☆希望という名の
“とにかくご自愛なさってください。それだけはお願いします”
うん、アオキ。そんなことお前に言われなくたって、僕は充分“ご自愛”し続けているぞ。このとおり、な。
あの晩のぬくもりを想い浮かべると、自然に唇の端が弛む。
クルト=ベッテンドルフの研究室の隣に仕事場を移し、そこで寝泊まりすると不安も少し和らいだ気がする。
昼間は仕事に没頭し夜には切り上げて、あの声と手の温もりの記憶を重ねた自分の両手を、大切に腹部に添えて眠る。これでどうにか過ごせそうだ。
そうしているうちに、五日間が経った。
なんだかマキの顔つきまで変わってきたように見えるのは、気のせいだろうか?
日中仕事の用もあって部屋に来るイヴァル博士は、薪が身に纏う神秘的なな空気に、毎日心震わせていた。
「しかし、あなたは相当な感動屋なんですね」
薪はデスクでPCを操作する手を止め、目を潤ませてこっちを見ているイヴァル博士を見て、思わず微笑んだ。
「これが感動せずにいられる状況かい?エピジェネティクスをほんの一部操作しただけで “生殖”という我々に原祖から組み込まれた営みが、新しい命のためここまで柔軟な創造を繰り広げてる。こんなこと誰が想像しただろうか」
「たしかに想像はしなかった。強く望むばかりです。無事に育ってほしいと……」
仕事の手を再開しながら、不思議に思う。寝ていても、食べていても、仕事に没頭していても……自分とは違う命が体内で目覚ましく成長を続けているなんて。
「この期間は本当に……僕とこの命にとって、大切なプロセスなのかもしれないな」
ふと、下腹に視線を落として薪が呟いた。
コーヒーも飲まない。煙草は元から吸わない。ペンも折らないし怒鳴り散らしもしないのに、ずっと心穏やかでいられるなんて、我ながら驚きしかない。ここに自分以外の生命がいると思うだけで、ネガティブな感情がたちまち湧いてこなくなるのだ。
「そりゃそうさ。たとえ一週間でも母体で育む親子の絆はお互い何にも代え難い。そして同じ親でも、パパには出来ない芸当だしね」
「……たしかにそうですね、ドクタ・イヴァル」
「ああ。で、出来たら俺のこともそろそろ、ヨンって呼んでほしいんだが」
ずっとクルトを羨ましく思っていたヨン=イヴァルは、咳払いしながらさりげなく要望する。
薪は一瞬キョトンとして「もちろん」と頷いた。
六日目未明には、内膜袋に確保された小さな生命の芽が薪の体内から取り出され、無事に着床が認められた。
「神秘というより、これは愛だよ、マキ。愛が奇跡を生んでいるんだ」
クルトとその実験チームは、検査台の上の薪を囲んで口々に感動を露わにした。
その小さな生命の芽は“成長ポッド”と呼ばれる人口子宮に移されたが、胎盤や羊水などの“中身”は全て母体から組成するつもりだった。
薪は自らクルトに申し出て、毎晩自分の血管と心音をポッドに繋いで眠れる環境を作らせた。
なるべく母体と新しい生命の一体感を保持し続けるためだ。
おかげで薪は飲酒もせず、睡眠時間もできるだけ確保するようになった。
仕事も寝食もそこでする専用室にはコーヒーメーカーの代わりにスムージーミキサーが置かれ、空気清浄機まで持ち込まれるという有り様。
まさか薪が自分の身体を、自主的にこんなに大事にする日が来るとは、それこそ誰も想像しなかった変化だ。
「岡部、五月蝿い」
「俺のせいじゃないっす」
ピコン、ピコン、とWEBミーティング中の画面にチャットの通知が次々とポップアップされている。
薪が専用室で生活を始めてから一ヶ月。胎児はもう心音が把握できる時期になっていた。
“青木一行が画像を送信”
連投される通知に対し、岡部は完全スルーを決め込んでいる。
来年度の第九全国展開に向けた諸々の確認のため非公式に会議を申請し、多忙な薪を奇跡的に掴まえた矢先に、コレだ。
「そんなにたくさん、何の画像を送って来てるんだ」
「えーと、アイツは先週末から第八管区の新オフィスを視察に行ってるんで、多分その画像でしょう」
「ふ〜ん……見せてみろ」
これ以上庇いきれない、と岡部は諦めてメッセージの一つを開く。
まあ、二人の想像通り、共有されたPC画面に開かれた画像は、青木と舞の満面の笑みのドアップだった。
「舞ちゃんが初めてアイツのこと “こーたん” って呼んだらしいんですよ」
「…………で?」
ダン、とデスクを拳で叩く音がマイク越しに響いて、岡部が震え上がる。
「……すみません!一応これ週末に撮った写真ですから。今はさすがに仕事してるはずで……」
「それ、こっちへ送れ」
「……は?」
「そのバカの画像と、普段のバカ話。記録して全部僕に回せ」
「はあ……」
「こっちでやってる実験に使うんだ。決してストーカーじゃないぞ!」
「…………」
どんな反応を返したらいいのかわからない。
部下のプライバシーに関わる情報を、元上司とはいえ部外に送るのは気が引けたが、逆らえない。
一体この人M.D.I.Pでまた何の実験を?
