丞とその彼女
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出会い
厳しい、レベルが高いと評判のその劇団へ入所が決まったのは、ある秋の日の事であった。
学生時代に演劇というものに興味を持ち、その道に進むと決めるまでには大した時間はかからなかった。
サッカーを初めとした体を動かす事は元々好きではあったが、プロの道へ進むほどの能力があったわけではない。
サッカーと演劇にばかり青春を捧げた結果、大学へ進むためにいくぶんの努力が必要となったのは誤算であったが、結果として合格を勝ち取った。
その後は順調な毎日で、自由な時間が増えた事で、益々演劇へ、芝居へとのめり込んでいき、いつでも隣にいる幼馴染と切磋琢磨する日常は刺激的であった。
実益を兼ねたアルバイトの経験も、出会っては別れ、また出会う人々との毎日は、どれもかけがえのない経験となったと、男は―――丞は今でもそう感じている。
初秋の日中はまだまだ暑く、残暑に燃えるアスファルトに焼かれ、足の裏が悲鳴をあげているようだ。
しかし、今はそれよりも胸が、その内が、吠え上がるのを抑えるのに必死になっている。
煮え滾る憤りがマグマを作る。喉を焼き、臓物を荒し、それでも噴出したいと唸るのを鎮めるのに躍起になっていた。
『俺は公務員試験を受けるよ。たーちゃんは――――丞は、芝居、これからも頑張って』
秋の日、その劇団から合格の通知があったのは自分だけだった。
同時に試験を受けた幼馴染に突き付けられた不合格の通知は、形を変え、丞に「将来の決別」を突きつけた。他でもない、幼馴染の口から。
それは酷く丞の憤りを煽った。到底受け入れられる現実ではなかった。
幼い頃より共に育ち、辛いことも楽しいこともいつだって分かち合って、切磋琢磨してきたはずであった。
義務教育、高校、大学を経て、自分の芝居の隣には常に彼がいて、けれど決して実力で優劣があったわけではない。
酸いも甘いも、互いの得手不得手として刺激し合って成長してきたではなかったか――――これからも共に歩んでいくと思っていたのは自分だけであったのだろうか。
彼が劇団に不合格となったこと自体は、丞にとっても残念な結果ではあったが、場所を変え形を変え、彼は芝居を続けていくのだと思っていたのだ。
それが、その彼自身の口から否定されたのだ。応援という、優しく残酷な形に変えて。
「(ふざけやがってッ…!)」
怒りを足の裏にぶつける。蹴り上げ、擦られた靴の底は砂利に削られ悲鳴をあげた。それでも構わず丞は速度を上げる。
夏の青陽よりも若干の黄みが混じる秋の陽は、けれどもその強さを緩める事はなく、丞をジリジリと焼き付ける。
浮かぶ汗を、澱む怒りを、どうにか振り払おうと丞は走り続けるが、まとわりつくような残暑はそれを嘲笑い、どこまでも彼に付きまとう。
「頑張って」幼馴染の声が響いた気がした。体の熱が一段上がる。
穏やかで優しい声は、今はただ、苛立ちを加速させるだけの音にしかならない。
滝のように流れる汗も、沸騰するような熱も、腹の内を刺す淀みも―――胸の痛みも、すべて振り払いたくて丞はただ、走り続けていた。
闇雲に走り続けて行きついたのは自然公園だった。
生活圏内から二十キロ近く離れているそこに着いたところで、丞はようやく冷静さを少し取り戻した。溜め込んだ息を吐き出して、ゆっくりと速度を落とす。
走るのを止めると同時に、ふくらはぎや太ももに感じる重さ。知らず体に疲労が溜まっていたのだと自覚する。
まともな水分補給もしていなかったのもあってか、疲労を自覚したところで、くらりと視界が揺れた。急ぎ近くの自販機でスポーツ飲料を購入し、日陰へ逃げ込む。
重い脚、そして尻を、無遠慮にどかっと落とす。捻じ込むように取りんだ水分は、素直に体へと沁み込んでいった。
そのまま続けていたら熱中症で倒れていたかもしれない。
丞は自身の甘さを反省したが、腹に残る憤りは未だ、じくじくと疼いては気分を落ち込ませていく。
「………馬鹿つむ」
紬には紬の事情があると、どこかで理解はしている。けれど、理解を前面に持っていけるほど、丞自身、紬に対しての諦めの気持ちがないのだ。
紬自身がオーディション不合格という結果から、自身の演劇への諦めを受け入れたのだとしても。
彼がどれだけ能力の限界を感じていても、それは丞から見れば長所の一つであったり、彼なりの個性でしかないからだ。
