2068 薪誕 旅館じかん
薪の思いとはうらはらに、寄り道のドライブは続く。
でも不思議だ。
何も追わない、追われない時間は、ゆったりと流れるのに、あっというまに過ぎていく。
綺麗な景色を見つけては、車を停めて二人で眺めたり、滝まで続くハイキングコースを散策したり。
手付かずの自然のなかで頬張ったおにぎりの美味しさに目を見張る薪の顔を、愛しげに青木が見守って……全く、甘いやりとりにうつつを抜かす誕生日なんておめでたいにもほどがある。
車に戻り再出発のエンジンをかけた時、何気なく運転席を見る薪を、爽やかなアウトドアコーデの青木が優しく見返す。
オーバーシルエットのカジュアルを若々しくきめた薪の瞳に見つめられ、ときめきがまたぶりかえす青木も然り。
“どうして目の前の相手はこんなに自分の好みのど真ん中なんだろう”と、二人は同時に同じことを思う。
長い間一緒だったのは仕事上の話だ。
お互いのプライベートな顔に、改めて恋に落ちる感覚を、今日だけで何度味わったかしれない。
夕陽さすつづら折りの山道を進む車の中で、青木の運転に身を委ねてうとうとしているうちに、かなり高い場所まで上ってきたようだ。
「薪さん、着きましたよ」
降り立ったのはまるで天上に連れてこられたような、霞立つ静かな場所だった。
「ここは……」
薪は一呼吸して、白い空気を体内に取り込む。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらです」
作務衣姿の案内係の男性がどこからか飛んできて誘導されたのは、こぢんまりした純和風旅館。
なぜだろう?
来たこともないのに、なぜか懐かしいのは。
澄んだ空気の心地よい冷たさが血流に溶け込むのを感じながら、薪の口許は自然とほころんでいた。
「お荷物お運び致します。“奥様”のお手荷物も、こちらへ…」
「えっ、」
荷台を引いてきた仲居の言葉に、荷物を受け渡す青木が固まった。
「いえ、この人とはまだ……ゴフッ」
肘で突かれた脇腹を押さえる青木は、仲居に笑顔で会釈した薪が荷物を台に乗せるのを涙目で見守る。
“お前、どんな申し込み方をしたら僕が青木夫人になるんだ?”とか、部屋でネチネチ詰られるのを覚悟しながら………
「………あの、薪さん。お茶、淹れました」
何の咎め立てもないのが却って恐ろしくもある。
青木が震える声で静かな隣室に声をかけた。
離れの一軒家風の客室をふらりと探索していた薪は、奥の扉を引いて眺めのいい露天風呂に目を見開く。
「……おい、青木」
肩を落として縮こまる青木の背中に近づいて、薪はもう一度耳元で声をかける。
「旦那様、お風呂でお背中を流しましょうか?」
「なっ……」
ぞくりと震え上がり青木が振り向くと、薪は挑発的な美しい笑みで反応を窺っている。
「何仰るんですっ、薪さんにそんなことさせるわけには……」
「そうか。じゃあ僕一人で入ってくる」
「えっ、いえあの、やっぱお願いします!ただ……」
「?」
「後で行きます。ちょっと落ち着いてからで」
「わかった、ゆっくりでいい。僕もお茶を戴いてからにする」
薪は微笑んで、湯呑みを両手の指でささえ小さく息を吹きかけた。
さっきの囁きが刺激的すぎて昂りが収まらない青木は、湯呑みをなぞる薪の指先を絆された視線で追う。
まだ口をつけようとしない薪さんはもしかしたら猫舌なのだろうか、などとぼんやり考えながら……
「青木」
「はい」
「……お前は僕と夫婦に見られるのが嫌なのか?」
「っ……まさか、身に余る光栄ですよ!」
ロビーでの話を急に振られて、青木は思わず姿勢を正す。
「だったら、場をわきまえろ。律儀に訂正しなくたって、僕らの本当の関係を知るべき人間はここにはいないだろう?」
