丞とその彼女
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衣装係と
人を避け家に怯え、唯一の逃げ場として見つけたのが“過食”であった。
とはいえ根っからの心配性という属性が“過”を許しきれず、じわじわと、太るべくして太った体型、生活習慣が中学の後半には形成されていた。
もともと身長は高く、手足は長く恵まれた体系ではあったが、脂肪を纏った体はその長所を見事に潰し、巨漢として日常に存在することとなった。
どれも自業自得だと心得ていた。心のどこかで自分には必要な事だったという、理解と覚悟があったのかもしれない。
心無い言葉で攻撃をする他者は多かったが、憎む事はなかった。
けれど、投げられる石への恐怖心だけは調節も効かず、醜い見た目を抱えたまま、世界の隅へ隅へと逃げていく毎日を送ることを余儀なくされていた。
高遠丞を、そんな自分の世界へ招き入れたのは変わり映えのない日常の、とある一日がきっかけだった。
繰り返される陰鬱な世界に、ボールと共に流れ込んできた紫色の閃光の衝撃は、大人になった今でも色鮮やかに記憶している。
走って逃げだした学校の外の世界。
そこはエリカにとっては決して希望に満ちた世界ではなかったはずであるのに、あの日を境にそこへ飛び出す事を躊躇う事が少なくなった。
怖がりが治ったわけではない。心配性が緩和されたわけでもない。美しい姿を手に入れたわけではない。
終わりの見えない澱んだ未来への道を照らした一筋の“紫光”。一瞬にして奪われた心を頼りに、歩き出したいと思えたのだ。
たった一瞬、目が合っただけ。
たった一言、声を掛けられただけ。
それだけの事で恋に落ちるだなどと、安い人間だと周囲は笑うかもしれない。
石を投げられ、世界に怯え、息継ぎの出来ない日常、膨大な時間とに溺れそうになっていたエリカにとって、高遠丞との邂逅は誰のどんな慰めよりも救いとなったのだ。
恋を成就させたいなどと大それた事は考えていなかった。
けれど、少しでも彼に近付きたいという願いが出来た時――――エリカは今の自分の世界から一歩踏み出す事を決意したのである。
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季節は初夏を迎えていた。
新緑の若草が徐々に濃さを増し、今や街路樹は繁々とした濃緑へと衣替えをしている。
ほんの数週間前まで、白い花を揺らしていたヒトツバタゴも地に落ち、土へとその姿を変えていった。
霞んでいた平野の空も、澄みやかな青を一面に張らせ、白い雲がなだらかに横へと寝伸びる季節となっていた。
青のベットに横たわる雲は心地がよさそうに、のびのびとその身を変化させ、自由にしている。
その様子にエリカは密の事を思い出し、小さく笑った。
今日は秋冬の通販カタログの打ち合わせがあった。
朝一から事務所に集い、次シーズンの流行の傾向やコンセプト、ターゲットなどの細かなプレゼンテーションを受けた。
エリカの担当する通販雑誌は、商品の低価格を最も“売り”としているものである。
関わるのは衣服、服飾小物の他に、シーズンアイテム…例えば、夏ならば海のレジャーグッズ、秋ならばハロウィンなどの催事グッズのモデル撮影もあった。
とはいえ商品をどのモデルに割り当てるかは事務所の采配次第であるため、エリカ達モデルは、撮影間際までどの商品が割り当てられるかは分からない。
その為、頻繁にある撮影に向けて常に体調やコンディションを整えておく必要がある。
日常生活も気が抜けない事が多いが、身の振り方や生活のリズムが明確となるので、働きやすい職場だとエリカ自身は思っている。
この日、会議の終わりに机に広げられたのは冬用のワンピースの見本であった。
格安製品の為、この会社で取り扱う製品のほぼ全てが海外製のものである。
