丞とその彼女
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オルレア
『何があったか知らないけれど、練習に当たるのは止めなよ』
幼馴染の一言で、自分が苛立ちを感じているのを、知った。
定例稽古を終え、部屋に戻る。
幼馴染と同室の204号室は向かって左を彼、右を自分が使用している。
白を基調に柔らかな雰囲気でまとめられた幼馴染――――月岡紬のスペースは“お庭番長”の異名の通り、植物がたくさん配置され、季節ごとに入れ替えなども小まめに行われているようだった。
一方、自分のスペースは黒や焦げ茶などの彩度の低い色でまとめている。
必要最低限の小物と、趣味のサッカー用品以外は特別持ち込んではいない。
配色諸々を意識をしたわけではなかったが、結果として“正反対”となったこの部屋が、今はただ苛立ちを更に助長させる要因の一つとなってしまっていた。
この苛立ちの根源が分からないからである。
「………」
一旦気持ちを落ち着かせるべく、ソファへと腰かける。気も遣わず放り投げた大柄に驚き、ソファはいつもよりも大きな悲鳴をあげた。
手を組み、その上に額を乗せる。練習後の昂揚する体はまだ熱く、額からはジクジクと鼓動が伝わってくる。
しかし、苛立ちも混じったそれらの熱は、いつもの練習後の心地よい熱などでは決してなく、モヤモヤを丸めた溜息が漏れるばかりだ。
こんな時は日課のランニングでも―――となるのが通常なのだが、今日ばかりはそんな気にもなれない。
モヤモヤとした気持ちを抱えて幾日経つが、その間に何度走り込みをしようとも、その霧が晴れる事はなかったからだ。
仕方なく、霧の中へと足を踏み入れていく。
「(…何に苛立ってるっていうんだ)」
一歩踏み入れた霧の中。それらはすぐに自分を包み、内へと入り込んでは胸から、喉、頭、肌へ―――不快なざわめきを掻き立て、体中へ伝染させていく。
その不快感は髪の先でさえ反応しそうであった。しかし、じっと堪え、自ら心の内を覗き込んでいく。
何に、苛立っているのか。なぜ、苛立っているのか。
欲しいのはその答えだった。
しかし、どれだけ内側を漁ろうとも答えが見つからない。
不快感だけが自分を包み込み、精神を苛む内にとうとうそれにも慣れてしまったのだろうか、思考力が落ちているのに気付いた。
過去を思い出すのが酷く億劫で、ただ不快感に抱かれながら瞳を閉じる。これではだめだ、と思った。
一度息抜きをしようとソファの背もたれに大きく体を傾けると―――ふと横に、紬の鉢植えがあるのに気が付いた。
それぞれのスペースの境界に置かれたその植物は、若草色の葉を四方に広げながら蔦を伸ばしている。
「(そういえば―――エリカも植物が好きだったか)」
かち。何かが音を立てて丞の中で形を作った。
その刺激に身体は閃きを持って跳ね上がり、勢いそのまま、身を起こし紬の植物を注視する。
そうだ、エリカだ。と。丞はモヤモヤの根源の影を捕まえた。
春の初め、恋人とデートの約束をしたのだが、劇団の呼び出しなどで十分な時間を過ごす事が出来なかった。
その埋め合わせとして寮での約束を作ったのだが、それもまた、結果的に反故にしてしまったのである。
久々に出したバイクの心地よさに負け、彼女との約束を忘れ―――そのまま出かけてしまった自分の落ち度だった。
「(…………)」
出先から寮へ戻り、玄関を入った所で鉢合わせた時の気まずさを思い出し、丞は苦々しい表情で眉間に皺を作る。
後から気付いた事だったが、二輪の荷物入れに放り込んでいた携帯電話には、何度も彼女からの着信履歴やLIMEメッセージなどが入っていた。
連絡のつかない自分を心配するメッセージに、悪いことをしたと胸が痛んだ。
同時に、埋め合わせだというのに、その約束すら破ってしまったこと。これに関してはぐうの音も出なかった。
日も暮れたその日の玄関ホール、明かりに照らされたエリカの顔が、その瞳が、ちりちりと震えていたのを忘れられない。
バイクの後ろに乗せた監督が玄関へと戻ってくるのにつられて、集まった劇団員が作るギャラリー。
その場で自分の罪を明かす事は情けなく思ったが、自分の体面よりも謝罪だと思い口開いた。しかし、それは、彼女の言葉で遮られた。
