丞とその彼女
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レースフラワー
都内の一等区から少し離れた郊外のその街は、昔ながらの商店街とモダンでオシャレな新店とが軒を連ねあう賑やかな場所だった。
―――という説明だけではちぐはぐな場所である印象を受けるが、実際は新旧が上手く調和し、老若男女多くの人間が集う憩いの場所となっている。
道の脇には欅の木が植えられ、石畳が貼られた道、街灯に下げられた季節の寄せ植え、イベント毎にこまめに替えられる宣伝フラッグ。
大通りをひとつ裏へ入れば大きな池を有した自然公園もあり、近くのベーカリーからはいつも焼きたてのパンのいい香りが広がっていた。
ここは、エリカにとっても息抜きにと足を運ぶ街であった。
この日も、休暇をこの街で過ごしている。
レトロな小瓶ばかりを集めた雑貨屋、ぶどうの蔦を編んで作った籠がかわいいかばん屋、百貨店のデットストックを集めた紙屋…。
売られているものはどれも古いものばかりであるのに、訪れる度に商品が変わる店はいつだって心をわくわくさせてくれる。そんな一時のときめきが、エリカは好きだった。
かつかつと石畳を鳴らし、目的の場所へと向かう最中、不意に、駅構内の花屋で目に留まった「レースフラワー」を思い出していた。
白くか細いかの花は早春の花であったが、厳冬の影響か、五月に入っても市場に出回っているらしい。
小花を集めて放射状に広がる姿はいじらしく、ちらちらと揺れる動きは、見ているだけで気持ちが和らぐような優しさがある。
出来れば買って帰りたいと思っていた。
「(あのお店で、小瓶を買って…)」
自宅の花器にレースフラワーに合いそうな花器はない。
いつもならば自宅にある花瓶の状況を考慮した切り花を買って帰る事が多いのだが、今日は自分の我儘を優先させたい気持ちだった。
どんな小瓶が合うだろうか。色は、形は――――そんな事を考えている内に、目的地へと到着する。
そこは、季節の草花が店内中に飾られている、お気に入りの“フラワーカフェ”だった。
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いらっしゃいませ、と控えめな出迎えに案内され席に着く。見慣れたメニュー表から「季節のハーブティー」を選び、視線を店内へと巡らせた。
ダークブラウンの落ち着いた色味のソファとガラスの丸テーブル。
よく磨かれた真透明なガラスで仕切られた向こうは、若々しいポトスのカーテンで目隠しをされ、隣の席は窺えない。
こうした透明感と光、空間を上手く利用し、開放感のあるこのカフェは忙しい都会での生活の一時の癒しとなっており、エリカは好んで利用している。
机の上に飾られた、小さなガラスポットの中にはガーベラが華やかに揺れていた。
週替わりでメインの花を入れ替えるこのカフェは、先々週はアルストロメリア、その前はストックを飾っていたと記憶している。
結構な頻度で訪れているにも関わらず、いつ来てもメインの花が被らない事に驚いていたが、その理由がカフェの提携店に花屋がある為と知ってからは、次のメインを楽しみに訪れるようになった。
今週はガーベラ。店の各所に吊り下げられているガラスポットには、白、黄色、オレンジ、ピンク…と色とりどりの花が咲き誇っている。
天井近くにもポットが配置され、くねくねと蔦を捩じらせ葉を魅せるポトス、アイビー、ドラセナなどが常に飾られており、まるで温室の中にいるかのような箱庭感が演出されている。
息を吸うと微かに青い香りが霞め、心が落ち着いた。箱庭感――――その静けさが、心地の良い孤独が、エリカを密やかに癒してくれる。
「お待たせいたしました。季節のハーブティーになります」
かたんと音を立て並べられるガラスの器。キャンディポットのような丸いポットの中で、淡いシャトルーズグリーンがゆらめいている。
ポットいっぱいに詰め込まれた緑色の葉はミントだろうか。このカフェに来ると決まってこのメニューを注文をするのだが、正直な所味の良し悪しは分かりかねている。
周りの女子客を見やると、昂揚した様子で嗜んでいるようであるから、きっと味は確かなのだろう。
