2066 海の別荘
静かに凪いだ時間。
つかの間の休息で一気に解き放った、面々の日頃の鬱憤が、心地よい疲労と充足感に変わりゆく頃だろう。
ビーチのあちこちで弾けていたはしゃぎ声も、夕刻に近づいたた今はもう聞こえてこない。
窓を開け放した畳の書斎に座している、薪のところにもだ。
「あれ?薪さん、ずるいですよ。もうシャワー浴びちゃったんですか?」
「ああ、お前の報告書を読むためにな」
もっともらしく返すのは単なる言い訳だが、青木は「ありがとうございます」と素直に頭を下げて、持ってきた小さなトレーに載ったガラスの器を、それごと机にそっと置く。
「あっちの皆でかき氷を作ったんですよ。 “南九州名物白熊風” です。よければ薪さんも召し上がってください」
「ありがとう」
ディスプレイから目を離さずに、薪は手渡されたスプーンを受けとった。粗削りだが予想以上に踏み込んだ報告書の内容に、興味のスイッチが完全に事件に入っている。
「驚いたな。MRI捜査員であるお前が、その画を真っ向から否定しにかかるとは」
「否定はしてませんよ。“被害者Aと被疑者Cが事件の1ヶ月前に関係を清算し、Aが殺害されるまで会ってない”という事実を読み取っただけです」
「だとしたら証拠は?CがAの殺害を自供し、AのMRIの画には最期の晩にもCが現れているんだぞ。これが全て嘘だというのか?」
検証結果にざっと目を通し終えた薪は、青木に鋭い視線を向けた。
だいたいすべてをお見通しな癖して、意地が悪い。
「というか直近1ヶ月間のAの脳内のCの画は、C本人のものじゃないんです。AI分析でも、従前の実物との行動パターンの一致率は0.01%しかありません」
「実物じゃないのなら、Aが幻影でも見ているということなのか?」
「いえ、幻影でもなくて“実体”はあるんですけど……」
ぴくりと上がる綺麗な薪の眉に、気をとられながらも、青木が続ける。
「Cの幻影は全て、妻のBに投影されて現れています。ちなみにCの幻影とBのパターン一致率は99.99%」
「なるほどな。じゃあここ1ヶ月のMRI画のCはBだとすると、残りの0.01%はどんなケースなんだ?」
「ケースは一つ、Bとの性交渉時にAが目を閉じてる間に見ているCです」
動揺も感傷も入り込む隙のない事実を、青木は薪に真っ直ぐ伝える。
「全て目視で調査しましたが、この間だけAは純然たるCの幻影を、脳内で再現しています」
そして、一段落とした声のトーンで、耳打ちのように語った。
「そしてBの方は、現在夫が殺害された当日のことについて黙秘を続けています。が、ここ一ヶ月のAのMRI画の中のCをBとした場合、局面は大きく変わるかと」
スプーンを運んだ薪の口の端がつり上がるのを見届けた青木は、伏せるように目線をはずした。自分にトスされたボールが、第三管区に戻った手応えとともに……
「ちなみにCが虚偽の罪を自供したのは、Aの死に対する動揺と自責の念からのようです。本人は今現在も極度のストレスによる精神不安定が続いていますが……」
「甘い」
「へっ?」
「この氷」
「はあ……」
「あとはお前が食え」
青木は一瞬ポカンとしてから、眉間に皺を寄せた上目遣いで自分を睨む上司を見つめ返して大袈裟な心配顔をしてみせる。
「でも薪さん、ほとんどフルーツしか食べてないじゃないですか。この練乳はカルシウム配合だし、薪さん食べといて損はないですって」
さっきまでの上司部下の顔はどこへやら、嫌いな食べ物を出され駄々をこねる子どもと、それを優しく諫めるデレデレのパパしかいなくなっている。
「は、背が伸びる?イライラを解消しろと?それとも僕は骨密度の低下した年寄り扱いか?何にしても失礼だぞお前!」
「いいから、もう少し食べてくださいほら、ア~ン……」
「っ、子ども扱いするなっ!」
二人が親子のように揉み合う室内に、突然無機質な声が響いた。
「あの~、そろそろお肉、焼きはじめていいですかねぇ?」
電光石火の如く離れて他人行儀を装うケーサツのお偉方二名の間に、作り笑顔のスガちゃんが割って入ってくる。個性派揃いの職場の人間関係には彼女も大概慣れていた。
「ああ、頼みます。何ならついでにこの男も煮るなり焼くなりしてください」
「ええっ、薪さんそれはヒドイです!」
犬も食わないやりとりを続ける二人を残して、スガちゃんはすでにその場を立ち去っていた。
全くあの二人には呆れたものだ。
水入らずでもあんな調子じゃ、痴話喧嘩を通り越した夫婦漫才も、あのまま一生続くだろう。
モヤモヤする感情のなかで、スガちゃんは雪子の中で今も燻る煮え切らなさの根源を、なんとなく突き止めた気にもなっていた。
腹が立つくらい思いあっている(と雪子が言ってた)あの二人は、自分以上に相手のことを何より大事にしすぎているように見える。
自分の欲望よりもただ相手を幸せで満たすことを優先しすぎて、互いに身動きが取れなくなっているんじゃないだろうか。
