第一章 照れ隠し
主人公の一人称(未入力の場合はデフォルト名が表記されます)
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肉じゃがの肉は豚派である。というか、それ以外を知らない。今となっては、知らなかったと言うべきか。肉じゃがに豚肉以外の肉が入るなんてカルチャーショックを受ける。
「それでもえみは豚肉派」
「豚とか脂ギトギトで肉じゃがのポテンシャル潰してんじゃねえか。あっさりしてるからいいんだろ」
「じゃがいもに一番合うお肉は豚肉。肉じゃがを食べるならお互いを引き立てあう豚っしょ。牛肉とか個性が強すぎてむしろ浮くじゃん」
「わかってねえなあ。〝肉〟じゃがだぞ? 主役は肉なんだよ。野菜が肉を引き立てる事で調律がとれてるじゃねーか」
「やめたまえ」と歌仙さんの声が割り込んでくる。
「天下の往来で嗜好の悶着など恥ずかしくはないのか」
「だってよぉ、之定、肉じゃがに豚肉だぜ? 絶対牛肉の方が美味いだろ」
「肉じゃがは豚のほうが絶対うまい。牛丼にじゃがいも入ってるようなもんじゃん。じゃが牛丼じゃん」
「牛丼じゃねえ、肉じゃがだ。豚のほうが美味いとかどんな田舎者なんだよ」
「ああ!? 豚をバカにする者は豚に泣くんだぞ!」
「いい加減にしたまえ!」
歌仙さんが耐えきれず吼えるなり、ゴンッ! とココナッツが割れたかのような重低音が兼さんの頭から鳴り響いた。兼さんは歌仙さんの鉄拳を食らった頭を手で押さえて悶えていた。ひゃ〜、とえみはさすがにちょっと、ほんのちょっとだけ可哀想な、あと痛そうな目で兼さんを哀れんだ。
「同じ之定とあろう者が、嗜好についての醜い争いをするんじゃない。雅さの欠片もない」
「へっへーん。歌仙さんも豚肉派ですよね」
「僕は牛肉派だ」
「じゃあなんでオレを殴ったんだよ!」
「歌仙さんの裏切り者ー!」
「うるさい! 君達、そもそもの目的を忘れていないだろうね」
あ、と思わず声を漏らす。こんのすけから政府の指令で今いるこの時代の時間遡行軍との戦闘を終え帰ろうとしたところ、町の人たちの怪しい噂が気になって独自で調査していたのだった。なんでも、とある古びた屋敷に人が行ったきり帰ってこないだとか……。忘れていたわけではない。ただちょっと兼さんとの肉じゃが討論で、すっぽ抜けていただけだ。決して、忘れていたわけではない。まったく、食は人を狂わせる……。
「一応、仕事なのだから、浮かれるのもほどほどにね」
「だってよ」と兼さんがえみに言う。
「なんでえみだけ」
「君にも言っているんだ、和泉守」
へーへー、と適当な調子で兼さんは返す。歌仙さんは、まったく……といった感じで呆れて短いため息をついた。わかる、その気持ち。同情の感情をうちに秘めたまま、それはさておきと会話に参加する、本丸随一の機動力の高さと、忠誠心の高さを持つ刀《ひと》——
「どんな戦場であれ、俺——この長谷部が圧制してご覧にいれますよ、主。ちなみに俺は肉じゃがの肉は豚肉派です」
「ですよねー長谷部さん! 頼りにしちゃいますっ」
名将、織田信長の佩刀——へし切長谷部。お任せを。と応えるその微笑は余裕綽々だった。長谷部さんの態度が気に食わないのか、けっ、とつまらなさそうに兼さんが吐き捨てる。肉じゃがの肉は牛vs豚戦争は、これで五分五分だ。
「つーかよお、オレ達は万屋じゃねーんだぞ。こんな事、お上に適当に任せておけばいいだろ」
ぶっきらぼうに、兼さんが大きく息を吐きながら頭をボリボリと掻く。次いで、おや? といった感じに歌仙さんが
「仮にもお上のお目付け役の刀《きみ》がそれを言うなんて、滑稽なものだね」
「オレ達の本分じゃねーって言ってるんだ」
兼さんの言う事は一理ある。だが、「歴史修正主義者が関わってたら見過ごせないっしょ」とそれらしい事を言ってみる。
「ボク達だけで片付けちゃうから、兼さんは本丸に帰っててもいいよ?」
わたあめのようなふわふわとした甘い声で、ずいっと兼さんの前に、華奢な柔肌を包むミニスカートをひらりとなびかせてちょこんと立つ、まさに可愛らしいという言葉が〝刀剣男士〟一、似合う、細川の短刀——乱藤四郎——
「誰もやらねえとは言ってねえだろ。一応、仕事だからな」
「素直じゃないなー」
「ほんとほんとー」
ねー、とランと顔を合わせて面白おかしく声を揃える。
「お前が余計な事しねえよう、おもり役がいねえとな?」
「誰がいつ余計な事したのさ」
「今のこの状況は誰が元凶か、わかってねえようだしな」
「えみだって言いたいのか」
「わかってんじゃねえか」
「じゃあとっとと本丸にお帰りくださーい! お帰りはあちらになりまーす!」
少しむかついたのであたるように、テーマパークのキャスト宜しくオーバー気味に、ビシッと真っ直ぐに腕を来た道に向かって差し出す。
「だからおもり役がいねえとなって言っただろ」
「別に兼さんいなくたってなんとかなるし」
「おおテメェ言ったな! あとで泣きついても知らねえぞ」
「泣いて謝るの間違いじゃね?」
こうしてマウス・ファイト、ラウンド2の火蓋が切って落とされるのであった。
「貴様達……」
「まあまあ、落ち着きとおせ。あの二人の喧嘩は今に始まった事じゃないぜよ」
ひょうひょうとした声が、青筋を立てて今にも斬りかかりそうな歌仙さんにかけられる。少し古めかしい着物をラフに身にまとい、腰には打刀と拳銃——土佐弁が特徴的の、坂本龍馬の佩刀——陸奥守吉行。
「それに、よう言うちや。『喧嘩するほど仲が良い』って」
「「仲良く」」「ねえ」「ない」
「息ぴったしじゃ」
「揃えてくんなよ」
「お前が揃えにきてるんじゃねえの?」
優越感でも感じているのかまたも小癪な笑みを浮かべてえみを煽っていく。兼さんの、こういう大人げないところが腹が立つんだ。
「兼さんと同レベルに見られてるなんてマジショックなんだけど」
「あ゛?」
兼さんの、凄みを利かせた声のあと、数分前にも聞いたゴンッとココナッツの割れるような鈍い音が一回目のときよりも大きく響いた。これはさすがに割れたんじゃないだろうか。兼さんは殴られた頭を手で押さえながら痛みにぷるぷると小刻みに震えていた。声が出ないようだった。少し縮んだか?
「……ってえなあ〜!」
「斬り捨てられなかっただけ有り難いと思え」
シュウウ……と歌仙さんは冷静な面持ちの反面、青筋を立て鋼のように固く握り締められた右拳から煙が出ている……ように見えた。その凄まじさに、さすがにえみも反省して、収縮する。話は変わって、
「それにしても、わざわざ主がいくさばに赴かなくてもよかったんじゃないかい?」
歌仙さんの言うとおり、えみが死地までわざわざ足を運ぶ事はない。遠く離れた場所——主に本丸——からでも連絡は取り合えるし、えみが実際にみんなと一緒に行動して得られるメリットといえば、審神者から刀剣男士に送る霊力の供給がしやすくてみんなが少し強くなるぐらいで、戦う力も何もないえみが狙われるデメリットのほうが大きい。刀剣男士と違って生身の人間の肉体は時空の圧がかかって時間旅行に適していないし。それでもわざわざ赴く理由があったのは、
「んー、勘……ですかね」
「審神者さまお得意の第六感とかいうやつか」
ちょっと鼻につくような物言いで兼さんが言う。
「ちょっと気になるっていうか……気のせいだったらいいんですけど」
「主の勘は、よお当たるき。舐めてかからにゃあいかんちや」
よっちゃんが一言そう言うと、みんなは頷いてくれた。兼さんを除いて。さすがは坂本龍馬の佩刀と言うべきか。みんなをまとめあげるのが上手い。
「主は俺がお守りしますよ。たとえ首ひとつだけになろうとも。ご安心を」
ふっ、と相変わらず余裕を持った笑みで返されるが、さすがに首ひとつだけは怖い……。長谷部さんが言うから冗談に聞こえない……。あはは……と適当に愛想笑いを浮かべるが、きっとこの愛想笑いの裏側を長谷部さんは読み取れない。
そんな道中、雑談をしながら行くと、あっというまに目的地に着いた。人里を離れた森の中に、古びた屋敷が建っていた。人が住んでいる気配は感じられない。いったいいつから無人なのだろう。
「ここか……奇妙なお屋敷ってのは」
「怪しい匂いがぷんぷんじゃあ」
「おばけでそう……」
「付喪神がおばけなど怖がってどうする」
長谷部さんがクールに言い放つ。確かに、付喪神もおばけのたぐいと似たようなものか……?