しかし、今の立場の自分では、どれほどの熱意でそれを伝えても、彼自身には決して響かないということ。
合格不合格で隔たれた立場の違いが、互いの理解の手を阻んでいた。
芝居で繋がった関係を、幼いころから共にあった時間を、たった一度の通知で裂かれてしまうだなどと、認めたくなかった。
先に挙げたように、紬は紬なりの考えがあるのだろうと、頭では分かっている。
それでも、その選択が“自分から離れる事”もとい“芝居から逃げる事”というのだけは、許す事が出来なかった。
ぴりぴりとした痺れが目尻に走る。もはや顔を流れる水分が、汗なのか―――その他のものなのか、煮え蕩ける脳では考える事が出来ない。
首元を乱暴に引き、それらを拭った。ただただ情けないこの一連の事象を、掻いて、毟って、消す事が出来たらどんなにかいいだろう。
汗が流れ入る目が染みる。丞は瞳を閉じた。
真っ暗になる世界。瞼の裏に浮かぶ、淋しそうに笑う幼馴染の、泣きそうな笑顔が心を焼いた。
「(俺はそんな顔を出来はしないんだ。現実でだって、芝居でだって)」
どれだけ努力をしても、どれだけ練習をしても、感情を探っても。
これまで決して手に入れられなかった“繊細に泣く”という表情。
道を別つ痛みは双方抱いているはずであるのに、感情の湧き方が違う。付随する表情も違う。
引き裂かれる胸の痛みに顔を歪める事しか、丞には出来なかった。
諦めるだなんて、聞きたくなかった。本当にただ、それだけだった。
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夏の空気が有する独特の蒸し暑さ。初秋には微かに姿を潜めたそれは、風に顕著に表れている。
残暑の照り強さと、物憂げを忍ばせ流れ行く風のコントラストが次第に丞の心を落ち着かせていった。
汗が引き、冷える体に合わせて鮮明になる視界と思考とで、公園を見渡せば、ふと目に入ったのは何かの撮影の様子であった。
撮影と呼べるほど大掛かりなものではない。
レジャーシートを反射板代わりに、モデルと思しき女がその上に。もう一人が小さなカメラを構えて右往左往しているようだ。
見る限り、学生の課題か何かと思われたが、簡素で粗末な設備の中でもカメラマンの熱意が伝わってくるのが不思議である。
丞はその光景に釘づけとなっていた。
遠目からぼんやりと眺めていたが、チカ、と目に奇妙な刺激が走り、丞は目をこする。
虫でも入ったか。そう思ったがどこにも異常はない。
もう一度、学生らに目を向けた。カメラマンに――――モデル役の女性に。
「(――――…)」
チカ。目に再度走る奇妙な刺激。
モデルの表情は丞の位置からでは判別できない。風に乱される髪が表情をより一層隠し、見えて横顔、その鼻先だけだった。
カメラマンよりも若干年上なのだろう。全身から出る雰囲気が、学生のそれではなかった。
しかしその美しいシルエットは、遠目からでも十分に分かる。
水色のシンプルなワンピースは彼女の白い腕、白い脚をより白く輝かせ、白浜での撮影のような青い光を目に浮かばせる。
指先ひとつ、手首の角度ひとつ。
わずかな仕草で表情を作るその姿は、素人の動きではないと思った。気付けば丞の視線はそのモデル、そしてその表情へと注がれていた。
もっと近くで見てみたい。そう思った時には既に、木陰を抜け出し彼らの前へと向かっていた。
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撮影の邪魔をしないようにカメラマン後方からゆっくりと近づく。
撮影に集中している二人は丞の存在には気付かない。指示とアイコンタクトで作り出す、二人の世界に閉じこもっていた。
この日の風はやや強く、先ほどよりもモデルとの距離を詰めたが、その表情は未だに確認する事ができない。
一歩、一歩と近づき、撮影を見やる。作り出された二人の世界を壊さぬように、慎重に。
ようやくカメラマンの指示の内容が分かる程の位置まで来て、撮影の趣旨を知った。
何やら商品の撮影を前提に行っているらしい。先に挙げたように、カメラマンは学生のようであったから、恐らくは学校の課題か何かなのだろう。
指示も的確なものとは言いづらく、その度にモデルは考えるような仕草を見せた。
初々しいやり取りが微笑ましく、丞は自然と口元が緩んでいく。
モデルの女は想像通りの容姿を持った、きれいな顔をしていた。
白い肌に流れるような細い髪、透き通った瞳。見知った顔ではなかった。有名な人物ではないのだろう。
