☆希望という名の

 クルトチームの手際は、初の試みとは思えない見事なものだった。

 羊水が漏れ出したポッドの下部を開けて、卵膜を破って取り出された嬰児の一挙一動に、薪は釘付けだった。
 差し伸べられる大人たちの手の中で動く手足。
 初めての呼吸。そして聞こえる産声。
 まるで無音、無背景のなかで、その愛しい存在だけに五感がフォーカスされているような、不思議な感覚――

「おめでとう、マキ。とても愛らしい男の子だよ」

 脳裏を掠めるクルトの言葉にすら反応できず、目を見開いたままの薪は、自分の腕のなか、ガーゼにくるまれた小さな温もりを、ただ包み抱いている。
 一体から切り離された心許なさを一気に押し流す、対面して抱きしめることができた嬉しさの洪水のなかで――


 どのくらいの時間が経ったのだろう。


「あら、下の服が濡れてるじゃないの」

 助産師資格をもつ医学博士のザンドラが、薪のエプロンの下の羊水まみれの部屋着に気づいて「風邪引くわよ」と着替えを持ってくる。

「マキ、こっちへ来て」

 ザンドラは更衣スペースのカーテンを引きながら薪を連れて入った。
 そして薪の腕の中の子どもを受け取って、そのまま向き直る。

「さあ、服を脱ぐのよ」

 まだぼんやりしている薪は、言われた通りに、濡れた上着をエプロンごと脱ぎはじめた。

「下は後でいいわ。まずこの子を返すわね。ちょっと失礼……」

「えっ……」

 まだ着替え中なのに、子どもを返される意味がわからない。
 しかもザンドラは子どもを抱いた薪の腕ごと身体の右側にずらし、裸の左胸にいきなり両手を当ててくる。

「……しばらくじっとしててね」

 ザンドラは真顔のまま、薪の平らな胸を側面から持ち上げるように揉みはじめた。

「……??」

 目をパチクリさせながらも、されるがままの薪。
 いきなり裸の胸に触られて驚きはしたけれど、何故か楽に身を委ね、腕の中の我が子が口を開けて首を左右に振る仕草の方に気を取られはじめる。

「ほら、おっぱいを探してる。もうあげていいわよ」

「え?ミルクはどこに……」

「クスッ、ここ・・にあるじゃない」

 次の瞬間薪は、思いも寄らない出来事を腕の中で抱きしめることになる。
 赤子の小さな口が薪の小さな乳首を強く絡め取って根気よく吸啜をはじめたのだ。
 そのなんともいえない温もりと擽ったさ、そして愛おしさ。

「嚥下してる様子がない。何も出てないんじゃ……」

「いいえ、ほんの少しは出てるみたいよ。初乳は数ミリでも頑張って飲む価値はあるわ、ママからの初めての贈り物だもの……ね」

 白衣のポケットから出したセンサーを薪の右乳首に当てながら、サンドラは赤ちゃんに微笑みかけた。

 頑張れ……!

 薪がハラハラしながら我が子の吸啜を見守る。  
 いやもうこれは、応援に近い気分だ。が、数分もしないうちに、小さな我が子は吸い付いたまま寝息をたてていた。
 そのうちに強く絡んでいた口唇もゆるんでいき、外れる。それがまた擽ったくて。

 気づけばザンドラがいなくなり、代わりにイヴァルが真剣にスマホのカメラをこっちに向けて回していた。

「ヨン、いつの間に……ていうか、何してるんだ」

 緩んでいた頬を引き締めて、薪はヨンをたしなめる。

「何って、記録係だよ」

「そんなの、クルトのチームの仕事だろ?」

「違うよ、これはプライベート用さ。君の愛しいハンサムアジアンに、ミリオンで売りつけてやるんだよ」

 いつの間に侵入してきたのか、この好奇心の塊の男は。
 売りつける、なんて言いながら、鼻を啜って目を潤ませているし。
 そんな大男の姿が、全然似ていないのに、今は遠いこの子の父親の姿と重なる――


 薪が生理的に母親でいられたのは、それから一ヶ月程の短い間だった。
 NYを離れパリに赴任するタイミングで、プロジェクトを離れることになったから。
 実験のために操作した身体をすっかり元に戻し、我が子と二人で渡仏したのがその年の10月のこと。

 その子には“希”と書いてノゾミと名付けていた。

 青木と決めた名前だと、勝手ながら思ってる。
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