「だって〜、怖いものは怖いんだもんっ」
そこら辺の女に負けない可愛さでランは怖がる。おどけているのか本気なのか。
「いいおばけじゃったらええのう」
そんなランに陽気に受け答えする優しいよっちゃん。
「雑談はそこまでにして、作戦を立てるぞ」
いかがいたしましょう、主。と長谷部さんが振ってくる。主、とはいってもえみは刀剣男士に戦う力を与えるだけの審神者、ようはお母さん(?)のような感じで軍師ではないので、知識が豊富な歴戦の隊長に任せておくべきだろう。
「隊長の長谷部さんに任せます」
「承知しました。——偵察の得意な二口が先導し、のちに三口が突入せよ。俺は外部からの襲撃に備えて主の護衛に回る」
「はーい」
「わかりましたっ」
指名を受けたランと兼さんの相棒であり助手気質の堀川くん——土方歳三の脇差——は元気よく返事をする。
「油断するなよ、国広」
「わかってるよ、兼さん。それじゃ、往こうか」乱くん。と堀川くんがランに声をかける。はーい、と羽根のように軽く可愛い声で返事をして、二人は先に屋敷へと向かう。
突入してから十分ほど経った頃だろうか、二人から外の四人に向けられて通信が入った。それを合図に待機していた兼さん、よっちゃん、歌仙さんが続けて乗り込む。外には、えみと長谷部さんの二人だけになった。
「……」
「……」
妙な沈黙が続く。思えば、こうして長谷部さんと二人きりになるのは審神者に着任して以来、初めてではないだろうか。なんだか、妙に落ち着かない。溢れでる威圧感たっぷりのオーラがひしひしと肌に伝わる。これが織田信長(の刀)のオーラなのだろうか。いつもえみに対しては堅実な態度でいるから、改めて長谷部さんという人物(刀?)を確認させられる。
「いかがされましたか、主?」
不意に呼びかけられて、ドキッと鼓動が高鳴る。緊張しているのがバレただろうか。慌てて話題を逸らす。
「あ、いえ、その、みんな大丈夫かなーって」
「心配なさらずとも、主が叙任した刀達なので大丈夫でしょう。もし、不易な結果が出た場合には俺が手討ちにしましょう」
爽やかスマイルでなんて事を言うんだこの人は。だめだ、長谷部さんと会話をするとなんだか怖くなってしまう。また長谷部さんに一切悪気がないっぽいのがつらい。口を閉じると、長谷部さんも黙ってしまって、また妙な沈黙が流れる。わがままなのはわかっているが、早くみんな戦いを終らせてとっとと帰ってきてくれ。そう願った矢先、正面玄関から、ひょこっと人影が出てきて、こっちに近づいてくる。戦闘の終わったみんなが、ランをはじめにそぞろと出てきた。ナイスタイミング。心の中でガッツポーズをしている事は、長谷部さんは知りえないだろう。
「お疲れさま、みんな。大丈夫? 誰も怪我してない?」
「大丈夫だよ。ラクショーだったっ」
ぶいっと星が飛びそうに勝利のVサインを可愛く出すラン。
「ほらな、オレがいたから楽勝だったろ?」
ふふん、と兼さんが天狗っ鼻を伸ばして腕を組んで偉そうに言う。
「兼さん足引っ張らなかった? 大丈夫?」
「ちょっとひっぱってたかも」
おどけた様子でランがそう言う。
「てめえらな〜」
任務も無事にこなし、あとは本丸に戻って政府に報告するだけ。長谷部さんがその主旨を伝えると、ランが
「えー、せっかく早く終わったんだから、もうちょっと町を見て回りたいなー。ね、あるじ。いいよね。ご褒美として」
ランの言うとおり、思っていた時間より早く終わってしまって、まだ時間の余裕もあるので、町を見て回るのもいいような気がした。遊びに来たわけではない、と長谷部さんの釘を刺す言葉に、
「まあー、ちいとくらいえいが? たまにゃあ羽根を伸ばしても」
「よっちゃん、話がわっかるうー」
「この時代の茶器を見て回るのもいいかもしれないな」
歌仙さんもその気だ。よしよし、いい感じだ。
「お前らなあ……——うしっ、そうと決まれば各々解散だ! 一刻経ったらこの場所に戻ってくるように。解散!」
なぜか兼さんが仕切って各々自由時間となった。兼さんが一番乗り気じゃなかったんじゃないか……。まあ、いっか。
「あるじ、さっき可愛い織物屋さん見つけたんだ。行こっ」
嬉々とする手に引かれて、ランと、付き添いの長谷部さんと町中へ繰り出した。
色とりどりの工芸品や、色彩豊かな織物を見て、目から星を飛ばしそうなほどキラキラと輝かせてランはウィンドウショッピングを楽しむ。その光景に、思わずふふっ、と顔がほころんだ。こうしてみると本当に普通のおん……ごほん、〝男の子〟に見える。ふと、思い出す。ランは——ラン達は、〝刀剣男士〟だという事を。歴史修正主義者の手から歴史を守るために力を与えられた付喪神、刀剣男士——。見た目はえみと同じ人の形をしているのに、普通の人みたいに好きなときに買物をしたりする事はないんだな……。少し、切ない気持ちに駆られるが、ランが明るい声でえみを呼びかけると、なんだかどうでもよくなってしまって、考える事をやめた。
……そして、話は変わるのだが、えみの一歩引いたところで状況を見守る長谷部さんの視線が気になってしまう。
「あのー……長谷部さん」
「はい、財布ですか?」
「いやいや、その……長谷部さんも好きなところ見て回ってきていいですよ?」
「ええ、主の行く場所が俺の行きたい場所ですから」
まいった。……予想はしていたが。長谷部さんがついてくるのは嫌ではない。……嫌ではないが、ちょっと気になる。それに、みんなそれぞれ好きに自由行動してるのに、長谷部さんだけえみに付き合わせるのも申し訳ないなあと。そもそもえみがみんなと同行しなければこうならずに済んだので、少し寂しいが、本当に申し訳ない。長谷部さんにも息抜きしてほしい。
「せっかくあるじがこう言ってくれてるから、お言葉に甘えちゃえば?」
えみの心情を察したのか、はたまた単純になのか、ランがフォローするように渡し船を出してくれた。しかし、ランの一言で揺らぐような頭の柔らかい長谷部さんではない。長谷部さんが忠実である主のえみの言葉にさえ揺らがないのだから。一所懸命、てこでも動かなさそうな長谷部さんをどう言って動かすか、いろいろと足りない脳みそで考えていると、見兼ねたのか察したのか、ランが
「長谷部さん、オンナノコの気持ちわかってないナイ。あるじだってオンナノコなんだから、ずっと見られるのは恥ずかしいんだよ」
……まあ、遠からずも当たらず、といったところだ。すると初めて長谷部さんが、ぐっ、と唸った。意外と効いてる……? だが、そこは長谷部さん。ただじゃ引かない。
「それを言うなら、お前だって俺と同じ条件なはずだが?」
「えっ、こんなボクを長谷部さんと一緒にするの? ね、あるじ?」
ちら、とえみのほうに視線を向けてパスを渡す。そんな、急に振られても困ってしまう。だが、ここは今だけランの味方につく。少し強引な気もするが、意志の固い長谷部さんには強気で推さないと思いが通じない。えみの同意にたじろぐ長谷部さんは、えみへの忠誠心と、プライドのあいだで葛藤していた。しばらくしてから、短い息を吐くと
「……そういう事ならば、仕方ありませんね。では、一時、お暇をもらいます」
ぺこり、と頭を下げる長谷部さん。よし、なんとか言いくるめられた。ランの協力(?)もあってみんな無事にそれぞれ単独行動させられる事ができた。ラン、見事なファインプレー。長谷部さんを見送ったあと、ランに引き連れられて店を回った——。
「ボク、向こうのほう見てくるね」
ふわっ、と可愛いレースのスカートを風に揺らして二軒先の商店に向かった。いつもより足取りが軽く見えるのは、楽しいからだろうか。ランの背中越しに、ふっ、と顔が綻んだ。さて……えみももう少し見て回ろうかと首を回したら、ころころ……と、鮮やかな刺繍が施された鞠が風に吹かれて転がっている。のが目に映る。
「まってー」続く、高い子供の声。えみは瞬時に理解した。……えみでなくとも大多数の人が理解できるだろうが。子供が鞠で遊んでいたところ、何かの拍子に手からすり抜けて転がっていってしまったのだろう。鞠と子供の追いかけっこだ。困っている子供がいる、助けなきゃ、と心が思うその前から、身体は子供から逃げる鞠を追っていた。
転がる鞠はえみから近かった事もあり、すぐに追いつき、鞠を拾うと「はい、どうぞ」と鞠を追いかけていた子供に手渡す。子供は、ぱあっと笑顔の花を咲かせて「おねえさん、ありがとう!」とえみにお礼を言う……
はずだったのだが、けしっと道行く人が踏み出した足に運悪く鞠が当たってしまい、鞠は更に遠くへ逃げていってしまった。やれやれ……ともう一度あとを追って手を伸ばす……が、ぽんっと先にいた女の人の歩く足に蹴り飛ばされて、もっと遠くへと逃げてしまう。どうしてこうも当たりがいいというか、悪いというか。鞠のなかに悪戯好きな小鬼でも入っているんじゃないかと疑ってしまう。こうなったら意地でも取り返す、とえみは夢中になって転がる鞠を追いかけた。
ようやく鞠に追いつく。まったく、思っていたよりも時間がかかってしまった。さてさて、と捕らえた鞠を持って子供がいる方向へ振り返ったら……——あれ? ここはどこ?
