2068 薪誕 旅館じかん

星空を見ながらの温泉浴は、最高に気持ちいいひとときだ。

嫉妬に任せてやらかした感も否めないが、そもそもの火種はあいつのせいだ。
薪は視覚で宇宙と繋がりながら、唇に残る生々しい匂いと感触を反芻していた。吐精を貪った唇どうしが夢中で求め合った、仄苦く永い口づけの余韻とともに……

「はぁ………」

息を吐きながら伸ばした白い腕が、しなやかに天に伸びる。

見上げている雲一つない星空には及ばずとも、薪のモヤモヤもだいぶ晴れつつあった。
もう考えるのは止そう。
あまりに純真な思いをぶつけてくる恋人の過去の一つや二つ、受け流してやるべきだ。
過去はどうであれ、今の青木は全身全霊を自分を愛することに捧げてくれてるのだから。


「薪さん」

背後で湯の跳ねる音に、薪はぎくりと身を竦めて振り返る。

「あれ?俺、入っちゃ駄目でした?」

「………違う。驚いただけだ」

少し離れた距離でお湯に浸かった肩を並べ、二人は星を見上げた。
厳密にいえばメガネのない青木は、遠い星空よりも、それを見上げる薪の綺麗な横顔に気を取られているのだが。

「薪さん。ここ、気に入りましたか?」

「………え?ああ」

薪は面食らって答える。まさか青木からその話題に触れてくるなんて、思いも寄らなかったのだ。

「お前の見立てだとしたら恐れ入るな。こんないい場所を、いつどこで知ったんだ?」

飛び付くような気持ちを抑え、薪は冷静に核心に触れる。
やはり知りたい気持ちには勝てない性分なのだ。

「いや、実はここ、俺が選んだんじゃなく、ある人から勧められたんですよ」

単刀直入すぎる逆問いに引くわけでもなく、青木は愉しげに、また問いで返す。

「ある人?」

「ええ。誰だと思います?」

“勿体ぶるな”と云わんばかりに薪が隣を睨むと、青木は顔色を変え慌ててネタあかしをする。

「それが、住田先生なんですよ」

「…………は!?」

薪は愕然とした。
住田は自分が純粋に慕う稀少な人間であったが、その関係は、七年前の事件で粉々に引き千切られたはずだ。それが何故青木と……?

「事件にあたっていた当時、あなたに八ツ橋を買いに行った俺と、冴子さんに八ツ橋を買いにいらした先生と偶然出会いまして。そこで意気投合したというか……」

舞い散った宇宙の残像が重なる夜空を虚ろに見上げる薪の耳に、うっすら射し込む光のように青木の話が届く。ほのぼのとしたその情景を浮かべた薪の頬は、少し緩んでさえもいた。

「それから極たまにですが連絡を頂いてまして。冴子先生を亡くされて、お寂しいんでしょう。薪さんの話を聞きたいと仰って…」

「………僕の………話?」

「ええ。俺が薪さんの話をすると“君が語る薪くんの話はまるで僕の愛する冴子みたいだ”と大変喜ばれるんです。俺に言わせればちょっと違うと思いますけど…」

「………そう……か」

薪は宙を見つめたまま寂しく笑った。
青木と多少の繋がりがあろうとも、粉々に散った師弟関係はもう元には戻らないことはわかってる。

「この旅館は夫妻の一番のお気に入りの場所です。俺が薪さんのお誕生日に温泉旅館を探してることを話したら、ちょうど関東圏だし、とここを勧められて………予約を入れてくださったのも、実は先生なんです。“昔の僕と冴子にそっくりな子たちが行くから”って………だから俺たち夫妻に間違われちゃったんですよね、きっと」

「ああ……そういうことか」

薪は小さく呟いた。
さっきの仲居さんが零した“噂通りの素敵なご夫婦”という言葉とも、これで繋がった。
それだけじゃない。
いつだったか、夫妻が温泉旅行によく出掛けたことは、先生の話や土産などで、ことあるごとに触れていた記憶の断片にも、遡っていく。

“まるでそこはね、天空にいるみたいな場所なんだよ、薪くん。愛する人と二人きりで過ごすなんて、ロマンチックだと思わないかい?”

そうだ、だからだ。
ここに初めて来た気がしなかったのは………

「先生は今でも薪さんのこと、とても気にかけてらっしゃいますよ。またいずれ……」

「いずれ、何だ?」

薪は厳しい口調で言葉を遮る。もう決着のついたことへの白々しい慰めは聞きたくなかった。

「和解はありえない。僕なら一番大事なものを目の前で傷つけた相手を、一生許せないと思う。お前だって同じだろう?」

「そうかもしれません。でも……」

チャプン、とお湯が揺れて薪は目を閉じる。
こんなときでさえ、背後から包まれる青木のぬくもりに心地好く肌を預けてしまうなんて、本当に今の自分は隙だらけだ。

「許すことと、気にかけることは、また別なんじゃないでしょうか?」

“そう簡単に結論づけれるものじゃないです、人の気もちなんて”
耳元に響く青木の言葉に、薪は心ごとぎゅっと抱きしめられる。同時に熱く湿った唇に耳朶をなぞられて小さく肩が震えた。

「俺だって、手紙の返事を頂けないとわかった時、あなたを諦めようとしたんです。何度も…」

「…………!」

眉根を寄せて振り向いた薪の顔は泣きそうだった。

「なのにおかしいんです。気づくと俺はあなたの傍にいて、いつの間にかこうしていて……」

向きなおった薪の身体を、青木はしっかり抱いて、目を閉じる。濡れた肌が密着する気持ちよさに、薪の腕が青木の背に絡む。

「聞きわけがなくてごめんなさい」

青木の唇が前髪を掻き分けて、薪の額に押しつけられる。伝えきれない愛しさがキスの隙間から溢れ落ちてくるようで、薪は思わずせつない息を吐く。

「でも、こんな俺を受けとめてくださって、ありがとうございます」

そうか。結局僕は返さなかった答えの代わりに、肌身に問われ、読みとられてしまっているのだ。
至るところから青木への思いがだだ漏れている、この身体から―――

「薪さん、抱いてもいいですか?」

「は……………ここでか?」

「いえ、温まったら向こうでちゃんと。あなたの誕生日だというのに、相変わらず俺のやりたいことばかりしてますが……」

本当に聞きわけのない男だ。言ったそばから青木の手と唇はもう薪の身体を這っている。

「…………勝手にしろ」

この誕生日の一日で、青木とともに過ごして与えられたものは数知れない。でも、こうして止めどなく注がれる愛情がまずもって何よりの自分へのプレゼントだと思う。

結局、思いの強さは引力だ。
どんな大層な言葉をならべても、人は自分が本当に居たい場所にしかとどまることができない。
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