けれども、現実にモデルだとしても十分に通用する面立ち、そしてスタイルを持っていると思う。
特に、先程の撮影で見た、細かな仕草で表現する感情は見事で、大きく振舞うように教えられた自分の芝居とは正反対のものに興味を惹かれる。
けれども、先ほど目に走った違和感を払拭できるほどのインパクトがあったとは言いづらく、内心、丞は首をかしげていた。
全身の疲労が目にも来たのか、と納得しかけたその時である。
何度かシャッター音を鳴らした後、カメラマンはモデルに指示をした。
「―――じゃあ、髪を分けて、表情を見せてください。…えっと……初めてお会いした時のような、あんな感じの表情で」
「―――――はい」
モデルの細い指が髪に通り、ゆっくりと横へと分けられる。
白い額が露わになり、伏し気味に揺れる睫毛はゆっくりと開かれ――――“その瞳”がカメラに注がれた。
瞬間、丞の瞳は間開かれた。まるで鋭利な刃物を突き立てられたような衝撃が胸に走り、どくどくと心臓が警告を鳴らす。
視線を逸らせ。持っていかれる。けれども既に瞳は彼女に縫い止められていた。
透き通った瞳だった。それは最初の印象と孫う事ない透明度で、まっすぐにカメラへと向けられている。
清水のように静かな瞳はまとわりつく残暑を打ち払い、どこまでも静かな音を響かせている。人が集う、昼下がりの公園であっても。
丞が持っていかれたのは瞳だけではなかった。その透き通った双玉の奥にある、深い闇のような淀み―――を髣髴とさせる、寂寥(せきりょう)を孕んだ色であった。
微かに下がる眉、不安気に揺れる長い睫。そしてその瞳は微かに潤み、光を反射して輝いた。
御簾のように頼りなく落ちる解れ毛の、奥に隠されたそれらの表情全てが、ただ、うつくしく――――“繊細”だと思った。
カメラマンは言った。初めて会った時のような表情で、と。
彼女は普段からこのように物憂げな表情をしているというのだろうか。どういう思いで、どういう感情で。
丞は二人の世界から微かに漏れてくる空気を、その一挙一動を拾い上げていた。
衝撃に煩かった心臓は、今は僅かに静まりを見せている。しかし代わりに、ばくばくと音を変え鳴り響いていた。
もっと知りたい。
もっと見たい。
男が追い求める“繊細”がここにある。
その女が、持っている。
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それから少しして撮影は終了した。
その期を見計らって、丞はカメラマンの青年とモデルの女へ声をかける。
撮影に集中していた二人はやはり丞の存在に気付いていなかったようであったが、声をかけられ、カメラマンの男は恥ずかしそうに頬を掻いていた。
美術学校に通うというその青年は、次の課題で使う資料にと彼女に撮影のモデルを依頼したらしかった。
たまたま街中で見つけた彼女の物憂げな表情に惚れ込み、無理を承知で撮影に協力してもらったのだという。
丞は次にそのモデルの女へと視線を移した。射止め、離さなかったかの瞳と己のそれを重ねる。
撮影時の強さを隠した女の瞳は、最初の印象と変わらず、透き通った静かな瞳をしている。
けれどやはりどこか、憂いを孕んだ色に、丞の背はぞくりとしなった。これだと思った。少しでも彼女と繋がりがほしい。
そう思ってポケットを探ったのだが、目当ての物が見つからない。
こんな時の為にと用意した目当ての物―――“名刺”は、残念ながら自室に詰まれたままになっている。その上携帯さえ持っていない有様だ。
無鉄砲に飛び出してきたのだ。仕方がないと思えばそうなのだが、丞はこの時ほど自分の直情的な面を恨む事はないだろうと思った。
素性をメモして渡そうにも、そのメモ用紙がない。青年も持っていなさそうだ。
どう話を切り出すか考えているところ、先に声を掛けたのはモデルの女であった。
「高遠丞さんですよね」
「……俺を知っているのか?」
静かな表情に微かな動揺を隠して、女は丞に声をかけていた。
よく見ると年のころは同じくらいだろうか。
憂いを秘めた雰囲気が彼女を大人びて見せていたが、恐らく年齢も一つ二つ違うくらいだろう。
彼女が同じく大学生で、劇のコンクールなどに出ている人間であれば、丞の事を知っている可能性はある。
けれど先程の仕草を見る限り、素人のそれではないと丞は思う。恐らくは学生ではないはずだ。
疑問だけがぐるぐると回り、言葉に詰まる丞に、彼女は淡々と話し始めた。
「知っています。小学校から高校まで同じ学校だったので………でも、あなたは私の事を知らないと思います」
