丞とその彼女
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
オペラ
今年は列島全体が厳冬となり、特に北陸、北海道地方では雪害が著しい年であった。
大都市東京でも、雪の影響で様々な混乱が発生していたのは言うまでもなく、先の地に近いここ、天鵞絨町も例外ではなかった。
除雪設備の整っていない町はすっぽりと厚い雪に覆われ、幾日か外出が難しい日が続き、劇団の公演が取り止めとなる日もそこそこあったと、後になって聞かされた。
残念そうな彼氏の――――高遠丞の声が今も思い出される。
今にも舌打ちが聞こえてきそうな程、行き詰ったようなため息交じりの電話はわたしの気持ちまで落ち込ませたものだ。
滅多に連絡を取り合わない関係であったので、心の端では、豪雪のもたらした“恋人の時間”に感謝していたのだが、やはり恋人の落ち込んでいる姿を見たくはなく、決まって口にしたのは「早く春が来るといいね」という気休めだったように思う。
それからひと月もすると急激に上がった気温で雪は解け、あっという間に春の息吹が日常に流れてきた。
同時に恋人からの連絡も徐々に減っていき、花を咲かせる桜の木を遠く見つめながら、新期特有の物寂しさを持て余す毎日である。
ふいに目に止まった、開けられていない大型の封筒。雪籠り前に撮影した春服の掲載雑誌だった。封を開け、窓際でページを捲る。
かさかさと、送るページのリズムに合わせて紙面で踊るモデル達。淡い色を基調に、上品なシルエットの彼女達の端にいる自分。
春の日差しをスポットライトに、紙面に立つ姿はそれなりに様になっていると思った。
恋人のように、日々の舞台で生きた息遣いを届けられるわけではないが、自分の仕事に進歩が見られるのは嬉しい。
だが、出来る事ならこれをやはり、彼に見てもらいたかった――――と、瞳に睫毛の影が落ちる。
芝居に忙しい恋人はあちらこちらで客演に、夏に向けての新たな舞台への練習にと予定が推しているらしく、久しぶりの逢瀬を断る連絡が入ったのがつい先ほどの事であった。
見てほしかったな――――と、影が悲しげにちらちら震えた。
新たに約束を取り付けてその時に見てもらえばいい。それだけの事であるのに、胸に広がった霞にも似た淀みを払う事が出来ずにいる。
芝居が一番。何よりも。高遠丞はそういう男なのだ。誰よりも自分が一番よく知っている――――はずであるのに。
力なく雑誌に落ちた手と目が合う。春の恩恵を受ける事が出来なかった指先はひやり固まり、恨めし気に眺めているような気さえした。
「………今日は花冷えだもんね」
仕方がないんだよ。と、ようやく絞り出した言葉を自分に言い聞かせ、喉元まで出かかった本音を飲み込んだ。
口にしてしまえば、彼の事も自分の事も、二人で過ごした何もかもが壊れてしまうような気がしたからだった。私は、それが何よりも怖かった。
----------
反故となった約束の埋め合わせは、想像以上に早く訪れた。
あの日から二週間ほどして、夜遅くに急にかかってきた一本の電話。
風呂上がりの濡れた髪をそのままに、急ぎ電話を手に取った相手の声が気まずそうに歪んでいるのにほっとする。
会いたかった―――なんて、甘い言葉を聞く事はなかったが、それでも申し訳なさそうに言葉を重ねる恋人の声に、ゆっくりと心が満たされていくのを感じていた。
「明日、会えるか」
ぶっきらぼうな申し出に、もちろんだと二つ返事で答え、次々に湧き上がってくる喜びに頬を押さえた。
付き合いたての頃のように浮かれる自分に恥ずかしさを感じながらも、電話越しの愛しい人の声に耳を傾ける。
簡素なやりとりを幾らか交わした後、短い電話は終りを告げた。耳まで真っ赤になっているのが分かる程に熱くなっている。