“初めからあなたと約束なんてしていない”という意味を込めたそれを、まるで“本当の言葉”のように紡ぎ、演じる彼女の優れた嘘に、芝居に、その時の自分はただ立ちつくしてしまった。
何事も無かったように脇をすり抜け、舞台袖―――もとい、寮から出て行くその背を追い始めるのに、時間を要するほどに。
追いかけ、ようやく捕まえたエリカは泣いていた。
その涙に驚いたが、やっと告げられると思った“謝罪の言葉”は再び、有無を言わさず拒否されたのだった―――おそらく、これが“根源”なのだろうと丞は結論へとたどり着いた。
とうとう、モヤモヤの正体を理解する。
「(…謝れなかった、許されなかった事が、問題を終わらせてくれないということか)」
それは丞の中で今まで出会った事のない感覚であった。丞自身、己の言葉の足りなさを自覚はしている。
しかし、これまでそれで何度人と意見が食い違ったり、諍いが起きたとしても、拙いながらも言葉を交わす事で解決してきたはずだった。
幼馴染との諍いも、解決までに時間はかかったけれど、きちんとぶつかる事で和解する事が出来たのと同じように。
今回の事は完全に自分に非がある事を、丞は重々承知している。
それなのに――――彼女は謝罪を拒絶し言ったのだ『怒ってないから、謝らないで』と。
『もっと好きになってもらうように、頑張るね』と。
まるで非が彼女自身にあるとでも、言うように。
すると再び、腹の底から湧き上がってくる澱んだ気配に気が付く。
ごぽごぽ音を立て煮詰まるそれが胸へ、視界へ、新たなモヤモヤを生み出していくのだ。吐き出せない事を分かりつつも、その不快感に大きくため息をつく。
この感覚には記憶があった。
幼馴染と――――紬に対して感じていた事と似ているのだ。
何かトラブルが発生した時、自分が関わっていた場合に、自分を責め己が中で『自己解決』してしまう癖。
たとえ自分に非がなくとも相手に何も求めず、伝えず――――内で消化してしまうその性質に、やりきれなさを感じていた。
言ってくれれば理解できる。全ては理解できなくとも、凝り固まった自分の認識を変える事だってできる。
しかし、それを拒絶されてしまえば何ひとつ理解も出来ず―――――ただ、一方的に“赦される”だけの状態となるのだ。それは対等とは言えない。
玄関ホールで見た彼女の瞳は震えていた。
今でも鮮明に思い出せる程、儚く揺れた双玉に映し出されていたものが歓喜だと錯覚するほど愚かではない。
だからこそ、自分は一層自分の非を深く自覚したのだから。約束を破った事、心配をかけた事。
その二つに、彼女が何を背負う要素が含まれているのか、どれだけ考えを巡らせても分からない。
――――それに、
「(…言えない間柄ってなんだよ)」
今にも零れそうなくらいに瞳に詰め込んでいたのに、それをぶつけられない自分という存在は、彼女にとって何であったのだろう。
追って捕まえた時には溢れさせていたその気持ちをぶつけてくれたのなら、どれほどよかったか―――――一人で抱え込まれ、自己解決されて、相互理解も出来ぬまま事が進んでいくのは納得ができない。
直接、ぶつけてみるしかないのか。重い気持ちで一つの結論を導き出し、丞はもう一度だけ、大きなため息を吐いた。
結果が見えない行動は気が重くなるばかりだが、とりあえず一つ前に進めた気がする。
…いずれにせよ、こうした機嫌の悪さを稽古にぶつける姿勢は褒められたものではない。紬の指摘に改めて感謝をした。
「丞」
「……紬」
見計らったようなタイミングで部屋のドアが開く。入ってきた同室者。
稽古中の指摘の件もあり若干の気まずさを感じるが、言われた事は自身が見失っていた事実で、丞自身も己の未熟さを認識したところだ。
謝罪か礼かその両方か。とりあえず伝えるべく息を吸い込んだが、それは紬の言葉で制される。「分かった?」と。
時々、この幼馴染は見透かしたような瞳で見つめてくる事があった。
今この瞬間のように、澄んだ青色の瞳がどこか底なしにさえ見えるほどに、深い所を探り当てるように。
意味もなく背筋が張る。喉がごくりと鳴る。丞はただ、短く一言「ああ」と伝えた。
「許してもらえるといいね。約束の事も、監督と出かけた事も」
――――“監督と出かけた事?”