最近では頼りとしていた隣国の経済環境の変化により、それよりも南のアジアの国々の製品が多くなってきた。
服の内側、タグに記載されている生産国名も、随分と多様になってきたと実感している。
無理を言って単価を下げているだろうと思われる、かの製品たちは、百貨店などで売られてるものと比べれば、各段に縫製などに甘さが目立つ。
それでも、これらの製品と関われる事にエリカはプロとして誇りを持っている。
何かと比べてしまえば優劣は付くだろうが、この製品は製品で、意味があってこの世に登場したものなのだ。
関わったたくさんの人々の結晶の魅力を最大限に引き出し、購買へ繋げる演出こそが自分の役目。
縫い合わせから飛び出した仕付け糸をパチリと切り落として、ワンピースを抱き、エリカは試着室へと向かって行った。
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少し早いですが今日はこれで。その言葉と共に仕事が終わりを告げた。
時刻は夕方の四時過ぎ。初夏の日差しは西へと傾き、空は黄色から橙色に染め上げられている。
真っ直ぐ家に帰るのを迷う時間であった。とはいえ、今から出かけるにはやや遅い時間であり、行き先に悩む。
道の端を歩きながらとりあえず最寄駅へと向かう途中、色々と思案したのだが、結局夕食の材料を購入し、まっすぐ帰る事を決めたのであった。
遊びに出るには遅いが、真っ直ぐ帰るには早い時間。
せっかくならば普段は行かない食料品店へ行こう―――取り出した携帯電話で周辺検索をすると、馴染みのない名前の店が候補に挙がってきた。
時間に余裕はある。何か他に面白そうな施設がある場所がいいと、エリカはホームを変え、自宅とは逆の方向へ向かう電車に乗り込んだのであった。
訪れたのは賑やかな若者の街。夕方を過ぎ、街が濃紺へ染まる一方で、散りばめられたネオンが輝きを増していく。
道行く若者は各々のファッションに身を包み、背筋を伸ばして堂々と歩いている。この街全体がコレクション会場のようだと思った。
この駅のランドマークである犬の銅像を背に、北へ向かってエリカは進んだ。
駅北東にあるスーパーへ行くことも考えたのだが、せっかく時間もあるのだし、市場調査を兼ねて帰ろうと考えたのだ。
賑やかな人ごみをかき分けて進む先、百貨店が姿を現す。
きらきらと輝くショーウィンドウの中にはブランドの新作が並び、空間を贅沢に使ってその魅力をアピールしていた。
まるでスーパーモデルのようだと思う。
素材本人と商品だけを魅せるのではなく、空間、仕草、ちょっとした間――――その場にある全てを己に纏い、周囲を引き付けるのだ。
触れなくとも分かる質の良いものが生み出す、ちょっとした光の反射、その凹凸。生地の質感に惚れ惚れとし、エリカはその場に釘づけとなった。
この服を手に入れたい。身に付けたいと願うわけではないのだが、心に湧き上がるときめきは、初めて恋人への思いを自覚した時のざわめきとよく似ていた。
エリカは己の服に触れる。つるつると触り心地のよい生地が気に入っているこの服は、昨冬に撮影した衣装をそのまま買い取ったものだ。
自身の担当する雑誌の商品の為、安価な事は言うまでもないが、とても気に入っており、季節が巡って着られる日をとても楽しみにしていた。
目の前のマネキンと対峙するにはあまりにも価格、質ともに差がありすぎる品ではある。
決してそれを恥じるわけではないのだが、どこか心に影が差した。
比較するのは良い事ではない、自分はこれを気に入っているのだから、堂々としていればよいのだ。
そう言い聞かせ、その場を離れようとした時であった。
「エリカ」
「ひっ……た、高遠くん!」
思いがけない人との出会いに思わず悲鳴をあげる。聞き慣れた声に振り返れば、そこには恋人が立っていた。
