゆっくりと、目を開いてみる。眩しいくらいの光が人影を形成し、その輪郭が徐々に鮮明になっていく。漆のような長い黒髪——絹のような白い肌——吸い込まれるような青い瞳が、えみの目を覗き込む。目覚めた直後のぼんやりとした頭でもわかるくらいに、息を呑むほどの美しさでしばらく目を奪われていた。
「こんなとこで寝てたら腹下すぞ」見た目の人間離れした美しさとは反面に、とても人間臭い事を薄い唇から発する。どこか懐かしいような、凛とした佇まいになぜだか涙が出そうになる。胸が焦がれる、愛しい声で呼ぶ、あなたは——
「——〝だれ〟」
その人物は、切れ長の目を僅かに見開いたあと、親指と中指を合わせた手で、えみの額に、ズビシッ、と豆鉄砲でも放ったかのような衝撃を与えてきた。半強制的に夢虚ろだった意識が覚醒させられる。——ああ、そうだ。知っている。この子供っぽい意地悪な感じのあなたは、
「ったあー……、なに、すんだよ、」
〝兼さん〟、と語気を強めて、眠気まなこを引きずりつつ睨んだ。ピントがようやく合った視界に映り込むのは、少しムッとしたような、だが呆れも混じっているような、難しい顔つきをした、えみと同じ視線でしゃがみ込んだ格好の兼さんだった。はて、なぜ距離がやや近めなのだろうか。兼さんはなぜか持て余している右手を「おめーがそんなとこでのんきによだれ垂らして寝こけているからだろーが」人差し指を立てて、その先端で、ズドッ、と兼さんからデコピンを喰らって熱を持って過敏になっているというのに、えみの額を突いた。結構強めに。ぐらっと身体が揺れ動くくらいに。ガーッ! と怒りの炎を燃やして兼さんに反撃しようとするものの、ひらりとかわされ、適当に流されてしまって、反撃しきれないまま兼さんは悠々とその場から立ち去ってしまった。本当にあの兼定は。人を煽るのが上手だ。
(……わざわざ起こしにきてくれたのかな)
だとしても、もう少し優しい起こしかたがあるってものだろう。それか黙って布団に運ぶくらい……いや、あの兼定には性に合わないだろう。歌仙さんならともかく。運んだとしても米俵のように抱えられて蔵に置かれてしまうかもしれない。あの兼定ならやりかねない。
——ふと、なんであのとき、兼さんが目に映ったとき、「だれ」なんて思ったのか。見ていた夢があまりにもリアルだったから兼さんの存在を忘れかけていたのだろうか。……いや、夢のなかのえみは兼さんを忘れていた。忘れていた、というよりも最初から〝覚えていない〟ような……。夢のなかでの感覚のはずなのに目覚めた今でも感覚が覚えていて、怖くて、気味が悪かった。
(本当に、夢……?)
これ以上、詮索するのは良くない気がして、深く考える事はやめた。そんな事よりも業務の事が心配だ。最近どうやらうたた寝する事が多くなってしまって片付けなきゃいけない作業が積み重なっている。その作業を片付ける事自体つまらないものだから眠くなってしまって悪循環なのだけれど。作業中もいつ政府から緊急の命令があるかわからないし、いつでも対応できるようにスタンバっておかないといけないので緊張の糸を緩めるに緩められない。それでも学校のつまらない授業を漠然と受けているより僅かにマシだが。僅かに。もやもやを振り払うように必要以上に体を動かして審神者の仕事に集中した。
古典が一体、大人になったらどこの役に立つのだろうか。数学の数式だって、理科の実験だって、将来は社会の歯車の一つに組み込まれる普通の平凡なサラリーマンになるのだろうから、勉強しても意味がないと思ってしまう。ゆえに、退屈だった。それでも楽しいと思う教科は一つくらいあるし、好きなものは好きだ。いつか将来の役に立てばいいなと。そう、思うだけだ。好きを仕事にしようと思えるほど熱心なわけではない。ただ、どこかの拍子で、なんとなく素敵な感じになればいいと漠然と思っている。それだけだ。自分の力でどうこうしようというほどではない。
そんな事を、授業の間の小休憩のときにえみの席までやってきた友達と喋っている。
「石灰水とか普段の生活で使う事ある? 元素記号だって絶対使わないでしょ。英語も日本にいたら役に立たないし」
友達の愚痴のような不服に「だよねー」と同意の相槌を打つ。もっと勉強が楽しければいいのだが、そう思える日はこなさそうだ。勉強は難しくて退屈なもの。カラスは黒くて賢いものと同義なくらい当たり前。
まもなく、次の授業が始まる。慌ただしく席に着く人や、既に準備を終えていて余裕がある人や、マイペースに教科書を探している人——えみは言わずもがな既に準備は終えている。英語の担当教師がやってきて授業が始まった。一応、真面目なほうに入るのできちんとノートはとる。わからないところを質問するほどではないが。
——やばい。眠くなってきた。少しくらいならバレないだろうと、数分程度のつもりで目をつむった。先生の声が選挙カーで演説する議員のように右から左へ緩やかに流れていき、次第に電波が悪いラジオみたいに途切れ途切れなり、数秒、真っ白な空間に飛ばされてぱたりと声がやんだ。また数秒後、かすかな音を耳が拾った。時間が逆流しているのか、今度は音——のようなものは声だった——が大きくなっていく。えみに向かってかけられているようだった。声に応えて、鈍い瞼を開かせると、
「——起きた? こんなところで寝てたら、悪い狼さんに襲われちゃうよ?」
羽根が生えたような軽くて甘い声。えみの顔を覗き込む宝石のような碧眼が引き立つ金糸の髪——
「らん……。あれ……えみ、ねてた……?」