「あ、ああ。…そうだな」
引っかかった言葉に動揺し、返事に籠る力が弱まった。
それを紬は呆れた様子で見ていたが、彼には持ち直したように見えたらしい。それ以上の追及はなかった。
しかし、丞の中では自分の考えが至らなかった“もう一つの非”を挙げられ、寝耳に水の状態である。
監督と出かけた事。確かに、バイクの後ろに乗せて出かけたが、それがなんの非があるのか、丞には分からない。
紬が部屋に戻った事で話題は別へと移り、結局、引っ掛かりを解明する時間はなくなってしまった。
とりあえず、まずはエリカと話をする時間を作る――――その決意だけが、丞の中にこれからの道筋として明確となったものであった。
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しかし、いざ決意をしたところで、互いの都合が合わせられなければ目的は達成できないものである。
次の公演に向けての準備や練習、劇団の活動とは別に役者としての予定が埋まり、丞はなかなか恋人に連絡が取れずにいた。
また、エリカの方からも連絡はなく、忙殺の中にありながら胸に抱いた決意を持て余す毎日である。
待つのはあまり得意ではない。
ただ、忙しさの中で、恋人の事だけを考える時間が無かったためか、以前のようなモヤモヤに悩まされる事はなくなった。
このまま時間が解決させてくれるのでは。
もしかしたら無理にぶつかる必要などないのでは。
思いというのは少なからず風化していく。
芝居のようにどれだけの熱意を込めて表し、一時の感動を得られても、いつかは忘れられ過去となって行くのが常だ。
記憶に残る程鮮烈な感動を植え付けたとしても、それは過去であって今ではない。
それをただ“ありのままの事実”として、丞は人一倍理解している。
過去になったとしても、たとえ目に見えないものであっても、そこに込められた熱意が“ただ在った”という事を忘れる事はない。
それだけで、丞にとっては十分であったのだ。
しかし、芝居に関しては得手としていても、人間関係にそれが適用するのかどうか、彼には分かりかねた。
実際に、モヤモヤしていた時に感じていたやりきれない思いや、その熱量は醒め始めている。
人とぶつかるという事は少なからず双方に痛みが発生するという事は、これまでの経験で履修済みだった。
泣いて逃げ出すほどの人間に、そんな性質の彼女に、直接ぶつかっていいのだろうか。
丞の中で迷いが生じ始めていた。
これこそ答えのない堂々巡りの時間である。
「(………走りにでも行くか)」
幸い今日は昼過ぎから予定はなく、ゆっくりと自分の為に時間を使える日であった。
この時間を使い、恋人へ連絡を…と思ったのだが、この迷いを抱えたままでは言葉もまともに選べず、自体が悪化するのは目に見えている。
一旦、汗でも流して冷静になってからの方がいいだろう――――丞はトレーニング用の服へと着替えはじめた。
こんな日は一人よりも二人――――大学生ならばこの時間でも寮にいるかもしれない。
丞は105号室の扉を叩き、出てきた気のいい男と共にランニングへと出かけて行った。
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汗を流したのは正解だった。
悩んでいた事は嘘のように吹き飛び、今はすっきりとした心地でベンチに座っている。
頂上付近にあった太陽は西へと傾き、真緑に映えていた木々たちが次第に黄味を帯び、焦がれていくのをぼんやりと眺めていた。
紬が言うような植物の良さは自分には理解しかねたが、純粋に自然の中に身を置くというのは心地よい。
ランニングに誘った伏見も同意見らしく、何気ない言葉にも嬉々として返事をしていた。
「やっぱり好みって似るものなのか」
「好みですか?似るって……何と?」
「……いや、付き合ってるやつと紬とが性格的に似ている部分が多いんだが、二人とも植物が好きだからな。似るのかと思っただけだ」
「ああ――――…」
伏見は顎に手を当て、しばらく言葉を探しているようだった。
体躯も立派で、傍に立つだけで威圧感があるこの男は、しかしながら見目に反して繊細な内面を持っている。
その性質を介して出てくる、先の疑問の答えには丞自身興味があった。少しして臣は口を開く。
「植物には癒しの力があるって言いますからね」
想像していたものよりも捻った回答が返ってきたが、臣の言いたい事を丞は理解し、同時に己の疑問の答えとして消化した。
ランニングを経て気分は晴れ、大きくなったのか、丞は今朝の諍いと先日のエリカとの衝突の経緯を臣へと話す。
大きな体は小刻みに頷き、時折考え込むような仕草を挟んで、少しだけ顔を曇らせていた。
眉を下げ、困ったように笑うその顔は、紬やエリカもよくする顔で、内心丞は毒づく。お前もか、と。
「俺は監督の事を女として好きなわけじゃない。友人…とも少し違うな。ああ…“仲間”として接しているだけだ」
「そうですね…丞さんの言う事、俺も分かります。それでも、彼女さんには淋しかったかもしれません」