そう言って彼女は押し黙った。
俯いて視線を外し、髪で隠した表情からはこれ以上の会話を望まない意思を察する。
それは、幼馴染が使う意思表示と酷似していた。無言で相手の行動を制限する、彼の常套手段。
しかし丞はそれを聞き入れるつもりはなかった。
追い求める素質を持つ人間に巡り会った興奮と焦燥とが、初対面の遠慮よりも数段勝っていたからだ。
何が何でも学び取りたい。その表情を成す、全ての事柄を明かしてほしいのだ。
その気持ちを包み隠さず伝えたが、モデルの女は力なく首を横に振るだけであった。
――――とても悲しい顔で、ただ、ただ、ゆっくりと、首を振る。
その顔は、これまでに幾度か見てきた。
別れる間際の彼女達の顔。罪悪感を誘うだけの、悲しみの表情。
その表情を見て、次は丞が押し黙った。
自分は肯定的な気持ちで申し出た事であったが、彼女にとっては不快な事であったのかもしれない。そう感じたからだ。
しばらく奇妙な沈黙が続いたところで、再度口を開いたのはモデルの女であった。
ただし、丞にではない。カメラマンの青年と幾らか言葉を交わし、振り返って一礼する。
「この後仕事があるので、私はこれで失礼します」―――そう短く告げて。
淡々と話し去っていくその背を、引き留めたい気持ちはあれども、肝心の言葉が出てこなかった。
小さくなっていくその背を追い掛け乞うたところで、困らせるだけなのは分かっている。
けれど、やっと見つけた理想をやすやすと諦められる程、丞の芝居への情熱もまた、生半可な物では決してなかった。
丞はカメラマンの青年に、彼女について尋ねたが、彼もまた、彼女について詳しくは知らないという回答を返すだけであった。
分かった事と言えば三つ。
出会いは駅前の広場。何かを待つように、遠くを見ている彼女がとても美しく、課題のイメージと一致していたこと。
彼女は普段、モデルとして働いているということ。
今回の課題作成に無償で協力する代わりに、モデルとしての自分を詮索しないという条件を出されたこと。
以上が青年が知り得る“モデルの女”の全てであった。
名前も、どういった事務所に所属しているのかも、その活動範囲も、何もかもが不明瞭で丞は頭を抱えるしかない。
しかし、自分には青年の知らない情報が一つだけある。
“小学校からの同級生”―――――探すとするならばそこからだと思った。
手がかりを得た事に胸の内が安堵に震える。
卒業アルバムは実家にあるはずだから、近々戻って漁ってみようと心に決め、丞はもう一度青年を振り返った。
「…その課題が完成したら俺にも見せてほしい。展示をするなら見に行くし、もしそうでないなら…悪いが、訪ねてほしい所がある」
青年は快く了承を返してくれた。
身分を明かせるものも、正確な連絡先も、何ひとつ提示できない中、頼りとなるのは彼の携帯電話に残すメモと、彼の心遣いだけ。
一本の糸のようにか細い頼りに一縷の望みをかけて、丞は頭を下げた。
入所予定の劇団――――“GOD座の高遠丞”を訪ねてくれ、と。
そう告げた瞬間であった。
長く共にあった半身が決別という音を立て、剥がれて落ちていく。
ペンキが割れて剥がれ行くように、ガラスが割れて爆ぜ行くように、悲しくも切ない音が耳の奥で螺旋を奏でる。
まるですすり泣く声のように、後ろ髪を引く切なさが胸を締めつけても、けれど、もう手は、伸ばすまい。
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衝撃的な出会いから幾月。季節はめぐり、冬、春、夏―――を迎えても丞は例の女を探し出す事が出来ないでいた。
情報を得て実家へ戻り、意気揚々と卒業アルバムを捲ったのだが、目をこらし、どれだけ探そうともなぜか彼女を見つける事が出来ないのだ。
高校であれば数年の時しか経っていないのだから、面影ひとつくらい分かるだろうと踏んでいたのだが、それさえも拾い出す事が出来ない。
有力な情報が無益と変わってしまった事に酷く落胆したが、自分にはもう一つ情報の糸口があるのだと、心を奮い立たせる。
しかし、かの青年からも、連絡はない。
人の好さそうな青年であったから、なんらかの形で接触してくれるだろうと踏んでいたのだが、待てど暮らせど、彼からの連絡は無かったのだ。
はじめこそ、彼女を探すべく躍起になっていた丞であったが、大学を卒業し、春を迎えた頃には目まぐるしく変わる日常について行くのが精一杯で、物理的にも精神的にも、モデルの女を探す事が出来なくなっていた。