未だ興奮冷めやらず、ばくばくと高鳴る胸の痛みさえ嬉しくて、ベットに身を投げる始末だ。
恋人関係になって幾分経つというのに情けないという気持ちがないわけでもなかったが、頻繁に連絡を取り合わないからこそ、いつでも“久し振り”となる約束が楽しみになるのは仕方がない事なのだ。
そう言い訳をして、目を閉じた。その頃には髪はすっかり乾いており、恋人との通話が終わってから―――二時間以上も経過していた。
当日。いつかの約束の日とは打って変わり、爽やかな春風が吹きこむ快晴だった。
部屋の植物らに朝日を味わってもらい、手早く元の位置へと戻す。暖かくなる気温と心地よい日差しに、葉は生き生きと色付いていた。
テーブルの上には見てもらいたかった雑誌と、恋人の好みそうな舞台情報の載ったいくらかの冊子。
キッチンにはいつでも淹れられるよう、お気に入りの珈琲と紅茶を少し。
どこか外へとの申し出を断ったのは、日々の舞台に疲れているだろう恋人を労いたい意味もあった。
春を閉じ込めたこの部屋でのんびりと過ごしてもらえたら、それだけで私も幸せに違いないと思ったからである。
部屋で過ごす時、丞はうたた寝をしてしまう事も多かった。今回もそう踏んでいたので、お茶菓子にと考えているチョコレート菓子“オペラ”はまだ材料の状態で冷蔵庫に眠っている。
とはいっても下拵えは済んでいるので、あとは飾りつけをするだけだ。
いい頃合いでおやつの時間に出来たら、きっと楽しいだろう。そんな期待に胸は膨らんでいく。
到着を告げる玄関のベルに、いつも以上に早く応えたのも、きっとそんな理由だったに違いなかった。
----------
「この間は悪かった」
開口一番の謝罪に、ただただ首を振る。忙しいことは分かっているから。そう伝えれば、肯定するような否定するような、曖昧な表情が返ってきた。
約束はきっちりと守る、そんな律儀な所がとても好きだった。
それでも忙しい時はそういった連絡も忘れられていたりしていたので、今回のように埋め合わせを考えてくれた事がとても嬉しい。
友人に話せば「都合が良すぎる」と叱られるのだろうし、自身でも自覚はあるが、それでも丞と会ってしまうとそんな不安も吹き飛んでしまうのだ。
我ながら、単純だとも思う。
「ううん、連絡くれて嬉しかった」
だからそんなに申し訳なくしないでね。―――そう付け足して、テーブル傍に置いた雑誌を手に取った。
はらり広げて、該当のページを探す。丞へと差し出して、簡単に説明をすると、恋人はすぐにそのページへと意識が移ったようだった。
恋人の劇団は規模が小さい事などから、団員内で舞台以外の作業を分担しているのだという。
例えば、脚本、衣装、広報、経理…裏方の仕事も出来る人間が担当していると聞いた時は驚いた。
舞台という世界の常識は分かりかねるが、自分が所属しているモデル事務所では、もちろん各作業は各部署の専任担当者が受け持つもので、モデルが兼任する事はない。
劇団を生業としているわけではないからなのかもしれないが、自分では計り知れない部分が多いと思う。“好き”でないと続けられない事も。想像でしかないのだが。
その中で恋人は“運搬”を担当する事が多いのだと聞いた。―――確か、よく一緒に買い出しに出るという調理担当とカメラ担当が、同一人物だった気がする。
雑誌を食い入るように眺める丞に、わたしは声をかけた。
「高遠くんのところのカメラさんならどう撮ったかな」
「伏見の事か?……そうだな、あいつなら……」
雑誌から少し視線を外して、丞は遠くを見ていた。こちらから見ると横顔になる彼を、わたしはじっと見つめていた。
長い睫に高い鼻。アウトドアが好きだと言う割に、きめ細かく整えられた肌。短く切られた髪。
そのどれもに華があり、彼が役者だという事実を色濃く醸し出している。