「どうすればいいのかちっとも分からん」
お手上げだとベンチの背もたれに身を預ける。
部屋のソファと異なり、固いそれは悲鳴をあげる事無く、心強く丞の体をしかと支えた。
友人や仲間と出かける事も不快だと思われるのであれば、それはさすがに自分にとって窮屈な事だった。
エリカの気持ちを慮り、優先したいと思う気持ちはもちろんあるが、女友達・仲間と出かける事を制限するというのは自分の中で納得が出来ない部分がある。
監督に対して恋愛感情があるわけではないのだ。
友人として、同じ仲間として、共有するものを持っていてはいけないのだろうか。
じくじくと目頭が痛んでくる。どんよりとした暗雲が頭の中に塊を作っていくようだ。
「…昔付き合ってた彼女達も似たような事を言われた。全員に」
「はは。まあ……でも、女性ってそういうもんかもしれないです。自分を一番に考えてほしいみたいな」
「それは……無理だろ」
まあそうなんですけどね。伏見はもう一度、困ったように笑った。その笑い方がどこか恋人に似ていて複雑な気持ちになる。
エリカが今までの彼女達と決定的に違うのは『乞わない』事だった。
もっと自分を考えてくれ。
もっと自分を大切にしてくれ。
もっと自分を愛してくれ。
言い方は異なれど、いつも言われるのはそういった内容で、都度、丞は丞なりに愛情を示してきたつもりである。
けれどもそれはいつも正しくは実らず、もっともっとと乞われるばかりで、固く結ばれたはずの赤い糸は何度も解けていってしまった。
新たに結ばれた赤い糸が、今、固く結ばれている実感はない。けれども解けてしまうほどの緩さでもないと思う。
愛してくれと『乞わない』が、いつもエリカが“困ったように笑っている”のを目にしている丞としては、どうにかその違和感を払拭できたらとは思うのだ。
自分の隣でいつも笑っていてほしい―――とまで、女々しくは思わないものの、もっと自然体でいてくれればと思うのだ。
自分が常に、彼女の隣で、そうであるように。
「――――丞さんが」臣が不意に話し始めたのをきっかけに、身を起こし彼と向き合う。
困ったように笑っていたその顔からは困惑が抜け、ふわりとした笑顔が広がっていた。
まるで母親のような慈愛を秘めた表情に戸惑う。
「丞さんにもきっと分かる日がきますよ。…何となくですけど“今の人”が教えてくれるような気がする」
言っている事は何の根拠もない言葉だったが、今の丞の胸に驚くほど自然に収まる。
その抜群のハマり具合にむず痒さを覚え思わず身を捩った。しかしもちろん外的要因でないため、何の意味もなさないのだが。
「さあ、そろそろ帰りましょう。俺は足りない食材を買ってから戻るんで」臣が立ち上がると、ベンチが軽く音を上げた。
自分では動かせなかったベンチの強度に理不尽な憤りを感じたが、物理的な質量も、内面の豊かさも…きっと臣の方が持っているのだろうと思うと納得できる。
小さくなっていく背中を見送って、丞は踵を返した。ランニングの後に恋人へ連絡しようと思っていたが、一旦保留にしてもいいのかもしれない。
それまで内に巻いていたモヤモヤも、恋人との向き合い方も、丞の中で一つ、芯を作る事ができたからだ。
答えが出ないままぶつかってもいい方向には向かない。
丞は臣に話してよかったと、改めて感謝をした。
奇しくも恋人から連絡が入ったのは、寮に戻ってすぐの事であった。
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恋人からの連絡は同じ劇団の男の送迎の依頼だった。
どういう経緯かは分からないが、所構わず眠ってしまう迷惑男、御影密に遭遇したらしい彼女が助けを求めてきたのである。
昼間の陽気が身を潜め、薄暗い公園の中をベンチを探し歩く。
それなりに広い敷地ではあるが、休憩が出来るスペースは限られており、休んでいるであろう場所に目星をつけて回った。
商店街側の区画へさしかかった時、芝生の向こう、大木の下で手を振る影を見つけた。あれだ、と急ぎ足で駆け寄る。
眠っている御影を起こさない為か、控えめに呼ぶ声を聞き、影がエリカであることを認識したのだが―――表情が見える位置まで来たところで、その光景に足が止まった。
エリカのものであろう上着をかけられ、その膝枕ですやすやと眠る御影の―――男の姿。
一瞬、自分の中にピリ、と電流のようなものが流れる。同時に胸に湧き上がった、これまでとは異なる奇妙な淀み…モヤモヤとした影。
「(……なんだこれ)」
今日の朝までモヤモヤしていたそれとは毛色の違う影だった。
胸の内にどんよりと螺旋を描いているにも関わらず、チリチリと刺すような痛みを有している。
悲鳴をあげるような痛みではない。例えるならば、面前を羽虫が飛び交う時の不快感―――を誘うような微かな痛みだ。
思わず足を止めてしまったが、こちらの状態など知る由もない恋人の、怪訝な表情で我に返る。
痛みによる不快感の勢いに任せ、密を抱き上げるとその身から上着を剥ぎ取り、持ち主へと返した。
「はた迷惑な奴にそんなに親切にする必要はない。……もう遅いし送るから乗れ」