メニュー表にも契約農家の安心安全のハーブを……といったこだわりが書かれているところからしても窺えるのだが。
いつものように、ポットから幾らかの茶を移し、口へ。スッと鼻に抜ける植物の青い香りが清々しい――――のだろうが、やはりエリカにとっては特別感動を誘う“青汁”ではなかった。
一息ついて、それを口から離す。飲み物に関心があるというよりは、とにかくこの内装を好んでいた。
公園通り沿いのこの店は、ガラスを多用した造りになっており、エリカの座る席からも自然公園の様子がいくらか見えている。
平日の昼過ぎ、公園を行き交うのは健康の為に歩く老人や、買い物途中の主婦、営業をサボるサラリーマンなど様々だ。
人間観察には興味がない。右へ左へ行き交う人々をただ、眺めているのが好きだった。
目に映る光景を流し見していると、体の中の全てが空っぽになるような感覚に見舞われる。それが何より心地よかった。
けれど、どうしても影が差すのを止められない日もある。それが今日だった。
「(……ツーリング…か)」
先日の恋人とその監督との外出の一件だった。
会う約束は破られ、自分ではない女性と二人きりで出かけてしまった恋人。
申し訳なさそうにする、その謝罪を遮ったのは自分で、聞きたくないと拒絶したのも自分であった。
自分でこの件は落としどころを見つけるから、と全てを遮断した手前、一日も早く消化したい気持ちとは裏腹に、エリカの心は晴れないまま今日まで持ち越されている。
いっその事、約束を破った事を責めればよかったのだろうか。
自分と言う彼女がいるにも関わらず、他の女性と二人きりで出かけた事を責めればよかったのだろうか。
―――どれだけ想像を巡らせても、エリカの中で心が晴れる答えは出そうもなかった。
少なくとも恋人に、丞に――“エリカが傷付いた”という理解と認識が存在していない事が分かるからだ。
それは、自分がどうして責めたところで、彼の理解が及ぶ事がないことは分かる。はっきりと「傷付いた」と言わない限りは。
「(……傷付いたって、言えばいいだけ………なのは分かってる、けれど)」
ぶるりと身が震えるのに呼応し、ポットとソーサーも悲鳴をあげる。高いガラス音が空気を裂いた。
言えるだろうか。丞の目を見て。「傷付いた」と。
答えはすぐに出る。NOだ。言えるはずがない――――受け入れてもらえる自信が、愛されている自信なんか、どこにもなかったからだった。
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店内は変わらず清々しい森林のような趣で来訪者をもてなしているが、その力を以ってしても、エリカの心が晴れる事はなかった。
すっかり冷めてしまったハーブティーを飲み干すと、張り付くような苦味が喉を苛める。長らく漬かっていた葉々は非難を主張しているかのようだった。
鼻の奥を刺すような青臭さと舌の痺れに視界が歪んだ。それでもぐいと飲み下し、店へと視線を戻す。
口の中で暴れる青汁の逆襲は続き、軽い嗚咽と共に眉が下がった。
まるで責められているようだと思った。
なんやかんやと理由をつけて、自分の気持ちから逃げる事、丞と向き合う事から逃げる事―――自分の過去から逃げる事。
何ひとつ変わる事を選びもせずに、現状を勝手に決めつけ、分かったような顔をし、あまつさえ、その強情を恋人に強いる傲慢さ。
逃げているだけの自分を棚に上げ、都合よく嘆き、陰鬱を長引かせる身勝手さ。
つらつらと溢れてくる自責の言葉が、今は心地さえ良かった。
逃げても答えは出ない。現状も好転しない―――分かっているのに、一歩が踏み出せずにいる。
「……あれは」
視界の端に見覚えのある後ろ姿が映り込んだ。ふらふらと頼りの無い足取りで進む灰色の影、小柄なシルエット。
丞と同じ冬組に所属する劇団員――――御影密だった。
丞から彼の特徴を聞いていたが、横に縦にゆらゆら振られ歩く姿を、ただの「睡眠欲が強い」という言葉で片付けられる程、エリカは彼を理解していない。
手早く会計を済ませ、密を追って走り出した。
「―――御影さん!」
「………誰」