彼はわたしの質問に少し考えた後、もう一度雑誌の上の私へと視線を戻し、ぽつりと一言、板に立つエリカを見てみないと何とも言えないな。と答えた。
その一言に、ちりりと胸が痛んだ。
紙面舞台などでは魅力を感じない―――そう、言われたような気がして。
「…表情とか……硬かったかな」
私の言葉に彼がこちらを振り返る。その表情には困惑が浮かんでおり、意図が分かりかねると言いたげな顔だった。
その表情に、彼が思うままを口にしただけという事実を実感する。
卑屈な受け取り方をしてしまった―――喉の奥が冷えていくのを感じたが、誤魔化すように慌てて言葉を繋いだ。
「―――この服は素材が柔らかくて、首元が結構伸びる感じだったから…だらっとした印象にならないよう姿勢とか髪型と表情を―――…」
とつとつと撮影時の状況を話すと、自然と言葉数が増えていく。
誤魔化すためにと始めた説明は緊張を帯びた声色から、次第に火がつき、気付けば最後まで“こだわり”として語り切っていた。
はっとして恋人を振り返ったが、彼は飽く事なく話に耳を傾けてくれていたことが分かった。心なしか瞳は輝き、頬が赤くなっている気がする。
一方的に話してしまった事を詫びようと口を開いたが、彼による賞賛の言葉で遮られた。
紙面と舞台とでは魅せ方が違う。求められているものも違う。ただ似通っているのは“自身”が作品となり、立ち居振舞うということだと。
いくらかまくしたてるように続けた後、少し息を整えて、次は自分と比較して丞は語る。
生の息遣いを伝えられない紙という媒体で、読者に『欲しい』と思わせる技術や工夫、身のこなしといった魅せ方が興味深いと。
そして言葉の最後に付け足した――――カメラマンの腕もあるしな。
その言葉に、わたしは先の彼の言葉を思い出す。
「伏見さんはカメラマン志望の人なの?」
「いや、カメラが趣味………程度だと思う。だがあいつの撮る写真は悪くない。三好のデザインとよく合って、毎回いいものに仕上がっていると思う」
『プロ志望ではなく、趣味の一環だから商品撮影のようなノウハウは分からないだろう。舞台に立つエリカの姿ならば撮れただろうが』
―――そういう意味であったのだと。恋人に軽んじられているわけではないと分かり、ホッと胸を撫で下ろした。
恋人は、言葉が足りないと仲間に注意されるのだそうだ。確かに、ぶっきらぼうでストレートすぎる言葉は、良くも悪くも誤解を生むだろう。
事実、何気ない先のやり取りでさえ心の緊張が走ったものだった。
けれど、その見えない諍いをより拗らせてしまうのが、わたしの“認知の歪み”にある事は間違いなかった。
そしてそれを―――伝えないという姿勢も。
ぐるりぐるりと回り始めた思考に思わず首を振った。気分を変えるのにはお茶がいいだろうか。
こういう時の為にと用意しておいた“オペラ”だ。彼には用意しておいた他の舞台雑誌でも読んでいてもらい、その間に準備しよう。
そう順序を決めて、その旨を伝えると、既に舞台雑誌を読み始めていたらしい彼からは生返事が返ってきた。
頭の中は舞台でいっぱいな様子に苦笑しつつ、キッチンへ向かうべく踵を返した――――その時、恋人の電話が鳴った。
相手は、同じ劇団の仲間のようだった。
今日はオフだと聞いていたので、緊急の呼び出しなどではないだろう、そんな風に高をくくって開いた冷蔵庫の中、仕込んでおいたビスキュイ生地と目が合う。
それからほんの数十秒の事であった。
キッチンへ現れた恋人は「悪い。劇団の奴らの集まりに少し顔を出してくる」手短にそう告げ―――わたしの返事を待たず、足早に部屋を出て行ってしまった。
「……高遠、くん?」
漸く思考が回復して、恋人の呼んだ頃には当の本人は車さえ出発していただろう。
未だ事態を把握しきれず混乱が残る脳内は、必死に状況を模索している。
しばらくして、わたしは冷蔵庫のオペラの土台を手に取る。それを右手に。左手にはコーティング用に刻んだチョコレートのボウルを。