いつも以上に刺々しい言葉が出た事に一瞬の後悔を感じたが、こんな時に限って恋人は戸惑いもなくその言葉を受け取っている。
それが、御影と過ごした事による効果なのかと思うと、眉間は無意識に、皺を深めた。
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寮に到着し、密を部屋へと運んでいく。
帰りの道中、何度も密の話を聞かされた事もあってか、不快感は不機嫌という段階にまで変化していた。
自身の苛立ちに気付くほどに、ピリピリとした空気を放っていたと思う。
エリカの言葉を遮り、急ブレーキをかけて到着した事で、彼女もこの空気に気付いたのだろう。寮の入り口へ近寄ろうとしなかった。
内心、八つ当たりをして悪いとは思いながらも、自身の苛立ちを隠せるほど人間が出来ていない。
ちらりと横目で入るように促すと、先程までの朗らかな雰囲気を払い除け、エリカは少し俯きながら寮へと近づいてきた。
彼女を照らす夕陽が、その哀れな様子を助長させており、思わず瞳を逸らす。
不安がる人間を安心させられるような言葉を選ぶ自信はない。
「(紬だったら――――)」
彼女が紬だったら言葉など選ばずに、不機嫌を投げつけていたかもしれない。
自分が紬だったら不必要に不安になどさせず、うまくまとめる事ができたかもしれない。
この場に居もしない人間を持ち出して解決策を乞うなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
そんな居た堪れなさから逃げるように、丞は密を担ぎ、205号室へと急いだのであった。
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「おや。密くん」
帰りが遅いからまたどこかで眠っているのかと思っていたよ。
御影密の同室の男、有栖川誉は特段心配した様子もなく部屋の扉を開けた。
普段から御影の好物を手ずから与え、構う割に、こういう時は我関せずといった態度なのが解せない。
その辺りにでも放っておいてくれ。短くそう告げると、さっさと机へと戻っていってしまった。本業が忙しいらしい。
詩を書く事を生業としているようだが、肝心の内容は自分には全く理解できないものだ。
世間の評価は悪くはなく、図書館に執筆した本が置かれたとかなんとか、三角が話していたのを聞いている。
しかし、有栖川は有栖川でこちらの生活感覚を理解できないようで、脳筋だとか情緒が分からないだとか、言いたい放題言っているのでお互い様だと感じている。
「時に、丞くん。君はなぜそんなにも苛々しているのだね」
「は?」
ベットに放り投げた御影に背を向け、気が重さにうんざりしながら、玄関へ戻ろうとしたその時であった。
机に向かっているとばかり思っていた詩人は、くるりと椅子を反転させてこちらを眺めている。
不対象に切られた赤髪を指に巻き付け、こちらに疑問を投げかけながらも、彼自身も何かを考えているようだ。探っているという方が正しいか。
血の色のような真っ赤な瞳が、こちらを突き刺すように見ている。不機嫌の理由を、教えろ。と。
「…別に、お前には関係ない」
「関係なくはないぞ。君は私の集中を阻んだのだからね。攻撃的な圧を受けて、いい詩が書けるはずもない」
「………」
所構わず眠る男に振り回され、送迎あげく部屋まで運んだ上に、この言われようである。
誉の言い分が密の勝手と関係が無い事ではあるのだが、言い掛かりも甚だしいと思わなくもなかった。
しかし、自身が苛立っているのは事実で、たったこの一瞬だけであっても、他人にそれを感じ取られたという事。
心情を言い当てられた事に、情けなさを感じたのもまた事実。丞は内心で舌打ちをした。
この男、突飛な発言の多い奇人ではあるが、感受性が強く、周囲の些細な機敏も細かく感じ取ってしまうきらいがあった。
納得したわけではない――――が、誉の邪魔をしたのは確かである。
丞は、言い淀みながらも事の次第を明かした。
「―――ふむ。ひざまくらをと」
「おい、そこはどうでもいい事で…」
「いやいや、つまるところ丞くんは密くんに嫉妬していたのだろう?」
「は?」
「君もしてもらったらいい」
「おい話を聞け」
「特段、珍しい話でもなかった。詩興も湧かない」そう誉は言い捨てて、椅子を再び反転させ、机へと向かう。
丞の制止の声など聞こえなかったかのように、言いたいだけ言ってそのまま―――である。
背を向けた彼は、疑問を解決して納得したのか、持つ筆を進めているようで、すぐにぶつぶつと奇妙な詩を口にし始めた。
こうなるともう話は聞かない。丞は大きなため息を一つ、その背に振りかけて205号室を後にした。
階段を下り、中庭へ出ると東の藍色がその歩を更に進めていた。
幼馴染のテリトリーもじわじわと侵食され、奥の木々は既に影だけの存在と化している。
半身を照らす橙の光は鋭く、微かに拾ったその赤から、先ほどの誉の言葉を思い出していた。
「(嫉妬、だと?)」
俺が。誰に。
俺が、御影に?