……まずい。鞠を深追いしてたら知らないところへときてしまった。鞠を返そうにも、あの子供はいない。まずい、非常にまずい。
(落ち着け、えみ……大丈夫……ラン達からはそう遠く離れてないはず。落ち着いてきた道を戻ればいいんだ早いとこ戻らないと——)歌仙さんに怒られる。
ぶっちゃけ、迷子は慣れているからいいのだ。しかし、迷子になった事によって叱られるのが嫌だ。特にお小言が好きな歌仙さんに叱られるのが容易に想像できる。なので、なるたけ彼らに迷子になったという事実を隠蔽して元の場所へ戻らないと。何、ただきた道を寸分違わず辿ればいいだけの話だ。入学したての小学生でもできる。
……などと思考を巡らせてはいるが、見知らぬ土地で一人になった不安や寂しさを懸命に紛らわせるための単なる虚勢な事は、認めたくないが完全に否定もできない。大人にさしかかろうとしている中学生が迷子になって寂しいだなんて……笑われるに決まってる。誰に? もちろん、あの傲慢で人を煽るのが大好きな和泉守兼定とかいう奴にだ。迷子になっているのを知られたら、「やっぱりお目付役がいねーと駄目じゃねーか。オレがいなくて泣いてたんじゃねーか? ん?」と口の端を釣り上げて、この上なく愉しそうにえみを煽ってくるだろう。簡単に想像できる。それくらい大人げない男なのだ。……一応、刀剣男士内では最年少のほうに入るみたいだが、それはそれ、これはこれだ。そもそも、時間に対する価値観が違う。向こうは百年以上を生きる付喪神、こっちは寿命が八十年と言われる人間——人の一年など、向こうにとったら一瞬でしかないのだ。
とにかく、特にあの人に見つからないように、鞠を子供の元へ返しに行かないと——
「おい」
「びゃあ!」
「うおっ! ——変な声上げんなよ。心臓に悪いじゃねーか」
声が飛んできたほうに振り向けば——奴がいた。よりにもよって一番見つかりたくなかったあいつに。兼さんに。
「何してんだ、そんなとこで。お前一人か?」
「なに? 一人でいちゃいけねーの? 何してたっていいじゃん」
「いや、悪いとは言ってねーじゃねえか……、」えみの当たりが普段よりちょっと冷たいのに一瞬戸惑う様子を見せながら、何かを察したように、兼さんの目がちょっと伏し目がちになり、右側の口角が嫌らしく釣り上がる。
「ははーん、さては、お前……まい「迷子じゃねーよ散策だよ」
「人の台詞に被せにくんな。……他の奴らはどうした。お前一人で単独行動か。ろくすっぽに道もわからねえのに? こんな何もねえところにか?」
「うるっせーなあ、もー! 散策だっつってんだろ! えみ一人で行動しちゃいけねーのかよ! 過保護か!」
ほらきた。和泉守兼定の伝家の宝刀おちょくり。まさに予測していたとおりで、逆に面白みにかけるというか……ではなく、純粋に腹が立つ。だから会いたくなかった。そもそもどうしてこんな何もないようなところまできて、運悪くばったり鉢合わせするか……。ああ、ツイていない。
「……あれ、そういえば兼さんも一人? 堀川くんは?」
いつもならカルガモの親子のように横にぴったりとくっついている兼さんの保護者の堀川くんがいない。兼さんは「置いてきた」と言った。……随分と自分勝手な兼さんだ。聞けば、本丸のみんなにお土産を買っていきたいらしく、付き合わされるのが面倒な兼さんは堀川くんとは別行動をとった、という。堀川くんもそれに了承しているらしいが……。なんというか、堀川くんも苦労するな……と。
兼さんが一人だった真相はさておいて、鞠を子供のところに早いとこ届けなくては。いったい自分がどこまできたかわからないが、多分、そう遠くまでは離れていないはず。素直にきた道を辿っていけばいいだけだ。
「つーかお前、なんで鞠なんて持ってるんだ」
兼さんの鋭い(?)指摘に、ぎくっと肩が硬直する。えみは適当に笑ってはぐらかす。もし、ありのままを話してみろ。呆れられてくどくどと嫌味をふっかけられるに違いない。
「……どうせお前の事だ、子供が遊んでどっかに飛ばした鞠を探してたかしたんだろ」
「な、なんでわかるの!」
やっぱりな、と兼さんは息を吐く。しまった、カマをかけられた。まんまと乗ってしまった……。こういうときに限って自分の警戒心の無さが嫌になる。
「おら、行くぞ」
兼さんはふわりと自慢の浅葱色の羽織をなびかせて、きた道とは反対の方向へ歩いていく。え? とえみは一瞬、呆気にとられる。歩いていた兼さんの足がぴたりと止まり、えみのほうへと体を少し向けた。
「なに鳩が豆鉄砲食らったような顔してんだ。とっとと戻らねえと見失っちまうぞ」
兼さんの言葉に慌ててえみは兼さんのうしろについていく。妙なところで優しいんだから……。いや、これは優しさというのか? 多分、当たり前の行動なんだろう。えみだって逆の立場だったら、きっと同じ事をした。まあ、相手が兼さんだったら、どうかなー? といったところだろうが。えみの心情が兼さんに悟られる事もなく、見覚えのある大通りへと辿り着いた。兼さんが鞠の持ち主について聞いてきたので、あらかた特徴を伝えていたら、
「おねえちゃーん」子供の声が耳に入る。——鞠の子供だ。えみの元へ一目散に駆け寄ってくる。よかった、まだいた。近くまできた鞠の子供は、えみの隣にいる兼さんを見るや否や、固まってしまった。急にこんな大きくて派手な男の人がいたら、そりゃあびっくりするよな。子供を怖がらせないように兼さんを促して、
「はい、どうぞ」鞠を手渡す。兼さんの迫力に固まっていた子供は、途端に花が咲いたように表情が柔らかくなった。
「ありがとう、おねえちゃんっ」
その、日向に咲く温かい花のような笑顔に、えみのなかの花が咲く。鞠の子供の駆けていく背中を見送り、ミッション完了。さて、集合まではまだ時間があるし、軽くウィンドウショッピングの続きといこうかなと、隙間時間をどう過ごすか考えているなか
「んじゃあ、時間になったらきっちり戻ってこいよ。あとは一人でどうぞご自由に」
妙に癪に障るような言い方で、ひらひらと手を軽く振りながら、兼さんはどこかへ行ってしまう。子供に怖がられたのがショックだったんだろうか。まあ、ちょっとだけ同情する。本当にちょっとだけ。時間まで一人でどこに行こう…………待てよ。一人で? 知り合いも誰もいない、初めてのこの土地で、一人で? それは——まずい。
「待って待って! 兼さんストップ!」
急いであとを追いかけて兼さんを引き止める。あ? と兼さんは、なんだといった感じで振り返った。
「兼さん、道、わかるの?」
「まあ、何度かきてるからなあ」
「へえー……。一人でどこ行くの?」
「どこだっていいだろ。……なんだ」
言うと、兼さんの片方の口角が、にまりと吊りあがって、お馴染みのしたり顔ができあがる。うわ、人を小馬鹿にする準備万端だ。
「そんなにオレの事が気になるのか。照れなくていいぜ、オレは人を魅了しちまうほどかっこ良いからなあ」
「すごーい、カッコイイですねー(裏声)(棒読み)」
「バカにしてんのか」
心ここにあらずといった感じで空返事すると、案の定、兼さんは怒った。かっこ良い自慢は、もう耳がタコに、いやそれを超えて火星人になるほどに聞いた。聞き飽きた。田舎に帰るたびに、婆ちゃんが「婆ちゃんの若い頃は、コロッケが十円で〜」と今の豊かさを象徴する昔話ぐらい。こういうときは適当に相槌を打っておけばいい。田舎の婆ちゃんから学んだ。それはさておいて、えみが一人になってしまうと、非常にまずい事になってしまう。えみが。自慢じゃないが、えみ一人では集合場所に行けない自信がある。道がわからないからだ。今、頼りの綱は兼さんしかいない。ここで逃してしまえば、ジ・エンド。悔しいが、兼さんに頼るしか生き残る道はない。だけど、頼って、兼さんの天狗っ鼻を伸ばすのはムカつくから、悟られないように取り入るしかない。
「んな遠回しに言わなくたって、素直に『道がわからないので、一緒についてきてください。和泉守兼定様』っていやあいいじゃねえか」
「なんでそれを!」
「態度で見え見えなんだよ、お前は」
必死に悟られないようにひた隠しにしていたのも、兼さんに筒抜けだったのか……。いったいえみは何を頑張っていたんだ……。それでも、兼さんの言うとおりに行動するのはなんだか負けた気がするし、何より最後の『和泉守兼定様』はいらないだろう。この兼定、調子に乗っている。言うのを渋っていると、短気な兼さんは早くも痺れを切らしてえみを置いて立ち去ろうとした。慌てて引き戻す。
「なんだよ、お願いする気になったか」
「誰が」
「そうか、邪魔しちゃ悪りいな」
「一緒に連れてってください和泉守兼定様!」
もうやめだ。負けた負けた。つまらない意地を張って路頭に迷ったらそれこそ笑えない。こっちが折れる事によって円満解決するのならそれでいいじゃないか。「よろしい」と非常に愉しそうに勝ち誇ったドヤ顔を見せる兼さんに、心底奥歯をギリギリと噛み締めながらも、また一つ、えみは成長したと思う事で心の安寧を保った。そうだ、えみはまた一歩、大人への階段を上がったのだ。大人なえみは子供な兼さんに先導させて大通りをぷらぷらと歩く。
