(闇)Alptraum

 それは青木と雪子さんの挙式半月前の晩のできごとだった。

『もう、終わりよ。あのコとは』

 ケータイの向こうで吐き捨てた彼女の言葉に弾かれて、僕がマンションを飛び出したのは、月も街灯もない真っ暗闇のなか。


「だってヒドイのよ。仏の顔も三度までだってのに、青木君たらまた名前呼び間違えたの……って、つよしくん、聞いてる?」

ドンッ――!

 雪子さんが空にしたビアジョッキをテーブルに置く音で、僕は我に帰る。

「三度目なんて、イくとき呼んだんだからね?感極まって“薪さん”て。聞き間違いじゃないわよ?後で蒼ざめて謝られても、さらに傷を抉られるっていうか……」

 彼女が自身の決断を覆すことは少ない。たとえそれが一方的に下したものであってもだ。

「終わりよ、もうこんなこと」

 改めて断言する彼女の性格を知る僕は、酷く動揺し慌てた。

「雪子さん。この通りです。僕もお詫びしますので、どうかあいつを棄てないでやってほしい」

 照明がやけに暗い飲み屋。
周囲の人影は蝋人形のように無機質で、彼女だけにスポットが当たった舞台のような板の床に、僕は土下座し頭を擦り付ける。

「……やめてよ、つよしくん。顔を上げて」

 誰も責めるつもりはないわ、と吹っ切った顔で彼女は言う。
“例のもの”を持ってきてくれたならそれでいいの、と。

「お渡ししたら、結婚は止めないんですね?」

「ええ、止めないわ」

 強い眼差しを真っ直ぐ此方に向ける彼女に、僕はジャケットの内ポケットに入れてきた“紙袋”を渡した。
 それが二人の挙式を予定どおり進める唯一の条件なら、呑むしかなかった。


「え、ごめん……泣かすつもりじゃなかったんだけど……」

 一番泣きたい雪子さんを差し置いて、僕の目からは涙が溢れていたらしい。

 これで良い、と思うのに流れる涙は何だったのだろう。
 それでも僕が“それ”を渡したことで全てが丸く収まり、半月後の挙式は無事に済んだ。

 そして青木夫妻に男の子が生まれたのは、それから十ヶ月後の一月のこと。

 名前はツヨシとつけられた。
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