「気持ち良さそうにね」よだれたらしてたよ。と言う乱藤四郎——こと、ラン。「うそ⁉︎」と慌てて口周りを手の甲で拭う仕草をする。が、「じょーだん」と茶目っ気たっぷりに言われた。ラ〜ン〜、と凄みたい気持ちにもなったが寝起き直後で働かない頭に加えて、ランのお茶目な性格はわかっていたので、黙っていた。起こしにきたのか、たまたま寝ているえみを見かけたのか定かではないが、ランが「仕事がないなら遊ぼうよ」とルンルン気分で誘ってくる。えみは寝ていた机の上にあるシンプルでシックな手帳をパラパラとめくる。——近代化が進んで情報のやりとりはとても便利で楽なものになったが、やはり重要なものは紙媒体に勝るものはない。と、アナログな手法も取り入れている政府の方針だ。
今日の予定を見てみると、定時までに提出期限が今日までの資料を支部のほうに送らなければいけない。そうだった。今がその資料の作成中だった。慌てて端末のデジタル時計に目をやると、定時までにはまだ時間がある。ほっと胸を撫で下ろした。とはいえ、また今みたいにうたた寝していたら多分間に合わない。事務的な作業は退屈だからすぐに集中力が切れて眠くなってしまうんだよなあ、と、ふあ〜っとまだ寝足りないように大きなあくびをひとつかく。
ルンルン気分のランには悪いが、遊べない趣旨を伝えると、「じゃあ、あるじが寝ちゃわないように見張っててあげる」と言ってきた。ただ見張っているのもつまらないだろうに。まあ一人で放っておけば、またうたた寝してしまいそうなえみからしたらありがたい気もする。「もしも寝ちゃったら、ボクが起こしてあげる。や・さ・し・く・ね♡」と妙に色めいた声でランがあやしい目つきで言ってきたので、いつものように冗談と受け取りつつも自分の身を案じて、ランに見張られる緊張感のなか資料作りを再開する。
はたと、さっきまで見ていた夢の事を思い返す。何か、とても現実味のある夢を見ていた気がするのだが、今となっては靄がかかって思い出す事ができない。まあ、夢だし。と深く考え込まないで目の前の業務に思考を切り替える。
ランが見張ってくれていたおかげか、雑務は予定どおり、予定前にスムーズに片付いた。えみがお礼を言うが早いか、じゃあ遊ぼう、と前のめり気味にランが言うが、いくら定刻前に完成させても支部のほうに届かなければ意味がない。これを送ったらね、ともう少しだけおあずけさせると、はぁーい、と素直に元気よくランは返事をした。出来上がったばかりの紙の資料に欠けがないか、慎重に二回見直して、金庫にも似た転送機の中に入れて、おしまいだ。数分後には支部に届いている。どういう仕組みかは知らないが、電子メールのアナログ版、または郵便の電子版——どちらでも同じようなものだが——といったところだろうか。いまいちアナログな手法と最先端の科学技術を使うボーダーがわからない。だがこれでようやく一息ついた——矢先に、狙ったかのようなタイミングでこんのすけがどこからか急に現れた。本当にどこからか急に。そういえばクダギツネと言っていた事だし、好きなときに好きな場所に現れる事ができるのかもしれない。
それはそうとして、こんのすけが目の前に現れるときは決まって政府からの電報があるときだ。だからこんのすけには悪いが、こんのすけに会うと芳しくない状況を察して気が少しだけ滅入る。こんのすけは、やはり口を開いて「主さま、政府より入電を確認しました」と冷静な口調で淡々と政府から出陣要請を端的に伝えられると、やっぱりかー、と予感が的中して一気に脱力感に襲われる。構わずこんのすけは、脱力するえみを気にかけるものの、冷静に対処する。こっちがどういう状況であろうが知れた事じゃないと舞い込む任務——怒りの矛先を向けるのは、敵である歴史修正主義者か、審神者に仕事を投げる政府か。落ち込みつつもしっかりとこんのすけの話に耳を傾けてきっちり業務をこなしてやろうとする自分の生真面目さが憎い。
伝えられた任務の内容は、何度か飛んだ事のある時代の事件の再確認なので、前に任務に当たった男士に頼む事にしよう。確かデータベースに出陣のときの記録が残っていたはずだ。確認をしたら声をかけておこう。
伝達が終わるなり、ぬらりと物音も立てずに大きな尻尾を揺らしてこんのすけは障子の向こう側へと姿を消した。ランに現状を伝えておかないと。いつまでもワクワクして待っているかもしれない。伝えに出戻ろうとしたら、いいタイミングでばったりとランと鉢合わせた。どうやら様子を見にきてくれたらしい。ランの気持ちに水を差すようで少しばかり心が痛むが、こんのすけから、政府からの指令がきたから遊べない事を告げると、やっぱりランはつまらなさそうな顔をして、えーっ、と不満の声を上げた。
「ボクとお仕事、どっちが大事なのさっ」
「そんなセリフ、またなんか見たのか。ワガママ言わないの」
ワガママ、を言いつつも、その口振りや態度は冗談めいていて——とは言ってもやっぱり少し不服さを感じとれる——ランは、ふぐみたいにぷくーっとほっぺを膨らませる。あざとい仕種もさまになっているんだよなあ。ランを適当にいなして重い足取りで現場に向かう。
雑務もようやくひと段落したので、はあーっと声を上げながら机の上に打っ伏す。ハードな内容ではないが地味な内容がたくさんあったので地味に疲れてしまった。また、うとうとと眠気が襲ってくる。さっきうたた寝したばっかなのになあ、とここ最近の眠気が気になりつつも、雑務もひと段落した事だし、睡魔には勝てないので少しのつもりで机に頭を伏せたまま目を瞑った。あっというまに眠りの世界に誘われた。
「——宇佐美」
声がする。男の人の声。えみに向かって、呼びかけている。眠りの世界から目覚めると、どこかの教室で制服を着た学生達が机に向かっている。ふと、斜め上を見上げてみると、英語の教科書片手に眼鏡をかけた中肉中背の男の人がえみを見ていた。
目が合うと「熟睡か? よだれ垂れてるぞ」と言い放ち、えみは慌てて口元を拭う。が、「冗談だ」眼鏡の男性——英語の教師はそう言ったあと教壇に戻っていった。くすくすと小さな笑い声が周りから起きる。恥ずかしくって授業が終わるまでのあいだずっと俯いていた。——あれ? 確かこのやりとり、どこかでやった気がする。女の子のような男の子と……(夢、だった?)
