丞とその彼女
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QB号
高遠丞は約束を守る人間だと思う。
普段の振る舞いは男らしく―――と言うと聞こえはいいが、言動の直情さや恵まれた体躯もあり、どちらかというと粗雑な印象を与えがちである。
趣味は機械いじりにサッカーといった、分かりやすい男性趣味なのもその印象を助長させていたが、本来の丞はというと存外几帳面な性格なのだ。
エリカがそれを実感したのは、丞と付き合い始めて間もない頃。
元々、連絡を密に取り合うような付き合いの仕方はしなかったのだが、偶に交わす約束を丞が違える事はなかったし、待ち合わせの時間に遅れる事もなかった。
約束が何らかの理由で果たせない時には必ず、埋め合わせが用意されていたし、そういった連絡も直前ではなく前もって送られてきている。
先に挙げたように、決して“マメ”な性格ではないのだが、そういった律儀な所を、エリカはとても好ましく思っていた。
メディアに顔を出す事が少ない舞台役者と言えど、丞はその世界では人気のある人間であった。
そんな彼の立場を慮って、二人が会うのは決まって個室という縛りがある。
格好も良い若い男が立ち居振舞うのを、ファンは羨望の眼差しで見つめるは必至。
恋心を抱く者がいてもおかしなことではないとエリカは心得ていた。
とはいえ、その部分を気にしているのはエリカのみで、当の丞本人にこだわりはなく、コソコソせず行きたいところに行けばいいと言う始末なのだが、どうしても彼女にはその一歩を踏み出す勇気はなかった。
確かに、後々になって恋人の存在が露呈するよりも、早い段階で公表してしまった方が印象が良いのも理解はしているのだが、以前、丞の熱心なファンに絡まれた経験もあり、どうしても積極的になることが出来ずにいた。
そういった事情もあり、約束の場所は大体がエリカの部屋が多いのだが、今回は今まで訪れた事のない場所である。
―――MANKAIカンパニー団員寮、204号室だった。
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「(―――よしっ)」
簡単な荷物を鞄に詰め込み、手土産のお菓子を確認する。所属劇団員の知り合いの立ち位置であっても、舞台裏に足を踏み入れる不躾さを分からぬ程幼くはない。
先日のバーベキューでいくらかの劇団員と顔見知りになったとはいえ、自分は関係者ではないのだという事を弁えるべきだとエリカは自分に強く言い聞かせている。
MANKAIカンパニーの総監督、立花いづみは聞いたところによると大変おおらかな人柄らしく、関係者以外の寮への入退室を厳しく取り締まるような事はないらしい。
聞き間違いかもしれないが、ヤクザ劇団員の舎弟―――とやらもしょっちゅう出入りしているのだという。
とにもかくにも、団員に対しても深く詮索する事なく、本人達の良識の範囲で自由にさせているとの事だった。
そんな経緯を聞き、ようやく頷いて交わした約束の日、この日も気持ちの良い春風が吹きこんでいた。
玄関の鍵を閉め、足早に下りる棟の階段がカンカンと鳴る。今日は遠出する事もないからと、下ろした新品のパンプスが奏でる音だった。
昨晩、遅くまで外を騒がせた春の嵐の名残が、階段の淵に水たまりとして残っているのを、エリカはそっと覗いてみた。
セメントで固められた階段を透かして、それは弧を描いている。風が吹き込んで波紋を作ると、角度を変えた水面に青い空が映り込んだ。
程なくして落ち着いたそれに、舞った自分のスカートの端が映った。
長すぎず、短すぎず。春風にふわりと舞うそれは、先日の撮影で着用した商品で、気に入って買い取らせてもらったものだった。
流行のデザインというものではなかったが、先に購入していたパンプスと併せた時のコーディネートの相性を想い、その場で購入を決意したものである。
青い空に白い雲―――遠くに見える山々の新緑の緑。まだ少し肌寒い日陰と、春色のスカート、軽快な足元―――心地よい景色に、エリカの心は華やいだ。
「(はやく会いたいな)」
新品の衣装を揃えたところで、かの恋人が気付きもしない事は明白なのだが、それでも一番はじめに見てほしいとエリカは思う。
行く手を阻むかのような向かい風は、整えた髪を乱してくるがそんな事はお構いなしだと駅へと急ぐ。ただただ、早く会いたい。その一心で。
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砕いたチョコレートのような煉瓦の塀の奥、さわさわと若葉を揺らす木々が清々しい。
澄んだ陽の光はチョコレートに飛び込み、反射しては白く鮮やかに輝いている。それらは酷く眩しく、目を細めながら入り口を探した。