入所したかの劇団は、規模も大きく、それだけにシステムもしっかりしていた。
日々の稽古をはじめ、新人としての雑用、庶務などに追われ一日が終わる頃には有り余っているはずの体力も尽き、就寝時間を迎える前に眠ってしまう事も多々あった。
それでも刺激的な稽古、先輩劇団員の指導や公演を見る機会を経て、新たな事を吸収する毎日は楽しく、時折無茶な要求に頭を悩ませながらも、充実した毎日を送る事ができている。
もともと多趣味でなかった事も相まって、芝居に全身全霊をかけることが出来たのが幸いしてか、実力がめきめきと上がっていくのを実感しては心を躍らせた。
その毎日の中で新たな友人、恋人も出来、交友関係も変わっていく。
オンオフともに充実する中で―――――けれども、時折、ぽっかりと空いた心の穴を見つめる事があった。
そういう日は決まって、こう言われるのだ。
「高遠くんは“繊細に泣く演技”がどうも今一つだね…」
―――――と。
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二度と手を伸ばすまいとして、深い海の底に沈めた。
深海の髪。歩く度に揺れる跳ね毛に、穏やかな気性の華奢な姿見が、瞼の裏に刻印を残した。
ジリジリと疼くような痛みが目に、頭に、心に伝って、丞は息が苦しくなる。
乗り越えたわけじゃない。ただ、蓋をしただけだった。けれど、当時の自分には必要だったのだと丞は言い聞かせる。
蓋を開けねば、それを探らなければ、本当に欲しいものが手に入らない事も分かってはいる。
けれども開けたとて、今はただ、現実という痛みが自分を突き刺すばかりで、その先の本質など到底辿りつける気がしないのも事実であった。
そう結論付けて、丞は今日も箱の蓋を固く閉じる。忙しい毎日に身を投じ、技術ばかりを身に着けて、ひと時、息をする。
心は果たして、痛いだけだったのだろうか。その痛さに苛立っただけだったのだろうか。
閉じては開けてを繰り返す箱に、丞はそっと手をかける。
『高遠くんは“繊細に泣く演技”がどうも今一つだね…』
今日言われたその言葉に背を押されるように、箱の蓋を押し上げるべく、力を込めた手に――――白い、細い手が添えられた。
彼女のそれではない。もっと細く長い、か細い手だった。見慣れないそれであったが、決して不快な指ではない。
添えられたその手は力を込める事無く、丞の手から力を抜き取るようなやさしさで包み、動きを制した。箱から手が離れていく。
白い手の先を辿る。細い腕、華奢な肩、細く白い首、柔らかな髪……悲哀を湛えた透き通る瞳。丞の視線が縫い止められた。
薄い唇は何かを模るが、声は聞こえない。代わりにと、正面で向き合う形に体勢が変わり―――淋しそうな笑顔で伝えられた。言葉はないのに、理解が出来るのだ。
「ゆっくりでいいんだよ」とその瞳は―――“かの女”は云う。
まるで未来を知っているかのような色を瞳に浮かべ、優しい腕で丞を包んだ。
慰められているのは自分であるのに、淋しく、優しいその瞳からは涙が伝って、ぽたりと落ちた。
「―――…っ」
勢いよく瞼が開く。見上げるは見慣れぬ天井、広いベットに放り投げた身は服を纏わず、深く沈むマットとシーツが衣服代わりとなっていた。
夢を見ていた。丞は瞬間全てを理解した。右に眠る恋人は昨夜の自分の八つ当たりに疲れ、未だに深く眠りについている。
上手くいかない現実に、何の手管も持たず、勢いのままぶつかって、この有様だ。
それはドロドロと粘度を持って、肌を滑らせ不快にずり落ちていく、泥のような重苦しさを丞の胸に落とした。胸のあたりにどんよりと広がるそれが息苦しく、溜息を吐き出した。
酷く抽象的な夢であった。内容は起きた瞬間にほぼ忘れてしまったが、肌や胸に刻まれた感覚と感動は手に取る様に思い出す事ができる。
触れた肌の温度、添えられた細い指。そして何より、焦がれて仕方が無かった“繊細な涙“―――その瞳。
思い出しただけで、丞は頬に熱が灯るのを感じた。
胸が未だかつて聞いたことのない音を立て、奇妙に揺れる。知らないそれに戸惑えど、決して、不快な揺らめきではなかった。
「(誰より近くで見てみたい)」
それを恋だと呼べるほど、丞は己の心情を表す言葉も、理解も持たない。
しかし、これまで赤い糸を結んだどの女性とも違う胸のざわめきや、自ら手を伸ばそうとする意志こそが、まごう事なく丞にそれを暗示していた。