むしろ知られない方が好都合だし、と云わんばかりに開き直る薪の勢いに呑まれて、青木は頷いた。
「……そりゃそう、ですけど……」
たしかに、踏み入れた瞬間時を忘れさせるような、レトロで温かなもてなしの空間に、じたばた慌てた自分の反応は、明らかにそぐわないものだった。
でも薪が夫婦扱いを受け入れたのがマナー上の対応だけなのだとしたら、少し拍子抜けだ。
恐縮しつつも舞い上がったのは、結局俺だけだったのか………と、青木は神妙な面持で視線を座卓に落とした。
“それだけじゃないんだけどな”
夕暮れの空と冬山の森を、青白い濁り湯に包まれ見下ろしながら、薪は思う。
二人で一つの存在になれる非日常の空間で、水入らずの時間を思い切り愉しみたい自分もいるのだ。
反面夫婦という呼び方が現実になることを望むほど、薪はまだ身勝手にはなれない。だが青木はまるでその逆だ。
“この人とはまだ…”と言いかけたのは“いつかそうなりたいが今はまだ違う”という、実現途上のひたむきな思いから来るものだろう。
真摯な気持ちは嬉しいが、それを叶えて青木の人生をすべて自分が奪ってしまうのは怖い。
だから、この心地好い場所に滞在している間だけの夢を見るくらいが、今の薪にはちょうどいいのだ。
温まってきた肢体を湯のなかに解放して空を見上げ、きもちよく息をついた後………薪はふと、視線を宙の一点で止める。
ん?
そういえば、なぜアイツはこんな僕好みの場所を知っていたんだ?
三十路に足を踏み入れたばかりの男が、仕事家事育児の合間にググったところで、こんな上質の大人の隠れ家は簡単に出てこないだろう。
ではいつ、誰と、ここを見つけたのか?
怪訝な顔をした薪の脳裏に、ボワンと雪子の顔が大きく浮かぶ。
………………いや違う、たぶん彼女ではない。
週末であろうと関係なく毎日第九のモニターに張り付いているか現場に足を運んでいた当時の薪の隣に、青木は常にいた。
それにあの雪子が恋人と旅行なぞしようものなら黙っているはずはなく、本人か第一メンバーから、必ず何か漏れ聞こえてくる筈だから……
でも、それなら誰なんだ?
第九着任後に青木がつきあった女性は雪子だけのはずだし、学生時代のカノジョは遊園地好きの年下だから好みが違うし。
ハッ、待てよ、NY赴任やパリ出向で離れていた二年の間に、僕の知らないところで誰かと………
「薪さん、どうしたんです?眉間にすごい皺寄ってますよ」
「……!!……」
屈託ない声とともに、薪の身体を包む湯が嵩増すように僅かに波打つ。
「森の緑が気持ちいいですね……」
大男なりに湯の中で体を伸ばせるだけ伸ばし、青木は景色を見渡した。仕草が少し固いのは照れからきているのだろう。
「ふふ、メガネ無しで見えるのか?」
「ええ。ぼんやりですが、色や空気で十分わかります。あなたの顔もこのくらい近づけばはっきり………イテテ押さないでください!」
「っ、お前が急に近づくからだろ!」
「………はい、すみません」
顎を押し返された青木は、しょんぼりと体を横に向ける。
薪も逆方向をむいて別の景色を見渡しながら、頭を冷やそうと大きく深呼吸した。
本人は無自覚だが、青木の顔は大柄な割に端正なつくりだ。目力のある奥二重の濃い色の瞳に捉えられればたちまち薪は蕩かされること請け合いで。気を抜いている時不用意に接近されると、こっちがもたないのだ。
そうとは知らない青木はひたすら反省だ。が、ふと薪の温もりを背中に感じて、また鼓動が速まる。
この鼓動はいつからか、自分のものであり薪のものだ。薪を思い薪のために拍動し、ときに激しく高鳴る。
ずっと前から、そしてこれからも……
愛しさが込み上げた青木は向き直って裸の薪を抱きしめた。
抱きしめられた薪は、なんだか凄くほっとした感覚に全身を包まれ、ふと思い出す。