ほどなくして授業を終え、学校での生活も終えて、特に寄り道をする事もなく真っ直ぐ帰宅し、気が進まない宿題を一応こなしたあとママに呼ばれて夕飯のカレーをママとパパで囲んだ。学校での出来事とか、たあいもない話をして夕飯を食べ終えたあとお風呂に入って、ようやくひと息つく。今日の英語の授業が終わったあと、眠気に襲われる事はなかった。夜更かしが祟ったのだろうか。それでも普段なら夢を見るほどに寝こけるほどではないのだが。
(そういえば……)妙にリアルな夢を見た気がする。もうどんな夢だったかは思い出せないが。まるでVR体験みたいな感覚だった事だけはなんとなく覚えている。いわゆる明晰夢というやつが見られるのがそこまできているのだろうか。だとするならあんな夢やこんな夢やそんな夢を見るために訓練をしなければ。善は急げと言うし、早速今日から特訓だ。授業中に居眠りしてしまったのも反省して今日は早めにベッドにつく。普段ならベッドについてもなかなか寝つけないのだが夜更かしして寝不足だったせいかすんなりと眠りに落ちた。
「——じ——るじ————あるじ」
誰かが、暗闇の意識のなかで呼びかける。えみの名前ではない、誰かを。けれど、呼びかける声はえみに向けられている。誰だろう。
「起きないとー……ちゅーしちゃうよ︎」
目を、開ける。真っ白な光が一瞬差し込んだあと、世界を見るためにピントを合わせる。背の高い本棚、真っ白な障子、障子の向こうに見える庭園、そして——えみの顔を覗き込むようにして見る宝石のようにキラキラとした青い瞳を持った色素の薄い少女——
「あ、起きちゃった? んー、でも寝ぼけてるから、ちゅーしちゃうよ︎」
フランス人形のような綺麗な顔が近づいてくる。——ようやく、言葉の意味を理解したところでえみは条件反射的にガバッと打っ伏していた上半身を起こして謎の美少女の行為をかわす。美少女は不服そうに唇を尖らせる。いくら相手がどれほどの美少女でも、夢のなかでも、知らない相手に唇を許すのはためらう。いや、相手がこれほどの美少女ならたとえ同性でもご褒美では……? 寝ぼけまなこでぼーっと見ていると不思議そうな顔で美少女は見返してくる。……この美少女を、えみは知っている。いや、美少女、ではなくて、美男子、だ。えみを「あるじ」と呼び慕う——
「ラン……そうだ、ラン……」
「なあに?」とラン——粟田口吉光が打った短刀、乱藤四郎——は可愛く首を傾げる。ランはなぜここにいる? えみはなぜ寝ていた? えみはここで何をしていた? 寝起きで頭が働かないせいか考えがごちゃごちゃしてまとまらない。
「あるじったら、まだ寝ぼすけさんなの? やっぱりちゅーしてあげようか」
「いや、いい……。えみ、何してたっけ」
むーっと、ちゅーを拒まれて不満げに唇を尖らせるラン。なんでそんなにちゅーしたいんだ。ランはえみの問いに「こんのすけから追加のお仕事やってたんでしょ。そろそろ終わったかなーって思って見にきたら、あるじ、また居眠りしてるんだもん。お疲れ?」
……ああ、そうだ。言われてみればそうだった。段々と記憶がよみがえってきた。えみはこんのすけから追加された政府の任務をこなしていて、そこから派生的に雑務が放り込まれてきたので片づけていってたんだった。そしてひと段落したから、眠気が襲ってきたのでほんの少しのつもりでうたた寝したんだった。
手元の電子端末に表示されている時計を見ると、うたた寝してから二十分ほどしか経っていない。長くて妙にリアリティーのある夢を見ていたわりには短い。深く寝ついていたのだろうか。でも、夢を見てたって事は眠りが浅いんじゃ……? よくわからなくなってきた。
「お仕事終わったんなら遊ぼうよ」
ランは期待した目でこちらを見ている。今、えみには『はい』か『いいえ』の選択肢が浮かんでいる。二度もふったのに——仕事でやむを得ず、だが——三度ふるのはさすがに悪い気もして、うたた寝して雑務の変な疲れもとれた事だし、気分転換もしたいところだし。
「よっしゃ、遊ぶぞー! めいっぱい遊ぶぞー!」
「わーい! そうこなくっちゃ! ボク、みんな呼んでくるね」
ルンルン気分で他の兄弟達にも声をかけに小走りでランは向かっていった。大人数でやるならドロケイだろうか。ドッジボールもできるな。缶蹴りでも遊べるな。すぐに人数が集まって日が暮れるまでめいっぱい遊んだ。