酷く、不純な選択をしなければいけないだろう。それでも、高鳴る胸の鼓動と好奇心に打ち勝つ事は出来なかった。
疲労から目を覚ました彼女をそっと抱き起す。別れを告げるは一瞬。反射的に開かれる瞳と吊り上る眉に、咄嗟に丞は瞳を閉じ衝撃に備えた。
甲高い音と共に頬に赤い葉が刻まれても、それが熱と腫れを引き起こしても。
胸の熱さと膨らむ希望には到底敵わない。
心は既に、かの女―――かつて出会った名も知らぬ“モデルの女”へと、真っ直ぐに向いていたのだった。
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かの青年からの連絡は依然なく、唯一の頼みの卒業アルバムも力を貸してはくれない。
胸を焦がす切望が膨らみを増しても、爆ぜる事も出来ない息苦しさにもがく毎日である。
それでも毎日の稽古も、庶務も欠かさず行う中で、丞自身、劇団内で確立した地位を築きつつあった。
特に劇団主宰の男の目に留まった事が大きく、良くも悪くも情を注がれ、忙しい日々を送っている。
それが、女探しの足を引っ張っているとも言えるのだが、優先すべきは仕事と劇団であるから、不満を漏らすのがお門違いというのは、分かってはいる。
しかしなかなか思うように情報も手掛かりも得られぬ毎日は焦りを募らせ、希望の泉をじわじわと枯らせていくもので、唯一、忘れられない悲しげな彼女の表情だけが、己に進む事を促していた。
それからしばらく、何の進展もない日々が続いていたのだが、転機はある日突如訪れる。
練習の最中、倒れた表紙に触れた、古い木柱のささくれで負傷をしたのである。
幸い、患部は指先、爪と皮膚の間であったため、稽古に支障はなかったが、ピンセットで抜けば治ると思ったそれは、皆が思うより深く突き刺さっており、定期的な消毒が必要な症状であったのだ。
消毒液とテープとを買いに入ったドラッグストア。
目的のものを手早く手に入れ、レジへ向かう。
ポイントカードやらクーポンやら、細かな声かけを行う店員の言葉にはすべてNOを返し、商品を受け取ると足早に店を後にする――――はずであった。
店の入り口。自動ドアの端にひっそりと立てかけられた雑誌ラック――の最下部に目が引き付けられた。
無料の情報誌が乱雑に差し混まれたそのラックの最下部にあった、通信販売のファッション雑誌。
長く手に取られていないのか、埃と小さな羽虫の死骸が積もったその下に、彼女を、見つけた。
女性用の雑誌である事など、なりふり構わずにその本を手に取る。
一センチ以上はあろう分厚い雑誌の表紙、チープな色味の円図形や針吹き出しの下に、目的の人を見つけたのだ。どくん、と心臓が大きく震えた。
原色に太いポップな書体。お世辞にもセンスの良いデザインとは言えない、その文字や図形の下で微笑むその女は、記憶と変わらないうつくしい顔でそこに映っていた。
結論から言うと、表紙のデザインと全く合っていない。安さを謳うその雑誌には不釣り合いな繊細な作り。埃が詰まれるのも仕方がないのかもしれないと丞は思った。
それでも、目的の人を見つけた衝撃は計り知れず、雑誌を持つ手が微かに震えている。
埃を払ったその一冊を抱きかかえ、丞は急ぎ、寮へと戻っていく。途中、持ち物が奪われたとしてももう迷わぬよう、雑誌の名前を何度も繰り返し口に出して。
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かつては栄えていただろうそこは、今や人の通りも少なく、錆びたアーケードとチラチラ煮え切らない街灯がひっそりと佇む場所だった。
築数十年は経過しているであろう雑居ビル。
所々ひび割れたコンクリートの壁と、踏み外しそうな程小さな階段が脇に添えられ、アルミの郵便受けのプレートは紛失し、代わりにとマジックで事務所名が書いてあるような有様だ。
不安になる心を抑えながら、体を傾けて、踏み外さないよう小さな階段を上る。向かうのは三階の部屋だ。
すりガラスの扉を数度ノックして、ドアノブを回す。
鍵は開いているのに立てつけが悪いそれはなかなか開かず、力を込めて回すと耳に痛い悲鳴をあげてようやく開いた。
その音を聞きつけ、奥から担当者が顔を出す。夕方六時、陽が短くなった晩秋のその部屋を、古びた黄色い蛍光灯が照らしていた。
外観は前述の通りだが、部屋の中は綺麗に保たれており、丞は一旦安心して中へと踏み込む。
事前に連絡を取っておいたその担当者に改めて頭を下げ、名刺を渡した。二三言葉を交わした後、小さな商談スペースへと通される。