そういえば、宿についたら一番にしたかったのは、“これ”だったのだと。
でも不思議だ。
何も追わない、追われない時間は、ゆったりと流れるのに、あっというまに過ぎていく。
綺麗な景色を見つけては、車を停めて二人で眺めたり、滝まで続くハイキングコースを散策したり。
手付かずの自然のなかで頬張ったおにぎりの美味しさに目を見張る薪の顔を、愛しげに青木が見守って……全く、甘いやりとりにうつつを抜かす誕生日なんておめでたいにもほどがある。
車に戻り再出発のエンジンをかけた時、何気なく運転席を見る薪を、爽やかなアウトドアコーデの青木が優しく見返す。
オーバーシルエットのカジュアルを若々しくきめた薪の瞳に見つめられ、ときめきがまたぶりかえす青木も然り。
“どうして目の前の相手はこんなに自分の好みのど真ん中なんだろう”と、二人は同時に同じことを思う。
長い間一緒だったのは仕事上の話だ。
お互いのプライベートな顔に、改めて恋に落ちる感覚を、今日だけで何度味わったかしれない。
夕陽さすつづら折りの山道を進む車の中で、青木の運転に身を委ねてうとうとしているうちに、かなり高い場所まで上ってきたようだ。
「薪さん、着きましたよ」
降り立ったのはまるで天上に連れてこられたような、霞立つ静かな場所だった。
「ここは……」
薪は一呼吸して、白い空気を体内に取り込む。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらです」
作務衣姿の案内係の男性がどこからか飛んできて誘導されたのは、こぢんまりした純和風旅館。
なぜだろう?
来たこともないのに、なぜか懐かしいのは。
澄んだ空気の心地よい冷たさが血流に溶け込むのを感じながら、薪の口許は自然とほころんでいた。
「お荷物お運び致します。“奥様”のお手荷物も、こちらへ…」
「えっ、」
荷台を引いてきた仲居の言葉に、荷物を受け渡す青木が固まった。
「いえ、この人とはまだ……ゴフッ」
肘で突かれた脇腹を押さえる青木は、仲居に笑顔で会釈した薪が荷物を台に乗せるのを涙目で見守る。
“お前、どんな申し込み方をしたら僕が青木夫人になるんだ?”とか、部屋でネチネチ詰られるのを覚悟しながら………
「………あの、薪さん。お茶、淹れました」
何の咎め立てもないのが却って恐ろしくもある。
青木が震える声で静かな隣室に声をかけた。
離れの一軒家風の客室をふらりと探索していた薪は、奥の扉を引いて眺めのいい露天風呂に目を見開く。
「……おい、青木」
肩を落として縮こまる青木の背中に近づいて、薪はもう一度耳元で声をかける。
「旦那様、お風呂でお背中を流しましょうか?」
「なっ……」
ぞくりと震え上がり青木が振り向くと、薪は挑発的な美しい笑みで反応を窺っている。
「何仰るんですっ、薪さんにそんなことさせるわけには……」
「そうか。じゃあ僕一人で入ってくる」
「えっ、いえあの、やっぱお願いします!ただ……」
「?」
「後で行きます。ちょっと落ち着いてからで」
「わかった、ゆっくりでいい。僕もお茶を戴いてからにする」
薪は微笑んで、湯呑みを両手の指でささえ小さく息を吹きかけた。
さっきの囁きが刺激的すぎて昂りが収まらない青木は、湯呑みをなぞる薪の指先を絆された視線で追う。
まだ口をつけようとしない薪さんはもしかしたら猫舌なのだろうか、などとぼんやり考えながら……
「青木」
「はい」
「……お前は僕と夫婦に見られるのが嫌なのか?」
「っ……まさか、身に余る光栄ですよ!」
ロビーでの話を急に振られて、青木は思わず姿勢を正す。
「だったら、場をわきまえろ。律儀に訂正しなくたって、僕らの本当の関係を知るべき人間はここにはいないだろう?」
むしろ知られない方が好都合だし、と云わんばかりに開き直る薪の勢いに呑まれて、青木は頷いた。