審神者業も終えて、寮。久しぶりに思いっきり体を動かして遊んだおかげで、ベッドにつくなりすぐに寝落ちた。眠りが深かったようで妙にリアルな夢は見なかった。寝起きもスッキリだ。
学校生活も滞りなく進み、あっというまに本丸へ。よく眠れたからか気力が妙にありあまっている。捗る事をいい気に雑務をたくさん受ける。——結果、追い切れないほどの量を抱える事となってしまった。自分が進んで請け負った以上、誰かの手を借りるのはかっこ悪い。ネバーギブアップ精神で頑張る。
どうにかこうにか請け負っていた雑務をすべて消化して、はあーっと深いため息をつく。ちょっとだけ畳の上で寝転がり、次の予定はなんだっけ、と思考を巡らせる。今日やるべき事は終わらせたのでこのあとはどうしようか、とのんびり考えていると、雑務のせいで頭をいっぱい働かせたからか、眠たくなってきた。少し居眠りしてから考えるのでもいいか、とゆっくりと意識を手放していく。そういえば、眠ったらまた妙にリアルで長い夢を見るかもしれない、と、思ったときには既に眠りに落ちていた。
ピピピピピ——と電子音が鳴り続ける。重たいまなこを開いてみれば、よく見知った木目の天井。電子音は頭の上で鳴り止まない。うるさいので腕を頭の上に伸ばして音の元を手で探る。手のひら程度の箱に触れると上にスイッチがあるので押すと、電子音が鳴り止む。首だけを動かして辺りを見渡す。……えみの部屋だ。元の世界の。
(……元の、世界……?)自分で頭のなかで言って、疑問に思う。元の世界とは、何と比べて〝元〟なのだろうか。恐らく、眠っていたときにいた世界なのだろうが……思い出そうとしても断片的でもやがかかったような場面しか思い出せない。もう一度眠ればもやの正体がわかるだろうか。なぜだかこのまま起きたらいけない気がして。大事な事を忘れてしまいそうな気がして。それがなんでなのかはわからないけど。再び眠りにつこうとまぶたを閉じる——
「おい、起きな。学校遅刻するよ」ママの声が耳に入る。学校……そうだ、今日は平日だった。がばっと勢いよく上半身を起こして枕元にある時計を見る。七時四十五分。(まずい!)このままだとママの言うとおり本当に遅刻する。慌てて寝巻きから制服に早着替えして——身だしなみはきちんと整えて——食卓に出ているオレンジジュースを一気飲みすると「行ってきます!」脱兎の如く家を飛び出した。全力で走ればギリギリ間に合う。普段なら寝坊する事なんて絶対にないのに、今世紀最大のピンチだ。神様がいるなら今だけお願いを聞いてください!
全力で走った結果、ギリギリホームルームまでには教室に着いた。ぜえぜえとフルマラソンでも走ってきたばりに醜態を晒す。やっとの思いで自分の席に着席するなり、どっと疲労が出てもうなんも言えねえ状態。息をするので精一杯だ。
「大丈夫?」なんて隣の席のクラスメイトに心配されるが、この座礁したような姿を見て本当に大丈夫などと思うのだろうか。と内心思いつつも口にするわけにはいかないので「大……丈夫……」と息絶え絶えに受け答えする。息つく暇もなく担任の教師がやってきて出席を取り始める。呼吸が落ち着いたのは一時間目が始まる辺りくらいだった。全力で走ったおかげか全身に血が巡って今日は妙に頭が冴える。怪我の功名……というやつだろうか。皮肉なものだ。
ほどなくして午前の授業が終わり、昼休み。
「今日めずいじゃん。遅刻ギリギリ」
めずい、とは、友達曰く珍しい、の略らしい。確かに、普段なら遅くとも五分前着席が当たり前なのに、えみとしてはとんでもない醜態を晒したわけだ。机に広げたノートに、もやもやを表現するようにぐりぐりとシャーペンを走らせる。真面目に授業の復習をするわけではなく、ノートもただのお絵描き専用のノートだ。
「夜遅くまで何してたのかな〜?」とにやにやと怪しげな笑いかたをしながらえみのペンケースから勝手にペンを取り出して、えみが広げているノートに落書きをし始める友達。スキャンダル的なものを期待しているんだろうが、あいにく青春真っ盛りの中学生だ。夜更かしの原因は漫画の読みすぎかゲームのやりすぎくらいしかない。友達もそれはわかっていてあえて言っている事なので深くはツッコまない。友達が量産する落書きに上から付け足していく。くだらない話をしながら昼休みが終わり、午後の授業が始まる。
