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 薪との情愛に溺れたあの一夜から一年が経つ。
 その間、会えたのは雪子の結婚式ただ一度だ。
 以降も音信不通が続く秋の夜長、青木は手紙を書きかけては、くしゃくしゃに丸め、いくつ屑かごに放り込んだことだろう。

 “待っているから” と、言ってくれたのに。
 “愛してる”の言葉を、求めてくれたのに。
 あの人は“実験”と称する“何か”を、未だ一人で抱え続けているのだろうか。
 協力者である自分を差し置いて、たった一人きりでずっと?

 薪の秘めた感情の片鱗に、指先だけ届いた手応えもあった。
 だが、第九を“家族”だと言われた時には、嬉しさとともに、焦れったい違和感も持った。
 家族っていうのはもっと……抱きしめたら温もりがあるものだ。喜怒哀楽や他愛ない日常を共有したり、いろんな味の食事を一緒に囲んだり、寝ぼけ顔で「おはよう」や「おやすみ」を云いあうことに慣れ、離れていても相手の呼吸や鼓動を心の何処かでいつも感じてるような関係だと思うから。
 
 薪さんと、家族になりたい。

 一線を越え、抑えがきかなくなった想いを、どう綴れば伝わるのか。
 強引すぎず、拙さに呆れられることなく、複雑で繊細な薪の心にちゃんと届くように。そんな文才は残念ながら、持ち合わせていない。
 うまく言い表せない苦肉の策で、最初の手紙はプリントハガキになった。
 向こうだって岡部を通じて入手していた位だから、直接送っても嫌がられはしないだろう。

 そして、堪え性のない若造は、その後も手紙に挑み続け、一週間も経たないうちに二通目の封書を送ったのだ。



「のぞみ、お前のパパは、やっぱりバカだな」

 ソファに横たわる薪の胸の上に、うつぶせに乗った希が、ご機嫌度MAXでママを見上げている。
 ときめく胸の鼓動とか、言葉とうらはらの甘いママの声色に合せて、さっきからアーとかウーとかかわいい声まで出していた。

「ふふ、お前もそう思うのか?」

 薪は、読んでいた手紙をサイドテーブルに置いて、希を両腕で思い切り抱きしめ、赤ちゃん特有のふんわり甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。

 ほんとうに困りものだ……青木も、そしてこの僕も。

 受け取った手紙を、この数日間で何度読み返したことだろう。
 特に休日の今日は、朝から希のリズムに合わせてまったりと過ごし、昼間は散歩がてら二人でオーガニックマルシェにも足を伸ばした。
 ソファでひと休みするたび、ついあの手紙を手に取った。自分に宛てられたものなのに、擽ったくて居心地が悪くて、他人事のようにすら思えてくる。でも、そんなママをみて希は喜ぶのだ。


「さあ、そろそろお風呂に入ろう」

「あ〜」

 ちょうどのタイミングで声をあげた希に微笑み返し片手で抱き上げた薪は、もう片方の手で籠の中からオムツと着替えを手にとって、バスルームへと向かう。

 子どもを洗うためだけの入浴。
 キレイになった希をローブ姿で寝かしつけ、今度は自分のためにシャワーを浴びた後は、冷蔵庫のカモミールティーをちびちび飲んで、クールダウンしながらPCに向かう。

 どんなに仕事に没頭した後でも、傍らに希がいると、よく眠れた。

 子どもが起きてる大半の時間を過ごしているのはマティルドなのに、親子の絆とは不思議なものだ。
 彼女のような適切なサポートがあれば、希を片親じぶんだけで育てるのも不可能ではないだろう。
 わが子を腕に抱けば、どんなに疲弊していても力が無尽蔵に湧き上がってくる実感はいつもある。

 でも、子どもへの愛の力を“辛抱”のために使うのは、身勝手な自己満足だと思うようにもなっていた。

 希に笑顔が溢れるのはどんなときかを知ってしまったから。
 それは、ママ……薪が幸せなとき。
だから自分は希のために、幸せにならなければいけない。
 “自分自身の幸せを求める”
 それは薪にとって一番の難題でもあるのだが。
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