小柄な背中が振り返る。色素の薄い髪は頂から右目へ流されており、表情が窺いにくいが、声色に警戒が混ざっているのが分かった。
急ぎ身なりを正し、改めて声をかける。高遠とお付き合いをさせて頂いている者で―――と、自己紹介をすると少しだけ警戒が解けたのか、密は捩っていた身を全てエリカへと向けた。
それでも声をかけられる心当たりがないらしい様子に、追って説明を追加する。
「体調でも悪いのかと思って」エリカの心配をよそに、密はあくびで返事を返すと小さく一言「バイト帰りで眠いだけ」と付け加えた。
どうやら、丞の説明は本当らしい。ひとまず体調不良でない事が確認でき、エリカはほっと胸を撫で下ろした。
改めて密を見やる。華奢な肩に細い手足。肌も髪の色も色素が薄いせいか、全体を通して儚げな印象の青年だと思った。
恋人は身長も高く筋肉質な体系をしているのもあってか、全く違う生き物のようにさえ思えた。
そんな風貌の密ではあるが、冬組の舞台公演ではしなやかな貴族役や、知的な天使、傲慢な吸血鬼など、多彩な演技を披露している。
舞台上での印象が強かったエリカにとっては、目の前の浮遊感のある青年とが上手く結び付けきれていない。
このまま放って置いてよいのだろうか――――呼び止めたものの結論が出しきれずにいた。
言葉を探すエリカに痺れを切らしたのか、はたまた彼なりの気遣いであったのか。密は寝惚け眼で言った。
「そこのベンチで休んでいく………から…枕……貸して」と。
枕など当然持ち合わせていない。持っている鞄もポシェットタイプの小さなもので、革製のものであるから枕にするには固すぎる。
どうしたものかと考えを巡らせている内にも、密の瞼はどんどんと下がり、みるみる内に体が傾いていく。
致し方あるまい―――意を決し、彼の体に身を寄せ肩を担いで、エリカは近くのベンチへと誘導していった。
密の身長は自分と同じか、少し低いくらいだろうか。恋人とはまるで違う体格に、改めてエリカは奇妙な心地を感じ取っていた。
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平日の昼下がり、公園に訪れる人気はまばらで、小さな子供を抱えた母親、緑を堪能しに来る老夫婦、軽快な走りで通過していくマラソンランナー風…の人など多種多様であった。
ベンチに腰かけたエリカは自らの腿へと視線を下ろす。大柄の花がプリントされたシフォンスカート…の先に現れる、柔らかな髪。そして白い肌と、閉じられた瞳。
密の目に適う枕を終ぞ用意出来なかったエリカは、自らの膝を差し出し、結果的に“ひざまくら”をしている状態だ。
初対面にも等しい関係の男女が公衆の面前でひざまくら…という奇妙極まりない光景であったが、それは本人達のみぞ知る事であり、周囲からは微笑ましい恋人同士の休暇にでも見られているのだろうと思う。
無論、エリカとて子供相手でもない異性に膝を貸し出す事に抵抗がないわけではなかったが、あまりにも眠そうな密を前に、ベンチにごろ寝させる事も気が引けたのである。
「(知らない女のひざまくら。断らないなんて……変わってるなあ……)」
自分が抵抗を感じたように、密もまたそれを感じていてもおかしくはないのに。
警戒心が強いタイプである事は、声をかけた時に分かった。その上、ピリッと肌がちらつくような威嚇に似たあの警戒感は、今までにエリカが会ったどんな人間とも少し異なっていた。
色々と思う所はあるのだが、今は“変わっている”の一言でとりあえずそれらは咀嚼する事が出来たので、それ以上を考える事は止める。
この季節は日増しに陽の熱は増していくものの、さらり撫でるように吹き抜ける風が心地良いのが特徴である。
新緑を揺らすトキノキの大きな葉が影を作り、二人が腰かけるベンチをすっぽりと覆っていた。密と接する部分は少し熱いが、風は涼しく、解れた心をさらって景色へと溶かしていくようだ。
すうすうと静かに寝息を立て横たわる密は、子供のように安らかな顔を見せている。見ているこちらの眠気を誘うような穏やかなそれに、エリカはつられて笑みをこぼした。
しばらくこの穏やかな時間を堪能していたのだが、公園の奥、恋人たちが手を繋ぎ歩いている様子が目に留まった。自分と比較してちくりと胸が痛む。