(……?)胸に湧いた突然の妙な違和感に気づく。風が吹けば消えてしまいそうなほどの小さな違和感で、気のせいだと言ってしまえばそれまでなのだが、いつもの代わり映えしない退屈な日常の風景なのに、胸がむずむずとする。朝、目覚めたときと同じ感覚のような……。あのときは確か夢を見ていた。夢のせいで遅刻ギリギリになった。どんな夢を見ていたんだっけか……田舎のおばあちゃんの家を思わせるような和室に、えみより年下と思われる子供がいて、えみに親しげに話しかけていた。それから、広い和風の庭でたくさんの子供達と遊んでいた。子供達一人ひとりの顔はぼやけていてよく思い出せないが、とても仲が良かった気がする。えみが忘れているだけで小さい頃に遊んだ事がある子供達だろうか。なぜか胸に引っかかる。
授業の終わりを知らせるチャイムが耳に入ると、ハッと空想に浸っていた状態から現実世界へと引き戻される。まずい、授業の内容がほとんど頭に入っていない。思い当たる節もないし、湧いた違和感はきっと気のせいだろうとパッと気持ちを切り替えた。むずむずとしていた胸の感覚も消え去ってしまった。なんなく午後の授業を終え、なんなく学校生活を終え、なんなく一日を終えようとしていた。今日の夕飯は肉じゃがだった。今朝、猛ダッシュを決めたのもあってかベッドで横になって数十分と経たないうちに寝落ちた。
翌朝、ピピピピピ——と昨日と同じ電子音で起こされる。夢は見なかった。ぐっすり眠れた証拠だろう。それでもまだ寝ぼけ眼で朝の支度を始める。朝食を食べて、学校へ行って、授業を受けて、友達とお喋りして、学校が終わって放課後に友達と遊んだり遊ばなかったり、家に帰って宿題をやったりやらなかったりしながら、夕飯を囲んだあと、お風呂に入って、昨日のゲームの続きを遊び、ふと時計を見て慌てて明日の準備を整えてから寝床について一日を終える。大体こんな日常を数日繰り返して過ごした。始めの頃に胸に感じた違和感はすっかり忘れ去られていた。
とある日の午後の授業。えみは絶賛、昼食のあとにやってくる睡魔と戦っていた。今は歴史の授業中だ。黒船で捕鯨だとか外人が侍狩りだとか理解できる言葉が飛び飛びでめちゃくちゃだ。ああ、もう限界だ、とかくんと意識を手放してしまった。
手放す事、数秒——ふと、意識が覚醒する。目を開けると学校の白い天井……ではなく、温かな木の作りの天井が見え、えみは寝転がっているのがわかる。頭上に、黒いベストに白いワイシャツ、真っ赤なマフラーを身にまとった線が細い、えみより少し年上だと思われる男の人が大きな布を持って立っていた。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」と男の人はわざわざ広げた布を畳んで、しゃがみこんでえみの顔を覗き込む。切れ長の目のなかに紅玉色が光り、口元のほくろが艶っぽい整った黒髪の……。まるで作り物のような造形の良さにぼーっと眺めていると男の人は「主?」とえみを主と呼んで心配の声をかける。この夢のなかでは今、えみは主という設定なのか。
「くろふねでほげーは……?」
は? と呪文のようなえみの言葉に、頭上に大きなクエスチョンマークが浮かびそうなくらい男の人はわかりやすく困惑する。
「どんな夢見てたの」
どんな夢……と言われても、今見ているのが夢の世界なのだが……。「ここは……?」と聞くと男の人は再び疑問符を浮かべつつもえみの質問に親切に答える。
「主の仕事部屋でしょ。通りかかったら主が寝てたから俺が毛布をかけてあげようとしてたってわけ。あ、寝込みを襲おうとかじゃないからね、絶対。本当に」
妙にそわそわしだして下心はまったくないと潔白を証明する。なぜそんな事を思うのかがわからない。夢は深層心理が現れると聞いた事がある。イケメンとそういう関係になりたいと心のどこかでは願っているという事か。えみも女なんだな……と自分の隠された欲望にほんの少しだけ感心する。起き上がるべくえみは上半身を起こした。体を動かした感覚まで本当にリアルと同じだ。
「授業……」ぽつりと呟くと、男の人が反応する。
「仕事してたんでしょ? 大丈夫? 疲れてるんじゃない?」
このやりとり……デジャヴを感じる。どこで見たっけ……色素の薄い髪の長い女の子と……——いや、女の子じゃない。女の子のように可愛らしい——(あれは、夢じゃない。これも……夢じゃ、ない?)
