はじめてのお泊まり~青木家

「お前、いい加減にしろよ」

「…………………ハッ」

目を開けた青木の視界に、険しく眉根を寄せた美しい顔が飛び込む。

「えっ……俺、何か?」

「よくもそんな破廉恥な寝言を云えたものだな」

「は、はれんち?って、な、何が……」

「っ、自分の胸に訊け!」

舌打ちして顔をそむける薪の頬は紅潮し、肩は小刻みに震えている。
寝言とはいえ人の名前を気安く連呼し口説き文句を繰り返す大男を看病するこっちの身にもなれ、と怒鳴りたいのをなんとか抑えているのだ。

「あの……ご気分を害されたのならごめんなさい」

ぼんやりしつつも恐縮し上体を起こした青木の額から、張り付いていたタオルがぽとりと布団の上に落ちた。
それを目で追う青木の意識も、次第にピントが合っていく。

仕事用のデスクに置かれた洗面器と、拾い上げたタオルの冷感。

高熱にうなされた割に寝心地が悪くなかったのは、これで額とかをこまめに冷やし続けてくれた薪のおかげなのか。
パステルボーダーのウェアの袖をたくし上げた姿も美しく、って………それはまさか………

「ま、薪さんその格好……」

「雨の中お前を運んだせいで服がずぶ濡れになったんだ。さっきお母さんがお風呂と着替えを貸してくださって……」

「ええ、それ姉貴の学生時代のジェラピケ……あなた似合いすぎなんですけどっっ」

「………」

羞じらいと困惑に眉をひそめた薪の一瞬の表情が、青木のど真ん中を射貫く。
矯正視力で見てたら、とっくにキュン死していただろう。

「うるさいな。そんなこといいからさっさと着替えろ。あと水分補給もだ」

ポイポイと投げつけられた替えのパジャマとペットボトルを体で受け止めた青木は、指示どおりに水分を摂取し着替えを始める。

「他に要るものは?あ、待て………」

服を着る手を止めさせた薪が、手際よく濡れタオルを絞り、汗ばんだ背中を丁寧に拭ってくれる。
その神対応への感激が一気に込み上げた勢いで、青木は後ろ手にその手首を掴んだ。

「っ……」

「すみません……薪さん、手がこんなに冷えてしまって……」

いかにも大事そうに薪の手を包む青木の大きな手。

「僕のことは構うな。早く着替えろ!」

振り払おうとする手を掴まれたまま、薪は身を捩り背を向ける。
頬が熱くて鼓動が弾むのは、体の奥にずっと燻る疚しさのせいだ。
抑えきれず一線を踏み越えたのは、もうふた月以上前のこと。
以降その領域にお互い触れることはなく、関係はいつもどおり上司部下のままだ。つまりあれは何かの間違いで、今ならまだ踏みとどまれるはずだ、と思っていたのに―――

「薪さん、一つだけいいですか?どうしてもお伝えしたいことがあって……」

「………」

こういう青木の改まった口調には、嫌な予兆しかない。
ガレージで感じたゾッとする感覚とは対極の、今度は熱くのぼせる目眩が襲う。それでも手首を繋がれたままの薪は、背中で青木の声を受け止めるしかない。

「あの晩、俺は………肉体的な欲望だけであなたを抱いたんじゃないんです」

「………………………は!?」

場の空気と一緒に、薪の心臓も凍りつく。

「お……前、急に何言って…」

薪は声を震わせて振り向いた。
時化る波を受け止める防波堤みたいに、青木も向き直り、薪を見つめ返している。

「あなたへの特別な感情はありました、もうずっと前から。ただ、男女でもないし表現方法がわからないまま何年も経ってしまって……」

くそっ、馬鹿正直な奴め。
こいつの駆け引き無しの赤裸々な言葉は脅威だ。
手を振りほどこうが逃げられない飛び道具であることを、薪の心身はいやというほど知っている。

「でも一線を越えて、愛し方もわかりました」

「…………っ」
薪の大きな目が開いたまま静止し、それからはぐらかすように視線が泳いだ。

「………お前、寝ぼけてるだろ」

「いえ目覚めてます。だからお願いします。あなたを抱いたのは俺にとって必然の行為で、あなたにも“過ち”と思ってほしくない」

「もう止せ……」
自分がどうしたいのか、どうするべきなのか?真っ正面から押し寄せる青木の思いに呑まれて、色々見失いそうで焦る。

「自分が何言ってるかわかってるのか?」

「ええ、勿論です。俺はあなたを愛しているとお伝えしてるんですが………あなたこそわかっていただいてますか?」

「なっ………」

真っ赤になった薪は項垂れてしばし固まった末に、盛大な舌打ちをする。

「もういい!頭がイカれた高熱野郎め!」

「熱のせいじゃありません。おかげ様でもうだいぶ引いてきましたし」

「いいから離……せっ……!」

「いえ、今夜は離したくないです」

弱ってる青木なんて一撃で伸せるのに、なぜ抵抗できないのだろう。
振りほどこうと踠いても、逸らしたはずの視界が翳り………気づけばすっぽりと青木の腕のなかに収められている。

「先程、あなたは俺に“要るものがあるか”って訊かれましたよね?」

「………」

「俺にはあなたが必要です」

「………っ、はぁ……」

唇から切甘い吐息が不本意に零れる。
隙だらけの肌が、着衣を通り抜ける微熱に溶かされて動けない。

「こうしていれば……よく眠れるし、きっとすぐに体調も良くなると思うので」

「………」

声も出ず背中から抱かれた格好で、捩った薪の身体は閉じ込められる快感を甘受するしかない。

「薪さん……体勢きつくないですか?どんな抱き方が寝やすいか、教えてくだされば……」

眠りに落ちていく青木の声。
やがて伝わる深い寝息と確かな鼓動を、体温とともに背中で感じながら―――薪はハッと息を呑んだ。

もしかしたらこいつは、夜を徹して面倒みるつもりだった僕を、無理矢理でも休ませようとしたのではないだろうか?
“あなたも休んでください”なんて言われたって、聞き入れる気などさらさらなかった。
タダじゃ動かないのを青木は見抜いて………

“甘やかされているのは僕の方だ”

薪は密着した全躯を巡り合う熱に身を委ね、ぎゅっと目を瞑った。
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