「——あ、待って兼さん。あのお菓子、みんなに買っていくから」
「あ? いつでも買いにこれるだろうが」
「それはそうだけど……いいの。えみがみんなに買っていきたいの」
兼さんの言うとおり、遠征先で買いにこられるだろうけど、いつももらってばっかりだから、たまにはみんなにあげたい。いつも戦ってもらっているから、えみができる事はしてあげたい。目についた人形焼きを売っている甘味どころに立ち寄って、一人一個分の人形焼きを包んでもらう。
たとえ一人一個分でも、大世帯となればもの凄い数になるわけで、個数を聞いたお店の人は目をひん剥いていた。ついでに食べ歩く用で、さらに一個を追加する。甘いものはあまり得意ではないけれど、現代と変わらない、だけど懐かしいお母さんのような優しい甘いかおりにつられて、つい。
はぐっ、と一口かじると、焼きたての心にしみる温かさとほのかな甘さが歩き疲れた身体に癒やしを与えてくれる。夢中でかぶりついていると、兼さんがこっちを見ていたのに気づいたので「……あげないぞ」と念を押すと、いらねーよ、と突き返してきた。少しはえみみたいに素直になればいいのに。やり取りしている最中、また素敵なお土産が目についたので店に立ち寄る。兼さんがああだこうだ言おうが、お金はいっぱい持ってきたから大丈夫だし、今のえみを止められるのは自転くらいなものだぜ。
「……重い」
修学旅行で気分がノッた学生みたいに、あれやこれやと買ったおかげで両手いっぱいほどの荷物になってしまった。
「だろうな」
「なんで言ってくれなかったんだよ」
「言ったところで、お前がオレの言う事を聞いた事が一度でもあったか?」
「あるよ。何回かは」
「片手で数えられるほどじゃねえか」
そうだとしても気づいていたなら止めるべきではなかったのか? 確かに自制が利かないままあれやこれやと買い漁ったえみにも問題がある。いや、えみにしかないのだが……、とにかく、ずっと傍にいたなら一声くらいかけてほしいと思うのは我儘だろうか。両腕に伝わる重さが、持っている、パンパンに膨らんだ手提げ袋の、見た目以上に重さを感じた。これでは本丸に着くまでにせっかく買ったお土産たちとえみの腕が亡きものになってしまう。……頼むのは気が引けるが、兼さんに帰る途中でこまめに休憩を入れてもらえるようにお願いしよう。自分が撒いた種だから頼むのは本当に気が重いが——
パッ、とえみが握りしめていたパンパンの手提げ袋が、そのとき兼さんの手に移り渡った。……というよりも、実際は「貸せ」とはんば奪い取るような形で兼さんが持っていったのだが。あれ? と首をかしげている間もなく、「ちんたら歩いてんな」と神経を逆撫でる事を言って歩き始めたので、兼さんに強奪された手提げ袋を取り返そうと反撃してみるが、まるで猫とじゃれるように紙一重でひょいひょいとかわされてしまう。
えみが持っているだけでも体力を奪われる重さの手提げ袋なのに、兼さんは中身の入ってない紙袋でも持っているのかと言わんばかりに軽々と持ち上げている。ムカつく。兼さんも兼さんでえみを面白おかしく弄んでいるのだろう。だって、ちょっと横顔がえみをなじるときのように浮わついた顔をしている。この兼定は……、と心の中でぼやきつつ、結局荷物を預けたままにする。えみが持って歩くよりも兼さんが持って歩いた方が早いからだ。一理あるからだ。
重たい荷物を左手からぶら下げている、のにも関わらず、兼さんの歩く早さはまったく落ちない——歩幅の関係もあるが——。兼さんがチャキチャキ歩く早さに対して、こちらが少し早歩きにならないと横に並べない。
「ちょっと兼さん歩くの早くない?」何の気なしに呟いたのだけれど、
「お前が遅いだけ……ああ、悪かった。オレの足が長いせいだな」
息を吸ったり吐いたりするように嫌味が吐かれる。この兼定は本当に人の腹を立てるのが上手いな。癇癪起こし大会があれば間違いなく優勝して嫌らしいほどに金ぴかに光る金メダルをあげているところだろう。言い合ったあと、しばらくは無言だった。意地悪な男《ヤツ》だ、と腹のなかで考えていると、急に兼さんが歩みを止めるものだから、危うく兼さんにぶつかりそうになる。首を傾げそうになりながら不思議な目で兼さんを見ていると、兼さんはこちらに振り返って、
「ほら」
右手を差し出してきた。——これは、つまり、兼さんが差し出した右手を、えみの左手と重ねろ、と……?
——無理だ。父親以外の男の人と手を繋ぐなんて小学生の運動会のとき以来で、率直に言うと凄く恥ずかしい。だが、そんな事が言えるはずもない。言ったところで茶化しにくるに決まっている。というか、自分の弱い面を晒してしまうようで、弱い自分を見られるのがとても嫌だ。特に、この人には。
「いや、いいよ。一人で歩けるし」
「なーに強がってんだよ。——あー、もしかして」したり顔で笑って
「テレてんのか?」
「ちげえよ!」
思わず語気を強めて否定してしまった。図星なのがバレバレだ。ぶっきらぼうな兼さんのくせにこういうときばかり妙に的確に指摘して……。確信犯なのだろうか。いずれにしろ、えみに兼さんの腹のうちはわからない。
「えみは遅いから、合わせなくたっていいよ。先に帰ってれば?」
言ってから、少し冷たい事を言ってしまったな、と気づいたがとき既に遅し。どうにも兼さんと喋ると言葉を選んでいる暇もなしに思った事を口走ってしまう。特に辛辣系統が。でも、実際兼さんのほうが足も早くて力もあるのだから、無理にえみに合わせようとせずに先に荷物を持っていってもらったほうが合理的だ。えみに合わせたら余計な負担がかかってしまう。えみで負担をかけさせたくない。えみにだってちゃんと考えがある。無鉄砲に言っていない。……でも、えみの言葉を否定して一緒に隣を歩いてくれるのを期待して待ってしまっている。兼さんは一呼吸置いてから
「そーかい。じゃあお言葉に甘えて先に帰ってるよ。道草食うなよ」
ナチュラルに、惜しむ様子も見せず、あっさりと、えみの言葉を素直に受け入れて歩くスピードを早めた。
「ちょお、マジで帰るのかよ! っつか早っ」
少しでも期待するとこれだ。いつも裏切られる。えみは馬鹿だ。慌てて駆け出して兼さんの背中を追う。追ったのはいいが、足を取られてつまづいてしまう。急な事に反応できずにバランスを崩して地面へと倒れていく。咄嗟に、目を固く瞑った。
どさっ——と何かに支えられる衝撃。痛くはない。地面の感触ではない。そーっとゆっくり目を開けて確認してみたら、臙脂色に染まった着物から伸びる、たくましい腕がえみの体を支えていた。
「……大丈夫か」
兼さんの喋った吐息を感じられるほど兼さんの顔が近くにあって、間近に見たらそれはもうあれだけ自負するほどに整った顔立ちをしていて、えみを見つめる晴れた空のような浅葱色の瞳に吸い込まれそうで、
「だっ、大丈夫!」
思わずその救いの手を引き剥がすように兼さんを突き飛ばしてしまう。あ……やってしまった。そう思ったときには兼さんは呆気にとられた顔をしていた。——違うのに。行き場のなくなった右手を適当にぷらぷらと泳がせながら
「次は気をつけて歩けよ。お前はそそっかしいんだから」
また背を向いて歩き出してしまう。勘違いされてしまっただろうか。本当は助けてもらって嬉しかったのに、妙に緊張してしまって思いがけずに突き飛ばしてしまって、失礼にも度があると自分でも理解した。誤解を解かなくては。
「ま……待って……!」
兼さんの袖のたもとをグイッと掴むと、兼さんは歩みを止めてえみのほうに振り返った。
「あ……その……」
勘違いされたままは嫌だから。何より助けてもらった恩を受けっぱなしにするのは嫌だから。そう、これはただの義理。当たり前の事。
「急に突き飛ばしたりして、ごめん、なさい。——あ、ありが、と」
想像以上に言葉が詰まってカタコト気味になってしまった。素直に言葉にだすのはこんなにも難しい事なのか。恥ずかしい。きっと変に思われた。まあいつも思われているだろうが。兼さんは一呼吸置いてから、茶化す事もなく、くるっと首を元の位置に戻して「へーへー」と軽い調子で返事をした。どんな顔だったのかわからない。
なんとなく、掴んだこの手を離したくなくてずっとたもとを握っていたけど、兼さんは何も言わないで握らせてくれていた。見た目に気を遣う兼さんが自慢の一張羅にシワができたら気にするだろうに。
集合場所に戻る途中、ランと長谷部さんの姿が見えたので、パッと掴んでいた兼さんのたもとから手を離した。二人がこっちに気づくと、駆け寄ってきた。心配したんだからね、と気遣ってくれるランに、長谷部さんはえみと一緒にいた兼さんを見るなり、護衛なら自分がしたのに、と兼さんに向かって不平不満を垂らしていた。呆れた様子で長谷部さんに適当に返していた。いい気味だ。みんなたくさんのお土産を持って、転送装置で帰る事とする。
本丸に無事に着くと、その場に居合わせた粟田口の短刀の子達が、おかえりなさいと出迎えてくれた。たくさんのお土産を渡すと、目をキラキラとさせて喜んでくれた。やっぱり、買っていってよかった。