お気に入りなのかよく着ている、黒の切り替えが入ったTシャツではなく、襟のあるシャツにジャケットを羽織り、少し畏まった姿の丞。
どこか出かけた後だろうか。今日は特別約束も予定も聞いていなかったため、偶然の出会いに驚くばかりである。
出掛け先を訪ねようと口を開いた瞬間だった。大柄の彼の背から、ひょいと顔を出した美少女と目が合う。
きりっとした目元に、前下がりのショートボブの髪を揺らして現れたその少女は、エリカの言葉を待たずに上から下まで観察するように眺めてくる。
この少女は一体誰なんだろうか。そんな疑問を浮かべながらも、心の端がひんやりと冷えて行くのを感じる。
畏まった服装、同じく隣にはきれいな服装の可愛い少女。何も知らない人々には、彼らがデートしているようにしか見えないだろう。
また、エリカの目から見ても分かるくらい、彼女の服は上等なもので、ちょっとした縫製から、作り手のこだわりが伝わって来るほどだ。
彼女の体型を最大限生かすようなラインと切り返し、色合いは見事で、安服を纏う自分は、隣に立つことを躊躇する気迫さえ感じるほどに。
美男美女が、上から下まで完璧なコーディネートで立ち並んでいる。
そんな光景にオシャレに敏感なこの街の人の視線も自然と集まるのは必至で、通りざまに聞こえてくる黄色い声がますますエリカの居心地を悪くしていた。
気に入った服を着ているからいいのだと納得していた気持ちは、みるみる内に虚しく雲散していく。
その人は誰、とか、今日はどうしたの、とか。
聞きたい事はいくつもあるのに、まるでショーケースのガラスに隔たれたように厚い壁が、二人の間にあるような気がして、とうとうエリカは視線を外してしまった。
この場に居る事が恥ずかしくて仕方が無くて。
震える手を隠すように握り締めた“触り心地のよい生地”が化繊らしいチープな音を立てるのに、泣いてしまいたい気持ちになった。
変わりたいって、この間決意したばかりなのに。震える心と手では一歩を踏み出せそうもない。
「えっと………今日は、その………」
しどろもどろに紡いだ言葉は要領を得ない曖昧な言葉だけだった。
それでもエリカにとっては今言える精一杯の言葉であった。それ以上は紡げない。その人は、とか、今日はどうしたの、とか。
現実を受け止める前に展開を先読んでしまう性分を、これほど恨めしく思った事もない。
まるで死刑宣告を待つ囚人のように、差し出したツギハギの疑問への返答を待つばかりであった。
「丞の彼女?へえ、やっぱり可愛いんじゃん。前に見た時は遠くからだったからよく分からなかったんだよね」
ずずい、と身を乗り出してエリカの前に出たのは、例の美少女だった。
形の良いアーモンド形の大きな瞳を輝かせ、前に出でる彼女は遠く見た姿のまま美しく、橙色の瞳に長い睫が縁取り、思っていたよりもずっと若い印象を受けた。
化粧で誤魔化す必要もないと言わんばかりの白く瑞々しい肌は、夜のネオンをよく反射し、ちかちかとエリカの目を刺激した。
まるで目の前で花火が上がった時のような煌びやかさに、視線を外すだけでは耐えかね、とうとうエリカは下を向かざるを得なくなってしまった。
距離の近さに気付いたらしい丞が彼女を引き離し、いなすまで、長身を惨めに丸めて震える事しか出来なかった。
そんな彼女を見やって、丞は罰が悪そうに言う。
「瑠璃川、あんまりこいつに近付き過ぎるな。人見知りなんだ」
「ふ~ん、筋肉ダルマでも気遣うとか優しいとこあるんじゃん。あ、でもバーベキューの時も言ってたか」
美少女はそう言って一歩後ろへと離れた。恐る恐る顔を上げるエリカが彼女らを見やると、二人で何やら話が進んでいるようで自分から視線が外れている。
それに少しほっとして、ゆっくりと顔を上げ切った。
そして先ほどの少女の言葉を思い出す。“バーベキューの時”と言っていたか。
あの時、結局丞の劇団仲間の集団の前に立てたのは、宴もたけなわ、終了の少し前だけであった。
