丞とその彼女
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「(ああ、ようやく隠れる)」
人気のない特別校舎のトイレの鏡に映る、太身の女がほくそ笑む。
指で挟んでぐいぐいと引く前髪は、とうとう睫毛と交差する長さまで伸び、輪郭横でだらりと伸びる髪と相まり、少女の陰湿な雰囲気を一層濃くしていた。
昨夜の揚げ物の影響か、てらてら光る鼻や頬の皮脂はお世辞にも清潔感があるとは言い難く、頬に微かに張り付き始めた髪から、季節は夏への移ろいを含意していた。
厚手の冬制服の襟もとに熱が籠り、後ろでまとめた髪と首の間に汗をかく。
引っ掻けば跡になる―――今更そんな見目に拘る必要もなかったが、躊躇を訴えた指先は行き場を無くし、意味もなく後頭部を撫でる。
この冴えない少女の名を“清水エリカ”という。
受験を控えた中学三年の夏の頃の“わたし”だった。
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都心から電車で数十分。
箱詰めの世界から解き放たれた郊外は、木々も青々と五月の色鮮やかに輝いている。
若草の新芽が頭を揃える並木道、その足元には規則正しく石畳が張られており、かつかつと小気味よくパンプスが歌う。
この道から奥にある最寄駅は天鵞絨駅と言い、昼夜問わず利用者の多い賑わうスポットの一つである。
駅から伸びるその筋――――両脇の街頭に吊るされた宣伝広告には、今月の“公演”のタイトルが飾られていた。
ここ、天鵞絨町には複数の劇団が存在し、日々人々の娯楽となっている。
そんな環境もあり、この筋は“天鵞絨道(ビロードウェイ)”と呼ばれ、稽古中の舞台俳優の即興劇などが見どころなのだ。
―――そんな華やかな筋を避け、今日もわたしはパンプスの歌声を聞いていた。
奥山から吹き込む風は春の激しさをようやく納めてくれ、足元を掬っては遠くへ運んでいく心地よさでわたしを包んでくれる。
遠くまで、人々の喧騒を掻い潜って、あの人のところまで。
娘子のような祈りで奏でるステップは軽やかに、初々しい夏の気配を纏う。そして熱を知った淑女の顔で流れていくのだ。
かつん、かつん、かつん。自然と口の端が上がるのに頬を染めた。
友人には決して話せないような少女趣味ではあるのだが、それはわたしにとっては何よりも純粋で幸福なひとときなのである。
誰にも侵されないよう、この胸の内にだけ広げた甘い甘いそれを、ただひとりにだけ知ってもらえたらと思う。
「……何してる」
「高遠くん」
胸の内から溢れ出る愛しさが唇に弧を描く。
漏れ出た一等あまい声が、男の眉間の皺を緩めたのを見て、わたしは彼に駆け寄っていた。
「会えた」
意味が分からない男は再び眉間の皺を深くしていたが、それには構わずわたしは背の高い彼の顔を見上げていた。
整った顔、厚い胸、眉の上で切りそろえられた前髪は鋭く、けれども適度に手入れの行き届いた利口な様子で整列している。
ふふふと上機嫌で笑うこちらを見て、呆れたようにつくため息も様になっており、男の素気ない性格をよく表していた。
説明を求めてもまともに回答をしないわたしを分かっている彼は、深く追究したりはしない。
にも関わらず、あしらうわけでなく、辛抱強くこちらの反応を待つ体制でいてくれるところがとても好ましかった。
ハキハキと思ったことは口にする男が、一呼吸おいてこちらを量る――その彼の時間にどうしようもなく愛を感じていたのだ。
だからわたしはただただ微笑む。あなたに会えて嬉しい。あなたが大好き。
言葉で飾る事で済ませたくはない胸の高鳴りを、けれども少しでも彼に伝える為に。
天鵞絨町に拠点を構える劇団
“MANKAIカンパニー”
冬組所属の男―――『高遠 丞』。
『現在』のわたしの彼氏である。