次に行うべくは、湯せんの準備―――てきぱきと身体だけが動いて、作業を進めていく。
まるで自分の体ではないようだと、思考が、どこかで他人事のように囁いていた。それでも手を止めることはなかった。
ようやく我に返ったのは、コーティング用のチョコレートを塗り終えた時。慰めるように呟いた。
「…高遠くんの口に合うといいな」
どうして、とか、帰ってきてくれるの、とか。
わたしとの時間よりみんなとの時間の方が大切なの、とか―――――不安に喘ぐ心を、ただひたすらに押し殺していた。
---------------
丞が部屋を出てから幾時間経っただろうか。白んでいた陽が高く上がり、時計の短針が1の字へと近づく頃だった。
静かな部屋に大きく響いた呼び出し音に肩が跳ねる。恋人の名前が表示されたディスプレイを確認し、手早く電話を手に取ると、電話口からは苛立ちを含んだ吐息が聞こえて来た。
その静かな苛立ちに、跳ねあがっていた肩が竦む。どうしたのかと尋ねる前に、丞が問うた。
『何をしていた?今から迎えに行くから、こっちへ来れるか』
「今はオペラ―――ええと、ケーキを作り終えて待ってたところ。私は大丈夫だけど…」
『分かった。今から行く』
間入れずに送迎の約束だけを返されて電話は切れてしまった。色々と気になる事はあるのだが、迎えに来るという以上は準備をしなくてはいけない。
行き先も、距離も、時間も、何もかもが不明瞭だが“オフの日の集まり”へと向かった丞を考えると、恐らくは何かの遊びの類なのだろう。
手頃な鞄に荷物を詰め込み、冷蔵庫へ目を向けた。中には一緒に食べようと思っていたオペラが待機している。
時計に目をやれば、短針は1を過ぎ2へと傾いていた。
恐らく今日はこのままここへ戻る事は無いだろう事を予測して、わたしは冷蔵庫のケーキを手早く包んだ。
一人で食べきるには多い量だ。何人かで食べればちょうどいいだろう―――よかったんだ。きっと。また、次の機会に。
そうして自分に言い聞かせ、楽しみにしていた恋人とのティータイムにそっと蓋をした。
それから程なくして迎えに来た恋人の後に続き、二人で乗るには大きすぎるワゴン車に乗り込む。
思った通り機嫌が悪いらしく、いつも以上に無口な恋人の横で、不釣り合いなワゴン車の乗客として―――ただ、その圧に耐え続けていた。
向かった先は河原だった。どちらかと言うと河川敷に近いその場所は、土手に青々と草が茂り、タンポポ、ハルジオン、スイバといった春の草花で埋め尽くされていた。
春の絨毯の先、十名近い人数の団体が賑やかに動き回っているのが見える。どうやら、みんなでバーベキューをしているらしい。
「…バーベキュー?」
「らしい。応援を呼ばれたから何かと思えば大した事もなくてな」
ばたん、と車の扉を閉めて丞は煙の中心――今まさに何かを調理しているらしい方へと歩みを進めていく。
わたしは慌てて車を降り、彼の後を追った。少し燻し臭い煙の奥に現れた、役者の蕾たちがこちらを振り返って、恋人の名前を呼んでいた。
一方、わたしの一歩は重くゆっくりになっていく。人が多い、賑やかな場所が苦手だったからだ。
彼らはみな彼の劇団の仲間なのだろうから、きちんと挨拶をしなければと思うものの、縫い止められたように足が進まない。
そんな私をいち早く発見してくれたのは、恋人の幼馴染の―――月岡紬だった。
「清水さん、こっちへ」
「あ………つ、月岡くん」
人の良い柔和な笑顔と目が合った。濃紺の髪に華奢な体躯、細い手首をゆらゆら揺らして着席を促すのは、月岡紬。
恋人の幼馴染、わたしの同級生だった。
誘われるまま彼へと近づき、簡単なあいさつを交わすと、ふわりと花が咲くような笑顔を返してくれた。
賑やかな空間でも彼の穏やかさに変わりはなく、その心地よさに胸を撫で下ろす。
