ヒプノシスマイク
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独歩夢 ※未完
彼女と出会ったのは今から二年程前の秋の日の事だった。
医療機器メーカーに就職、営業部に配属となって今年で五年目となる。
三か月、一年、三年…と節目となる月日を越していく度に、自信や実力が付いてくるものだと思っていた。
しかしながらどれだけ時間を費やしても、自分にその成果が積まれていく感覚が得られない。
重くなる足、加えて肩に乗せられていく責任の大きさが増す一方で、月に一度の給料明細の数字は花開かないまま、時間だけが過ぎていくのが現実だった。
初めは期待に胸を鳴らした会社のドアが開く音も、今では監獄への扉の音へとすり替わり、凝り固まった首を横に倒せば、鎖のように禍々しい音を立てた。
今日こそは陽が落ちる前に帰られるだろうか。
今日こそは終電に乗らずにいられるだろうか。
答えが分かりきっている問いを、ビル群から微かに望む空へと投げかける。
返ってくる、侘しさを孕む吹きおろし。
気温を読み間違え選んだ、薄手のジャケットもろ共吹き飛ばしてしまいそうな強さで、素気なく突き放されるのみであった。
秋の山を思わせる濃紅の髪を風に浮かせる男―――――観音坂独歩は、空から視線を外し、いつもの通りに地面へとそっと溜息を吐き捨てていた。
この日は得意先の手術に立ち会う日である。
医療機器を取り扱う会社の営業職である独歩は、得意先である病院の手術に立ち会う事がしばしばあった。
手術中の自社機器の経過観察、その他、販売する医療機器が急遽必要となった場合に手配する為である。
何が起こるか誰にも予測が出来ない手術の場に立ち会う事は、酷く神経をすり減らす。
経験が豊富な医者であっても、難易度の低い手術と言われても、最後まで何が起こるかは神のみぞ知るという手術現場は、独歩にとっては苦痛でしかなかった。
突如思ってもみない要求を医師からされる事もしばしばあり、自分の一分一秒の手配の遅れが、手術に、ましてや患者に影響があるかもしれないと思えば思うほど、体は固くなっていく。
幸い、この日の手術は大きな問題も、要求も無いままに終了した。
医師と看護師に挨拶をして、病院を後にする独歩の視界に広がったのは、木枯らしが吹く高い秋の空の青さであった。
それを垣間見た時――――がくっと膝の力が抜けるのを感じた。よろよろと重力に従うまま、病院外のロータリー脇、タクシー乗り場のベンチへと転がり込む。
「(寝不足…と疲れが一気に来たな……年だ…)」
最近、手術の立ち会い後はいつもこうだった。
極度の集中が途切れたあと、糸が切れたように体が悲鳴をあげる。
入社直後、先輩に連れられて手術室へ入った頃とは比べ物にならない疲労感に、独歩は頭を抱える。
その頃はまだそこそこの残業で退社出来ていた。
仕事量もさほどでなかったし、同期入社の人数も多く、業務を分担出来ていたからであった。
医療機器メーカー特有の“体育会系”の気質に合わない同期が、一人、また一人と会社を去っていくのを見送る度に、退社時間は反比例で遅くなっていったのを覚えている。
独歩とて、体育会系の風土が自身に合っていない事は分かっている。
けれど、再び転職活動を行う事やその後の生活の不透明さ、金銭的な事情という現実問題と向き合ってしまうと、飛び出していく同期の背を追う事はどうしても出来なかった。
風の噂で、今はのびのびと仕事をしているという同期の話を聞く度に、振り上げた拳は、嫉妬よりも自身の不甲斐なさに落とされる。
元からの大人しく目立たない性格が、この会社の気質に反しているのは自分自身が一番分かっていた。
それでも、上司からの心無い言葉や、失われていく理解者、同期達、上手く関係を築けないという“踏み外し”が、気付けばすっかり自分を陰気で卑屈な性格へと変えてしまった。
上司からの攻撃、取引先の勝手や関係者の心無い噂話などに、擦り減らされていく心が、いつしか自分自身にさえ拳を落とすようになってしまってる。
“自分のせい”だと。
そう思えば、自分さえ悪者にしていれば、誰も憎まないで済むとさえ思うほどに。
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鉛のように重い体を支えるベンチは固く、晩秋にすっかり冷たくなっていたが、今の独歩にはその無機質さが心地よかった。