話の流れだと“バカの生態”に関わる何かか?いや、青木は“バカ正直”だが “バカ”ではない気が……まあいい。
とにかくこんな話は片付けて、本題を前に進めることが先決だ。
うん、アオキ。そんなことお前に言われなくたって、僕は充分“ご自愛”し続けているぞ。このとおり、な。
あの晩のぬくもりを想い浮かべると、自然に唇の端が弛む。
クルト=ベッテンドルフの研究室の隣に仕事場を移し、そこで寝泊まりすると不安も少し和らいだ気がする。
昼間は仕事に没頭し夜には切り上げて、あの声と手の温もりの記憶を重ねた自分の両手を、大切に腹部に添えて眠る。これでどうにか過ごせそうだ。
そうしているうちに、五日間が経った。
なんだかマキの顔つきまで変わってきたように見えるのは、気のせいだろうか?
日中仕事の用もあって部屋に来るイヴァル博士は、薪が身に纏う神秘的なな空気に、毎日心震わせていた。
「しかし、あなたは相当な感動屋なんですね」
薪はデスクでPCを操作する手を止め、目を潤ませてこっちを見ているイヴァル博士を見て、思わず微笑んだ。
「これが感動せずにいられる状況かい?エピジェネティクスをほんの一部操作しただけで “生殖”という我々に原祖から組み込まれた営みが、新しい命のためここまで柔軟な創造を繰り広げてる。こんなこと誰が想像しただろうか」
「たしかに想像はしなかった。強く望むばかりです。無事に育ってほしいと……」
仕事の手を再開しながら、不思議に思う。寝ていても、食べていても、仕事に没頭していても……自分とは違う命が体内で目覚ましく成長を続けているなんて。
「この期間は本当に……僕とこの命にとって、大切なプロセスなのかもしれないな」
ふと、下腹に視線を落として薪が呟いた。
コーヒーも飲まない。煙草は元から吸わない。ペンも折らないし怒鳴り散らしもしないのに、ずっと心穏やかでいられるなんて、我ながら驚きしかない。ここに自分以外の生命がいると思うだけで、ネガティブな感情がたちまち湧いてこなくなるのだ。
「そりゃそうさ。たとえ一週間でも母体で育む親子の絆はお互い何にも代え難い。そして同じ親でも、パパには出来ない芸当だしね」
「……たしかにそうですね、ドクタ・イヴァル」
「ああ。で、出来たら俺のこともそろそろ、ヨンって呼んでほしいんだが」
ずっとクルトを羨ましく思っていたヨン=イヴァルは、咳払いしながらさりげなく要望する。
薪は一瞬キョトンとして「もちろん」と頷いた。
六日目未明には、内膜袋に確保された小さな生命の芽が薪の体内から取り出され、無事に着床が認められた。
「神秘というより、これは愛だよ、マキ。愛が奇跡を生んでいるんだ」
クルトとその実験チームは、検査台の上の薪を囲んで口々に感動を露わにした。
その小さな生命の芽は“成長ポッド”と呼ばれる人口子宮に移されたが、胎盤や羊水などの“中身”は全て母体から組成するつもりだった。
薪は自らクルトに申し出て、毎晩自分の血管と心音をポッドに繋いで眠れる環境を作らせた。
なるべく母体と新しい生命の一体感を保持し続けるためだ。
おかげで薪は飲酒もせず、睡眠時間もできるだけ確保するようになった。
仕事も寝食もそこでする専用室にはコーヒーメーカーの代わりにスムージーミキサーが置かれ、空気清浄機まで持ち込まれるという有り様。
まさか薪が自分の身体を、自主的にこんなに大事にする日が来るとは、それこそ誰も想像しなかった変化だ。
「岡部、五月蝿い」
「俺のせいじゃないっす」
ピコン、ピコン、とWEBミーティング中の画面にチャットの通知が次々とポップアップされている。
薪が専用室で生活を始めてから一ヶ月。胎児はもう心音が把握できる時期になっていた。
“青木一行が画像を送信”
連投される通知に対し、岡部は完全スルーを決め込んでいる。
来年度の第九全国展開に向けた諸々の確認のため非公式に会議を申請し、多忙な薪を奇跡的に掴まえた矢先に、コレだ。
「そんなにたくさん、何の画像を送って来てるんだ」
「えーと、アイツは先週末から第八管区の新オフィスを視察に行ってるんで、多分その画像でしょう」
「ふ〜ん……見せてみろ」
これ以上庇いきれない、と岡部は諦めてメッセージの一つを開く。
まあ、二人の想像通り、共有されたPC画面に開かれた画像は、青木と舞の満面の笑みのドアップだった。
「舞ちゃんが初めてアイツのこと “こーたん” って呼んだらしいんですよ」
「…………で?」
ダン、とデスクを拳で叩く音がマイク越しに響いて、岡部が震え上がる。
「……すみません!一応これ週末に撮った写真ですから。今はさすがに仕事してるはずで……」
「それ、こっちへ送れ」
「……は?」
「そのバカの画像と、普段のバカ話。記録して全部僕に回せ」
「はあ……」
「こっちでやってる実験に使うんだ。決してストーカーじゃないぞ!」
「…………」
どんな反応を返したらいいのかわからない。
部下のプライバシーに関わる情報を、元上司とはいえ部外に送るのは気が引けたが、逆らえない。
一体この人M.D.I.Pでまた何の実験を?
話の流れだと“バカの生態”に関わる何かか?いや、青木は“バカ正直”だが “バカ”ではない気が……まあいい。
とにかくこんな話は片付けて、本題を前に進めることが先決だ。