なぜ。
エリカが御影にひざまくらをしていたから?
「(いや、待て)」
カッと音がする勢いで、顔が瞬時に熱を持った。まるで沸騰した湯のような衝動に頭を抱える。
小学生の子供のような理由で、不機嫌を起こしたというのは丞自身には受け入れがたい。
それでも、熱い頬に当てた手のひらに伝う高い温度に、耳の後ろに湧く微かな汗に、全ての答えは詰まっていた。
事実、先ほどまで心中渦巻いていた不機嫌の霧は雲散し、代わりにばくばくと臓が鳴っている。
不機嫌を見透かされた時よりも、嫉妬を見破られ、丸裸となった“高遠丞”は焦りと羞恥で震えている。
しばらく、赤は苦手な色になりそうだ―――――夕陽の色に頬を紛らせながら、玄関ホールの扉を開けた。
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結局、心臓の喧騒を収める事も出来ぬまま、恋人の前に姿を現す事となった。
幸い、玄関ホールは中庭より藍が満ちており、逆光となる立ち位置の丞は、恋人に表情を見られる事はない。それに安堵した。
夕陽に照る彼女の顔は、変わらず不安に揺れている。
初めて彼女に見惚れた時に近いその顔は、今でも自分の心を強く掴み離さないものであったが、今はただ、そんな顔をさせている事に罪悪感があるのみだ。
自分の心情を認めたところで、「御影密に嫉妬していました」などと情けない事を告げるわけにもいかず、かといって、繰り返すが、紬のように上手に言葉を選ぶ能力もない。
丞自身、整わないままここへ突撃してしまったようなものなのだ。
ただ立ち尽くす自分と彼女に、どうするべきか考えて、考えて、考えて―――――もう、潔く諦めることにした。
「(…どうとでもなれ)」
詩人の言うとおりにするのは不満極まりなかったが、どうせ彼の言う通りなのだ。
今更、考えた所で何も妙案など浮かばないし、そもそも自分には思考を巡らせ考える事など不向きなのだから。
戸惑う彼女に近くの簡易ソファを指し、そこへ座らせた。
戸惑いがちにおろおろと従う、その膝に、どかっと身を投げた。
小さな簡易ソファは自分の身長をカバーしきれず、下半身は外に投げ出されているから不格好な状態ではあるが、仕方が無かった。
思ったよりも柔らかな感触が耳、頬を包み込む。
薄いスカート越しに頬の熱が伝わらないだろうか――――それだけが、心配だった。
「…た、高遠、くん………あの……」戸惑うエリカの声が聞こえる。
先程まで怒っていた男が急に接近して、あげく膝枕だなどとなれば、動揺するのは当然かもしれない。
けれど、丞は思った。御影の時は楽しそうにしていたではないか。と。
ふわふわしているだの、髪が柔らかいだの、嫌そうな顔どころか楽しそうな顔をして。
「……なんだ。御影が良くて俺が駄目な理由でもあるのか」
我ながら、これまでで最高に情けない一言だったように思う。
どうせスカート越しに頬の熱さも伝わっているのだろうと思えば今更だった。
何を言っても恥ずかしいと思う事なんてないのだろう。どうせこの行動がもう恥ずかしい事そのものなのだ。
しばらくして、乗せた膝の柔らかさが増したのが分かった。
先程まで緊張で力んでいたのだろう、低反発の枕のように少しだけ沈んで、頬をまるく包むその柔らかさが心地よかった。
しばらくしてゆるりと髪を撫でられる。
御影のように柔らかい質ではないし、短く切ったそれは触り心地がいいものではないだろう。
それでも、細く、少し冷たい指先は、驚くほど優しい動きで丞の頭を撫でていた。
往き、戻りを繰り返すやさしい動きに、次第に頬の熱も、胸の鼓動も収まっていた。
ゆりかごの中にいるような心地の良い動きに、意識がまどろんでいく。
冷たかった指先に熱が灯った気がした。それが自分の熱が伝ったものなのかは分からない。
こんな穏やかなやりとりを御影と、他の男としていたのかと思うと、やはり心中穏やかではいられなかった。
