ドアを開けて中へと入った若葉に向かい柔らかな声が話しかけてくる。

　「おかえりなさい」

声のした方へと視線を向けた若葉の目がとらえたのは母の姿だ。
　未だスーツを着たままの母の姿を見た若葉は母が帰宅したのはつい先程の事なのだと理解する。
　それでも普段は日付が変わる直前に帰宅する母にしては珍しい事だ。

　「ただいま。今日は早かったんだね」

朝食を食べているときに今日はいつもよりも遅くなると言っていたので、てっきり日付が変わってから帰ってくるのだろうなと思っていた若葉がそう話しかけると、母は一瞬だけ返答に困ったかのように視線を逸らしたが、すぐに笑みを浮かべながら答える。

　「えぇ・・・そうなの。若葉ちゃんと話したくてね」

　「私と？」

改まって話をしたいと言われた若葉が思わず身構えてしまうと、母は娘の反応を見て苦笑を浮かべながらその考えを否定する。

　「安心して。バイトの事じゃないから。ちょっと長くなりそうだから先にご飯を食べましょうか」

　「うん！」

　「なら着替えていらっしゃい。その間に用意しておくから」

ニコニコと微笑みながら母が告げた言葉に若葉は自分の部屋に向かうと、制服から部屋着へと着替える。
　長くなりそう、その言葉を聞いた若葉の脳裏に浮かんだのは先程の父と子の姿。
　彼等の事が妙に頭から離れなかったのはきっと母の話に関係があるからだ。

　「交際相手の紹介かな」

過去に何度か母から”親しい人”だと言われて男の人を紹介されたことがあり、その時のことを思い出した若葉の胸の奥底に苦いものがジワジワと広がっていく。
　最終的にその人達と母は”ただの友人”へとなり、二度と会うことはなかった。
　彼等を紹介するとき、今回のように改まって話をしたいと言われた事はなかった事から恐らく、今度の相手とは色々と具体的に将来を見据えた上での付き合いをしているのだろうと若葉は結論づけた。

　「バイトして正解だったかもしれない」

まだ始めたばかりなので貯金はあまりないが今後は可能な限り時間を増やしてもらい、一円でも多くお金を貯めておいたほうが良いかもしれないなと若葉は１人計画を立て始める。
　いずれ母と共に暮すことが出来なくなる可能性が高く、ならば少しでも母の邪魔にならないようにしなければと思うと、言いようのない感情が足下から自分を喰らうかのように這い上がってくるのを感じ取りギュッと唇を噛みしめた時だ。
　
　「若葉ちゃん？なにかあった？」

中々出てこない娘に痺れを切らしたらしい母からの言葉に若葉は慌てて部屋を出る。

　「友達からＬＩＮＥがきてたから返信してたの」

もっともらしい言葉に母は特に追求してこなかった。
　母と共にゆっくりと食卓を囲むのは数週間ぶりであった若葉が嬉しいと思う反面、これから母が話すだろう内容が気になってしまい食事の味がいまいち解らなかった。
　母もそんな娘の様子に気づいたらしく食後のお茶を２人分煎れ、それぞれの前に置くと意を決したかのような顔をして口を開いた。

　「若葉ちゃん。聞いて欲しいことがあるの」

改まった声と態度の母の姿に若葉はジッと母の顔を見つめた。
　母が若くして自分を産んでいることを若葉は友人の母親の年齢やらから知っている。
　そして夫であり父である男がおらず、たった独りで娘を育て上げてきた事から楽な人生ではなかっただろう事は若葉も何となく感じ取っていた。
　
　「私に？珍しいね」

　「・・・こればっかりは若葉ちゃんの意見を聞いておきたいから」

その言葉を聞いた若葉は「やっぱりそうか」と思うとそっと膝の上で拳を握った。