「あ、おかえり。主」と次いで本丸の方から声がかけられる。羽織とマフラーと、同じ色をした深紅の瞳に、丁寧に整えられた黒髪の、えみより少し年上の青年——加州清光——キヨだった。
「燭台切が今、肉じゃが仕込んでるんだけど、味見する?」
何!? 肉じゃが……だと……!? 椅子に座っていたならガタッと立ち上がっていた勢いでえみはその話題に食いついた。ついでになぜか兼さんも一緒になってキヨに迫る。
「その肉じゃがの肉って、」
「牛だよな!」「豚だよね!」えみと兼さんの謎の迫力に気圧されながらも、キヨは思い出しながら答えた。
「えーっと、確か、豚だったよ。それがどうかしたの?」
瞬間、両拳を天に突き上げて、
「っしゃあああああ!!」空に、吠えた。勝利のガッツポーズの弾みで兼さんの顎にアッパーカットがクリティカルヒットし、前の戦闘で無傷だったのに無駄に軽傷を負う事になった。その日の肉じゃがは、いつもより美味しく感じたのは、きっと気のせいではない。
「それでもえみは豚肉派」
「豚とか脂ギトギトで肉じゃがのポテンシャル潰してんじゃねえか。あっさりしてるからいいんだろ」
「じゃがいもに一番合うお肉は豚肉。肉じゃがを食べるならお互いを引き立てあう豚っしょ。牛肉とか個性が強すぎてむしろ浮くじゃん」
「わかってねえなあ。〝肉〟じゃがだぞ? 主役は肉なんだよ。野菜が肉を引き立てる事で調律がとれてるじゃねーか」
「やめたまえ」と歌仙さんの声が割り込んでくる。
「天下の往来で嗜好の悶着など恥ずかしくはないのか」
「だってよぉ、之定、肉じゃがに豚肉だぜ? 絶対牛肉の方が美味いだろ」
「肉じゃがは豚のほうが絶対うまい。牛丼にじゃがいも入ってるようなもんじゃん。じゃが牛丼じゃん」
「牛丼じゃねえ、肉じゃがだ。豚のほうが美味いとかどんな田舎者なんだよ」
「ああ!? 豚をバカにする者は豚に泣くんだぞ!」
「いい加減にしたまえ!」
歌仙さんが耐えきれず吼えるなり、ゴンッ! とココナッツが割れたかのような重低音が兼さんの頭から鳴り響いた。兼さんは歌仙さんの鉄拳を食らった頭を手で押さえて悶えていた。ひゃ〜、とえみはさすがにちょっと、ほんのちょっとだけ可哀想な、あと痛そうな目で兼さんを哀れんだ。
「同じ之定とあろう者が、嗜好についての醜い争いをするんじゃない。雅さの欠片もない」
「へっへーん。歌仙さんも豚肉派ですよね」
「僕は牛肉派だ」
「じゃあなんでオレを殴ったんだよ!」
「歌仙さんの裏切り者ー!」
「うるさい! 君達、そもそもの目的を忘れていないだろうね」
あ、と思わず声を漏らす。こんのすけから政府の指令で今いるこの時代の時間遡行軍との戦闘を終え帰ろうとしたところ、町の人たちの怪しい噂が気になって独自で調査していたのだった。なんでも、とある古びた屋敷に人が行ったきり帰ってこないだとか……。忘れていたわけではない。ただちょっと兼さんとの肉じゃが討論で、すっぽ抜けていただけだ。決して、忘れていたわけではない。まったく、食は人を狂わせる……。
「一応、仕事なのだから、浮かれるのもほどほどにね」
「だってよ」と兼さんがえみに言う。
「なんでえみだけ」
「君にも言っているんだ、和泉守」
へーへー、と適当な調子で兼さんは返す。歌仙さんは、まったく……といった感じで呆れて短いため息をついた。わかる、その気持ち。同情の感情をうちに秘めたまま、それはさておきと会話に参加する、本丸随一の機動力の高さと、忠誠心の高さを持つ刀《ひと》——
「どんな戦場であれ、俺——この長谷部が圧制してご覧にいれますよ、主。ちなみに俺は肉じゃがの肉は豚肉派です」
「ですよねー長谷部さん! 頼りにしちゃいますっ」
名将、織田信長の佩刀——へし切長谷部。お任せを。と応えるその微笑は余裕綽々だった。長谷部さんの態度が気に食わないのか、けっ、とつまらなさそうに兼さんが吐き捨てる。肉じゃがの肉は牛vs豚戦争は、これで五分五分だ。
「つーかよお、オレ達は万屋じゃねーんだぞ。こんな事、お上に適当に任せておけばいいだろ」
ぶっきらぼうに、兼さんが大きく息を吐きながら頭をボリボリと掻く。次いで、おや? といった感じに歌仙さんが
「仮にもお上のお目付け役の刀《きみ》がそれを言うなんて、滑稽なものだね」
「オレ達の本分じゃねーって言ってるんだ」
兼さんの言う事は一理ある。だが、「歴史修正主義者が関わってたら見過ごせないっしょ」とそれらしい事を言ってみる。
「ボク達だけで片付けちゃうから、兼さんは本丸に帰っててもいいよ?」
わたあめのようなふわふわとした甘い声で、ずいっと兼さんの前に、華奢な柔肌を包むミニスカートをひらりとなびかせてちょこんと立つ、まさに可愛らしいという言葉が〝刀剣男士〟一、似合う、細川の短刀——乱藤四郎——
「誰もやらねえとは言ってねえだろ。一応、仕事だからな」
「素直じゃないなー」
「ほんとほんとー」
ねー、とランと顔を合わせて面白おかしく声を揃える。
「お前が余計な事しねえよう、おもり役がいねえとな?」
「誰がいつ余計な事したのさ」
「今のこの状況は誰が元凶か、わかってねえようだしな」
「えみだって言いたいのか」
「わかってんじゃねえか」
「じゃあとっとと本丸にお帰りくださーい! お帰りはあちらになりまーす!」
少しむかついたのであたるように、テーマパークのキャスト宜しくオーバー気味に、ビシッと真っ直ぐに腕を来た道に向かって差し出す。
「だからおもり役がいねえとなって言っただろ」
「別に兼さんいなくたってなんとかなるし」
「おおテメェ言ったな! あとで泣きついても知らねえぞ」
「泣いて謝るの間違いじゃね?」
こうしてマウス・ファイト、ラウンド2の火蓋が切って落とされるのであった。
「貴様達……」
「まあまあ、落ち着きとおせ。あの二人の喧嘩は今に始まった事じゃないぜよ」
ひょうひょうとした声が、青筋を立てて今にも斬りかかりそうな歌仙さんにかけられる。少し古めかしい着物をラフに身にまとい、腰には打刀と拳銃——土佐弁が特徴的の、坂本龍馬の佩刀——陸奥守吉行。
「それに、よう言うちや。『喧嘩するほど仲が良い』って」
「「仲良く」」「ねえ」「ない」
「息ぴったしじゃ」
「揃えてくんなよ」
「お前が揃えにきてるんじゃねえの?」
優越感でも感じているのかまたも小癪な笑みを浮かべてえみを煽っていく。兼さんの、こういう大人げないところが腹が立つんだ。
「兼さんと同レベルに見られてるなんてマジショックなんだけど」
「あ゛?」
兼さんの、凄みを利かせた声のあと、数分前にも聞いたゴンッとココナッツの割れるような鈍い音が一回目のときよりも大きく響いた。これはさすがに割れたんじゃないだろうか。兼さんは殴られた頭を手で押さえながら痛みにぷるぷると小刻みに震えていた。声が出ないようだった。少し縮んだか?
「……ってえなあ〜!」
「斬り捨てられなかっただけ有り難いと思え」
シュウウ……と歌仙さんは冷静な面持ちの反面、青筋を立て鋼のように固く握り締められた右拳から煙が出ている……ように見えた。その凄まじさに、さすがにえみも反省して、収縮する。話は変わって、
「それにしても、わざわざ主がいくさばに赴かなくてもよかったんじゃないかい?」
歌仙さんの言うとおり、えみが死地までわざわざ足を運ぶ事はない。遠く離れた場所——主に本丸——からでも連絡は取り合えるし、えみが実際にみんなと一緒に行動して得られるメリットといえば、審神者から刀剣男士に送る霊力の供給がしやすくてみんなが少し強くなるぐらいで、戦う力も何もないえみが狙われるデメリットのほうが大きい。刀剣男士と違って生身の人間の肉体は時空の圧がかかって時間旅行に適していないし。それでもわざわざ赴く理由があったのは、
「んー、勘……ですかね」
「審神者さまお得意の第六感とかいうやつか」
ちょっと鼻につくような物言いで兼さんが言う。
「ちょっと気になるっていうか……気のせいだったらいいんですけど」
「主の勘は、よお当たるき。舐めてかからにゃあいかんちや」
よっちゃんが一言そう言うと、みんなは頷いてくれた。兼さんを除いて。さすがは坂本龍馬の佩刀と言うべきか。みんなをまとめあげるのが上手い。
「主は俺がお守りしますよ。たとえ首ひとつだけになろうとも。ご安心を」
ふっ、と相変わらず余裕を持った笑みで返されるが、さすがに首ひとつだけは怖い……。長谷部さんが言うから冗談に聞こえない……。あはは……と適当に愛想笑いを浮かべるが、きっとこの愛想笑いの裏側を長谷部さんは読み取れない。
そんな道中、雑談をしながら行くと、あっというまに目的地に着いた。人里を離れた森の中に、古びた屋敷が建っていた。人が住んでいる気配は感じられない。いったいいつから無人なのだろう。
「ここか……奇妙なお屋敷ってのは」
「怪しい匂いがぷんぷんじゃあ」
「おばけでそう……」
「付喪神がおばけなど怖がってどうする」
長谷部さんがクールに言い放つ。確かに、付喪神もおばけのたぐいと似たようなものか……?