眠っている記憶のかけらを掘り起こす。
「きよみつ……」
「ん?」と目の前の男の人はえみの呼びかけに反応する。「かしゅう……きよみつ……」
「なあに」と困ったような顔で、その名の男の人はえみに笑いかける。——そうだ、彼の名前は加州清光。刀剣男士で、少しやさぐれ者で、可愛いが口癖の——。えみの様子がいつもと違うからか「ほんとに大丈夫? まだ寝てたほうがいいんじゃない」とえみの体調を気遣うように、清光——キヨは言葉をかける。大丈夫だと、キヨに心配をかけまいと気丈にふるまった。えみの様子を見て、キヨは安堵の笑みを浮かべる。「じゃ、何かあったら呼んでね」と自分の持ち場へと戻っていくキヨの背中を、手を振りながら見送った。
——加州清光——キヨ。新選組、沖田総司の愛刀。今の主は、えみ。大丈夫だ。しっかり覚えている。夢があまりにもリアルすぎて、長くて、元の世界に戻った気分でいたからすっかり夢と現実があべこべだ。……そもそも、今見ているのも夢、という事はないよな……? 不安になってほっぺをぎゅっとつまむ。痛い。痛みがあるという事は、これは現実だ。元の世界で平和な日常を過ごしていたのは、夢。ほっとため息をつく。夢で良かった……はずなのに、なんだか胸騒ぎがする。もやもやを拭いきれないまま、残っている審神者の仕事を片づけていった。
仕事をしているうちに気づいた事がある。最近になって物忘れが急に増えた気がする。いや、確実に増えている。元々忘れっぽい性格だけれど、増してひどい。まだ中学生なのにもうボケが始まっているのか。あと、やたらと眠い。うたた寝をすると眠りこけてしまう。そこまで夜更かししているつもりもないのに、いくら寝てもちょくちょく眠くなってしまう。気になるから男士との会話のなかでそれとなく打ち明けてみたりもした。成長期だからでは? との見解。本当に成長期だから、で済むのだろうか。なんとなく納得できない。でも無理矢理にでも納得して聞き入れる事にした。
夢が妙に現実味を帯びてきているのと何か関係があるのだろうか。確かそのときからだった気がする。えみの体に異変が起き始めたのは。夢のなかの記憶や感覚が少しずつはっきりと鮮明になってきている。些細だが現実での記憶と引き換えるように。少し、怖かった。
「なに辛気臭い顔してんだ」
声とともにひょっこりと兼さんの顔が急に目の前にカットインしてきたので、うわあ! と思わず間抜けな声を上げて飛び上がってしまった。心臓がばくばくと破裂しそうなくらい脈を打つ。
「こっ、殺す気か! びっくりしたわ急に目の前に現れんな!」
「オレのかっこ良さに殺られちまうってか」
「え、それ本気で言ってんの。さぶ」
言う事がますますナルシストじみている。もはや病気の一種だ。いつもどおり言葉の爆弾キャッチボールをしたあとで、兼さんが「何を一人で一丁前に抱え込んでんだよ。そういうのはもっと大人になってからしろ」
「悩んでるなんて言ってないだろ」
「顔に描いてらあ」嘘! と焦ると、やっぱりお前隠し事下手だな、と兼さんが言う。はめられた。はめられたのが悔しくてふてくされながら「……別に、悩んでないし」と突っぱねると、どの事を指して言っているんだか「二の舞になりたくねえからなぁ」と腕を組みながらぼやかれた。痛いところを突かれて、ぐぅ……、と唸り声をもらす。そういうのはずるいと思う。もう充分に反省したんだから掘り起こさなくたっていいだろう。性格が悪いぞ。でも、珍しく兼さん自らが相談に乗ってくれるような感じで言っているみたいだし、ここは兼さんの顔を立ててやるというていで相談してやろう。
「……夢を、見るんだ」
「夢?」兼さんは聞き返す。
「うん。学校に通ってて、授業受けて、休み時間に友達と話したり、そんな普通の夢。……なんだけどさ、結構リアルで、夢か現実かたまにわからなくなっちゃうときがあるんだよね。……だからさ、今、このときが、もしかしたら、夢なんじゃないかなって、ちょっと思ったり……。——なんて、ときどき考えたりする、みたいな?」
たははー、と兼さん相手に妙にしんみりするのも癪なので、おちゃらけて誤魔化した。そもそも、兼さん相手に何を神妙になっているのだろうか。……兼さんに答えを聞きたかったのかもしれない。兼さん自身の答えを。
しかし、いつまで経っても答えが返ってこないのでじれったく感じて兼さんを見ると、兼さんはじっとえみの目を見る。黙って見つめられて、思わず照れてそっぽを向こうとするが早いか——むにっ、と急に左の頬を摘まれた。驚いて目を丸くすると、むぎゅーっと力を込めてほっぺを引っ張られる。「いふぁー⁉︎」と間抜けな声を上げて払い落とそうと腕を叩いて抵抗する。パッと兼さんは手を離す。
「何すんだよ!」摘まれて熱くなった頬を手で押さえながら兼さんに向かって吼える。
「痛てぇなら夢じゃねえだろ」
はあ? と言いたくなるくらいの適当な答えでえみの怒りはさらにボルテージがあがり復讐しようと兼さんに手を伸ばす。だが弄ばれているかのようにえみの怒りの手をひらりとかわして、手を掴まれて制止されて、悶着しているあいだに、遠くから兼さんを呼びかける堀川くんの声に、兼さんは導かれるようにしてスマートに立ち去った。遊んでやったつもりか、あの兼定は。苛立ちがおさまらない。
きっと兼さんなりに励ましてくれたのだろう。そうだとしても、もう少しスマートなやりかたはなかったのか。おかげでほっぺが伸びてしまったではないか。いつのまにか不安に思っていた気持ちは消えてしまっていた。不服に感じながら兼さんの優しさ(?)で伸びて熱くなったほっぺをさする。じんわりと残る熱をしんみりと感じていた。
いくら悩んでいても仕事の量が減るわけでもなく。いつも以上に乗らない気分で雑務を片付けていく。そういう日に限って仕事や面倒事が舞い込んでくるのは人類に課せられた世界の謎だ。ともあれ課せられた以上、無視する事はできない。こういうとき自分の『妙なところで真面目』さを恨む。