本来ならば自分とて、丞とああして手を繋ぎ、緑萌ゆる公園を歩いたり、街で買い物をしたり…そういったデートをしていても不思議でない関係のはずだ。
丞は二人で外へ出かけるのも気にしないと何度も言っている。しかし、エリカ自身がそれを拒絶していた。
自分で決めた事であるのに、他人を羨むなどどうかしていると思いながらも、エリカ自身も本当は、出来る事ならば恋人と外で時間を過ごしたいと願っている。
あとは自分の勇気一つ、覚悟一つ―――――ツーリングの件同様に、伝えるという行動に移すだけなのだ。
「………」
エリカは遠く一点を見つめた。先程までの思考の巡りは停止し、呼吸は浅く、気配は薄くなる。
時折、自分にはこうした変化が起きた。まるでそれ以上の詮索を制限するかのように“ここには無い何者か”に擬態するのだ。エリカの意思とは関係なく、自動的に。
まるで何かから逃れるような、強制的な思考の停止の制限に、心当たりがないわけではない。
それでもこの状態になってしまうと自問する事も、思考を巡らせる事も出来なくなってしまうため、ただ只管に自然に身を任せるほかなかった。
頭を下げ、風に髪を遊ばせる。髪の間を抜け地肌をさらう風は変わらない。
膝の上の密も安らかに眠りの舟を漕ぎ、帰ってくる気配はない。
船を漕ぐ彼と、風に身を任す自分と―――その場所にはただ、静かな時が流れていた。
この季節、トチノキは花をつける。白い小花を錘状に重ね、おしべが外に向かって伸びる形が印象的だ。
大きな葉が揺れて鳴くのと同じく、実を揺らして白を散らすそれが舞い、密の顔へと落ちた。
指を伸ばし、それを取ると――――眠っていたはずの密がパチリと目を開けた。
まるで初めから眠ってなどいなかったような反射で。
「起こしてしま―――…」
「…そういう習慣、俺もあるから分かる」
「?」
問いかけを遮り、声を掛けられるが、脈絡のないそれに脳が付いて行かない。
“そういう習慣”とはなんだろうか。先程までぐっすりと眠っていたにも関わらず、なぜ自然に会話が出てくるのかも、エリカには分かりかねた。
もしかして起きていたのだろうか―――困惑するエリカを尻目に、密は続ける。
「気配消してた」
「………気配?…私が、ですか?でも、それは、」
意識して消しているものではない。いわば“無意識の状態”であり、エリカの意思で操れるものではなかった。
俗に言う“ぼーっとしている状態”だと理解していたのだが、密はそういうものとは異なると言いたいのだと察する。
「……“そういう環境”で育たざるを得ないと、“そうなる”のは知ってる」
「そういう…環境?…………御影さ、」
「丞に話せる?」
密は全てを分かっている様子で、エリカの言葉を待たず発言を重ねる。
一方的な発言に、理解が追いつかず困惑する彼女の様子でさえ、理解しているという自信を秘めた瞳で見返していた。
先程までの眠気を纏ったおぼろげな雰囲気は余韻なく雲散し、ただ真っ直ぐに、無言の圧がエリカを突いている。
まるで「逃げるな」と言われているかのような強さで。
密に見透かされているのだろうか。
過去に蓋をし、自分にも恋人にも嘘をつき、諦めへと逃げているだけの私の事を。
「自分だけを責める癖…自己解決…諦めの早さ……「“かわいそうな子供”」――――心当たり、あるはず」
「………」
「丞ははっきり言わないと分からない…はっきり言っても…分からない事多いし」
「………」
「それが出来ないなら……別れた方が、きっと、楽。丞も……エリカも」
唐突すぎる、別れを推奨する提案。
私達は、互いの事をまともに知らなかったはずだ。
正式に名乗り合い、知り合いとなったばかりの、このたった数時間に、私の何を知った気になっているのだという、非難の気持ちがないわけではない。
こちらの返答を待たず、一方的な決めつけの言葉を投げ当られるばかりで、相互理解が出来ているとも思えない。
―――はずであるのに。思考とは裏腹に、密の言葉に涙腺は緩み出している。ちりちりと、目の端が疼いた。
非難という形で作り上げた盾など何の意味も持たぬ程に、密の言葉はそれを容易く突き破り、彼女の心へと突き刺さっていた。