まどろみから目覚め、身を返す。顔を見せる勇気はなくて、けれど一言伝えておきたくて、丞は口を開く。
「…あんまり他の男とベタベタするなよ」
彼女にそんな気が無くとも、やはり嫌だと思った。
こういうやりとりは自分とだけでいいなどと、本当に勝手で子供じみた感情だとは思うが、嫌なものは嫌なのだ。
薄く開いた視界は既に暗く、橙は遠く向こうへ追いやられてしまったようだ。
玄関ホール奥の談話室方向から賑やかな声が聞こえてくる。
自分の気持ちでいっぱいいっぱいで気が付かなかったが、思えば食事のにおいも満ちていた。
そろそろ他の人間がやってくる頃だろう、騒ぎを大きくしない為にもこの時間を終わらせなくてはいけない。
丞が身を起こそうとしたその時、膝の固さが微かに増した。ふるふると震えるそれは、撫でる指にも、手のひらにも伝染した。
程なくして頭上から声が降り注ぐ。か細く、消え入りそうに。
「――――高遠くん、も……あんまり、他の女の人と……仲良く、しすぎないでね」
躊躇いがちに紡がれたか細い言葉。
言葉の意味だけを取って言うのならば、かつての彼女達に言われた言葉と大差ないはずなのに。
願いを込めながらもどこか諦めを含んだような様子を察してしまい、いつもの調子で返答をする事が出来ない。
その戸惑いの間をくぐり、入り込んできたのは、今朝、幼馴染に言われたかの言葉だった。思考が切り替わる。
『許してもらえるといいね。約束の事も、監督と出かけた事も』
“他の女の人”というのが監督の事なのかどうかは分からない。
しかし、もしもそうであるのならば、今日一日のこれまで、ばらばらに散っていた疑問全ての辻褄が合う気がした。
パチ、パチ。組み合わさっていく疑問のピースは少しずつ輪郭を現し、あと一息というところで停止した。
不意に、頬に熱いものが降りかかり、意識が削がれたからだった。頬を伝うそれは涙という最後のピース。
最後に残った隙間にはまった瞬間に、それは形を成し、丞へと語りかけていた。伏見の、声を借りて。
『それでも、彼女さんには淋しかったかもしれません』
ああ……傷付けていたのか。丞は理解する。
すべては伏見の、紬の、言うとおりだったのだ。
付き合っている以上、自然体でいてほしいだなどと願っておきながら、これまで恋人に言われた言葉に配慮した事など一度もない。
丞は丞なりに考えて行動はしていたのだが、相手との温度差は広がるばかりで、双方、いつも息苦しそうに過ごしていた。
結局、いつだってその気持ちの均等が保たれることはなく、別れを選ばずにはいられなかったのだ。
付き合っているのだから、想って欲しいという気持ちを抱いて当然の事だとは思う。
約束が破られたのならば怒っていい。その権利がある。
それなのにいつも、この恋人は笑顔で許していたような気がする。眉を下げて諦めたような瞳を滲ませて。
こうして、やっと自分の気持ちを伝えられても、相手を責めるだけでなく、諦めを言葉に潜ませるその不器用さを、丞は哀れに思った。
諦めと呼ぶか、許しと呼ぶか――――それは涙が答えだった。丞の胸の中に愛しさという形に変わり、染み渡っていく。
思わず、かの頬に手が伸びた。熱い涙を拭って、輪郭をなぞる様にそっと撫でる。
一瞬、戸惑いに体を固くしていたが、すぐにこの手に身を委ねていた。静寂と互いの温度とが心地いい。
紡ぐことが出来た返事は短く一言。「……分かった」だけ。
彼女の願いと、その性格を理解したことと、どちらへの返答なのか、自分でも分からなかった。
『もう少し歩み寄りたい』
そんな、柄にもないことを願ってしまうほど、今が大切だという事。
それだけは丞の中で真実となった。
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「次に連休が取れたら、バイクで少し遠出をするから分かり次第予定を送ってくれ」