角を曲がった先、赤茶色の屋根が飛び込んできた。入口らしき石造りの柱周辺を見やっても、看守部屋や寮長部屋といった受付窓口があるわけでもなく、ただぽかんと穴が開いているような場所であった。
不用心だと内心思わなくもなかったが―――というよりも、こういった造りという事は、自らインターホンを押し、自ら用件を申し出なければいけないという事である。
現状を理解したエリカの背は一気に緊張にしなる。取り次いでくれる人間がいるというのはある意味、自分にとっては都合のいいシステムだったのだと変な形で自己理解が深まったが、今はそんな悠長に考えを巡らせている場合では無かった。
腕時計を確認すると、時刻は十一時少し前。約束の時間まで余裕はない。
こんな所で足踏みをしている場合ではないのだ、と意を決して門をくぐり、玄関口のインターホンに指を這わせた、その時だった。
「清水さん」
「ヒッ」
がちゃりと玄関の扉が開き、中から現れたのは恋人の幼馴染、月岡紬だった。
張り詰めた風船に針を刺したような驚きに肩は跳ねあがり、私の声に驚いたのが紬で、と、奇妙な伝染に思わず双方笑顔が零れた。
丞から話は聞いてるから、俺達の部屋に案内するよ。そう告げる声色は柔らかく、笑顔も相まり緊張が和らいでいく。
バーベキューの時もそうであった。温厚で柔和な性格の彼は、周囲の人々に安心感を与える存在だと思う。
きっと本人にその自覚は無いのだろうが、傍にいるだけで癒されるような温かな雰囲気は、努力で作る事ができるものではない。
長年、丞と連れ添っているだけあって、彼の言葉の足りなさも理解し受け入れているからこそ、分かり合っているのだと思われる場面を、エリカは何度も目撃してきた。
羨ましいと素直に思う。自分と丞との付き合いは紬には到底叶うものではないし、演劇を選んだ彼らと、選んでいない自分とではそもそも比べる土台が違う。
分かってはいるのだが――――どうしても。
丞に愛されているという自信が取り戻せない時――――彼の存在が高い壁のように立ちはだかる感覚を、その恐ろしさをエリカは拭いきれずにいる。
浮かれていた気持ちに少し影が差すのを感じ、急いで首を振った。自己分析は大切だが、不確定な要素を掘り進めても冷静な結果は得られない。
それよりも今は目の前の約束に集中すべきと思った。
一度息を吐き出して、改めて寮内を観察する。
白壁の外観の中央、すっきりとしたガラス窓の扉から招かれた先には二階へ続く階段と、壁の向こうに広がる中庭。
柘植の茂みがいくらか整えられ、陽が差し込む開放的な中庭にはテーブルとイスが設置されており、心地よさそうな空間が演出されている。
その奥に見えるのは個人の部屋だろうか。どの扉も閉じられているが、ドアとドアの間はそれなりに間隔が設けられ、部屋そのものも窮屈な印象は受けない。
「俺達の部屋は二階なんだ。せっかくだから中庭を抜けて行こう」
「あっ…うん、お願いします」
中庭は一階の部屋の入り口と面しており、誰かに見つかるのではないかと躊躇があったが、心地よさそうな中庭の自然を見てみたいという好奇心が勝った。
エリカも植物が好きだった。オフの日は一人で植物園へ出かけたり、たびたび、季節の切り花を部屋に飾ったりしている。
紬とはそういった面で気の合う部分も多く、時々、鉢植えの育成について相談する事もあった。
紬に続いて進んだ中庭は吹き抜け構造となっており、真上の青空が輝いている。解放的な空間の奥に小さな花壇を見つけた。
「花壇―――――フリージア?」
「そうだよ。さすが清水さん。植えさせてもらったのが先日咲いたんだ」
「月岡くんが管理しているの?…すごいね。こっちではあんまり咲かないイメージがあったから…」
フリージアは霜に弱い性質があり、温暖な西日本で栽培している印象があった。
天鵞絨町は強烈に霜が降りるような地域ではないというものの、土の中で冬を越すかの花を咲かせるには霜よけなどの手間をかけなければならない。
紬が根気よく手入れをしたのだろう事が容易に想像できた。
温和で、優しくて、繊細で。けれどどこか大らかな所があり、器の大きさを感じる事が多い。今度は純粋に、羨ましいと思った。
しばらくフリージアの甘い香りを楽しんでいたエリカであったが、不意に立ち上がり、時計を確認する。長針は12を通り越し、約束の時間はすでに過ぎてしまっていた。
「いけない…のんびりしすぎちゃった…っ」
「―――あ、それなんだけど…清水さん…実はね――――」
少し眉を下げて、紬が言葉を紡ぐ。
ここへ赴いて、丞ではなく紬が出迎えてくれた理由。
そして、その恋人が今、MANKAIカンパニー総監督、立花いづみの用事に付き合い出かけているという事を。
