慎太郎とその妻(未完:無期限更新停止)
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06.渦女
リンは天真爛漫な女子であった。
時代に家に変えられたとは申すまい、ただただ、彼女を取り巻くあらゆる情勢が、その気質と相まって、いつしか暗い影を落とすようになってしまっただけの事であった。
精神的な成長速度は男よりも女の方が早いとは言えども、彼女はそれが群を抜けていたのかもしれなかった。
小さな歪みが、徐々に徐々に開きて―――彼女はいつしか否定的で内向的な性分へと変わってしまった。
「今日は坂本さまに頼みがあって参りました」
ここの所、慎太郎は庄屋仕事以外に志士としての足掛かりを意識しているのか、特に多忙な毎日で、ふたりで過ごす時間も少なくなっていた。
その隙を見計らって、というと聞こえが悪いが、とにかく、慎太郎には内密に計画をしている事柄を成功させるべく、夫が友人の龍馬を訪ねていたのである。
あっちへこっちへ飛び回っているのだと、幾度も夫から愚痴を聞いてはいたので、突然の訪問でもこうして会えたことが軌跡だったかもしれない。
幸先がいいと、リンは笑った。それはもう、にこにこと。
「本当に急だなリン!びっくりしたが…頼みってのはなんだい?」
「はい、坂本さまの伝の力をお借りしたくて」
「ほお」
何か面白い事でも企んでいると踏んだか、龍馬はにやにやと口元を緩ませ耳を傾ける。緩やかに曲線を描く茶色の髪が笑うように揺れた。
「海岸沿いの茶屋で草鞋を売るのですが、その評判を流してほしいんです」
「……ん?売るってのはお前さんがか?」
「はい。私の作った草履になります」
初めは頭に疑問符を浮かべていた龍馬であったが、幾分か悩む仕草を見せた後、どうやら思惑を理解したようで、眉を下げては言い淀む。
気持ちは分かるが、とか、実際はどうか分からんからなあ、とか。ぶつぶつ漏れる呟きが、はっきりと言葉にならないのは彼なりの優しさなのである。
ここはもう一歩踏み込む必要があった。
「草鞋の頑丈さなら、私の実家の方で実証できます。とっときの編み方と縒り方があって…消耗品だなんて言わせない品なのですよ」
少々過剰なれども、けれども仮に名を出しても恥ずかしくない品だと言えるくらいの自信はある。
あとはそれを手に取る人を増やさねばならないため、何とか良評判という形で流布したいのだ。そこで龍馬の顔の広さを借りられたらと思ったのである。
「で、慎太郎の活動資金にあてると」
「まあ無粋―――庄屋の家が窮しているだなどと坂本さまはお思いで?そんな話が漏れ出ては信用に関わります」
どこか嫌味を交えた言葉に、龍馬はひっかかりを感じた。頼まれる側はこちらで、仮にリンの手助けをしたとて何か利になるわけでもないのにこの言いぐさである。
“坂本さま”この呼び方がなによりだ。いつもは“龍馬さん”と呼んでくれるのに。
とはいえ女を怒らせると色々と面倒な事は分かっているので、龍馬も事を荒立てるつもりはないのだが、ないのだが。どうにもこうにもちょっと面白くない。
むむむ、と口を一文字にしている龍馬に浴びせられたのは無機質な笑顔の嵐であった。心なしか彼女の肩が震えている気がする。無論、憤りにだ。
どうしたものかとおろおろしていたところ、時間切れとなったらしい爆弾は堰を切って溢れ、次々に飛び交うは激情の弾丸だった。それも一等熱く、燃え上がるように激しいもので。
「もう我慢なりませんっ」
「お、お、落ち着け!落ち着けってリン!!」
「龍馬さんはずるいです!」
元よりやや表情の乏しい彼女が目尻を真っ赤に染め上げて、肩を震わす姿など恐らく慎太郎さえも見たことが無いだろうと龍馬は思った。
思わず上擦った声が出たものの、自分の見知っている人間達の怒りの表現に比べたら彼女の八つ当たりなどそれはもう可愛らしいも同然のそれで、例えるならば猫のじゃれた仕草と同じようなものだ。