他の団員にも挨拶を、と戸惑うわたしに、ゆっくりでいいと言ってくれる存在は貴重だった。
バーベキューも佳境な感じだから、今が一番騒がしいからと、ここにいる事を進めてくれる。
彼はわたしの学生時代の姿を知っているから、配慮もあったのだろう。今はそれがありがたかった。
話し始めた紬を合図に、わたしは彼の隣に腰を下ろした。
「丞が電話越しに話してるの…多分清水さんだと思って。…確か、今日の集まりには参加しないって言ってたはずだから」
「…自由参加だったの?」
「うん。全員じゃない。割と若い子の参加があったから俺とかが保護者役を買って出た形だよ」
それより―――、紬が少し眉を下げる。申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
劇団の寮で同室な彼らは情報を共有しているところも多いようで、前回の約束から今回の約束までの経緯を知っているらしい。
せっかくの埋め合わせなのに、ごめんね。と頭を下げる紬を慌てて否定する。
高遠くんは劇団でも引っ張りだこなんだね、と放り投げた言葉はどこか棘を含んでいるような気がして、わたしは更に肩を竦めた。
居た堪れない空気が流れる前にと、わたしは彼に手持ちの箱を差し出す。中身は恋人と食べようと思っていたオペラだ。
今日の参加人数には少し足りないが、一つを半分にすれば足りるだろう。
「すごい、オペラ?」
「うん。…その、手作りだから味の保証が出来ないし…人数分はないから半分にして配ってもらえたら」
「わあ、ありがとう。みんな喜ぶよきっと。…あ、そうだ清水さん、お昼ごはんまだなんじゃない?」
紬の言葉で、昼食を採り損ねていた事を思い出す。
朝から準備に右往左往していたため、まともな朝食も採れていなかった。思い出したように腹がきゅうと鳴る。
本当にごめんね、ともう一度謝った後で紬は奥を指差した。白い煙の奥で赤い髪の男の子が一生懸命何かを作っているのが分かる。
紬はオペラを切り分けに向かい、私を鉄板の方へ向かうように促したのだが、やはり知らない人間の所へ赴くとなると積極的にはなれない。
全くの他人であれば話は別だが、ここにいるのは全て恋人に関わる人間たちばかりだ。
何か粗相があっては…とそればかりが気がかりで、一歩が踏み出せない。そうこうしている内に、オペラを切り分けたらしい紬は、遠くに集まっている団員にそれを分けに行っていた。
反応を見る限り味は悪くないらしい。その様子に、改めて胸を撫で下ろす。
「隣、いいですか」
ぬっと、音もなくやってきたらしい影に肩が跳ね上がった。
覆い被さるような大きい影に目を丸くしたのを、相手も気付いたのだろう。腰を曲げて視線を合わせてくる。
相当大柄な男だった。よく見ると口元に傷跡があって、少し背が張り詰めたのが自分でも分かる。
「ど、どうぞ……」
「驚かせてすみません」
大柄なその男は体に似合わず身のこなしは柔らかで、にかっと笑う顔にどこか幼さが混じっている。
恋人よりも恐らく大きいだろうか、太い首に、広い肩幅―――それなのに、威圧感はなく、どこか乾いているような印象を受けた。
名前を聞こうと言葉を選んでいる内に、話しかけられる。柔らかい声色だった。
「丞さんの彼女さんですよね。俺は伏見臣って言います。丞さんとは別の、秋組に所属してます」
「…あっ、あなたが伏見さん…っ…はじめまして、清水エリカといいます」
私の返しに目を丸くする男―――伏見臣は劇団の撮影を担当していると聞いていた。
簡単に、丞から話を聞いている旨を伝えると、少しはにかみながらも丁寧に礼を言われ、昼食の乗った皿を手渡される。
どうやら昼食を取り損なっている丞とわたしの分を残しておいてくれたらしい。
バーベキューと聞いていたが、皿に乗る料理はレストランで出てきそうな出来栄えで、食欲を誘ういい香りが漂っている。