部屋の壁には所属モデルによる、これまでの仕事で配られたポスターやチラシなどが所狭しと飾られている。
色褪せた掲示物に目をこらすと、今は有名なモデルとなった人々の無名時代の姿であったりして、思わず感心する。登竜門的な立ち位置なのだろうか。
心を落ち着かせるべく、周囲に気を配っていたのだが、とうとう目にするものも無くなってきて、丞は背を張らせ緊張と向き合う。
しかし、心を整える間もなく、目的の人が現れた。
「お待たせしてすみません」
「いえ、俺が早く来すぎただけなので――――」
現れたその女、その人。
間違いなく、探し続けてきた女、その人であった。
言葉を遮る様に差し出された名刺を慌てて受け取ると、代わりに自分のそれを差し出し、名刺の交換を果たす。
とうとう知った彼女の名前は、卒業アルバムに載っていた。――――“清水エリカ”。
姿まではっきりと覚えてはいないが、面影は全くなかったように思う。
「あなたは私の事を知らないと思います」そうかつて彼女が言った理由が分かった気がした。
「―――まさか、訪ねていらっしゃると思いませんでした」
困惑した様子で女が言う。その表情に言葉を探す節は見られても、恐怖や嫌悪感といったものが無いことに安堵する。
丞が訪ねてきた理由を量りかねているのか、それ以上の言葉が続かない。
彼女に会い、何をしたいのか。その用件をまとめる前にアポイントを取り付けてしまった経緯もあり、奇妙な間が二人の間に流れる。
仕事の依頼であれば、マネージャーないしは事務の人間を通すものであるが、丞の希望によりモデルと一対一での会話を望んだため、丞が話を始めなければ相手にとっては居心地の悪い時間が続くばかりなのだろう。
普段であれば物怖じなどせず、自分の意見を口に出すのだが――――この時ばかりは、上手く言葉が出てこない。
用件をまとめていないから―――そんな理由でない事は、丞自身が一番分かっていた。
「…例の、撮影の完成品は届きましたか?」
「例の撮影―――ですか?…ええと、どの撮影のものでしょうか」
「…すみません。一年程前に公園で撮っていた…大学生の課題のものです」
――――ああ、あれは。
答えは否。あの公園での撮影は無償で行う代わりに、自分の連絡先を明かさないという条件で引き受けたとの事であった。故に完成品は見ていないし手元にはないということだ。
その時には既にこの事務所に就職していた為、自身の勝手でモデルの仕事を引き受けることを公にしたくなかったのだという。
カメラマンの青年の熱意に負け、彼の課題に協力したとのことだ――――その言葉に、丞の迷いが晴れていく。
用件がまとめられていないことに加え、彼女の持つ、押しに引いてしまいそうな雰囲気に飲まれていた。
しかし、彼女が押しに――――他人の熱意を受け取る人柄なのであるのならば、伝えるべき“熱意”は零れるほど丞の胸にある。
その熱意に自らの旨を焦がし尽くした程に。
「あの日見たあなたの、清水さんの、繊細な泣きの表情に惹かれずっと探していた。無茶を言うのは分かってます。だが、俺にそれを教えて欲しい」
「………………演技指導なんて、私…出来ませんよ」
至極真っ当な返答が返ってきたと丞は思った。
教えてほしいと思うまま言ってはみたものの、目の前の彼女は指導者でもなければ演劇経験者でもないだろう。丞は頭を抱えた。
どの言葉が最も適切なのか選びきれない。指導してほしいというのも違う。友人関係を望むというのとも違う。ましてや彼女はモデルという職業の社会人なのだ。
指導を仰ぐのならばそれ相応の対価を差し出さねばならないだろう。
いずれにせよ指導を受けたいのではない。
ただ―――そばにあって―――……
「………困り、ます……」
言葉を選ぶように、絞り出された彼女の言葉。息遣いに、その間に、微かに滲む水分。
丞ははっとなり、顔を上げて彼女を見やった。先程までの硬い表情を僅かに壊して、漏れ出ているのは彼女の本心なのだろうか。
小さく震える体を抑えるように、口元に添えた細い指。伏せられた長い睫の下で薄ら線を引くのは涙だった。
丞の心臓が酷く高鳴る。まるで肉と皮膚を裂き、飛び出てしまったかのような激しい鼓動に思わず胸に手を当てる。
この衝動に見舞えるのは初めてではない。当然、飛び出してはいない胸ではあるが、手のひらにも分かる程猛々しく伝わる鼓動は凶暴ですらある。
この表情だと、情感だと、丞は確信する。
