2068 薪誕 旅館じかん
ピカピカに磨いたガラスのように張りつめて澄んだ空気と空は、都会とはまるで別ものだ。
水溜まりの氷る冬の稲田の藁色と、山と空の青、てっぺんの雪や雲の白も、どれもがとことん目に優しい。
のどかな山麓の道を走るSUV。
レンタルながら冬山に備えてスタッドレスを履き、東京からもう二時間ドライブを続けているが、まだ正午を回る前だ。
この小旅行に備えて薪宅に先乗りしたドライバーとは、もう昨夜のうちに幾度となく抱き合った。そのせいか助手席の薪もすっきりした透明感を纏い、落ち着いて窓の外の景色を眺めている。
少し開けた車窓から流れ込む冷気が、薪の柔らかい髪を撫でていく。
いつになくカドの取れた薪の自然な表情をちらりと見る“運転手兼恋人”の青木も、初めての二人のプライベートな旅行に胸踊らせていた。
昨夜0時から始まっている、薪の誕生日。
日付が変わる少し前にマンションに到着した青木が奮発して買っていったワインは、薪の綺麗な瞳に穴があくほど見つめられた末に “これは来年の誕生日に一緒に飲もう”と、大切にラックに寝かされた。
無機質だった食卓には、料理をしないと言ってた筈の薪が手製の肴を並べ、感動に胸震わせる青木と二人きりの祝杯をあげた。
好きな酒を嗜み恋人と語らう合間にも、ラックのワインに愛しげな眼差しを注ぐ薪。
その横顔を見ながら青木は“この先も毎年、自分が一年かけて選び抜いたワインをこの人の誕生日に贈ろう”と、心に決めたのだった。
グラスや皿を空けたテーブルを離れるやいなや、どちらからともなく抱き合う二人。
誕生日だからといって、薪は“特別なこと”を必要としていなかった。むしろ今過ごしているこの時間が日常であり続ければいいと、無意識に望んでいるだけだ。
ガタ、ガタ、と山道を上り始める車。
景色から目を離した薪は体を僅かに起こし、青木のこなれたアクセルワークとハンドル捌き、そして舗装のない狭い道先を慎重に読む横顔を見つめながら、またシートにゆっくりと凭れる。
「薪さん、道悪いので、酔いそうになったら声かけてくださいね」
「大丈夫だ。落ちかけたヘリに比べればこんなの何てことない」
“いつまでそれを仰るんです”と苦笑する青木は、髪型もメガネもあの頃と変わりばえしないのに、何故か別人みたいに頼もしく薪の目に映る。
これが結ばれた恋人同士の感覚なのだろうか……相手の体温も息遣いも、体内に響く上り詰めた脈動まで刻まれた自分の五感に、薪は甘く身震いした。
「あ、ほら薪さん。綺麗な景色ですよ」
その声に、青木の横顔をみていた薪の視線がそのまま彼の視線を辿って、前に開けた景色の美しさに釘付けになる。
と、次の瞬間視界が暗くなり、唇に青木のぬくもりが触れ、温度差が優しく吸い取られて―――
目を見開いたまま固まっている薪を乗せた車が、また動き出した。
―――くそッ、油断した。
青木の運転する車には何度も乗ってきたが、こんなことされるのは初めてだ。というか今まで横に乗るのは仕事の時だけだったから、される筈が無かった。だがこれからは仕事中でも、こいつの不意討ちに注意を払うべきなのか?まさかな?