大勢の個性豊かな人々がいたのを覚えているが、賑やかさに取り込まれてしまい、どんな人物がいたかまではほとんど記憶になかった。
鉄板で料理を作っていた赤い髪の男の子、人懐こい笑顔で笑いかけてくれたパーカー姿の男の子、三角形のものが好きな男の子…エリカの記憶にあるのはこのくらいだ。
彼女はその中にいたのだろうか。
何やら話が終わったらしい二人がエリカと向き合う。その視線の強さに再び肩が上がるが、すぐにそれは伏せられることとなる。
「俺は瑠璃川幸。丞と同じ劇団の夏組所属で衣装担当。よろしく」
彼女の自己紹介に慌ててエリカも続いた。やはり丞と同じ劇団員のようだ。
記憶と事実とが一致し、確信として身に着けていくのだが、次々と新たな情報が流れ込み、エリカの脳は休むところを知らない。
“夏組、衣装担当”“俺という一人称”“思うよりも低い声”――――挙がる要素に、一つの疑問が浮かび上がってくる。
その疑問は幸の言葉ですぐに解消されることとなった。
美少女ではなく美少年。彼、瑠璃川幸はれっきとした中学生男子であるという。
詳しくは語られなかったが、彼は自分の好きな服を着るというポリシーの元、こうして性別にとらわれない姿で日常を送っているのだという。
性別による男女差が徐々に明確となる中学生期、それを意識して彼を見ると、確かに少女にしては肩がしっかりとしているし、スカートから覗く膝小僧は女子のそれとは少し異なっていた。
しかし言われなければ分からない程度のもので、事実エリカもカミングアウトを受けるまで幸が女性であることを疑いもしなかった。
同じ劇団。性別。それを理解して、エリカは胸のざわめきが少しばかり落ち着いたのを感じていた。
情熱にまっすぐで、一般人とは少々異なる感覚を持っている丞とはいえ、さすがに少年を好きになるとは思いにくかった。
そもそも恋人として付き合っているのは自分なのだから、そこを疑う事そのものが歪ではあるのだが、ともかく胸の痛みが収まりつつあることが救いである。
問い詰めるようなことをしなくてよかった―――――否、きっとそんなこと、自分にできるはずもなかっただろうが。
ほっと胸をなでおろしたエリカに、しばらく口を閉ざしていた幸が声をかける。
「それにしてもあんた、モデルのくせになんでそんな服着てるわけ?」
「おい瑠璃川……」
その一言は丞のフォローさえすり抜け、まっすぐにエリカの耳から胸へと伝い、警戒を解いたそこをぐさりと刺した。
致命的な一言に、指先まで一気に警戒が走る。
鋭利な刃物で一瞬にして刺し込まれた胸がズキズキと痛み、一時の酸素を求めて唇は情けなく震えた。しかし空気を取り込むので精一杯で、言葉が出ない。
先ほどまで街を行き交う人々にも投げつけられた不躾な視線の意味を、理由を、誤魔化すまいと幸に請われているようだ。ただただ恐ろしかった。
街の人々が、幸が、言いたいのはただ一つだ。
“なぜそんな安っぽい服で繁華街へ出向いている”
それはまるで、責められているかのような心地だった。
街の人々がもしも本当にそういった疑問を抱き、その目で自分を眺めていたのであれば“似合っていない”からであり、幸がもしもそう感じたのであれば、彼の服とを見比べた結果なのだろうか。
いずれにせよそこに事実はあれど、糾弾の意を込めたかどうかなど不確かであるのに、なぜ自分は幸の言葉に、街の視線に――――恐怖を感じざるを得ないのだろう。
頭で瞬時に理解せども、体を支配するのはその恐怖であった。
警戒が走り震える指先は、初夏にも関わらず冷たく固まっていく。剥がれ落ちそうな爪の緊張に、とうとう完全に言葉をなくしてしまった。喉が機能を停止した。
ひゅうひゅうと風が通り抜けるだけのそこの奥の奥がきりきりと痛み始める。
苦しい。痛い。何か言わなければ――――怖い。
何を。だって、この服は、私が―――みんなが―――。
「エリカ」