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「それで、月岡くんが迎えてくれたんだね」
巻き込んでしまってごめんね、と謝ると紬はゆっくりと首を振る。
忘れ物をして戻ってきたいづみの足になるよう、丞に促したのが彼という負い目もあってか、どこか申し訳なさそうにしている。
他に役立てる人がいなかったのなら、それは当然だと思う―――そう紬に告げて、用意していた紙袋を手渡した。中身は少しのお菓子と紅茶の茶葉。
どちらにせよ部屋を間借りする為に、紬には今日一日迷惑をかける事になってしまうと負い目があるのはエリカも同じだった。
せっかくなら丞が戻るまで、お茶にしようとの提案に頷くと、彼は紙袋を持って部屋を出ていく。
「少し待っていてね」そう告げて出ていく背中を見送り、ぱたんと扉が閉まったのを見やって、エリカはふうと小さな息を吐き出した。
紬と丞の部屋―――204号室を見渡す。部屋の中央を左右で区切り、左を紬、右を丞。
白を基調に揃えられた紬のスペースには季節の鉢植えが並べられており、小窓から差し込む光を浴びて、生き生きと葉を広げていた。
よく手入れをしているのだろうことがよく分かる区域は、中庭同様、エリカにとっても心地のよい空間となっていた。
一方、丞のスペースは茶色をベースにシックな色合いでまとめられており、必要最低限のものでまとめられていた。
思えば、紬も丞もここ天鵞絨町近郊出身であるから、主な荷物は実家に預けてあるのだろう。
不意に、丞の棚の最上段に飾られたサッカーボールへと視線が留まった。
「(高遠くん、本当にサッカーが好きなんだなあ…)」
学生の頃、エリカが初めて丞と話したきっかけもサッカー…もとい、サッカーボールであった。
既にその頃には人を避け、こそこそと毎日をやり過ごす事だけに集中していたエリカは、当然丞のような目立つ存在に近付く行動も避けていた。
何度目かの学習発表会―――もとい、演劇発表会で目立つ存在であったからこそ余計に。
その頃は、丞とは顔見知りでも何でもない、ただ同学年の一人に過ぎなかった互いであったが、スポットライトを浴びて輝く丞を見た時、静かに心が震えたのを覚えている。
しかし、それは同時に恐怖でもあった。自分とは住む世界の違う人種―――あんな人に目をつけられでもしたらとてもじゃないが、学校へ来られる気がしなかった。
それからは一方的に丞を避け、彼が廊下を通ろうものなら階段を使ってでも遠回りをし、体育で運動場使用が重なれば、不自然なまでに視線を外して勤しんだものである。
かくしてその努力も一方的であるのは言うまでもない。
丞がエリカを認識する日は来るはずもなく、また、周囲にもその地味な工作が気付かれる事もなかった。
スポットライトに照らされる彼を見た日。
静かに震えた心は果たして恐怖だけであったのか――――その答えは、エリカが疑問として認識する前に唐突に訪れる事となる。
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いつも通り、人の少ない校舎裏を通って帰るところだった。
この学校は北側に運動場があり、南に正門が作られ、校舎二棟が渡り廊下で繋がったH型の構造をしている。
北棟の裏にあたる、運動場と校舎の間を往くのがエリカのお決まりの下校コースであった。
運動場には部活に励む学生が多くいたが、それらは全て目の前の活動に夢中になっており、陰気な学生一人が歩いて行く姿など気に留める事は無い。
それを知っていたからこそ、ここをコースとしていた。足早に正門を目指し、足を進めていくエリカであったが―――遠く、運動場から声が響いたのだった。
気を取られ、運動場を見やった数秒後、視界に飛び込んで来たのは黒い塊―――ものすごいスピードで迫ってきたそれが、ボールである事を認識する前に、エリカは急ぎその場を離れた。
大きな音を立てボールは地面にぶつかり、校舎壁に跳ね返って転がる。あれに当たっていたらと思うと、血の気が引いて行く心地だった。
未だ心臓がばくばく鳴り続けるエリカにはボールを見つめることしか出来ず、おろおろとその場に立ち尽くしてしまっていた。
それからすぐにガリガリ、とアスファルトを踏みつけるスパイクの音が聞こえてきて―――姿を現した―――高遠丞に、エリカの身と心は完全に凍りついてしまったのである。
「…悪い!」
「……っ、……っ………」
「ケガないか」
ぱくぱくと金魚のように口を動かすのが精いっぱいで、声が全く出てこない。
普段ならば合えばすぐに逸らす“人の目”でさえ、縫い止められたかのように離す事が出来ず、丞の紫の瞳を凝視していた。