審神者の仕事を終えて、疲労困憊でえみは学生寮の自室にいた。気分転換にゲームで遊んでいたが、よっぽど疲れたのか気力がもたずものの数分で放りだしてしまった。今日はもう大人しく寝よう。明日になればきっとまた元気がでるさ。目覚ましをセットしてベッドに横になるなり早々に寝ついた。
翌日、眠れはしたもののなんとなく体がだるい。カツ丼とカレーをペロリとたいらげる食欲はあるのだが、どこか疲れが残っているようだった。連日の激務——というほど激務でもないが——で回復が追いついてないのか、体調を崩してしまったのか。たびたびぼーっとしてしまう。このままではいけない、みんなの主としてしっかりしなくては、とほっぺを叩いて、喝を入れて自分を奮い立たせるが、少しでも気を抜くとまたぼーっとしてしまう。男士の話を聞けていないときもままあった。そんなえみの不調を察した勘付くのが早い男士達が、労いの言葉をかけてくれたり、差し入れをくれたり、なぜか修行を持ちかけられたりもした。みんなの優しさが嬉しい。期待に応えようと精を出した。
そんな日々を繰り返す事、数日——体調も良くなり仕事も軌道に乗ってきた頃、とある事件が起きる。このときのえみはこのあと起きる悲しい出来事を知る由もなくのんきに時間を持て余していた。ここ最近の連日の激務が異常だっただけで普段なら暇ができるほどに時間に余裕があるのだ。とはいえ緊急の指令がでたらいつでも男士を出陣出来るようにしなくてはならないが。審神者を務めてから一度もでた事がないので大丈夫だろう。それよりどうやって暇を潰そうかと考える。短刀の子達と遊ぼうか……外遊びばかりだったからたまにはテレビゲームでも……。
縁側に当たる太陽の光がぽかぽかして気持ちいい。風も穏やかだ。なんだか眠たくなってきてしまった。昼寝をするには絶好の日和だ。疲れがたまっている事もあるし、ほんの数分眠ればきっと疲れが取れるだろう。障子に体を預けると瞬く間に眠りの世界へと誘われた。
「——……宇佐美」
は、と意識が覚醒する。学習机にうっぷしていた頭をゆっくりと声が降ってきた方向に向けると、片手に教科書を開いて持った、中年の男性の顔がえみを見下ろしていた。
「〜〜の〜〜は?」
悩んでも寝起きのぼーっとした頭じゃ浮かんでこない。32ページ、ともはや呆れたような口調で教師らしき男性はえみに言う。周りからくすくすと小さな笑いが漏れる。恥ずかしい思いをしながらもなんとかその場を切り抜け、授業が終わるまでのあいだうたた寝しないように気を張っていた。
——あれ? さっきまでえみは何をやっていたんだっけ? ここじゃない、学校の教室じゃないどこかで、誰かと話していたはずだ。男の人……だったような気がする。けど、今えみは学校の教室で授業を受けている。まぎれもない現実。
(……夢、だった?)
「昨日、なんかやってたの?」
授業のあとの小休憩、友達が席に寄って話しかけてきた。なんでそんな事を聞くのだろう? と、えみは首を傾げる。さっきの居眠りについてだった。いつもの夜更かしだろう……とは思うのだが、いつもどおりなら授業中に夢を見るほど寝こける事はない。うっかり居眠りしてしまうほどに何かに没頭していたわけではないし、テスト明けの疲れが今になって出てきたのだろうかと自分を納得させるための理由を探す。思い当たる節がないままというのも気持ち悪いからだ。友達には適当にそれらしい理由を話して、ほどなくして次の授業が始まる。
授業が始まってからも、居眠りの原因を頭のなかで探していた。授業中に居眠りをするなどという失態を再び犯してしまわないように。結局、夜更かし以外に思い当たる節がない。というよりも居眠りの原因が夜更かしによる睡眠不足以外に何かあるのか? えみには思いつかない。そういえば、夢を見ていたはずなのだが、思い出そうとしてももやもやとしていてちゃんと思い出せない。夢を見た、という感覚はうっすらと残っているのだが……。もしかすると夢のなかに居眠りの原因があるんじゃないかとも一瞬思ったりもしたが、そんなSFみたいな展開あるわけないか、と考える事をやめた。考える事を放棄すると次第に夢も忘れていった。
朝起きて、学校へ行って、授業を受けて、放課後に友達と遊んで、家族団らんで食卓を囲んで——特に代わり映えしない平凡な日常を繰り返すが、可もなく不可もない……と言ったところで、きっと恐らく幸せな日々の部類に入るんだろうなあとぼんやりと思う。世のなかには学校へ行きたくても行けない子がいて、ご飯も満足に食べられなかったり、そもそも親がいなかったり、戦争に駆り出されたり、今日生きていける保証さえなかったり……世界規模で見たら退屈と思える時間がある事が幸せなんだろう。そんな幸せな時間を退屈と思いながら過ごす事は贅沢なんだろうな。しかし、それはそれ、これはこれ、だ。幸せな環境に身を置きながらも幸せ者なりの悩みはあるものだ。アイスをチョコ味にするか抹茶味にするかとか、身体測定の前に体重をどれだけ落とせるかとか、ダンジョンの扉で右の扉を選ぶか左の扉を選ぶかとか、大なり小なり悩みは尽きない。
例えば、最近起こる眠気について。眠気のもとはなんとなく心当たりがあるのだが——夜遅くまでのゲームや漫画——今まで居眠りを我慢できなくなるほどに眠くなった事はなかった。急に体質が変わるなんて事、あるだろうか。成長期だから? どこかもやもやするけれど、成長期という事を認めるとしたら納得できる部分もあった。そうだ、心のもやもやも体の不調もすべて成長期のせいにしてしまおう。考える事を手放せる。面倒臭くないからだ。そんな事で悩むよりも明日の昼食をうどんにするかラーメンにするかで悩みたい。小難しい事を長く考えていられない頭なのでご飯に思いを馳せているうちにもやもやはすっかりどこかへ飛んでいってしまった。
いつもどおり、特に事件が起きない平穏で平凡な一日を繰り返す事数日——奴がやってくる。そう、食後で授業中の睡魔だ。しかも特大の。ここ数日間のあいだ、眠気はあっても授業中は乗り越えられるくらいのものだったが、今回はやばい。久々に寝落ちてしまうくらいの猛烈な眠気だ。
(昨日はちゃんと早めに寝たのに……なんで……?)
