☆2069 夏の別荘
温かい背中と鼓動に寄り添い、とろけるように眠ってしまっていたようだ。
暗い室内で、そんなに時間は経っていないだろうが、大きな布団には自分一人だけ。隣の布団の小さな寝息に耳を傾けながら、薪は枕元に用意していた着替えを手に、そっと布団から這い出した。
「何をしてる?明日の仕込みは要らないぞ」
「はい、それは承知してます。夕食の厨房の片付けをシェフに任せきりにしてましたので、少し気になりまして……」
厨房にいた青木は、姿勢を正して振り向き尤もらしい言い訳で取り繕った。本当は興奮を収めるため体を動かしていただけで……それが薪に“お見通し”でないといいのだが。
「舞と希には……」
“夕食”のキーワードに引っ掛かった薪は、着替えを両手で胸の前に抱えたまま、ふと視線をテーブルに落とした。
「僕がテーブルマナーを教えようと思ってたんだ」
「……えっ?」
ディナーの食卓で薪が拗ねたような顔をしていた、そのまさかの理由に青木は目を丸くした。
「僕のときも、そうだったから。八歳の誕生日を祝う席で、父と母と楽しみながら初めてコース料理を……」
「っ……なら、そうしてください!」
厨房から飛び出してきた青木の、大きな手が薪の両肩をがっしりと掴む。
「今日の夕食はコースでしたが、お箸で戴くフレンチだったので、カトラリーマナーは学べてません。その計画は変えずに行きましょう」
自分と同じ家族との体験を、子どもたちとなぞろうとしている薪の気持ちが、ただただ嬉しい。
タイムリーに、今知れてよかった。
舞の八歳の誕生日は次の11月だ。
「候補の店があれば予約とりますよ。なければ一緒に探してもいいですし」
「うん……そうだな。少し早いが、希も大丈夫だろうから一緒に教えよう」
「はい、俺もそう思います。それと……」
両肩を掴んでいた手が背中に回って薪の身体を腕の中に包み込む。
「雪子先生の幸せにこういう形で協力するのは、今回限りにしましょう。あの人は薪さんの助けがなくても滅茶苦茶幸せだって……もうわかりましたよね?」
「……あれは彼女のためじゃない。日向 のために呼んだんだ」
しばらく青木の胸に埋もれていた薪の身体が、するりと離れていった。
「先、行ってる」
「……はい、俺もすぐに追いかけます」
差し出がましいと自覚つつ思い切って伝えた決死の言葉。
そっけない返事の割には、腕のなかでは額を擦りつけ頷いていた。薪のどっちつかずの反応をどう捉えていいかわからず、青木は肩で大きなため息を吐く。
その直後に“事件”は起こった。
ため息なんてついてる場合じゃなかった。どうしてあと一分、いや三十秒でも早く薪の後を追わなかったのだろう。
後悔しても、もう遅い。
三分遅れて追いかけた風呂場に向かう廊下で、黒田とすれ違った。
嫌な予感がして足を早め、駆け込んだ脱衣室では、薪が見返り美人図みたいな格好で固まっていた。はだけた浴衣が背中から腰を通り越し、お尻の上縁や割れ目まで覗かせて――
「……見られましたよね」
逆上した大男が薪に詰め寄って訊ねた。
灯りを絞った廊下でも、黒田の顔が真っ赤なのはわかった。
何だろう?このオスの本能が逆撫でされる激しい苛つきは。
「いや待て。何をだ?男同士の裸だぞ?見る見られるなんて、どうでも……」
「よくないです!雪子さんならまだしも、黒田さんですよ?」
「落ち着け!それ、どう考えても逆だろッ」
シラを切って青木を宥める薪には、実をいうと後ろめたさがある。
“なんだ青木、意外と早いな”
つい先程、黒田とバッチリ目を合わせてしまったのだ。浴衣をわざと背中から落としながら、たっぷりの色欲を滲ませた顔をして……
「まさか俺と間違えて、あの人に色目使ったりしてませんよね?」
「っ、考えがそもそもおかしい。何度も言うが、僕は男なんだぞ!黒田さんに対する言動に気を遣う必要がどこに……」
「あります、大有りです!性別の問題じゃない、相手の反応 が問題なんですよ」
すれ違った黒田から嗅ぎ取った生々しい動揺を思い出すたび、苛つきと焦燥がぶり返す。
冷静に考えれば黒田も気の毒だ。
妻が幼子を寝かしつけている間に風呂に入ろうとしたら、タイミング悪く先客に出くわしただけなのに。
脱衣場の鍵もかかっておらず、隙間から灯りが漏れているドアを不思議に思いながら開けた。
その瞬間に薪の裸身が視界に飛び込んできたのだ。
状況が状況だけに妙に艶めかしくて、あてられるなという方が無理だろう。
逃げ帰る途中ですれ違った大男からは、昂る雄の敵意をあからさまに向けられるのを感じた。
風呂場で待つ薪と、妙に荒ぶる大男……つまり完全なる巻き込まれ事故だろう。
黒田はモヤモヤしながら、少なくとも一時間は風呂の順番待つ覚悟を決めざるを得なかった。
下手をしたら一時間じゃ済まないかもしれない。
もう今夜はこのまま眠って、明日の朝シャワーでも浴びた方がいいんじゃないかと迷いつつ、落ち着かない胸に手を当てて、妻子が眠る布団の隣に神妙な面持ちで横たわっていなければならなかったのだから。