それらに心はズケズケと踏み荒られ、酷く乱れ、痛んだ。外傷などないはずなのに、痛む胸に思わず手を当てる。
心臓はばくばくとけたたましい音を上げ、喉の奥はヒヤリと冷え、歪に張っていた。苦しさに更に視界が歪む。
そして同時に、奇妙なざわめきが心底から騒がしくなるのを感じ取っていた。
「(あ……っ……だめ…っ)」
緩む涙腺、滲む視界。慌てて顔を覆うが間に合わず、雫は指の間をすり抜け、ぱたぱたと振り落ち、密の上着に丸い染みを作った。
湧き上がったざわめきは涙へと形を変え、止めどなくエリカから排出されていく。その変化に連れ、胸は静まり始めていた。
凝り固まった汚れを剥がすような、錆固まったしがらみを砕くような―――作り上げた盾を壊される痛みと、裸になる恐怖と。
湧いて出た“ざわめき”は“共感肯定”を得た歓びであった。
エリカは、密の言う“かわいそうな子供”の意味を理解した。心当たりがあったからだ。
そしてそれは、丞には明かせていない。
過去という言葉にすべてを封じ込めて蓋をし、諦めたふりをして紐解く事を避けている。
それを一つ一つ解き、直視する事は、エリカには酷く苦しい事であったからだ。
本当はずっと、話せるのならば、話してしまいたかった。
腹と胸を掻っ捌いて、ここに何を閉じ込めたのかを、闇渦巻く泥のような心の内を。
――――ずっと、一人で泣いていた事を、明かしてしまいたかった。
丞とエリカは、彼が前の劇団にいた頃からの恋人関係であるから、付き合いは長い。
けれどもすれ違いが多く、心を交わし合えているかと聞かれたならば、迷いなく首を横に振っていただろう。
ぶつかる事を恐れ、全てを諦めて自己責任で片づけてしまう性質。その性質を形成した過去の環境―――『かわいそうな子供』。
密はそれに全て気付き、盾を壊し、エリカを裸にしてしまった。この、たった数時間の間に。
鋭い感性と目を持っていると思う。
しかし、それはすなわち。
「俺もそういう習慣がある」と言った彼も。
「御影さんは……誰かに、明かせましたか…?」
「……少しだけ。まだ、全部じゃないけど」
「…そうですか、よかった………………いいな」
「少しだけ」そう答えた密の眉と目じりが微かに下がったのに気が付く。
言葉はまだ、迷いが含むものを選んでいるようだが、表情に、雰囲気に、彼が“等身大でいられる場所”を得つつある事を知る。
人とは、長く生きていればいるだけ、他人と亀裂や確執を生んでしまうもので、安易に他人へ心の内をを伝える事も、理解を得ようと振舞う事も少なくなっていくものだ。
そうして押し隠した“自分の人となりとその経緯”――――すなわち“自分の過去”を語り、等身大の自分が受け入れられる事の尊さに、エリカは深い憧憬を抱いていた。
希薄になる人間関係の中で、信じられる人に出会う事、互いの人生を溶け合わせる幸福を、自分は恋人と、丞と―――感じてみたいのだ。
すぐには変われなくとも、時間をかけて………丞が、待っていてくれるのならば。
「…高遠くんは待っていてくれるでしょうか」
「好きなら待つ…。丞はしつこいから、多分大丈夫…」
“好きなら”という密の言葉に、愛されている自信のないエリカは少し無言になるが、悪い思考回路は停止させ、すぐに振り払った。
自分は丞を愛している。だから――――疑うのではなく、信じてみようと思ったからだ。
恋人としての信頼関係が希薄な今、全てを受け止めてほしいと願った所で、丞も困惑するに違いない。それは、エリカにとってもそうであった。
彼の邪魔になりたくないから、彼が大切なのは芝居だから―――諦めるふりをして自ら作った溝を、自分の手で、少しずつ埋めていきたいと思う。
まずは自分の気持ちを正直に話す所から、始めていきたい。
諦めず、押し付けないよう、じっくりと、ゆっくりと。
密がヒビを入れてくれた、強固な盾を壊していくこと。そして彼の後押しの力を無駄にしないためにも。
「時間がかかると思うけれど……私、頑張って変わります。…ありがとう、御影さん」
ん。という小さな返事の後に密は大きなあくびをして、エリカの膝に頬を寄せた。目尻の涙が粒となる。