「薪さん、どうしました?なんかほんと可愛いんですけど」
混乱している隙に片手運転の青木に手を握られて、また薪の心臓がドキンと跳ねる。
「バカッ、運転に集中しろ!」
「すみません」
思い切り振り払った手は素直にハンドル操作に戻った。
でも今度は、その大きな手を見つめる薪の思考回路に妙なスイッチが入ってしまっている。
ああ、早く旅館でもどこにでも到着してほしい。
そしてこの手に触れられたい。
ぜんぶ包んで、温められたい、と。
「寒いですよね。窓、閉めますよ」
青木の声と作動するパワーウインドウの作動音にハッと我に返った薪は、頬の紅潮を隠すようにそっと横を向いた。
清々しい空気の中で、自分の疚しさだけが浮き彫りなのが恥ずかしくて。
水溜まりの氷る冬の稲田の藁色と、山と空の青、てっぺんの雪や雲の白も、どれもがとことん目に優しい。
のどかな山麓の道を走るSUV。
レンタルながら冬山に備えてスタッドレスを履き、東京からもう二時間ドライブを続けているが、まだ正午を回る前だ。
この小旅行に備えて薪宅に先乗りしたドライバーとは、もう昨夜のうちに幾度となく抱き合った。そのせいか助手席の薪もすっきりした透明感を纏い、落ち着いて窓の外の景色を眺めている。
少し開けた車窓から流れ込む冷気が、薪の柔らかい髪を撫でていく。
いつになくカドの取れた薪の自然な表情をちらりと見る“運転手兼恋人”の青木も、初めての二人のプライベートな旅行に胸踊らせていた。
昨夜0時から始まっている、薪の誕生日。
日付が変わる少し前にマンションに到着した青木が奮発して買っていったワインは、薪の綺麗な瞳に穴があくほど見つめられた末に “これは来年の誕生日に一緒に飲もう”と、大切にラックに寝かされた。
無機質だった食卓には、料理をしないと言ってた筈の薪が手製の肴を並べ、感動に胸震わせる青木と二人きりの祝杯をあげた。
好きな酒を嗜み恋人と語らう合間にも、ラックのワインに愛しげな眼差しを注ぐ薪。
その横顔を見ながら青木は“この先も毎年、自分が一年かけて選び抜いたワインをこの人の誕生日に贈ろう”と、心に決めたのだった。
グラスや皿を空けたテーブルを離れるやいなや、どちらからともなく抱き合う二人。
誕生日だからといって、薪は“特別なこと”を必要としていなかった。むしろ今過ごしているこの時間が日常であり続ければいいと、無意識に望んでいるだけだ。
ガタ、ガタ、と山道を上り始める車。
景色から目を離した薪は体を僅かに起こし、青木のこなれたアクセルワークとハンドル捌き、そして舗装のない狭い道先を慎重に読む横顔を見つめながら、またシートにゆっくりと凭れる。
「薪さん、道悪いので、酔いそうになったら声かけてくださいね」
「大丈夫だ。落ちかけたヘリに比べればこんなの何てことない」
“いつまでそれを仰るんです”と苦笑する青木は、髪型もメガネもあの頃と変わりばえしないのに、何故か別人みたいに頼もしく薪の目に映る。
これが結ばれた恋人同士の感覚なのだろうか……相手の体温も息遣いも、体内に響く上り詰めた脈動まで刻まれた自分の五感に、薪は甘く身震いした。
「あ、ほら薪さん。綺麗な景色ですよ」
その声に、青木の横顔をみていた薪の視線がそのまま彼の視線を辿って、前に開けた景色の美しさに釘付けになる。
と、次の瞬間視界が暗くなり、唇に青木のぬくもりが触れ、温度差が優しく吸い取られて―――
目を見開いたまま固まっている薪を乗せた車が、また動き出した。
―――くそッ、油断した。
青木の運転する車には何度も乗ってきたが、こんなことされるのは初めてだ。というか今まで横に乗るのは仕事の時だけだったから、される筈が無かった。だがこれからは仕事中でも、こいつの不意討ちに注意を払うべきなのか?まさかな?
「薪さん、どうしました?なんかほんと可愛いんですけど」
混乱している隙に片手運転の青木に手を握られて、また薪の心臓がドキンと跳ねる。
「バカッ、運転に集中しろ!」
「すみません」
思い切り振り払った手は素直にハンドル操作に戻った。
でも今度は、その大きな手を見つめる薪の思考回路に妙なスイッチが入ってしまっている。
ああ、早く旅館でもどこにでも到着してほしい。
そしてこの手に触れられたい。
ぜんぶ包んで、温められたい、と。
「寒いですよね。窓、閉めますよ」
青木の声と作動するパワーウインドウの作動音にハッと我に返った薪は、頬の紅潮を隠すようにそっと横を向いた。
清々しい空気の中で、自分の疚しさだけが浮き彫りなのが恥ずかしくて。