口を尖らせ、わあわあ騒ぐ(と言っても控えめな大きさではあったが)姿はまるで少女の駄々とも似ていて。普段は涼やかですらりとした雰囲気をした彼女と同一人物だとは思いにくい。
なるほど慎太郎はこの落差にやられたんだなあ、なんて、リンの小言を聞き流しながら龍馬は密かに口元を緩ませていたのだが、そこは目ざとい女の視線、すぐさま見抜いて怒りは活きを強めるばかり。
龍馬にも慎太郎にも姉がいた。
その辺りの男よりは女心を知っているとはいうものの、先程から宥めてみるも、どうにも不発に終わっている。
それというのも龍馬の姉は並の男では歯が立たぬような、豪胆な性質で、背丈も龍馬と引けを取らぬような大女である。なかなか、特にリンのように思考が網目のように複雑な女心など、指を通す事さえ出来なかったのである。
とうとう説得を諦めた龍馬は、言われるがままの樹木と化していた。それでも然程痛みを感じないのは結局、リンという女が、そうだからなのだと龍馬は思った。
「…私だってもっと慎太郎さんと一緒にいたいんです」
行きつくところは結局それであった。幾度も弾丸を受け続けたのだが、はじめから結論はもう出ていて、リンの思う所とすればやっぱりその一点に於いてなのであった。
どうにもこうにもこの人は、言葉にする前から結論を自分の中で出してしまう性質らしい。故に思っていても表に出す事はしないし、口にすることもない。
そのまま長く長く溜め込んで―――そして爆発。
「少しでも時間を作ろうと私だって右往左往、色々手を回しているのに」
「慎太郎さんとはすれ違うばかり」
「ようよう互いに時間が取れた!と思えば!」
「…俺がいつも訪ねてくると」
「そうです!龍馬さんはずるいです!」
ずるいと言われても。と龍馬は心底思ったが、おそらくリンはそこも見通した上で言っているのだろうと思えば、それ以上言葉が出てくることはなかった。
まこと理不尽なのは違いないのだが、彼女も行き場がないのだろう。自身の口から飛び出たように、頑張って時間を作るべく奔走しているのだとすれば、やっとの思いで掴んだ夫婦の時間をさらりとさらっていく己が恨めしいのも仕方がない。
その証拠に、先ほどまで烈火のごとく燃え上がっていた彼女の激情は既に鎮火の一途を辿っていた。旬を過ぎた向日葵のようにくたりと折れ曲がった首の、髪で隠された実から、種の雫が落ちるだろうか。
「…分かっているんです」
「ああ」
念を押すように、震える声が畳を滑った。それは龍馬とて分かっていた。物わかりのいい彼女だからこそなのだろうと。
かける言葉はいくらでもあった。慎太郎からは散々話を聞き出していたし、二人が陥りやすい思考の罠さえも言い当てられると龍馬は思っている。
友人として応援したいと願いながらも、口を出してはいけない場所に差し掛かっている事も同時に理解していた。だからこそ苦しいのだ、彼女も、自分も。
時折、幸せとは何なのか、分からなくなる事がある。
理想を抱き、この国の先を先を、その先を見据えて走り回る事そのものさえも、龍馬にとっては幸福な時間だった。
知らぬ物を知り得た時の知識欲が織り成す幸福感は他の何にも代えがたい麻薬のようなものでありながら、けれども決して自分を裏切らない益薬だと思っている。
恐らくは、慎太郎もその類の人間であっただろう。文も武も、幼き頃より親しんだと聞いた。幾時間もかけて師範の家に通いながら、けれども決して腐る事もなく、むしろそれを楽しんでいたのだと。
土台が違えば咲く花も変わる。撒く種を変えれば当然それも変わる。全く同じ土台畑など存在しない中で、他者を羨み成長を止めたとしてもそれは誰にも咎められる事などないはずなのに。
「(腕は二本しかないからなあ)」
この手に抱けるものなんてたかが知れている。よく迷って、咲かす花を選ばねばならないのは、畑主だけなのだ。
「今生の別れってわけじゃないんだぜ」