つかの間の休息で一気に解き放った、面々の日頃の鬱憤が、心地よい疲労と充足感に変わりゆく頃だろう。
ビーチのあちこちで弾けていたはしゃぎ声も、夕刻に近づいたた今はもう聞こえてこない。
窓を開け放した畳の書斎に座している、薪のところにもだ。
「あれ?薪さん、ずるいですよ。もうシャワー浴びちゃったんですか?」
「ああ、お前の報告書を読むためにな」
もっともらしく返すのは単なる言い訳だが、青木は「ありがとうございます」と素直に頭を下げて、持ってきた小さなトレーに載ったガラスの器を、それごと机にそっと置く。
「あっちの皆でかき氷を作ったんですよ。 “南九州名物白熊風” です。よければ薪さんも召し上がってください」
「ありがとう」
ディスプレイから目を離さずに、薪は手渡されたスプーンを受けとった。粗削りだが予想以上に踏み込んだ報告書の内容に、興味のスイッチが完全に事件に入っている。
「驚いたな。MRI捜査員であるお前が、その画を真っ向から否定しにかかるとは」
「否定はしてませんよ。“被害者Aと被疑者Cが事件の1ヶ月前に関係を清算し、Aが殺害されるまで会ってない”という事実を読み取っただけです」
「だとしたら証拠は?CがAの殺害を自供し、AのMRIの画には最期の晩にもCが現れているんだぞ。これが全て嘘だというのか?」
検証結果にざっと目を通し終えた薪は、青木に鋭い視線を向けた。
だいたいすべてをお見通しな癖して、意地が悪い。
「というか直近1ヶ月間のAの脳内のCの画は、C本人のものじゃないんです。AI分析でも、従前の実物との行動パターンの一致率は0.01%しかありません」
「実物じゃないのなら、Aが幻影でも見ているということなのか?」
「いえ、幻影でもなくて“実体”はあるんですけど……」
ぴくりと上がる綺麗な薪の眉に、気をとられながらも、青木が続ける。
「Cの幻影は全て、妻のBに投影されて現れています。ちなみにCの幻影とBのパターン一致率は99.99%」
「なるほどな。じゃあここ1ヶ月のMRI画のCはBだとすると、残りの0.01%はどんなケースなんだ?」
「ケースは一つ、Bとの性交渉時にAが目を閉じてる間に見ているCです」
動揺も感傷も入り込む隙のない事実を、青木は薪に真っ直ぐ伝える。
「全て目視で調査しましたが、この間だけAは純然たるCの幻影を、脳内で再現しています」
そして、一段落とした声のトーンで、耳打ちのように語った。
「そしてBの方は、現在夫が殺害された当日のことについて黙秘を続けています。が、ここ一ヶ月のAのMRI画の中のCをBとした場合、局面は大きく変わるかと」
スプーンを運んだ薪の口の端がつり上がるのを見届けた青木は、伏せるように目線をはずした。自分にトスされたボールが、第三管区に戻った手応えとともに……
「ちなみにCが虚偽の罪を自供したのは、Aの死に対する動揺と自責の念からのようです。本人は今現在も極度のストレスによる精神不安定が続いていますが……」
「甘い」
「へっ?」
「この氷」
「はあ……」
「あとはお前が食え」
青木は一瞬ポカンとしてから、眉間に皺を寄せた上目遣いで自分を睨む上司を見つめ返して大袈裟な心配顔をしてみせる。
「でも薪さん、ほとんどフルーツしか食べてないじゃないですか。この練乳はカルシウム配合だし、薪さん食べといて損はないですって」
さっきまでの上司部下の顔はどこへやら、嫌いな食べ物を出され駄々をこねる子どもと、それを優しく諫めるデレデレのパパしかいなくなっている。
「は、背が伸びる?イライラを解消しろと?それとも僕は骨密度の低下した年寄り扱いか?何にしても失礼だぞお前!」
「いいから、もう少し食べてくださいほら、ア~ン……」
「っ、子ども扱いするなっ!」
二人が親子のように揉み合う室内に、突然無機質な声が響いた。
「あの~、そろそろお肉、焼きはじめていいですかねぇ?」
電光石火の如く離れて他人行儀を装うケーサツのお偉方二名の間に、作り笑顔のスガちゃんが割って入ってくる。個性派揃いの職場の人間関係には彼女も大概慣れていた。
「ああ、頼みます。何ならついでにこの男も煮るなり焼くなりしてください」
「ええっ、薪さんそれはヒドイです!」
犬も食わないやりとりを続ける二人を残して、スガちゃんはすでにその場を立ち去っていた。
全くあの二人には呆れたものだ。
水入らずでもあんな調子じゃ、痴話喧嘩を通り越した夫婦漫才も、あのまま一生続くだろう。
モヤモヤする感情のなかで、スガちゃんは雪子の中で今も燻る煮え切らなさの根源を、なんとなく突き止めた気にもなっていた。
腹が立つくらい思いあっている(と雪子が言ってた)あの二人は、自分以上に相手のことを何より大事にしすぎているように見える。
自分の欲望よりもただ相手を幸せで満たすことを優先しすぎて、互いに身動きが取れなくなっているんじゃないだろうか。