不意に掛けられた声で正気に戻る。目は間開かれ、気付けば脂汗が顔中に浮かび上がっていた。
視界がようやく街のネオンを知覚した時、エリカは呼ばれた声の方へと顔を上げる。それと同時に感じる、指先に広がる熱い温度。丞が手を引き、こちらを覗き込んでいた。
「高遠、くん………」
「瑠璃川、悪い。こいつ体調が悪いらしいから送っていく。時間も遅いが一人で帰れるか?」
「分かった。天馬じゃないんだし、そのくらい平気。俺は生地屋に寄って帰るからもし先に帰るならみんなにそう言っておいて」
あっさりと返事をし、幸は目的の場所へ向かって歩き出していった。
中学生を夕暮れの繁華街へ一人で放つ事に抵抗はあったが、その背を追い声をかける程の冷静さがエリカには足りていなかった。
丞が後押ししていたところを見ると、おそらく幸一人でも大丈夫なのだろうとは思うが、ともかく色んな緊張とプレッシャーとで、エリカはその場に座り込んでしまいたい気持ちでいっぱいだった。
繋がれた手を頼りに、何とか場に留まっているに過ぎない。幸にも不可解で失礼な態度を晒してしまった。
色々と反省と後悔とが巡る中、徐々に取り戻した指先の体温と胸の平穏とを重ねて、丞に礼を述べた。
思えば、彼が助けてくれたおかげで息ができているようなものだ。不器用な彼からは想像しづらい助け船―――言葉と、行動と。
「…ありがとう、高遠くん。もう大丈夫」
「そうか。ならいいが―――無理はするな」
繋がれた手がそっと離れる。
状況の説明は出来そうもなかったし、彼も深くは尋ねなかった。
掛けられる言葉に対する歪んだ思考回路、認知の歪みが引き起こす過剰な緊張状態。発展する身体異常。それが何から来るのか、知っているのはエリカだけ。
いっそ、彼に打ち明けてしまった方がいいのだろうか。そっと丞を見つめてみるが、紫の瞳は疑問を映すばかりでそれ以上の深みを探ることができない。
彼に話して、理解されるのか、自分の持つ性質や過去の重さを受け入れてもらえるのか、自信がなかった。エリカはそっと視線を外す。
きっと先ほどまでの事も、本当に体調不良か何かだと思っているのだろう。
もしかしたら、そう思ってもらえている方がいいのかもしれない。
不用意に深層へと足を踏み入れられ、拒絶されてしまったら――――きっと自分は立ち直れないだろうから。
「助けてくれて、ありがとう。瑠璃川くんには…失礼な事しちゃった」
「気にしなくていい。瑠璃川はそういうことを気にする奴じゃないからな。それよりもういいのか」
丞の言葉の意味を掴みかね、一瞬考える。これからの予定の事だろうと目星をつけて、エリカは「いい」と返事をした。
更に夜が進んだ繁華街は暗く、もはや互いの服装など区別がつかないようになっており、エリカは丞と並んで歩くことに負いを感じなくなっていた。
そんな理由もあって、彼の送迎の申し出にも色よい返事を返し、二人で駅へと向かう。
本当は百貨店へ寄っていこうと思っていたが、もはやその体力は残っていなかった。
かつかつと鳴らすアスファルトの音も、行きより元気はなく、揺れるスカートもどこかくたびれているように見えた。
本当はあの時、幸に、反論すればよかったのだろうか。
確かに上質な服ではない。廉価な服で、見る人から見れば粗末なものに見えたのかもしれない。
それでも、自分が携わるこの商品に誇りがあるのは事実で―――はっきりと、プライドを持って主張できなかった己の弱さを少し恨んだ。
それが出来るようになるまでには程遠いことも、自身が一番わかっていることではあるのだが――――それでも。
ツキン、と胸を刺す後悔と情けなさ。持て余す痛みに向き合いたくなくて、視線を街へと流すと、丞が声をかけた。
「…口が悪くて生意気な奴だが、瑠璃川は馬鹿にしたわけじゃないと思う」
「!」
まるで心を読んだようなタイミングで、彼は言った。驚いて振り返るとどこか遠くを見るような目で、駅への道を眺めている。