暗い室内で、そんなに時間は経っていないだろうが、大きな布団には自分一人だけ。隣の布団の小さな寝息に耳を傾けながら、薪は枕元に用意していた着替えを手に、そっと布団から這い出した。
「何をしてる?明日の仕込みは要らないぞ」
「はい、それは承知してます。夕食の厨房の片付けをシェフに任せきりにしてましたので、少し気になりまして……」
厨房にいた青木は、姿勢を正して振り向き尤もらしい言い訳で取り繕った。本当は興奮を収めるため体を動かしていただけで……それが薪に“お見通し”でないといいのだが。
「舞と希には……」
“夕食”のキーワードに引っ掛かった薪は、着替えを両手で胸の前に抱えたまま、ふと視線をテーブルに落とした。
「僕がテーブルマナーを教えようと思ってたんだ」
「……えっ?」
ディナーの食卓で薪が拗ねたような顔をしていた、そのまさかの理由に青木は目を丸くした。
「僕のときも、そうだったから。八歳の誕生日を祝う席で、父と母と楽しみながら初めてコース料理を……」
「っ……なら、そうしてください!」
厨房から飛び出してきた青木の、大きな手が薪の両肩をがっしりと掴む。
「今日の夕食はコースでしたが、お箸で戴くフレンチだったので、カトラリーマナーは学べてません。その計画は変えずに行きましょう」
自分と同じ家族との体験を、子どもたちとなぞろうとしている薪の気持ちが、ただただ嬉しい。
タイムリーに、今知れてよかった。
舞の八歳の誕生日は次の11月だ。
「候補の店があれば予約とりますよ。なければ一緒に探してもいいですし」
「うん……そうだな。少し早いが、希も大丈夫だろうから一緒に教えよう」
「はい、俺もそう思います。それと……」
両肩を掴んでいた手が背中に回って薪の身体を腕の中に包み込む。
「雪子先生の幸せにこういう形で協力するのは、今回限りにしましょう。あの人は薪さんの助けがなくても滅茶苦茶幸せだって……もうわかりましたよね?」
「……あれは彼女のためじゃない。
しばらく青木の胸に埋もれていた薪の身体が、するりと離れていった。
「先、行ってる」
「……はい、俺もすぐに追いかけます」
差し出がましいと自覚つつ思い切って伝えた決死の言葉。
そっけない返事の割には、腕のなかでは額を擦りつけ頷いていた。薪のどっちつかずの反応をどう捉えていいかわからず、青木は肩で大きなため息を吐く。
その直後に“事件”は起こった。
ため息なんてついてる場合じゃなかった。どうしてあと一分、いや三十秒でも早く薪の後を追わなかったのだろう。
後悔しても、もう遅い。
三分遅れて追いかけた風呂場に向かう廊下で、黒田とすれ違った。
嫌な予感がして足を早め、駆け込んだ脱衣室では、薪が見返り美人図みたいな格好で固まっていた。はだけた浴衣が背中から腰を通り越し、お尻の上縁や割れ目まで覗かせて――
「……見られましたよね」
逆上した大男が薪に詰め寄って訊ねた。
灯りを絞った廊下でも、黒田の顔が真っ赤なのはわかった。
何だろう?このオスの本能が逆撫でされる激しい苛つきは。
「いや待て。何をだ?男同士の裸だぞ?見る見られるなんて、どうでも……」
「よくないです!雪子さんならまだしも、黒田さんですよ?」
「落ち着け!それ、どう考えても逆だろッ」
シラを切って青木を宥める薪には、実をいうと後ろめたさがある。
“なんだ青木、意外と早いな”
つい先程、黒田とバッチリ目を合わせてしまったのだ。浴衣をわざと背中から落としながら、たっぷりの色欲を滲ませた顔をして……
「まさか俺と間違えて、あの人に色目使ったりしてませんよね?」
「っ、考えがそもそもおかしい。何度も言うが、僕は男なんだぞ!黒田さんに対する言動に気を遣う必要がどこに……」
「あります、大有りです!性別の問題じゃない、相手の
すれ違った黒田から嗅ぎ取った生々しい動揺を思い出すたび、苛つきと焦燥がぶり返す。
冷静に考えれば黒田も気の毒だ。
妻が幼子を寝かしつけている間に風呂に入ろうとしたら、タイミング悪く先客に出くわしただけなのに。
脱衣場の鍵もかかっておらず、隙間から灯りが漏れているドアを不思議に思いながら開けた。
その瞬間に薪の裸身が視界に飛び込んできたのだ。
状況が状況だけに妙に艶めかしくて、あてられるなという方が無理だろう。
逃げ帰る途中ですれ違った大男からは、昂る雄の敵意をあからさまに向けられるのを感じた。
風呂場で待つ薪と、妙に荒ぶる大男……つまり完全なる巻き込まれ事故だろう。
黒田はモヤモヤしながら、少なくとも一時間は風呂の順番待つ覚悟を決めざるを得なかった。
下手をしたら一時間じゃ済まないかもしれない。
もう今夜はこのまま眠って、明日の朝シャワーでも浴びた方がいいんじゃないかと迷いつつ、落ち着かない胸に手を当てて、妻子が眠る布団の隣に神妙な面持ちで横たわっていなければならなかったのだから。