なんとか首を上下させ、怪我がない旨を伝えると納得したらしい丞はもう一度だけ謝った後、ボールを拾い、運動場へと戻って行った。
小さくなる背中を見送り、心臓が落ち着きを取り戻した頃、エリカは急ぎ足で校門を目指した。
とぼとぼと帰宅の道中、不意に思い出したのは丞の姿だ。
生き生きとした立ち姿、砂埃を貼り付けた逞しい腕と足と、広めの肩幅―――強すぎる程真っ直ぐな、紫の瞳。
――を思い出した時、ぞくりと背が震えた。同時にダカダカと心臓の騒がしさが増していく。
けれど、先ほどまでと違うのは頬と耳の熱量。背の震えと共にはじけたらしいその“実”の名を知らぬ程、エリカは幼くはなかった。
長い片思いの始まりだった。
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しばらくして紬が戻ってきた。
「珈琲淹れるのは得意だけど、お茶はあまり期待しないで」と恥ずかしそうに笑いながら差し出された茶杯の中には、新緑の緑のように鮮やかな緑色が広がっていた。
湯気と共にふわりと香る青々しさにごくりと喉が鳴る。
丁寧に懐紙まで揃えてくる紬の細やかな気配りに感心しつつ、彼を慈しんだ環境を羨ましくも思った。
紬の淹れた茶は世辞なく美味しく、口あたりが甘いのが特徴だった。曰く、温度管理や淹れる道具さえ間違わなければ同様に淹れられるのだという。
花を開かせるのも、茶を開かせるのも得意なんだね、と紬をからかうと恥ずかしそうに笑っていた。
それからしばらく、他愛もない話と花の話で盛り上がっていたのだが、肝心の丞が帰宅する様子はない。
茶と菓子のおかげで空腹では無かったが、時計の針は三を指しており、既にエリカがここへ来てから四時間近くが経過していた。
その間、丞からの連絡はない。
いづみの用事が終わるまで待っているのだとしたら、その旨何らかの連絡を入れてくるだろうとエリカは考えていた。
サッカーボールが飾られた棚の下、卓上カレンダーの今日の日付には約束の時間が書き入れられている。十一時。と。
高遠丞は約束を守る人間――――だと思う。
もしかしたら事故に巻き込まれたとかないだろうか―――けれど、ならば寮へ連絡があるだろう。
様々な憶測が自分の内で飛び交っている。揺らぎそうになる信頼を支えるかのように、エリカは携帯を動かした。
「今、どこにいるの?」と。それから一時間、二時間経過しても、丞からの返信は――――やはり、なかった。
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「…一旦帰って、連絡待ってみる。こんなに遅くまで居座っちゃってごめんなさい」
「清水さん――――…」
言葉を探す紬に首を振り、無言のまま部屋のドアを開ける。
きらきら輝いていた新緑の世界は橙に燃え、東の空には既に夜が藍色を連れて迫ってきていた。
舞うように流れていた風は燃える橙に反して肌を刺し冷やし、エリカはぶるりと身を震わせた。寒いねと声をかける紬に小さく返事を返して、腹の底で沸き始める、淋しさの芽を踏みつける。
中庭を抜け、玄関側の棟へ足を踏み入れた、その時であった。「ただいま!」明るく響いた女性の声に、弾かれたように顔を上げる。
中庭から吹き込む風にさらりと流れる長い茶の髪、よそ行きのツーピースの腰に抱えられた鞄と―――ヘルメット。
髪と同じ茶の瞳に興奮を詰め込んで、女性は、笑っていた。玄関そばには談話スペースがあり、いくらかの団員がいたのだろう、彼女の帰りに喜ぶ声が聞こえてきた。
ただいま、おかえり、どうだった―――と一般家庭のようなやりとりを、エリカはどこか遠く聞いているような心地で立ち尽くしていた。
彼女が戻ったということは、きっと。その答えに辿り着く寸前に、玄関の扉が再び開く。大きな影―――ずっと、待ち続けていた恋人が、姿を現し―――目が、合った。
両者とも言葉は出なかった。
「丞さんにツーリング連れて行ってもらったんだよ。海がきれいで…初めは怖かったけど、バイクすごい楽しかったよ!」
興奮が溢れだしている、いづみの言葉が右から左へと流れていく。それに乗る団員の明るい声が、遠く遠くに感じられた。
まるであの日の運動場のようであった。歓声のような賑やかであたたかい空気が場を支配していた。
春の夜の冷えなど知らぬと言うように、あたたかい空気が、家族が、ここに形成されていた。少なくともエリカはそう感じた。
ジクジクと痛むのは胸か、背中か。はたまた耳の奥だろうか。ただ分かるのは自分が“部外者”という事実と、今日の約束は、忘れられたという事実だけであった。
無事でよかった。
(バイクなんて知らない)
疲れているのかな。
(海なんて知らない)
「おかえり」って言わなきゃ。
(…部外者なのに?)
