2068 薪誕 旅館じかん
「ずいぶん長湯でしたね」
「ああ、無駄にデカい体を洗わされたせいで、湯冷めしそうだったからな」
背中を流してもらうときには、薪が寒がらないように内風呂に移ったのだが……強かだが繊細なその身体はとても冷えやすいようだ。
充分に温まった薪が穏やかな会話を辿って隣室を覗くと、和装の部屋着姿の青木が掘炬燵の食卓について、にこやかに待っていた。
「あの………何だかすみません」
「それは何に対する謝罪だ?」
「薪さんの誕生日なのに、俺ばっかりが幸せな思いをしてるので」
「そんなことはない。僕だって十分愉しんでる」
卓に歩み寄った薪は“上座へ行け”と青木に目線で指示する。
上司部下じゃなく、今夜はとことん夫婦を演じきるつもりのようだ。
長年のやりとりでそれを察した青木も、素直にいつもと真逆の位置に移った。
「今晩はゆっくり星を見ながら、また温泉であたたまりましょうね」
「………そうだな」
頷くと同時にズキンと薪の胸が痛んだ。
“いつか誰かとそうやって過ごしたのか?”という、青木の過去への疑念がまた湧いてきたからだ。
「今日は晴天だし、あれだけ空気も澄んでればきっと星も……」
薪が顔を曇らせているのに気づいた青木が、一瞬口をつぐむ。
「どうしました?てか薪さん、そのお着物変えてもらいましょうか」
「いや、サイズも合うしこれでいい」
青木の藍色に対して、薪の纏う乾鮭色の部屋着は多分女性用だ。
形は男女兼用だから使い勝手は変わらないし、可愛らしくて似合うから、青木としてもそのままで全然嬉しいのだが。
おかげで二人の思惑どおり“夫婦のまま”で食事は進んだ。くすぐったさと料理の美味しさが相俟って、二人の頬は弛みがちだ。青木の場合は………涙腺も。
「お前、また泣いてるのか?」
薪は呆れて目を丸くする。
「………えぇ、すみません。何か俺、こういう雰囲気に憧れてあなたをここにお誘いしたのに……狙い通りどころか期待以上の事態がこうも続くと、もしや俺明日死ぬんじゃないかと……」
「こういう雰囲気?どういう?」
「夫婦みたいに親密に……ゆったり過ごす、ってことです」
照れ臭そうに打ち明ける青木に、薪の心はきゅんと掴まれる。
「でも駄目ですね。お泊まり旅行なんて薪さんに惚れ直してもらえるチャンスなのに、デレデレしてるだけでカッコ悪いですよね、俺」
「ああ、ついでにメソメソしてるし最低だ」
つっけんどんに答える薪の声は、少し上擦っていた。込み上げる情愛に声を詰まらせるのだけは、なんとか回避できたのだけれど。
絶妙に満たされた夕食が終わり、青木はマッサージチェアをリクライニングしてのんびり寛いでいる。
一方の薪は振る舞われた夕食の匙加減が、自分たちにそれぞれぴったりだったことに驚いていた。個々の趣向や満腹中枢を計測できるセンサーでも仕込まれていたのかと思うくらいに……
「ええ、それはあなた方がお互いをうんと気遣ってみえるので伝わってきましたよ。奥様は重いおかずよりも、口当たりよく風味のあるものがお好きですかねぇ。旦那様は気ぃ配ってよう動かれますし、運転もされてますから、精をつけんとねぇ……」
片付けを終えたベテランの仲居さんは、薪の問いに朗らかに答えた。
その上、彼女は嬉しそうに言ったのだ。
“ほんにあなた方はお噂通りの素敵なご夫婦ですわ”と。
この旅館にはやはり、自分の知らない何かがある―――
「ああ、無駄にデカい体を洗わされたせいで、湯冷めしそうだったからな」
背中を流してもらうときには、薪が寒がらないように内風呂に移ったのだが……強かだが繊細なその身体はとても冷えやすいようだ。
充分に温まった薪が穏やかな会話を辿って隣室を覗くと、和装の部屋着姿の青木が掘炬燵の食卓について、にこやかに待っていた。
「あの………何だかすみません」
「それは何に対する謝罪だ?」
「薪さんの誕生日なのに、俺ばっかりが幸せな思いをしてるので」
「そんなことはない。僕だって十分愉しんでる」
卓に歩み寄った薪は“上座へ行け”と青木に目線で指示する。
上司部下じゃなく、今夜はとことん夫婦を演じきるつもりのようだ。
長年のやりとりでそれを察した青木も、素直にいつもと真逆の位置に移った。
「今晩はゆっくり星を見ながら、また温泉であたたまりましょうね」
「………そうだな」
頷くと同時にズキンと薪の胸が痛んだ。
“いつか誰かとそうやって過ごしたのか?”という、青木の過去への疑念がまた湧いてきたからだ。
「今日は晴天だし、あれだけ空気も澄んでればきっと星も……」
薪が顔を曇らせているのに気づいた青木が、一瞬口をつぐむ。
「どうしました?てか薪さん、そのお着物変えてもらいましょうか」
「いや、サイズも合うしこれでいい」
青木の藍色に対して、薪の纏う乾鮭色の部屋着は多分女性用だ。
形は男女兼用だから使い勝手は変わらないし、可愛らしくて似合うから、青木としてもそのままで全然嬉しいのだが。
おかげで二人の思惑どおり“夫婦のまま”で食事は進んだ。くすぐったさと料理の美味しさが相俟って、二人の頬は弛みがちだ。青木の場合は………涙腺も。
「お前、また泣いてるのか?」
薪は呆れて目を丸くする。
「………えぇ、すみません。何か俺、こういう雰囲気に憧れてあなたをここにお誘いしたのに……狙い通りどころか期待以上の事態がこうも続くと、もしや俺明日死ぬんじゃないかと……」
「こういう雰囲気?どういう?」
「夫婦みたいに親密に……ゆったり過ごす、ってことです」
照れ臭そうに打ち明ける青木に、薪の心はきゅんと掴まれる。
「でも駄目ですね。お泊まり旅行なんて薪さんに惚れ直してもらえるチャンスなのに、デレデレしてるだけでカッコ悪いですよね、俺」
「ああ、ついでにメソメソしてるし最低だ」
つっけんどんに答える薪の声は、少し上擦っていた。込み上げる情愛に声を詰まらせるのだけは、なんとか回避できたのだけれど。
絶妙に満たされた夕食が終わり、青木はマッサージチェアをリクライニングしてのんびり寛いでいる。
一方の薪は振る舞われた夕食の匙加減が、自分たちにそれぞれぴったりだったことに驚いていた。個々の趣向や満腹中枢を計測できるセンサーでも仕込まれていたのかと思うくらいに……
「ええ、それはあなた方がお互いをうんと気遣ってみえるので伝わってきましたよ。奥様は重いおかずよりも、口当たりよく風味のあるものがお好きですかねぇ。旦那様は気ぃ配ってよう動かれますし、運転もされてますから、精をつけんとねぇ……」
片付けを終えたベテランの仲居さんは、薪の問いに朗らかに答えた。
その上、彼女は嬉しそうに言ったのだ。
“ほんにあなた方はお噂通りの素敵なご夫婦ですわ”と。
この旅館にはやはり、自分の知らない何かがある―――