「だって〜、怖いものは怖いんだもんっ」
そこら辺の女に負けない可愛さでランは怖がる。おどけているのか本気なのか。
「いいおばけじゃったらええのう」
そんなランに陽気に受け答えする優しいよっちゃん。
「雑談はそこまでにして、作戦を立てるぞ」
いかがいたしましょう、主。と長谷部さんが振ってくる。主、とはいってもえみは刀剣男士に戦う力を与えるだけの審神者、ようはお母さん(?)のような感じで軍師ではないので、知識が豊富な歴戦の隊長に任せておくべきだろう。
「隊長の長谷部さんに任せます」
「承知しました。——偵察の得意な二口が先導し、のちに三口が突入せよ。俺は外部からの襲撃に備えて主の護衛に回る」
「はーい」
「わかりましたっ」
指名を受けたランと兼さんの相棒であり助手気質の堀川くん——土方歳三の脇差——は元気よく返事をする。
「油断するなよ、国広」
「わかってるよ、兼さん。それじゃ、往こうか」乱くん。と堀川くんがランに声をかける。はーい、と羽根のように軽く可愛い声で返事をして、二人は先に屋敷へと向かう。
突入してから十分ほど経った頃だろうか、二人から外の四人に向けられて通信が入った。それを合図に待機していた兼さん、よっちゃん、歌仙さんが続けて乗り込む。外には、えみと長谷部さんの二人だけになった。
「……」
「……」
妙な沈黙が続く。思えば、こうして長谷部さんと二人きりになるのは審神者に着任して以来、初めてではないだろうか。なんだか、妙に落ち着かない。溢れでる威圧感たっぷりのオーラがひしひしと肌に伝わる。これが織田信長(の刀)のオーラなのだろうか。いつもえみに対しては堅実な態度でいるから、改めて長谷部さんという人物(刀?)を確認させられる。
「いかがされましたか、主?」
不意に呼びかけられて、ドキッと鼓動が高鳴る。緊張しているのがバレただろうか。慌てて話題を逸らす。
「あ、いえ、その、みんな大丈夫かなーって」
「心配なさらずとも、主が叙任した刀達なので大丈夫でしょう。もし、不易な結果が出た場合には俺が手討ちにしましょう」
爽やかスマイルでなんて事を言うんだこの人は。だめだ、長谷部さんと会話をするとなんだか怖くなってしまう。また長谷部さんに一切悪気がないっぽいのがつらい。口を閉じると、長谷部さんも黙ってしまって、また妙な沈黙が流れる。わがままなのはわかっているが、早くみんな戦いを終らせてとっとと帰ってきてくれ。そう願った矢先、正面玄関から、ひょこっと人影が出てきて、こっちに近づいてくる。戦闘の終わったみんなが、ランをはじめにそぞろと出てきた。ナイスタイミング。心の中でガッツポーズをしている事は、長谷部さんは知りえないだろう。
「お疲れさま、みんな。大丈夫? 誰も怪我してない?」
「大丈夫だよ。ラクショーだったっ」
ぶいっと星が飛びそうに勝利のVサインを可愛く出すラン。
「ほらな、オレがいたから楽勝だったろ?」
ふふん、と兼さんが天狗っ鼻を伸ばして腕を組んで偉そうに言う。
「兼さん足引っ張らなかった? 大丈夫?」
「ちょっとひっぱってたかも」
おどけた様子でランがそう言う。
「てめえらな〜」
任務も無事にこなし、あとは本丸に戻って政府に報告するだけ。長谷部さんがその主旨を伝えると、ランが
「えー、せっかく早く終わったんだから、もうちょっと町を見て回りたいなー。ね、あるじ。いいよね。ご褒美として」
ランの言うとおり、思っていた時間より早く終わってしまって、まだ時間の余裕もあるので、町を見て回るのもいいような気がした。遊びに来たわけではない、と長谷部さんの釘を刺す言葉に、
「まあー、ちいとくらいえいが? たまにゃあ羽根を伸ばしても」
「よっちゃん、話がわっかるうー」
「この時代の茶器を見て回るのもいいかもしれないな」
歌仙さんもその気だ。よしよし、いい感じだ。
「お前らなあ……——うしっ、そうと決まれば各々解散だ! 一刻経ったらこの場所に戻ってくるように。解散!」
なぜか兼さんが仕切って各々自由時間となった。兼さんが一番乗り気じゃなかったんじゃないか……。まあ、いっか。
「あるじ、さっき可愛い織物屋さん見つけたんだ。行こっ」
嬉々とする手に引かれて、ランと、付き添いの長谷部さんと町中へ繰り出した。
色とりどりの工芸品や、色彩豊かな織物を見て、目から星を飛ばしそうなほどキラキラと輝かせてランはウィンドウショッピングを楽しむ。その光景に、思わずふふっ、と顔がほころんだ。こうしてみると本当に普通のおん……ごほん、〝男の子〟に見える。ふと、思い出す。ランは——ラン達は、〝刀剣男士〟だという事を。歴史修正主義者の手から歴史を守るために力を与えられた付喪神、刀剣男士——。見た目はえみと同じ人の形をしているのに、普通の人みたいに好きなときに買物をしたりする事はないんだな……。少し、切ない気持ちに駆られるが、ランが明るい声でえみを呼びかけると、なんだかどうでもよくなってしまって、考える事をやめた。
……そして、話は変わるのだが、えみの一歩引いたところで状況を見守る長谷部さんの視線が気になってしまう。
「あのー……長谷部さん」
「はい、財布ですか?」
「いやいや、その……長谷部さんも好きなところ見て回ってきていいですよ?」
「ええ、主の行く場所が俺の行きたい場所ですから」
まいった。……予想はしていたが。長谷部さんがついてくるのは嫌ではない。……嫌ではないが、ちょっと気になる。それに、みんなそれぞれ好きに自由行動してるのに、長谷部さんだけえみに付き合わせるのも申し訳ないなあと。そもそもえみがみんなと同行しなければこうならずに済んだので、少し寂しいが、本当に申し訳ない。長谷部さんにも息抜きしてほしい。
「せっかくあるじがこう言ってくれてるから、お言葉に甘えちゃえば?」
えみの心情を察したのか、はたまた単純になのか、ランがフォローするように渡し船を出してくれた。しかし、ランの一言で揺らぐような頭の柔らかい長谷部さんではない。長谷部さんが忠実である主のえみの言葉にさえ揺らがないのだから。一所懸命、てこでも動かなさそうな長谷部さんをどう言って動かすか、いろいろと足りない脳みそで考えていると、見兼ねたのか察したのか、ランが
「長谷部さん、オンナノコの気持ちわかってないナイ。あるじだってオンナノコなんだから、ずっと見られるのは恥ずかしいんだよ」
……まあ、遠からずも当たらず、といったところだ。すると初めて長谷部さんが、ぐっ、と唸った。意外と効いてる……? だが、そこは長谷部さん。ただじゃ引かない。
「それを言うなら、お前だって俺と同じ条件なはずだが?」
「えっ、こんなボクを長谷部さんと一緒にするの? ね、あるじ?」
ちら、とえみのほうに視線を向けてパスを渡す。そんな、急に振られても困ってしまう。だが、ここは今だけランの味方につく。少し強引な気もするが、意志の固い長谷部さんには強気で推さないと思いが通じない。えみの同意にたじろぐ長谷部さんは、えみへの忠誠心と、プライドのあいだで葛藤していた。しばらくしてから、短い息を吐くと
「……そういう事ならば、仕方ありませんね。では、一時、お暇をもらいます」
ぺこり、と頭を下げる長谷部さん。よし、なんとか言いくるめられた。ランの協力(?)もあってみんな無事にそれぞれ単独行動させられる事ができた。ラン、見事なファインプレー。長谷部さんを見送ったあと、ランに引き連れられて店を回った——。
「ボク、向こうのほう見てくるね」
ふわっ、と可愛いレースのスカートを風に揺らして二軒先の商店に向かった。いつもより足取りが軽く見えるのは、楽しいからだろうか。ランの背中越しに、ふっ、と顔が綻んだ。さて……えみももう少し見て回ろうかと首を回したら、ころころ……と、鮮やかな刺繍が施された鞠が風に吹かれて転がっている。のが目に映る。
「まってー」続く、高い子供の声。えみは瞬時に理解した。……えみでなくとも大多数の人が理解できるだろうが。子供が鞠で遊んでいたところ、何かの拍子に手からすり抜けて転がっていってしまったのだろう。鞠と子供の追いかけっこだ。困っている子供がいる、助けなきゃ、と心が思うその前から、身体は子供から逃げる鞠を追っていた。
転がる鞠はえみから近かった事もあり、すぐに追いつき、鞠を拾うと「はい、どうぞ」と鞠を追いかけていた子供に手渡す。子供は、ぱあっと笑顔の花を咲かせて「おねえさん、ありがとう!」とえみにお礼を言う……
はずだったのだが、けしっと道行く人が踏み出した足に運悪く鞠が当たってしまい、鞠は更に遠くへ逃げていってしまった。やれやれ……ともう一度あとを追って手を伸ばす……が、ぽんっと先にいた女の人の歩く足に蹴り飛ばされて、もっと遠くへと逃げてしまう。どうしてこうも当たりがいいというか、悪いというか。鞠のなかに悪戯好きな小鬼でも入っているんじゃないかと疑ってしまう。こうなったら意地でも取り返す、とえみは夢中になって転がる鞠を追いかけた。
ようやく鞠に追いつく。まったく、思っていたよりも時間がかかってしまった。さてさて、と捕らえた鞠を持って子供がいる方向へ振り返ったら……——あれ? ここはどこ?