タクシー待ちだと誤解されてしまうと思いつつも、重い体が動く事を拒否している。
緊張からの疲れと、連日の残業による睡眠不足―――これは慢性的なものではあるのだが、手術と合重なり、体は悲鳴をあげていた。心なしか頭も痛む。
このまま帰られたらどれだけいいか――――叶いもしない希望を、変わらず空に向かって放ってみる。
本社に戻って、在庫連絡と次回の経過観察他、日程の調整や、取引先へ依頼する評価報告、集めなければいけない書類は山ほどあるし、担当する取引先とて一つではない。
少し前までなら、どれだけ忙しくとも少しの睡眠と栄養ドリンクなどで回復出来ていた。
けれど年を重ねる度にその誤魔化しも難しくなっている。
給与明細に記された数字の羅列、大きく引かれる支出、この先の自分の人生―――衰えていく体を目の当たりにして、心の回復が追いつかなくなってきていた。
眠りたい。休みたい。
もう少しだけ―――――でも、上司の言葉が頭の中で響くんだ。
「……戻らなきゃな」
意を決して起こした体は重さにふらつく。頭の痛みは顕著となり、仕方なく独歩は近くにある薬局にでも入ろうと周囲を見渡した。
すし詰めの住宅街の中にあるその医院の周りには、入りやすそうな薬局は見当たらない。
チェーンのドラッグストアでもあれば色々と買い揃えられるのに、本当に俺は運が無い、と、自分の不運に頭と共に肩をも落とす。
仕方がない、と病院の傍にあるであろう「調剤薬局」を探し、独歩はよろよろと歩き始めた。
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見つけた小さな調剤薬局の扉を開け、中へ入る。
「こんにちは」挨拶と共に処方箋を受け取るべく、事務員らしき女が身を乗り出した。
それを小さな会釈で拒否すると、女はこちらの意図を理解したらしく、そっと身を引っ込める。
医療関係の施設はこうした「察する」事に長けていると独歩は思う。患者の心情を慮り、必要以上に踏み込んでこない事が、心地よかった。
OTCの販売棚から頭痛薬を探す。どうせならば効き目の強いものが欲しかった。
そうなると棚から直接買う事が出来ず、カウンター奥、薬剤師と話をしなければならない。
少々億劫ではあるが、致し方あるまい、と戸棚の清涼飲料水を取り出し、カウンターへ向かう所で、声を掛けられた。先程の事務員の女性だった。
「顔色が悪いようですが…大丈夫でしょうか。…代わりに薬をお探しいたします」
「…あ、いえ……」
急に声をかけられ、回答を詰まらせた。
女の胸に下げられた社員証には「登録販売者」の文字がある。
ふらふらした足取りでの姿を、悩んでいると誤解されたのかもしれない。気を取り直して、頭痛薬が欲しい旨を伝えると、彼女はすぐに状況を把握してくれた。
手に持っていた飲料水は彼女の手に渡り、カウンターではなく待ち合いのソファへと連れていかれる。
深く尋ねるわけでもなく、彼女は柔らかく微笑むと、少々お待ちくださいね。という言葉と共に、奥の部屋へと消えて行った。
それからすぐに薬剤師が現れ、希望していたの頭痛薬と飲料水とを持って戻ってきた。隣には事務の彼女を連れ、その手には水が入ったコップがある。
無駄のない購入に関する意思確認を交わし、手前に差し出されたトレーに代金を支払った。
薬剤師は頭痛薬を用量手渡してくれ、残りは袋にまとめられる。見事な手際の良さに感心する暇もない程だった。
薬と事務の女性から紙コップを受け取り、ごくりと飲み干した。白い二粒の錠剤が流し込まれていくのを感じ、心のどこかがホッとする。
その頃には薬剤師は場を後にしており、事務の女性だけが残されていた。
彼女は飲み干した後のコップを受け取ると、身を屈めて視線を合わせられる。
「隣の病院に出入りされている営業の方ですよね。とても新設な対応をしてくれるって、評判を聞いていたんですよ」
思いがけない賞賛の言葉に、言葉が詰まる。
どう返事をすべきかと、おろおろと視線を彷徨わせる独歩に、反応を求めるわけでなく女は続ける。優しい音色で。
「…でも、こんなにふらふらになるまで頑張っちゃだめです。…帰りはタクシーを呼びますか?」
「……あ……い、いえ。自分で帰れます…薬も飲みましたし」
―――そうですか…分かりました。
患者の意志は出来る限り尊重する。
その教育が行き届いているらしいこの薬局、そしてその彼女はそれ以上を言及する事はしなかった。
言い淀んだ言葉の端に、納得していない様子は感じ取ったが、断った意思を訂正するだけの理由と度胸は独歩は持ち合わせていなかった。