帰りの車の中で次回の約束を取り付ける。
今度は誰にも邪魔されぬよう、約束を破らないよう、この地を離れた場所へ行きたい。
天鵞絨町さえ離れてしまえば、人目を気にするエリカとて並んで歩く事を拒みはしないだろうという算段もあった。
すっかり陽の落ちた道中では彼女の表情は確認できないが、遠慮なく返事を返したところを見ると、喜んでいるのだと思いたい。
信号で車を停止させ、ふと窓の外を見ると小さな空地に草花が茂っているのが目に入った。
白い花を付けるその草は、夜の闇の中でもかすかに存在を主張し、小さな花をつけた身を風に揺らしていた。
「…オルレアだね。レースフラワーとも言うんだよ」
視線に気づいたエリカが名を呟く。オルレア。
紬からも聞いたことはない名前だった。
小さな花は遠目ではどんな形をしているかまでは分からないが、細い茎を分岐させ、その先でそれぞれを見事に咲かせている姿が印象的だった。
茎も花もか細く、風に煽られているのに、暗闇の中でも存在を静かに示し続けている。その健気さに心が打たれた。
幼馴染の部屋のどんな植物にも、さした興味は惹かれなかったのに。
「レースフラワー、私は好き。……ああ、そういえば今日買って帰ろうと思ってたの。御影さんに会って、すっかり忘れちゃってた…」
「花屋で売るような花か?とてもそうは見えない」
「珍しいと思うけれど…雑草みたいな花だからね。でも、とってもきれいだよ。これ一つで主役になるくらいに」
エリカの言葉に返事をする前に、信号が青になり車を発進させた。
道に咲く花でも、木に付く花でも。どんな花でも主役になれる―――そう、聞こえた最後の言葉に、丞も内心深く頷いていた。
摘んでいくかと問うたが、彼女は首を横に振った。誰かの土地だし、それにそこで咲いているのなら、そのままが良いと言って。
丞はその横顔、そして花への向き合い方に繊細な気遣いを感じた。初めて感じたそれに、掌がじわりと湿っていく。
たかが花に、雑草に。そんな考えが去り散って、洗われていった自身の心に戸惑う程に。
夜の静寂をヘッドライトが裂いた。車を停めると、シートベルトがすぐに外される。
「ありがとう」少し涙声で小さく礼を言うエリカに、小さく返事を返した。心地のよいこの静寂を、これ以上壊したくなかった。
以前、車を見送るよりも先に部屋へ帰ってほしいと頼んだからか、遠慮がちに彼女は車へ背を向け歩みを進める。
しかし、何かを思いついたように振り返り、問うた。
「そういえば…高遠くんの劇団は何歳から入れるの?御影さんみたいに若い人もいるみたいだから、年齢は気にしないのかな」
かけられた言葉に一瞬、理解が追いつかず、奇妙な間ができた。
“御影が若い”腑に落ちないそれを手早く咀嚼し、間を埋めるべく口を開く。
「御影は俺達よりも年上だぞ」
夜の静寂に、再び奇妙な間が訪れた。
エリカによって作られたそれは、しばらく破られる事のないまま二人を包む。
とうとうそれが破られた時、驚きと微かな羞恥に染まる彼女の顔は、今まで見た事が無いほど自然な表情だった。
実年齢よりも微かに幼いその表情に、不覚にも可愛らしさを感じ、丞はそっと顔を逸らす。
遅いから早く入れ。そんな言葉で誤魔化して、彼女を部屋へと押しやると、それを見届けて自らもその場を後にした。
帰路に咲くオルレアは風に身を任せ、手を振るかのように揺れている。
まるで何もかもを見透かしたようなその動きに、丞はひっそりと溜息をつき、ぼやいた。
「植物というものはずいぶん厄介だな………」
―――と。少なくとも自分にとっては。
植物を愛でる幼馴染と彼女の顔を思い浮かべて、もう一度溜息を吐き出し、丞は顔を上げ、帰路を進んだ。
そんな風に、逃げるような自分の背中にさえ、オルレアは手を振っているような気がして。
アクセルを踏み速度を上げる。それを振り切って、丞は、夜の町へと消えて行った。