仕事終わりで眠いと言っていたが、私との会話に付き合わせてしまい、十分な昼寝が出来たとは言えなかった。
お礼とお詫びをかねて、枕を提供し続けたいところではあるのだが、真昼は過ぎ、少し気温も落ち着いてきた頃だ。
スカート越しに彼の頬の冷たさが伝わる。このまま眠ってしまうと風邪をひきかねない。
しかし、エリカの力では運べない重さの密だ。
なんとか自走させねばならないと知恵を絞っていると、密がぽそりと呟いた。「丞に迎えに来させて」と。
眠った後の彼の運搬は主に、力のある丞が担っているのだという。
無論、丞自身はそんな役目を請け負った自覚などないのだろうが、その事実はエリカを驚かせるには十分であった。
自分にも他人にも厳しい丞が、密の自由気ままな行動に付き合うというのだから。
もしも自分が密の立場であったならば、「自分の勝手で迎えに来てなんて言えない」と、自力で帰るだろう事が予想できる。
信頼関係とはこういうものなのかもしれない。エリカは胸があたたかくなるのを感じた。
「丞が来るまで……もう一眠りするから……その間に、泣き止んで。俺が、泣かせたみたいになる……丞の説教は…左京並にしつこい……から」
「高遠くんは何も思わないと思―――」
「…あと……彼氏がいるのにこういうの…あんまり……しない方が良いと思う――――zzz……」
返事を待たず言葉を重ねる姿勢は最後までそのままで、密は言いたい事だけを告げ、エリカの膝の上で再び寝息を立て始めた。
すうすうとか細い寝息を立てる彼は、先ほど眠っていた時よりも心なしか表情が和らいでいるように見える。
少し、気を許してくれたのかもしれない。そう感じて、エリカもつられて微笑んだ。
目尻に溜まっていた涙をぬぐい、紅潮した頬を冷やす。高ぶりで体温が上がったため、上着を脱ぐと、それを密へとかけてあげた。
大きな動きを抑え、携帯電話を取り出す。慣れた動作で恋人の連絡先を呼び出し、電話をかけた。
「どうした?」喉の奥から出てくる低い声が聞こえて、一瞬身構えた。
すぐに平静を作り、状況を説明すると、全てを察したらしい丞は呆れたような吐息を一度吐いた。
密の言うとおり、日常茶飯事らしい。
「―――区の、公園のベンチで横になってるから…。ごめんね。うん、お願いします」
送迎の約束を取りつけ電話を切った。密は我関せずといった様子で、変わらずすやすやと眠っている。
彼氏がいるのに他の男にひざまくらなんてしない方が良いと思う。そう密は言ったが、眠るその顔は存外幼く、小柄な身丈を相まって少年のようだ。
他の“男”だなんて。背伸びをする男の子のようなセリフを思い出して、エリカは小さく笑いを零した。
かけた上着の上から彼をそっと撫でると、猫のように頬を摺り寄せ、身を捩る。
遠慮がちに髪に触れると、見た目の通り、細く柔らかい質を持っているようで、わたあめのようにふわふわとした感触が返ってきた。
指触りの良さに負け、彼の頭を撫でるが、成すがままで抵抗する様子もない。まるで猫のようだとエリカは更に笑みを深くする。
陽が傾き、周囲が橙に染まるのに比例して気温が下がって行くが、触れ合う部分は温かく、身を寄せるように迎えを待った。
電話から十数分程経っただろうか、遠く、芝生を踏んで一人の男が駆け寄ってくる。
よく見る、白と黒のシャツを着た背の高いシルエットは、待ち望んでいた送迎―――恋人だった。
「高遠くん、こっち…」
密を起こさないよう小声で、手を振る。気付いたらしい丞と目が合うが、一瞬彼の動きが止まった。
どうしたのかと声をかける隙もなく、丞はすぐにベンチ前まで駆け寄ると、大ぶりな仕草で密を抱き上げ、肩に担いだ。
本当に猫のようだ……というか、本当に慣れている…。とその動作に唖然としていると、丞に車に乗るように促された。
ここでお別れだと思っていたエリカは驚き、問い返すと、ぶっきらぼうに一言「遅くなるから送る」とだけ、返されたのだった。
はた迷惑な奴にそんなに親切にする必要はない、と密から剥がされた上着を返される。微かに彼の体温が残り、あたたかかった。
夕陽が差し込む車内は、まるでかぼちゃの馬車のような色合いで、彼らの城への道を進んでいく。
