きもちいいこと

 アイツの声を聴きながら、まだ夢うつつを彷徨う朝。

 薪さん、俺、仕事行きますね。

 朝食はできてますのでお好きな時にどうぞ。

 シャツとスーツもこちらに掛けておきますね。

 それと、お仕事の際よければこの部屋とPCを使ってください――

 明け方の就寝には珍しく、温かく気持ちいい夢をみていたのだと思った。
 額に、頬に、そして去り際に唇に残されたキスの、優しい余韻を追って目を開ける。

 シーツに溺れるように身体と一緒に丸めていた手足を少しずつ伸ばして、深呼吸を一つして。
 青木の匂いに包まれたままのベッドで一人起き上がった僕は、髪や肌にふわふわと甘く纏わりつく余韻にぼんやりと自覚していく。
 まさか、これは夢じゃないのではないか、と。

「……!」
 上着だけのデカいパジャマの下には、穿いた覚えのないパンツをしっかり着用している。
 まさかアイツがこれを僕に?
 だとしても、昨夜は何も起きなかったのだ。
 青木の隣に、いや腕の中に僕がいただけで、多少のソフトな接触はあったとしても、淫らな行為は何も……!

 着替えて洗面所に向かえば、鏡の前で自分の髪を梳かしている小さな先客を見つける。

「おはよう」

「あっ、おはようマキちゃん」

 昨夜の悪夢はキレイさっぱり何処かへ吹き飛ばしてしまったような舞の笑顔に、安堵した僕の頬が緩む。

「髪、結わえてあげようか」

「うん!」

 僕が舞からブラシを受け取ると、舞は嬉しそうに鏡に向いて前に立つ。

「どんなふうがいい?」

「えっとね、三つ編みカチューシャのすっごくかわいいやつ!」

「……ミツアミカチューシャ……」

 ちょっと待って、とスマホを見つつ、舞の要望のヘアアレンジに挑む。


「わぁ、すごい〜!プリンセスみたい」

 多少時間はかかったけれど、手先の器用さには自信がある。仕上がりに大喜びの舞の様子に、僕はまた頬を緩めた。
 そして、第九の連中が見たらひっくり返りそうな笑顔で、青木が作り置きしてくれた朝食を舞と一緒にいただいた。

「マキちゃん、顔赤いけどおネツあるの?」

 子どもの無垢な目は侮れない。気づけば青木のことばかり考える僕のうわついた心なんてすっかり見通されてる気がして、羞恥に胸が高鳴った。

「いや、大丈夫だよ」

 平静を装いつつ隣に並ぶ舞を覗けば、ぽ〜っと頬を染めて僕を見上げる、夢見がちな少女の顔がある。

「マキちゃん、なんか今日キラキラしてる。マキちゃんこそプリンセスだよ」

 じゃあ二人ともプリンセスだ、と舞以外には誰にも聞かせられない台詞を微笑んで口にしながら、くすぐったい幸せをぎこちなく噛みしめた。


「今日は離れでおバァちゃんとお勉強するね」

 ごちそうさまの後、勉強道具を手にした舞は「心配かけちゃったから、元気にしてあげなくちゃ」と笑顔で僕に報告する。

「マキちゃんも今日はお仕事?」

「ああ、うん」

「コーちゃんのお部屋で?」

「……いや、僕ももう出掛けるかな」

「そっかぁ」

 一瞬言い淀んだ僕の答えに、舞はもう僕がここへ戻らないかもしれないと理解したらしい。

「じゃあね、マキちゃん、ありがとう。また来てね」

 舞は両手で胸に抱えていた勉強道具を片手に持ち替え、もう片方の腕でぎゅーっと僕に抱きついてくる。
 舞の前だけでは素直な僕は「もちろん来るよ」と小さな背中にそっと手を当てた。


 青木家を後にした僕は科捜研へと出向き、そのまま県警の一室を借りて、リモートで第三管区と繋いで仕事をすることにした。
 しかし僕の眼前で、画面越しに立ちはだかる毛むくじゃらの某室長も、たいがい煩い奴だった。

「ハァ?帰るって、事件からまだ一晩も経ってないんでしょ?」

「……だから何だ?」

「慌てて帰らなくたって、こっちは俺がどうにかします。それよりあなたはもう少しあの家にいてやったらどうです」

「フン、お前はオニのいぬ間に伸び伸びしたいだけだろ。お前の言うもう少し、とはどの程度を想定してるんだ、半年か?一年か?」

「違いますって、もう、そんな捻くれなくても……せめて今週一杯とか。週末をゆっくり過ごせば、青木家も大方落ち着くんじゃないスか?」

「…………」

 何故、どいつもこいつも、僕の帰京を阻む?

 しかし、かくいう僕も結局、夕方には光に会いに病院に足を運んでしまうのだ。
 
 青木のあんな宣言・・を聞いて、今晩ノコノコあの家に戻る意気地はない。
 かといって帰京もせず、青木たちもいると知ってて病院ここへ来るのは、結局同じことなのだが。


「さあ、帰りましょうか、薪さん」

「やったー!今日もマキちゃんと一緒だぁ」

 光との面会中、青木親娘にあえなく“捕獲”された僕は、舞を挟み三人並んで病院の駐車場を歩いていた。

「ねぇねぇ、マキちゃん、フレンチトースト作れる?」

「うん?パンペルデュならパリにいたとき、たまに作ってたけど」

「えっ?なぁにそれ?」

 アパルトマンのボックスに毎週一個、パン屋を営む大家からプレゼントされていたバゲット。おかげでミルクとバターと玉子が冷蔵庫の常連になり、贈りものを食べきるために、週末はいつもパンペルデュ(=だめになったパン)の復活祭だった。
 思えばあの頃から予兆はあったのだ。
 良くも悪くも今は気づいてしまってる。大男の温かい腕の中に引き留められた世界は少しだけ僕に優しく、僕も自分を前ほど粗末にできなくなっていることに。

「昨日言ったこと、気にしないで。あなたがお嫌なことは俺、絶対にしませんので」

 舞に聞こえないよう、こめかみあたりで青木に囁かれたいつもより低い声に耳が熱くなる。

 今更逃げたくても、パンペルデュの話に夢中の舞に繋がれた手をほどけるはずもない。
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