それでも、本気で心配してくれている事実は嬉しく、疲れていた心にじんわりと沁み込んだ。
それだけでもここに来てよかったと思う事ができ、心からの感謝の気持ちが湧いてきた。
こういった厚い対応は大型店では難しいだろう。
もしかしたら標準的な接客対応なのかもしれないが、とかく、この店の彼女の応対は疲れきっていた独歩の心を緩やかに癒したのであった。。
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それから、例の病院での仕事がある度に、独歩は件の調剤薬局へ足を運ぶようになった。
始めは社交辞令だと疑っていた、従業員達の言葉もすぐに本心である事を知る。
会社で投げつけられる心無い上司の言葉が嘘のように、彼女達の優しい言葉や何気ないやり取りが独歩を癒した。
特に、初めて声を掛けてくれた事務の彼女とのやり取りは楽しく、彼女が非番の日に薬局に訪れた時、消沈する自分に気付くまでに時間はかからなかった。
自分なんて。自分のせいで。自分が悪い。
そんな情けない弱音を何度吐いても、嫌な顔をひとつせず、けれど無理やり肯定するわけでもなく、優しい笑顔を見せてくれる彼女に独歩の心は開かれていった。
彼女の方も独歩に会うのを楽しみにしているようで、見送る時の「お大事に」という定例挨拶に“また”という再会の意思を滲ませている。
急速に縮まる距離に物怖じせず、個人的な約束を取り付けるようになり、忙しい仕事の合間を縫って連絡を取った。
そうしていつしか、恋人と呼ばれる関係になるまでの経緯は、独歩自身が恐れるくらいに順調だったように思う。
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金曜日が殊更楽しみな曜日となった。
仕事の忙しさは衰えを見せる事はなく、平日に恋人と会う事は物理的に不可能で、ようやく解放される頃は終電そこそこの時間となるのが日常だった。
その時間から連絡を取ることは躊躇われ、業務の間のちょっとした時間に連絡を取る毎日であった。
そんな独歩を見かねてか、恋人が提案した“金曜日の約束”。
基本的に土日が休日である独歩に合わせ、金曜日の夜、独歩の部屋に彼女が訪ねるという約束を交わした。
仕事を自宅へ持ち帰ることもある。手術に合わせ、土日に出勤が入ることもある。
それでも、破られる事なく訪れる金曜日の恋人との逢瀬の時間は、独歩にとっても彼女にとっても大切な時間となっていた。
この日も、独歩は終電ギリギリの電車に飛び乗り、自宅へと急いでいた。
連日の残業、慢性的な寝不足の辛さは、微かな電車の揺れにも過敏に反応し、何度も体をよろけさせている。
けれど、それよりも胸を鳴らす期待が彼を支えていた。
逸る気持ちを抑え、駅から自宅への道を歩き―――到着した自室の入口の脇、小さな窓から明かりが漏れているのにどうしようもなく心が震えた。
「…独歩くん、おかえりなさい!」
「ああ―――ただいま」
灯が灯る香り。インターホンを合図に開けられる金曜日の“自動ドア”は、どんな扉よりも幸福に満ちた箱のようなものだった。
くたびれたスーツを脱いで、手を洗い戻ってくる僅かな間に、リビングのテーブルに並べられる手料理の数々。
食の細い独歩を想い、量はほどほどに。
バランスよく揃えられた副菜の品数は豪華で、派手な料理でないのに食欲を誘うあたたかさに満ちていた。
本来ならば一緒に食べたい所であったが、日付が変わるぎりぎりまで待たせるのは悪いからと、独歩自身が彼女の申し出を断っていた。
手渡される茶碗に輝く白米は、長らく使われていなかった自宅の炊飯器で炊かれたものである。
ほかほかと湯気を立て、しゃきりと身をも立てるふっくらとした身が美味しそうだった。
「さ、あったかい内にどうぞ」
「ああ、いただきます」
箸をつける間に温かい茶が注がれる。少し変わった香りのするそれは、彼女の勤め先である薬局で開発したという薬膳茶だった。
ハブ茶をメインに、玄米やハトムギ、変わったところで肉桂などを合わせたものだという。
初めは飲み慣れない不思議な香りに戸惑ったものの、飲み始めると存外普通のお茶で、食事ともよく合う味であった。
時間の無さと疲労から、蔑ろにしていた食生活を何より初めに正される事となり、それもまた戸惑いとなったが、今となっては感謝しかないと独歩は思う。