後部座席に転がされた密は、乱雑な扱いにも関わらずやはり深い眠りについており、繊細な見た目に反する図太さにエリカはまた、笑った。
「何が面白い」と、いつも以上に素気ない言葉は、密の都合に振り回される抗議からであろうか。
常ならばその機嫌の優れない様子に、硬直していたであろうエリカであったが、密の計らいで幾分余裕があったのか、普通のやり取りを続けている。
丞から聞いていた密の話で作り上げたイメージと実際の彼とは幾分印象が違った。それが面白くて、実感するたびに笑んでいたのだが、反して丞はむすっとした表情を崩さない。
「御影さんの髪、すごく柔らかくて―――、っ!……」
「着いたぞ」
キキ、とタイヤが悲鳴を上げ、車は停止した。急な動作に体が前のめりとなり、シートベルトが上半身に食い込む。
素早く丞は密を担ぎ、寮の方へと歩いて行ってしまう。その背中に憤りを滲ませている事はエリカにも分かった。
先程までは密の都合に振り回されて呆れているだけだと思っていたのだが、明らかにこれは違う。怒りを含む空気に、エリカの喉はキヤリと痛み始めた。
何に怒っているのだろう。
何を、してしまっただろう。
今日のこれまでを、録画テープを巻き戻すような勢いで振り返っても、答えを見つけられない。
門を抜け玄関扉へ向かう恋人は、扉に手をかけたところでこちらを振り返った。
紫の瞳に優しさは、ない。けれど突き放すほどの冷たさもなく、エリカを更に混乱へと突き落としていく。
縫い止められたように動けなくなってしまった足を、何とか地面から引き剥がす。
おそらくは、来るよう促した視線なのだろう―――確証の無い行動は不安だが、丞の後を追って、寮の中へと入って行くしかなかった。
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夕陽の差し込む寮内はあたたかい気配が溢れていた。賑やかな声は左奥から。
耳を澄ませると人が歩く音だけではない、金属がぶつかるような音が微かだが聞こえてくる。それに肉を焼いているような香ばしい、いい香りが漂っていた。
一方、右奥からは水が流れる音が聞こえるから、浴室かなにかなのだろう。ガスのにおい。水のにおい。それに食事のにおいと、人の気配。玄関ホールには生活のにおいが満ちている。
ここへ入った時、既に丞はいなかった。密を部屋へ運んでいるのだろうが、その間する事がないエリカはそわそわと彼の戻りを待っているしかない。
橙に灯るあたたかい“家”の雰囲気は苦手だった。
加えて、先ほどの丞の様子と―――この家に身の置き場がない事。
その二つがエリカの心からすっかり余裕を奪い取っていた。唇を噛み、震える心を叱咤する。
せめてもと、差し混む夕日に背を向けた。
中庭に続く扉がぎいと開く。恐る恐る振り返ると、丞が戻ってきていた。夕陽を背にする彼の顔には影がかかり、表情を読み取ることができない。
何と話しかけていいのか言葉を探すエリカに、丞は奥にある簡易ソファを指差し、座るように促した。
言われるがまま玄関ホール奥に設置された簡易ソファへと腰を下ろす。何を言われるのだろう、何が始まるのだろう…見えない恐怖に、エリカは目を閉じ、胸の前で両手を固く握りしめた。
不意に、膝に何かがのしかかる。どこか生暖かい。
どかっと音を立てるように乱暴に放り投げられたそれを、恐る恐る目を開けて確認する。
深緑色の茂み――――もとい、毛髪。慌て左へ視線を流せば、簡易ソファの空きに横たわっているのは丞の胴体だった。
簡易ソファで覆いきれなかった高身長のそれは、彼の腿の辺りからソファ外へ投げ出されており、不自然で苦しそうな体勢ではあるが、これは…。
「…た、高遠、くん………あの……」
「……なんだ。御影が良くて俺が駄目な理由でもあるのか」
ぴしゃりと言葉を遮られる。いや、そうではなくて。
言葉を探すが、なんと言っていいのか、適切な言葉は見つけられそうもなかった。
密を乗せた時よりも重い頭、熱い体温に、ゆっくりとエリカの緊張が解れていく。
「(…高遠くんが、まさか、焼きもち?)」
そんなはずは。一瞬で否定の言葉が出てはきたが、そうとしか考えられないこの現状に、解れた緊張は形を変えて、橙の中へと溶け出て行った。