……まずい。鞠を深追いしてたら知らないところへときてしまった。鞠を返そうにも、あの子供はいない。まずい、非常にまずい。
(落ち着け、えみ……大丈夫……ラン達からはそう遠く離れてないはず。落ち着いてきた道を戻ればいいんだ早いとこ戻らないと——)歌仙さんに怒られる。
ぶっちゃけ、迷子は慣れているからいいのだ。しかし、迷子になった事によって叱られるのが嫌だ。特にお小言が好きな歌仙さんに叱られるのが容易に想像できる。なので、なるたけ彼らに迷子になったという事実を隠蔽して元の場所へ戻らないと。何、ただきた道を寸分違わず辿ればいいだけの話だ。入学したての小学生でもできる。
……などと思考を巡らせてはいるが、見知らぬ土地で一人になった不安や寂しさを懸命に紛らわせるための単なる虚勢な事は、認めたくないが完全に否定もできない。大人にさしかかろうとしている中学生が迷子になって寂しいだなんて……笑われるに決まってる。誰に? もちろん、あの傲慢で人を煽るのが大好きな和泉守兼定とかいう奴にだ。迷子になっているのを知られたら、「やっぱりお目付役がいねーと駄目じゃねーか。オレがいなくて泣いてたんじゃねーか? ん?」と口の端を釣り上げて、この上なく愉しそうにえみを煽ってくるだろう。簡単に想像できる。それくらい大人げない男なのだ。……一応、刀剣男士内では最年少のほうに入るみたいだが、それはそれ、これはこれだ。そもそも、時間に対する価値観が違う。向こうは百年以上を生きる付喪神、こっちは寿命が八十年と言われる人間——人の一年など、向こうにとったら一瞬でしかないのだ。
とにかく、特にあの人に見つからないように、鞠を子供の元へ返しに行かないと——
「おい」
「びゃあ!」
「うおっ! ——変な声上げんなよ。心臓に悪いじゃねーか」
声が飛んできたほうに振り向けば——奴がいた。よりにもよって一番見つかりたくなかったあいつに。兼さんに。
「何してんだ、そんなとこで。お前一人か?」
「なに? 一人でいちゃいけねーの? 何してたっていいじゃん」
「いや、悪いとは言ってねーじゃねえか……、」えみの当たりが普段よりちょっと冷たいのに一瞬戸惑う様子を見せながら、何かを察したように、兼さんの目がちょっと伏し目がちになり、右側の口角が嫌らしく釣り上がる。
「ははーん、さては、お前……まい「迷子じゃねーよ散策だよ」
「人の台詞に被せにくんな。……他の奴らはどうした。お前一人で単独行動か。ろくすっぽに道もわからねえのに? こんな何もねえところにか?」
「うるっせーなあ、もー! 散策だっつってんだろ! えみ一人で行動しちゃいけねーのかよ! 過保護か!」
ほらきた。和泉守兼定の伝家の宝刀おちょくり。まさに予測していたとおりで、逆に面白みにかけるというか……ではなく、純粋に腹が立つ。だから会いたくなかった。そもそもどうしてこんな何もないようなところまできて、運悪くばったり鉢合わせするか……。ああ、ツイていない。
「……あれ、そういえば兼さんも一人? 堀川くんは?」
いつもならカルガモの親子のように横にぴったりとくっついている兼さんの保護者の堀川くんがいない。兼さんは「置いてきた」と言った。……随分と自分勝手な兼さんだ。聞けば、本丸のみんなにお土産を買っていきたいらしく、付き合わされるのが面倒な兼さんは堀川くんとは別行動をとった、という。堀川くんもそれに了承しているらしいが……。なんというか、堀川くんも苦労するな……と。
兼さんが一人だった真相はさておいて、鞠を子供のところに早いとこ届けなくては。いったい自分がどこまできたかわからないが、多分、そう遠くまでは離れていないはず。素直にきた道を辿っていけばいいだけだ。
「つーかお前、なんで鞠なんて持ってるんだ」
兼さんの鋭い(?)指摘に、ぎくっと肩が硬直する。えみは適当に笑ってはぐらかす。もし、ありのままを話してみろ。呆れられてくどくどと嫌味をふっかけられるに違いない。
「……どうせお前の事だ、子供が遊んでどっかに飛ばした鞠を探してたかしたんだろ」
「な、なんでわかるの!」
やっぱりな、と兼さんは息を吐く。しまった、カマをかけられた。まんまと乗ってしまった……。こういうときに限って自分の警戒心の無さが嫌になる。
「おら、行くぞ」
兼さんはふわりと自慢の浅葱色の羽織をなびかせて、きた道とは反対の方向へ歩いていく。え? とえみは一瞬、呆気にとられる。歩いていた兼さんの足がぴたりと止まり、えみのほうへと体を少し向けた。
「なに鳩が豆鉄砲食らったような顔してんだ。とっとと戻らねえと見失っちまうぞ」
兼さんの言葉に慌ててえみは兼さんのうしろについていく。妙なところで優しいんだから……。いや、これは優しさというのか? 多分、当たり前の行動なんだろう。えみだって逆の立場だったら、きっと同じ事をした。まあ、相手が兼さんだったら、どうかなー? といったところだろうが。えみの心情が兼さんに悟られる事もなく、見覚えのある大通りへと辿り着いた。兼さんが鞠の持ち主について聞いてきたので、あらかた特徴を伝えていたら、
「おねえちゃーん」子供の声が耳に入る。——鞠の子供だ。えみの元へ一目散に駆け寄ってくる。よかった、まだいた。近くまできた鞠の子供は、えみの隣にいる兼さんを見るや否や、固まってしまった。急にこんな大きくて派手な男の人がいたら、そりゃあびっくりするよな。子供を怖がらせないように兼さんを促して、
「はい、どうぞ」鞠を手渡す。兼さんの迫力に固まっていた子供は、途端に花が咲いたように表情が柔らかくなった。
「ありがとう、おねえちゃんっ」
その、日向に咲く温かい花のような笑顔に、えみのなかの花が咲く。鞠の子供の駆けていく背中を見送り、ミッション完了。さて、集合まではまだ時間があるし、軽くウィンドウショッピングの続きといこうかなと、隙間時間をどう過ごすか考えているなか
「んじゃあ、時間になったらきっちり戻ってこいよ。あとは一人でどうぞご自由に」
妙に癪に障るような言い方で、ひらひらと手を軽く振りながら、兼さんはどこかへ行ってしまう。子供に怖がられたのがショックだったんだろうか。まあ、ちょっとだけ同情する。本当にちょっとだけ。時間まで一人でどこに行こう…………待てよ。一人で? 知り合いも誰もいない、初めてのこの土地で、一人で? それは——まずい。
「待って待って! 兼さんストップ!」
急いであとを追いかけて兼さんを引き止める。あ? と兼さんは、なんだといった感じで振り返った。
「兼さん、道、わかるの?」
「まあ、何度かきてるからなあ」
「へえー……。一人でどこ行くの?」
「どこだっていいだろ。……なんだ」
言うと、兼さんの片方の口角が、にまりと吊りあがって、お馴染みのしたり顔ができあがる。うわ、人を小馬鹿にする準備万端だ。
「そんなにオレの事が気になるのか。照れなくていいぜ、オレは人を魅了しちまうほどかっこ良いからなあ」
「すごーい、カッコイイですねー(裏声)(棒読み)」
「バカにしてんのか」
心ここにあらずといった感じで空返事すると、案の定、兼さんは怒った。かっこ良い自慢は、もう耳がタコに、いやそれを超えて火星人になるほどに聞いた。聞き飽きた。田舎に帰るたびに、婆ちゃんが「婆ちゃんの若い頃は、コロッケが十円で〜」と今の豊かさを象徴する昔話ぐらい。こういうときは適当に相槌を打っておけばいい。田舎の婆ちゃんから学んだ。それはさておいて、えみが一人になってしまうと、非常にまずい事になってしまう。えみが。自慢じゃないが、えみ一人では集合場所に行けない自信がある。道がわからないからだ。今、頼りの綱は兼さんしかいない。ここで逃してしまえば、ジ・エンド。悔しいが、兼さんに頼るしか生き残る道はない。だけど、頼って、兼さんの天狗っ鼻を伸ばすのはムカつくから、悟られないように取り入るしかない。
「んな遠回しに言わなくたって、素直に『道がわからないので、一緒についてきてください。和泉守兼定様』っていやあいいじゃねえか」
「なんでそれを!」
「態度で見え見えなんだよ、お前は」
必死に悟られないようにひた隠しにしていたのも、兼さんに筒抜けだったのか……。いったいえみは何を頑張っていたんだ……。それでも、兼さんの言うとおりに行動するのはなんだか負けた気がするし、何より最後の『和泉守兼定様』はいらないだろう。この兼定、調子に乗っている。言うのを渋っていると、短気な兼さんは早くも痺れを切らしてえみを置いて立ち去ろうとした。慌てて引き戻す。
「なんだよ、お願いする気になったか」
「誰が」
「そうか、邪魔しちゃ悪りいな」
「一緒に連れてってください和泉守兼定様!」
もうやめだ。負けた負けた。つまらない意地を張って路頭に迷ったらそれこそ笑えない。こっちが折れる事によって円満解決するのならそれでいいじゃないか。「よろしい」と非常に愉しそうに勝ち誇ったドヤ顔を見せる兼さんに、心底奥歯をギリギリと噛み締めながらも、また一つ、えみは成長したと思う事で心の安寧を保った。そうだ、えみはまた一歩、大人への階段を上がったのだ。大人なえみは子供な兼さんに先導させて大通りをぷらぷらと歩く。
「——あ、待って兼さん。あのお菓子、みんなに買っていくから」
「あ? いつでも買いにこれるだろうが」
「それはそうだけど……いいの。えみがみんなに買っていきたいの」
兼さんの言うとおり、遠征先で買いにこられるだろうけど、いつももらってばっかりだから、たまにはみんなにあげたい。いつも戦ってもらっているから、えみができる事はしてあげたい。目についた人形焼きを売っている甘味どころに立ち寄って、一人一個分の人形焼きを包んでもらう。