ぐるぐる回る思考に言葉の整理が追いつかなかった。それでもこのままではいけないと、無意識に紬に視線を送っていた。
彼も言葉を選びかねているのか、困惑と憤りの混じった複雑な表情で立ち尽くしている。
そうこうしている内に丞に気付いたらしいいづみが玄関前へと顔を出した。
いづみはエリカと紬の存在に気付き、声をかける。それをきっかけに、談話スペースにいた団員もぞろぞろと玄関先へ集まり、一気に場が賑やかに変化した。
その賑やかさはエリカにとってはただただ息苦しく、一刻も早く立ち去りたい気持ちが思考に混じり、更に混乱を強めていく。
そんなエリカの混乱などお構いなしに、彼女を丞の恋人だと認識しているらしいいづみや団員は、興味の視線を怖気なく向け始めた。
先日のバーベキューに居合わせなかった団員も多く、あれやこれや、思うままを話している。
そして行きついた皆の疑問は一つだった。「今日はどうしてここに?」と。その言葉を皮切りに、丞が口を開いた。
「エリカ……悪――――」
「今日は月岡くんに用事があってお邪魔したんです」
丞の言葉を遮りたたみ掛けるように言葉を続ける。
「植物の栽培の事で相談があって。ついつい熱中しすぎてこんな時間まで居座ってしまいました。月岡くん、本当にありがとう。みなさん、遅くまでお邪魔してしまってすみません」
捲し立てるように告げ、頭を下げる。上げた顔を隠すように、足早に玄関扉へと近づいた。
立ち尽くす丞の横をすり抜けて、もう一度頭を下げる。手早く扉を開き、外へと逃げ出る。
皆の方を、いづみの顔を、丞の顔を見る勇気は―――顔を見せる勇気は、なかった。ガチャリと扉が閉まる音を聞く前に、エリカは、藍の沼の中へと走り出していた。
下ろしたての新品のパンプスが悲鳴をあげる。噛み合わない足の肉が軋みをあげても、それでも、冷たい春風を掻き分けてエリカは走った。
走りながらも思考のぐるぐるは留まるところを知らない。思ったまま口に出せたらいいのに。そう頭では思えども、言葉にする事がどうしても出来なかった。
約束は守る丞の事だ。きっと朝、紬が送迎を促す所までは約束を覚えていたのだろう。
約束を守るような固い一面がある一方で、自分の気持ちに正直すぎるところがあるのを、エリカはきちんと把握していた。
久々のバイクだったのだろう。もっと走らせたいとバイク乗りならば思うはずだ。
いづみの用事が終わるのを待つ間、どこへ走りに行くか、そんな事で頭がいっぱいになっていたに違いない。
そして、きっと、本当に楽しかったのだろう。
ぱたぱた、と涙が零れる。いづみの送迎については、親切心からくる行動だという事をエリカも理解している。
その行動に異議はない。もしも自分がその場に居合わせたとしても、彼女の送迎を促しただろう。
バイクに乗って密着していたとか、自分も知らない恋人との経験を先を越されたとか、そういう子供じみた嫉妬に涙しているのでもない。
ただ。ただ―――――…
「エリカッ!」
「……ッ」
「……悪かった、その」
「あの場で謝られたら、立花さんに気まずい思いをさせちゃうと思ったから、言葉を遮ったの。ごめんね。怒ってるわけじゃないから……謝らないで」
気付かぬ内に追い駆けて来ていたらしい恋人に腕を掴まれる。強い力に引かれ、足元が浮き上がった。
ぽろんと履き慣れていないパンプスは簡単に脱げて転がる。踵は既に皮がめくれており、じくじく湧き上がる痛みと共に、赤い肉が見えていた。
丞からかけられたのは、やっぱり、よくある謝罪の言葉だった。
話下手な恋人はこんな時でも、否、こんな時だからこそ言葉が更に少ない。
けれど今は謝られたくなかったのだ。謝られたら、全てを認められてしまう気がして。