多めに作られた惣菜のお蔭で、一週間の内数日は確実に健康的な食事が出来ていたし、以前よりも疲労の蓄積の仕方が弱くなったと感じている。
眠りが浅いのはなかなか改善されなかったが、こうして心休まる存在がいる事は大きく、前よりも熟睡できる日は確実に増えていた。
彼女の存在の大きさを実感し、噛み締める。
「…どうかした?あ、美味しくなかった?」
箸が止まった事に気付いた彼女が不安気にこちらを窺う。そんな事あるはずないのに。
けれどその気持ちを口にする事は躊躇われ、独歩はただ静かに首を振る。答えの代わりにと、空になった茶碗を彼女に差し出した。
「…これ美味いな」
「わ、本当?嬉しい。私も家で作ってみたんだけれど、簡単で美味しいなって思ったんだ。これなら独歩くんもすぐに作れるよ」
今度、レシピを書いておくね。ニコニコと微笑みながら、控えめな量をよそった茶碗を返される。受け取ると、話題の料理に再び箸を進めた。
白身魚に少量のきのこ、オリーブオイルと塩胡椒で味付けをしただけのシンプルな魚料理だったが、不思議と白米にそれはよく絡んだ。
魚本来の旨みをベースとしているからなのか、塩胡椒だけの味付けが素材の味を引き立てているのが美味しく、自然と箸が進む。
珍しくおかわりをしつつも、用意された料理を全て平らげて、独歩の腹はしっかりと満たされていた。
腹八分目よりも満腹感は多かったが、不快な感覚ではない。追って口つけた薬膳茶が、緩やかに腹を温めるのもおあつらえ向きで、幸福の溜息をついて、食事が終了した。
「おそまつ様でした。ちょっと多いかなって思ったけれど、全部食べてもらえてうれしいなあ」
手早く片付けようと立ち上がる彼女に続いて、独歩も食器を片づける。
休んでていいよとの言葉に、甘えたくはなかった。こんな遅い時間まで起きて待っていてくれて、食事の準備まで整えてくれて、その上片付けまでさせる事は出来ない。
彼女は自分の母でも家政婦でもなく、恋人なのだ。
独歩は対等でありたいと思うのだ。
これしきの事で―――と思われていたとしても。
けれど彼女はそんな卑屈な思いなど、どこ吹く風という様子で微笑むのだ。嘘偽りのない、優しい笑顔を惜しみなく独歩へと向ける。
それはいつだって彼を喜ばせ、そして安心させてくれた。
少し時間を空けて風呂を済ませる。時刻は二時を回り、さすがの彼女も眠たげに瞳を擦っていた。
ベットが一つしかない為、金曜の夜はその小さなベットにぎゅうぎゅう詰めで眠るのが通例だ。
彼女をベットに、自分は床で寝ると何度言っても聞き入れられる事はなく、小さなそこに身を寄せて眠るのだが、決して窮屈に思わないのが不思議だった。
腐れ縁―――もとい幼馴染が泊まりに来るとき、ふざけて同じベットに潜り込んだことは何度もあるが、その窮屈さを思い出しては顔をしかめてしまう。
大人の男が二人入れば狭さ極まりないのは当たり前なのだが――――それでも、彼女と眠る時とは気の持ちようが違う。
そう告げると、からからと笑われた。
その反応に気を良くし、幼馴染、伊弉冉一二三との話を続ける。
付き合いが長いだけあって、愚痴のような悪口のようなそれはするすると溢れてくるのだが、決まって彼女はこう言うのだ。
「一二三くんの話をしてる時の独歩くん、本当に楽しそうだもんね。親友っていいな」
―――と。
彼女は地方からここ、新宿へ上京してきたとの事で、友人があまり多くないらしかった。
かくいう独歩自身も一二三以外に友人と呼べる人間はいないのだが、親友とまで定義されるとむず痒いものを感じざるを得ない。
出来る事なら彼女と一二三を会わせたいと思う事もあるのだが――――女性恐怖症を患っている一二三には無理だろうと、諦めている。
「いつか会えるようになったら…その時は紹介してね。一二三くんと話してみたい」
「いつになるやら……まあ、その時はちゃんと会ってやってくれ。悪い奴じゃ、ない」
照れ隠しで付け足した言葉に、彼女はまた笑った。
狭いベットに身を寄せて、落ちないように腕を回す。
肌を重ねる夜へと進みたい気持ちが無いわけではなかったが、眠そうにしていた彼女を思えばそれも我慢が出来る。
明日は幸い休みが確定している。
急な呼び出しや休日出勤で、ここ数か月近く一緒に過ごせる時間がなかった事もあって、明日の休みに期待が募ってなかなか寝付けない。
疲れている自分に合わせ、殆どが部屋の中で映画などを見て過ごすばかりであったから、明日はどこか外へ行けたら――――そんな穏やかな気持ちが作用してか、独歩もようやく眠りの世界へと船を漕ぎ始める。