たとえ一人一個分でも、大世帯となればもの凄い数になるわけで、個数を聞いたお店の人は目をひん剥いていた。ついでに食べ歩く用で、さらに一個を追加する。甘いものはあまり得意ではないけれど、現代と変わらない、だけど懐かしいお母さんのような優しい甘いかおりにつられて、つい。
はぐっ、と一口かじると、焼きたての心にしみる温かさとほのかな甘さが歩き疲れた身体に癒やしを与えてくれる。夢中でかぶりついていると、兼さんがこっちを見ていたのに気づいたので「……あげないぞ」と念を押すと、いらねーよ、と突き返してきた。少しはえみみたいに素直になればいいのに。やり取りしている最中、また素敵なお土産が目についたので店に立ち寄る。兼さんがああだこうだ言おうが、お金はいっぱい持ってきたから大丈夫だし、今のえみを止められるのは自転くらいなものだぜ。
「……重い」
修学旅行で気分がノッた学生みたいに、あれやこれやと買ったおかげで両手いっぱいほどの荷物になってしまった。
「だろうな」
「なんで言ってくれなかったんだよ」
「言ったところで、お前がオレの言う事を聞いた事が一度でもあったか?」
「あるよ。何回かは」
「片手で数えられるほどじゃねえか」
そうだとしても気づいていたなら止めるべきではなかったのか? 確かに自制が利かないままあれやこれやと買い漁ったえみにも問題がある。いや、えみにしかないのだが……、とにかく、ずっと傍にいたなら一声くらいかけてほしいと思うのは我儘だろうか。両腕に伝わる重さが、持っている、パンパンに膨らんだ手提げ袋の、見た目以上に重さを感じた。これでは本丸に着くまでにせっかく買ったお土産たちとえみの腕が亡きものになってしまう。……頼むのは気が引けるが、兼さんに帰る途中でこまめに休憩を入れてもらえるようにお願いしよう。自分が撒いた種だから頼むのは本当に気が重いが——
パッ、とえみが握りしめていたパンパンの手提げ袋が、そのとき兼さんの手に移り渡った。……というよりも、実際は「貸せ」とはんば奪い取るような形で兼さんが持っていったのだが。あれ? と首をかしげている間もなく、「ちんたら歩いてんな」と神経を逆撫でる事を言って歩き始めたので、兼さんに強奪された手提げ袋を取り返そうと反撃してみるが、まるで猫とじゃれるように紙一重でひょいひょいとかわされてしまう。
えみが持っているだけでも体力を奪われる重さの手提げ袋なのに、兼さんは中身の入ってない紙袋でも持っているのかと言わんばかりに軽々と持ち上げている。ムカつく。兼さんも兼さんでえみを面白おかしく弄んでいるのだろう。だって、ちょっと横顔がえみをなじるときのように浮わついた顔をしている。この兼定は……、と心の中でぼやきつつ、結局荷物を預けたままにする。えみが持って歩くよりも兼さんが持って歩いた方が早いからだ。一理あるからだ。
重たい荷物を左手からぶら下げている、のにも関わらず、兼さんの歩く早さはまったく落ちない——歩幅の関係もあるが——。兼さんがチャキチャキ歩く早さに対して、こちらが少し早歩きにならないと横に並べない。
「ちょっと兼さん歩くの早くない?」何の気なしに呟いたのだけれど、
「お前が遅いだけ……ああ、悪かった。オレの足が長いせいだな」
息を吸ったり吐いたりするように嫌味が吐かれる。この兼定は本当に人の腹を立てるのが上手いな。癇癪起こし大会があれば間違いなく優勝して嫌らしいほどに金ぴかに光る金メダルをあげているところだろう。言い合ったあと、しばらくは無言だった。意地悪な男《ヤツ》だ、と腹のなかで考えていると、急に兼さんが歩みを止めるものだから、危うく兼さんにぶつかりそうになる。首を傾げそうになりながら不思議な目で兼さんを見ていると、兼さんはこちらに振り返って、
「ほら」
右手を差し出してきた。——これは、つまり、兼さんが差し出した右手を、えみの左手と重ねろ、と……?
——無理だ。父親以外の男の人と手を繋ぐなんて小学生の運動会のとき以来で、率直に言うと凄く恥ずかしい。だが、そんな事が言えるはずもない。言ったところで茶化しにくるに決まっている。というか、自分の弱い面を晒してしまうようで、弱い自分を見られるのがとても嫌だ。特に、この人には。
「いや、いいよ。一人で歩けるし」
「なーに強がってんだよ。——あー、もしかして」したり顔で笑って
「テレてんのか?」
「ちげえよ!」
思わず語気を強めて否定してしまった。図星なのがバレバレだ。ぶっきらぼうな兼さんのくせにこういうときばかり妙に的確に指摘して……。確信犯なのだろうか。いずれにしろ、えみに兼さんの腹のうちはわからない。
「えみは遅いから、合わせなくたっていいよ。先に帰ってれば?」
言ってから、少し冷たい事を言ってしまったな、と気づいたがとき既に遅し。どうにも兼さんと喋ると言葉を選んでいる暇もなしに思った事を口走ってしまう。特に辛辣系統が。でも、実際兼さんのほうが足も早くて力もあるのだから、無理にえみに合わせようとせずに先に荷物を持っていってもらったほうが合理的だ。えみに合わせたら余計な負担がかかってしまう。えみで負担をかけさせたくない。えみにだってちゃんと考えがある。無鉄砲に言っていない。……でも、えみの言葉を否定して一緒に隣を歩いてくれるのを期待して待ってしまっている。兼さんは一呼吸置いてから
「そーかい。じゃあお言葉に甘えて先に帰ってるよ。道草食うなよ」
ナチュラルに、惜しむ様子も見せず、あっさりと、えみの言葉を素直に受け入れて歩くスピードを早めた。
「ちょお、マジで帰るのかよ! っつか早っ」
少しでも期待するとこれだ。いつも裏切られる。えみは馬鹿だ。慌てて駆け出して兼さんの背中を追う。追ったのはいいが、足を取られてつまづいてしまう。急な事に反応できずにバランスを崩して地面へと倒れていく。咄嗟に、目を固く瞑った。
どさっ——と何かに支えられる衝撃。痛くはない。地面の感触ではない。そーっとゆっくり目を開けて確認してみたら、臙脂色に染まった着物から伸びる、たくましい腕がえみの体を支えていた。
「……大丈夫か」
兼さんの喋った吐息を感じられるほど兼さんの顔が近くにあって、間近に見たらそれはもうあれだけ自負するほどに整った顔立ちをしていて、えみを見つめる晴れた空のような浅葱色の瞳に吸い込まれそうで、
「だっ、大丈夫!」
思わずその救いの手を引き剥がすように兼さんを突き飛ばしてしまう。あ……やってしまった。そう思ったときには兼さんは呆気にとられた顔をしていた。——違うのに。行き場のなくなった右手を適当にぷらぷらと泳がせながら
「次は気をつけて歩けよ。お前はそそっかしいんだから」
また背を向いて歩き出してしまう。勘違いされてしまっただろうか。本当は助けてもらって嬉しかったのに、妙に緊張してしまって思いがけずに突き飛ばしてしまって、失礼にも度があると自分でも理解した。誤解を解かなくては。
「ま……待って……!」
兼さんの袖のたもとをグイッと掴むと、兼さんは歩みを止めてえみのほうに振り返った。
「あ……その……」
勘違いされたままは嫌だから。何より助けてもらった恩を受けっぱなしにするのは嫌だから。そう、これはただの義理。当たり前の事。
「急に突き飛ばしたりして、ごめん、なさい。——あ、ありが、と」
想像以上に言葉が詰まってカタコト気味になってしまった。素直に言葉にだすのはこんなにも難しい事なのか。恥ずかしい。きっと変に思われた。まあいつも思われているだろうが。兼さんは一呼吸置いてから、茶化す事もなく、くるっと首を元の位置に戻して「へーへー」と軽い調子で返事をした。どんな顔だったのかわからない。
なんとなく、掴んだこの手を離したくなくてずっとたもとを握っていたけど、兼さんは何も言わないで握らせてくれていた。見た目に気を遣う兼さんが自慢の一張羅にシワができたら気にするだろうに。
集合場所に戻る途中、ランと長谷部さんの姿が見えたので、パッと掴んでいた兼さんのたもとから手を離した。二人がこっちに気づくと、駆け寄ってきた。心配したんだからね、と気遣ってくれるランに、長谷部さんはえみと一緒にいた兼さんを見るなり、護衛なら自分がしたのに、と兼さんに向かって不平不満を垂らしていた。呆れた様子で長谷部さんに適当に返していた。いい気味だ。みんなたくさんのお土産を持って、転送装置で帰る事とする。
本丸に無事に着くと、その場に居合わせた粟田口の短刀の子達が、おかえりなさいと出迎えてくれた。たくさんのお土産を渡すと、目をキラキラとさせて喜んでくれた。やっぱり、買っていってよかった。
「あ、おかえり。主」と次いで本丸の方から声がかけられる。羽織とマフラーと、同じ色をした深紅の瞳に、丁寧に整えられた黒髪の、えみより少し年上の青年——加州清光——キヨだった。
「燭台切が今、肉じゃが仕込んでるんだけど、味見する?」
何!? 肉じゃが……だと……!? 椅子に座っていたならガタッと立ち上がっていた勢いでえみはその話題に食いついた。ついでになぜか兼さんも一緒になってキヨに迫る。
「その肉じゃがの肉って、」
「牛だよな!」「豚だよね!」えみと兼さんの謎の迫力に気圧されながらも、キヨは思い出しながら答えた。
「えーっと、確か、豚だったよ。それがどうかしたの?」
瞬間、両拳を天に突き上げて、
「っしゃあああああ!!」空に、吠えた。勝利のガッツポーズの弾みで兼さんの顎にアッパーカットがクリティカルヒットし、前の戦闘で無傷だったのに無駄に軽傷を負う事になった。その日の肉じゃがは、いつもより美味しく感じたのは、きっと気のせいではない。
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