ただ――――恋人にとっての優先順位の低さを思い知るのが怖かった。痛くて、涙が止まらなかった。
芝居が一番大切で、どんなに彼を愛した所でそれを越える事が無いことは分かっている。なせなら芝居は彼自身のようなものだからだ。
彼は彼自身を一番に想えばいい。それはエリカとて同じだ。けれど、せめてその次位には自分を想ってほしいと願っていた。
けれど、わたしの存在を約束を忘れてしまうほど、バイクは楽しかったのだろう。
風を切って走るその興奮は堪らなかったのだろう――――わたしとの、時間よりも。それが分かるからこそ、痛みが深まっていく。
所詮は想像、妄想なのだと、悪循環だと人は笑うだろう。忘れられた事実だけがここでの真実なのだから、それを怒ればよいだけなのだ。
分かるからこそ、分かってしまうからこそ何も言えなくなってしまうのが、わたしの悪い癖だった。
「バイク、楽しかった?」
「…………」
気まずそうに丞が顔を逸らす。
肯定も否定もしないのが、人の機敏に疎い彼が推し量っている証だというようにエリカは受け取っている。
掴まれた腕から力が抜かれ、背中に重みを感じる。背から抱きしめられ、腹に丞の腕が回された。
体格のいい丞の腕の中にすっぽり収まると、じんわりと熱が伝わる。春の風で冷え切っていた体がゆっくりと開かれていくようだった。
そのぬくもりに、涙がまた溢れた。恋人のような父親のような、あるいは兄のような。
主張を避けて自罰で自己完結を繰り返すのには訳がある。エリカ自身はその性質と理由を理解していた。
まだ恋人にそれらを打ち明けられてはいないが、いつかは受け止めてもらえたらと願っている。
自分にはない家族のあたたかさ、人のぬくもり―――不自由なく育ったらしい丞の全てから、いつもそれを感じ取っていた。
枯渇しているぬくもりを不意に与えられるのは酷く苦しい。いずれにせよわたし達は両者ともに言葉が足りない。
回された腕に顔を摺り寄せて涙を逃がした。彼を責める事は、やはりまだ、出来そうにはなくて。
「……もっと好きになってもらえるように、頑張るね」
丞の返事はなかった。代わりに首筋に顔が埋められ、小さく名前を呼ばれた。彼なりの慰めなのかもしれなかった。
責められた方が気が楽になる事は知っている。自分の罪を分かっているのに謝る事を許されず、ただただ赦される事の居心地の悪さも。
けれど今はそれを宥めるだけの力はエリカには残っていなかった。鼻をすすり、男の熱に身を委ねる。
しばらくそのままでいて、終わりの合図にと腕を二度叩くと、ぬくもりの拘束が解かれ、丞がその場にしゃがむ。大きな背中は相変わらずの無言を貫いていた。
転がったパンプスを拾い上げ、彼の首に腕を回すと、それを合図に背中で持ち上げられた。
ゆらゆら上下しながら進むその動きはまるでゆりかごのようだった。あたたかく、広い背中に頬を寄せる。
「高遠くんお父さんみたい。……次は、私もバイクに乗ってみたいな」
「ああ。――――そのスカートも悪くないが、その時はズボンで来いよ」
新作スカートを気付いていたのか、いないのか。どちらとも取れない言葉だったが、エリカは前者で受け取る事にした。
新たな約束を交わし、夜の道を進んでいく。
次の約束が果たされる時にはもう少し心を近づけられたらいい―――誤魔化す為でなく、思いを伝える為に言葉を紡げるようになれたらと。
そんな決意を胸に秘め、大きな背中に体を預けた。鍛えられた屈強な背中は芯がぶれる事もなく、過剰に熱を持つ事もなく、優しいあたたかさで包み込んでくれる。
優しいそれに包まれ、瞳を閉じる。エリカはもう一度だけ、ぽろりと涙を落とした。