代わりにじわりとあたたかいものが、胸いっぱいに広がっていく。
「撫でても…?」問いかけに返事はない。
代わりにと、少し撫でつけられた頭に、そっと触れてみることにした。
ツーブロックに、短く切りそろえられた髪は見た目よりも柔らかく、指で撫でると従順に形を変えた。
密の猫毛と比べるとがっしりとした強い毛ではあったが、触り心地が悪いわけではない。
梳くように、撫でるように手を動かしていると、深く刻まれていた眉間の皺が緩んでいるのに気付いた。心臓が愛しさに鳴る。
「高遠くんの髪、思ってたよりずっと柔らかいね」
固そうに見えてたから。その言葉に、やはり返事はない。
丞が無言なのをいい事に、エリカはその髪を撫で続けていた。染まる頬を、橙に隠して。
夕陽の角度が下がり、玄関ホールを侵食していく藍の気配。それを感じ始めた頃、丞がゆっくりと目を開けた。
まどろむ目元を腕で隠して、ぐるりと体を捩る。隠された紫の瞳はうかがえないが、うすく開いた口元が何か言いたげに震えている。
一瞬の呼吸のあと、掠れた声で呟かれた。
「…あんまり他の男とベタベタするなよ」
思いがけない言葉に、エリカは目を白黒させた。それと同時に、密の言葉を思い出す。『こういうの、あんまりしない方が良い』と。
たかがひざまくらで―――丞に限って嫉妬だなんてそんな事ないだろうとその時は否定したが、彼の反応は真っ直ぐにエリカのその考えを打ち砕いている。
高遠くんが、嫉妬。その事実に行きついた時、まるで着火したかのような熱が顔いっぱいに広がった。
頬も、目元も…耳も、熱くて、ジリジリ疼いて、仕方がない。
「……うん。約束する――――あの、高遠くん、も…」
途切れる言葉に丞がこちらを振り返る。上限に達する間際の心に余裕はなく、顔の熱さが拍車をかけ、エリカはとうとう感極まった。
撫でる手が細かく震え、振動は伝染し、唇が、頬が、目尻が、震えた。
「…あんまり、他の女の人と……仲良く、しすぎないでね」
気持ちを告げると同時に、溢れた涙はぱたぱたと落ち、丞の頬を伝った。
密に落とした時と同じ温度を持ったそれらは、けれども、あの時のように沁み込む事はない。頬を伝い、落ちていくだけだった。
紫の瞳が驚きで開き、けれどすぐに細められる。捩った体を更に捻り、長い腕がエリカに伸びた。
びくりと体が震える。決して言うまいと頑なに閉じていたものを開いた胸の内は過敏に、全ての反応を恐れていた。
しかし、その腕は、指先は。ごつごつと雄雄しい見目に反し、驚くほど優しい仕草と温度で、エリカの頬に触れる。
大きな親指が目尻を拭って頬を包んだ。すっぽりと収まるほど大きな手は、やはり、優しい温度をしていた。
「……分かった」
言葉を探すように。言い淀んだような間から、彼の不安を拾った。
それでも、曖昧な表現で伝えるしか出来なかったわたしを問いただす事なく、口を閉ざした彼の思いやりが嬉しかった。
彼の中で、私の言葉と先日の事とが結びついているかは分からない。返事に間があったことがその証拠なのかもしれない。
けれど、それでも彼に、丞に、分かってほしいと思った。時間をかけても、きっと受け入れてもらえると、信じたい。
自分が胸の内を彼に明かしていくのと、同じように。
左奥から聞こえる賑やかな“家族の声”を背景に、藍が満ちるその角で、わたし達は手を取った。
陽を失うと著しく下がる初夏の気温に解けていくお互いの体温が、少し恨めしい。
程なくして丞は身を起こすと、送迎を申し出た。
離れた手から彼の体温が溶け出ていくのに、寂しさを感じながらも立ち上がると、それに気付いたのか、大きな手が差し出される。
驚きは一瞬。すぐにそれを放り投げ、わたしはその手に己のそれを重ねると、力強く包み込まれる。
変わらない優しい温度に、体中が満たされるのを感じていた。
なんて、しあわせなのだろう。と、懲りず視界が滲む。今度はずっと違う温度を込めて。
ぱた、と涙を一粒払って、瞳を閉じた。この一時を全て焼き付ける為に。
暗くなった視界の隅でレースフラワーがちりちりと震えていた。そんな、気がした。
―――御影密が自分達よりも年上だと聞くのは、その少し後のことだった。