縦しんば水面の光になれずとも

　障子の隙間から漏れる光で、目が覚めた。
　時計を見やると、まだ六時手前だ。朝食の時間には早すぎる。
　隣には、胸を上下させて眠りこける彼がいた。はだけた浴衣が艶かしく、朝日が左手を照らして大層美しいが、薬指には指輪の痕がある。
　ああ、憎たらしい。何度歯型を付けても、二〇年以上彼を縛り付けるものには負けてしまう。

　昨日から、彼とふたりきりで静かな港町へ旅行していた。もちろん、誰にも言わずに。両親には、友達の家に泊まると言い、家から飛び出した。
　嘘をつかなければ、彼とこうして会うことができない。不倫の他に、彼は学校の教師だからだ。担任ではなく、現国担当で話の長い、生徒から嫌われているような人。
　好きなことには、少年のような顔をして語り尽くす。その顔に、気がつけば心動かされていた。
　彼が、こちらを目で追っていることに気づいてからは、すぐさま行動に移していた。
　そして、半年。いつの間にか、旅行するような仲になった。最初はこの関係に満足していたが、今では彼の一番になれなくても、心の深いところに焼き付けるような存在になりたいと強く思うようになった。相手の気持ちを考えるほどの余裕は、とうに失っている。
　彼の指輪の痕を見ているだけで、嫉妬に狂ってしまう。感情に踊らされたまま、彼のことを揺さぶって起こした。
　そして、衝動に身を任せ、乱れた浴衣を気にも留めずに、無理やり彼を連れて外へ飛び出していた。
　走り続けてたどり着いた先は、防波堤だった。振り向くと彼は、肩を大きく上下させて、しゃがみ込んでいた。年齢差を強く感じてしまう。
　こういったところが愛しく、同時に壁を自覚する。甘美と泥が胸を支配してやまない。
「先生、立ってよ」
　そう言い、手を差し伸べた。彼は素直に手を掴んで、立ち上がる。
「どうして先生をここまで連れてきたのか、わかるかな」
　彼は、首を横に振った。
「早朝に散歩でもしたかったのかい。ずっと走ってたけど」
「そんなわけない」
　彼は、困ったように眉を寄せて、頭を掻いた。
「きみが何を考えているのか、もう全然わからないよ」
　情けなく笑う彼を見て、胸がかき乱された。このまま彼の首を切り取って、ずっと見つめていたい。できるわけがないというのに。
　それをするかわりに、彼の左手を捕まえて、薬指を強く噛んだ。プツリ、と音がして鮮やかな血が流れる。とてもきれいだ。
「やめてくれよ、傷跡が見られたら大変じゃないか」
　彼は、大慌てで薬指を止血した。
「先生は、薬指を噛む理由もわからないの？」
　眉を寄せて、目を開く表情を見て、彼はひどく動揺しているのがわかる。ようやく察してくれたのだろうか。
　それでも、気持ちを告げずにはいられなかった。
「自分との関係を察されたくないんでしょう。だから、傷跡を見られたくないんだよね」
「当然だよ。家庭崩壊どころか、仕事にも支障が出るんだから」
「その程度の関係って思っているんだ」
「違う。きみのことが大切だよ。わかってくれよ」
　彼が本気でそう思っているとは、とてもじゃないが信じられない。それでも、この一言が嬉しかった。
「先生、海が光ってきれいだね。この光景は、先生の心の中に残るのかな」
「そりゃあ、残るよ。海は日が出ているときが一番きれいだから」
　その一言を聞いて、うっそりと微笑んだ。
「それじゃあ、自分はその光になれるのかな」
　何のことだか、と彼は首をかしげる。
「先生の心の奥深くまで、自分を焼き付けたい。そのためなら、何でもできるんだよ」
　するりと、帯を緩めて浴衣を脱いだ。
「何をするつもりなんだ」
「ねえ、先生。海と自分、どっちがきれい？」
　そう言ったまま、海に身を投げた。後先だなんて、何も考えていない。このまま溺れ死んでもよかった。彼と過ごした時間で死ねるなら、本望だ。
　視界の端には、彼がぼろぼろと大粒の涙を流していた。彼の奥深くまで、刺さることができたのだろうか。
　きっと優しい彼なら、自分を助けようとして海に飛び込むに違いない。安堵し、瞳をゆっくりと閉じた。