すでに先に旅立った彼女を追って、ゆっくりと薄れていく意識に身を委ね――――二人の約束は、一つ、また更新されていくのであった。
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そんな甘い時間にもある日転機が訪れる事となった。
独歩の得意先である例の病院の閉院が決定したのである。
理由としては院長の突然の死去によるもので、病院関係者は勿論、隣り合う恋人の調剤薬局ですら予想だにしない出来事であった。
元々小さな町医者的規模であった事もあり、後継ぎはおらず、現院長で病院は閉院になるという事を周囲は聞かされていたが、突然の出来事に関係者達は慌てふためくばかりである。
未払いの医療器材の処理をはじめ、在庫、返品を初めとする事務作業が圧し、独歩は自身の業務が手いっぱいとなってしまった。
隣り合う調剤薬局であった、彼女の薬局も来院者がごそっと減り、薬局としての存続が厳しい状態となる。
処方箋の受付は続け、訪問介護といった方向への転換も道としては存在するが、そもそも小さな個人薬局の一つであるその薬局に、営業に走る力はなく、閉店を検討していると聞いた。
すぐに連絡を取りたいと思ったが、忙しさが邪魔をして、まともに時間が取れないまま、日々だけが空しく過ぎ去っていく。
そんな中でも毎週金曜日の約束だけは守られ続けていたが、土曜日も出勤せざるを得ない状況は続き、二人で過ごす時間は極端に少なくなっていた。
それでも、金曜日で二人で過ごす時間は独歩を癒し、時折重ねる肌の温かさや、彼女の柔らかな心はかけがえのないものであった。
金曜の夜を焦がれてすごし、土曜の朝に同時に家を出る。
本当はもっと一緒に過ごしたいのに、と申し訳なさそうに眉を下げると、決まって彼女は親指で眉間を揉みこんだ。下がった眉が少しだけ上向く。
「そんな顔しないで。…ほら、私は大丈夫。また来週、楽しみにしてるね」
そうおどけて、彼女は階段を下りていく。振り向きざま、マフラーを靡かせて小さく手を振るその顔に、淋しさや怒りなどは感じない。
心が広く、優しい彼女に頭が上がらない。
一秒でも早く、立派になりたい。彼女の思いやりに、優しさに、もらった全てに報いたい――――独歩は冬の静寂を裂いて、心を燃やした。
「(本当は知ってる。鞄に映画のディスクを入れて来てたこと。上映中の映画リストを作ってきてたこと)」
家の中でも、外でも、一秒を無駄にしないように用意されている彼女の思いやりと気遣いが独歩を只管に燃やしていた。
いつまでも情けないままではいられない。肉を切らせて骨を断つ―――会社での己が立場を確立させるべく。卑屈な己を捨てるべく。
くたびれた濃紅の髪が、燃えるようにゆらめき、朝日に輝いていた。
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「最近の独歩、チョ~~~イケてる感じじゃん!」
幼馴染、伊弉冉一二三はいつもの調子でそう言った。
何かあった時の為にと、互いに家の鍵を預けている関係であるが、それぞれに多忙な為、互いの家を行き交う事はあまりなかった。
久々に予定が合うからと、連絡を取り合って訪れた居酒屋での、開口一番がそれである。何がイケているのか分からない。
「いきなりなんだよ…」
「いや、なんか本当、ちょっと見ないうちにすごいしっかりしてんじゃんか!」
「しっかりって……お前な…」
一二三と頻繁に会わなくなって約半年程だった。確かにその間に、得意先が閉院した事から決意表明をしてみたりと、心持ち変わった部分はあったと思う。
しかしたった半年で人間が変わるとは独歩自身思いはしないし、変わらず、自分を責める癖もなくなったわけではない。
とはいえ、一二三に言われて思い返してみるといくつか心当たりはあった。
上司から小言を言われる回数が減り、帰宅時間が早まった事…睡眠時間をある程度確保できている事があげられた。
「確かに、ちょっと生活環境が改善したかもな」
「うんうん、隈もだいぶ薄くなってる気がするし!やったじゃん独歩!これも例の彼女のおかげってやつ~?」
「………」
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結局彼女は地元(日間賀島)に帰ってしまうという話だった気がする
日間賀島の事を思い出すと
三島由紀夫の「潮騒」を思い出す…(25.12.18公開)