「……そりゃそう、ですけど……」
たしかに、踏み入れた瞬間時を忘れさせるような、レトロで温かなもてなしの空間に、じたばた慌てた自分の反応は、明らかにそぐわないものだった。
でも薪が夫婦扱いを受け入れたのがマナー上の対応だけなのだとしたら、少し拍子抜けだ。
恐縮しつつも舞い上がったのは、結局俺だけだったのか………と、青木は神妙な面持で視線を座卓に落とした。
“それだけじゃないんだけどな”
夕暮れの空と冬山の森を、青白い濁り湯に包まれ見下ろしながら、薪は思う。
二人で一つの存在になれる非日常の空間で、水入らずの時間を思い切り愉しみたい自分もいるのだ。
反面夫婦という呼び方が現実になることを望むほど、薪はまだ身勝手にはなれない。だが青木はまるでその逆だ。
“この人とはまだ…”と言いかけたのは“いつかそうなりたいが今はまだ違う”という、実現途上のひたむきな思いから来るものだろう。
真摯な気持ちは嬉しいが、それを叶えて青木の人生をすべて自分が奪ってしまうのは怖い。
だから、この心地好い場所に滞在している間だけの夢を見るくらいが、今の薪にはちょうどいいのだ。
温まってきた肢体を湯のなかに解放して空を見上げ、きもちよく息をついた後………薪はふと、視線を宙の一点で止める。
ん?
そういえば、なぜアイツはこんな僕好みの場所を知っていたんだ?
三十路に足を踏み入れたばかりの男が、仕事家事育児の合間にググったところで、こんな上質の大人の隠れ家は簡単に出てこないだろう。
ではいつ、誰と、ここを見つけたのか?
怪訝な顔をした薪の脳裏に、ボワンと雪子の顔が大きく浮かぶ。
………………いや違う、たぶん彼女ではない。
週末であろうと関係なく毎日第九のモニターに張り付いているか現場に足を運んでいた当時の薪の隣に、青木は常にいた。
それにあの雪子が恋人と旅行なぞしようものなら黙っているはずはなく、本人か第一メンバーから、必ず何か漏れ聞こえてくる筈だから……
でも、それなら誰なんだ?
第九着任後に青木がつきあった女性は雪子だけのはずだし、学生時代のカノジョは遊園地好きの年下だから好みが違うし。
ハッ、待てよ、NY赴任やパリ出向で離れていた二年の間に、僕の知らないところで誰かと………
「薪さん、どうしたんです?眉間にすごい皺寄ってますよ」
「……!!……」
屈託ない声とともに、薪の身体を包む湯が嵩増すように僅かに波打つ。
「森の緑が気持ちいいですね……」
大男なりに湯の中で体を伸ばせるだけ伸ばし、青木は景色を見渡した。仕草が少し固いのは照れからきているのだろう。
「ふふ、メガネ無しで見えるのか?」
「ええ。ぼんやりですが、色や空気で十分わかります。あなたの顔もこのくらい近づけばはっきり………イテテ押さないでください!」
「っ、お前が急に近づくからだろ!」
「………はい、すみません」
顎を押し返された青木は、しょんぼりと体を横に向ける。
薪も逆方向をむいて別の景色を見渡しながら、頭を冷やそうと大きく深呼吸した。
本人は無自覚だが、青木の顔は大柄な割に端正なつくりだ。目力のある奥二重の濃い色の瞳に捉えられればたちまち薪は蕩かされること請け合いで。気を抜いている時不用意に接近されると、こっちがもたないのだ。
そうとは知らない青木はひたすら反省だ。が、ふと薪の温もりを背中に感じて、また鼓動が速まる。
この鼓動はいつからか、自分のものであり薪のものだ。薪を思い薪のために拍動し、ときに激しく高鳴る。
ずっと前から、そしてこれからも……
愛しさが込み上げた青木は向き直って裸の薪を抱きしめた。
抱きしめられた薪は、なんだか凄くほっとした感覚に全身を包まれ、ふと思い出す。
そういえば、宿についたら一番にしたかったのは、“これ”だったのだと。