気にせず食べるよう促され、わたしは添えられたスプーンでジャンバラヤを頬張る。
見た目通りとても美味しく、臣に礼を言うと、今度は恥ずかしそうに頬を引っ掻いていた。
見つめられながらの食事は恥ずかしさがあったが、空腹と食事の美味しさに負けてぱくぱくと食べ進めていく。
口当たりは辛いが、後でやってくる肉の旨みや野菜の味わいが絶妙で、口元が綻んでいく。―――警戒心も共に。
それを見やってか、しばらくして臣が口を開いた。
「――今日は、本当は丞さんとデートだったんじゃないですか」
ぴたり。食事をする手が止まる。
紬とは付き合いの長さもあり、思っている事を当てられるのも慣れているのだが、初対面の人間に内側を探られる感覚は慣れない。
返答としては、間違いなく「正解」なのだが、それを口にしてしまっていいのだろうか。気を遣わせてしまうかもしれない―――どう答えるのが最善なのだろうか。
止まった手の代わりに、脳がフル回転する。答えが出る前に臣が続けた。
「オペラなんてすぐに作れるものじゃないですから。用意してたんだろうって」
「…い、いえ……そんなこと、は」
言い淀むわたしを見透かすように、臣は言葉を続けた。
本当は、丞とその彼女共々バーベキューに誘ってみては、という提案だったようなのだが、伝え方を誤ったようで丞だけ呼び寄せてしまったという事。
事情を知っている紬が止めたが、周りの勢いに逆らえなかった事。
結果的に二人の時間を奪ってしまう事になって申し訳ない、と謝られた。
わたしはその言葉に大きく首を振る。そして遠くで賑やかにしている丞へと目を向けた。
何を話しているかは分からないが、仲間に囲まれて楽しそうにしている。きっと彼も本当はこちらに参加したかったのだろうと思う。
二人っきりで人目を忍んで部屋に籠っているよりも、きっと。
「多分、高遠くんも本当はこっちに来たかったんじゃないかなって思うんです。私といるよりも……その、きっと」
「そんな事はないですよ」
「…よく、伏見さんとサッカーするって話を聞きます。とっても楽しいみたい。子供みたいにきらきらしてて――――」
語尾が弱くなっていくのに気付きながらも取り繕う言葉は見つけられなかった。
このままでは臣に気を遣わせてしまうと分かっていながらも、上手く振舞えそうもない。かたん、と皿にスプーンを置いて、わたしは丞から目を逸らした。
どんな雑誌も、どんなお菓子も、どんな時間も。きっと何を差し置いても彼にとっては芝居が一番で、わたしと共有できるものはすべて二の次でしかない事を思い知らされる。
臣のように、彼が好むようにアウトドアに付き添えるわけでもない。
劇団の彼らのように、共に切磋琢磨し、舞台に立てるわけでもない。
出来る事といえば、遠い位置から羽根休めにと小さな場所を提供するくらいだが、それが彼にとって気休めになっているのかも分からない。
電話が鳴れば、呼びかけがあれば―――今朝のように彼は私を置いて“小さな場所”など飛び出していくのだろうから。
今も、賑やかな場所から動く事はなく、こちらを気に掛ける様子もない。次第に歪んでいく瞳に、気付いたのだろうか。臣が息を飲むのが伝わる。
少しばかり張り詰めた空気に、後悔が首をもたげ始めたが、すぐにそれは彼の言葉で雲散された。
「―――丞さんを見てください」
「………?」
「普段はあんな風に自分から輪の中に飛び込んでいく人じゃないんですよ。でも、今日は清水さんがいるからああしているんだと思います」
臣の言葉の真意が読み取れず、わたしは彼を振り返った。目があった茶色の瞳の奥に、柔らかな光を湛えて、続ける。
手違いで丞だけをここに呼び寄せた後、団員の提案で、私も連れてくるという結論に至ったらしいが、その際に丞が皆に忠告をしたのだという。