原因を考えようにも脳は眠気をこらえる事にリソースを割いていて、余地などない。数日前に注意されたばっかなのに、このままでは教師に目をつけられてしまう。穏やかな学校生活を送りたいえみにとっては死活問題だ。だが、眠い。眠いものは眠いのである。そもそも眠いという事は体が休息を取りたがっているからでキャパオーバーする前に脳が信号を送って
(あ——無理だ、これ)そう、えみは悪くない。掻い摘んで言うと何も悪くない。本能に従ったまでだ。小難しい理屈を考え出したのが仇となった。抵抗虚しくあっけなく深い眠りにへと落ちる。
「——……————」
何かの気配がする。誰かが、呼んでいるような。
「——い、……おい——」
呼びかけに応えるように、ゆっくりと、目を開いてみる。眩しいくらいの光が人影を形成し、その輪郭が徐々に鮮明になっていく。漆のような長い黒髪——絹のような白い肌——吸い込まれるような青い瞳が、えみの目を覗き込む。目覚めた直後のぼんやりとした頭でもわかるくらいに、息を呑むほどの美しさでしばらく目を奪われていた。
「こんなとこで寝てたら腹下すぞ」見た目の人間離れした美しさとは反面に、とても人間臭い事を薄い唇から発する。どこか懐かしいような、凛とした佇まいになぜだか涙が出そうになる。胸が焦がれる、愛しい声で呼ぶ、あなたは——
「——〝だれ〟」
その人物は、切れ長の目を僅かに見開いたあと、親指と中指を合わせた手で、えみの額に、ズビシッ、と豆鉄砲でも放ったかのような衝撃を与えてきた。半強制的に夢虚ろだった意識が覚醒させられる。——ああ、そうだ。知っている。この子供っぽい意地悪な感じのあなたは、
「ったあー……、なに、すんだよ、」
〝兼さん〟、と語気を強めて、眠気まなこを引きずりつつ睨んだ。ピントがようやく合った視界に映り込むのは、少しムッとしたような、だが呆れも混じっているような、難しい顔つきをした、えみと同じ視線でしゃがみ込んだ格好の兼さんだった。はて、なぜ距離がやや近めなのだろうか。兼さんはなぜか持て余している右手を「おめーがそんなとこでのんきによだれ垂らして寝こけているからだろーが」人差し指を立てて、その先端で、ズドッ、と兼さんからデコピンを喰らって熱を持って過敏になっているというのに、えみの額を突いた。結構強めに。ぐらっと身体が揺れ動くくらいに。ガーッ! と怒りの炎を燃やして兼さんに反撃しようとするものの、ひらりとかわされ、適当に流されてしまって、反撃しきれないまま兼さんは悠々とその場から立ち去ってしまった。本当にあの兼定は。人を煽るのが上手だ。
(……わざわざ起こしにきてくれたのかな)
だとしても、もう少し優しい起こしかたがあるってものだろう。それか黙って布団に運ぶくらい……いや、あの兼定には性に合わないだろう。歌仙さんならともかく。運んだとしても米俵のように抱えられて蔵に置かれてしまうかもしれない。あの兼定ならやりかねない。
——ふと、なんであのとき、兼さんが目に映ったとき、「だれ」なんて思ったのか。見ていた夢があまりにもリアルだったから兼さんの存在を忘れかけていたのだろうか。……いや、夢のなかのえみは兼さんを忘れていた。忘れていた、というよりも最初から〝覚えていない〟ような……。夢のなかでの感覚のはずなのに目覚めた今でも感覚が覚えていて、怖くて、気味が悪かった。
(本当に、夢……?)
これ以上、詮索するのは良くない気がして、深く考える事はやめた。そんな事よりも業務の事が心配だ。最近どうやらうたた寝する事が多くなってしまって片付けなきゃいけない作業が積み重なっている。その作業を片付ける事自体つまらないものだから眠くなってしまって悪循環なのだけれど。作業中もいつ政府から緊急の命令があるかわからないし、いつでも対応できるようにスタンバっておかないといけないので緊張の糸を緩めるに緩められない。それでも学校のつまらない授業を漠然と受けているより僅かにマシだが。僅かに。もやもやを振り払うように必要以上に体を動かして審神者の仕事に集中した。