役者としての好奇心を刺激して止まず、長らく追い求めた最後のピースを見つけた興奮に体温と血潮がうるさく騒ぐ。
コレダコレダと、まるで魔物が囁くようだった。
しかしその暴力的な衝動とは相反する、奇妙な感覚も胸の底で花開いている。それが、自然な動きで丞に手を伸ばさせていた。
掴んだ細い手首は小刻みに震え、辿った指先は真水のように冷えている。
驚きと戸惑いに身を引こうとする彼女を許さず、自身の熱を移すように、情熱でそれを溶かすようにそっと撫で、花開いた奇妙なそれに身を任すまま、丞は言葉を紡いだ。
「俺と付き合ってほしい」
体と脳とが完全分離した状態と言った方が正しかったかもしれなかった。
求めていた情感を垣間見て、好奇心の上昇と興奮とで真っ赤になっていた視界は、今は胸の高鳴りだけを残して雲散している。
丞の指先に、体に残る熱量がそれが嘘ではない事を示しながらも、興奮はいつの間にか姿を潜め、代わりに密かに咲いたらしい奇妙なそれが、胸を埋め尽くしていた。
暴力的な先の興奮に打って変わる、穏やかで滲むような胸奥を土壌に、咲き誇るそれは、夢心地の甘い香りを広げて思考を支配する。
今の今まで意識もしていなかった言葉を口走らせるほどに。密やかに、甘やかに、丞の胸に恋情という花を咲かせていた。
驚きで顔を上げた女は薄い水泡を目尻に抱え、睫毛を揺らした。
突如囚われた手と、受けた告白とに理解が追い付いていない様子で、ただただ、眉を下げて丞を見ていた。
薄い色の瞳の奥、先日見た底知れぬ色が微かに揺らぐ。
自分でもこの数分の挙動に理解は追いついていなかった。
突如告白をしてしまったこと。
特に自身のその行動の不可解さは大きく、彼女の手を引きながら混乱は続いていたのだが、彼女の瞳…その色を見た時に、丞は自身の衝動の名前を知る。
衝動的に発した告白であったが、その気持ちに嘘偽りが無いこと―――思えば恋人に別れを切り出した時点で、本当は分かっていたのかもしれない。
しばし無言の時間が続いた。交わした視線は離れたが、引いた手だけは離せないまま、互いの温度が交わって落ち着くまで繋がれていた。
小さい合図の言葉と共にとうとう手が離れた頃には、双方頭も心も平静を取り戻しており、丞に至っては自身の猪突猛進さながらの行動に、内心反省していた。
職場という場所に押しかけ、プライベートを持ち込んだこと。
嘘偽りもない言葉ではあったが、前触れもないままに告白という状況を作り出したこと。
返事は焦らないと、そう告げるべく丞が口を開く。しかしまたも割って入ったのは、女の方であった。
「――――はい。よろしくおねがいします」
「!」
空回る唇が驚きで薄く開いたまま、しばし丞は固まった。女の表情は読めない。
元々、人の心の機敏に敏感な方ではないというものの、彼女のそれからは、感情の波を特に感じ難かった。
無意識のまま返事をした―――そう感じる程に。
故に丞は素直に喜ぶことも、謝ることも出来なくなってしまったのだ。
とはいえこの状況で、告白の返事の裏打ちをするほど無粋でもない。
彼女を前にしてから言葉に迷ってばかりな気がする。
いつもの調子で意見をする事も、彼女の繊細な姿を前にするとどうしても躊躇いが袖を引いた。
しかしながら、告白に対し好意的な返事をもらったことだけは事実である。
丞は思い切って手を差し出した。恋人関係になる男女が交わす挨拶ではないとは思ったが、今はそれが丞の精一杯であった。
差し出した手に、少しの躊躇いを滲ませながらも、女は自らのそれを重ねる。
思ったよりも小さなそれに、力を加減しながら握ると、彼女なりの誠意で握り返してきた。
「これからよろしく頼む。…エリカ」
「はい。高遠くん、よろしくお願いします」
「(…あ)」
同級生だからと“くん”付けで呼ぶ彼女の発想と、響きの懐かしさに笑うと、つられてエリカは破顔した。
一目見て惹かれた寂しげで繊細な表情と、真面目な表情を浮かべた「きれいな造り」しか知らない丞の記憶に、新たに刻まれる笑顔という表情。
ただ明朗というだけではなく。悲しみの表情と同様に、笑顔の下に微かに見え隠れする底知れぬ部分。
それこそが彼女が持つ繊細さを形成するものなのかもしれないと思う。
それでも、花開くが如く微笑むエリカはうつくしく、春の陽だまりのような穏やかな心地を丞に与えた。
ここまで来るのに費やした時間と労力。その途方もない枯渇した思いと疲労とを、すべて癒してしまう程に。
それは確かに、恋と呼べるものであったと、後に丞はエリカに語る。