人と話すときは相手の目を見る丞が、視線を外したまま声をかけるのは珍しかった。それだけ、考え事をしているという事なのかもしれない。
先の、幸の言葉。それを聞いてエリカの反応が悪かったこと、その理由を丞なりに考え気遣ってくれているという喜びが、じわりとエリカの心へと染み渡っていく。
それ以上の言葉を続けられるほど、彼に言葉を操る力は無いようだったが、十分すぎるほどにその思いやりは彼女の胸へと伝わっている。
緊張と恐怖とで荒れていた胸の内が、ゆるりと癒されていくのが分かった。夜のネオンが歪み始めて、その色を混ぜ合わせていく。
「うん……うん。分かるよ」
この時のエリカもまた、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
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後日、エリカの自宅宛てに一つの小包が届く。送り主は「MANKAIカンパニー衣装担当 瑠璃川幸」
薄い茶封筒を開けた中から出てきたのは、上等な生地のワンピースであった。
薄い水色をベースに、デコルテラインから胸元にかけてレースの透かしが施され、胸下にギャザーがつけられており、絞ってリボンを作る形のシンプルなワンピースである。
肩に大波のフリルが縫い付けられているが、その波はささやかに肩を覆い、上品なラインを演出している。一目見てエリカはそのデザインと仕上がりに見惚れた。
どうしてこんなものが?という疑問は、同封の手紙によりすぐに解消される。
『モデルなんだからこういうのを着るべき。俺の見立てだから似合って当然なので、ちゃんと着ること! 瑠璃川幸』
俺の見立て。その言葉にこの服が幸の手作りであることを理解した。
まじまじと改めて衣装を見直してみるが、素人が作ったとは思えない見事な仕上がりにエリカは驚きを隠すことができない。
同封の手紙を見返すと、重なってもう一枚便箋があることに気づいた。
中学生らしい、というよりも幸らしいかわいらしい丸文字で、こう書かれている。
『―――追伸 繁華街を暗い顔で歩かなきゃいけないような服を着るくらいなら、自分の着たい服を着るべき。俺みたいに。』
丞にも似たぶっきらぼうで投げつけな文章に、エリカは小さく噴き出した。同時に、丞の言った通りだと思った。
強く言い切りの言葉が多いために、押し付けられているような印象を受けがちだが、幸の中で答えが出ているからこそストレートになるだけで、相手を貶めようという悪意はない。
“モデルのくせになんでそんな服”―――あの言葉に含まれていた本当の気持ちを理解する。
服を操る事を生業としているのに、服に気持ちを振り回されているように幸には映ったのだろう。
本当は、幸や丞の見目の良さと自分とを比べてしまい、落ち込んでいたのだが、答えとしては同じことである。
“俺みたいに”――――最後に添えられた一言の重さに気が付かないエリカではない。
いくら似合っているとはいえ、男性が女性の服を着ることに対する世間の目はまだ、優しいものとは言いづらい。
特に中学生という多感な年頃では特に、大人の世界よりも鋭利で容赦のない言葉が飛び交っているに違いない。
そんな中でも幸は自分の“好き”を手にして、守り通す覚悟を抱いているのだ。その強さに、志に深く共感すると共に憧れを抱いた。
次に会う時にはこの服を着て、明るい顔で彼と向かい合いたい。
そんな夢を抱いて、エリカは机へと向かった。
最高の贈り物をくれた彼に、お礼をしたためるために。
そのまた後日、和気あいあいとした時間の中で、幸と再会することになる。
自分でない男から贈られた服を着て嬉しそうにしている恋人を見て、丞が不服そうな顔をしていたのだが、その不機嫌の理由をエリカが知る由はなかった。