“極度の人見知りだからあいつから声をかけるまで待ってやってくれ”―――と。それが連れてくる条件だと。
「人懐っこい連中だから、ああして輪の中にいて見張ってるんですよ、丞さんは」
「高遠くん、が…………」
そういうところ、分かるまでは俺も戸惑いました。
臣はそう続けて腰を上げ、わたしの手の中の皿を片付けると、もう一度柔らかな茶色の瞳をこちらへ向ける。
「多分そろそろ限界だと思うんで」にっと細めたそれに背を押されたように、私は立ち上がって歩を進めた。
緊張で足は震えているが、先ほどのように重くはなかった。ざりざりと、石を踏みながら進む先―――いくらかの団員と目が合った。
気恥ずかしさで胸が締め付けられたが、止める事無く歩みを進める。一際背の高い背中―――恋人の隣を目指して。
「………エリカ」
「……ありがとう高遠くん」
若干疲れた様子の丞の腕に触れ、小さく礼を述べるとほんの少し彼が笑ったような気がした。
そわそわと言葉を待つ団員たちの方を向き、笑顔を浮かべ、声を震わせたのだが、初めての挨拶が「……っじめっめっしてっ」――――と、噛みに噛みを重ねた散々なものになってしまうとは、予想も出来なかった。
----------
簡単な片付けを済ませ、足早にわたしと彼は会場を後にした。
行きは凍るような空気が満ちていたワゴン車も、打って変わって蜂蜜色の夕陽で満たされている。まるで臣の瞳の色のようだ―――そう思った。
恋人が色々と配慮してくれていた事が嬉しかったのだが、礼を言いあぐねていた。
簡単な言葉では伝えたのだが、せっかくならばしっかり伝えたかったのだ。
次の信号が赤になったら伝えよう―――そう思うものの、願掛けも空しく、車は着々と自宅へと進んでいく。
そうこうしている内に、見慣れた道へと差し掛かった。
ここから自宅まではほんの五分ほどだろう―――家に着いたとて、恋人の事だ、到着したらそのまま解散になる事は目に見えている。
焦る心とは裏腹に、遠慮を知らない車はタイムリミットを刻一刻と縮めていっていた。開いては閉じるだけの唇が恨めしく思えども、言葉は終ぞ出ず、無情にも“今日”は幕を下ろそうとしている。
シートベルトを外して、わたしは車から降りた。車高の高いワゴン車の運転席は遠く、見上げる形で恋人を見つめる。まだ、お礼を言えていないのに。
何か言いたげなわたしを察したのか、恋人が不思議そうに眉を顰めた。しかし、何かを思いついたのか、いつも通りの真っ直ぐな視線を向けられた。そして真っ直ぐに放たれた。
「あのケーキ美味かった。今度はもっと落ち着いた場所で食いたい」
「…っ、あのっ…わっ、私も…っ……その、みんなに説明してくれて、ありがとう…っ」
「――――またな」
恋人の言葉に触発され、しどろもどろな礼を伝えると、いつも通りの素気ない返事とドアが閉まる音で幕は完全に下りたようだった。
夕陽の中へと足早に走り去る車の背を見送って、わたしはというと、どきどきと騒がしい胸を抑えて立ち尽くしていた。
蜂蜜色に溶けて分かりにくかったが、間違いなく見えた恋人の、丞の、赤くなった頬と耳―――。
いつもならば戸惑っただろう素気ないやりとりさえ、わたしの胸を焦がしていく。まるで春の息吹のように、優しく、甘やかに。
“今度”は美味しい珈琲も添えて、自分から話しかけられたらと思う―――小さな場所から抜け出して、真っ直ぐに、彼を見つめて。
藍色の混じり始めた空に背を向け、自宅の階段を上がって行く。
遠く見える春の山は蜂蜜色に塗り替えられている。その大きな塊に“伏見さん”を思い出して思わず微笑んだ。
彼にもきちんと礼が言いたい。
今後への希望が増えていく喜びを噛み締めながら、ドアノブに手をかける。
その部屋の奥では、蜂蜜色に輝く西日のスポットライト―――『ランウェイ』が、わたしの帰りを待っていたのだった。