「それも、分かってはいるのです。けれど、あちらで…もっと魅力的な何かに出会ったらどうでしょう。たくさんの資金をかけて向かうのです、それに対する責任を、あの人が感じないはずがないのです。もっとよりよく、もっともっとと先へ進むあの人は、背負う覚悟が大きい分、得られる可能性も大きいのでしょう。…その中に、極上の瑠璃があったらどうしますか。それを思うと、私はいてもたってもいられないのです」
瑠璃が物であるか思想であるか、はたまた人であるか。彼女は最後まで示さなかったが、そのどれもだという事は言わずもがなであった。
震える唇、ちらつく睫毛の下に薄らと光る涙に込められた思いの深さを分からぬまでもないのだが、それでも龍馬はただただ思う。本人達にとっては重大で深刻なそれも、端から見やれば存外単純かもしれぬということを。渦中にあればあるほど見失うのは足元か、それとも。
「(お前さん以上にあいつにとって大切なものなんか無いに決まってる)」
あの真面目一徹な慎太郎が自らリンの事を語るほどなのだ。どれほど興味深い書物を見つけても、素晴らしい教えを得ても、必要がなければ自分から話す事はない男だと龍馬は知っている。
だからこそ、いや、だからこそか。妻の事を話すという意味の重さを知る事が出来るのは。こればかりは付き合いが長い故の賜物であり、それをリンに告げるのはあまりに酷だと思った。
どうすれば伝わるのだろうか、龍馬は首を捻るがやはり、言葉は浮かばなかった。
沈黙が続く中、それを破ったのはリンだった。
饒舌な龍馬の沈黙の意味、そして己の言葉の幼さを悔いてか頭を上げたその目に、既に涙はなく、代わりに張り付いていたのは奇妙な笑みである。見る者を安堵に包む、優しいそれは、前後を知らばあまりに歪な厚い壁のようで、突き放されたと知る。
ごめんなさい、見苦しかったですね、大丈夫です、分かっているのです。ぽんぽんと間を空けず飛び出す言葉の強がりを慰める事は許されない。
「笑顔で見送りたいのです。…あの人はこんな私の笑顔を…とても好いてくれるので」
「そりゃあいい考えだぜリン。不安なのは多分慎太郎だって一緒だ。あんたがそうやって送り出してやれば、あいつの糧にもなるさ」
「――――はい、」
泣いているのか笑っているのか、リンの表情は掴みにくい。けれど先程よりも人間らしいその困惑交じりの笑顔に龍馬は安堵する。
胸の前で一度大きく手を叩き、鳴らした。理由は後ろ向きなれど、せっかく思考が前を向いたのだ、いつまでも闇に引きとめられてはいけなかった。
鳴らした音の乾いた音は小気味よく、空回りながらもリンの耳に、脳へと届いた。意図を汲むようにそっと手繰り寄せた衣裾に力を込める。今は心を閉ざしても構わない。必要なのは現実だけだ、そう言い聞かせて。
「どうか、お力添え頂けますか」
「ああ、構わないぜ。お安い御用だ―――それに、これ以上あんたに恨まれても俺の身が持たんからな」
「…まあ」
くすくす。勢いは弱まったが、先ほど垣間見せた少女の面持ちでリンが笑う。
「あんたは海のような女だな、気まぐれでころころと表情が変わる。俺にはさっぱり掴めん」
「龍馬さんは波を立てるばかり。鳥のようなあの人は波立つ私を避けるように高く高く―――遠くへ行ってしまうのですよ」
しまった、墓穴を掘ったか。
すっかり調子を取り戻したらしいリンの言葉に、龍馬は苦々と顔をしかめるが、既に手遅れだった。
口での勝負は女に男は決して敵わない。早々に白旗を上げるべく息を吸い込んだのだが、やはりリンの荒波の飛沫が早かったか、風の勢いを飲み込むようにその手を広げた。
「どうかかわいい女でいさせてくださいませ」
憎まれ口を叩きながら、それでも下がった眉が全てを物語っていると気付かなければ楽であったか。
最後の最後までそれには気付かぬふりをして、龍馬は嘆きの渦を受ける事を選んだ。
そうでなければ、深く暗い深海の底で溺れてしまいそうだと思ったからだった。